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邪馬台国畿内説 Part997
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/28(水) 12:16:29.87
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708841942/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:17:30.29
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:18:00.51
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/28(水) 12:18:29.93
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:19:00.48
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:19:30.28
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:20:01.00
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:20:30.49
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:21:00.83
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:21:31.30
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:22:01.01
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:22:31.18
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:23:00.91
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:24:00.79
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:24:30.58
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:25:00.83
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:25:30.37
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:26:00.74
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:26:31.38
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:27:00.69
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:28:00.75
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:28:30.63
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:29:00.95
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:29:31.99
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:30:01.19
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:30:31.09
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:31:01.33
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:31:30.70
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:32:00.54
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:32:31.54
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:33:01.73
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:33:30.65
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:34:01.05
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:34:31.78
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:35:01.63
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:35:32.11
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:36:01.87
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:36:31.13
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/02/28(水) 12:37:01.69
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0040◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:37:31.26
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:38:01.30
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2024/02/28(水) 12:39:32.70
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:40:02.82
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:40:32.55
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:41:01.68
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/02/28(水) 12:41:31.63
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2024/02/28(水) 12:42:01.74
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2024/02/28(水) 12:42:31.95
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2024/02/28(水) 12:43:01.47
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2024/02/28(水) 12:43:31.09
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
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2024/02/28(水) 12:44:01.74
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2024/02/28(水) 12:44:31.52
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2024/02/28(水) 12:45:01.61
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2024/02/28(水) 12:45:31.51
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2024/02/28(水) 12:46:00.90
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2024/02/28(水) 12:46:31.07
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2024/02/28(水) 12:47:01.14
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2024/02/28(水) 12:47:30.96
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2024/02/28(水) 12:48:01.43
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2024/02/28(水) 12:48:31.28
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2024/02/28(水) 12:49:01.17
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2024/02/28(水) 12:49:31.40
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2024/02/28(水) 12:50:01.07
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2024/02/28(水) 12:50:31.21
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2024/02/28(水) 12:51:01.27
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2024/02/28(水) 12:51:31.37
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2024/02/28(水) 12:52:01.77
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2024/02/28(水) 12:52:31.12
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2024/02/28(水) 12:53:01.16
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:54:02.60
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:54:32.17
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:55:02.42
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:55:32.16
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2024/02/28(水) 12:56:02.29
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/02/28(水) 12:56:32.06
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 13:10:15.92
で、纏向の遺物で魏志倭人伝の記述と一致するものなんてあるの?
0078日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 13:24:40.94
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に帯方郡から12000里(狗邪韓国7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11300里)から半径700里(50q)の範囲で、伊都→博多の北は玄海灘、東百里は不弥国なので、南の筑紫平野にいくしかないこと。
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(の海上)にあり」とするための方便(蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(架空の女王国)
0080日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 14:48:28.65
アワ国とキビ国があるなら、ヒエ国とコメ国も無ければおかしい。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 14:51:35.67
万二千里は直線距離で、パプアニューギニかジャワ島にあたる。
つまり、インチキな数字ってこと。
本当は二千数百里と言ったところだろう。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 15:02:17.00
邪馬台国もインチキだろ
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 15:04:33.65
12000里=900q
帯方郡から吉野ヶ里まで900kmでピッタリ!
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 16:11:00.88
本当は二千数百里で、洛陽から帯方郡までの五千里(これもインチキ)を足しても八千里程度。これでは大月氏国までの一万六千里よりも近くなってしまう。そこで万二千里なる数字が出てきた。一里は435メートルなんだからそれじゃあジャワ島まで行っちゃうよ。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 16:22:15.89
つまり畿内説はインチキ
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 16:41:59.37
洛陽市→ソウル市が1900km(主要幹線道路経由)くらい
420m=1里とすると、約4500里
少しおおげさに言ったとして五千里でいいんじゃね
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 16:57:54.06
82
邪馬台国は中国人らが字(あざな)読みで文献書いたのやろ
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:00:32.49
里数の間違いじゃなくて東夷伝の里が432メートルでは無いという事だよ
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:00:54.48
実際にその名称の名前の国があったかどおかではなくて中国人らに取ってどんなものか?ってんで名称(状況)を書いてるんだわ

邪馬台から耶麻当に進化したかどおか知らないけどよ

てより繋がりでもあるやたらでないと正確な位置は特定できないだろ

中国でも文献書いたやつらみんなバラバラだぜ
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:02:25.45
日本=倭地(漢族が移民してきたとこ)を後世のやつらが邪馬台国と勘違いしている可能性もある
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:28:14.75
畿内説は倭人伝の記載で畿内に都合の悪い事は間違いにする。

寺澤薫の読み換えがそれにあたる
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:28:47.43
伊都国は第二の帯方郡の役目だった。、
邪馬台国、邪馬国、投馬国、斯馬国は、渡来の馬韓族が建てた入植地の国だった。
それらの国が東遷して、奈良盆地に邪馬台国を移した。ヤマタイ→ヤマト。
奈良はヤマタイ人の理想郷になった。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:30:32.54
>>81
>万二千里は直線距離で、パプアニューギニかジャワ島にあたる。

会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:32:47.53
>>83
>帯方郡から吉野ヶ里まで900kmでピッタリ!

会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:34:18.22
阿波説は内乱中w
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:44:10.30
>>95
藤井氏も笹田氏も、どっちも実質的には岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」のパクリ。   @阿波
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:46:05.70
>>96
日蓮系のカルトの争いに似てきたなw
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:47:27.19
なんで  
阿波は小文字?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:50:00.98
畿内説は算数が出来ない、馬鹿だから
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:50:46.31
九州説は説得力がない
なぜなら何百年たっても九州説の統一見解が出せないから
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:51:42.16
>>100
お前のテンプレだって妄想まみれで矛盾だらけなのによく言うわw
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:53:59.62
畿内説は東遷説に舵を切って生き残ろうとしている
0103日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 17:56:49.77
>>101
九州説は証拠を出さない
ウソばかり言ってるから
0105日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:01:59.15
>>98
アラシのテンプレと阿波はアボンだがw
小文字?はaaフォントに変換された時の表記。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:02:53.56
卑弥呼は伊都国の南に居た。これが正解
0107日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:03:09.53
寺澤は森浩一の、柳田は原田大六の弟子なので、もともと:東遷論者
卑弥呼時代より前に東遷しているから邪馬台国は畿内だという邪馬台国畿内説だ
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:05:11.56
>>106
それ、宗教
0109日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:05:53.01
寺澤は卑弥呼は伊都国生まれ説
0110日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:07:21.36
>>101
誰でも1に見えるのは病気だよ
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:07:58.61
邪馬台国と言う国は無い。

240年梯儁は自分が女王宮で和音で参問、
漢字にした21国の邪馬国で卑弥呼の臺を見た。

これは、和音国名では無く表意文字の国名。
帳政と陳寿は女王国と表記している。
梯儁が女王国の仮称を邪馬臺国としたが、
誰にも採用されなかった。

陳寿は、初探検者の意見を尊重して
報告書の漢字で引用した。

廣志では邪馬嘉国
曹操の高楼を意味する臺でなければ
魏晋では、壹でも嘉でも良かったのである。
臺が魏では、絶対的な表意文字なのである。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:08:42.23
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國

女王国の北が伊都国です
0113日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:08:47.20
度量衡は国家の定めるもの
勝手に地方の郡が短里なるものを使っていたら、国家への反逆となるよ
よって短里などというものはあり得ない
魏晋の一里は434m
これしかない
0114日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:09:18.24
>>109
証拠なし
九州説って捏造病だね
0115日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:10:23.64
>>103
推古紀裴世清はまだ陸行と信じてるのが証拠だ
0117日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:12:33.09
>>103
じゃあ テンプレとアンタの違いがあんのか????
0118日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:12:48.14
>>111
>邪馬台国と言う国は無い。

九州説は文献無視だね
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:14:00.94
>>113

432Mじゃあなかった????
0120日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:14:37.73
>>117
畿内説は九州説と違って一人一説の泡沫説じゃないもんでね
0121日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:15:13.08
>>110
初心者なんですが、
キナイコシと奥山は同一人物で>1なんですか?
テンプレはコテハンで、アボンできるのですが?
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:16:19.73
>>119
1月里は400m以上で間違いない
0123日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:16:53.04
>>114
寺澤は卑弥呼東遷説なのを知らないアホがいます
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:17:11.06
>>114
あんたが適任だ
纏向で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記せよ

こないだの奴は弱っちすぎてダメだったWw
0125テンプレが泣いている
垢版 |
2024/02/28(水) 18:18:44.90
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:19:08.09
ジャワ島→ジャワト→シャワト→ャワト→ヤマト
もう分かったよな
0127日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:20:05.18
>>121
全1病といわれる追跡妄想を病んだ人がめちゃくちゃ言ってるだけ
畿内説は一人しかいない、九州説が多数派だ.--という妄想に取り憑かれてる可哀想な人だよ
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:21:37.71
>>124
反論出来ずにチェンジ要求する負け組九州説
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:22:08.62
>>120
畿内説は上意下達か???
宗教界な
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:22:23.52
桃の匂いはラクトンなんだ
ラクトンは女子高生の匂いなんだ
桃を常食していた卑弥呼は女子高生の匂いのするおばあちゃんだったんだ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:23:06.58
ヤマト王権と関わりが深い遺跡は纏向ではなく、これだ

■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」

https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:23:56.32
>>123
九州説はウソつきだという証拠
また出ました
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:25:11.81
1里432メートルだと、郡から南に4000里行っただけで1728キロです。畿内説は破綻していることがわかります
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:26:40.94
>>113
郡使、帳政の作った報告書を陳寿が採用して、
後世で版本にもなっているんだが?

倭人伝の景初〜正始年間で
公文書が短里で書かれる可能性が有る。

三国志のスケールでは、陳寿には短里は有り得ないので、
景初〜正始年間の何かの原因、意外で陳寿は短理を採用しないと思うぞ。

韓方可4千里は修正不能な
中国史の永遠の間違いなんだが?

倭人伝では中華は韓の属国ニダ、とかなwww
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:26:56.39
>>133
おまえは寺澤の「卑弥呼とヤマト王権」を読んで無いだろ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:41:47.23
>>113
>魏晋の一里は434m

「魏志倭人伝」は西晋時代。 西晋が短里を採用していたってこと。   @阿波
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:43:42.94
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)ことの合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:50:24.00
>>121
>キナイコシと奥山は同一人物で>1なんですか?


>>1=奥山=キナイコシで良いですよ

まず キナイコシですが 
畿内説=kinaisetu を sをぬかして
kinaietu=畿内越 となったからキナイコシと呼ぶようになった

奥山は以前>>1のトリが>>1=1#okuyamaとばれたから奥山
いまはトリを変えてる
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:51:32.60
公孫氏が自分を大きく見せようとして何倍にも盛ったのかもしれん
その結果、東夷全体で見れば中華に匹敵するデカさになった
0141>>1=キナイコシ=奥山
垢版 |
2024/02/28(水) 18:52:49.03
まず キナイコシですが 
畿内説=kinaisetu を sをぬかして
kinaietu=畿内越 となったから「キナイコシ」と呼ぶようになった

奥山は以前>>1のトリが>>1=1#okuyamaとばれたから「奥山、いまはトリを変えてる
0142日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:57:02.95
公孫氏時代の倭との外交文書なんて無いだろ?
倭には国体が無いし、地域有力者と交流しただけ。
壱岐、対馬は、日本海ルート、も
九州なら、熊本天草五島、宮崎、薩摩ルート、も一緒。
脱税だからなwww てか、放置なんだよ。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 18:59:38.19
後漢の時代には30国からなる倭国を統べる大倭王が朝貢していた記録がある
卑弥呼の時代には東夷からの朝貢は公孫氏によって途絶させられていたが
だからと言って東夷各国が朝貢しなかったとは思えない
朝貢先が中華王朝から公孫氏にすり替わっていただけ
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:09:38.25
>>141 139
ご教示、ありがとうございます。

スレ主はキナイコシとか奥山で、
認定されて、反論されていて

スレ内では名無しで、根拠なし、とか、
アラシ系レスで反論してる?

で、良いですか?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:14:08.89
上古音により近い発音から推測して、「投馬」国のことを「ツマ」国と解釈して、投馬国=出雲国説を提唱したい。
イツモの「イ」は母音の発語、音が軽いから自然に省かれる。
「マ」と「モ」は同類音で相通ずるから、出雲と投馬両国名は全く一敦する可能性が高い。
この場合、魏志倭人伝に出てくる投馬国、邪馬台国までの水行を日本海沿岸航路と解釈していくことになる。

「投馬」国のことを「ツマ」国として、投馬国=出雲国とするのには、他にいろいろ要因がある。
宋版「大平御覧」の「倭人伝」では、投馬が於投馬(エツモ)と書かれている。
今日、出雲の人は出雲を「エヅモ」となまって言うから、 この時代もそうで、中国人はそれを聞き取ったのかもしれない。
また、投馬国の官名が異彩をはなっているのも注目だ。
彌彌(ミミ)と彌彌那利(ミミナリ)である。
実は、この「ミミ」がつく名称は、記紀では、出雲系や神代系に多く登場する名前である。
これらの理由から、投馬国=出雲国だと思われる。
出雲神話は、日本神話の中での比重が高かったりし、古代から日本海航路の重要な港として栄えた地である。
人口が5万余戸や、中世以降の諸侯の勢力範囲から想像して、魏志倭人伝の時代の出雲の勢力は、出雲、石見、伯耆、因幡などの山陰地方の大半を勢力圏としていたのかもしれない。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:18:20.46
邪馬台国=大和で、
周辺国もおおよそ比定できる

このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。
そこで、それらを列挙すると、斯馬国(志摩)・巳百支国(伊吹)・伊邪国(伊賀)・都支国(土岐)・弥奴国(美濃)・好古都国・不呼国・姐奴国(信濃)・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国(甲斐)・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国(高志・越)・巴利国・支惟国・烏奴国(魚沼)・奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる
(魏志倭人伝)
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:19:02.23
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:19:32.39
>>143
倭王は、漢と三国分裂の魏の違いが判らないのか?

246年は遼東は呉が入って魏は火の車だぞ?
倭の五王は南朝に高句麗との交戦権を求めた。

倭人伝論争は、どうも歴史とは無縁の話
なんだと思うが? 判るか?
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:19:39.12
「宋書倭国伝」には雄略天皇の言葉として「東は毛人を制すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とあります。
 雄略天皇は大和国の泊瀬の朝倉宮(奈良県)に居を構えていたので、奈良から見て東が毛人、西を衆夷との認識があったようです。
 これを解釈すると、東日本は毛人国→毛野国であり、元は狗奴国だったのではないかと考えます。
 毛野(Ke-No)と狗奴(Ku-Na)はよく似てます。
 3世紀前半の段階で、狗奴国(毛野国)は東日本の東海道、東山道に広がっていたのではないかと考えられます。その後、東日本まで大和政権の支配が確定したあとの律令国制度では、狗奴国の名は関東に追いやられてしまった、そして毛野国は狗奴国の名残りなんだと思います。
 他に、東海道にあった狗奴国の名残りとしては、遠江国(静岡県)にあった、久努国造もそうなのではないでしょうか。
 久努は「クヌ」とも読めます。東海道、東山道一帯が狗奴国だったその名残りは、久努国造と上毛野国造、下毛野国造の3ヶ所だけに残されたようです。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:25:37.85
久野・久能(クノ=狗奴)という地名の残る場所

久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名。

狗奴国は愛知・静岡・神奈川・千葉・茨城・栃木・群馬あたりに広がっていたと思われる
(ヤマトタケルの東征ルートと一致)
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:30:15.99
>>144
なんにも証拠のない主観を事実のように言いふらすのが九州説
という、いい例が出たよ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:31:03.97
韓を制圧できない公孫氏に
倭国が朝貢する理由は無い。
それは、対価に対する交易である。

魏は卑弥呼の朝貢と言った。
238年に公孫氏を追った戦中で直後である。

この同盟は難升米が濡れ手に粟なのは当たり前だろ?
所詮、戦国時代なのに倭王だの魏王だの
薩摩王は、パリ万博に琉球と出典したぞ?

薩摩が独立国で良いんだな?
阿波はいいらしいw アボンだけどw
0153日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:42:13.29
>>150
かつては木曽三川以東がクノノクニだったんだろうな

だがヤマトノクニに侵略されて天竜川以西の領土を失った

卑弥呼の時代のクノノクニの領土は天竜川以東から

都は沼津の足高尾上遺跡群
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 19:54:51.33
>>144
そのとおりです
キナイコシ=>>1は
質問に答えず 1,2行で
証拠は? とか 根拠は? 理由は? とか永遠に続ける人
友達もいなく24時間張り付いてるから 相手が根負けするまで続ける
ひどいのは「無い証拠を出せ」
無いもん無いのに馬鹿みたいに言ってくる。
あるならキナイコシがあるものを示せばよいだけなのに
相手にならず 放置すればよい 
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:02:13.62
>>149
狗奴国は南だし
東は海を渡ると倭種の国だ
0156日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:03:06.30
悪魔の証明を理解する脳みそのない人がそれか
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:25:25.98
不  弥(宇 美)---福岡県宇美町
---------------------(2ヶ月かけて以下の各国訪問)---------------------
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
斯  馬(志 摩)---福岡県糸島市
己 百 支(柴 刈)---福岡県久留米市
伊  邪(伊万里)---佐賀県伊万里市
都  支(筑 紫)---福岡県筑紫野市
彌  奴(耳 納)---福岡県久留米市
好 古 都(多 久)---佐賀県多久市
不  呼(浮 羽)---福岡県うきは市
姐  奴(竹 野)---福岡県久留米市
對  蘇(鳥 栖)---佐賀県鳥栖市
蘇  奴(佐 嘉)---佐賀県佐賀市
呼  邑(糟 屋)---福岡県粕屋町
華奴蘇奴(神 埼)---佐賀県神埼市---吉野ヶ里遺跡
  鬼  (杵 島)---佐賀県白石町
爲  吾(生 葉)---福岡県うきは市
鬼  奴(嬉 野)---佐賀県嬉野市
邪  馬(八 女)---福岡県八女市
躬  臣(御 笠)---福岡県太宰府市
巴  利(把 伎)---福岡県朝倉市
支  惟(基 肄)---佐賀県基山町
烏  奴(大 野)---福岡県大野城市
  奴  ( 儺 )---福岡県福岡市
--------------------------( ↑ 女王以北 ↑ )--------------------------
邪 馬 壹(山 門)---福岡県みやま市---女王山・女山(ぞやま)
狗  奴( 熊 )---熊本県(狗古智卑狗=菊池彦)
-------------------------------------------------------------------------------------
侏  儒(少 童)---高知県

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/8c29dbb5e575185903719edf03106712_b8ff3339e00f2f03e056b2b9f97e7fe3.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/fe8051fd224fc216db4f8d0a567990b6_9058df78777e53ffba25e965b2f72ce4.png
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:25:48.99
狗奴国は、天津に相対する国津の国全般を指す

どことかない
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:31:20.79
金沢大などの研究チームによれば、現代日本人の核ゲノムのうち、
71%が東アジア系(古墳時代に流入)、
16%が北東アジア系(弥生時代に流入)、
13%が縄文系、
の遺伝情報を保有してる。

弥生時代の段階ではまだ、
北東アジア系40%、
縄文系60%の比率だった

縄文人が弥生人に進化したとか、邪馬台国畿内自生説とか言って妄想してる。
歴史捏造説(大爆笑\(^o^)/オワタ
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:31:35.59
>>149
衆夷が九州だとすると、ヤマト王権は倭の五王の時代になって初めて九州を支配下に置いたことになる。
卑弥呼の時代にはヤマトの勢力はまだ九州を支配できていなかったことを意味する。
一大卒をイト国に置いて玄界灘諸国を監察していたとする倭人伝と整合しない。
ここでも畿内説は成立しないことがわかるね。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:35:07.53
>>159
縄文人はアイヌ語
弥生人は日琉語
古墳人は日琉語?
なのかね?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:37:16.99
>>161
古墳人が京阪式アクセントをもたらした
京阪式アクセントはシナ系言語の影響と言われてる
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:46:29.01
>>162
古墳人の言語がシナ系言語だとして
上にあるように遺伝子の70%をもたらすほど
多数が渡来してきたのなら、私たちはシナ系言語を使ってなければおかしくないかな?
0164日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 20:47:34.55
九州で注目は弥生時代後期壱岐の原の辻遺跡から龍の絵画土器が見つかっていることだな
壱岐の伝承によると壱岐には龍神への信仰があつい夫婦が住んでいて、竜宮に招かれ信仰への褒美として竜宮一の宝物、禿童を授かり栄えたという
弥生時代後期の壱岐は、同じく龍の絵画土器が見つかっている橿原や清水風遺跡、池上曽根遺跡と同じ勢力圏に属していたんじゃないか
0165日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 21:07:09.17
また古墳時代史解題が久住にコテンパンにやられてるな
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 21:17:13.96
全ての日本人は
縄文人の遺伝子を保有する。

アマテラスの遺伝子の無い
日本人は居ない。

欧州人で、縄文遺伝子が
1%であっても有るものには有る。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 21:20:12.72
>>163
単語レベルではほぼシナ系。
大和言葉と呼ばれているものも実はシナ系が多い。

馬(うま)、梅(うめ)、邑(いへ)、室(さと)、築(つく)、槅(かき)、析(さく)、閾(ゆか)、
絹(きぬ)、秈(しね)、蛺(かひこ)、竹(たけ)、麦(むぎ)、松(すぎ)、琢(とぐ)、剥(はぐ)、
湿(しほ)、郡(くに)、盆(ふね)、坩(かま)、鎌(かま)、熊(くま)、酪(さけ)、
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 21:49:00.07
>>163
チンコロが入植した考古痕跡なんか一切ないし、チンコロが入植したなんて
中卒ギャグ飛ばしてるウハウハ考古学専攻学者の中卒ギャグ論文もない

チンコロ工作員は日本のサイトからさっさと失せましょう
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/28(水) 22:15:04.26
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0171琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/02/29(木) 00:00:05.11
無駄だよ、道教嫌いがどうにもならなくて箸墓だけは神が築き上げた女性墓だ、とまで言ってんだから。
その後は朝鮮アサガオだよ
光る君は朴だよ
0172ネトウヨ撲滅タイ!
垢版 |
2024/02/29(木) 00:33:27.35
近畿方言はジャポニックの正統派を伝えているのだろう
元々日本語は大陸の言語であって弥生人が日本列島に持ち込んだものだ
縄文語はアイヌ系の言葉であって縄文人は日本民族ではなかった

畿内の日本語は半島日流語(Peninsular Japonic)の声調を最も正しく継承している言語だ
ネトウヨの縄文文明論なるバカ丸出しの妄説を信じている連中はしるべきである
ジャップの起源は南満州であり日本民族は日本列島先住民ではなかったのだとな
日本の先住民はアイヌ民族だったのである

差別用語を平気で口にして恥じないレイシストがウポポイに対する酷い中傷を行っている
明らかに日本に義務教育では人権教育が足りていない
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 01:49:17.08
>>172
北海道を乗っ取ろうとするチョンコがいます
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 02:49:04.81
普通の日本人をネトウヨと言う差別用語を使ってヘイトするチョンコがいます
0175これが>>1=奥山=キナイコシ
垢版 |
2024/02/29(木) 05:17:24.29
101
>九州説は証拠を出さない ウソばかり言ってるから
129
>反論出来ずにチェンジ要求する負け組九州説
133
>九州説はウソつきだという証拠 また出ました
100
>九州説は説得力がない
なぜなら何百年たっても九州説の統一見解が出せないから
110
>誰でも1に見えるのは病気だよ
114
>証拠なし 九州説って捏造病だね
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 05:21:57.29
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 05:37:08.41
これが>>1=奥山=キナイコシ

特徴
答えない、答えられない
オウム返し
言葉尻だけとらえ本論に入らない(逃げる)
長文はしない(ボロが出るから)
丁寧語が苦手 使うときはぎこちないからわかる(育ちが悪い?)

@@@@
「奥山の自己満足」
スレが進む(もうすぐ1000スレ)ので「俺はスレの運営が日本一うまい」と誤解している。
同じ 話題をループさせてるのと、投稿者をあおりまくってるだけ。・・ひょっとして馬鹿を演じてるかもしれない。
@@@@@
「奥山の嘆き」
悲しいかな、奥山が一番知っているが、この畿内説のスレを賑やかにしてるのは九州説、阿波説であり
畿内説支持者はまず投稿しない。奥山がほとんどとみてよい。

以上

馬鹿奥山を酒のつまみにしながら投稿するのも このスレの楽しみ方ですから。。。ご自由に
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 06:07:35.58
>>170
「クヌ」だ馬鹿 漢字読めないのか
0179日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:06:44.07
寺澤薫的には、伊都国が東遷しなければ畿内は倭国でも無かったって事だよね。  


 三世紀初め、この国はイト倭国体制から新生倭国体制へと大きく舵を切った。同じ「倭国」という名称であっても、歴史的国家形態からいえば、それは部族的国家連合の段階から王国という段階への飛躍であった。それに応じて倭国の王都も、イト国の三雲・井原遺跡群からヤマト国の纒向遺跡へと一気に東遷したのである。  しかもこの二つの倭国には、決定的な違いがあった。つまり、イト倭国の王都が置かれていたイト国はまさに倭国の盟主国であったが、新生倭国の大王都が置かれたヤマト国は、けっして新しい倭国の盟主国ではなかったということである。

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0180日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:16:24.60
卑弥呼共立前は
邪馬台国は倭国ではなかったんだよ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:17:37.63
>>179
寺澤薫的には、伊都国の東遷なんて無かった
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:20:12.18
>>179
寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:23:34.63
倭国や王都に見合う集落遺跡て何?
何があるの?
0184日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:25:57.53
>>181
イト国が東遷したと書いてるけど
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:30:38.10
>>180
邪馬台国は伊都国の南にあるよ
0186日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:32:47.77
>>185
南へ水行20日と10日陸1月だね
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:34:14.00
九州以外にあるけど
行っていない。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:34:41.19
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けており、まともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)

考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている

例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:35:40.20
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
0190日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:36:59.96
考古学者の北條芳隆は畿内説ではあるが、非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた古臭い畿内自生説ではなく、柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動を想定している

その根底には、畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承との整合が念頭にあるようだ

以下参照

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/files/download/information_blocks/d14e0537-8587-4fae-afa9-bfd005f66505/value01/value02

「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:37:41.23
>>186
そう、周旋すると伊都国の南になる
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:39:22.11
客観的に見て、纒向調査の進展で理論的に崩壊したのは畿内自生説だ

纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、邪馬台国の可能性は、
①北部九州や吉備から奈良盆地に入った勢力が関与した、あるいは北部九州から遷都したヤマト王権が魏志倭人伝の邪馬台国とする最近の畿内説、
②魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州に留まり伊都国など別の北部九州勢力が吉備経由で奈良盆地に入りヤマト王権を作り、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立したとする北部九州説、
の大きく二つに絞られるだろう

最近の考古学者は①の方向性が増えているが(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)、私は②だと考える
その理由は主に以下の3つ
ⅰ)魏志倭人伝の描く倭国が2世紀初頭あたりから連続して続いていること
ⅱ)描かれた倭人のクニの様子や行程がどう見ても北部九州であること
ⅲ)纒向には大陸との交流の痕跡がないこと
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:40:06.61
>>190
矛盾してもいいんだよ。
神武東征に馬が登場するけど?
記紀と整合性とる必要性や必然性はない
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:43:43.71
>>192
畿内説ではないが、遠方地
当然、大陸との交流の痕跡がない
のが邪馬台国の一部かもしれん
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:44:40.34
>>193
神話・伝承で重要なのは骨子だ
日本に限らず神話・伝承の骨子は多くの場合何らかの史実を反映する

他の神話・伝承と異なり神武東征に限っては骨子まで架空と主張するのであれば、記紀を編纂した当時の朝廷が皇室の由来をでっち上げた動機やメリットを「合理的に」説明出来なければ説得力を持たない
0196日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:46:56.83
>>195
逆だよ。記紀に説得力はない。
実際に東征があった痕跡は?
0197日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:48:03.77
>>195
何らかの史実を反映する?
思い込み?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:48:45.69
九州 倭国大乱ー卑弥呼ー台与ー266朝貢途絶
畿内 ーーーーーー四道将軍ーーヤマトタケルーー三韓征伐ーー倭の五王

そんな難しい話じゃないのに
九州と畿内を無理矢理くっつけようとするから無理が起こる
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:50:17.49
記紀原理原則論は不要だな。
0200これが>>1=奥山=キナイコシ
垢版 |
2024/02/29(木) 07:50:18.15
@@@@
>>1奥山の悩み

スレを立てたときは寺沢信奉者だったが、、
寺澤の論調が変わってしまった。また畿内説の学者で纏向や箸墓が王都、卑弥呼と言うことに疑義を抱く人も増えてきた。
今更テンプレも変更できず旧態依然の古い畿内説をテンプレに記載。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:53:02.13
>>200
妄想の九州説あわれ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 07:53:23.71
>>196
東征の痕跡こそ纒向遺跡だ
纒向は西日本の中でも政治的・文化的に劣後していた奈良盆地に突発的に現れ、現地の銅鐸祭祀を一掃し、北部九州の部族制国家の仕組みや埋葬儀礼、吉備の特殊器台や桃核祭祀などを持ち込んだ
まさに九州勢力が吉備を経由して奈良盆地を征服した神武東征の「骨子」そのままだ
0204日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:00:19.15
>>202
思い込み?
鉄鏃や骨鏃武器の出土がない。
東征における馬登は?
0205日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:06:38.91
ホメロスの書いたトロイ戦争や司馬遷の書いた殷王朝
何れもかつては作り話だとされていたが、実際に遺跡が発掘されて史実性が証明された

纒向遺跡も神武東征伝承の史実性の証明になりつつあるのではないか
0206日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:07:08.25
>>192
>纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、
👆
何度も投稿していますが、 ここサラッと流していますね。
纏向の調査からは東遷の根拠は無に等しいと思います。
初期ヤマト王権の都とぶち上げてしまったのがそもそもの間違いだったのでしょう。
なんら都にふさわしいものは見つかっていません。神社のような祭祀場のような遺物や、古墳造営か灌漑用とみられる水路は見つかっていますが。
纏向を王都とぶち上げたのがそもそもの間違いだったと思う。
だから、畿内説の学者の論調も変化してきている。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:07:33.32
>>204
壹与の後では?
0208日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:08:54.62
つまり畿内説は平気で嘘をつく低能宗教ですよと

■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
 
■鐙のルーツ
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:09:02.48
>>205
何を持って東征があったと証明できるのだろうか?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:13:05.65
>>209
東征も東遷もなく。
狗奴国の人々が移住させられたとか?
熊野古道
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:13:26.68
>>206
私は九州説だが纒向は政治(≒祭祀)の中心都市としか思えない
政治的中心地は必ずしも農業工業商業が盛んであったり人が密集しているとは限らない

例えば東京の永田町は現在の日本の政治の中心だが、行ってみるとガランとしていて人もまばらだ

纒向が初期ヤマト王権の王都であったことは権力の象徴たる巨大前方後円墳や祭祀の痕跡から見て疑いようもなかろう
ただ、ここが魏志倭人伝の邪馬台国であったとする合理的根拠が何も無いだけだ
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:14:44.49
合理的根拠てどういうの?
0213日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:15:48.46
>>212
邪馬台国に関して言えば、魏志倭人伝の記述との広汎な一致ないし決定的物証
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:17:56.89
邪馬台国について伊都国並みの
詳細な説明はない。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:19:47.98
>>215
何?
0218日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:27:38.45
>>217
ミューオンの調査だけで都合の悪いものが発見されるって、どんなものを想定できるの?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:28:28.55
>>215
君の思考回路にあるものが
邪馬台国とは限らない。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:29:04.87
>>183
>倭国や王都に見合う集落遺跡て何?

「鍛冶炉遺構」や「勾玉工房」など、いろいろな先進文化の遺構が残る集落遺跡の群だな。   @阿波
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:34:02.13
>>198
3世紀の大和王朝の範囲は奈良、大阪だろう
その前に岡山に行幸したという記述があるぐらいで
九州が出てくるのは垂仁天皇の頃だから少し後ではないか
それも土蜘蛛と書かれているので支配下ではない
0223日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:36:16.39
>>182
@阿波 

その通りですよ。纏向の最大の問題点は。
花火をぶち上げたがいいが、王都に見合う集落跡が見つからない。
定住者100人にも満たない遺跡かも????

>寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:37:52.72
賛同する
>寺澤薫って、空想家?  彼が言う倭国や王都に見合う集落遺跡が無いのにww  とても立派な考古学者とは言えんな。   @阿波
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:38:24.94
>>190
天照大神以降は南九州ではないか
彼等が南九州へ向かったのは倭国大乱と関係ありそうだが
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:39:37.20
>>201

okuyama
>妄想の九州説あわれ

得意の一行投稿Ww
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:43:25.45
>>209
北部九州と奈良周辺は同じ地名、山名がかなりある
配置も似ている
移住した人がいた可能性は実際あるのでは?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:46:02.47
>纏向を王都とぶち上げたのがそもそもの間違いだったと思う。



その通り、、今の畿内説の学者の首を絞める結果となっている。
邪馬台国と関連付けるために必死になってる。
その手法の一つが初期ヤマト王権の都とすることだった。
しかし、調査すれど都にふさわしい集落跡が見つからないのが現実のようだ。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:51:33.58
>>211
永田町???
君 何も知らないのかな???議員宿舎、警視庁本部、、、、、
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:52:36.73
阿波説を推進していた阿波国古代研究所が仲間割れしていてワロタ。

>新着情報 / 2024年02月18日
> 雨水の侯、我が家の遅咲きの梅も三分咲きでいよいよ春到来です!

>昨春以来一年近く皆様にお待たせしておりました新刊本『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』も、去る11日建国記念の日にようやく上梓することが出来てホッと一息ついております。(11日付け当欄「新着情報」参照)

> さて、当塾「阿波古代史講座」の今月開催は次のとおりですので、宜しくお願い致します。



 新刊本も販売を開始されましたので、当日は次のことについても説明をさせていただきます。

① NPO法人阿波国古代研究所理事長笹田孝至氏から新刊本の内容が彼の説?のパクリだとの批判を展開されていることについて、

② 後に私の新刊本を出版される予定の東京の出版社あて、彼は「自説のパク本にリ違いないので、出版するな。」という未だ出されてもいない時点で前代未聞の “ 質問状 ” を4通も送りつけていることについて、

③ また彼の全権委任を受けたという竹岡誠治氏が私の本のプロデューサー小倉一夫編集計画研究所へ乗り込み、「藤井の本は出すな。」、「自分が知事に提案?して県内活動グループをまとめて発足する(仮称)「阿波ヤマト国財団」(4月発足予定の県の財団)の傘下に入れ。
 入ったら藤井の新刊本も笹田の出す新刊本と一緒に4月14日のクレメントでの設立記念(出版記念)パーテイーで披露してやる。」という高飛車な圧力をかけられましたが、小倉氏とともにこれを拒絶していることについて。

 講座当日は、

① これらの顛末についてご報告し、

② 笹田説なるものは存在しないこと、

③ 彼の著述のほぼすべては岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」(一~三)の記述を基にしており、いわば実質的には大閑氏のパクリであることを説明させていただきます。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:54:55.33
>>206 賛同する

>纏向の調査からは東遷の根拠は無に等しいと思います。
初期ヤマト王権の都とぶち上げてしまったのがそもそもの間違いだったのでしょう。
なんら都にふさわしいものは見つかっていません。神社のような祭祀場のような遺物や、古墳造営か灌漑用とみられる水路は見つかっていますが。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 08:55:40.69
>>229
建物はもちろんある
しかし新宿や銀座や渋谷のような喧騒はなく空間も広い
近くの赤坂見附あたりのごちゃっとした商業地とはまるで違う
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:07:50.53
>>230 追加
なお、古代史塾主宰 藤井榮氏のプロフィールw

代表紹介・あいさつ
藤井ふじい榮さかえ
昭和24年 徳島県海部郡美波町(旧日和佐町)生まれ。
昭和51年 中央大学法学部法律学科卒
昭和54年 徳島県庁入庁
平成22年 徳島県庁を退職

岩利大閑著『道は阿波より始まる(一~三)』に感銘を受け、かねてより興味を抱いていた阿波古代史についてNPO法人阿波国古代研究所会員として学び始める。平成26年からは中心メンバーの県内外の現地調査や勉強会に参加するなど本格的に勤しむ。

平成27年から『阿波古代史入門講座』(令和元年度に『邪馬台国阿波説入門講座』より改称)を開講。その傍ら板東英二氏のラジオ番組(『板東板東晴れ板東!(ラジオ関西)』、『板東英二の喜怒哀楽(ラジオ大阪)』等)にゲスト出演して阿波古代史を語る。

現在、古代阿波“倭”人全国進出の足跡についての調査を主なテーマとして活動中。

当サイトではこれらの成果を踏まえ、古代阿波の実像について写真等を交えながら解説することを始め、YouTube配信なども含めて情報発信に努めたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:12:57.76
寺澤
:纏向遺跡は生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河等の土木工事が行われている。

ここまで寺澤がわかっていれば、古墳造営の基地とみなしてもよいのではないだろうか?
土木工事が都市建設のためであるとしたら、大集落が発見されてもよいものだ、いまだ住居跡はわずかである。
0235日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:20:17.65
>>232
永田町なんて狭い町ですよ 千代田区と比較すべきでしょうな

一応永田町にある施設(さて纏向では??)
国会議事堂 - 衆議院、参議院
国立国会図書館
りそな銀行参議院・衆議院支店
議員会館
内閣総理大臣官邸・内閣総理大臣公邸
国会記者会館 - 官邸前
日枝神社 - 周辺は桜の名所として知られた
衆議院議長公邸・参議院議長公邸 - 互いに隣接している
日本水準原点標庫 - 1891年5月、当時の参謀本部陸地測量部庁舎内に設置された(重要文化財)
内閣府庁舎 - 内閣官房と内閣府が入っている
中央合同庁舎第8号館
憲政記念館
自由民主党本部
立憲民主党本部
千代田区立永田町小学校(廃校)
東京都立日比谷高等学校・星陵会館
山王飯店
全国町村会館
みずほ銀行町村会館出張所
ザ・キャピトルホテル 東急
赤坂エクセルホテル東急
プルデンシャルタワー - 1982年に火災を起こしたホテルニュージャパン跡地に建設された
山王パークタワー - 1936年に二・二六事件の起きた山王ホテル跡地に建設された 現在はNTTドコモの本社が入居
ラルフ・ローレン日本法人本社
三菱総合研究所本社
メキシコ合衆国大使館
0237日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:23:19.96
>>235
住所はともかく山王パークタワーやキャピトル東急は赤坂の商業地兼オフィス用地の圏内
私が例示する永田町には含まない

私のはあくまでも例示なので、論旨を汲み取って欲しい
頭のいい人と議論するとそのあたりがスムーズに通じるのだが
0238日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:25:49.66
巨大な土盛りまんじゅうの土砂はどっからもってきたんだ
埋まってた唐古・鍵の大環濠を掘り返して出た土か?
0239日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:26:44.20
>>232
官庁街の
霞が関、丸の内、麹町、などなどはなぜ外したの?
0241日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:29:45.13
>>240
ああ、でも麹町や丸の内は民間主体なのでちょっと違うか
霞が関はもちろん含んでもいい
0242日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:32:23.02
日本旧小国、倭地併合というのが全てだろう
遠く離れた畿内から外交するような国ではなかった
0243日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:32:44.59
>>190
>考古学者の北條芳隆は畿内説ではあるが、、、
>柳田、寺澤、久住らと同様、北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動を想定している

ついに、大崩れしたか。
これは「平原イト国(俗説)」の大崩壊の予兆でもある。
真正の伊都国は、佐賀城址・奴国、吉野ヶ里・不彌国と共に、佐賀平野中央部にあった。
0244日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:33:02.37
古墳造営の基地とか思うのは相当に無知な人だけだから、そんなこと連呼しても馬鹿と思われるだけ
纒向の始まりは古墳の造営が始まるだいぶ前だからね
0245日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:36:08.54
土地があれば人は住んでても当然だ。
大和と関係あるか無いかだろうね。
0246ネトウヨ撲滅隊!
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2024/02/29(木) 09:37:18.80
神武東征伝説というのは九州にいた倭王(恐らく伊都国王)が地域大連合を作って、文化後進地域で開拓の余地のあった奈良盆地を制圧し、ここに新王府として邪馬台国(纏向遺跡)を建てたという話が元になって成立したものなのだろう

地域大連合の元になったのが太陽神への信仰で、その要が太陽の巫女である卑弥呼だった

初代のヤマト王が神武天皇のモデルになった人物(以降、彼を神武と書く)であり、ヤマトの建国は桓霊の頃すなわちAD180年の前後であると推測できる

オレは纏向石塚古墳がヤマト王権の初代王の陵墓であり、神武の没年をAD200年頃と推定する
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:38:13.40
巨大古墳の造営自体が王としての政治的活動の一環だからね
大和の地方政権であった初期ヤマト王権の重要な活動だ
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:38:56.59
妄想
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:40:59.73
巨大古墳の造営は王権を引き継ぐ儀式のステージだというのが定説
つまり古墳のひと世代前から王権があった
0250日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:44:28.67
つまり初代崇神が四道将軍派遣して
次代垂仁が巨大な土まんじゅうをつくった
0251ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/02/29(木) 09:47:30.80
纏向遺跡は西暦180年頃から構築が開始されて、最初の墳墓である石塚古墳が作られるのが西暦200年頃

ヤマトの初代王の名前が本当にイワレヒコだったかどうかわからないから、神武のモデルになった人物としか書けないが、纏向が古墳造営キャンプなら石塚古墳の二十年前に建設が始まったのは意味不明である

そもそも大古墳を幾つも作れる時点で纏向周辺地域が巨大な人口を抱えていたことが明らかである

纏向遺跡内に住居が見つかっていないのは、まだ居住区の調査がされていないか、坪井大福遺跡など近隣の邑から宮に通勤する形態だったからだろう

初代王の名前が伝承でイワレヒコというくらいだから、磐余の範囲にある坪井大福が居住区だったのかもしれない
0252日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:47:58.54
>>237 >>241
まず永田町と比較するのが間違いのもとですよ

>頭のいい人と議論するとそのあたりがスムーズに通じるのだが

あなたと議論が通ずる頭のいい人とは頭の悪い人ですよ
私は、中央省庁を長年担当してましたからあのあたりの地理感、官庁街はよくわかってますよ。
あなたは永田町=纏向の大型建物周辺との比較でしょうね
 
あなたが纏向遺跡を政治都市とするならば、永田町を取り巻く官庁街と比較すべきでしょうね。

また、官庁に務める人は現代では電車通勤は可能ですが、当時は歩きでしょう。すると纏向および、その近辺に巫女千人とは言いませんが大人数の住居は必要でしょう。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:49:18.05
>>222
>3世紀の大和王朝の範囲は奈良、大阪だろう だろう

碌に鉄器さえも作れない奈良、大阪がか?   @阿波
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:53:49.67
ついこの間まで東遷馬鹿にしてたのに伊都国から東遷してきたことになったり
神武のモデルがいたことになったり
どうすんだこれ
0255日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 09:56:27.16
>>241
>でも麹町や丸の内は民間主体なのでちょっと違うか

ではなぜあの近辺に民間の大企業の本社が多いのか考えたことがありますか?

答え 監督省庁があるのが一番の理由です。許認可等々、、、それも含め政治都市でしょうね。
   例えば日本生命の本社は大阪ですが、東京本社として官庁街に店があります。
   地方銀行の多くも省庁の近辺に主張所を設けています。
   これが政治都市なのです。
纏向と比較するのがそもそもの間違いでしょう
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 09:58:52.51
>>244
あんた知らんの??
古墳造営基地と言ってる研究者いるの 知らんの????
無知ね Www
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:02:37.11
>>244
>纒向の始まりは古墳の造営が始まるだいぶ前だからね

そして、纏向遺跡は、大和・柳本古墳群の造営終了と共に消滅する。   @阿波
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:03:03.12
女王国の条件
・郡から南方にある国
・漢の時代から代々王を継いできた国
・船で辿り着ける地域
・まだ馬が居ない時代であった
・南の国と戦争をしていた
・東に海があり、その先千里にまた倭種の国がある
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:04:35.57
>>254
情けないよね
あれだけ東遷説を笑って、九州みたいな田舎に政権があるわけないと散々バカにしてきたのに
よほど纏向の遺品がしょぼくて詰んでるのだろう
昨年、伊都国歴史博物館で唐古・鍵遺跡、纏向遺跡の企画展示展をやっていたんだけど
伊都国の出土品と比較すると素人目に見てもしょぼかった
畿内説さん、もっと頑張れよ
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:05:04.29
>>258
でも邪馬台国の条件ではないかもしれん
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:06:29.99
>>251
200回だっけ?
しつこく発掘してきたのになかなか住居跡が見つからないんだよね
いつか見つかるさ
スコップ持って手伝ってあげるよ
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:06:54.50
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。

魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:08:57.10
>>260
それがもうそうだと気がついた時、あなたは気が狂ってしまうんだろうね
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:09:18.03
>>258
まぁ、こんな感じよね

     北
  朝鮮半島

    伊都国
西  【邪馬台国】  東
(記載なし) 海の向こうに倭種

    狗奴国
     南
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:10:43.39
>>263
>卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏

つまり、これは鉄器王国「阿波」から下賜された地域を示す。   @阿波
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:12:07.57
纏向が畿内説を窮地に追い込んだ現況
石野は早々と吉備説へ
寺澤はようわからんカメレオンだから
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:21:19.56
九州説、追い詰められてるね

もう終わりって気付いてるんだろ?





w
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:21:34.02
>>269
学者モドキ?
失礼ね
お給料をいただいてんだからプロの学者に間違いないわよ
金にならんのに考古学やってるアマチュアとは違うんだよ
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:22:45.00
>>271
え?なんで九州説?
畿内の話でしょ
どれだけ九州を意識してんの
情けない
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:26:13.76
>>272
偏差値やIQの高いやつが考古学なんか専攻する訳ないだろ世間知らず
自ずと馬鹿の寄せ集めになってしまう分野なんだよ
世間にはお前より賢い人の方が圧倒的に多いんだよ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:28:27.32
世間には自分より賢い人の方が圧倒的に多いという現実を受け入れられないのが文系の特徴であり、馬鹿にされる理由でもある
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:29:25.97
>>244
>纒向の始まりは古墳の造営が始まるだいぶ前だからね

馬鹿じゃねーの 纏向に人がだれも住んでないと言ってねーよ。日本全国に古墳時代以前に人は住んでたんだから。
纏向にも人は住んでたよ。
ただそんだけのもんよ
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:30:16.40
>>274
IQ低くてアホだろうと何だろうと
【仕事】としてやってんだからプロなんだよ
プロなんだからお給料もらうために頑張るさ
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:32:14.72
>>247
>巨大古墳の造営自体が王としての政治的活動の一環だからね

地方豪族どもの共同墓地 
統一性はない 墓の向きがバラバラ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:35:53.79
>>268
>纏向が畿内説を窮地に追い込んだ現況

結局、自生畿内説も東遷説も、奈良湿地の底なし沼に吸い込まれてしまう運命ってこと。   @阿波
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:41:09.94
>>272
お給料をいただいてるのに間違った研究してた気付いたから
捏造するしかなくなってる畿内説。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:47:09.52
>>263
北陸、関東まであるので
ボツだq
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:47:58.83
>>279
小松島飛鳥の宮説を推進していた阿波国古代研究所が仲間割れを起こしている件はどうお考えですか?
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:53:57.22
>>251
>そもそも大古墳を幾つも作れる時点で纏向周辺地域が巨大な人口を抱えていたことが明らかである

土木作業員は野宿でも簡易的なわら小屋でもいいの
そういうのは集落と呼ばないし、見つからないのだよ。

要は纏向遺跡では当時の弥生遺跡にみられる竪穴式や掘立て柱の住居が多く見つかってないのよ。
いつか出るだろうと憶測で調査するのは公金チュウチュウの体質。
0284いっつも思う
垢版 |
2024/02/29(木) 10:58:17.04
いつも思う

弥生期 日本全国に人が住んでたんだから
何処でも 掘ってたら弥生時代の遺物が出る可能性はある
問題は
その遺物が邪馬台国と関係あるかどうかが問題。
邪馬台国と関係あるかどうかは魏志倭人伝の記述に頼るしかない。
これが原理原則
だから、畿内説の方に纏向遺跡で倭人伝の記述と一致する遺物を数多く列記してもらいたいのです。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 10:59:06.57
>>280
気付いても気付かない振りを続けていたのが旧石器時代捏造事件
それ以降も同じ事を繰り返してるだけ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:03:06.27
>>284
しかも畿内説は日本に色んなルートで色んな民族が渡ってきて住み着いたという事すら想定していない
まるで古代から日本原人が日本列島を支配してきたかのように妄想している
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:03:57.06
今見つかっている纏向の掘立て建物群は、
仮設の祭祀場でしょ?
祭祀を行うたびに建て替えしてるのかも。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:07:18.27
>>280
>捏造するしかなくなってる畿内説。

私もそれを恐れています。纏向は調査すれどさしたる成果なし。公金だけが費やされました。
アタオカがでないとも限りません。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:09:05.96
巻向遺跡が大和発祥の地かもしれんが、魏志倭人伝とは関係ない。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:12:20.11
そもそも畿内は、明治の内藤説を奉って発掘し、複勝してきただけ。
見込み違いに気づいても、畿内の鉄は腐ってなくなったとか、
開き直って通り抜けようとしてる・・、
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:13:20.31
巻向遺跡は現代の学者が付けた名称、範囲であって、3世紀頃には無いから
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:20:05.56
九州 倭国大乱―卑弥呼―台与―266朝貢途絶
畿内 ――――――四道将軍――ヤマトタケル――三韓征伐――倭の五王

※倭王武の上表文(478年)
 自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
 東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國

※倭王讃の上表文(425年/冊府元龜/卷0963)
 是年,倭國王倭讃遣使奉表,獻方物。
 表曰:「封國偏逺,作藩于外。自昔祖父躬擐甲胄,䟦渉山川,不遑寕處。
 東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國

※景行→(子)日本武尊→(子)仲哀→(子)応神→(子)仁徳
  応神の祖父にあたるのが日本武尊ということになる

※天皇位は景行→(子)成務→(甥)仲哀と継がれた
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:20:49.64
想像上の国、邪馬台国は巻向遺跡だった。
ならば、そうかもしれん
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:29:36.55
>>282
マウント争い。   @阿波
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:32:19.57
>>289
東日本にもいくつもの王朝があっただろう
それらが魏志倭人伝に記載されていないのと、大和が記載されていないのは同じ事だろう
大和も大陸から離れた辺境の王朝に過ぎない
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:36:08.34
淡路島→大日本豊秋津洲→伊予二名洲→筑紫洲→隠岐洲→越洲→大洲→吉備子洲
この順番は、その場の思いつきとかでは無いと考えますが。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:38:12.88
>>287
同意します
>今見つかっている纏向の掘立て建物群は、
仮設の祭祀場でしょ?
祭祀を行うたびに建て替えしてるのかも。

👆
大型建物と言われてる建物の柱穴は浅く、柱もあまり太くありません。
また、纏向は湧水が出るように当時はもっとじめじめしてたでしょうが、他遺跡で発見されている柱の基礎とな礎石、礎板の類はありません。
耐久性は低いと言わざるを得ません。
建て替え立て替えがあったのか、祭事のおりに簡易的に建てられたのかもしれません
一説によると一時的な葬儀に使われたかもと言われています。祭事で人が集ったとき市が立ったのかも???
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:39:40.89
>>284
畿内さん
「巨大古墳だー卑弥呼の墓に違いない」
「柱の跡だー卑弥呼の祭殿に違いない」
「桃の種だー卑弥呼の鬼道に違いない」
「花粉だー大陸と交流していたに違いない」
「銅鏡だー卑弥呼の鏡に違いない」

これがおかしいのが理解できない不思議
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:40:21.40
>>299
出だしの淡路島が間違い。 吉野川中州の粟島などだ。   @阿波
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 11:43:39.52
>>299
これは、物部(忌部)の郷周辺地域を言っている。   @阿波
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:04:40.95
【最新】発掘調査結果報告(2024年2月29日時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳

[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・ゴキブリの羽のかけら
・ミュー粒子を使った箸墓古墳透視調査結果(未だ未公表)
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:35:30.53
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:36:11.06
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に帯方郡から12000里(狗邪韓国7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11300里)から半径700里(50q)の範囲で、伊都→博多の北は玄海灘、東百里は不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかないこと。
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)男王 卑弥弓呼」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く日巫女(日見子=卑弥呼)にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(の海上)にあり」とするための方便(蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(架空の女王国)
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:36:46.35
>>303
古事記とは違うようですが、何か理由はあるんでしょう。
大和の都合もあるかもしれない
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:41:16.54
>>308
>古事記とは違うようですが

古事記は、「阿波」の物語。   @阿波
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:42:24.35
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:52:32.29
おーーい
奥山
ハッケヨイ
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:54:01.05
九州説の方、魏の使者が狭い九州の事ばかり書いて、目の前の出雲の事を一切書かないとかおかしくないですか
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:55:41.06
「女王国(九州)東渡海千里 複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里」

書いてありますw
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:57:07.10
>>315
東の倭種ってちゃんとかいてある
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:59:23.22
>>302
潮の雫が固まって島になったっていってるんだから、
川の中洲では無いよ。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 12:59:24.68
>>317
情報少なすぎるだろ
0320日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:00:29.79
出雲も元々は筑紫の勢力の分家だったと思う
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:00:34.08
>>319
女王国の傍国ですら名前以外なにもわからんので
女王国以外の東倭種なんて名前すらわからん
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:02:18.60
>>321
山陰は半島からハングル書かれたゴミが流れて来るような距離だぞ
0323日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:02:55.64
>>316
渡海千里って、九州島と本州島の距離じゃ無いじゃないですか。

九州と本州はすぐ目と鼻の先です。
ちょっと広めの川ぐらいの距離でしか無い。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:04:12.48
>>315
郡使は北部九州沿岸から山口県くらいまでしか行ってないから
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:04:36.02
>>322
魏使にとって興味があったのは
後漢の時代から使訳を通じてた30余国連合の大倭王が統べる倭国(=九州)なのであって
東の蛮族などどうでもよかった
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:07:45.20
楼観なし 城柵なし の纏向遺跡w
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:10:51.05
郡使は九州の内陸の傍国にも行ってないし、九州南部の狗奴国へも行ってないね
本州とか殆ど行ってないみたい。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:12:25.49
>>322
行きはいいけど、帰りが大変そう。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:18:02.60
>>301
「巨大古墳だー卑弥呼の墓に違いない」
「柱の跡だー卑弥呼の祭殿に違いない」
「桃の種だー卑弥呼の鬼道に違いない」
「花粉だー大陸と交流していたに違いない」
「銅鏡だー卑弥呼の鏡に違いない」

邪馬台国は奈良盆地にあったに違いない
10年前の岸本論文で多くの考古学者はそう思ったらしい
畿内説では10年後の今でもそう思っているらしい
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:25:44.77
>>331
ワロタw
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:44:06.36
基本的なことを知らないので、教えてください。   

古事記の天地開闢に登場する「陰陽斯開二靈」を伊邪那岐命と伊邪那美命に比定したのは、誰なんだろうね。   @阿波
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:50:33.85
>>330
墳墓や古墳はあちこちにある
柱の跡など弥生時代末期の建物もあちこちにある
桃の種なら吉備のほうが大量に出土している
花粉は交易レベルでしかなく、交易なら日本全国どことでも繋がってる
銅鏡もあちこちから出土している

あれ?
邪馬台国は吉備じゃね?www
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:55:19.78
基本的なことを知らないので、教えてください。
特殊器台とか円筒形埴輪が出土したのはどの地域?
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 13:59:14.79
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と吉備ヤマト王権が共存。
266年、巫女だけに跡継ぎがいない台与は吉備ヤマト王権に禅譲し、西晋武帝に報告「複立男王 並受中国爵命」。
そして箸墓が造られ、筑紫邪馬台国は倭国大乱の戦後処理内閣(臨時倭王権)としての役割を終える。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:02:08.15
東遷と言うのがちょっとわかりにくいんですよね。
東征ならわかります。辺縁を東に広げることで分かりやすい。
しかし東遷となると、中心が東に一時的ではなく永続的に移ることですよね。
つまりセンターというか王権、統治機構がゴッソリ移動する。
今まで九州北部で得ていた地政学的な利得や優位性、これらを捨て去ってなぜか他の地方に移る。しかもど田舎に。朝鮮半島特に楽浪や帯方郡など、中国との交通、半島南部の国々との貿易による利得、そして鉄製品の獲得の優位さあったでしょう。九州北部が他の地域から抜きん出る事を可能にした優位性を投げ打って、後進的な地域に移動する。
しかも王を含め統治機構全体が移動するわけですから、家族やら含めて数千人規模の移動になる。その構成員たる豪族たちはそれぞれ土地と結びついているわけで、彼ら累代の聖地というか、墳墓のようなものも、それぞれ豪族たちは持っていたでしょうから、そういったものも全てをなげうって鉢植えのように引っこ抜いて移動させなければならない。
しかも移動するにしても当時は馬もないし、船だってろくなものがないでしょう。瀬戸内海も何回も船を乗り換えなければならない。街道だって碌なもんじゃない。ほとんどが徒歩での移動だったはず。それが数千人規模で、遥か遠くの奈良まで移動しなければならない。これは大変な事ですよ。
そこまでして東遷せざるを得なかった、その理由が知りたい。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:05:31.34
東遷など存在せんよ
あったのは征西

畿内ヤマトが東西にその影響力を広げ
やがて九州も併合した

そうなって初めて「ど田舎」にいた九州くまモンが
「中央」奈良の大和政権に仕えるようになっただけ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:06:20.06
倭王権は、北部九州から大和に遷ってはいない。
倭王権は天智まで一貫して北部九州にあり続け、王墓だけが大和に造られたのです。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:06:34.59
×ど田舎 ○辺境
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:07:53.74
つまり九州王朝説が史実(天垂彦が裴世清に説明した兄弟王朝=九州本家+大和分家)ということ。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:15:13.95
江戸時代の大名のお国替えのように、行列組んで一斉に移った訳じゃなかろ。
10年、20年、30年かけての大事業。
理由は、日本神話にある天地を揺るがす南海トラフの大地震と阿蘇山の噴火だった。
だから神武が、日向の美々津から船出したことになっているのではないか、
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:23:00.94
人が移動する時はプッシュの要素とプルの要素がある
異民族の攻撃とか気候変動で農耕できなくなったとかがプッシュの要素
移動先の方が豊かとか農耕に適してるなんてのがプルの要素

卑弥呼東遷説にはそういった要素ないからインチキだと思います。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:28:46.40
古墳時代は、九州本家(半島派兵王)と大和分家(内政築造王)という車の両輪で国家経営されていた。
天垂彦の後、阿蘇山が大噴火したため、天智が阿蘇邪靡堆から太宰府に北遷。
その後乙巳の変や大化の改新を経て、白村江の完敗で大津宮に疎開し、大和分家の天武と合流したのである。
倭王権は漢委奴国王〜帥升〜卑弥呼台与〜讃珍済興武〜天垂彦〜天智太宰府まで、一貫して北部九州にあったわけである。
大和はその奥津城「王家の谷」であって、倭王権は東遷などしていない。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:34:12.46
今城塚古墳に眠る大王のピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:42:27.01
>>337
>特殊器台とか円筒形埴輪が出土したのはどの地域?

吉備と大和が中心で伊予、播磨、出雲、伯耆、丹後に波及
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:44:24.90
基本的なことを知らないので、教えてください。   

古事記の天地開闢に登場する「陰陽斯開二靈」を伊邪那岐命と伊邪那美命に比定したのは、誰なんだろうね。   @阿波
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:50:53.97
仁徳の難波高津宮からも、雄略の泊瀬朝倉宮からも、見つかったのは掘立柱の茅葺倉庫だけw
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 14:55:29.53
継体の樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮からは何も出てこないw
大和分家は纏向含め、古墳を築造していたのだから、大王宮ではなく古墳造営キャンプw
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:08:01.63
>>349
天児屋命の子孫
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:15:39.51
おーーーい
奥山
ハッケヨイ
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:16:41.69
>>352
だから古墳時代は大王宮が転々とするわけか...orz
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:17:17.27
>>352
古墳造営キャンプに列島最大の建物群があるとかw
九州説は全国に恥を晒して滅んでいくなあ

貧すれば鈍すってやつ?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:19:31.80
>>331
スゲェ!纏向とは比べ物にならんなw
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:23:58.35
>>331
なんじゃこりゃ...orz
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:43:12.17
>>356
大型建物群???な掘立柱建物というか知ってるか?
 掘立柱建物は、礎石を用いず、地面を掘った穴の中に柱を立てた建物。
柱穴は浅いし、柱は細いし、基礎は礎石や礎板はないし。
簡易的な豚小屋みたいなもん。
地震が来たら真っ先に壊れる
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:50:53.05
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と吉備ヤマト王権が共存。
247年卑弥呼の跡を継ぎ、張政の指導で狗奴国卑弥弓呼を滅ぼしたお祝いに魏帝から曹操鉄鏡(日田で出土)を貰い、266年、巫女だけに跡継ぎがいない台与は吉備ヤマト王権に禅譲し、西晋武帝に報告「複立男王 並受中国爵命」。
そして箸墓が造られ、筑紫邪馬台国は倭国大乱の戦後処理内閣(臨時倭王権)としての役割を終える。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:57:13.51
九州説がバカ晒す
無駄な抵抗

上代の宮殿はそういうもんなの
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 15:57:23.59
>>364
掘建柱建物は基礎がグラグラしてるから地震には強いと思うよ。
長持ちはしないだろうね。纏向は湿地帯だし、、
宮殿なんて大きく出たもんだが、、、、あばら家かな
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:02:40.04
>>366
つまり箸墓は、266年に築造が開始された「複立男王 並受中国爵命」の墓ってこと?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:04:46.57
シンプルに、7万戸や5万戸の巨大都市が古代の九州にあるわけ無いだろ
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:04:55.51
畿内説は阿波説と同じオレオレ詐欺に過ぎなかったわけで、九州説と九州王朝説のどちらが正しいかを議論すべき段階に来ているな
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:06:50.50
>>373
奴国2万戸(福岡平野250㎢)だから、その5倍弱の筑紫平野(1,200㎢)には10万戸まで可能w
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:07:21.14
>>365
良い指摘です
伊勢神宮も掘立柱建物です。耐久性は低いです。
だから20年の一度立て替えます(式年遷宮)
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:08:54.17
>>368
例を挙げてくれないと???
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:14:45.33
>>368
良い指摘です
伊勢神宮も掘立柱建物です。耐久性は低いです。
だから20年の一度立て替えます(式年遷宮)

纏向の建物も建て替え、立て替えの柱穴とではないかと言う人もいますね。
すると、大型でなく中型か小型かもしれませんね。

いずれにせよ大きいからどうしたの???ということでしょうね。
倭人伝にも大きな居とも記述ないし、、

大きいから何?????
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:18:22.13
>>356

墓地だろ 斎場ぐらいあるさ
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:19:14.14
セレモニーホールだねw
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:23:15.40
ストリップ小屋でもあった
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:26:37.42
纒向に古墳が多数あるのは霊園だった証拠であり、当然副葬品の出土数は多くなる

しかし墓の被葬者は地元の首長とは限らないし、副葬品も地元産とは限らない

纏向で出土した物を迷わず纏向産と位置付けてる考古学者はかなり頭が悪い

よって畿内説は馬鹿の妄想説でしたと
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:29:16.08
>>375
そんなに住んでた考古学的証拠あんの?
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:35:53.42
敗退九州説の馬鹿さが際立つ
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:36:18.08
吉野ヶ里遺跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1#%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
古墳時代
>古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。

また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。

なぜ「戦乱の世が治ま」ったのか?
それは卑弥呼が即位したから
卑弥呼が纏向で即位してから吉野ケ里遺跡は機能を失う
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:37:10.72
距離も方位もデタラメな畿内が邪馬台国のわけがない
0388日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:38:59.12
卑弥呼が女王となったのち、倭国で飢饉が発生し多くの人々が半島に食糧を求めてやってきたという記録がある
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:39:31.08
つまり畿内説はウソ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:41:12.81
>>387
墓29基じゃなくて7万戸住んでた証拠を出せよ
1戸4人でも28万人だぞ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:44:20.84
筑後と肥国で7万戸だな
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:44:22.26
>>390
墓の残存率、発見率とか頭に無いのか?
さすが低IQ文系の代表格畿内説w
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:45:01.11
4世紀後半奈良に誕生する円墳と蛇行剣
4世紀末には同じく円墳の堺の七観山古墳や豊中から蛇行剣が見つかっている
蛇行剣は九州南部で大流行した剣だな
九州南部は竹内宿禰の伝承が残り、竹内宿禰と手を組んでいた鹿皮の服を着た配下に持つ日向牛諸井の拠点である
竹内宿禰との逸話が残る大鷦鷯という名はミミヅクと交換した名である
宮崎は耳津などミミの地名が残る地だな
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:45:26.35
ここはひとつ、7万戸や5万戸の巨大都市が古代の奈良にあった証拠出そうぜ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:45:32.05
奈良は7000戸 by寺澤薫
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:49:19.46
帯方郡の渡来人が多い地域が邪馬台国ニダ
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:50:10.48
推理推測が優先 
倭人伝記述に基づく証拠なんてわずか

ポツンと大きな建物が何???倭人伝に倭国で一番大きな建物が宮殿って書いてあるの?
楼観 城柵 があったほうが説得力がますよ。定住者の大集落跡があるとか。。。

なんでもみつかりゃ 邪馬台国と大騒ぎ
倭人伝に記述あるかどうか確かめてから公表すべき
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:51:35.17
おーーうい

奥山

ハッケヨイ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:53:19.36
>>397
敗北九州説必死の悪あがき
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:56:14.02
畿内はヤマトに決まっておる。グレートオブ倭はヤマトだけ。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 16:59:46.62
今も田舎の筑後平野に、古代に30万人巨大都市があったとさ
めでたし めでたし
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:02:51.61
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0405日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:11:31.79
>>388
三国史記で193年に大飢饉のため倭人が食料を求めて新羅に押し寄せたという記事
同じく三国史記で高句麗側の記録でも194年に食糧不足に苦しんだとの記録
さらに正史三国志の武帝紀では194年に穀物が1万5千余万銭に高騰し人間同士が食い合ったという記事
これらの記事から、193年から194年にかけては東アジアの広い範囲で飢饉が発生した模様が窺える

しかし、これらは一時的な食糧危機 戦乱の混乱の後に平和を取り戻したことは画期的な出来事 その画期的な出来事が人々の暮らしに変化を与えた
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:14:34.38
>高地集落は「倭国大乱」以前にあった 伝染病原因か(産経新聞)
https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/
>「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落

この現象は、弥生の大洪水によって灌漑稲作が壊滅状態となり、弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、
終には平地の暮らしを放棄し、縄文的な生業と地域社会へ回帰するように高地性集落が形成されたのだろう。   @阿波
0408日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:20:28.22
>>406
そうそう
頭の悪い畿内説は倭国大乱の時期に防衛性重視のため高地性集落へと移行したとか言ってたよな
どんだけ低能なんだ?と感じたのを覚えてるよ
0409日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:24:34.01
洪水は一定の間隔で定期的に発生した
それが原因で反復して高地性集落ができたということはない
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:25:36.96
>>407
纏向にも環濠はない
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:27:05.22
>>408
高地性集落の機能は軍事的な目的を満たすため
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:28:09.38
そもそも倭人伝に環濠は出てこない
たぶん魏使は環濠集落を見ていないな


 
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:33:39.48
>>412
そうだな
おまえの脳内では、弥生時代は交易拠点だった原の辻遺跡の大規模な環濠集落も見てないってことだよね
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 17:41:13.07
卑弥呼の居住区は城柵に囲まれ守衛が居たんだよな
纏向のあったかどうかも不明な垣根はイノシシが貫通出来そうな貧弱な柵
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:00:08.98
九州説はウソが好き



w
0417日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:03:06.11
>>413
原の辻を見て博多湾岸に来たら
倭国には環濠集落が無いと実感するだろうね
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:03:11.56
いつもの畿内説の自己紹介は飽きたな

>416:日本@名無史さん:2024/02/29(木) 18:00:08.98
>九州説はウソが好き
>
>
>
>w
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:12:59.83
>>408
畿内説のバカどもが、どうして瀬戸内海の高地性集落を倭国大乱の痕跡!なんて頓珍漢なことを言うのか、やっとわかったぞ❣w

あいつら、(後漢鏡を持ってなかったw)吉備の楯築弥生墳丘墓を帥升の墓ってことにしたいだけなんだよw

漢委奴国(博多)王→帥升(吉備楯築)→卑弥呼(箸墓) のストーリーの伏線を張ろうとしてるw
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:17:56.78
倭国大乱と言うが、魏志倭人伝は九州の一部を倭国と書いてるが。
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:24:09.83
倭人は楽浪海中に分かれて100余国
これが倭地をマクロに見た状況

魏志では半島から渡海してきたところに30余国からなる女王国連合があり
東に海を渡るとまた倭種の国々がある様子が書かれている
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:26:04.28
少なくとも、五斗長垣内遺跡が稼働してる間は争いは起きてただろう。
何処で起きてたか知らんけど。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:27:18.16
韓国が方4000里(300q)で、
倭国が5000里(375q)...九州島の南北の長さはおよそ330qほどでピッタリw
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:30:09.14
>>415
>纏向のあったかどうかも不明な垣根はイノシシが貫通出来そうな貧弱な柵

九州説は何も知らずにデタラメ書くという証拠ありがとう
0425日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:30:25.43
つまり畿内説はオレオレ詐欺
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:30:44.67
五斗長垣内遺跡は倭国大乱が起こると終了したそうだから
大乱で鉄器需要が激増した九州に集落丸ごと郷帰りしたんだとおもう
0427日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:31:56.45
>>311
>>313
なるほど
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:32:12.90
>>423
九州説が証拠出さずにウソをつく
という証拠
ありがとう
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:32:52.36
>>420
倭国と倭地は明確に区別して書かれている
倭地は狗奴国から南西諸島、これが「周旋可五千餘里」
0430日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:34:50.62
>>429
畿内説の敗北宣言出ちゃったねw
0431日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:51:35.45
>>430
狗奴国は熊本あたり、後の熊襲
畿内説はテンプレが全てではない

私は畿内説を支持するが独自の見解も持っている
・狗奴国の位置
・狗奴国は古代から何度も直接中国大陸に渡海していた
・「計其道里 當在会稽東治之東」とあるのは狗奴国と南西諸島のこと緯度から言えば種子島のあたりを指している
・一大率は魏の役人の役職名
などだが、これらはいずれも些細な論点

重要なのは卑弥呼の共立によって倭国大乱が治まったこと、箸墓古墳が卑弥呼の墓と大きさが一致すること この2点で既に畿内説で決着がついている
本来であれば、このスレの存在意義もすでに失われている
畿内説を支持してきた人々はそう感じてスレを離れた
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:56:13.95
>>431
寺澤薫は石塚古墳が卑弥呼の墓だとゆうとります。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:57:03.24
箸墓は台与の後、複立男王 並受中国爵命の墓
魏志倭人伝が一貫して採用してる短里だと径百歩は30m、なぜか卑弥呼の墓だけ突然長里で140mと書くわけないっしょw
箸墓なら張政が設計図を見せてもらってるはずで「長二百歩、半円半方」と書くはず。
でも突然卑弥呼の墓だけ長里w
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:58:26.35
掘ってもない箸墓を卑弥呼の墓とか考古学への挑戦やね
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 18:59:18.93
ウソの匂いしかしない纏向w
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:05:29.14
モモソヒメは欠史の皇女、実在性は疑われている
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:07:04.57
吉備特殊器台の箸墓に「殉葬百人」あるとは思えないからなw
卑弥呼の冢は未発見だろう、吉野ヶ里の北の脊振山地にあるかもなw
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:09:36.27
>>432
石塚古墳の築造期については論争が続いている
独自の見解を持っているのかもしれない
0440日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:12:14.03
畿内説はボロボロw

広瀬和雄:3世紀後期。
白石太一郎:3世紀中葉過ぎ「台与の墓」
寺沢薫:260〜280年
石野博信:3世紀第4四半紀(280年〜290年)

箸墓(有棺石槨)の被葬者の正解は、曹操鉄鏡の出土から卑弥呼や台代ではなく、台与から倭王権を譲られ、266年西晋に朝貢した吉備ヤマト王権=複立男王の墓。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:18:20.51
箸墓古墳は卑弥呼の死亡時期や魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記録と矛盾がない、動かし難い唯一の証拠
他にそのようなものはない
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:19:41.79
>>441
残念だがその主張は、畿内説の先生方の間でも過去のものになっているようだねw
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:21:27.32
>>442
具体的に指摘してください
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:22:53.38
>>440
>寺沢薫:260〜280年
>石野博信:3世紀第4四半紀(280年〜290年)

アララw
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:27:56.57
>>442
箸墓古墳の築造時期がその範囲でもまったく矛盾は生じない
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:28:35.58
つまり畿内説はウソ
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:29:33.08
>>445>>444へのレスでした
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:29:53.44
箸墓は大物主の妻の墓だよ

八咫鏡は倭大物主櫛御玉命
倭の大物主の櫛御玉
櫛と鏡は巫女の象徴で櫛をさし鏡を掲げた従軍する巫女の一群の埴輪もある
大物主の巫女が八咫鏡の名の意味かもな

霊は巫女を意味する漢字
卑弥呼に夫はいないし孝霊は台与を意識した漢風諡号かもな
孝の巫女、大物主の櫛御玉、同じなんじゃないの?

和風諡号大日本根子彦太瓊天皇 瓊は美しい玉の意味
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:31:38.13
>>444

畿内説はボロボロw

>広瀬和雄:3世紀後期。
>白石太一郎:3世紀中葉過ぎ「台与の墓」
>寺沢薫:260〜280年
>石野博信:3世紀第4四半紀(280年〜290年)

やっぱりな!w 漏れの感覚とほぼ合ってるわw
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:38:28.20
国作り神話も邪馬台国も狗奴国もヤマト政権に収斂していくのだ
切り口が違うだけだな
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:39:26.07
>>449
>白石太一郎:3世紀中葉過ぎ「台与の墓」
は特殊な説だが、その他の3つの説は箸墓古墳の築造時期の範囲として矛盾は生じない
重要なのは箸墓古墳の後円部の大きさが魏志倭人伝の卑弥呼の墓の大きさとほとんど同じこと 他にこのようなものはない
中国の役人によって確認され記録されていることの意味は大きい
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 19:55:56.10
低脳箸バカファンタジー全開w
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:05:09.36
箸墓の全長のサイズならまだしも後円部だけどか
さくらんぼ詰むにもほどがある
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:10:00.71
前方後円墳の大きさを表す場合、全長がほとんどだよね

後円部の直径を報告したなんて不自然すぎるだろ

箸墓は百余分じゃなくて百九十余分だよ
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:10:27.77
>>453
>卑彌呼以死 大作冢
冢は魏の役人にとって丸く土を盛った墓
前方部は供養の品物や祈りをささげる場所と解釈したものだろう
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:12:49.22
>>455
それまで前方後円墳という概念が無かった
卑弥呼の墓が最初の前方後円墳
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:14:34.40
>>456
>>455ではなく、>>454へのレスでした
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:15:50.13
香は穀物の象形と酒を表す流れる水の象形と穀物を口に挟む象形が合わさった漢字で酒の材料に適した黍などの甘いかおりの意味だな

酒と関係が深い漢字
酒は古来より薬である
スクナヒコナ、狭井の神は薬と酒の神さまだな

孝昭天皇、観松彦香殖稲天皇、スクナビコナ、狗奴国の卑弥弓呼、狭井の神は同じじゃないのか?

スクナビコナが去って大物主が姿を現すんだな
0459日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:17:35.31
近年、墳丘周辺部の調査が進むにつれて本来の形状が明らかになり、かつて一五〇メートル前後とされていた後円部の径は、現在では約一六五メートルを計測する。こうなると、径の大きさが近似するという根拠じたいは説得力をやや欠くといわざるをえない。

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:24:24.62
>>459
おう、それそれ

箸墓の後円部の直径を報告したとするなら径百余分じゃなくて径百十余分なんだよな
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:28:27.83
>>459
魏志倭人伝の記述は「徑百餘歩」
魏の1歩は1.4472m 径100歩なら144.72m
しかし、ここに「余」がある これは100歩よりも少し大きい意味 165メートルとしても矛盾は生じない
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:31:53.58
>>461
シロートが言っても無駄
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:31:59.25
大事なことは卑弥呼の墓よりも大きな墓は当時の倭国にはどこにもなかったということ
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:35:28.31
三輪山の神を祀る役割を与えられたのがオオタタネコの子孫の三輪氏である
オオタタネコがいた陶邑からは加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっている
陶邑の上には狭山池がある
狭山池は崇神或いは垂仁天皇の時代に作られたと言われている池だ
池の真ん中の底には龍神淵と呼ばれるすり鉢状の巨大な窪みがあり龍神が祀られていて、狭山池には龍が棲む伝承が残っている
このすり鉢状の窪みは埼玉の狭山の七曲井の井戸に瓜二つ
池の前に存在した井戸の跡だろう

河内には奈良から降りてきた龍が柏原の地に留まり大和川の治水を行いその後堺の方に去った伝承が残っている
弥生時代後期の橿原からは龍の絵画土器が見つかっており柏原からは弥生時代後期の大規模な集落跡が見つかっている

孝昭天皇の宮は掖上池心宮

掖は宮殿の小門を表す漢字、心は真ん中を意味する漢字だな
宮殿の小門の上にある池の真ん中にある宮という意味か
宮殿は龍宮のことだろう
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:36:37.14
>>463
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権の墓だよ
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:41:51.59
>>466
君の説にはそれを支持する文献がない
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:42:46.27
「徑百餘歩」は徇葬者の奴婢100余人が埋葬された範囲だよ。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:43:36.72
竜宮城に行った浦島太郎、丹後国風土記には浦島子は常世に行ったとある
記紀には三毛入野命は常世に行ったとある
和泉国風土記逸文には和泉国は三毛入野命の所領だったとある
和泉の地は常世で竜宮城の認識だったのかもな
池上曽根遺跡からも龍の絵画土器が見つかっているね
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:44:45.19
>>467
畿内が倭国だったとする資料が無い
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:45:23.72
>>463
倭人伝にそのような記載はない
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:48:54.83
>>467
倭国は倭人の居住地のうち、倭地(狗奴国と南西諸島)と倭種(四国)を除いた領域
当時倭人はどこにいたのかが問われる
それは考古学的な証拠から北部九州から東北南部の範囲
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:49:02.78
必死に否定する九州説
だが根拠は何もない



 
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:49:58.07
>>471
それは考古学的な客観的な事実
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 20:57:28.70
>>474
箸墓が卑弥呼の墓だとすれば成立するが、そもそも確証がない
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:22:56.46
>>475
魏志倭人伝の記述と後円部の大きさが確証となる
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:28:26.01
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権の墓。桜井茶臼山古墳が
箸墓、邪馬台国卑弥呼の墓と比べて圧倒的に立派だと言っているの
だろうか。発掘したら内容が豪華だったのだろうな。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:31:01.01
竜宮城は帯方郡のことだよ。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:34:36.47
>>477
箸墓に続く古墳は巨大化してゆくが
前方後円墳のスタイルが継承されてゆくことは興味深いこと
卑弥呼の存在の特異性が発揮されているのかもしれない
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:35:42.36
>>476
倭人伝の記述では東には行っていない
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:40:32.84
>>478
魏志倭人伝の記述が間違っていることも当然あるだろう
しかし、過去多くの研究者によって研究・検討されてきた
そのことと、中国が史記以来、史書に対する尊敬がある文化であることは重みがあると思う
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:46:04.05
>>476
それはおそらく写本作成時の錯誤によるもの
北部九州から船で南に行くこともできない
(川を使うという主張もあるが無理がある)
北・西は戻ることになるので除外、行く可能性があるのは東となる
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:47:13.65
>>483>>481についてのレスでした
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:50:14.25
>>483
遠賀川から田川までは水行で行ける、無理では無い
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:53:51.31
不弥国から遠賀川を水行陸行で邪馬台国の入り口の日田に至ります。伊都国から1500里の行程で倭人伝にピッタリ整合しますhttps://i.imgur.com/uvzM2By.jpeg
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:54:49.01
九州を南に行くと紀伊半島に着くんだよ
不思議だが事実なんだから仕方がない
紀伊半島に上陸して1か月歩いたところが邪馬台国なんだな
奈良ということだ
纏向遺跡より南に広がる南河内と和泉の地が狗奴国
ヤマト政権が理由は不明だが分裂していたということだな
下克上みたいなことが起きたのかもな
或いは神さまが人民に政治を委ねることで争いを終結させたという可能性も僅かだがある
鳥形、龍の絵画土器、勾玉、銅鐸が消え鏡の時代に

櫛と鏡は従軍する巫女の象徴
兵の時代になったんだろう
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:55:43.76
魏志倭人伝の記述からして山の中というのはないな

有明海を望む山門だよ

「倭人皆海に潜る」
0489日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 21:55:53.33
>>485
20日の行程は不自然であるし
到達点からさらに10日の水行の区間がある
0490日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 21:56:40.68
>>485
>遠賀川から田川までは水行で行ける

曳船するのか?   @阿波
0491日本@名無史さん
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2024/02/29(木) 21:58:33.92
むかぁし、むかぁしのこと、堺では、まだ人間は住んでなくて神様ばかりが住んでおられましたのやと。
その時代、堺は浜のえべっさんのあたりまで海であったそうですが、ある日のこと、この浜に葦の葉で編んだ舟に乗って目も鼻もまだ出来ていない、未熟児の神様がこの浜にたどり着かれたそうです。
そしてこの浜でどのような修行をなさったのか、誰も知りませんがこの地でえべっさんと言う立派な神様におなりになったそうです。神様になられるまでの年月はわかりませんが、それは長い年月だったと思います。長い長い年月の後、この地には神様だけではなく人間も、動物、魚、鳥と住むようになったそうです。
このようにして、堺は神様を中心にりっぱな村落が築かれたのだそうです。こうして出来た村落に流れる、石津川上流へ向かった所にもう一柱の天地を守るえべっさんが五色に光る石を持って御降臨なさったそうです。こうして、浜と陸の神様に守られた堺の地上には、木々が生え、草花が咲き、鳥は舞い、動物は駆けめぐり、海にはたくさんの魚が泳ぎ、それは素晴らしい楽園であったと言われております。 このようにすばらしい楽園をお造りになった神々はやがて天へと住まいを移されたそうです。
ところが、神々によって満たされた地上で万物が平和に暮らしているというのに、神様と同じ姿をした人間だけが、欲という感情を持つようになったそうです。この欲という感情は喜びや悲しみの感情を生みふくらませて、どんどんそうした感情の種類を増やして、戦いの感情や支配する感情など、色々な感情が広がっていったそうです。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 21:58:52.87
>>489
田川で投馬国に到着し、田川から今の添田町まで水行したのだよ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:01:09.49
>>490
下った船は使い捨てでは無い
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:01:53.57
こうした中で浜のえべっさんは、どんなときでもどんな願いも必ず聞いて下さるのだそうです。
村落の人達はそんな浜のえべっさんを慕いあがめて、お願いへと鳥居をくぐり、いつの時代においても変わらず手を合わせているそうです。また五色に光る陸のえべっさんの御陰で、いかなる転変地変が起きようとも、それが自然によって起きたものであれ、人間のごうがなしたことであれ、へだてなくこの地で生きる人々に再生の力を授けてくださるのだそうです。
それから、同じえべっさんでも、浜のえべっさんへお願いする時は、神社の後ろ側から拝むのだそうです。ここから拝むと、どのような願いでも叶えてもらえるそうです。浜のえべっさんは耳が遠いので、前から拝んでは聞こえないのだそうです。
さて、蛭子のえべっさんがたどり着いたと言われるこの浜は、石津川からちぬの海へ流れる河口にあり、ここに浜のえべっさんがあります。川を少し上ると陸のえべっさんがありここから少しのぼると温泉の採集地だそうです。
松原はもちろん奈良から長尾街道、竹ノ内街道を、列をなして『堺の塩湯』へ行く女性達の姿を今もまだ90歳前後の人からは活き活きと聞くことが出来ます。

この塩湯は浜と陸のえべっさんの間の距離にあり石津川の川を挟んで反対側にあるそうです。このあたりは『浜寺』と言って海水浴場もある遊園で大人子供も楽しめる賑やかな所だったそうです。また、えべっさんがたどり着かれた、ちぬの海のそばにある堺の塩湯について、採集地の温泉につかりながら次のように採集しました。
「堺の塩湯は今もあります。ここいらはどこでも井戸水は塩水です。昔は海やったと聞いています。塩湯は夏のあせもに効くと言うてあちらこちらから子供を連れて入った。入るとすぐ治った。塩湯は、おふろ屋さんだから今も昔も宿泊は出来ない」そうです
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:03:28.61
>>492
北部九州から30日をかけてそこに移動するというのは無理がある
0496日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:03:39.57
堺の塩湯には奈良時代や平安時代にも都から人々が湯浴みにやってきたと記録に残っている
長い歴史がある風習なんだな
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:06:47.95
>>493
だから、上流まで曳船をしていくのか?   @阿波
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:07:45.64
>>495
案内人の卜骨がチョイスしたルートだろうね、遠賀川は宗像族のテリトリーだから安心なルートでもある
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:10:28.52
>>497
仁徳の皇后も淀川を曳舟させているから不可能では無い。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:12:04.07
>>495
>30箇国が使者を通わせている
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能

全部行けば1ヶ月以上はかかるだろう
行かないと戸数・道里は
実際に行けたのは20ヶ国程度という事だろう

戸数・里数・日数は誇張している
戸数・里数10倍説もあるから、日数も10倍とすると、水行3日、陸行3日となる
でもこれでは20ヶ国は回れない
日数は2ヶ月のスケジュールを正直に記載したのではないだろうか
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:14:29.71
>>500
曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。   @阿波
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:15:20.59
大阪の地は旧石器時代から人々の営みの跡が残っており、当時は起伏に富んだ古大阪平野が広がり大部分は現在では沖積層の下であるが千里や泉北、羽曳野丘陵の上では現在でも確認できる
二上山は旧石器時代からのサヌカイトの採集地で、麓の藤井寺からは20000年前の日本最古の竪穴式住居が見つかっている
堺にも旧石器時代の定住跡がある
縄文時代前期には藤井寺の国府遺跡から5体の楔状耳飾りをした人骨が見つかっている
楔状耳飾りは勾玉の原型という説もある。身分の高い人が身につける装飾品だったらしい
浜寺の現役の墓地は縄文時代から脈々と使われてきたのが調査の結果わかっている
大阪の地は旧石器時代から常に栄えてきた場所なのである
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:17:28.03
>>502
海人族は船を使う
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:18:08.16
>>501
邪馬台国までで倭国は8か国、残りは21か国もある
これらの国々については詳らかではないとしている
つまり行っていない
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:19:09.33
>>504
>海人族は船を使う

海でな。   @阿波
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:19:36.25
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:20:26.46
>>504
>海人族は船を使う

海人族でも、曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。   @阿波
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:20:48.06
>>506
遠賀川は古遠賀湾だから宗像族は縄文時代から船を使っている
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:22:07.81
>>509
海でな。   @阿波
0512ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/02/29(木) 22:39:21.82
ネトウヨの九州説には笑えるよな
奴らは壺と日本会議だからな
江戸時代の平田学派や明治の日ユ同祖論を否定しない学説を選考して主張している
あのなネトウヨどもさぁそれ無理だから

安倍元総理の下痢糞はこんな低知能を支持基盤としていたらしいな
ジャップの民族主義なんてこんな底辺の戯言なんだぜ
純粋な日本人がいると信じているのだろうがジャップの正統は遼河文明人なんだぜ

ネトウヨは何を妄想しているんだよwwwwwwwwww
在日もその他もDNA的には何も変わらないんだぜ

縄文文明人だと?
笑える妄想だぜ。ジャップも韓民族も出自は同じなのだよ
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:41:46.26
熊野水軍の将は鈴木氏で穂積氏の系譜だな
和歌山の鈴木屋敷かわからないが和歌山の桃屋敷に関係する民話が隣の和泉の地に残っている
ある時、赤鬼が嫁取りに和泉の地にやってきた
目当ての娘は未だ幼く数年後にまた来ると言い残し一旦去ったという
和泉の地には赤鬼が苦手とする桃は生えていなかった
困った村人は和歌山の桃屋敷に頼み込み桃の木を分けてもらったという
数年後見事に桃が実り、再び嫁取りにやって来た赤鬼を桃で撃退したという
○海人とも仲良くやっていた
○桃が和泉の地に住み始めたのは赤鬼が日本列島にやってきた後というのが読み取れる
桃はミミだろうな
九州の投馬国にもミミがいたんだよな

昔話は別にしてサヌカイトの石器や大量の紀ノ川の石包丁、石器の祠、木製の男根、鳥形、龍の絵画土器、ヒスイの勾玉のあった池上曽根遺跡からは蛸壺も見つかっている
海と山の境にある集落でもあるからね

松江の西川津遺跡にも港があり鳥取の青谷上寺町遺跡にもある
どちらも池上曽根遺跡と同じ形の鳥形が見つかっている
西川津遺跡は樫の鳥形だな
和泉の地は楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた伝承が残る地だな

神さまが乗る船が鳥の磐樟船、日本書紀によればひるこが乗る船でもある
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:45:41.32
池上曽根遺跡の神殿の両脇には2本の柱が建てられていて1つは先が二股に分かれた木の柱である
先が二股に分かれた木は山の女神と木樵の間では言われているね
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 22:49:05.55
>>512
チョンコはチョン国に帰ってチョンの出生率を上げろや
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 23:04:24.47
>>512
13000年前に完新世が始まりだすと対馬海峡が広がって半島から列島に
渡ってこれなくなったからな

その間に両者の人種は分かれた




コリア人=中央蒙古人種(中央モンゴロイド、シニーデ)
日本人=日本人種



朝鮮人は異人種です
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/02/29(木) 23:46:31.23
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ここは台湾の田舎町。どこからか南方太鼓を叩く音が聞こえてくる。

見てみると叩いているのはそう、東南アジア顔した台湾人。

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

半裸で意味不明の南方語の掛け声を唱えては太鼓をしきりに叩いている。

叩く。叩く。しきりに叩く黒い手。

そして黒い顔に潰れた広い鼻。突き出した口元とゴツゴツとした輪郭。

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

一瞬、ニューギニアの奥地に居るような感覚に私は襲われたのである。



.
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 05:09:58.23
投馬国(於投馬)=出雲〜山陰一帯
邪馬台国=大和〜近畿一帯
斯馬国(志摩)・巳百支国(伊吹)・伊邪国(伊賀)・都支国(土岐)
弥奴国(美濃)・好古都国・不呼国
姐奴国(信濃)・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国
鬼国(甲斐)・為吾国・鬼奴国・邪馬国
躬臣国(高志・越)・巴利国・支惟国・烏奴国(魚沼)
奴国(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・鬼怒・毛野)=東海道〜北関東一帯
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 06:28:04.14
投馬国は玉

つまり岡山の事
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 06:31:47.99
>>511
>古遠賀湾は海だ

縄文時代の海進だな。 残念。 海人族でも、曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。   @阿波
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 06:35:06.84
纏向遺跡

大きな居館・・・・倭人伝に記述なし
箸墓・・・・・・・前方後円墳も倭人伝に記述なし

残念だね畿内説君 
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 06:48:57.94
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外
ですね
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 06:50:32.13
>>521
岡山は吉備じゃないの
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 06:52:07.28
隋書倭国伝
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
(都はヤマト、魏志でいうところの邪馬台国なり)
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 06:53:42.72
>>522

>曳船より、歩いたほうが遥かに早いぞ。 

可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

条件次第
客人を歩かせるか否や
路が有るや否や
遠賀川沿いに遺跡は散在しており河川航行はあっても不思議ではない
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 07:04:09.13
現代の状況で弥生期を比較できないが参考
   (内は大和川)
遠賀川 延長 61km (68 km)
平均流量 18.4 m³/s (13.51 m³/s)
流域面積 1,026 km² (1,070 km²)
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 07:19:10.06
宗像以東は倭種だな。
傍国の一部。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 07:27:46.41
>>526
文字記録もない蛮族の何百年も前のはなしをどうやって調べたのか
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 07:55:32.65
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

比定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   @阿波
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 07:56:45.56
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   @阿波
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 08:01:15.13
>>530
邪馬台国が九州なら隋にもそう伝わってたろうな
一大率の目の前だから
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 08:07:21.88
>>533
一大率と隋となんの関係が?
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 08:14:47.18
つまり畿内説は頭の悪い学者モドキが描いた妄想作文でしたと
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 08:19:58.78
魏志倭人伝に記載された時代と隋書倭国伝に記載された時代では、徳川家光の時代と現代に等しいレベルの時間的隔たり、すなわち大きな政治的・社会的変化があることをまずもって理解して議論すべき
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 08:38:19.39
>>408
畿内説のバカどもが、どうして瀬戸内海の高地性集落を倭国大乱の痕跡!なんて「二階から目薬」の頓珍漢なことを言うのか、やっと判ったぞ!w

あいつら、(後漢鏡を持ってなかったw)吉備の楯築弥生墳丘墓を帥升の墓ってことにしたいだけなんだよw

つまり、漢委奴国(博多)王→帥升(吉備楯築)→卑弥呼(箸墓) のストーリーの伏線を張ろうとしてるんだよw
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:07:19.91
>>519
戦乱の世が去って吉野ケ里にも平和が訪れたのは卑弥呼が即位したから
それが世の中のありようを変えた
長い戦乱の時代があって吉野ケ里は築かれていた
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:17:57.63
>>538
帥升の都、初代の倭国の都は
その時代の倭国の最大の都市遺跡である伊勢遺跡だと思っている
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:23:06.50
107年に生口160人を後漢の安帝に朝貢した帥升。
倭国大乱前の1〜2世紀における後漢鏡の出土状況から見て、伊都国であることは間違いない。
では、後漢代の面土(めんど)が、なぜ魏代には伊都(いと)と発音されるようになったのかはもはや永遠の謎だが、
あえて妄想を膨らませれば、後漢の役人の聞き間違え、もしくは倭国における呼称変更がとりあえず考えられる。
いずれにしても、面土(めんど)→伊都(いと)だけに、いと(とても)面倒くさい問題だねw
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:23:18.91
畿内はせいぜい東鯷人
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:33:02.30
>>536
千ウン百年後のお前らの議論よりよっぽど信頼出来るわ
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:38:15.60
委奴国イナコク(イのなこく)
委都国イツコク(イのみやこ)
伊都国イトコク
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:41:03.86
>>543
そしたら
倭王武のいう先祖、倭王賛のいう祖父が西に66国平定したのも信頼できるし
旧唐書に書かれた倭人が「日本はもと小国、倭の地を併合した」というのも信頼できるね
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:52:50.38
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   

よって、遠賀川遡上水行説は、崩壊しました。   @阿波
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 09:53:56.65
弥生後期に突如現れる巨大祭祀空間の遺跡
https://ise-iseki.yayoiken.jp/

>このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。
中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。
このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:03:17.62
>>547
「矢野遺跡 十数棟の掘立柱建物に注目」 令和5年 6月13日(火) 徳島新聞朝刊
矢野遺跡の一部に含まれる県立国府支援学校内の発掘調査では、
弥生時代中後期の竪穴住居跡や掘立柱建物を確認し、
矢野遺跡における弥生集落の形態を知る手掛かりを得た。
注目すべきは掘立柱建物十数棟だ。
桁の間が2~4間、梁の間が1間の建物が並ぶ。
最も精緻な建物の寸法は、桁の間1.5m等間、梁の間が3mあり、他の建物も近い。
1尺がおおむね25cmすれば、桁の間6尺、梁の間12尺の整数倍の数値が得られる。
また、祖霊祭祀に関わるとみられる建物があった。
掘立柱建物の中で唯一、建物の方位が異なる「独立棟持柱建物」だ。
竪穴住居や掘立柱建物が混在したエリアだが、土器が埋められていたため、
共同体の祭祀をする施設の役割を果たしたのだろう。
調査から弥生集落の様相の一端を垣間見ることができた。
(勝浦康守・県埋蔵文化財センター主席研究員)   @阿波
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:11:36.95
馬って「ば」と読むんじゃないのかな?三国志でも馬超(ばちょう)馬騰(ばとう)赤兎馬(せきとば)だし。
そうなると「ヤバイ(ヤバト)(ヤバタ)」と発音するような?
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:31:51.81
おーい
奥山
サボルな

ハッケヨイ

今日は病院か?
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:31:52.48
おーい
奥山
サボルな

ハッケヨイ

今日は病院か?
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:32:08.66
>>549
それらは現代日本語読み
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:34:42.54
つまりどう足掻いても畿内説は霊感商法詐欺にしかなりませんよと
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:44:27.04
>>331
脊振【山】地南麓の高【台】国で邪馬台国。
大和【山門(二上山)⛰⛩⛰】じゃない。
だいたい牛馬【駅伝制】もなく、鉄鏃🏹鉄剣🗡⚔もなく、文字使用痕(硯)も出ない2〜3世紀の大和が、どうやったら遠隔の北部九州を安定統治できるのか?
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:53:23.55
大国魏の公式使節団だから最新鋭の船でさらに大量の荷物を載せているはず、わざわざ伊都国に陸行しているのは伊都国は遠回りしても必ず船でいけない場所…つまり内陸部にある。
邪馬台国が近畿なら積み下ろしの手間を考えたら必ず敦賀辺りか大阪辺りまで船旅。壱岐島から500里で敦賀や大阪は無理。近畿は厳しいと思うのだが?
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 10:56:03.78
>>545
そう邪馬台国は元小国だったのだよ
卑弥呼の時代には可7万戸と広域。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:01:35.23
魏使が纏向まで行ったのなら、日数表記じゃなく里数表記になるはずw
0559日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:15:02.76
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   

よって、遠賀川遡上水行説は、崩壊しました。   @阿波
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:22:35.95
じゃあ、あれかい?
皇帝陛下から預かった金印や、親魏倭王に冊封する旨の詔書や、下賜する大量の宝物を、伊都国の倭人役人に渡して、仕事が終わったというのかい?
そんなわけあるかいw
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:23:30.92
みんな、勘違いしてると思う。
学者も勘違い。

邪馬台国からヤマトは派生していない。
倭国の倭からヤマトとなった。

つまり、ヤマト王権の前身は倭国。
倭国は魏志倭人伝記述の倭国とみて良い。
その倭国が連合体から単一国家となり東遷して創ったのがヤマト王権。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:28:49.82
キナイコシは算数できないな!
まだテンプレ直して無いな
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:30:14.40
正しいもの直す人いない
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:32:48.03
近畿説だと末盧(宗像辺り)で降り伊都まで歩いてまた不禰(中津辺り)まで歩き、又、船。実に無駄な動きだし、末盧に寄る意味がない。
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は九州だけど、女王の都は奈良ならあり得るような気もする。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:35:09.32
>>558
>魏使が纏向まで行ったのなら、日数表記じゃなく里数表記になるはずw

なぜ?
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:39:07.49
そうだね
畿内説をとると
九州を陸行したことが説明できない
だから普通の人はその時点で
畿内説を見限るんだよ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:44:05.45
>>566
説明できないって言い張る根拠は?
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:54:41.32
もしかしたら魏志倭人伝に記載されてない陸行の理由があるのかもしれないな。陸行の謎が解ければ近畿説も理解出来る。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:54:56.83
卑弥呼の遺跡が見つからないのは賊軍、まつろわぬ者だったからに他ならない
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 11:58:23.70
畿内は、沖ノ島→宗像→中津ルートが開拓された4世紀以降の
いわゆる、宗像三女神ころからだろうね。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:00:13.77
魏志倭人伝に列記されている倭国29か国は
ただ単に帯方郡に近い順番に並べられているだけ
誰かがその順番に旅をしたとか、通常の旅程の経路ということではない
倭国の地理が分からない魏の人々に向けて倭国内の国々の情報を列記しているだけ
0572日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:00:46.74
畿内説は、3世紀後半と4世紀前半をごちゃ混ぜチャンポンにしてるんじゃないの。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:02:51.79
つまり畿内説は3世紀〜5世紀の歴史をチェリーピッキングてし出来た妄想作文でしたと
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:03:19.83
>>569
卑弥呼の遺跡が見つからないのは、畿内や九州を探すからだよ。   @阿波
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:09:17.55
不禰国からの2回目の船旅が倭国の船なのか?あらかじめ準備してあった魏の船なのか?この辺りもかなり謎。なんとなく倭国の船なような気もするが魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし。末盧〜不禰までなぜ陸行したのか?理由くらい書いて欲しかったな。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:10:39.96
「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里(375q)」ですよ?
九州の南北の長さは門司港から鹿児島の佐多岬まで330q。
ほぼピッタリじゃないですか?
当時の中国側の認識は「女王国東渡海千里 複有国皆倭種(本州)」からも判るように、倭国(倭地)=九州なんですよ。
畿内なわけないでしょw

ちなみに、門司港から鹿児島佐多岬まで330q(四千五百里)というのは、GPS🛰で計った直線距離ですよ?
3世紀なら五千里(375q)は誤差の範囲でせう?
0582日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:14:07.67
九州 倭国大乱―卑弥呼―台与―266朝貢途絶
畿内 ――――――四道将軍――ヤマトタケル――三韓征伐――倭の五王

※倭王武の上表文(478年)
 自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。
 東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國

※倭王讃の上表文(425年/冊府元龜/卷0963)
 自昔祖父,躬擐甲胄,䟦渉山川,不遑寕處。
 東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國

※景行→(子)日本武尊→(子)仲哀→(子)応神
 応神の祖父にあたるのが日本武尊
0583日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:15:08.17
五千里というのは狗奴国沖の有明海から玄界灘までの距離だよ
そして本州山口に上陸して倭種を確認
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:18:53.63
>>580
その畿内説が創った図は、
「女王国東渡海千里 複有国皆倭種(本州)」は置いといて、続く「又有侏儒国(四国)在其南 去女王四千里」を忘れているw
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:19:30.53
>>580
女王以北以外隔絶されていないから☓

福岡平野、筑紫平野は山門の南と東が山地で隔絶されているも、
狗奴国は有明海渡りすぐ行ける
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:19:43.73
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0588日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:20:44.32
>>580
東側に謎のムー島があるな
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:20:54.08
>>580
全部陸行できるのでバツ!w
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:20:55.10
千里で北海道、その南のワダツミまで4千里を証明出来ないので☓
ワダツミは土佐
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:21:59.87
>>581
それだ!
0592日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:24:01.75
結論は出てるな
投馬国は半島南部
邪馬壱国は北部九州地域
狗奴国は南部九州地域
倭種は中国地方
侏儒国は四国地方
0593日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:24:55.44
>>566
実際は世間から見限られてるのは九州説なんだがね
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:26:28.81
日本国民の殆どが九州説支持なんだが
畿内説を信じてる人は少数派
0595日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:27:01.84
魏志倭人伝は(本場中国人に対して)里数表記と日数表記で、実際に行ったところと倭人官僚からの伝聞を区別して書き分けているんだねw
0596日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:27:59.17
>>581
よく読み解いたね
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:28:36.91
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:32:32.82
>>331
吉野ヶ里なんて、邪馬台国とか卑弥呼なんて言わなくても、人が大勢来るが、
纏向なんていくら叫んでも誰も来やしないw
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:32:38.91
>>595
里数表記してあるのは公孫氏時代の記録からの引用で
日数表記してあるのは正史元年(240年)に梯儁が倭を訪れた時の記録からの引用だね
0600日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:34:09.15
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:35:10.01
>>595
>魏志倭人伝は(本場中国人に対して)里数表記と日数表記で、実際に行ったところと倭人官僚からの伝聞を区別して書き分けているんだねw


夷人里数を知らずだから、そうすることで本場中国人が読めばすぐ判るようにしていたんだねw
0602日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:37:33.15
>>599
里程も日程も帯方郡から倭への同じ行程を記したものだったのですね
書いた人、書かれた時期が違うんですね
陳寿の編集によって続けて記載されてるんですね。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:39:18.72
>>594
>日本国民の殆どが九州説支持なんだが

九州説なんて説は存在してないだろ?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:40:41.46
そうそう、魏使や張政が曹叡死後の正始年間に纏向まで来ていたら、必ず(本場中国人に判るように)里数表記になってるはずw
ということは、つまり?w
0605日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:43:18.96
>>603
アンケート調査だと6割九州説3割畿内説だね。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:43:38.45
つまり大本営発表の畿内説は、こんなにマスコミが卑弥呼の墓って洗脳報道してるけど、ボロ負けしてるのに勝った勝ったと報道させた大本営と同じで、誰も信じてないってことw
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:47:16.98
>>556
>わざわざ伊都国に陸行しているのは伊都国は遠回りしても必ず船でいけない場所
>…つまり内陸部にある。

その通り、東南陸行500里到る伊都国は内陸部。
同様に、南至る邪馬台国(水行10日)陸行1月も内陸部。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 12:51:58.09
>>602
つまり、7000里に水行20日、440里に水行10日、600里に陸行1日(月)掛かるってことですね。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:03:26.25
>>607
邪馬台国内陸部説には賛同だがそうすると東に海の説明がつかないんだよな。
後、九州の内陸部で7万戸も収容出来る盆地も見当たらない。
卑弥呼は内陸部の山の中の別荘みたいな所にいて邪馬台国自体は違う所にあるのでは?とも最近思っている。それが九州なのか近畿なのか四国なのかはわからんが。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:18:04.20
卑弥呼は共立で九州
邪馬台国は、九州以外ですね。
邪馬台国には行っていません。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:22:38.41
>>609
女王国東渡海千余里・・これは卑弥呼共立の記事のあとに出てくるので、この女王国は倭30国のこと。
則ち倭国(九州島)の東という意味で、後世の太平御覧倭人伝では、倭国東渡海千余里と書き直されている。
邪馬台国は、不彌国・吉野ヶ里の南至るの、熊本平野〜阿蘇盆地の広範囲7万戸、女王之所都は、
その一角の高千穂町にあり、周囲を総延長25qの五ヶ瀬川渓谷で守られた天然の大要塞内にあったでOK。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:38:01.07
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:39:34.30
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
つまり弥生時代の鉄器共有地域=邪馬臺連合国ってことよ
【魏志より】
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:40:25.39
>>612
説得力あるし、私も近い考えなんですが熊本平野が邪馬台国の中心地なら水行10日だけの記載でいいような気がして…。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:42:39.67
仮に>>614の図の北部九州〜若狭湾沿岸を女王国とすると奈良、大阪は狗奴国となる
0617日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:51:27.67
東に海を渡ると倭種の国
この一文があるせいで畿内説は致命的

女王国の北は伊都国に一大率を置き諸国を検察させている
この一文があるせいで畿内説の地理的描写は壊滅的
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:51:28.50
弥生時代後期の佐賀は興味深い
七ヶ瀬遺跡からは弥生時代後期木棺とそこからヒスイの勾玉が出土
ピンポイントで畿内と共通した墓制が現れる
吉野ヶ里遺跡の日吉神社からは石棺墓
これは瀬戸内海沿岸部や遠賀川と共通する
卑弥呼より前の時代、伊勢遺跡の時代でもある弥生時代後期、佐賀に畿内や瀬戸内海出身の人が現れる
埋葬のされ方からも非常に身分の高い人物

弥生時代後期のごくわすがな期間、近畿辺りの勢力が佐賀の勢力と繋がり始めたがすぐにその時代は終わったようだ

畿内の勢力が九州各地の主要な勢力に婿入りでもしたのか?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:55:35.87
>>615
高千穂は邪馬台国の政治の中心地、熊本平野は軍事経済の中心地で、
主邑は山鹿市の方保田東原から菊池市の臺地区にかけてだった。
その山鹿・菊池は、唐津から佐賀平野の伊都国・不彌国(吉野ヶ里)を経て、陸行1300里(20日)くらい。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:56:17.11
魏志倭人伝には狗奴国が古代から何度も直接中国大陸に渡海していたことが書かれている
東シナ海に面していたということ
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:57:20.21
七ヶ瀬遺跡のある佐賀市、旧佐嘉郡の謂れが肥前国風土記にある

昔、この村には1株の樟が生えており、それは幹と枝がとても高く、たくさんの葉が生い茂っていた。朝日によって出来た木陰は杵島郡の蒲川の山を覆い、夕日によって出来た木陰は養父郡の草横の山を覆った。

日本武尊が巡幸した時、この生い茂る樟を見て「この国は栄国(さかのくに)と言うべきだ」と言ったので、これによって栄郡と呼ぶようになり、これが後に佐嘉郡と改められた。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:59:08.42
記紀の命名エピソードはなんなんだろうな
そのタイミングで支配下に組み込んだという隠喩なのだろうか
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 13:59:31.44
記紀じゃなくて風土記か
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:05:09.73
>>609
>邪馬台国内陸部説には賛同だが

古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:06:33.17
>>612
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:07:58.92
>>619
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波
0627日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:08:28.61
女王国の傍国が奴国
魏の使者の行程で奴国より手前の国々は女王国ではないんだな
佐賀辺りは弥生時代後期畿内の勢力と良好な関係だったんじゃないのかな?
卑弥呼より前の時代の畿内は銅鐸とヒスイの勾玉、鳥形と龍の絵画土器の地域
弥生時代末期以降はそれらの特徴は見られなくなる 
佐賀も畿内の旧勢力側だったんじゃないのか?
0628日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:09:24.98
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:10:19.40
>>527
>可能性の問題ですな。そう否定しなさんな阿波さん

否定などしていない。 曳船より、歩いたほうが遥かに早いと言っているだけ。   

よって、遠賀川遡上水行説は、崩壊しました。   @阿波
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:18:59.51
なんか邪馬台国は複数あったんじゃないか?!と思えてきた。九州の邪馬台国が本国で四国や近畿に植民地的な感じで邪馬台国分国があって、600年ころ植民地だった近畿の邪馬台国分国が本国に勝って逆転。今までのウップンを晴らすかのように九州の邪馬台国を徹底的に壊滅的破壊した。近畿の邪馬台国は元は植民地だったのは恥ずかしい事だったから改ざんして邪馬台国がわからないようにした。
全く根拠はないけど。
こんな事を言ってる学者いる?
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:21:33.14
阿蘇と阿波では月とスッポン。阿波よ、口惜しいだろう

阿蘇・高千穂の女王・卑弥呼の所都には、天然の超戦略的有利性が備わっていました。
北の祖母山を守護神とし、東・西・南は、五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
総延長25qもの渓谷断崖で守られていました。
なんと、奈良の三輪山を含む桜井市と、ほぼ同面積の天然の大要塞だったのです。

依って、縄文〜弥生の昔から、幾多の王国が興亡を繰り返してきました。
紀元前には、天照大神と日向三代の高天原王朝があり、更に神武後孫の高千穂王朝も続きました。
紀元後には、土蜘蛛女王の卑弥呼が馬台を鎮め、国を建て、宮殿城柵を厳設しました。
そしてその後は、宇佐神宮大神氏が建てた大神王朝から、三田井王朝へと続きました
ここは高天原以来の、万年の理想郷なのです。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:41:35.77
>>630
いないね
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 14:58:04.80
>>634
日中の学者が皆「それはない」と口を揃えてる畿内説馬鹿の妄言を未だに繰り返してる情弱爺さん乙w
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 15:00:40.67
邪馬台国が近畿や阿波なら狗奴国との戦いの仲裁や援軍をわざわざ遠くの中国の魏に頼むのはどうなんだろう?
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 15:11:49.16
邪馬台国?
卑弥呼だよ。共立されたのは卑弥呼。
邪馬台国ではない。女王国が魏を頼る。
卑弥呼が九州だな。邪馬台国は九州以外の遠方地
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 15:15:33.12
>>616
鉄鏃、骨鏃等の武器出土がほとんどない。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 15:54:57.18
>>576
>魏の使節団が信頼性が確認できない倭国の船に乗るのも納得出来ないし

信頼性は確認できているよ。 なんせ、倭人(阿波勢力)は日常的に大陸・半島へ行き来しているんだから。   @阿波
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 15:55:36.62
>>631
古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興る。
海の恵みを一切得られない九州の山奥に、夢を見続ける救いようのないアホ。   @阿波
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 16:39:09.46
>>634
残念だがその地図は朝鮮人の合成図だw
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 16:46:49.84
スッポン阿波が未練たらたら、、
古今東西、アレがドンブラコと流れきてたまる大河のほとりに起こったのは、しもじもの大衆文明。
高貴なお方の王朝は、大河の川上の清浄な環境に興ったのだよ。
伊都国は佐嘉川の川上、女王の都は五ヶ瀬川の源流。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 16:47:12.67
>>634
畿内説のソースは月刊ムー
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 17:07:23.29
>>644
昔からここのFAQ71に乗ってるけど、九州説は目を背けて逃げてるよ

「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 17:26:21.92
https://youtu.be/OUYMYZ5PNEQ?si=2rpjSdQKCQ3zUb1k

卑弥呼の時代(紀元後200年前後)の日琉語の分布をイメージするとヒントが得られるかも
特に半島日琉語の状況や列島日琉語の東方への広がり
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 17:28:32.69
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 17:37:19.28
畿内説は詐欺。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 17:45:19.38
どれもこれも東側にスペースがない地図ばっかじゃん
東南大海の中にあったとされた国の情報を無理矢理詰め込んで上から順に描いたら
メジャーなのが上、マイナーなのが下になっただけでは
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 17:49:25.42
弥生時代だと、半島北部は楽浪郡帯方郡に圧迫されてるものの、半島の主流な言語は日琉語。
日本列島は九州南部をのぞき岐阜県ぐらいまでは日琉語。東海地方はアイヌ語。
韓ワイ倭の日琉語人世界では狗邪韓国から対馬海峡を挟んで伊都国がその中心だったと言えるね。当時の纏向はまだ辺境で、鎌倉時代の関東ぐらいの感じかな。異民族への前線。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 18:05:03.05
>>653
赤枠が日本だよアホ
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 18:07:29.73
海の中に硫黄山ってのがあるな
硫黄島か火山島か
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 18:08:10.25
地図でもチェリーピッキングする畿内説
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 18:24:18.22
地図がちょいバズしてたな
継体天皇が北陸の都の邪馬台国から南下するまで
非効率稲作だったんだろ

急に大陸文化も鉄も技術も入るし

河内狗奴国の頭だけ取って
歴史捏造文書見せてお前らのカシラの
親戚だから支配する権利ありますよーって居座った
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:14:32.14
唐代以降でも倭の概念が
曖昧と言うことは、地図でも解る。

陳寿倭人伝は魏代で白眉の記録だが
以降で初出は600年の三月行五月行
である。 逆行だろwww

日本は満州で清王朝を保護国にした。
台湾の亡命政権を守った。

高句麗と戦い、牛馬の富国強兵を実現
古代韓の百済新羅を成立させた。

ヤマト女王が、狗奴国と戦争で
三国志で公孫氏や韓王にてこずってる
魏に朝貢で帯方郡使に魏郡の旗貰って
王権維持したって、歴史が有り得るのか?

とこの、任那日本府の女酋長だよ?
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:35:28.91
>>658
3世紀も15世紀も江戸時代も、さして測量技術の進歩はないんじゃないかな。 光学機器が発明されるまでは。 
手漕ぎ船から帆船に替わったような技術革新は、測量技術においては、なかったのでは?   @阿波 
0661日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:35:48.85
京都と地方を結ぶ水の道
−古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として−
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen-h15az-mizuforum3th.html

今日初めて知って驚いたこと
>琵琶湖の水運について
>2.荘園年貢輸送と琵琶湖水運
>当時の車は,牛や人が引いたものが多く,日本に馬車が導入されるのは都が東京にうつる19世紀半ば過ぎの明治時代になってからでありました。

それと、この文章を書いた皇太子の時の天皇陛下の博識
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:44:32.79
邪馬台国論争は、
日本人の歴史認識の異常
から始まってるだろ?

戦後の考古学は普通に
東夷伝の歴史を証明してるのだが?

まあ、文献依存の九州説でも
卑弥呼が九州の女酋長は正しい。

畿内説は平原に
原爆落とすべきだったなwww

アタシャ変なネトウヨになったか?
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:44:41.59
>>661
つまり、海や湖の恵みを一切得られない奈良盆地に、古代王都など興り得ないことを皇太子の時の天皇陛下が説明してくれている。   @阿波
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:48:54.21
>>661
つまり、海や湖の恵みを一切得られない九州の山奥に、古代王都など興り得ないことを皇太子の時の天皇陛下が説明してくれている。   @阿波
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:52:19.42
>>663
皇太子殿下のご講演では、
>京都が都になる以前には,都は京都の南にあります奈良にありました
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:55:04.75
>>665
倭国(阿波)からの遷都な。   @阿波
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:57:54.76
アメリカ下の現行法律で今の法律が決まっているだけで、
日本は天皇家が統一したのですから、
昔から天皇のための国民なんです。
ここが現代人はさっぱり理解できていない。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 19:59:40.66
一人一説雑多九州説の始まりは九州文学小説
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 20:06:56.99
西部劇とか中国の歴史ドラマを見ているからなのか日本にも馬車が昔からあったように思っていました
wikipediaにも記事があります
>日本と馬車
>古代中国で馬車より騎馬への転換が完了した時期に日本へウマが伝来したために騎馬の文化は普及したが、馬車の文化は普及しなかった。一方、ウシを用いた牛車は近世期でも使われていたものの、ウマの引く乗用車は明治時代まで存在しなかった。

ただ、人を乗せる馬車ではなく木材を運ぶ荷車のようなものはあったのかもしれません
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 20:11:58.23
>>667
君の理解が足りない
明治の国家神道はその時に作り上げられたもの
古来の我が国の伝統とは関係がない
0671日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 20:29:35.89
駄賃馬稼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%84%E8%B3%83%E9%A6%AC%E7%A8%BC
>駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)とは、近代以前の日本において馬の背中に貨物や人を乗せて輸送に従事する職業のこと。この職業に従事する人を馬借(ばしゃく)あるいは馬子(まご)、使用された馬を駄馬(だば)あるいは稼馬(かせぎうま)・荷馬(にうま)、輸送料金を駄賃(だちん)と称した。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 20:31:40.09
>>645=>>1
FAQ71どうしようもないね
無い知恵だしたはいいが
まず、畿内説の学者でこんなんで解説したやつ見たことない。
畿内説間でよくもんでから出したら。
奥山の努力は買うけどさ、推古紀と同じ。
奥山のアタオカ
0673日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 20:34:13.64
>>668
毎日、毎日「私は馬鹿です」という自己紹介するなよ
0674日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 20:44:47.88
邪馬台の卑弥呼は耶麻等の比弥王、日女尊のこと
アマテラスヒルメとオキナガタラシヒメ最強
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 22:20:00.50
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 22:31:09.96
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 22:43:08.66
>>672
>FAQ71どうしようもないね

反論ひとつできない負け組九州説は悪口いうだけ
みじめだねえ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 22:44:16.07
郡から水行20日で半島南部の投馬国に着く。
水行10日で伊都国に着く(末盧国から伊都国も正規のルートは水行であることは本文を読めば明らか)。
伊都国から陸行30日で邪馬台国に着く。

・水行は1日350里進む。
・陸行は1日50里進む。
・投馬国はかっての狗邪韓国など半島南部の数ヵ国を含む広域の国。
・邪馬台国は伊都国や奴国や女王国など九州北中部の数ヵ国を含む広域の国。

つまり日数記事は里数記事を日数に換算したもの。
郡から女王国まで里数12000里は日数にすると60日かかると説明したものにすぎない。
日数記事作成者は一里=434メートルで考えている。
里数12000里は政治的な誇大な数字のため日数記事も現実に即しないものとなっている。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/01(金) 22:46:23.61
ツイッターで邪馬台国関連を語るやつ多いけど、久住にフォローされてないやつは雑魚
読む価値なし
もちろんおれはフォローされてる
0681日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 00:20:51.11
>>680
曹操の鉄鏡と同レベルのお宝と判明したのは何十年も後になってからだから
当時、そのような知見がない時代に由来を誤魔化す意味がないけども……
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 00:25:22.50
>>677
毎日、毎日「私は馬鹿です」という自己紹介するなよ
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 00:49:05.84
トナカイかw
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:32:24.96
帯方郡から南に行くとフィリピンに到る。船でおよそ30日。
孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったりしてるので数多異国と呼ばれた。これがなまって邪馬台国となった。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:34:36.52
>>681

梅原に鉄鏡を売った古物商か、この鏡を古物商に売った人物が
由来を誤魔化している可能性大ということだろ
梅原は古物商から買った現代の幼稚な贋作を古代のガラス製品と信じ込ん人だから
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:35:43.73
>>681
梅原末治は鉄鏡だけでなく銅鏡の由来も間違った情報流しまくりだしガラス製品でもやらかしてるぞ
由来を誤魔化す理由ならいくらでもある

曹操の鏡と同型だと判明する遥か前の1998年から梅原末治は批判されている
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/indy.htm
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:36:12.00
同じシチュエーションで畿内由来だったら鬼の首とったように騒いだと思うわ
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:37:02.83
またダンワラ詐欺師が喚いてんのw
0689日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:37:25.74
ダンワラバカ「梅原末治を信じろ!」




wwwww
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:39:47.97
金印も曹操の鉄鏡も畿内から出なくて残念だねえ
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:40:31.45
>>690
壊れちゃったw
0692日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:40:48.69
ダンワラバカ、精神崩壊w
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:42:23.29
九州説でも高島忠平とか安本美典とか実証主義な人はダンワラ鉄鏡に否定的だよ
キチガイが執着してるだけで、まともな人は取り合ってない
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:43:58.00
日田なんて何も無いが
吉野ヶ里や平塚川添にはデカい環濠集落があるからな。まっとうな九州論者はそれを使う

キチガイは日田の鉄鏡を持ち出す
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:49:17.54
プロ画を日田の鉄鏡にしてる某がブチギレw
見に行ったら底辺みたいなツイートしかしてなくてワロタw恥ずかしいねぇw
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:53:19.12
>>695
底辺で悪かったな。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:56:28.26
邪馬台国は博多
対馬800里
壱岐600里

忘れるな
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 01:58:20.81
博多は2万戸の奴国の中心地
後漢書の倭国の一番南の倭奴国
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:01:54.65
朝鮮投馬国も島巡りもトンデモです
0700日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:03:27.64
平塚川添の環濠は小さいよ
行ったことあるのかな
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:05:06.88
日田よりはデカい
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:08:15.92
あくまでも日田は邪馬台国の入り口だよ。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:10:14.33
投馬国の国境を越えるとそこは日田。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:26:16.44
私も甘木あたり邪馬台国はあったと踏んでる。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:29:59.31
甘木あたりと九州最大の外港都市博多は何の関係も無い
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:45:05.24
3世紀は首狩り甕棺墓はすでにど没落している
0708日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:57:30.31
>>707
甕棺墓が使われなくなったからと言って人種が入れ替わったわけではあるまいに
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 02:58:14.91
>>707
そして畿内式前方後円墳が博多湾岸に現れる
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 03:22:18.67
まだ定型前の模索タイプの前方後円墳
0711日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 03:26:22.32
>>708

北部九州の人種ではなくて、
弥生中期に盛行する屈葬の首狩り甕棺墓は一部の集団で、
優勢な集団が伸展葬の木棺墓、石棺墓集団にに替わるということなんだな
甕棺墓は朝鮮半島西南部の全羅南道では6世紀くらいまで存続する
朝鮮半島南部〜西北九州やベトナム中部のサーフィン文化で盛行する甕棺墓は
東アジアで最も古い甕棺墓はカリマンタン島とされている
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:06:58.03
久住猛雄氏(福岡市埋蔵文化財課)によると、那珂八幡古墳の造営時期は彼自身の久住編年IB期、215-250年だそうです(『二万余戸の実像 奴国』伊都国歴史博物館 2021年)。

https://i.imgur.com/WzpQJmn.jpeg
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:15:46.33
>>712
お墓しか語るものが無い時点で、脱落。   @阿波
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:40:32.87
九州説て投馬国が比定できないよね 
女王国より北で船で行く5万戸の大都市
0715日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:41:43.43
末盧国→伊都国 500里
   伊都国→→→邪馬台国 1500里
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:44:04.03
投馬国は日向豊国。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:47:57.27
九州説もう死んでるから
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:50:17.56
>>715
伊都国からの邪馬台国の里数
記述はない。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:52:17.59
>>718
1万2000里から1万500里を引けばいいだけ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:53:21.88
>>717
畿内説は詐欺だとバレてるよ
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:56:15.45
>>719
1万500里の記述もない
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 07:57:57.94
不弥国には岡県に岡田宮があり
投馬国には宇佐がある。
これ神武の東征ルートなり
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 08:02:38.90
>>714
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏

筑紫平野の北部
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 08:11:33.23
筑紫君磐井は卑弥呼など北九州の権力を持った王族の流れだろう
0726日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 08:12:42.96
7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという九州説
古代に九州発達しすぎだろ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 08:15:19.14
>>726
>7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという九州説

そんな大国が興り得るのは、温暖黒潮太平洋沿岸地域のみ。   @阿波
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 08:18:02.93
筑後 投馬国
熊本 邪馬台国
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 08:21:08.76
・1国の戸数ではなく、ここまでの推計説(筑紫平野は福岡平野より広大、少なくともこの時代は畿内より北九州の方が人口が多かった)

・戸数、里数、日数は10倍説(但し、日数は20ヶ国以上訪問したら、それ位かかるという話も)


>南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌、副官は彌彌那利である。推計5万戸余。

>南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?があり、推計7万余戸。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 08:21:10.67
>>729
肥後に注目
0732日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:21:28.52
>>726
7万戸の大都市があって、北に5万戸の大都市があって、南にそれに対抗する狗奴国があるという奈良の場所はどこだい?
0733日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:22:46.90
魏志倭人伝の行程記事を読む

帯方郡から倭に至るには海岸沿いに南に東にと七千里進んで倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は金海市・釜山市あたりにあった倭人のクニと考えられる(倭人のクニでなければ魏志倭人伝で国名を取り上げる理由がない)

ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美?筑前国穂波郡?筑前国儺県の一部または周辺?)
と進んだ

さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)

邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)

さらに倭の地を巡り歩くこと五千里とある
これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう
帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する
(一万二千里-七千里=五千里)
(続く)
0734日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:23:24.37
(続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符合する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ

地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡があり、これが投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いであろう菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる

なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
倭人が安全保障上の理由で距離や戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することは賢明ではないだろう
実際、これらを大真面目に議論して合理的結論に至った人を私は未だかつて一人も見たことがない
0735日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:25:00.19
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する
0736日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:30:33.25
>>733
「倭国に阿蘇山あり」
倭国は九州全体を指す
女王国が福岡平野&筑紫平野

>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない。

「遠く絶たっていて」というのは、山で隔絶されているからだろう

北九州、大分、熊本は隔絶されている
筑紫平野の南端に山門の女王山がある

但し、狗奴国(熊本、菊池彦)は有明海を少し南に行けば行ける

帰路は有明海から玄界灘迄「周囲を巡れば5000余里ほどである。」がちょうど当て嵌まる

その時に見たのが、「女王国から東へ海を渡って1000余里行くと、また別の国が有り」

本州だろう

「さらに侏儒国がその南にあり、人の背丈は三、四尺で、女王国から4000余里のところである。」

土佐の小童伝説だろう
山門より4000余里も当て嵌まる
0737日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:35:08.92
魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記の小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する

では「女王国」は小国の邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する

(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道理をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である

(考察)
1については、小国の伊都国が属しているのが女王国ということなので、必然的にこの女王国は「倭国」の意味となる
2については、女王国より北の倭国内の小国については戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいると書かれているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは判別できない

以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためと考えられる(魏志倭人伝は様々な出典からのツギハギ)
0738日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:35:19.55
>>736
そのコースだと倭種国は見えないよ
大分まで出ないと本州四国は見えない
0741日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:38:55.41
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)

考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている

例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)
0742日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:39:34.29
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
0743日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:40:03.25
>>740
帰路のどこから?
0744日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:48:53.24
九州に大きな権力はなかった
そういうことだ
0747日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:53:09.90
北九州市は陸では行けない

有明海から倭国を周回しようとすると、本州が見えた

菊池川(菊池彦)下流の有明海から本州が見えるところまで5000里はぴったりと合う
0748日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:53:42.28
阿波説だと狗奴国はどこになるん?
0749日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:54:22.91
>>732
投馬国(於投馬)=出雲〜中国地方一帯

邪馬台国=大和〜近畿一帯
斯馬国(志摩)・巳百支国(伊吹)・伊邪国(伊賀・伊勢)・都支国(土岐)
弥奴国(美濃)・好古都国・不呼国
姐奴国(信濃)・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国
鬼国(甲斐)・為吾国・鬼奴国・邪馬国
躬臣国(高志・越)・巴利国・支惟国・烏奴国(魚沼)
奴国(伊那)

狗奴国(久努・久野・久能・鬼怒・毛野)=東海道〜北関東一帯

古代大陸人の日本地理観
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/KangnidoMap.jpg
https://blog-imgs-127-origin.fc2.com/k/a/t/katana04/201906010158249d9.jpg

隋書倭国伝
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
(都はヤマト、魏志でいうところの邪馬台国なり)
0750日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:54:52.11
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ(例えば文献を度外視して前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は必ず魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ

まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く)
0751日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:55:18.44
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ

「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ
0752日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:57:25.35
妄想乙





 
0753日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:58:32.31
>>745
帰路で関門海峡に行く必要はないだろ
0754日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 08:59:47.69
>>749
また朝鮮人の合成図を出すアホ
0755日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:01:08.41
畿内説がまた詐欺してる
0756日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:03:05.23
>>752
君の脳の「バカの壁」が客観的事実や合理的解釈を受け入れられないのだろう
可哀想に
0757日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:05:48.94
崇神天皇の母親は饒速日を祖とする物部氏なんだよな
0758日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:06:34.03
つまり畿内説がいうには、
倭人伝のあらかたは信用できないが、
1万2千里の大和に邪馬台国が有ったという、天の声だけは信じる天里教。
0759日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:19:15.26
>>749
朝鮮投馬国レベルの話になってきたな
0761日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:27:40.77
>>748
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。
「狗奴国(長国)」は、「辰砂鉱山」と「温暖で豊かな海」に恵まれた県南部の阿南市周辺弥生後期集落遺跡群。   @阿波   
0762日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:31:15.94
太陽の出る方角だから南と東を間違えるわけない
但し、数字に関しては、里、戸、日ともにアバウトである
その証拠に、1000余里渡ると対馬国 1000余里渡ると一大国 1000余里渡ると末廬国
これらの距離は実際は違う
特に、末廬国までは半分ぐらいである
0763日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:33:40.09
>>760
関門海峡に行く必要が無いし、関門海峡付近はなんと言う国なんだい?
0764日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:45:04.04
>>762
日の出の時に太陽が真東から出ても、方角はすぐさま南へ傾く。
顔を洗った頃には東南東、9時には東南、12時には南だ。方角を定める役には立たぬ。

壱岐から末盧国は1000里の半分といっても、それは呼子とみるからだ。
唐津湾内の松浦川をさかのぼった、久里双水古墳辺りの淡水の港(津)が停泊港、
四捨五入すれば1000里、伝は正確に書いている。。
0767日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:48:26.20
対馬から南に行くと一支があると書かれた以上どうしようもない
対馬の南に一支がくるところまで地図を傾けるしかない
0768日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:49:28.43
>>765
周回したと言うのなら行ったと言う事だろう
0769日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:52:58.78
>>766
唐津から宇美までが方角も里もハチャメチャ、
唐津からは東南、つまり佐賀平野だ。
0770日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:55:09.70
おい阿波よ、忌部は天皇家と近しいと言うが、今上天皇の先祖には忌部の誰が居るのか教えろ、出来たら継体天皇以降の人物でな。
0771日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 09:58:23.67
>>766
戦前の佐賀は旧制高等学校だった。だが博多は九州帝国大学だった。、
だから倭人伝論争も、佐賀を軽蔑して、博多尊重の今に至っているのだ。オメもそのクチ、
0773日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:09:00.40
>>770
>忌部は天皇家と近しいと言うが

忌部とは限らない。
讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。
実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。   @阿波
0774日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:12:35.10
>>773
今上天皇の直系の先祖は誰かと聞いている
0775日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:14:50.81
>>774
分かるか、アホ! 興味もない。   @阿波
0777ネトウヨボクメツ隊!
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2024/03/02(土) 10:15:54.20
百田とか竹田宮とか渡邉とかは九州説なんだよな
あれ?あれれ?
ネトウヨはなんでみんな九州説なの?
0778日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:18:15.38
>>774
●が天皇でない皇族で、現在の皇室に血筋がつながる人物です。
○数字は北朝の天皇です。

1神武天皇……(全て直系)……12景行天皇―●倭建命―14仲哀天皇―15応神天皇
―●稚淳毛二派皇子―●意富富杵王―●乎非王―●彦主人王―26継体天皇―29欽明天皇
―30敏達天皇―●押坂彦人皇子―34舒明天皇―38天智天皇―●施基皇子―49光仁天皇
―50桓武天皇―52嵯峨天皇―54仁明天皇―58光孝天皇―59宇多天皇―60醍醐天皇
―62村上天皇―64円融天皇―66一条天皇―69後朱雀天皇―71後三条天皇―72白河天皇
―73堀河天皇―74鳥羽天皇―77後白河天皇―80高倉天皇―82後鳥羽天皇―83土御門天皇
―88後嵯峨天皇―89後深草天皇―92伏見天皇―93後伏見天皇―@光厳天皇―B崇光天皇
―●伏見宮栄仁親王―●伏見宮貞成親王―102後花園天皇―103後土御門天皇
―104後柏原天皇―105後奈良天皇―106正親町天皇―●誠仁親王(陽光院)
―107後陽成天皇―108後水尾天皇―112霊元天皇―113東山天皇―●閑院宮直仁親王
―●閑院宮典仁親王(慶光天皇)―119光格天皇―120仁孝天皇―121孝明天皇
―122明治天皇―123大正天皇―124昭和天皇―125今上(現在の天皇陛下)
0780日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:20:05.75
>>770
>忌部は天皇家と近しいと言うが

忌部とは限らない。
讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。

実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。   @阿波
0781日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:22:16.81
>>778
その中に忌部氏に繋がる人はいますか?
0782日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:24:31.52
阿波は解答不能だったか
0783日本@名無史さん
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2024/03/02(土) 10:25:52.68
>>781
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、
残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。
物部氏の衰退後から、忌部氏が歴史に登場し始める。   @阿波
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 10:26:38.74
>>779
魏は畿内の事を全く知らないね。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 10:28:44.21
>>762
海峡の幅は歩測や紐で実測出来ないから一律に1000里としてるな。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 10:30:18.39
>>759
そこまで高いレベルの話ではないな。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 10:39:12.52
阿波の忌部は偽皇室だったのか
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 10:52:56.94
>>790
阿波説だと7世紀まで阿波が王都だと言い張っているよ
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 10:55:01.02
>>724
方300里、400里がない。
倭人伝記述、無視している。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 10:56:18.19
>>779
山口県まで行った記述はない
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:01:58.92
邪馬台国まで万二千餘里の記述はない。
女王国までが万二千餘里。
奴国の南に狗奴国。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:02:53.87
朝鮮投馬国がいます
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:08:50.37
>>795
邪馬壱国の南が狗奴国
奴国と狗奴国の間には傍国がある
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:11:34.82
>>796
ひとりごと?
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:11:35.72
>>729
北半分が邪馬壱国7万戸(約35万人)で南半分が狗奴国だな。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:14:39.80
孝謙天皇は藤原不比等の孫(聖武天皇)と子供(光明子)の子供だから凄いと思うわ
0801日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:17:26.19
>>797
平行線だな。ボツ
奴国の南に狗奴国。
其餘旁國遠絶 不可得詳
方角の記述はない
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:21:52.12
>>801
壱岐から海渡、東千里、倭種は
福津、宗像方面(傍国の一部)
奴国の南に狗奴国だよな。
投馬国、邪馬台国、傍国の一部は半島、九州以外ですね。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:34:19.80
畿内説は三世紀初めには九州から近畿まで西日本をおおうように倭国があったとし、その政治的中心は纒向であったとする。
しかし、倭の五王は彼らの時代になってから衆夷=九州を制したという。
つまり、畿内説がいう西日本をおおった倭国など卑弥呼の時代にあるわきゃーないのである。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 11:45:34.33
>>802
奴国の南に狗奴国のみ一致だ。
伊都国から邪馬台国の千五里はボツ
投馬国は半島以外
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 12:04:54.32
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 12:33:52.46
>>799
奈良時代は魏志倭人伝の時代の五百年後ですけど
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 14:37:14.76
ヤマト王権って白村江の戦いにドー関わっていたと言うんだ?

ヤマトは「ウチは倭国ではなく『日本国』ですから」って立場でその後も遣唐使を再開させてるじゃないか。
「白村江の戦いは別の王朝(倭国)がやったこと」で「吾、関せず(全く関係ない)」じゃないか!

白村江の戦いで大敗したのは別に「九州王朝が、、、」と言うつもりはないけどヤマトとは違う倭国の勢力圏が有ったんだろう。
つまりソレこそが邪馬台国の流れを組む倭国の本流だ。
敗戦後、壊滅した「倭国(邪馬台国)」」に代わって「日本国」を名乗るヤマト王権が全国を支配するに至った、、、
勢いに乗る中国の日本への更なる侵攻を恐れた出雲や吉備などの各勢力はヤマトに追従した。
「我々は倭人ではなく日本人ですから」と赤の他人のふりw
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 14:47:43.91
>>810
>遣唐使を再開させてる

そりゃ、倭国(阿波)からの避難疎開遷都が完了したからさ。   @阿波
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 14:49:11.11
白村江の戦いの前に建てたのが朝倉橘広庭宮
0813日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 14:50:32.41
>>812
>朝倉橘広庭宮

橘といえば、温暖「阿波」   @阿波
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 14:51:56.33
>>812
>朝倉橘広庭宮

広い庭に「橘」がいっぱいあったんだろう。   @阿波
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 14:53:45.33
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  @阿波
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 14:58:36.53
戦前の佐賀は旧制高等学校だったが、博多は明治以来の九州帝国大学だった。
だから倭人伝に明記されてる「末盧国東南陸行佐賀平野を疎んじ、
糸島イト国だの、博多奴国だの、宇美不彌国だのと、旧帝中心の流れになっているのだ。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 15:33:36.65
京都帝国大学の内藤、東京帝国大学の白鳥
系譜からの脱却だな。
卑弥呼(女王国)と邪馬台国の分離が主流になりそう。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 15:40:58.53
お前だけだろw
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 15:47:08.94
>>817
古荘さんの思考に近い
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 15:49:55.11
>>801
奴国も傍国も邪馬壱国の内部の話
傍国は邪馬壱国の南部諸国で話を聞いてだけの国
邪馬壱国の南に狗奴国。
>>817
公孫氏時代に伊都国、奴国、不弥国の事を女王国と呼んでいた
邪馬壱国は正始元年(240)に倭を訪れた梯儁が北部九州地域の国を指して読んだ名称だ。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 15:53:06.30
朝鮮投馬国
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 15:54:33.66
朝鮮に投馬国が在ったら都合が悪いのか?
貴方は半島人ですか?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 16:03:17.30
朝鮮に5万戸の投馬国で、九州北部に7万戸のマトリョーシカ人形状の邪馬壱国なら
日本史ではない
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 16:18:29.39
>>824
魏志倭人伝には梯儁の報告書を基に朝鮮半島南部地域に投馬国、北部九州地域全体が邪馬壱国と書いてある。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 16:32:54.67
馬韓伝記載の大木を立てる糸島と博多を中心とした奴国は文化が違う
3世紀前半の博多は畿内と葬制を共有する政治連合
糸島は非倭人の小隷属国
0827ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/03/02(土) 16:37:20.40
ヤマト王権の文化は纏向遺跡に始まる
この纏向の支配層は九州や吉備からやってきた外来者であった

纏向遺跡内にあり王家の宗廟と推測されている最古の墳墓が纏向石塚古墳である
オレはこの古墳の被葬者が記紀の神武天皇伝説のモデルになったヤマト王権の初代王であると考える

畝傍山の東北にある所謂「神武天皇陵」は飛鳥時代の何処かで作られた参り墓だろう
当時のヤマト王権では初代王の墓所に関する伝承が失われていたために祭祀用の墓が倭京や藤原京の宮廷から歩いていける場所に設けられたと考えられる

古事記の太安万侶の墓も実物が発見されており、今に伝わる太安万侶墓は参り墓だったことが分かっている
このように参り墓と埋め墓は混同されて後世に伝わっていく
宮内庁が欠史八代の墓として治定している墳墓?も恐らくは参り墓で、崇神以前の王陵の実物は纏向勝山や東田大塚やホケノ山といった古墳が該当するのだろう
0828ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/03/02(土) 16:43:59.50
今の日本では建国記念日を紀元前660年2月11日と定めてネトウヨは素直にこれを信じている
これは明らかに間違いであり、卑弥呼が即位した西暦188年の正月に変更するべきである
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 16:53:22.83
持統天皇 689年に日本最初の律令「飛鳥浄御原(きよみはら)令」

>>828
賊軍なのにか?

女山(ぞやま)の眼下に広がるみやま市はかつて山門(やまと)郡とよばれていました...
史書によれば この地は二度も 大和朝廷の征伐に遭っています

最初は景行天皇(12代)の九州巡幸のとき
南筑明覧という江戸時代の地誌に 「この地の女酋 葛築目(玖津女:くずちめ)が
勅命に従わないため景行天皇に征せられた」 という古老の話が載っています

二度目は神功皇后(14代仲哀天皇妃)の熊襲征伐のとき
日本書紀に...
「山門郡(やまと:今のみやま市と柳川市)の土蜘蛛 田油津媛(たぶらつひめ)が
仲哀9年3月に神功皇后によって誅せられた」
「田油津媛には夏羽という兄がいたが 夏羽率いる軍は妹の死を聞いて逃亡した」
という記載があります
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 17:04:01.22
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 17:04:22.24
>>825
書いてねえよ
九州説って嘘つきだな
0833日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 17:30:36.87
>>831
東夷伝では
馬韓54国列記 10万戸
弁辰韓24国列記 5万戸
邪馬台国21国列記 7万戸
で、書式が統一してるかと?

瀬戸内海~奈良まで行ったら
30万戸超えるかも?
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 17:42:30.32
北九州だけここまで詳しく描いて、畿内は邪馬台国一国だけ?


対馬国 大官は卑狗、副官は卑奴母離。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。
山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

一大国 官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。
3000許りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。

末廬国 4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

伊都国 長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚。1000余戸が有る。世、王が居た。
皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。

奴国 長官は?馬觚、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。

不弥国 長官は多模、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 17:54:21.22
伊都国の隣の国名有って、
その後
船で30泊寄港して国内官名無いとか
同じ記録の訳無いだろ?
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 17:59:48.40
>>834

>北九州だけここまで詳しく描いて

北部九州は2万戸の奴国以外は小さい国だから
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:00:03.19
10倍説なら計6日、そのまま読むと計2ヶ月
6日なら全国訪問出来ない、2ヶ月なら十分

宇美が福岡平野の北東にあって、そこからは主に福岡平野の各国を訪問して投馬国へ
そこから筑紫平野の各国を訪問して最南端の山門国へ
といったところだろう
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:08:17.57
倭地(=女王を共立した倭人の国々)に至る手前の5千里までには、
或いは絶へ(離島)、或いは連なり(官無末盧国や隷属国)が有り、
女王国は全体の風習、産物として書かれている
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:09:56.65
山門あたりは特に何もないから捨てられた土地だろう
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:11:18.67
明治天皇は、真正の睦仁親王ではないから、
明治天皇以下、今上陛下の直系の先祖は誰か分かりませんね。
当然、皇族では有るでしょうから、
行き着くところは神武天皇でしょうけどね。
そこから上の、邪馬台国の人物は、
誰になるんでしょうね。
帝だからガド族ですから、
ユダ族のソロモンではありません。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:11:53.65
talk 宗教板 てす★3スレにいます
裏天皇
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:11:55.33
>>839
邪馬台と発音ぜんぜん違うしな
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:16:13.94
邪馬臺(ヤマダ)
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:17:15.47
>>837
>10倍説なら計6日、

小さすぎる九州に収めたいので無理を重ねる九州説
無駄な足掻きが見てて恥ずかしい
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:18:55.35
里数も過大、戸数も過大、しかし日数だけは正確だと根拠なく言い張る畿内説
さくらんぼ詰みすぎ
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:19:32.57
一里は435メートルと決まってる
そして帯方郡(楽浪郡の可能性もあり)から12000里に女王国はあった。
当時の中国は直線距離を算出する高度な技術を持っていた。
となると候補地は二つ。
ジャワ島かパプアニューギニである。
どちらかと言うとジャワ島説が有利だろう。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:23:43.92
里数は誤魔化せない
しかし、戸数は10倍説が自然でしょう

弥生時代の日本列島の人口が100万人もいない
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:25:48.68
畿内説は百襲姫を卑弥呼に比定して、その墓を箸墓としているようだね。
でも、日本書紀を読んでも百襲姫が魏に使いを派遣したとか、金印をもらった(献上された)とか、狗奴国と争ったとかの記録はないよね?
卑弥呼と結びつける記録が何一つとしてないんだけど、畿内説の人はどう考えてんの?
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:29:09.72
モモソヒメは日本書紀と古事記でも整合しない
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:29:47.75
投馬国であるが、三潴は水間で、筑後川が作った湿地の中の少し高い場
所と思われ、三潴の「潴(づま)」が「投馬」に通じることと、上・下妻郡の「妻
(づま)」が「投馬」に通じることから、この辺り一帯が投馬国ではなかったかと
思われる。また、投馬国は官職にもあるように頭に「み」の字を使うこと好きで
あり、この辺りに御笠郡、御原郡、御井郡、三潴郡、三池郡などと頭に「み」が
付く地域が多く残っていることからすると、これらの地域を含んでいた時期もあ
ったのではないかと思われる。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:33:40.53
>>851
筑後平野で12万戸は無理でしょ
0853日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:35:23.53
倭語は語頭に濁音が来ることはない。
投馬国は、語頭が濁るので、倭語による国名ではあり得ない。 
縄文語(アイヌ語)か韓系言語かツングース語のどれかと関係あるんだろ
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:39:40.38
>>852
累計でしょう

投馬国に至る。推計5万戸余。

女王の都のある邪馬台国に至る。推計7万余戸。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:43:14.16
筑紫平野て今も何にも無いぞ
大きい都市で久留米市(30万人)、佐賀市(23万人)ぐらい
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:43:28.86
>>854
伊都国や不弥国の時点で累計になっていないからな
0857日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:48:34.68
宇美より南は20数ヶ国を訪問した

宇美から三潴までは山に囲まれた細い土地だから水行がメイン

三潴から山門までは東西に平野部が広がるので陸行がメイン
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 18:55:24.39
>>853
九州は半島系の地名が結構あるそうだし
倭人が半島のあちこちに居たように
九州にも半島系のコロニーがあちこちにあって不思議はないな
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:00:58.21
九州末盧國で船降りて伊都行っても良いけど
また、末盧國に戻らないと船無いでしょ?

で、日本海で宗像、長門、、、全く国名無し官名無し、
投馬国?出雲。 舞鶴とか上陸地の名前は?

丹後の山越えて京都とか一か月も魏軍が歩けるのか?
日本海から奈良なら琵琶湖ルートだろうけど
迎えが来たとか、そんな話には、なって無いだろ?

畿内説は、ヤマトは奈良ってだけで
歴史と地理と文献には無関係。

なんで日本の女王が帯方郡の役人に
奈良の南の国との戦争手伝ってもらうよ?
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:03:32.48
>>820
ボツですね。
旧唐書 倭国条
邪馬台国の記述はない。
0863ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/03/02(土) 19:06:33.32
九州にはバルの付く地名が多い
これは韓人集落があった事を示している

天皇家が故郷としているヒムカは恐らく伊都国だろうが、その中心地域は筑前前原であり、ここもバル地域となっている
ヤマト以前のヒムカの時点で既にこの国の王家は韓人との強力なつながりを持っていたのである

日本書紀でもニニギは韓国に向かう良い土地としてヒムカに降臨している
ネトウヨが思っているよりも遥かに日本は韓国と深いつながりを持っているのである
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:08:01.85
舊唐書は編集がいい加減な文献だからね
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:11:35.93
不彌国はトヨタマヒコの国

多模 = 多くを模する = 玉造

トヨタマヒコと
玉祖命こと豊玉神が同一人物かは不明だが
宇美と防府で地理的には一致
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:13:22.58
奴国の南に狗奴国。
奴国、傍国、投馬国、邪馬台国には行っていない。不彌国、奴国でそれぞれ万二千餘里
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:16:54.85
九州説は算数のできないノータリンということだな
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:23:31.96
>>851
正解
そして筑後の久留米あたりを投馬国の中心とするなら、距離が近すぎて遺跡でも見劣りする山門説は消える
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:24:38.40
伊都国から邪馬台国まで1500里とか
ノータリンだしな。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:25:32.18
山門は女王が都するところで、人口が多かったわけではないのでは

筑紫平野南端の山麓だし、7万戸というのは女王国全体というか、これまで訪問した倭国(半島も含む)の累計
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:27:41.20
三潴は筑紫平野の北側に位置し、山門は筑紫平野の南端

筑紫平野は東西に広いので、ここの全国を訪問しようとするとかなりの日数がかかる
1ヶ国あたり、1〜2日は滞在するとしても
雨の日は移動しなかったかもしれんし
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:29:10.92
方300里、400里を島周りとか書く人も
ノータリンだしな。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:31:37.47
自郡 至 女王國 萬二千餘里
は、間違っている。 これ重要。

倭人伝里で
対馬が女王国なら8000里だし、
九州島が女王国であれば水行里程は計10000里。
さらに、
女王之所都=女王宮迄の陸行一月を加えると
240年梯儁の全行程となり、女王国迄ではなく
卑弥呼に会うまでの旅程が12000里なのである。

陸行一月=2000里は
梯儁と陳寿の共有認識。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:35:44.96
紀元前1年に即位されたのが、懿徳天皇でイザナギ10世にあたる

今上はイザナギ79世

即ち、2019年/69世=29.3年/世

平均して29.3歳で子を産んだ事になる
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:38:54.15
倭人伝里なんてものは無い
現代日本人の妄想あるいは都市伝説

それが証拠に
そんなもの誰も算出した人がいない
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:44:32.67
倭人伝の1里が432メートルだと言う人はアタオカ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:44:53.56
7万戸より卑弥呼のいた女王国の都が北九州にあったのか、なかったのかが問題で
纏向のあるヤマトより不利になる
無かったのか、見つかっていないだけなのかは、考古学者でないのでわからない
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:46:14.41
吉野ヶ里は都城と言える場所だな
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:47:29.23
>>868
宮崎そんな人口いたのか
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:48:35.33
戦前の佐賀は旧制高等学校だったが、博多は明治以来の九州帝国大学だった。
だから倭人伝に明記されてる「末盧国東南陸行(佐賀平野)」を疎んじ、
糸島イト国だの、博多ナ国だの、宇美フミ国だのと、旧帝中心の流れになっているのだな。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:48:54.97
>>876
三国志の韓伝と倭人伝に有るのは事実。
陳寿が共有した理由が解らないだけ。
もちろん私達も、今も版本時の物を読んでいる。
存在した理由が無い、という事が無い。

陳寿が、これを里程として採用したのは
景初から正始年間の公文書からの引用である。

もちろん、韓方可4000里は
後世で改定されなければおかしいが
倭人伝は、当時の記録の引用である。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:49:07.37
>>868
著者って誰?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:52:02.28
投馬国、邪馬台国は半島、九州にはない。
卑弥呼、宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛、冢は九州。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 19:57:06.79
>>834
>世、王が居た。
>皆、女王国に属する。

「世、王が居た」・・と過去形なら、皆、女王国に属した」・・と、これも過去形だろうね。
つまり、女王卑弥呼の共立以前の後漢時代のこと。


奴国 長官は?馬觚、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。

不弥国 長官は多模、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。
0835
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:03:09.87
>>882
>三国志の韓伝と倭人伝に有るのは事実。

事実と言いながら証明できないんだから
妄想でしょそれ
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:04:32.97
戸と家の違い?
韓伝で書かれている
戸と家の意味が違う?
兵、税の違いとかの説も鵜呑みにはできない。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:05:38.09
>>885
「丗有王(これ・ここに、王有り)」 
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。   
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:08:07.67
>>874
>自郡 至 女王國 萬二千餘里
>は、間違っている。

まちがっていないよ。行程記事は卑弥呼が共立女王になる前の時代を書いている。
つまりこの女王国は、卑弥呼がまだ邪馬台国の女王だった時代のこと。
だから、女王国=邪馬台国=1萬二千余里が正解。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:12:07.85
>>876
倭人伝の部分では1里76〜80mくらいで書かれていること明白。
「倭人伝里」はなかなか良い表現。ま、公孫里とも短里とも云うけどな。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:16:25.75
戦前の佐賀は旧制高等学校だったが、博多は明治以来の九州帝国大学だった。
だから倭人伝に明記されてる「末盧国東南陸行(佐賀平野)」を疎んじ、糸島イト国だの、博多ナ国だの、
宇美フミ国だのと、旧帝大中心の流れになっているわけだ。つまり邪馬台国論争の正体は不毛の旧帝論争。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:20:46.77
倭人伝、
主線行程始点の末盧国は、古代遺跡が集中する唐津インター出口の中原の津 →
→ 東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上の皇統太神宮跡 →、
… 東南至奴国100里は、傍線行程行き止まりの佐賀城址。
→元の佐賀川上伊都国に戻って、東行100里の不彌国は吉野ヶ里、ここが主線行程の終点。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:21:42.00
「丗有王 皆統屬女王國」
「ここに、王有り  みな、女王国に属し統べる」  だな。   @阿波
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:22:22.66
>>889
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。   
萬二千余里から引き算されるとは、陳寿も青天の霹靂だ。   @阿波
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:22:35.44
(倭人伝続き)
この終点からは、東至 西至 南至 北至の四至説明となり、以下の南至2国を列記。
→ 南至の投馬国は、宮崎平野5万戸、(自郡至)水行20日。
→ 同じく南至の邪馬台国は、熊本〜阿蘇7万戸、(自郡至)水行10日陸行1月。
尚、自女王国以北 其戸數道里可得略載から、里数なき投馬国は女王国の南180qの宮崎平野と確定する。
又、自郡至女王国1万2000里から、主線行程不彌国・吉野ヶ里までの1万600里を差し引けば1400里、
故に、不彌国・吉野ヶ里の南至1400里(約110q)に女王の宮殿城柵があったとなる。
驚くなかれ、そこは、阿蘇高千穂・三田井の天照大御神と日向三代の宮跡!
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 20:37:54.49
>>890
>倭人伝の部分では1里76〜80mくらいで書かれていること明白。

言い張るだけで誰も算出してないんだから
妄想なのが明白だね
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 21:20:47.53
>>877
>倭人伝の1里が432メートルだと言う人はアタオカ

罵っても反論にならないよ
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 21:30:39.66
知って下さい!拡散希望
緊急事態条項(改憲)は危険!自〇党の改憲草案97条最高法規は基本的人権の削除 !!
このままでは、国民の人権がなくなります、日本が滅びます!!
https://twitcasting.tv/iminnhantai
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 22:44:32.39
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 23:25:36.92
>>897
倭人伝では1里432メートルは間違いだからな
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 23:29:47.61
>>900
根拠もなく言い張る九州説はインチキ宗教
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/02(土) 23:34:25.22
魏の時代の1里は1800尺、432メートルとするならば、
里数は10倍、戸数も10倍説が自然でしょう
日数は10倍説なら計6日となる
「女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能」とあるので、
20数ヶ国の調査が6日だと足りない気もするが・・・
宇美より南は各国訪問したから日数表記なのだろう
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:02:50.24
末盧国から伊都国が500里です。
1里432メートルだと216キロになります。これを見ても432メートルが間違いだとわかります。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:03:12.67
不弥国(福岡県宇美町)から邪馬壹國(山門)までは南行1300里。
実際にも宇美町から山門までは南へ50km程度なので、誤差の範囲でほぼ一致する。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:12:59.56
>>905
宇美は儺県なので奴国だよ
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:22:33.76
>>904
>末盧国から伊都国が500里です。
>1里432メートルだと216キロになります。これを見ても432メートルが間違いだとわかります。

九州説信者は知能が低いので500里が間違いということに気づけない
知能低く生まれつくって可哀想
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:24:51.21
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:25:24.50
>>907
それ誰の説?
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:27:06.66
チェリーピッキングだらけの畿内説
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:34:39.42
畿内説にとって倭人伝は都合の悪い書物です。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:38:14.29
学問の通説畿内説は行程記事で比定をしないので
日数が正確などとは言わない
一人一説雑多九州説は行程記事でどんぴしゃり比定と言いながら
日数はちょろまかすのでそれはおかしいと言っている
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:39:16.35
>>907

郡から狗邪韓国 7000里 
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

これらの行程の全てを間違いとするのか?
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:43:17.63
>>912
伊都国から邪馬台国の里数だけちゃっかり使うチェリーピッキングの畿内説
0915日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:45:17.12
>>914

学問の通説畿内説では使わない
0916日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:51:07.92
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、
検証には用いる

テンプレで「使わない」と書いている
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:57:19.16
>>909
>それ誰の説?

通説
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 00:59:03.61
>>913
>これらの行程の全てを間違いとするのか?

そりゃ当然
ひとつでも正しいの、ある?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:14:40.24
>>916
それチェリーピッキングじゃ無いの?
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:19:10.19
つまり畿内説は倭人伝無視のトンデモでした
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:25:23.45
>>919

「使わない」からピッキングをしていない
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:26:31.19
>>919
>それチェリーピッキングじゃ無いの?

当然ちがう
だってチェリーピッキングだって言う理由ないだろ?
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:32:40.66
>>921
使わないと言うチェリーピッキングだな
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:33:45.65
つまり畿内説はチェリーピッキングのトンデモでした
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:35:00.37
>>923

チェリーがないので「使わない」
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:40:24.89
>>923
>使わないと言うチェリーピッキングだな

チェリーピッキングって言葉の意味しらないで罵りの言葉として使ってるのかな?
無学な九州説さんらしいね
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:49:20.18
畿内説にとって不利な情報は使わないからチェリーピッキングだな
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:51:14.17
Wikiより
チェリー・ピッキング(英語: cherry picking)とは、数多くの事例の中から自らの論証に有利な証拠のみを選び、それと矛盾する証拠を隠したり無視する行為のことである

まさに畿内説。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 01:58:05.30
畿内説にとって不利な情報なのではなくて、
倭人伝が行程から推定している「當在会稽東冶之東」という地理観が
日本列島には一致しないので史料批判によって使用しない
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:05:07.94
>>929
倭人伝の東が30度ずれているだけだ、会稽の東は九州で問題ない
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:06:19.68
一人一説雑多九州説は、行程記事には【南至】というチェリーがあるが
日数や戸数はどうも都合が悪いのでちょろまかそうという
これが「チェリーピッキング」(自説に都合がいいことだけを根拠にする)
0932日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:07:43.20
史料批判を否定する九州説は歴史学に反するな
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:08:48.45
奈良は7000戸なので問題外
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:09:22.92
>>930

中国の南北は30度ずれないので
倭人伝の東が30度ずれると北側にずれる
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:11:14.23
>>930
根拠なく方位をずらすのは詐欺だな
会稽東冶の東だというのは筆者による机上の計算なのだから、東は正しく東でなければならないのに
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:13:05.25
>>933
>奈良は7000戸なので

ナンセンスな意見だね
反論にならないよ
畿内説は畿内説なのであって奈良県説じゃないんだから
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:26:03.74
>>935
狗邪韓国の東も対馬から壱岐の南も30度のズレがある
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:28:02.37
>>936
奴国の半分以下じゃあ都とは言えないな
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:28:22.17
>>937
証拠は?
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:29:36.86
>>939
地図が読めればわかる事
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:35:13.15
倭人伝の東が30度ずれると帶方東南も東にずれる
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:37:59.29
>>938

国の領域と都市の違いを理解する必要がある
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:42:20.62
>>941
東南大海之中とは瀚海の事なので問題なし
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:45:28.81
「名日瀚海」にあるのは貧しい離島
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 02:59:18.22
「又南渡一海千餘里 名日瀚海」なので
倭人伝の東が30度ずれると瀚海は帯方郡の「南」
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:08:51.89
瀚海は玄界灘の事だろうが30度ズラしても帯方郡の南にはならないhttps://i.imgur.com/MNnA1tM.jpeg
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:22:40.02
>>946

その赤矢印は西端にずらしてちょろまかしている
帯方郡は点ではないので瀚海は帯方郡の「南」
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:31:54.87
帯方郡は水行の出発点だから海沿いで問題無い
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:35:35.99
>>948

帯方郡の水行の出発点の東南ではなくて、
帯方郡の東南の大海中に倭人が在ると書かれている
0950日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:35:55.39
どっちにせよ方位ズラシはインチキだがな
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:38:54.22
倭人伝の方位が正確に〇度ずれているのではなくて、
不正確である=地理観に齟齬があるということ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:49:30.73
魏志に書かれてるように対馬の南にちゃんと一支がくるようにしないといけない
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 03:58:56.01
>>953

東が30度ずれていない地図
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 04:12:08.35
>>954
30度ズラしても帯方郡の南は瀚海にはならないけどな
0956◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/03(日) 04:31:28.18
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1709405290/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 05:08:25.06
>>916
畿内説は
邪馬台国の場所とは無関係
ヤマトは何処か? のお話。
さらに、190年から247年.266?は
日本が女王国だった事を否定しない。
倭人伝とは無関係の
無理説。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 05:16:43.36
>>957
あんた日本語下手だね
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 07:07:49.72
>>953
なんとなく、で、
楽浪郡 平壌、帯方郡 ソウル
で、想定してるけど
240年だとどの辺かな?

帯方からは
西岸南端からでしょ。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 07:25:27.17
YouTubeの古代史4チャンネルの合同企画
卑弥呼の最初の朝貢は景初二年か景初三年かで意見が分かれたが、景初三年説の方が論拠がスッキリしてるな
通説通り景初三年と理解して良さそうだ
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 08:29:52.79
>>961
うそ
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 08:50:08.65
畿内説では考古学の先生は自分たちの方だというが、この論争は
相変わらず形勢不明のまま続いている。先生方の能力がないのか、
事実がないかのどちらかだろう。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 08:54:25.04
>>960
倭人の1年は半年

>魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀
倭人は、春耕秋収を記して年紀となす

「景初四年」は、大陸で言うと
本来はまだ景初3年(239年)ってことw

なんで、そんな年号の鏡が存在するのか?

これで答え出ましたね

俺の新解釈!
倭人の二倍年暦のせいで239年中に
景初四年の鏡が作られた、倭の国内で

完璧でーーーすw
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 09:02:20.58
>>963
九州説の人は考古学とか知らないから一方的に負け続けです
0966ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/03/03(日) 09:12:13.22
百田とか竹田宮とか渡邉とかは九州説なんだよな
あれ?あれれ?
ネトウヨはなんでみんな九州説なの?
0967ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/03/03(日) 09:13:58.91
九州説の連中はアイヌ民族を鎌倉時代にやってきた新参者などとヘイト振りまいているからな

歴史的にはジャップの方が弥生時代にやってきた新参者なんだよな
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 09:16:45.45
>>966
チョンコはなんで大嫌いな日本に住んでいるのかな?在日特権とかあるのかな?
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 09:16:48.56
>>965
邪馬台国は九州と決定してるから、畿内の考古学なぞ役には立たんのだよ
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 09:22:51.56
「本書で私が第一に強調したかったのは、国家の第二段階である「王国」の誕生は、ヤマト王権の成立そのものであり、その初代大王が卑弥呼だったということだ。つまり新生倭国 =ヤマト王権 =卑弥呼政権の関係が、私が到達した結論である。」

『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

畿内説は日本の皇統をズタズタにしたいだけのパヨクですね
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 10:14:36.89
誰も卑弥呼と天皇家が関係あると思ってるやつなどおらんよ😇

それしか知らんから知るために結び付けよう❗って運動だからな
0973日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 10:15:14.97
つまり畿内説は頭の悪い学者の描いたフィクションでしたと
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 10:36:03.34
吉野ヶ里歴史公園ー彌生ミユージアム
>邪馬台国は、
>福岡県の糸島付近にあったことが確実な伊都国をその支配下に置き、
>ここに一大率を置いて諸国を監察し、魏の使者もここに迎えています。

肝心の吉野ケ里彌生ミユージアムも、倭人伝の、、
「唐津から東南陸行して伊都国(佐賀大和町)・奴国(佐賀城址)・不彌国(吉野ヶ里)」を、
当然の如く北東の怡土島へ読み替えて今に至っている。まこと不可思議。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 10:43:28.58
>>974
博多には何という国がありましたか?
0976ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/03/03(日) 11:30:21.26
寺島先生の述べられる通り卑弥呼が初代のヤマト王権の大王というのは正しいと思う

オレとしては、邪馬台国の初代の男王がイワレヒコ(のモデルになった人)で、倭国連合全体の女王が卑弥呼(百襲姫のモデルになった人)と位置付けたい。

卑弥呼亡き後に徐々に邪馬台国の王と倭国連合全体の王が同一になっていき、完全に一体化して名実ともに大王になったのが崇神ではなかろうか
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 11:32:11.65
>>976
その妄想に見合う遺跡は一切無いけどな。   @阿波
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 11:48:16.66
地元地理に詳しいはずの九大なのに、「唐津東南は佐賀平野」の論陣を張るどころか、
ぎゃくに、福岡市西区に「伊都キャンパス」まで作って、他大学を応援している。
まさにギャグだ。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 11:55:20.46
九州説も畿内説も、その妄想に見合う遺跡が一切無いという滑稽説。   @阿波
0980日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 12:03:06.82
まして阿波説は、内紛だらけ・・、
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 12:08:53.44
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 12:11:52.39
>>971
後漢の時代から30余国連合を統べた大倭王が朝貢してたけどな
大倭王が不在の大乱期、卑弥呼、男王、台与、と続いて
266年の朝貢を最期に大倭王の歴史は幕を閉じた

そこからあとは台頭してきた元小国、畿内ヤマトの出番だ
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 12:14:57.85
>>982
701年に大和朝廷は天下を取ったんだね。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 12:15:03.56
>>982
>後漢の時代から30余国連合を統べた大倭王が朝貢してたけどな

前漢武帝(紀元前108年)に朝貢していた30国は、
鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交手段。   @阿波
0985日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 12:22:56.28
>>983
>701年に大和朝廷は天下を取ったんだね。

倭国(阿波)から遷都しただけ。 別に天下を取った訳ではない。   @阿波
0986ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/03/03(日) 12:25:19.21
後漢の時代に倭の三十余国を統べたのは金印の委奴國王だろう
このクニが纏向王権の支配者の故郷ヒムカである可能性が高い
ヒムカは韓国に向かう良い土地というのだからな

この国の王家は韓国との繋がりが切っても切り離せないのだ
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 12:27:20.53
>>986
いくら妄想ばかり言っても、説得力はゼロ。   @阿波
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 13:11:47.53
旧唐書には倭と日本は別々に書かれているから、少なくとも唐の初期までは別々の国だったはず
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 13:12:16.78
あわのレスに力なく、うたかたのように聞こえる・・、
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 13:57:04.54
まあ、阿波だけに、うたかたは確かなんだけど、あぼんだらけなんだけどね。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 13:57:58.63
>>988
旧唐書が空想でデタラメ書いてるだけ
編集が杜撰で有名な史書なんだよ
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 14:30:52.14
聖徳太子が文献派で九州説
倭は九州だから日本にするってこと。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 14:37:52.70
九州説は江戸時代の発明
それより昔には無い
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 14:51:06.33
>>991
新唐書の日本伝なんて、日本の提出した資料丸写しやん
あれこそ無意味だわ
0995日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 15:10:56.11
江戸幕府が官学とした朱子学では蜀漢正統論(資治通鑑綱目)だからな
国学では偽僣説(朝廷になりすまして魏をだまくらかした盗人)
現代の一人一説雑多九州説は、九州文学小説のヒットに刺激された爺の
ワシだけが知っているワシのファミリーヒストリー邪馬台国
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 15:16:50.53
畿内説はオレオレ詐欺
0997日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 18:25:36.17
>>993
畿内説もそのときじゃん
邪馬台国は「やまと」だろうと
そして筑後山門に気づいて九州説も生まれた
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 18:30:46.31
邪馬臺国は中国語の表意文字で和音国名ですら無い。
投馬国は、馬韓の向こうにある国で、弁韓、任那。
邪馬臺国は、240年に金印を届けた梯儁が
参問した女王国国勢21国の邪馬国に有った卑弥呼の臺
をランドマークに国名とした仮称。
和音を漢字にするのに魏使は、曹操の高楼である
絶対的表意文字、臺 は使わない。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 18:32:44.50
このように
九州説はいつも空想だけ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/03(日) 18:34:07.74
>>998
臺って、ただ単にタワーのことだぞ
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 4日 6時間 17分 39秒
10021002
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