邪馬台国畿内説 Part1000
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1709701321/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】FAQ 102を追加 以上のうち
客観的にみて魏志倭人伝の記述と一致したものを述べよ つまり畿内説は嘘スレも1000回立てれば本当になると思ってる韓国式歴史捏造サークルですよと トンデモに替わり、これからは「阿波」の時代。 @阿波 3世紀以前に会稽から直接九州に行けましたか?
誰かプロはいませんか?
鑑真が沖縄伝いで日本に行ったのに、3世紀以前に会稽から直接日本(九州)に行けましたか? 卑弥呼の時代の河内や和泉は邪馬台国だったのか?
河内や和泉にはヒスイの勾玉や銅鐸が出土した弥生時代末期で放棄された集落跡が複数ある
鏡が一世風靡する時代に消えてしまった人々
そういう集落の一つが池上曽根遺跡である
この集落跡がある摩湯丘陵には湯が湧き栄えた集落があったが有馬に飛び去ったという伝承が残っている
有馬は摩耶山と熊野にあるね
熊野の神倉神社にはゴトビキ岩という世界遺産の磐座がある
この磐座からは銅鐸の破片と銅鐸を模した石製品が見つかっている
ここは熊野の神が最初に降臨した場所と伝わる所だ
その後神は熊野川の対岸の阿須賀神社の地に移ったという
命懸けで熊野川の深い淵、大谷を渡ったんだろう
阿須賀神社の境内とその周辺からは弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大規模な集落跡が見つかっている
大阪湾と同じ形の製塩土器も見つかっており大阪湾岸の勢力と関係があったと考えられる
阿須賀神社には事解男や速玉男など熊野の神々が祀られている
近くにはイザナミが眠る地と伝わる有馬がある
イザナギがイザナミと別れ際に吐いた唾が速玉男、それを払ってできたのが泉津事解男だな
大阪湾の和泉の海は茅渟の海だね
邪馬台国は大和で、狗奴国は河内湖の南に広がる河内和泉だったんじゃないのかな 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>84
まあ確実に間違い空想だな
河内湾南岸から大和川を辿って奈良盆地に入るのはメイン交通路だから 卑弥呼の時代の前は倭国大乱でその前は男王の治世である
倭国の建国は魏志倭人伝の時代卑弥呼の時代より少なくとも100年は前の話である
近代日本は諸事神武創業の始に立ち返ることで国を一つにまとめて歩み始めた
そういう意味で、倭国建国の時代である弥生時代後期の橿原は非常に重要である
弥生時代後期の橿原からは讃岐と同じ高地性集落が出現し、龍と鳥装のシャーマンの絵画土器が現れる
高松、近畿、山陰、北陸、東海では鳥形、銅鐸が大ブームになっていた
唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡、壱岐でも同じ時代に龍の絵画土器が見つかっている
龍は石切神社に黒い龍神が祀られていてトミの一族の伝承が伝わっている
龍と鳥と讃岐と同じ高地性集落、この事実は大切にしないといけない
明治天皇の詠まれた歌
橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本の国をたもたむ >>86
河内から奈良なら歩いて数日だなwww
船を降りて陸行1ヶ月で邪馬台国だ
伊吹山には荒ぶる神がいたから北からはアプローチできないぞ
大阪湾から奈良までならどんなに時間をかけても数日 纏向から九州系の土器が出てこないのだから東遷説はない
東遷説が否定されるということは、纏向の年代がどうあれ、九州説の大半も否定されるということだ。 来週日曜日のNHKスペシャルで邪馬台国特集やるな
見逃さないように >>83
3世紀の倭人船は帆船じゃない。
見える対馬以外は沿岸水行でしょ?
黄海も山東半島経由かと?
中国人は、徐福でもなきゃ
韓や倭に用がない。
これ、BC200で可?
400年以降は、倭の五王も
帆船なら上海から済州島、五島
ただ夜は星が無いと?
鑑真は海南島とか香港方面から?
上海まで来て黄海渡る方が良いかと?
会稽って、こっち?
沖縄コース縄文船は風に強いかもね。
黒潮コースは帰れないかと? >>91
NHKスペシャル 古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
3月17日(日)
午後9:00~午後9:50
古代史最大のミステリー、邪馬台国の謎を徹底検証!新発見続々!女王・卑弥呼はどこにいた?三国志の最新研究で迫る外交戦略!宿敵との争いの結末は?驚き満載の歴史ロマン
古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
初回放送日: 2024年3月17日
私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く! NHKか
どうせ卑弥呼より前の歴史を無視し、先住民の歴史を無視し狗奴国の歴史を無視した内容なのは見なくてもわかる
何年か前の知恵の泉の邪馬台国の番組は酷かった
魏志倭人伝に狗奴国は邪馬台国の東にあると書いてあると嘘をつき狗奴国を東海に比定していた 親魏倭王の金印は卑弥呼から台与へ
風土記逸文によればトヨウケは摂津の稲倉山にいた
トヨウケは延喜式によるとウカノミタマの別名だ
ウカノミタマがお詫びに黄金の箱と水晶玉を授けた信太山の葛の葉伝説と和泉黄金塚古墳の日本最大の水晶玉、景初三年の銘のある鏡
そこまでNHKは放送しないだろうな 4世紀後半の和泉黄金塚古墳は魏志倭人伝より前の時代に大ブームだった勾玉が大量に見つかっている
4世紀後半の和泉黄金塚古墳と葛の葉伝説を以て、邪馬台国と狗奴国の権威は統一された筈なんだけどな >>98
しかも三角縁神獣鏡ではなく、画文帯神獣鏡なのが面白い >>95
狗奴国は東海で正解
天竜川以東から房総半島を除く関東一帯が狗奴国=クノノクニ
都は沼津の足高尾上遺跡群 >>93
NHKなら学問重視だろうな
ただ視聴者受けのためエンタメ要素入れてくるだろうから
九州説もまだありえるって言うかもしれん >>102
>NHKなら学問重視だろうな
御用学者のな。 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」など、絶対に言わない。 @阿波 >>102
>NHKなら学問重視だろうな
「阿波」の飛びぬけた遺跡群など、絶対に言わない。 @阿波 >>28
弥生時代の絹織物は、佐賀平野や筑紫平野に集中してる。
中国地方~近畿はゼロ。相変わらず揚げ足取りばかりで明快さに欠ける。 邪馬台国(やまたいこく/やまとこく)は、2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したと
される国のひとつ。日本の文献には邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載は無く日本
では存在は立証されていない。Wiki Wikipedia
ヤマト王権
ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。
大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。
4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。 >>109
壹与が音信不通になったのはヤマト政権に滅ぼされたからか
なるほど >>109
>大和盆地および河内平野を本拠とし
碌に鉄器さえも作れない大和盆地および河内平野だけどな。 @阿波 邪馬台国が存在した証拠
金印銀印は一切無い。
女王卑弥呼は
記紀の王ではない。
邪馬台国には
倭人伝以外の根拠は無い。 Wikipediaでは邪馬台国大和説
九州説の人はこれを放置して良いのか? 〇〇説と言うのは仮説にすぎない、確定などと言っても
存在が立証されていないので意味がない 卑弥呼は侍女1000人をはべらせている
これは北部九州限定の女王ではない >>120
九州説がないという証拠
何百年経っても女王の都の比定地が絞れない
最も多数派でも九州説の中で1割ちょっと
証拠があったら
九州の中でどの地域かぐらい絞り込めてるよね 中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」
大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」
魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」
台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」 >>124
だから倭人伝が証拠なら
考古学はいらん。 >>125
俺はこの周徳望氏の「会稽から船で東に行くと九州に着く」っていう発言が信じられないんだが?
鑑真ですら沖縄経由で九州に着いたのに、丸木舟で会稽から九州に行った中国人がまるでたくさんいるかのような発言が信じられないのだが >>126
お前よりはるかにレベルの高い人たちだよw >>129
中国の文献を読むのはここにいる誰よりもレベルが高いだろう
しかし、考古学はやってない
日本の考古学者が説明をすれば畿内説しか採用し得ないことを理解できるだろう >>131
そもそも、会稽から九州に直接行った記録がゼロなんで、周徳望はおかしい >>127
>だから倭人伝が証拠なら
>考古学はいらん。
どうして?
そんなに証拠が嫌いなの? >>132
いや、この人たちは文献上の話をしているわけでな
それをレベルが低いとか、お前は何様なんだよw >>125
ヤマ論は、根拠はない。
倭人伝のメインは魏使の記録と外交史
論争に風俗、物産はあまり関係ない、
里程で張政と陳寿が共有可能だった。
理由は正始年間の公文書だから。
一月行=2000里も、陳寿は知っている。 >>136
そう考える学者がいるって話であって、お前の考えは聞いてないw >>137
おまえが聞いても
答える気にはならないな。 >>109
魏志の卑弥(姫)、卑狗(彦)、隋書の多利思比孤(足彦)、阿輩難弥(大王)は大和政権関係者 >>133
実際に明の時代の世界地図でも日本列島はかなり南に描かれている
昔の中国人の世界観はそうだったということ >>135
>いや、この人たちは文献上の話をしているわけでな
>それをレベルが低いとか、お前は何様なんだよw
でも実際レベル低いだろ?
証拠のない話ばっかりでさ
それ、学者のすること? >>142
文献上ではこう読めます、こういう意味です、と教えてくれているのに、何を言っとるの?
お前よりはるかに優秀な方々だよ 「升」はサヌミコトである(つまり日向族の東征は西暦57〜107年の間である)
(後漢書倭伝)
倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ100国余り。
武帝が朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは30ヶ国ほどである。
国は皆、王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の境界は其の国を去ること12,000里、その西北界の狗邪韓国を去ること7,000里余り。
その地は概ね会稽、東冶の東にあり、朱崖、?耳に近いため、法や習俗の多くは同じである。
建武中元二年(57)、委奴(ヒナ=日向)国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。
倭国の最南端(口伝による)にある。光武帝は印綬を賜った。
安帝永初元年(107)、倭国(異書「倭面土(ヤマト)国」)の主師(のちの征東大将軍 号)の升らが
160人の捕虜を献じ、参内して天子にお目に掛かる事を願い出た。
女王国より東、海を渡って1,000里余りで拘奴国(北海道)に至る。
皆、倭種であるが、女王には属していない。
女王国より南、4,000里余りで侏儒国(北方領土)に至る。人の背丈は72〜96cmである。
侏儒国から東南、船で行くこと1年で裸国、黒歯国(南米)に至る。交流の可能な国はここで終りになる。
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/2971a0c58bb2ebf0a4acf34e65f83128_1b0820a0197af59e02631ae5581c4a5a.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/5b812e626a1d369bf046351d3b9e5c0f_8ee2bcffd61c8fef9feed69c09c6ee8b.jpg 重要なのはこの2点だな
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」 おはようございます。
①文献を正確に、合理的に読むこと
②その内容が事実に合致しているか
は分けて考えないとね。
倭人伝を正確に読み解いても、それが当時の倭人世界の実情をなんら反映していない可能性もある。無いことを書いてる、あることを書いてないなんてこともあるだろう。
①については多くのネイティブ中国人の音韻やら文献の専門家が邪馬台国の位置は北部九州としていることから、それで決定でよろしい。我々、東夷人が口出しするのもおこがましい。卑弥呼なる女性が九州にいて親魏倭王に冊封されたと言う解釈で問題なし。謙虚になろう。
問題は②だよね。考古学、比較神話学、言語学から、それは事実とは違うんだと言う人がいる。それも沢山いると言うことだね。 >>128
そういう事。
陳寿はそんなことは言ってない。
入れ墨の理由で
故事を引いているが
修正が、間違っている。
理由は、太伯の後を削除されたから。
邪馬台国は
邪馬臺国が邪馬壹国に修正された。
倭音国名ではない、表音文字。 >>145
東遷説派かw
でも、北部九州にも畿内にも両方ありましたーのほうが丸くおさまるんじゃね?
両方にひみこキャラいるし この見解は日本の神話とも合致した内容だろ?
神武が東遷して大和で天皇に即位したのだから
この先生が日本の神話のことを知っていたかどうかは知らんけど
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」 >>145
邪馬台国から離れてるからこそ伊都国の存在意義があるんだろう
邪馬台国が九州なら邪馬台国自身が重要な拠点になればいい .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>149
ネイティブの中国人、それもその専門家より自分が漢文よく読めているなんて考えているなら思い上がりも甚だしいぞw 中国人の倭人伝解説で
有意義だったのは
至と到の違いを指摘した人かな。
5ちゃんで、教わっただけだけどw
既に亡くなっていた師。
台湾は今でも漢字なのかな? 「女王國の東に海があり、千里向こうにも倭種がいる」
九州説なら周防灘でスッキリだが
畿内説では伊勢湾に当てるしか無いか
古代の尾張は現代とは海岸線が全く違う
ほとんど海で長島やら津島やらはほんとに島だった
だから船で移動するのが普通だった
西海道、南海道、と同様、船でしか行けない地域はナントカ海道と名付けられる
出発する国も含めることもある(紀伊伊勢)
要するに、伊勢から船で行くから東海道なわけだ
問題は狗奴国とかぶっちゃう所だな
狗奴国を他に設定する必要がある 例えばさ、日本書紀や古事記に書いてある内容だって全部正しいとは誰も思ってないわけよ
どう解釈すればいいのか、ということと、書いてある内容が正しいかどうかは全く別の話やぞ?
解釈に関してはむしろ中国人の専門家に任せるべきだろ?
なんで自分たちの読み方の方が正しいという思い上がった考えができるわけ? ネトウヨは壺理論や平田篤胤理論を捨てて早く邪馬台国=ヤマト王権と認めるべきだな
そんなだからアベ糞三元総理を信奉してしまうのだ 畿内説は狗奴国を、
遠江久努、毛野、四国河野、熊野、肥後熊本としています。融通無碍、好きなものを選ぼう >>159
中国人は国家に騙されてるから。
香港、台湾、チベット、ウイグル
に独立を!
天安門を忘れるな。 魏志倭人伝の解釈は九州説で正しい。そこに考古学とか比較神話学とかいらんのよ。邪道なのよ。陳寿が当時の中国の知識人に何を伝えたかったか、書かれていることを純粋に解釈していくと九州説が導き出されると言うだけのこと。
でもそれが事実かと言うと全然違うだろうと言うことだな。邪馬台国なんてないし卑弥呼なんて最初からいないんだな。 >>159
倭人伝には記紀にない真実がある。
魏が、公孫氏、韓王朝を滅ぼし
240年に無かった、九州一大率が
247年に、有った。
この報告で、倭人伝は終わる。
三国志は、終わらないのにだ。
魏は、倭が参戦しないと知った。
卑弥呼の九州は朝廷に参加
対外対魏の防衛が始まった、
だから、古墳時代だろ?
考古学は歴史じゃないのか? 要するに、魏志倭人伝を読む限りは九州説をとらざるを得ない
あとは裏付ける証拠があるかどうかということと、もし畿内説が正しいとすればなぜ陳寿はわざわざ九州に邪馬台国があったかのような書き方をしたのかということ
大事な点はこの2点 >>165
>要するに、魏志倭人伝を読む限りは九州説をとらざるを得ない
それ、妄想 >>165
畿内説は大倭王畿内説だろ?
倭人伝は、女王卑弥呼の国は
倭の九州島のなかで、
五千里で回れる、小国だつた、
と、結論している。 卑弥は大和文献にある皇室女性の比弥、毘売、日女、姫 >>167
それってさ、もともと九州説で頭がコリ固まってると
そんな変な結論になっちゃうってだけでしょ 卑弥呼は比弥王、姫御子、皇女、内親王、女王のヒメミコなんです。 大倭の王は、246年位に
一大率を伊都に設置している。
記紀厨なら、この時天皇を
卑弥呼が三種の神器で迎えたらしいぞ
考古学では、アマテラスが東遷www
何で、中国人学者が論争に便乗?
もう、本、売れるか?
5ちゃんで、良くネw >>170
狗奴国は東海
倭種は琵琶湖の向こうの地域だろ
方位がズレてんだから 九州説というか?
倭人伝読めば邪馬台国は九州だが?
200年の
ヤマト朝廷は畿内に決まってるだろ?
和国大乱なんてないし狗奴国も無い。
四道将軍は、九州行かなし、
九州卑弥呼が、朝廷を迎えたんだよ。
だから、記紀神話。 >>175
>倭人伝読めば邪馬台国は九州だが?
そうやって理由もなく決めつけて掛かるのは
宗教 >>169
いや、だからさw
書いてある内容の解釈と、事実がどうかは別の話だっての
そこまで考古学ガーって言うなら、考古学板行けよ 魏志倭人伝だけを読むとこうなるからな
北 伊都国
西 【邪馬台国】 東
記載なし 海の向こうに倭種
南 狗奴国 >>177
倭人伝は史書で理由だろ?
邪馬台国の根拠が倭人伝以外に有る? 考古学って
桃の種が出てきたら邪馬台国だーとかいうレベルなのか >>179
>魏志倭人伝だけを読むとこうなるからな
だから何百年たっても九州説がまとまらない
みんな我流に読んでるから >>183
それでよくね?
そのうち誰かが遺跡を掘り当てるさ >>182
>考古学って
>桃の種が出てきたら邪馬台国だーとかいうレベルなのか
だから九州説はダメなんだよ
現代日本語の文章もちゃんと読めない人が
古代中国語の倭人伝を読めてるわけないって
w >>186
【客観的にみて】纏向が邪馬台国だと断言できる、あるいは魏志倭人伝の記述と一致する遺構か出土品を挙げよ >>185
>それでよくね?
よくないさ
だって、誰も自分の文献の読み方で他人を納得させられてないって事だろ
同じ九州説どうしのくせに
つまり九州説の倭人伝の読み方は全員が全員失敗してるってこと >>183
江戸時代からの
邪馬台国女王が大倭王ではない
九州の女酋長だった。
という記述を認めない
倭人伝論争の根拠が解らない。 >>186
中国語のネイティブスピーカーの専門家の文献解釈では九州にあるとよめるそうです
5chで暇つぶししているようなお前の解釈がその専門家の解釈より正しいとは到底考えられないんだがw >>184
>文献以外の邪馬台国って何?
だかた九州説のひとは頭わるいって知れるの
考古学でわかった当時の様子は、ヤマトを中心とした国家形成が始まってて北部九州もその枠内に入ってた状態
そこに中国の文献で倭国王のいる邪馬臺国というのが出てくるから、ヤマトのことだな、読み方も同じだしーって皆がふつうに納得する
それで畿内説が圧倒的に優勢になってるのが今の状況だよ 倭人伝を読んだら
卑弥呼は、九州の女酋長だが?
何で、奈良の考古学と関係ある?
まあ、同時代で統一の有無な。
記紀厨は
ホントの事言いたく無い? >>192
>中国語のネイティブスピーカーの専門家の文献解釈では九州にあるとよめるそうです
こういうところで
頭が悪いから自分でものを考えられない他人のフンドシ借用者の実態がわかるよ
九州説みじめだね >>196
いや、自分もそう読めるけどねw
自分は漢文はそれなりに読めるし、おそらくお前よりはるかに優秀だと思うよw
けど、さすがに中国語ネイティブの専門家にはかなわないだろな >>195
>倭人伝を読んだら
>卑弥呼は、九州の女酋長だが?
言い張るだけ?
理由が言えないの?
だから九州説はおつむが弱いってわかっちゃう >>196
畿内説スレには
倭人伝読める奴は居ない
と、言うのが常識だったが
倭人伝の話がしたいなら
また、貼ろうか? 中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」
大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」
魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」
台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」 >>200
まとめてもらって感謝
でも、反論山盛りなのに
ソースが、無いのが
話にくい。
それ何?
学者の論文ではナくね?
5ちゃん以下。
>>201
>>200 摂津国風土記逸文の次の話は興味深い
淡路島の姫といえば、日向牛諸井の赤い娘、髪長姫だな
応神天皇から譲り受けた、大鷦鷯天皇の妃
鷦鷯の名はミミヅクと交換した話もある
大鷦鷯天皇の陵は記紀通りなら5世紀初頭の履中天皇陵になるが、この履中天皇陵は5世紀前半の吉備の造山古墳と相似形なんだな
吉備は応神天皇の妃の故郷で応神天皇も吉備に赴いたとある
履中天皇陵を作っている時に何か起きたのかもな
兎我野は記紀では麛坂皇子が祈狩をした時に赤い猪に殺された話が残る場所だね
住吉大社神代記では神功皇后と密事があったのは住吉の神
住吉の神はアカルヒメと共に大阪ではやり直しの神さまとして祀られている
雄伴郡(をとものこほり)には夢野(いめの)がある。
父・老が共に伝えて言うのは、昔 刀我野には牡鹿(おじが)がいた。その嫡(本妻)の牝鹿は この野に居り、その妾の牝鹿は淡路国の野嶋に居た。
この牡鹿は野嶋に行って妾をとても愛おしんだので、その日は嫡の元には帰らなかった。その翌日、牡鹿は嫡の牝鹿に「今夜 夢を見たが、私の背に雪が降り積もっていた。また、(背の上に)すすきという草が生えているのもみたが、この夢は何の兆しだろうか」と言うと、嫡の牝鹿は夫が妾の所に向かうのを憎み、偽って「背の草が生えるというのは、背の上を矢で射られるという兆しでしょう。また、雪が降り積もるというのは鹽(塩)を宍(肉)に塗られる兆しでしょう。あなたが淡路の野嶋に渡るのであれば、必ず船人と遭遇して海中にて射たれ死ぬことでしょう。謹んで往復してください」と言った。
しかし、その牡鹿は妾を愛おしむあまりに野嶋に渡っていき、海を行く船に遭遇して射殺されてしまった。よって、この野は夢野と名付けられた。土地に伝わる説に「刀我野に立てる眞牡鹿も、夢相のまにまに」というものがある。 名乗ったり名前を交換するとか普通に考えたらおかしな話なんだな 邪馬台国の話が倭人伝から他に行く?
200年の倭王が卑弥呼?
どこの倭王だよ?
238年に国内平定中の日本の女王が、
戦国のもはや滅びそうな魏に朝貢?
どこのヤマト朝廷だよ? 枯野伝説
楠の大木を枯野にして最後は塩にしたんだな
河内の菟寸河にあった楠の大木を「枯野」にしたと書かれている。この木の影は朝には淡路島を、夕方には高安山を隠すほど巨大で、船になってからは淡路島の寒泉(しみず)を飲料水として運ぶ役目を担ったと言われており、「この船、破れ壊れ、以ちて塩を焼き、其の焼け残れる木を取りて琴を作るに、其の音、七里に響きき >>202
>学者の論文ではナくね?
歴史の専門家でも古典の研究者でもないね、少なくともw >>202
>でも、反論山盛りなのに
じゃあ反論書けばいいのに
誰もまともな反論書いてないけどw 九州は山が多いから昔は「ヤマ」と言った
って、どこの漫才コンビのネタだ? 無駄だよ、608年には北九州宇佐は辰王国であり王が存在し難波から畿内に入り当然河内大王墓を眼にし隋書は魏志言うところの邪馬台者であると言っておるのだよ。
前方後円墳が邪馬台者が造り上げた物なんだよ。
北九州は朴の瓢、タマゴ棺 >>208
>じゃあ反論書けばいいのに
>誰もまともな反論書いてないけどw
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない」って
コテンコテンに論破されてなかったか? 本当のは仁徳天皇は5世紀半ば〜後半の仁徳天皇陵の主でしょ
ひじり聖の帝
後々の片岡の聖伝説や菟原ウナイの処女伝説の常世に行った茅渟壮士に繋がるんじゃないのかな?
時鳥の別名はウナイ鳥 >>208
書いたよ。
文献の話は畿内説ではタブー
でもね。 スレには恩が有る。
畿内説で、文献の話はおかしいだろ? 『倭人伝』によると卑弥呼の墓の直径は百余歩ごあり、150m程度。3世紀半ばの古墳で該当するものは九州にはない。箸墓古墳の後円部の径は150mである。 >>210
少なくとも隋書には筑紫→秦王国まで行った記事は出ているけど、そこから先難波に行ったとは全く書かれていない >>213
>文献の話は畿内説ではタブー
なぜ?
文献の話も畿内説が勝ってないか? >>202
ソースこれかな
www.you○tube.com/watch?v=mhf9qR6fwUc >>214
墓守りがだれかだけど
古墳じゃなきゃ残らないかもな?
豪族の墓は記紀の焚書で盗掘。
これ、マメな。 >>211
>「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない」って
>コテンコテンに論破されてなかったか?
どの書き込み?
全く見てないけど >>202
もういっこ
www.you○tube.com/watch?v=ukMxeDE1pJg >>217
ありがとう。
もう、スマホなんで、明日また。 元々奈良湖があった時代のヤマトに住んでいたのは石亀さま
五色に光り輝く石を持つ陸のえべっさんでしょ
海は鳥の磐樟船に乗るひるこである浜のえべっさん
ある時海と山の縄張りを交換する話があったのかもな
ヤマト、クナト、ミナト
トは入り口の意味だろうな
山の入り口にある地、ヤマト
クナへの入り口にある地、クナト
水への入り口がミナト
ヤマトは意味的には山辺みたいな感じかもね >>210
日本書紀の遣隋使と裴世清の話は嘘なんやないかね?
隋書に書かれているものを見て創作した可能性がある
東の海岸ってどう読んでも九州の東の海岸やろ?
そこからどうやって難波に行ったのか全くわからない 近畿に住んでいれば分かるが紀伊半島の山々への入り口が大和盆地 宇那比姫(卑弥呼)陵
奈良県御所市玉手794 きつね塚
秋津島宮の方から眺めると巨大な土まんじゅうの形で、まさに径百余歩の円墳である。
日本列島では、直径150mの円墳は知られていない。 >>217
>ソースこれかな
>www.you○tube.com/watch?v=mhf9qR6fwUc
アホか
誰だ中国人が言ってるから正しいって言ったのは
元ネタ古田武彦ってばっちり映ってたぞ
なんだ和製珍説じゃねーか
w w w いくら言っても無駄だよ
紀は前方後円墳を造らない倭の別種が残した物だ、ウソであろうが608年には宇佐には秦王国があり秦王がいたのだよ。そしてその根拠は宇佐神宮をみれば充分
邪馬台者は地勢東高西低の地奈良盆地なんだよ。
北九州なら地勢の説明なぞいらんわ。
列島に仏教が拡がる以前に確実に神仙思想はあるのだよ指導者が居なければひろがらないのだよ
その指導者が卑弥呼であり箸墓に眠る巫女だよ
相応しい人物はその時代ただ1人さ。
卑弥呼になれるものは五斗米道巫女。他ではありえない。 >>225つづき
今日箸墓を卑弥呼の墓と主張する人は多い。しかし全長280mの大きさの古墳を、径百余歩と見誤ることはなかろう。
しかも後円部と前方部には二つの高まりがあり、鍵穴型の平面形状は、決して径というような表現が当てはまる古墳ではない。
この私の箸墓卑弥呼説に対する反論に対し、箸墓を卑弥呼の墓と主張する人たちは、径百余歩とするのは後円部を指して言った大きさとする。
しかし前方後円墳は平面プランを持って築造される。最初から前方部も築造が開始されるはずである。段築はそれを物語る。
後円部のみが先に完成するなどと言うことはあり得ない。
我が国で、今日知られている円墳で最大とされるのは、埼玉県行田市の丸墓山古墳である。直径105mとされる。
したがって径百余歩に該当しそうな古墳は、この玉手山の円墳を置いて他には存在しない。 なんかテレビ局が三流トンデモをかき集めてきた感じだな >>226
>元ネタ古田武彦ってばっちり映ってたぞ
どこにも映ってないやんw
都合の悪いことは見えない聞こえないですか?w >>230
>どこにも映ってないやんw
3:37 あたり
元ネタ古田武彦ってばっちり映ってたぞ >>231
>お前はそんなに偉いんかよwww
間違えてるやつより偉いよ 後漢書倭国伝で、107年に倭国王が朝貢したとあり、もう一つ魏志倭人伝に卑弥呼擁立の経緯が記されている。
卑弥呼擁立の前、2世紀後半に倭国大乱があり、その前は男王の時代が70〜80年続いたとありる。
とすればその初代は、倭国王の朝貢の時期と一致する。
つまり大和朝廷は107年の直前に成立しており、その初代が神武であった。
東征は100年頃のこと。
先に大和にいた長臑彦や饒速日命、その子の可美真手命は物部氏の祖で、高倉下とともに実在した。
当時西日本を支配していたのは出雲族であったが、事代主の娘・五十鈴姫命が神武の皇后に、
妹の五十鈴依姫命が2代・綏靖の皇后になった。
大和朝廷は、出雲族を取り込んで権威を強化した。
一族は大神氏として、大神神社を奉じた。
先代旧事本紀は、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したもので、乙巳の変での蘇我蝦夷邸の火災の中から、
一部だけが持ち出されて焼失を免れたものである。
丹波の支配者の系図を伝える海部氏の勘注系図が籠神社にある。
今は国宝に指定されているが、代々極秘の文書とされてきた。
その系図の6世孫に宇那比姫の名がある。
尾張氏の系譜にもあり、7人兄姉の末妹であった。
大倭姫、さらに天造日女命という尊大な別名を持ち、巫女の名もある。
和邇氏の祖、天足彦国押入命の妃になっている。
和邇氏の子孫である静岡県磐田市にある国玉神社の系譜にもあった。
魏志倭人伝には、卑弥呼に夫はなく、男弟が補佐をしていたとある。
卑弥呼に弟はいないが、夫亡きあとの義弟、6代・孝安がいた。
奈良県天理市の東大寺古墳は、和邇氏の墓とされているが、中平の銘のある刀が発見された。
184〜189年の年号で、時代が合う。
孝安の宮は奈良県御所市の室秋津嶋である。
この北東約1kmに孝安天皇が葬られたとする玉手山がある。
そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。
尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。
勘注系図には、宇那比姫の3世後に同じ大倭姫の名を持つ女性がおり、天豊姫の別名があった。
これこそ同族の台与であり、記紀では9代・開化の妃となっていた。
8代・孝元の時代に国中不服の乱があったので、台与が擁立された。
11代・垂仁でようやく大和朝廷は安定し、纏向時代となる。 >>192
前も書いたけど現代中国人は古代漢語のネイティブじゃないから。
あなたは、源氏物語をネイティブみたいに読めるんですか? さらに言えば中国人の研究者の論文を読めばわかるが多数の日本語の参考文献や日本の研究者の論文の引用がなされてる。
中国人が中国人だけで日本の学会の影響を全く受けずにたどり着いた日本古代史の結論なんてものは、どこにも存在しない。 例えば>>200のリンク先にある大阪教育大の張莉という人は邪馬台国畿内説で、三角縁神獣鏡中国鏡説のひとだ。
しかし、だからといって中国人が言っているのだから畿内説が正しいなどと主張する畿内説の人はいない。
九州説だけがそういった主張をしたがる。 絶対王者通説畿内説が中国人学者に動揺しているのは滑稽だ
文献しか読んでないのだから、九州説になることは全く不思議ではない
魏志倭人伝を読んで0.1%
残り99.9%の考古学を学んでやっと辿り着ける領域が通説畿内説だ 実際に存在する前方後円墳の辻褄があう話にしてくれないかな
神武とか崇神とか結構な話だが筑紫に御先祖様の地がないのはおかしいであろう
聖地は列島には無い、半島から東遷したのだ
無駄だよ、出鱈目な思い入れを話ても。 >>239
>絶対王者通説畿内説が中国人学者に動揺しているのは滑稽だ
そういう妄想の方が滑稽だよ
鎧袖一触で論破されたろ中国勢 >>236
え?おまえ、外国人並みに日本の古典が読めないの?
現代では使われていない言葉や文法でも、日本語の基礎になってんだから日本語が母語なら感覚的に読めるはずなのに >>240
列島と同じ倭人の支配地域につくったってだけだろ
あほか >>240
佐賀福岡は記紀に出てくる神話の神さまの神社だらけだよ
宗像が有名かな 弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)
しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう
北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)
しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)
私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える
タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう(欠史八代などを考慮すればタイミング1の可能性が高いか?)
初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはその敵の勢力)
(続く) (続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった
北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる
翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる
こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」 >>200
『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない
これ致命的だよなw >>250
ついでに隋書倭国伝を読んでも九州から東に行ったようには読めない >>250
どうして?
日本に、東に海のない場所なんて一つもないぞ ネトウヨはまだ邪馬台国は九州などというカルト宗教から抜けられていないようだな
統一教会のニュースを読むと分かるがカルト宗教というのは本当に恐ろしいものである
アベという男はこのような恐怖の団体に支えられた恐怖の総理であった
まず邪馬台国は大陸との交流が深かった
纏向の前方後円墳などは一目見て大陸の天円地方の思想が現れていると分かる
前方部は大地を後円部は天を象徴しているのだろう
カルト宗教の統一教会ネトウヨには理解できないだろうが東洋には先祖を厚く祀ることで子孫が栄えるという思想があった
今の日本で位牌を作る文化もここから来ている
これはオレの推測だが邪馬台国では大王たちを地に埋葬するのではなく天に葬りたかった
だから円丘を作ってこれを天界に見立ててその中心に埋葬したのだろう
そして前方部は後円部の天を祀る祭壇の地上の設置場所あった
邪馬台国の卑弥呼の箸墓が壮大なものになったのは偉大な女王であったからだろう 韓国や中国では陰宅風水といって墓地の良し悪しによって子孫の運命が左右されるという考え方があった
弥生時代の日本には既に方相氏の祭りがあったようだから墓地の良し悪しという発想も伝えられていたはずである
前方後円墳というのは当時の倭人が究極の吉相墓をデザインしようとして産まれたものだろう >>251
魏志は南へ南へとルートをとるが隋書は東へ東へとルートをとる
半島から九州への渡海ルートも全然違うし
筑紫から東にいき秦王国(宇佐)を経由して(東に海を渡って)十余国経ると(難波津の)海岸に達する >>255
(東に海を渡って)十余国経ると(難波津の)海岸に達する
東に海を渡った描写は全くない >>256
海岸を九州の海岸ととるか、難波津の海岸ととるかで変わってくるけど
秦王国を宇佐とするなら十余国は瀬戸内沿いの国だな >>255
>筑紫から東にいき秦王国(宇佐)を経由して(東に海を渡って)十余国経ると(難波津の)海岸に達する
この秦王国は下関辺りの国で、瀬戸内海を東に進んで十余国経ると、さぬき市難波郷津田の海岸が達した。 @阿波 魏志 女王国の東に海を渡るとまた倭種の国がある
後漢書 女王国の東に海を渡ると拘奴国があり女王に属さない
↑
この間に一体なにがあったのか?
↓
隋書 筑紫国より東はみな倭に属す 箸墓を見れば、巨大な前方部に注目せざるを得ない。
倭人伝の卑弥呼の塚の描写にのなかに、前方部について触れている部分がない。
魏使が見たのは建造途中で、前方部はその時は完成してはいなかったなどという説明は無理だろう。 隋書倭国伝では儋耳相近。
邪馬台国はフィリピンだよ 262ではないが、
実際に造るところを見た人はいないので、講釈師、見てきたような嘘をつき。になるかもしれないが
https://i.imgur.com/PmsnyDj.jpg 邪摩臺(ヤマタイ)が登場する文献は後漢書
邪馬臺=代々王が住んでいた土地
魏志倭人伝では邪馬壹(ヤマイ)と記載されている
後漢書の注記に邪摩臺は邪馬壹が訛ったものだと記載されている
編纂時期は魏志倭人伝の方が先
そして魏志倭人伝に「女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある」と書かれている
つまり畿内は東の倭種の国でしたと >>266
>後漢書の注記に邪摩臺は邪馬壹が訛ったものだと記載されている
そんな変な記述は無いよ >>261
後漢書魏志は倭人伝
240年247年の郡使で九州まで。
隋書は遣隋使の帰国便で、
隋使が瀬戸内海諸国で中国人都市見て
奈良まで来てタリシホコに会っている。
日本では小野妹子の時の話
聖徳太子が法隆寺建てた時だろ? >>261
魏志と後漢書の間にも変化がある
南の狗奴国を平らげたから東の狗奴国に矛先を向けた
狗奴国というのは筑紫に歯向かう勢力への一般的な呼称だろう
後漢書と言いつつもずっとあとの倭国観で書いたんだろうね >>269
後漢書時には既に隋の情報があった。
九州の南に狗奴国は無理と判断。
東の国とした。
聖徳太子も
倭人伝の倭は九州だ、と判断して
統一前の昔の小国だ、と言った。 >>261
>隋書 筑紫国より東はみな倭に属す
この時代は倭種の国が倭国として朝貢している時代
しかし九州は属していない
また秦王国という外国人国家が九州と畿内の間に存在している
つまり倭奴国〜邪馬臺国時代は倭国=九州の時代
その後は倭種の国々が倭国となり、九州はずっと独立政権のまま
しかしどちらも倭国として朝貢していた
(朝貢時に現地で両者が揉めた記録もある)
そしてようやく7世紀に初めて九州+倭国=日本となったわけよ ほぼ全ての記録文献が九州=邪馬台国と明示している
畿内は後発の新国家だ
それがヤマトだが中国に対しヤマトと名乗った記録は無い >>272
隋書の成立が日本書紀より後なら、トンデモ説になるが、事実は日本書紀の方が後よって隋書の記述を見て創作した可能性もある 日本国の正史では、初の朝貢は7世紀末〜8世紀はじめ
それ以前の朝貢記録では、
倭奴国はじめ北部九州の30国のみ
↓
北部九州とは別に倭種の国々も朝貢するようになった
↓
北部九州+倭種の国々で日本と名乗った
↓
倭王が筑紫→大和州に移った旨を日本記に記し中国に提示した
それを中国がコピペしたものが新唐書だ 字義から考察すれば、ここまで見えてくる新解釈!
24 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/16(日) 19:49:35.97 ID:hvNoR2Q00
畿内の邪馬台国は、北部九州の分家
邪馬台国の官トップは
伊支馬 = 伊(伊都国)から枝分かれした馬
あてた字を見れば一目瞭然な分家
北部九州から移ったのではなく
本家から分かれた分家であり
本家の北部九州は、倭の五王ひいては、それが筑紫君へと繋がる 卑弥呼時代は、九州
臺與時代で、西日本一体に拡大
この間に、国譲り神話あり
狗奴国は、国津の国 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 卑弥呼時代の畿内は開拓に追われていたので朝貢には行けなかった
その後次第に国を形成するようになり、朝貢に出向くようになった
倭の五王時代なんてのがその時代だ >>271
卑弥呼以降日本は富国強兵政策に転じ
四郡が無くなる313年以降は、
半島進出と牛馬の移入、鉄や銅製品の
生産も本格化した。古墳時代である。
370年に高句麗を追い百済新羅を建国
400年~500年、倭の五王は
南朝に対して幽州刺史楽浪候の高句麗
との交戦と半島利権を認めさせる交渉に向かう。
500年以降は南朝が没落
隋の成立まで交流相手がない。
600年の隋使の招請以降、
遣唐使外交が始まる。 又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷洲、疑不能明也。又經十餘國達於海岸、自竹斯國以東、皆附庸於倭
難波に行ったと読み取れる記述は全くない つまり今の日本史は大きくは間違っていない
単に畿内説が日本は紀元前からヤマト王権一統だったニダと妄言を垂れてるだけ 後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
つまり弥生時代の鉄器共有地域=邪馬臺連合国ってことよ
【魏志より】
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png 190年から247年の女王が
生涯独身の卑弥呼
で
男王が立つが諸国は不満で戦乱
13才の少女か擁立されて収まった。
そんなヤマト朝廷無いよwww
てか、
戦国城主レベルでも小国で
王朝じゃないような? >>290
DNA調べてみ
お前高確率でワイ族だから
思考回路も遺伝すらるからすぐわかる 韓国栄光の半万年、日本はしょぼい新興国って叫びたい人がいる気がする >>292
民族は単一Y-DNAではないので
文化で分類しなければならない 日本は神武天皇の72代前、ウカヤフキアワセズノミコトから連綿と続く国家である つまり畿内説は半島系DNA持ちによるオレオレ詐欺でしたと
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png 日本書紀や続日本紀には朝廷が邪馬台=耶麻騰、野馬臺と書いてるし。
九州は江戸時代以降の国学者が作った皇国史観説だし。証拠ない。 對馬國 *təsVma tusVma
一支國 *ike
末盧國 *matrɔ
伊都國 *itɔ
奴國 *nɔ
不彌國 *pume
投馬國 *toma
邪馬臺國 *jamatə
斯馬國 *sema
己百支國 *kɨpake
伊邪國 *ija
都支國 *tɔke
彌奴國 *menɔ
好古都國 *hokɔtɔ
不呼國 *puhɔ
姐奴國 *sanɔ
對蘇國 *təsɔ *tusɔ
蘇奴國 *sɔnɔ
呼邑國 *hɔipV
華奴蘇奴國 *wanɔsɔnɔ
鬼國 *kui
爲吾國 *waiŋgɔ
鬼奴國 *kuinɔ
邪馬國 *jama
躬臣國 *kuŋginV
巴利國 *pari
支惟國 *kewi
烏奴國 *ɔnɔ
奴國 *nɔ
狗奴國 *konɔ >>303
倭人伝読んでも邪馬台国が九州にあったようにしか読めんので、
国粋主義者たちが「熊襲が中華に朝貢した」「卑弥呼は九州の女酋」と言っていたわけやろ? >>284
>どこの海岸に達したと思うの?
さぬき市難波郷津田の海岸。 聖武難波の宮に、海岸はない。 @阿波 >>303
正しくは、江戸時代の学者が畿内説は間違いだと気付いて九州説を唱えた
今の畿内説は詐欺の上塗り >>284
>どこの海岸に達したと思うの?
さぬき市難波郷津田の海岸。 聖武難波の宮に、海岸はない。 @阿波 倭人伝を(考古学などの知識なく)合理的に解釈すれば、北部九州説しか成り立たない。
考古学はそれを当時の列島の状況を反映したものではないとする。
しかしなぜか、卑弥呼や邪馬台国という言葉は捨てない。やはり飯のタネは捨てられないのか。 国学者の説は熊襲【偽僭】説だから
大和の天皇に成りすましたということ
つまり、他国をだまくらかして賜りものを騙し取ったという説 北部九州説というのは数十年前までの考古資料が根拠
倭人伝の行程記事なら北部九州は確実に通り過ぎる >>313
知ってるよ
熊襲が朝貢したのには変わりないやろ? 考古学研究成果によって、
畿内大和と筑前博多が密接な交流関係であることが明らかになったことで
だまくらかすのは無理なので、
山門あたりの先住民がホラこき有害異民族だと九州でも考えられていたというのだけが残った これがアホ統一教会のお経
>316:日本@名無史さん:2024/03/11(月) 15:52:41.68
>考古学研究成果によって、
>畿内大和と筑前博多が密接な交流関係であることが明らかになったことで
>だまくらかすのは無理なので、
>山門あたりの先住民がホラこき有害異民族だと九州でも考えられていたというのだけが残った 牛も馬もいない
船も丸木舟
人の移動、物資の運搬は全て人力
街道も整備されていない
海には海賊がうようよ
鉄器も九州>畿内
そんな時代に、纏向が、遠く離れた先進地帯の九州を支配していたと畿内説は考えているのですね
どうやって軍隊?を送ったのだろう 畿内の勢力が軍隊を送って九州を支配していた
と考えている畿内説の学者はいない
海賊というのはどこのことを言っているのかな? 東遷があったかどうかは知らんが
西の勢力がヤマト王権を創ったのは確かのようだ。
ここでキーになるのが、武力!これは文明!
いかに大陸の先進的な文明がどの地に根付いたか。
それは九州一択でしかない。 武力の前に農業で国の国力を増大させなければ兵が集まらない
九州のどこで稲作農耕社会が形成され
もっとも発展している中心地はどこなのか
まずその観点で一人一説雑多九州説を一つの説にしなければだめだよ 特に奈良の可住地面積は日本で最も狭く大阪はまだ河内沼の時代
出土する農具は木製ばかりでガッツリ耕せる鉄製農具は見られない
何より人が住んでいた様子も希薄
畿内説の根拠はどれもスカスカ >>320
日本海ルートに関してはBC200から青銅の輸入が有る。
九州は銅鏡文化で青銅器の輸入だが
日本海ルートは銅鐸文化であって青銅で国内製造である。
九州での青銅器複製はAD100には始まっていた。
出雲や青谷上寺地などが中心地だろうが、
近江淡路島吉備にも出るので陸上交通も通じている。
尾張、東海、武蔵、甲信に通じるのは
AD100以降で200近いのではないだろうか?
これが、日本海から畿内中央への移行だと思われる。
九州の併合は、魏が公孫氏と韓王朝を滅ぼした246年が濃厚。
これが、倭人伝であるwww 現代の奈良の可住地面積が最も狭くても
奈良時代に奈良に都があったのは歴史的事実なので
現代の可住地面積を根拠にする馬鹿などはおらん >>328
その都は何戸だよ?
人口が爆発的に増えてた時代だが全人口の何%だ? まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! つまり畿内説は妄想統一教会が飯の種にしている壺でしたと >>333
奈良盆地は20人ぐらいやろ
当時の住居跡が無い >>310
投馬国と邪馬台国で九州説に疑問が生じる
そこで初期の超素人九州説では、投馬国を無視することになる >>336
魏志倭人伝では、纒向を首都とした邪馬台国が7万戸 >>338
碌に鉄器さえも作れない纏向」だけどな。 @阿波 里数があれだけ盛られてるのに日数も戸数も正確だとするのはNG >>335
纏向遺跡から住居跡が出て無いだけで、奈良盆地に住居跡が無い訳では無い。 >>339
>大阪まで行っていないかもしれんね
だから、行ったのは、さぬき市難波郷津田の海岸。 @阿波 教育上よろしくないので住居跡すら出ていない遺跡は教科書から削除するべきでは? >>344
それは皇居をなかったことにするに等しい >>344
纏向遺跡は、純粋な、祭祀、政の為の遺跡だから価値が有る。 >>346
九州説は魏志倭人伝を無視しようというのか? >>342
>奈良盆地に住居跡が無い訳では無い。
高地以外は、土砂に埋まった消滅遺跡ばかり。 @阿波 >>328
奈良には豪族が育つ経済基盤が無い。
日本海、尾張、吉備、摂津、近江という諸国が、宮を集めて
都を形成するという意図で、作った可能性が高い。
ヤマト朝廷は、軍事侵攻で拡大したというよりは
豪族間の婚姻、調略での権力構成なのである。
もちろん、警察権、領地認定、徴税、徴兵での
軍事権は必要だが。
形成期には、皇帝からのトップダウンにはならない。
諸国の豪族、藩主?が意図的に
奈良を選択しなければ首都は形成されない。
その後、天皇の後宮性治が始まる。
それが奈良時代だが倭の五王は大阪湾だよ。
纏向は早すぎたw 【重要】伊都国と邪馬臺国が「又」で接続された記録まありますね
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg ヤマト王権の初期は連合国家で弱体と言われていたが、桜井茶臼山の銅鏡103面から、すでに巨大な王権であったと見直しを迫られている 玄界灘から見て、山の向こう
あたりの意味だろうな
ヤマト 中国史書を読んだ中国人な解釈
https://i.imgur.com/hGyWM1v.png
北部九州一帯を邪馬台と比定している
投馬国があるとしたらその北だ
「其の北岸」地域だな >>361
投馬国を九州内に見つけることをあきらめたのが九州説 >>363
なんで九州内で見つけないといけないのだ?
じゃあ畿内説は畿内に投馬国を見つけたのかね? 住居跡が見つからない遺跡は比定地として間違っているので教育上よろしくないので教科書から削除するべきでは? >>363
中国の教科書に、半島には倭人が住んでいたと記載されている
それが投馬国の事だろうよ >>368
だな
倭人支配地域だから倭人伝に記載したが、倭人割合が低いから風習などは記載せず >>368
5万戸の超大国倭人国家が半島にあるわけがない なお、郡から女王国まで12000里であり、倭は周旋5000余里
つまり邪馬台国=北部九州一帯で合ってるんだよ 放射読みなどというものがなぜ出てくるのか全く分からない
放射読みなるものをすると、不弥国でストップしてしまう
こんなものは到底採用できない >>370
また畿内説お得意の希望的観測断言かw
半島南部はほとんど未調査だろ
半島南部沿岸に倭人が住んでいた事は確認されたとの事 >>373
5万戸の超大国があるわけがないし、そのような証拠もない
また、不弥国まで行ったのになぜまた半島に戻るのか、全く意味不明である >>372
文章読解力無いのか?
帯方郡から不彌国or奴国までの里数行程
帯方郡から投馬国そして邪馬台国までの日数行程
どちらも同じ行程だ
日数表記の行程は里を知らない倭人が中国に伝えた内容だ
全く土地勘の無い陳寿が直列行程のように記載してしまった
それだけの事よ まず根本的に不弥国から水行するルートそのものが不自然だからな
末盧国から水行、伊都国から水行、奴国から水行でいいんだ >>376
全く理解不可能
あなたは理解できますか?
不弥国まで来てそこでストップして、いきなり「帯方郡→投馬国は水行二十日で5万戸である」と説明する人がいたら、狂人が書いたとしか思えないでしょう だから200年から250年の倭王は
倭が日本の話なら、畿内に居ただろ?
女王じゃ無くネ? 神功皇后は歴史の話か?
190年〜247年までは、九州北部で卑弥呼が王かなんか?
だけど九州北部2千里、以南の狗奴国は支配下に無い。
武田と上杉の戦争は、倭王の話か?
魏と呉、蜀もだけど?
みんな、天皇かよwww
大倭王なんて居るのか? 倭人伝なら
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
魏使、張政は大倭の存在を見た。
倭王の 遣使 詣 京都、その他外交は、一大率 檢察が見ている。
傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
女王卑弥呼への皇帝の文書も例外ではない。
邪馬台国は、一大率によって主権国家じゃ無いだろ?
だから、倭人伝を正しく読めるなら
卑弥呼はただの九州の女酋長なんだよ。
読めてない、理由が解んないわwww 魏志倭人伝はパッチワーク
里程記事と日程記事は系統の異なる資料だったのでしょう
陳寿が誤って、連続するように配置してしまった >>376
短里で不弥国までは測定したんでしょう?
残りたった1300里だ
普通、「水行500里で投馬国」、「水行陸行800里で邪馬台国」と書くべきである。
九州説の場合には >>351
少なくとも、難波郷という旧地名が残り、小豆島と淡路島を同時に見ることが出来る海岸である。
大阪聖武難波の宮には、海岸さえ無い。 @阿波 >>380
隋書の時の天皇は推古天皇なので問題なし 纏向宮なら崇神の御所じゃないとおかしいじゃないか。
卑弥呼の宮室に比定してる時点で間違い。
そもそもハシラ穴をちょろまかして始まっとるし
さっさと教科書から削除しろ。 >>383
事績で言うなら、応神や仁徳と同一人物だな。
そんなラノベは成立しない。
記紀は、修正しなければならない、の極致。
日本は倭人伝の246年で富国強兵政策=古墳時代に突入
牛馬を移入、鉄の国内生産を実現して
370年仁徳天皇は百済新羅を後援独立させ
400年、幽州刺史楽浪候の高句麗との交戦権
を求めて、倭の五王外交が始まった。 >>382
>短里で不弥国までは測定したんでしょう?
実在しない単位では測定できないよ >>270
後漢書は432年頃完成だろ
これだから烏合の衆九州説は困る >>390
陳寿は順次で読むべきことを知っていたのでそうしただけだ >>389
中國正史陳寿と247年の郡使張政の共通概念だが?
何故三国志と言う漢から晋までの歴史で
陳寿は倭人伝、正始年間の公務員の報告書に
短理の使用を容認したか?
以降の印刷の版本でも
正始の張政の里程がまかり通ってるだろ?
それは、中国史の課題だ。
ネットで倭人伝論争に出て来たのか?
しらんけどw 陳寿は短理なんて採用していない。
邪馬台国もだ。
魏時の魏使の報告書を
正しく引用しただけの話。
別人の文章引用してんだから
一貫性とか、無いし、筆致で段落分けれるだろ? >>393
短里などない
渡海した4箇所全て1000里
どう考えても測ってない >>395
どう考えても測っている。
狗邪韓国(巨済島)
↓海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(着岸地 上対馬町 出航地 厳原町)
↓【南】海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(着岸地 勝本町 出航地 郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市(万津浦)辺り)
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>396
1里50mの場所があるのに、測っていると言い張るのはおかしい 畿内説スレでは原文は無意味なんですが?
読みますか? もう一回上げても良い。
テンプレ1000回は乙ですがw
倭人伝を読む、というのは
意見でも、説でも無いのです。
200年から250年の倭王は畿内で良い。
倭人伝の魏使の報告は九州から出てない。 >>397
>1里50mの場所があるのに、測っていると言い張るのはおかしい
測っていなかったら、全部70mにしているはず。 @阿波 >>401
意味不明
測ってないから渡海4つは全て1000里 >>402
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
紀伊半島(有田辺り)
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>403
測っていなかったら全部70mにしてるはずって何? 4箇所全て1000里になるなんて奇跡が起こりうるか?
起こり得ない 漢書西域伝では、1里単位で距離を書いている
1里70mのところがあり、50mのところがあり、それで短里で測ったんだと
到底このような説を認めることはできない >>405
つまり、最初から短里があったという結論があるから、このような全くおかしな恥ずかしい反論を、@阿波氏は書いてしまったということ >>413
>1里は432mである
畿内説は短里でもなく、長里でもないのでは? @阿波 >>413
>1里は432mである
畿内説は、距離も方角もないものとする説では? @阿波 >>413
>1里は432mである
畿内説は、「竪穴式住居」が無くても、大集落とする説では? @阿波 邪馬台国論争の面白さは、文献ではなく考古だが、これに乗ってみたいと思う。
まず、短里なる概念が生まれたのは九州内に邪馬台国を設置する為でしょう。
しかし、邪馬台国を九州内に設置した場合でも、不弥国からの残り1300里が問題となる。
ところが、肝心の魏志倭人伝には不弥国→邪馬台国の里数は1300里とは書いていない。
不弥国→投馬国水行二十日→邪馬台国水行十日陸行一月である。
そうすると、1里=432mで残り1300里を計算すると、畿内説の方が圧倒的有利になる。
これは非常に困るということで編み出されたのが「短里」であろう。 >>417
畿内説は不弥国までは短里で
それ以降は標準里をつかうの? >>417
>不弥国からの残り1300里が問題となる。
長里では、「不弥国」までの10700里が問題となる。 @阿波 >>418
短里は使わない。
経由地が増えれば(例えば、狗邪韓国→対馬→A島→B島→壱岐→末盧の場合、帯方郡→狗邪韓国を5000里にする)、
柔軟に帯方郡→狗邪韓国の里数を変える。 つまり畿内説は頭の悪い考古学オタクがでっち上げた妄想作文でしたと 中国 方万里
韓国 方四千里
倭国 周旋五千里
実際の距離じゃなくて概念的なものでしょ
常識的に考えて >>420
>不弥国からの残り1300里が問題となる。
長里では、「不弥国」までの10700里が問題となる。 @阿波 >>423
問題にならない。
>>420の通りである。 >>420
>柔軟に帯方郡→狗邪韓国の里数を変える。
つまり畿内説は、距離も方角もないものとする説である。 @阿波 >>420
>柔軟に帯方郡→狗邪韓国の里数を変える。
つまり畿内説は、距離も方角もないものとする説である。
そして、畿内説は、「竪穴式住居」が無くても、大集落とする説でもある。 @阿波 短里が存在するならば、
本来は壱岐の記述はなかった方が良かった。
狗邪韓国→対馬
対馬→末盧
であるならば、1里の距離は安定していると言える。
ところが、壱岐島→末盧はわずか40キロにも満たず、1里は約40m未満である。
壱岐島→末盧国が短里の存在を破壊してしまったのである。 >>420
>柔軟に帯方郡→狗邪韓国の里数を変える。
つまり畿内説は、距離も方角もないものとする説である。
そして、畿内説は、「竪穴式住居」が無くても、大集落とする説でもある。
要するに、畿内説にとって「魏志倭人伝」は無用の長物であり、「邪馬臺国」の存在も眉唾物という訳である。 @阿波 >>428
長里の存在は破壊されたと言えない。
なぜなら、不弥国から纒向邪馬台国へは長里の方が合致するからである。 >>430
つまり畿内説は、距離も方角もないものとする説である。
そして、畿内説は、「竪穴式住居」が無くても、大集落とする説でもある。
通説畿内説ではこのように考える。 @阿波 >>431
>なぜなら、不弥国から纒向邪馬台国へは長里の方が合致するからである。
合致しない。 通説畿内説ではそのように考えない。 @阿波 景行天皇十二年九月五日
周防国佐波津(山口県防府市)より南望し、多臣の祖武諸木、国前臣の祖菟名手、物部君の祖夏花を検察に行かせる。
すると一国の魁師である神夏磯媛が、磯津山の榊の上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊をとりかけ、
そして船の軸に白旗を掲げて近づいてきた(三種の神器の初出)。
豊前国の長峡の縣(福岡県行橋市)に行宮を建て、名付けて京(みやこ)という。
十二月五日 襲国 熊襲の八十梟師 市鹿文を火の国造にした。
この三種の神器を差し出した女酋こそが、ウカヤ王朝の九州残党ではなかったか・・・ >>431
通説畿内説とは、奥山個人の考えと、通説畿内説ではそのように考える。 @阿波 九州の東征は4世紀後半じゃないか
円墳と蛇行剣
4世紀後半大和盆地に現れ4世紀末には豊中や堺でも認めるようになる
蛇行剣は九州南部で大流行していた剣だ
竹内宿禰鳥日向牛諸井、配下の鹿皮の服を着た人々、赤い娘髪長姫
応神天皇の妃は吉備の姫
4世紀末の上石津ミサンザイ古墳は吉備の造山古墳と相似形
それ以降はまた形が変わる
摂津国風土記逸文には、夢野、兎我野伝説という淡路島の妾に会いに行った鹿が矢で撃たれる話もある
4世紀半ば〜後半に先ず大和に侵入した円墳と蛇行剣の勢力は5世紀になると畿内から見られなくなる ネトウヨは神代文字やら竹内文書やら東日流外三郡誌などを信じているからな
宗教的な神話設定と歴史的事実を同じにしようとしているんだよな
キリスト教徒の多くは地動説や進化論を肯定しているし、仏教徒も地球は丸いと信じているだろう
信教の自由があるから何を信じても良いが歴史学を捻じ曲げるのは野蛮な態度としか言えない
ネトウヨはキリスト教徒や仏教徒の態度を見習ったらどうかと思う つまり畿内説は、距離も方角もないものとする説である。
そして、畿内説は、「竪穴式住居」が無くても、大集落とする説でもある。
要するに、畿内説にとって「魏志倭人伝」は無用の長物であり、「邪馬臺国」の存在も眉唾物という訳である。
と考えないと奥山は言っている。 @阿波 丹後国風土記逸文の筒川嶋子、水江浦島子の話がある
雄略天皇の時代に、五色亀と共に蓬国、常世の国に行った話だな
玉手箱を開けた浦島子は風雲に乗り天に上がったという
浦島太郎は白髪武広国押稚日本根子天皇だと思うんだよね
その後は天万国万押磐尊の2人の子が即位する
石を持って升を作り桶オケとした播磨風土記の記述
石亀さんは奈良ではイワッタさん
元々奈良湖に住んでいたのは石亀
長い年月を経て里帰りしたんだろうね NHKの卑弥呼の番組心配やね
箸墓は卑弥呼の墓と放送しそうで怖い
大物主の妻の墓なんだけどなぁ
親魏倭王の金印は何処にあるのか?皇室が持っているのか?
魏と外交が継続されていたので金印は台与に受け継がれたのは間違いないだろう
摂津国風土記にトヨウケという神さまが一時摂津の稲倉山にいたという記述がある
延喜式によればトヨウケの別名はウカノミタマとある
ウカノミタマが黄金の箱と水晶玉を授ける伝承が信太山の葛の葉伝説として残り、実際信太山の和泉黄金塚古墳からはヒスイなどの大量の勾玉と共に日本最大の水晶玉と卑弥呼の鏡とも関係する景初三年の銘のある鏡が見つかっている
ウカノミタマは住吉大社の楠珺社の神さまで和泉は楠に纏わる伝承が残る地である
珺は麗しい玉の意味やね
また豊聡耳、聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えてきた伝承が聖徳太子廟のある叡福寺に残っている
トヨ豊とウカノミタマと楠は関係が深いワードなんだな
璽は天子の印を表す漢字である
最後の和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊
璽と豊トヨの字が含まれているのは興味深い NHKがIQ低い九州説なんてやるわけない
3月17日(日)
午後9:00?午後9:50(50分) 総合(011)
NHKスペシャル 古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
古代史最大のミステリー、邪馬台国の謎を徹底検証!新発見続々!女王・卑弥呼はどこにいた?
三国志の最新研究で迫る外交戦略!宿敵との争いの結末は?驚き満載の歴史ロマン 相変わらず吾輩を脅かす者はおらんな
神武の詔勅の通り九州の民心は朴素(パク素)だな
神武より前は六部であったが八部で国を治めましょうだよ。
卑弥呼は神仙思想を学んだ中華の巫女。
卑弥呼以前、後々は韓人の国。 >>417
そういうおかしな結果になるのは計算が間違ってる。とは考えないのか? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww NHK見ながらでも証拠は?とかブツブツ言ってんだろうか? 出雲国一宮熊野大社
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
神武天皇の兄、御毛沼命、三毛入野命と非常によく似た名だな
記紀では三毛入野命、御毛沼命は常世に去ったとある
和泉国風土記逸文には和泉国は三毛入野命の所領だったとある
まだまだ謎がありそうだな 若御毛沼命、豊御毛沼命、狭野は神武天皇の名だ
櫛御気野命、スサノオ、スーサノー男
同一かと思うほどそっくりだ 国作りにもヤマト政権の始まりにも九州南部は全く関係ないんじゃなかろうか? >>445
吉野ヶ里と纏向をするという記事があったな 邪馬台国が纏向なら、狗奴国は河内湖の南の河内和泉紀伊半島の可能性も出てきたな
弥生時代末期から始まる熊野の阿須賀神社の集落跡からは、大阪湾と同じ形の製塩土器が見つかっている 教育上よろしくないので住居跡が見つからない遺跡なんぞ教科書から削除するべきでは? 對馬國 *təsVma tusVma つしま
一支國 *ike いき
末盧國 *matrɔ まつら
伊都國 *itɔ いと
奴國 *nɔ な
不彌國 *pume ふみ
投馬國 *toma たま
邪馬臺國 *jamatə やまと
斯馬國 *sema しま
己百支國 *kɨpake いわき?
伊邪國 *ija いや
都支國 *tɔke とき
彌奴國 *menɔ みの?
好古都國 *hokɔtɔ ぬかた はかた
不呼國 *puhɔ ふは
姐奴國 *sanɔ さの?
對蘇國 *təsɔ *tusɔ とさ
蘇奴國 *sɔnɔ さぬ?
呼邑國 *hɔipV おき? ほうき?
華奴蘇奴國 *wanɔsɔnɔ はなぞの?
鬼國 *kui き
爲吾國 *waiŋgɔ いが?
鬼奴國 *kuinɔ
邪馬國 *jama やま
躬臣國 *kuŋginV くし くす
巴利國 *pari はり
支惟國 *kewi きび
烏奴國 *ɔnɔ あな
奴國 *nɔ な
狗奴國 *konɔ くな くの 邪馬台国はヤマト国で正しい
魏志倭人伝の方位や方角を議論し合うのは馬鹿げている
同時代の書物が大秦国(ローマ帝国)や安息国(アルサケス朝パルティア)の方位と距離を正しく記載しているか?
ネトウヨはバカだからパルティアという言葉すら知らぬであろうが、あくまで地理の記述は体感距離であり正確ではないと直感的に分かるだろう
魏使の個人の感想です、という体感について議論するのは馬鹿げている
比較言語学や考古学で追求するべきなのである 教育上よろしくないので、楼観・城柵のない遺跡なんて削除すべきである >>462
なんで、方位や距離はデタラメだとするのに、卑弥呼や邪馬台国の存在はデタラメだとしないの?
その根拠を教えてください。 >>439
富雄丸山古墳(4世紀後半)の蛇行剣は国内最古 >>467
対馬から壱岐の距離は印通寺まででは無かろうよ 壱岐最北端から呼子の距離にするなら
対馬最北端から壱岐最北端の距離にしないとな <邪馬台国>吉野ヶ里&纒向遺跡の研究最前線取材で新事実紹介 シシド・カフカが卑弥呼役で歴史ドラマ
邪馬台国と女王・卑弥呼を特集した番組「NHKスペシャル『古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る』」が、
3月17日午後9時からNHK総合で 記紀では台与の新女王擁立が、天照大神の天岩屋戸からの再臨とした。
女王擁立当時13歳であった台与は、張政を摂政として邪馬台国の経営にあった。
天照大神の岩屋戸隠れの前は天照大神からの指示が多く記されるが、天岩屋戸隠れから再臨した天照大神は、高御産巣日神との共同指令が多くなる。
「天照大御神、高木神二柱の神の命をもちて」である。
これは、台与を天岩屋戸から再臨後の天照大神に、張政を高木神にそれぞれ神格化したものである。
張政が台与の女王擁立から西晋に帰国する266年(泰始2年)までの約18年間、摂政として台与を補佐してきたことを物語る。 >>460
>神武天皇の幼名をサノというな
神武の幼名 狭野 さぬ
佐野皇子(神武天皇)を祀る神社 「佐野神社」(徳島市渋野町佐野)
神武天皇の陵墓 畝山の東北陵跡 「秋葉神社」(徳島市丈六町丈六寺山)
神武天皇の兄・五瀬命を祀る神社 「五世神社」(名東郡佐那河内村下寺谷) @阿波 すでにタカミムスビは考察済み
430 日本@名無史さん sage 2023/07/20(木) 19:46:53.40
「魏」とは? 部首・画数・読み方・意味 - 漢字辞典
音読み: ギ; 訓読み: たかい; 種別: -. 意味. ①高く大きいさま。「魏魏」「魏然」 [類]巍(ギ) ②中国の王朝。また、国の名。「魏志」「魏書」
709 日本@名無史さん sage 2023/06/27(火) 07:51:03.37
・曹魏を擬神化 タカミムスビ
(アマテラス無きあとの司令官)
・黄幢を擬人化 タクハタチヂヒメ
(万の幡に匹敵! タカミムスビがオシホミミに与える)
・黄憧を擬人化 オモイカネ
(黄憧=魏の皇帝も卑弥呼と同じ想い、と言う詔書の内容)
古代から日本人は擬人化させるのが得意のようだなw
・塞曹掾士張政 タカクラジ
・檄 金鵄
檄は「木」+「敫」
敫の意味: 光が四方に輝き広がるさま。
>神武東征での金鵄
『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。
簡単ですw >>475
張政は18年も滞在せずにすぐ帰国してるよ
なので魏志倭人伝もこの247年の情報を最後に記述して終わる
正始8年(247)の出来事
其八年
・太守王頎到官
・遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
・遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
・(卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人)
(更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人)
(復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定)
(※ここまで243-247のどこか)
政等以檄告喩壹與
・壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
・因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 このように
なにひとつ反論できず挙証もできず
ただ悪口言うだけの敗残者
それが九州説
つまり畿内説は居直り詐欺ですよと
>480:日本@名無史さん:2024/03/12(火) 09:57:03.00
>このように
>なにひとつ反論できず挙証もできず
> ただ悪口言うだけの敗残者
>それが九州説
>
>
> >>474
畿内説の連中が「証拠がない」と呟きながら番組を見ている姿が眼に浮かぶw 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww つまり畿内説は勝手に作り話してそれに出土品が一致するにだと言ってるだけ 鉄パイプでた!黄幢だ!
↓
魏から出土もしてないのに何故そんなに言い張れるんだ?
↓
どうも4世紀の布製冠帽の芯ぽい……
畿内説の証拠ってこんなのしかないんか 魏志倭人伝の内容を誤りだとするのなら邪馬台国はどこにでも比定できるから
少なくとも方角と距離は正しいとしなければ無意味になる。
とすると、不彌国までで残り1300里。この距離では水行20日や陸行1月は不可能なのでこれらの出発点は帯方郡とするのが妥当。
(陸行1月の間に通過した国の情報も書かれて無いし)
あと100歩の円墳以外の墳墓は卑弥呼の墓じゃない。 桃の種、カエルの骨、平屋物件、木製倭鐙・・・
どれも全く無関係な物ばかり >>487
無知じゃないなら、魏志倭人伝の記述と【客観的にみて】一致する遺構や出土品をいってみてよ だいたいさ
邪馬台国の存在は魏志倭人伝が示してるだけなんだから
魏志倭人伝の記述から位置を推測するしかねーだろ
考古学?
親魏倭王の金印か封泥が出土してから言えよ 九州からそもそも三角縁神獣鏡しか出てこないくせに、王者畿内に魏志倭人伝と一致する遺物を出せとは図々しい >>451
証拠が確かなものでないので、物語を好きなようにつくる
盾とか入れ墨をみても九州ぽいが、あれがヤマト王権の話なら
信じるしかない >>493
つまり、魏志倭人伝の記述と一致するものは示せないとw
分かりやすいな U字形鉄製品が黄幢じゃないとしても
U字の部分に布を取り付けてそれを棒状のもので掲げるような
例えば幢のようなものだろう 九州だと伊都国から大陸と交流した形跡あるし
奴国からはさらに昔の金印
西新町遺跡なんて、卑弥呼の時代に最も栄えた貿易港
九州は弥生時代の遺跡の宝庫で、吉野ヶ里は宮室・楼観・城柵の遺構がまとまってるもんね
普通に鉄製品や透目絹も出てくる
さらに九州を南北に分けるように菊池川周辺を中心に鉄鏃が大量に出土しているのも、狗奴国との争いを連想させる
何より、魏志倭人伝の記述のとおり「伊都国の南側」に位置する
あ、だから機内説は九州説を敵視してんのか
九州の遺跡は魏志倭人伝の世界観を連想できるもんな 邪馬台国の事が書かれている魏志倭人伝を無視するのが畿内説 >>500
西新町遺跡の遺構が増加し、竈付住居が多くなり、
韓半島系土器が多数搬入されるのはUB期(3世紀第4四半期)
多数の外来系土器がVA期古相にかけて見られる >>497
畿内からはたくさん出ているが、九州からは出てこない 畿内説がいかに無知かよくわかるレス
>505:日本@名無史さん:2024/03/12(火) 14:15:10.55
>九州に倭国乱のあとが無い >>504
>畿内からはたくさん出ているが、九州からは出てこない
一致しているものほとんどなくね? >不弥国に着いた時点で残り1300里
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
まさか、萬二千余里から引き算されるとは、陳寿も青天の霹靂だ。 @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>504
たくさん出てくるって?!
桃の種とかゴキブリとかだっけ
すごぉーい >>511
桃核から、纒向が2世紀前半の遺跡であることが確定した つまり畿内説はたまたま霊園だった纏向を発掘調査して
古墳が多いニダ、出土品(副葬品)が多いニダなどと墓場としてごく当たり前の事を言ってるだけであり、邪馬台国の根拠は皆無ですよと >>513
>桃核から、纒向が2世紀前半の遺跡であることが確定した
正しくは、後世の建物の柱の先が2世紀の地層まで届いていました 縄文時代は、西日本は圧倒的に人口が少なく、東日本にほとんど人口が集中していた
弥生時代に入り水田耕作が始まると、西日本の人口が増えたが、それでもまだ東日本の方が人口は多かったと見るべきだろう 24日放送の第2集は「ヤマト王権 空白の世紀」。卑弥呼の死後、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権の謎に迫る。
同時代の中国の歴史書に記録がない“空白の4世紀”とされるが、ヤマト王権が驚くべき技術革新を成し遂げていたことが近年明らかに。奈良・富雄丸山古墳で見つかった、東アジア最大という鉄剣「蛇行剣」と、前例のない形の「盾形銅鏡」を手がかりとして、真相に迫っていく。
近年、海を渡った韓国では、ヤマト王権のシンボルといわれる前方後円墳が発見されている。実はヤマト王権は、戦略物資だった鉄を獲得するため、朝鮮半島に進出。強大な騎馬軍団を誇った高句麗と熾烈な戦いを繰り広げていた。
ヤマト王権を率いた「倭の五王」たちは、どん欲に海外の先端技術を吸収。変化を恐れないダイナミックな戦略で対外的な危機を乗り越え、統一国家を築いてゆく。
グローバルな視点から見えてきた古代日本の歴史。日本列島の広大な地域を支配体制に組み込み、日本という国の礎をつくったヤマト王権の躍進の原動力に迫る。
↑
24日の邪馬台国特集も面白そう。 >>519
墓の持ち主が何処の人かって話にしかならないはずだが畿内説の韓国脳では副葬品はその土地に居た人の物だという非論理的希望的観測を述べるだけ >>520
>ヤマト王権は、戦略物資だった鉄を獲得するため、朝鮮半島に進出。
つまり、碌に鉄器さえも作れない畿内や九州には、ヤマト王権など有り得ない。 @阿波 なぜ纏向が霊園かというと、ほぼ同時期に複数の古墳が建造されていることは、その時期に墓域として開拓された事を意味している
から >>521
そのような荒唐無稽なことを言うのは九州説でもズブの素人だけである 記紀や風土記を見ると九州勢が畿内勢に降伏する時にお宝差し出してるっぽいんだな 前方後円墳の向きが被葬者の出身地と関係している
という説もあったような つまり奈良にはヤマトなんて存在しなかった
ヤマトにあたる勢力はおそらく北陸〜岐阜〜東海あたりだな
奈良盆地は単に墓域として利用されていた
それだけの事 >>527
教科書に書かれた歴史すら書き換えたい気持ちですか? >>527
単に墓域? そんな例、他にも有るのかな? 北魏の歴史修正を真似た日本(8世紀)の歴史をチョンコ(21世紀)の歴史修正で暴けるわけないw >>530
宮殿が出ているので単なる墓域と主張する学者がいない >>529
大和朝廷がヤマト王権に変わったとかその程度
奈良にヤマト王権があったことは書き変わっていない >>527
>ヤマトにあたる勢力はおそらく北陸~岐阜~東海あたりだな
碌に鉄器さえも作れない北陸~岐阜~東海では無理! @阿波 >>533
>ヤマト王権は、戦略物資だった鉄を獲得するため、朝鮮半島に進出。
つまり、碌に鉄器さえも作れない畿内や九州には、ヤマト王権など有り得ない。 @阿波 >>527
基本的に、奈良時代と言うか飛鳥だけど
590年位からですね。
もちろん卑弥呼時代にも魏という外敵の脅威は有ったけど、
大阪湾は瀬戸内海が堅城であって湾岸から登る必要は無い。
隋唐の成立で、皇族の姫や王子の宮が奥に入ったんでしょ。
ただ、最近出た奈良の渡来人の住?宮って言うのは
370年辺りからの百済王家の居住地として
生産性の低い未開地を当てた可能性は高いと思う。
地方豪族集めて、後宮政治するのに
交通の便悪かったら豪族も宮建てないよw
日本海ルート、越、尾張、美濃、淡路、
初期王朝の首都は大阪湾〜息長の近江だったと思うよ。
250年神功皇后は居ないけど息長系の暗示。 >>532
宮殿って?
妄想で断言してる韓国式畿内説さん乙w >>536
これかな
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 九州説はもはや「説」の領域にも達しないので、発掘調査から分かってきた新たな事実に注目したい 韓国の首都ソウルから出てきた埴輪についてもNHKで採り上げそう
これは楽しみ 馬の無い時代の奈良は首都にはならない。
誰が政治の為に集まるのか?
軍隊はまず、徴兵で首都連合より強い
藩主が有ったら薩長連合だろwww
後宮に入って、王を立てるのは豪族だが
出雲、尾張、越、吉備、阿波、東海の領主だろ?
奈良は、嫌だねw >>542
馬のないヤマト王権が高句麗まで遠征しているので間違い >>538
これと対比できるのが、ソウルから出てきた埴輪
すなわち、4世紀後半には半島と畿内はかなり親密な関係にあった >>538
ソウル辺りの王城付近でも
日本人遺跡が出たってよ。
370年の七支刀〜500年人物画像鏡でも
日本からの辟中(前線防壁国)の直ってのが、
百済王城には、居たんだけどね。
百済王子は日本で養育。で日本貴族、姫は日本人。
雄略天皇が東城王を指名して即位させた。
考古学は、文献に付いてくる。 だろ? >>543
間違っても、歴史は待ってくれないw
馬の移入は四郡の無くなる、313年以降のはずだが、
400年には甲信でも高句麗墳墓を伴う御牧が出来ている。
考古学だけど?
馬の移送技術は高句麗人の知識が必要だったと思う。 >>547
つまり? アラシ? 梅?
何が質問なのか判りません。
>馬のないヤマト王権が高句麗まで遠征しているので間違い
百済と言う国より、馬が欲しかったのだと、
思いますが、日本は高句麗と交戦します。
甲信の遺跡見るかぎり、高句麗人いっぱい来て
友好で御牧作ってると思うけどwww 畿内説と言うのは
240年の大倭王は畿内に居た。
という、誰も否定しない話で
陳寿の倭人伝は240年と247年の
魏時の倭への遣使の記録
魏時の二回の遣使の記録を陳寿が引用した。
陳寿はそう言ってるんだが? 3世紀後半に成立したと考えられる纒向崇神朝は4世紀後半に北部九州で急成長した海人族勢力に滅ぼされ、新たに応神朝が建てられたと考えられる
纒向が百年ほどで衰退したのも、その頃に古墳の場所が変わりさらに巨大化したのも、纒向時代には大陸と交流のなかったヤマト王権が急に中国との外交を活発化させた(倭の五王)のも、王朝交替が背景にあるだろう
記紀の仲哀・神功周りの記述も多分に易姓革命的だ
海人族は地元北部九州で田油津媛の邪馬台国を滅亡させ、朝鮮半島に侵攻して新羅百済を破ったが高句麗に跳ね返され(広開土王碑文)、畿内に攻め上って纒向の崇神朝を倒したと見られる
この海人族は宗像族と関係が深く、宇佐など含め北部九州の東側(瀬戸内海)に勢力を持っていただろう
4世紀後半に沖ノ島の国家祭祀が始まったのも、この海人族の勢力拡大・王権奪取と関係があると思われる 弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)
しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう
北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)
しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)
私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える
タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう(欠史八代などを考慮すればタイミング1の可能性が高いか?)
初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはその敵の勢力)
(続く) (続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった
北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる
翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる
こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
九州だけが独立した国だなんて言っても、笑われるだけだよ
農耕が広まって定住と集団化が進んだ弥生時代の日本列島では、小規模なムラからクニへの発展が進んだ
このクニは約500年後に始まった律令時代の国郡里制の里か、せいぜい郡のサイズだ
さらに弥生時代末期になると、筑紫、出雲、吉備、丹波(但馬丹後含む)、大和、尾張、高志、毛野など日本列島の各地に国郡里制の国に匹敵するサイズの緩やかな地域連合体が出来ていった
このうち大陸に最も近い筑紫の地方勢力は、朝鮮半島南部に領地を持つなどして朝鮮半島と活発に交易し、中華帝国にも朝貢した
これが魏志倭人伝に描かれた倭国であり、その構成国が邪馬台国や伊都国だ
一方、大和の地方勢力は婚姻や同盟を駆使して戦略的に少しずつ影響範囲を拡大し、最終的に今の日本国に繋がる発展を遂げた
これがヤマト王権だ
纒向遺跡は魏志倭人伝に描かれた倭国のクニとは似ても似つかないことがはっきりしてきたが、これは当然だ
北部九州倭国と畿内ヤマト王権は全く別の国なのだから
桜井茶臼山古墳は、3世紀前半の北部九州倭国女王の権力よりも3世紀末(以降)の畿内ヤマト王権の権力の方が強大だったことを示していると見て良かろう 列島最大の貿易都市博多と3世紀に密接な交易関係があったと見られるのは出雲・播磨・丹後など
海無し奈良盆地との直接交流は考えにくい
実際、纒向に北部九州からの土器は殆どない
また纒向の外来土器は吉備(25%)、東海(20%)、河内(20%)、山陰北陸(17%)がメインで、阿讃播(阿波+讃岐+播磨)は8%しかない
大和と播磨がそれ程密接な交流関係があったとは見られない
博多と播磨は密接、播磨と大和は薄い関係、大和と博多は殆ど没交渉
それが実態だ
鉄器もなく木製土木具で古墳を作っていた後進奈良盆地が、鉄製武器や鉄製農具をバリバリ使っていた殆ど交流のない先進北部九州を服属させ一大率を置いていたとは極めて考えにくい
畿内説はこの部分でも結論ありきで無理筋の主張をしている
西日本各地の臨海都市(クニ)と貿易し流行に敏感であった博多周辺の首長の一人が、西日本の首長層に流行し始めた前方後円墳を逸早く築造してみたのであろう
前方後円墳築造ノウハウを持っていることが商売上有益だった可能性もある 魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する >>563
>博多と播磨は密接、播磨と大和は薄い関係、大和と博多は殆ど没交渉
>それが実態だ
妄想乙
纒向からは筑前型庄内甕が出土
勝山古墳と那珂八幡古墳が同時期同一企画の前方後円墳
纒向と博多を繋ぐのは吉備の土器の分布
あきらかに親密な同盟者で血縁関係すら有るかも知れない >>565
庄内甕や前方後円墳が西日本で流行って筑前が大和同様に前者を受け入れたから何?
(松井武彦が指摘するように後者は筑前にはわずかしかなくむしろ巨大古墳文化は北部九州にはあまり受け入れられていない) >>565
>あきらかに親密な同盟者
当り前。 どっちも倭人(阿波勢力)なんだから。 @阿波 北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは全く読み取れない
そもそも伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)
考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている
例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている
「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続き) (続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」 九州説さん
同じコピペ繰り返して
これ、新手の荒らしなのかな?
? >>570
君よりも圧倒的に広く深く考察してるから反論できなくて悔しいでしょ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>571
いくら九州説の学者が絶滅したからって
畿内説の学者の発言の中から都合の良さそうな部分だけチェリーして
それで九州説が作れるかというと
それは無理筋 学者ってお給料もらって所属の意向に合った仕事をするんだっけ?
お疲れさん つまり畿内説は邪馬台国とは全く別の倭種の国々のお話でしたと 畿内説が嘘の作り話だと判明したので結果発表できませんとさ
箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
もうかれこれ4年
忘れ去られるのを待ってるもよう >>576
でも最強のヤマト政権さまだから、このあと女王国はあっさり滅ぼされるよ
卑弥呼の記録は日本には残らなかった 東遷派畿内説と自生派畿内説
どちらかが真実に近いと思う? 韓国のソウルで埴輪が出たというの事でネトウヨが騒いでいるようだ
オレは埴輪に起源が韓国なのだと思う
ネトウヨは残念だな 文献に出てくる倭人は呉越の末裔だな
つまり中国系であり半島系では無い
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png >>581の図の青い所は倭種の領域=倭種の国々
西日本の白い所が倭人領域=邪馬台国 魏志「倭人伝」が狭い九州の事だけを伝えて、その狭い九州に7万戸5万戸の巨大都市と、
それに対抗する狗奴国があるというアホ九州説 >>581
この地図をもっとマクロに見れば南西方向からの拡散という気はするわな
呉越方面というかね
日本の旧47zの重心は東海以東だが、やはり太平洋沿岸に寄っている 相変わらず柔軟性の無いおつむだな九州わ
確かに卑弥呼が誰なのか中華は解っていたから都まで戦果の中案内したのだよ。
卑弥呼は張琪瑛さん
曹叡がそう言っているよ
我甚哀汝、魏に朝貢するはこれそなたの忠孝
晋や八角には面白くないわな
無駄だよ、すべて繋がる
邪馬台国女王卑弥呼はわが姫以外に成り手が居ない >>588
おまえはモモソヒメが卑弥呼だと思ってるアホですか? 上善如水。一代で築き一代で去って行った偉大なる列島の指導者だよ
この美しさには勝てない
無駄だな。 百襲姫と八角が残した姫が卑弥呼であると理解したくない洗脳されてる人ですか? 残された状況を少しはマトモに分析して話して貰わないとダメだよ
甕棺鬼神祭祀、宇佐、出雲、天武の祭祀、何れも韓神だ。天武にいたっては自らが太一であり自分を祀り隋代まで一番信用されていた巫女道、卑弥呼の道を自らの娘をいきなり斎宮にしたて破壊している
三船には良心がある
時の政権は道教を認めない。
箸で刺された姫が卑弥呼。
箸墓が卑弥呼の墓。 記紀はだいぶ後に書かれたもん
整合性など不要なもんだ。 無駄だよ、菊花紋章すら解って無いだろ。
卑弥呼倭と日本は違う >>578
邪馬台国の地にヤマト政権が台頭。
邪馬台国は九州以外ですね。 >>595
菊花紋章すら後のもん
4世紀以前の出土品はない。 >>602
そうやって何も理由を言わずに決めつけるのが、宗教 縄文時代の西日本の人口はたった9500人
東日本は25万人
要するに、縄文時代の日本といえば東日本そのものだったのである
弥生に入ると西日本の人口が急増するが、東日本が大陸や九州と全く接点を持っていないと強弁することは不可能である 「升」はサヌミコト(狭野尊)である(ヒナ族の東征は西暦57〜107年の間)
(後漢書倭伝)
建武中元二年(57)、委奴(ヒナ=日向)国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。
倭国の最南端(口伝による)にある。光武帝は印綬を賜った。
安帝永初元年(107)、倭国(異書「倭面土(ヤマト)国」)の主帥(のちの征東大将軍 号)の升らが160人の捕虜を献じ、
参内して天子にお目に掛かる事を願い出た。
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/77b4d5fcf9ce5e172b97f2947eee8dc2_d3587053e9d4405e1b09519e9ae46ba0.png 畿内説
問題が難しいので正解がない
頭が悪い
事実がないので時間がかかる
先に結果があって、証拠は後から出てくる
のいずれか >>609
このように
なにも証拠のないことを言い張るのが九州説
>>610
いつもつまらない返ししか出来ない1であった そうやって九州説は
自分で自分の品格を落としてるな 九州にあるなら2ヶ月かかるとか、東治の東とか書かんわな >>614
明代の世界地図では九州はまさに会稽東冶の東にあるけど >>617
事実だって証拠がないって、それクソだから
あんた岡上? 畿内説も九州説もロクな証拠がないから論争になっているし教科書にも両論併記してある >>615みたいに何も根拠のないことを勝手に断定して、聞かれても答えないのが九州説
ちゃんと根拠から説き起こすのが畿内説 >>621
ないよ
仮定に仮定を積み重ねた砂上の楼閣
いい加減自覚しろ 畿内説は方位も距離も無視しなければ成立しないトンデモです >>623
だという証拠は?
また九州説は、なんの証拠もなく決めつけて、ただ怒鳴るだけ? 邪馬台国の所在地はまだ議論の余地があるが
「D系統の縄文系が」「中国大陸で」「呉越文化を担い」
「沿岸から直接日本に渡来した」というのは
単なるイデオロギー
皇室の男系はDであるという前提だけで組み立てた
これこそ砂上の楼閣だよ こういうデタラメ発表を繰り返して出来たのが今の畿内説
■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
【参考までに】鐙のルーツ
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。 >>627
どこがデタラメ?
理由も言わずに決めつけるのが九州説 >>626
DNA研究で縄文系のルーツを辿ると呉越を経由していることがわかったらしい
相当古い時代から呉越あたりと北部九州を行き来していたのが縄文人 >>628
今の考古学は畿内説が新たな基準で構築しなおしたものであり、本来の考古学では無い >>632
絶対王者を騙るならジョークの一つぐらい言ってみろ >>618
1402年の李氏朝鮮の地図
map-freak.com/wp-content/uploads/2020/09/Gangnido1.jpg 箸墓が卑弥呼の墓と言う人もいるが、
大きい墓を造るのは、宗教上の意味があるか権力の誇示だろうと思う。
卑弥呼は共立なので、どちらも該当しないと思うがね。 >>640
上部に西、左右に北南、最下部に北と書いてあるだろタコ >>627
>「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
投棄されたのは事実だろうけど、古墳造営の際に牛や馬を使ったので、その際に使用したものだろうな
つまり箸墓は4世紀の墓 畿内派メディアによる印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見された場所は柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
纒向の建物と桃の種が同時期に存在していたわけではないと判明 >>644
「会稽東冶の東」と当時の支那人が考えていたのはこの>>643の地図のような世界観だったから
当時はGoogleマップのようなものは存在しない >>646
4世紀初頭に周濠を掘っていたら3世紀の土器が出てきたが、興味ないのでそのまま濠に放置された >>648
九州の大きさが不明だけど、会稽東治と東冶中間あたりだから、両方に考慮して書いたのだろう 旧唐書に倭国と畿内は別種と書いてあります。
魏志倭人伝の時代の畿内は「女王国の東の海を渡った先にあった倭種の国」の一つだったのです。
■倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれと言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
■参考
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■結論
この時点で倭国と日本国は別政権でした
やはり日本が統一政権となったのは8世紀という事で間違いない まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>651
アホ?
デマは犯罪だぞ
大村湾、有明海周辺は縄文遺跡だらけだ >>652
>旧唐書に倭国と畿内は別種と書いてあります。
編集が杜撰なことで有名な史書だからね このようにして畿内説は歴史歪曲を繰り返してきたのです
>655:日本@名無史さん:2024/03/13(水) 13:02:41.65
>>>652
>>旧唐書に倭国と畿内は別種と書いてあります。
>
>編集が杜撰なことで有名な史書だからね 歴史的事実を否定しようとする九州説は
歴史歪曲のオーソリチー 旧唐書に限らず中国史書には倭国が列島統一国では無かった事を示す記述が多々出現します
今の畿内説は馬鹿学者に釣られた低脳による作り話に過ぎません
言い換えれば、霊感商法詐欺ですよまさに >>647
>畿内派メディアによる印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
否定するためにニセの畿内説を創作する九州説のカカシ詐欺
飽きもせず、こういうインチキを繰り返すから
九州説の信用がゼロになった >>658
邪馬臺国時代は2〜3世紀ですが?
お前トンチンカンな発言が目立つよな
黒塚のU字鉄クズを黄幢だと言い張ってみたりw >>662
この市教委の推測を見ろよ
畿内説が妄想と推測の違いを理解できていない証拠だ
偏差値40切ってるグレーゾーンな奴ばっかだろ 本屋で売られている邪馬台国関係の本ってロクなのがないな
ぜんぶ九州説だった 橿考自体
関関同立卒も多く、中の上程度の頭しかない
彼らでは無理、、、、
だから畿内説互助会で公金チュウチュウ >>669
> >>662について弁明してみろ
これのこと?
>市教委は「周辺で何かの儀式を営み、用具を破砕して、かごに盛って供えていた桃と一緒に埋めた」と推測する。
つまり九州説の言い張る
>畿内派メディアによる印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
がウソってことだよね
結論
否定するためにニセの畿内説を創作する九州説のカカシ詐欺
九州説の信用はゼロ 九州説さん
ニセ情報ばら撒き戦術なんてやってると
どんどん九州説の信用が落ちるだけって
なぜ気が付かないの? >>671
卑弥呼とヤマト王権
倭国再編の柱の一つとして(中略)首都を伊都国の三雲・井原からヤマト国の纒向へと遷すことが決議された つまり畿内説の信用度は0であるという証拠が投稿されたんですね
>672:日本@名無史さん:2024/03/13(水) 13:49:36.52
>>>669
>> >>662について弁明してみろ
>
>これのこと?
>>市教委は「周辺で何かの儀式を営み、用具を破砕して、かごに盛って供えていた桃と一緒に埋めた」と推測する。
>
>つまり九州説の言い張る
>>畿内派メディアによる印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
>がウソってことだよね
>
>結論
>否定するためにニセの畿内説を創作する九州説のカカシ詐欺
>九州説の信用はゼロ 纒向遺跡からは九州系楽浪系土器が出土しない
伊都国と思われる糸島地区には庄内式土器は出土しない
三角縁神獣鏡は中国で出土がなく逆字や存在しない紀年銘鏡などがあるうえ、数があまりに多すぎる。国産だろう。
畿内には首長級の弥生墳丘墓が無い。つまり倭国大乱の舞台ではない。
土器や古墳の形状が似ていることが支配を意味しない。しかし存在しないことは少なくとも支配はないと言える
卑弥呼が畿内の人物なら、なぜ記紀で魏志倭人伝を引用しただけなのか
まあ畿内説は無理筋よね 2世紀後半倭国大乱時にそれまで圧倒的だった九州北部からの漢鏡の出土が激減し、一方で畿内での出土が増える。
これを倭国大乱で畿内が勝利したからだなどと畿内説は主張するが、共立してたてるような混乱ぶりなのに畿内が倭国大乱に関わっていたとしたら一強すぎる。共立という言葉に似つかわしくない。
倭国大乱は九州北部に限定された戦乱であり、その間国力が低下し大陸と貿易する余力がなく出土が減ってと解釈するのが妥当 NHKスペシャルも、連合国家の戦争シーンならもう少し予算を
使って欲しい所だ 邪馬臺国は後漢時代にすでに代々王を継ぐ30国だったわけで、それが衰退してきたから卑弥呼を共立したわけよ
つまり魏志倭人伝の頃はもう滅びる寸前の状態だ
狗奴国ごときに喧嘩を売られるほどにな >>672
桃をお供えする風習が3世紀の倭国にあったという証明が必要である。
倭人伝では一切出てこない。記紀では伊耶那岐命が伊耶那美命追手を撃退するために三つ の桃の実を投げたという話がある程度です。
桃がお供え物として3世紀に使用されていたという事実があるなら証拠を示すべきである。 桃をお供えする風習が3世紀の倭国にあったという証明が必要である 桃をお供えする風習が3世紀の倭国にあったという証明が必要である
中国の風習と倭国の風習が同じであったと言う証明が必要である
伊勢遺跡で、祭祀跡が発見されているが桃は発見されていない。 纏向 花火 打ち上げて 進展なし
テンプレを見ろ!
NO1000まで来てるが、NO1から何も新しい発見なし。
纏向で公金チュウチュウはもうやめたら。なーーーんも進展のない遺跡。 畿内説が根拠不明な妄想作文を展開し、それを推測と表現している事例
https://www.nikkei.com/article/DGXNASHC1701V_X10C10A9000000/
市教委は「周辺で何かの儀式を営み、用具を破砕して、かごに盛って供えていた桃と一緒に埋めた」と推測する。 >>677
真実より勝ち負けにこだわってるところがなんとも韓流だなと感じるんだよね >>679
戦乱が推察できる殺傷人骨は畿内にはないが、
北部九州の殺傷人骨は首狩り甕棺墓が盛行した弥生中期なので
倭国乱(2世紀後半)の100年以上前のもの
畿内は弥生後期(2世紀〜3世紀前半)に斉一な畿内第X様式圏が形成される >>687は、九州説が根拠不明な妄想文を書いて、それを事例と自称している例 >>678
景初4年鏡の存在こそ畿内説を確定させるものである 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>689
>畿内は弥生後期(2世紀~3世紀前半)に斉一な畿内第Ⅴ様式圏が形成される
畿内の畿内第Ⅴ様式圏など、微々たるもの。
角南聡一郎氏によると、
特に畿内系甕(伝統的第Ⅴ様式系甕)が頻繁に出土するのは、備前・備中地方の岡山平野周辺地域と、
筑前地方の博多湾沿岸地機器、そして肥前地方の佐賀平野一帯であることが看取される。
形態別では、伝統的第Ⅴ様式系甕は主として、備中地域の量的に多くみられる。
また、山陰地方では量的に伝統的第Ⅴ様式系甕が最も多く出土している。
長門地方では伝統的第Ⅴ様式系甕が多く出土しているが、在地系甕の影響がある可能性もある。 @阿波
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10533924-19970300-1007.pdf?file_id=3508 >>679
九州から銅鏡が激減すること自体が、九州説を否定するものと解すべきである つまり畿内説は韓流ウリナラ起源説でしたと
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png >>695
解釈を間違えているのは、お前。 @阿波 畿内第X様式が搬入された範囲ではなくて、畿内第X様式圏はほぼ畿内の範囲
3世紀前半は庄内式土器
3世紀後半は布留式土器 >>695
>畿内第V様式圏が邪馬台国
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
畿内説は、畿内第Ⅴ様式圏での否定される。 @阿波 >>695
>畿内第V様式圏が邪馬台国
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
畿内説は、畿内第Ⅴ様式圏でも否定される。 @阿波 >>703
>畿内第V様式圏が邪馬台国
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
畿内説は、畿内第Ⅴ様式圏でも否定される。 @阿波 >>702
後世に作ることができないのが景初4年鏡 >>705
みんな、喜べ。
備前・備中地方の岡山平野周辺地域と、筑前地方の博多湾沿岸地機器、そして肥前地方の佐賀平野一帯が「邪馬臺国」らしいぞ。 @阿波 >>707
景初4年は存在しないのであるから、正始元年に作ったと解すべき >>708
そのように畿内第V様式圏を設定していない >>710
妄想ではなく論理的に思考するとそうなる 異なる年号の鏡の鉛同位体比を調べると極めて近似しているものが複数ある
これは同じ時に異なる年号の鏡を複数作ったことを強く疑わせる >>711
>そのように畿内第V様式圏を設定していない
>畿内第V様式圏が邪馬台国
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
畿内説は、畿内第Ⅴ様式圏での否定される。 @阿波 >>708
角南氏の研究から、筑前はすでに庄内期にかなりの畿内からの移住者がいたと想定される >>711
>そのように畿内第V様式圏を設定していない
>畿内第V様式圏が邪馬台国
>考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
畿内説は、畿内第Ⅴ様式圏でもあっさりと否定される。 @阿波 そりゃ当時随一の国際都市だもの
交易したい倭人は列島各地から集まってくるべ >>713
仮に景初3年鏡と景初4年鏡を同時期に作ったならば、景初4年鏡は景初3年に作ったことになる 倭人は北部九州倭国にしかいません。
列島各地から集まるとしたら倭種です。
列島各地から集められたなら生口です。 無知ですまんが、畿内説って、
平原鏡の国産説って否定なの? >>711
>そのように畿内第V様式圏を設定していない 719
なぜ? @阿波 >>724
貴殿がコピペしている角南氏の論文をちゃんと読もう むかーし大都会だった博多に土器を売り込みに遥々畿内からやって来た田舎者がいたらしい >>725
どのように畿内第V様式圏を設定しているんだ? @阿波 >>723
少なくとも、超大型内行花文鏡5面は国産と見る
ただし、別に舶載でも構わない >>728
自分でコピペした角南氏の論文をちゃんと読もう >>731
読んだ。 どのように畿内第V様式圏を設定しているんだ? @阿波 >>732
後世とは何年頃を想定しますか?
また、贋作した理由は何ですか? >>733
本当にちゃんと読んでるなら、仮説くらいは浮かんだはずだ
仮説はありますか? >>731
読んだ。 畿内の畿内第Ⅴ様式圏など、微々たるもので敢えて取り上げるものでない。 @阿波 >>734
複数の年号の鏡を一緒に作るのはなぜか
それは頭が悪いからしか理由がない >>736
そうではなく、畿内第V様式圏をどのように想定したのか理解できたかどうかを聞いてます >>698
>畿内第Ⅴ様式が搬入された範囲ではなくて、畿内第Ⅴ様式圏はほぼ畿内の範囲
搬入されたのは、微々たる畿内。 @阿波 鏡製作者たちにとって年号にはなんの意味もなかったんやな >>738
>畿内第Ⅴ様式が搬入された範囲ではなくて、畿内第Ⅴ様式圏はほぼ畿内の範囲
搬入されたのは、微々たる畿内。 @阿波 九州説は、魏志倭人伝を読み込むのは大好きだが、考古学者の論文を読むのは嫌いなようだ 景初4年鏡を作れ、
と命じたのは後世の王では無い
はずだが、ゴットハンドw
記年鏡を作らせるのは誰ても良いのか?
卑弥呼と対抗した朝廷だろ?
240年であれば、九州の対立構造はまだ有った。
247年には無くなった。
倭人伝が、ヤマト朝廷の成立である。
なぜ、。 論争や、学者は伏せる?
併合の半島忖度なんて、まだ有るのか? >>739
畿内第V様式圏がどのように設定されたのかは理解したんですね >>744
どのように設定されたのか教えてください。 @阿波 >>746
まだ分かってないようなので教えません
論文をまともに読もうとすらしない人に教えても一生九州説のまま変わらない しかも卑弥呼の朝貢は景初二年だったことが冊府元亀によって裏付けられてしまった >>745
それが北部九州からは出てこない
九州説の致命的欠陥 >>747
逃げたな、奥山。 わははははは @阿波 >>751
逃げていません
私は奥山ではない
このスレッドには10月ぐらいからしか書き込んでいない
このスレッドに書き込む前は九州説だった素人中の素人 銅鏡100枚は238年6月の朝貢の返礼で239年であるから
景初二年以降の記年鏡は必ず、日本製である。
次の魏使は金印が来た正始元年240年である。
景初4年の5円は
3年11月以前に作ったなら無くは無いかも?
古銭価値高いぞwww
日本の偽物文化凄いなw
俺も作るw 呉の紀年銘鏡が出たのは兵庫県と山梨県
すなわち、北部九州はすでに邪馬台国時代から主導権を喪失していたと見るべきである 帯方郡が滅亡した時に呉鏡持って逃げてきた渡来人だろうな >>752
>まだ分かってないようなので教えません
だったら、お前こそ、どのように設定されたのか分かる訳ないわな。 大きな顔をするな、素人中の素人よ。 @阿波 >>758
素人中の素人を自負しているが、九州説の貴殿よりは論文を読み込んだ自信がある
九州説は毎日同じことしか書いてないのは事実
元はあなたのように九州説だったので、文献の読み込みはしました。
しかし、10月頃から考古学の論文を読みまくり、12月か1月頃に「九州説をやめた」と書き込んでます
九州説のあなたは角南氏の論文すら読もうとしない
このレベルで自信満々に九州説を採るのは無理だと思います >>759
>九州説の貴殿よりは
はぁ? 九州説だと! 本当に素人中の素人だな。 @阿波 >>759
>しかし、10月頃から考古学の論文を読みまくり
そんなものより、「阿波」の特異遺跡の数々を見てこい。 「阿波」の遺跡調査報告書をよく読め。 @阿波 懐良親王みたいなもんかな
明代ですら中国は日本列島の様子を全く把握してない 【悲報】有志によるスクリプトへの警察告訴状が受理、5ch管理人Jimが遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した、日本の警察が捜査中」
jimも協力して警察にデータ提供済み
【超絶朗報】5ch管理人Jim遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した」
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710303951/
【超絶悲報】スクリプトさん、4月までに逮捕へ。京都府警が捜査開始
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710301975/ 畿内説が全員態度だけデカくて一般社会に通用するレベルのロジカルな説明を誰一人できなくて草
ここの畿内説は馬鹿しかいない このスレは24時間 連続レスしてるからな 恐らくスクリプトリストに入ってるだろ。 松傾がついに捕まるのかwwww
ハッピーハッピーwwww jimも協力して警察にデータ提供済み
【超絶朗報】5ch管理人Jim、遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した」
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710303951/
【超絶悲報】スクリプトさん、4月までに逮捕へ。京都府警が捜査開始
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710301975/
http://crx7601.com/archives/61335889.html
告訴状晒したやつ曰く 4月ごろには決着がつくとのこと
邪馬台国畿内説Part1000 も4月までか残念だったね。ご苦労さん。 三大迷惑ユーザー、松傾、百済ヒトモドキ、あと一人は?
松傾って、結構有名な荒らしだったんだな。
川崎の重度統合失調症症患者「松傾」てネットでは書かれてるな。 >>772
あと1人はキナイコシだろw
松傾とかキウスは最近ほとんど来とらんな あっホントに止まったな1時間レスなし、通常なら2分おきにレスしてたが。
もう遅いが、京都府警サイバー班がスクリプト犯リスト持ってるだろうから、
コンコンおはようございますと丁寧に来られたら終わりだね、お風呂に入って身綺麗にね。 NHKがどんな放送するかな
卑弥弓呼は大神神社の荒魂、狭井の神さまや孝昭天皇のモデルと思うんだよな
狗奴国の官は河内彦で河内青玉繋なんじゃないかなと 松傾にはマジで殺意が湧いたからな
さっさと捕まって厳しい刑罰を与えるべき 張りきってた @阿波 が止まったね、アイツも犯人の1人だろうな .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>775
吉野ヶ里と箸墓、どちらも違うだろとしか
巻向は開花の時代の都だからな 雄略天皇の志都歌には三輪山の神木の樫や、橿原の老いたおとめが歌われている
新古今和歌集に由良の門が読まれた歌があり京都の宮津のことだね
由良は白と関係が深い地名
浦島太郎は雄略天皇の次の清寧天皇なんじゃないか
此の御世に、菟寸うき河がはの西に、一つの高き樹き有りき。其の樹の影、旦あさ日ひに当れば淡道島あはぢしまに逮および、夕ゆふ日ひに当れば高安山たかやすやまを越ゆ。故かれ、是の樹を切りて船を作るに、甚いと捷はやく行ゆく船なり。時に、其の船を号けて枯から野のと謂ふ。故、是の船を以て、旦夕あしたゆうへに淡道島の寒泉しみづを酌みて、大おほ御水みもひを献る。玆この船、破れ壊こほれて塩を焼き、其の焼け遺のこれる木を取りて琴を作るに、其の音ね七里ななさとに響とよむ。爾しかくして歌ひて曰いはく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
といふ。此これは志都しつ歌うたの歌返うたかへしぞ。(仁徳記) 胡麻ピータン添え中華メメクラゲ1日前
非表示・報告
> 有力候補といわれる佐賀・吉野ヶ里遺跡と、奈良・纏向(まきむく)遺跡の研究最前線を取材。
何で九州説の「有力候補地」を吉野ヶ里に設定して番組作るの?
吉野ヶ里は卑弥呼の時代より100年は前の遺跡なので時代が合わないのは誰でも知ってる事実。
あらかじめ「九州にはこの吉野ヶ里しか有力候補地が無い」という前提で番組を作るのなら、
これは必然的に九州説が説得力を失うように仕込まれた酷い作り方だと思う。
甘木の平塚川添遺跡こそが、ドンピシャで邪馬台国時代に符合するの環濠遺跡のはずだが、
これをどこまで真摯に取り上げるかで番組制作者の魂胆が分かる。
いや、水工20日、力行1月を完全無視してますよね? 【悲報】有志によるスクリプトへの警察告訴状が受理、5ch管理人Jimが遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した、日本の警察が捜査中」
jimも協力して警察にデータ提供済み
【超絶朗報】5ch管理人Jim遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した」
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710303951/
【超絶悲報】スクリプトさん、4月までに逮捕へ。京都府警が捜査開始
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710301975/ jimも協力して警察にデータ提供済み
【超絶朗報】5ch管理人Jim、遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した」
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710303951/
【超絶悲報】スクリプトさん、4月までに逮捕へ。京都府警が捜査開始
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710301975/
http://crx7601.com/archives/61335889.html
告訴状晒したやつ曰く 4月ごろには決着がつくとのこと
邪馬台国畿内説Part1000 も4月までか残念だったね。ご苦労さん。 あっホントに止まったな、レスの勢いなし、通常なら2分おきにレスしてたが。
もう遅いが、京都府警サイバー班がスクリプト犯リスト持ってるだろうから、
コンコンおはようございますと丁寧に来られたら終わりだね、
お風呂に入って身綺麗にしとかないとね、お前臭いて言われるよ。 >>788
キナイコシもリスト入りしていたのか?
当然書き込みなくなった そう言えば、キナイコシの書き込みでこんなのあったよな
やっぱりあいつが荒らしやっていたんだなw
336 3 名前:日本@名無史さん Mail:sage 投稿日:2023/12/02(土) 15:40:05.50
>0332日本@名無史さん
>2023/12/02(土) 15:30:15.10
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
>0333日本@名無史さん
2023/12/02(土) 15:30:15.97
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
>0334日本@名無史さん
2023/12/02(土) 15:30:17.51
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
「書き込む」をクリックして1分も勃起しないうちに
再三クリックするのは辞めろ
5chのサーバーの負荷が増大するから迷惑だ
九州バカ目 Talk騒動の経緯で山下ってネットで書かれてるな。 時期は神功だが、奈良市というのが引っ掛かる
神功宮は桜井市だからな
>国内初の盾形銅鏡と、東アジア最大の鉄剣が出土した奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半)で、
>木棺の中から3枚の銅鏡や髪に挿す竪櫛(たてぐし)などが見つかった。
>市教育委員会が13日、発表した。副葬されることが多い刀剣や甲冑(かっちゅう)などの武器が木棺内にはなく、
>女性が葬られていた可能性があるという。 キナイコシはマジで逮捕されてほしい
日本史板を荒らしまくったわけだから 富雄丸山古墳は矢田山の麓
大矢田宿禰の父武振熊の墓と思うけどね
海部氏とか浅間大社とか関係するのかな? >>791
その奥山を攻撃してる男がスクリプト荒らし犯人か
じゃ、九州説のやつだな 神功皇后の陵はすぐ近くにある
纏向に都した垂仁天皇陵とその后の陵も奈良市
変だとは言われてる。次代景行がまた都と陵ともに山辺(纏向とその近隣)に戻るから
行ったり来たりしているが、
纏向(10代崇神、12代景行)→
奈良市域(11代垂仁、13代成務)→
河内(14代仲哀、15代応神)と
墓域が変遷するその流れの中に富雄の円墳も位置付け可能
中国の記録からは倭の記述が途切れる時代で
倭の半島進出がもっとも盛んだった時期
中国の記録が途絶えるのは中国自身三国時代が崩壊した乱世だったからだけど
神功皇后陵に関しては先立った夫が河内に葬られたのに
自分は伝統的な倭の地に陵が築かれた
息長氏の勢力圏だった山背へ接続する地域だからなのか
垂仁に関してはその埴輪説話から土師氏との関連が指摘される
陵の位置関係やその実在性への疑問から
神功皇后は実は成務天皇の后だったのではという者もいる >>759
>ら考古学の論文を読みまくり、12月か1月頃に「九州説をやめた」と書き込んでます
👆
あなたが適任だ 纏向遺跡で倭人伝記述と合致するる遺物を数多く列記してください。 >>797
>奥山を攻撃してる男がスクリプト荒らし犯人か
👆
>>1=奥山は攻撃するターゲットではありません。
彼は馬鹿にするだけの人物です。私は馬鹿にするのは可哀そうだから教育してますが、彼の能力が低レベルで、、、、
算数がまるっきりできないし、記憶力ゼロでは?? 現実に、このスレを攻撃してる犯人がスクリプト荒らしだよな キナイコシはやはりスクリプト荒らしをやっていたんやろな https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1701408602/336
336 3 名前:日本@名無史さん Mail:sage 投稿日:2023/12/02(土) 15:40:05.50
>0332日本@名無史さん
>2023/12/02(土) 15:30:15.10
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
>0333日本@名無史さん
2023/12/02(土) 15:30:15.97
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
>0334日本@名無史さん
2023/12/02(土) 15:30:17.51
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
「書き込む」をクリックして1分も勃起しないうちに
再三クリックするのは辞めろ
5chのサーバーの負荷が増大するから迷惑だ
九州バカ目
***
上記の伝説の書き込みでは
「たたないうちに」を「勃起しないうちに」
「九州説バカめ」を「九州バカ目」
のまま、訂正せずに書き込みをしている
キナイコシはこの書き込みの際に相当慌てていたのであろう。この書き込みが行われた時間帯、日本板ではスレ立て荒らしが頻繁に発生していた。キナイコシはスレ立て荒らしに熱中するあまり、注意が散漫になっていたため、変換ミスを訂正できなかったものと思われる。
さらに、この変換ミスは「たたない」に「勃起しない」をユーザー辞書登録した上で、かつその変換を頻繁に使用しない限り起こり得ないものである。では一体何故キナイコシはこのような単語登録を行ったのであろうか?理由はキナイコシが性犯罪者レベルのド変態だからであろう。 現実に、このスレを攻撃してる犯人がスクリプト荒らしだよ
証拠は>>791
スクリプト荒らしが奥山を攻撃してる 新井白石は邪馬台国=ヤマトだろうから畿内の大和だろ
あれ?九州にも山門(ヤマト)がある、じゃあ九州!
って言ったのが畿内vs九州の始まり
どっちも違ったら面白すぎるwww 国宝級の発見が相次ぐ富雄丸山古墳
https://news.livedoor.com/article/detail/26041519/
奇跡の棺内部は 卑弥呼が授かった鏡の可能性
空白の4世紀解明なるか 先日公開された富雄丸山古墳の木棺の中は鏡と櫛だった
推定の段階でしかないが、ヒコヒメ制のヒメの方の棺だった可能性がある
墳丘上部の被葬者が男性だったようだから、その姉か妹ではないかとのことある
上代の倭国には政治と軍事を行う男王と祭祀の女王がいたという証左だろう
イリヒコとイリヒメはペアの存在だったから、イリは政治を行う男王と祭祀を行う女王を示す称号だったのかもしれない
卑弥呼をイリヒメと考えると兄弟のイリヒコがいたはずであり、これを務めたのがヤマト王権初代王や後継者の男王たちだったのではなかろうか 記紀擁護派は、卑弥呼や邪馬台国を纏向のヤマト王権にすると矛盾が生じるというが、卑弥呼を王室で最大の力を持つイリヒメだったと考えれば何も矛盾はないのである >>813
いいね、いいね
ここ4世紀後半の古墳とされてるけど
お得意の考古学()とやらで3世紀のものだー邪馬台国を発見したーっていえばいいよ
纏向はしょぼすぎたからこっちでいこう つまり畿内は4世紀以降の開拓地であり、3世紀は古墳置き場として利用されていた共用空き地ですよと 吉備の土器やら日向の蛇行剣やら皮肉にも神武東征を証明しつつあるな ま、そうだろね
馬が導入されたから東征できた感じだろう 馬のない時代だからイワレビコは安芸や吉備に何年も滞在しながら東遷したんだろう
また馬も文字もない時代だから西日本の統一国家などあろうはずもなく、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が遠隔の全く別の国、殆ど政治的に交流のない国として並立していたのだ そもそも祭祀自体は日本中各地の大きな墓がある地域で普通に行われていた事
それをあたかも日本列島の祭祀は全て纏向で取り持ってたかのように妄想しているのが畿内説
しかも史書には女王が祭祀に関わった記録は一切記載されていない
単に大事な事を判断する際に占いで判断していた事が書かれているだけ
墓の形式を指定したりなんて何処にも書いてない 旧唐書に出てくる日本の遣唐使が、態度がデカくいい加減な事を言ってるのは独立国家を意識していた証拠
つまり東の倭種の国とは、独自性を重んじていたヤマトの事であり、中国との関係を重んじた邪馬台国とは正反対の勢力だった
それだけの事よ 出雲の規模、吉備の規模
九州北部にあった倭国の規模
それぞれ同じくらいだったかもしれん 魏志倭人伝や後漢書にかかれた倭国は狗奴国一国にてこずるような国
四道将軍派遣や九州征伐してるような畿内ヤマトとは様相が違い過ぎる そうだという証拠が出せないという証言が出ましたので
また九州説は頓挫しました 都合が悪いので魏志倭人伝はデタラメということにしました。 4年も経ってまだ結果発表無し
続報すら無い状況
畿内説の証拠がデタラメだと判明したのでしょうね
箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/ .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. つまり畿内説は全く筋の通らない作り話を市民に吹き込もうと霊感商法詐欺を繰り返してきた学問テロ組織ですよと 共立
されたと言うことだから
政権基盤は脆弱で不安定なものだったのだろう
内の不満を外に向けるための狗奴国征伐かもな >>841
桜井市政への抗議は桜井市庁舎の前でやれ なんや、キナイコシはアク禁になっとらんのか
あんなにスクリプト荒らし繰り返していたのに 維新が政治を執り行っている関西は学芸文化の暗黒地帯になる
そのくせ万博のような無駄遣いだけは推進しているのである
日本の市民は革新政党を求めている
今この国に必要とされているのが、日本共産党、立憲民主党、社民党、れいわ新撰組の四つの政党による連立政権である それはね、かれが荒らしをしてると言うのが九州説の流してるデマだからだよ つまり富雄丸山においしい所を全部持って行かれて閑古鳥鳴いてる纏向でしたと >>806を見れば一目瞭然だな
スクリプト荒らし繰り返してたのは九州説だ >>806を見れば一目瞭然だな
スクリプト荒らし繰り返してたのは九州説だ まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! つまり>>1-75を見れば畿内説がスクリプト荒らしであることは一目瞭然ですよと >>860
前にググってみたことがあるが
畿内説論者でも狗奴国は九州に比定している説が多いそうだ
でもそれだと無理があるよねえ?
機内から九州北部までの広大な領域を支配している邪馬台国が
九州の今でいえば熊本県とか鹿児島県の一部を領有している国と争って
苦戦しているなんて、考えづらいよね >>861
熊本と纏向がどうやって戦争するんだろうね 畿内説は女王国は連合国では無く、纏向だと言ってたからね >>862
やれないこともないだろうけれど
そういうことを考えると畿内説は不自然に不自然な仮説を重ねているような印象で
胡散臭いんだよね >>861
トンデモ説だから、あちこちに不都合が生じてくる。 @阿波 畿内の人間は新羅を西だと思っていたらしいので
その南は位置的には九州。
倭人伝の南が地図的な東を位置する論に従えば
狗奴国は南の最果てなので、地図的には東の果て
静岡や関東が候補。記紀ではカカゼヲがそれらしくはあるな ほとんどの九州説は邪馬台国=連合国30国=女王国というスタンスだよね 筑前諸国を女王国に含めるかどうかでも変わる
その南なら時代的にはすべて熊襲の領域だね >>862
纒向と熊本が戦ったと考えない
畿内の支配下にある伊都国や奴国が熊本と戦った イメージしてみるんだよ
魏志倭人伝には倭国は道は整備されていない獣道のように説明されている
そんな国で30か国の倭国連合って畿内から九州北部に至る広域で成立すると思うか?ってこと
後の戦国時代とか見ても不可能だと思わん?
それも巫女みたいな女王が鬼道をつかって人を惑わして、敬服させて支配しているんでしょ?
テレビもなかった時代に実際にその目で見たこともない鬼道で小国の都市国家とはえ、一国の王が従うと思う?
そんな鬼道で従えさせられるのは、実際に自分の目で見たことがある人だけだと思うんだよね
だから倭国連合30か国ってのは実際に頻繁に邪馬台国の卑弥呼の会える距離の範囲でしかないと思うんだよ
決して畿内から九州北部に至るような広域にわたる連合国家じゃなかった
そう思うのが自然だと思うんだよねえ >>871
ところが、考古学の成果からそのように考えることが極めて難しくなった 南と戦ったか東と戦ったか
卑弥呼が熊襲の女王で倭王を名乗ったというのは
本居宣長そのまんまだな >>872
畿内説に立っている考古学の成果ってのは、卑弥呼と同時期に畿内にも文化があったってだけでしょ?
オレは畿内が人も住んでいない無人の地と言っているわけじゃないんだよ
邪馬台国とは別に畿内にも大きなクニがあった、ってだけでしょ >>871
>魏志倭人伝には倭国は道は整備されていない獣道のように説明されている
それは、この猿田峠・赤木峠越えの場面を言っているだけ。 @阿波
末盧国(四千戸)(福津市(万津浦)辺り)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→猿田峠・赤木峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) >>874
畿内にも大国があったのは間違いないが、畿内説はただそれだけで構築されているわけではない >>871
>決して畿内から九州北部に至るような広域にわたる連合国家じゃなかった
>そう思うのが自然だと思うんだよねえ
その通り。 @阿波 【悲報】有志によるスクリプトへの警察告訴状が受理、5ch管理人Jimが遂に動く
「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した、日本の警察が捜査中」
jimも協力して警察にデータ提供済み
【超絶朗報】5ch管理人Jim遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した」
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710303951/
【超絶悲報】スクリプトさん、4月までに逮捕へ。京都府警が捜査開始
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710301975/ >>876
>畿内にも大国があったのは間違いないが
碌に鉄器さえも作れない畿内に大国があったはずがない。 @阿波 jimも協力して警察にデータ提供済み
【超絶朗報】5ch管理人Jim、遂に動く「スクリプトの容疑者リストを警察に渡した」
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710303951/
【超絶悲報】スクリプトさん、4月までに逮捕へ。京都府警が捜査開始
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1710301975/
http://crx7601.com/archives/61335889.html
告訴状晒したやつ曰く 4月ごろには決着がつくとのこと
邪馬台国畿内説Part1000 も4月までか残念だったね。ご苦労さん。 熊襲から見れば倭国大乱は
畿内勢力の進出に伴う筑前の動乱と喪失であり
熊襲だけで団結して30国(現代的には郡)が連合し
戦争に備えたような感じにも取れる >>882
いくら妄想だけを陳列しても、だれも納得しない。 @阿波 あっホントに止まったな、レスの勢いなくなった、通常なら2分おきにレスしてたが。
もう遅いが、京都府警サイバー班がスクリプト犯リスト持ってるだろうから、
「コンコンおはようございます」と丁寧に来られたら終わりだね、
お風呂に入って身綺麗にしとかないとね、お前臭いて言われるよ。 阿波説はイカサマ皇室の華頂と手を組んだトンデモです 道が整備されていなかったのは末盧から伊都までの間
大国の使節にこそこそ山道通らせて何かやましいことでもあったんかね >>886
阿波がイカサマ皇室の華頂と手を組んだトンデモだとしても、王都遺跡があり、今もって天皇家と繋がりがあるのでそれで上等だ。 @阿波 >>888
>大国の使節にこそこそ山道通らせて何かやましいことでもあったんかね
伊都国に立ち寄るためには、猿田峠・赤木峠越えをしなければならなかったため。 @阿波 交易は縄文時代からあったし
漢委奴国王が金印貰った頃には播磨でも漢鏡を有り難がってた
九州北部にあった倭国30国連合から東に海を渡ると
そこには確かに倭種の国々があったんだよ >>891
>九州北部にあった倭国30国連合
それらに見合う遺跡は皆無。 いくら妄想だけを言っても、だれも納得しない。 @阿波 >>892
【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg >>890
>末盧から伊都
末盧って松浦
伊都は糸島市
末盧から伊都に行くのに猿田峠をどうして越えなきゃいけないんだろう?
末盧から伊都を越えた先にあるのが猿田峠だと思うんだけれど >>893
いずれにせよ、それらに見合う遺跡は皆無。 いくら妄想だけを言っても、だれも納得しない。 @阿波 >>894
>末盧から伊都に行くのに猿田峠をどうして越えなきゃいけないんだろう?
「末盧国」は福津市(万津浦)辺りだから。 @阿波 >>896
だとすると壱岐から直接伊都国に船で上陸したほうが近いことになるから
わざわざ遠くの福津市に一回上陸するのは不自然な行程ではないの? >>897
>だとすると壱岐から直接伊都国に船で上陸したほうが近いことになるから
伊都国は内陸の直方辺りだから。 船で上陸は、出来ない。 @阿波 日本の中心が卑弥呼時代にすでに畿内に移っていたか否か
それが邪馬台国論争 >>899
阿波説はクソ説だとしても、王都遺跡があり、今もって天皇家と繋がりがあるのでそれで上等だ。 @阿波 速鳥伝説と枯野伝説は似たような話なんだが、楠が生えている場所や結末が違う
二つの楠伝説は始まりと終わりの二つの話かもな
5世紀初頭播磨から住吉へ、その後は河内の兎寸トキ、トノキ、高石市に楠は移動したのかもな
そして雄略天皇の時代に枯野になったと
速鳥伝説
駒手御井(こまでのみゐ)は、難波高津宮天皇(仁徳天皇)の御世、井戸の上に楠が生えた。この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根(やまとしまね)を隠した。よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。
「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」 4世紀末をもって畿内から蛇行剣が見られなくなり、6世紀頃畿内の東の端宇陀に円墳と蛇行剣が再び現れる
播磨風土記にも兎寸と蛇行剣によく似た剣に関する話があるな >>900
日本は倭国の別種なりと、旧唐書日本伝に書かれている
倭国は九州、日本国は本州
そして魏の時代に朝貢していたのは倭国連合の邪馬台国であって、日本国とは直接の外交をもっていなかったと考えればいいだけ
https://i.imgur.com/Z18k7wu.jpeg >>861
何で?
畿内さんにとって魏志倭人伝の南は「東」のことでしょ
伊都国の「東」に纏向邪馬台国があるんだから
狗奴国は纏向邪馬台国の「東」にないと変だよ 庄内式土器の分布を見ても、筑前(奴国)と畿内の関係は極めて濃密
北部九州と九州南部より、畿内と北部九州の方が関係は濃密だった
とすると、奴国の2.5倍を誇る投馬国5万戸や、奴国の3.5倍を誇る邪馬台国は仮に九州説を採った場合、北部九州に投馬国も邪馬台国もあったということになる。
これを到底九州内に求めることができず、したがって私は九州説を放棄したのである >>905
そんなの知らんがな~
でもウィキペディアによると
畿内説論者でも狗奴国は九州にあるという説がほとんどと書かれているぞ >>904
考古学を見なければ意味がない
伝聞証拠は証拠能力なし 真実を伝えるには匂わすというのが限界であろう
NHKの番組に吾輩は期待する事は無い。
今は倭では無いからな、
自民五人衆に踏み込む国税職員なぞおらんのと同じ
九州は助かってるだろうが
実際は終わっておるよ。 >>910
と言いつつ、番組しっかり見るんだろうな
「証拠がない」とブツブツ言いながらw 神功皇后は大帯姫と息長帯姫の二つ名前があるんだよな
播磨風土記には大帯日子命(景行天皇)が息長命に大中という名と出雲臣比須良比賣を与えたともある
息長命は大中で出雲臣と関係が深い >>909
そもそも邪馬台国というものが出てくるのは
魏志倭人伝だけ
邪馬台国論争というからには、魏志倭人伝この記述から始まっているはずなのに
畿内説論者はそんな古文書にはなんに価値もないから検証するのは無駄
だから考古学的遺跡の調査だけを証拠にするって態度がおかしいわけw
だったら邪馬台国そのものを否定して、畿内には遺跡がゴロゴロ出てます
邪馬台国?なにそれ?そんなのあったという証拠になりませんよ?って態度でいろよ
それが我田引水で都合がいいところだけ取って、畿内説に都合が悪いところは古文書に書かれていることに証拠なしってw
これじゃあ、畿内説ってただの我儘放題に育てられたガキ脳そのものじゃんw 百舌鳥古市古墳群の時代、堺辺りでは円墳じゃなく方墳が流行っているね 911.当然観るよ。
どう操作しようとしているのか?を確認しないとな
それによって上の意向が解る >>908
じゃあ畿内さんは
伊都国からいくつか国を経て瀬戸内海を「南に水行」して纏向邪馬台国に到着して、纏向邪馬台国のすぐ南に狗奴国がある
って信じてんの?w >>913
魏志倭人伝という伝聞証拠を読み、さらに考古学という間接証拠も検討しなければならない >>900
そんな妄想で決めつけても無駄
卑弥呼が金印貰えたのは後漢時代から続いている「倭国30国連合」の正当な後継者である大倭王だったからであって、日本の中心だったからじゃない 宮崎を南に行くと紀伊半島なんだよな
紀伊の港から奈良まで1カ月歩いたんじゃないの
邪馬台国は大和盆地、狗奴国は河内湖の南の河内和泉でしょうな
これで丸く収まるわけです 石見神楽にあるように高千穂は鬼の住処でよい
嘘をつき過ぎだわ九州の昔の人は 「里数は嘘だが日数と戸数は正確」とかいう人はただ妄想してる人 >>921
じゃあどう考えてんの?
瀬戸内海を「南に水行」して纏向邪馬台国に行くんだろ?
で、狗奴国は邪馬台国のすぐ南じゃん 古墳時代に入ると、九州は吉備や伊賀などにも鉄器で圧倒されるようになる
鉄器の多さで言えば、大和>>摂津>丹波>伊賀>備前>近江>甲斐>筑前(奴国)である。
すなわち、九州の最大勢力はやはり常に奴国(筑前)である。
この筑前奴国の2.5倍の投馬国、3.5倍の邪馬台国を九州内に設定することは全く不可能なことなのである。 畿内説の寺なんとかが古墳時代を追加し書き直したもの
弥生~古墳時代の鉄器分布
https://i.imgur.com/Ow2ku7b.png >>919
>宮崎を南に行くと紀伊半島なんだよな
紀伊半島の前に四国がある。 @阿波 >>929
明らかにおかしな図
これは捏造そのもの 古墳時代はじめ(3世紀はじめ〜中頃)
普通、この時代は古墳時代と言わない ヤマト政権誕生の地は橿原
カシ樫
弥生時代前期に松江の西川津遺跡から樫の鳥形が見つかっている
西川津の地は縄文時代から断続的に人々が暮らしていた地で、西川津遺跡は港のある大量の漆器など木製品を作る拠点だった
西川津遺跡の樫の鳥形と同じ鳥形は、弥生時代中期の青谷上寺地遺跡、池上曽根遺跡、弥生時代後期の雁屋遺跡から見つかっている
出雲と近畿は弥生時代前期から関係が深い
池上曽根遺跡のある摩湯丘陵には楠の下に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた話もある
河内和泉は弥生時代前期から鳥形の地で、和泉国風土記逸文には始鳥、和泉国とある
ヤマト政権は橿原の地に鳥装のシャーマンの絵画土器が現れる弥生時代後期、日本列島の先住民が開いた政権じゃないか >>934
>日本列島の先住民が開いた政権じゃないか
倭人(阿波勢力)が開拓した倭種の地だ。 @阿波 畿内説は無理やりなんだよな、魏志倭人伝の記述で南って書いているのを東の価値間違えなら距離的に畿内が邪馬台国だ!とかね
でも九州説の場合は短里で記述されていると仮定すると、どんぴしゃり、邪馬台国はフィリピンになることもない
どう考えてみ自然なのは九州説だよなあ 日本根子の和風諡号は興味深いな
孝霊、孝元、開化、清寧、奈良時代の女性天皇、平安時代〜
清寧天皇、白髪、が常世の浦島太郎なら日本根子は常世と関係する可能性がある
三毛入野命は記紀では常世に去ったとあるが和泉国風土記には和泉国は三毛入野命の所領だったとある
和泉国が常世なのか?
奈良時代の和泉国には茅渟宮があった
女性と何か関係するのだろうか?
平安時代、大嘗祭の五節舞で和泉国の十生が重要な役割を担っていた
何か関係するのだろうか 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 >>935
阿波が活躍したとしたら、神代だとおもうが
神代の頃の話は何故だかしたがらない。
都合の良くない事があるんだろ。
なので阿波は蹴られる >>939
まぁ、なんやかんや言っても、全国へ進出した事績を語られる氏族は、後にも先にも忌部(物部)だけ。
つまり、「阿波」を中心として古代は動いていたってこと。 @阿波 讃岐忌部、出雲忌部、紀伊忌部、筑紫忌部、伊勢忌部、越前忌部、淡路忌部、備前忌部、隠岐忌部、安房忌部などは、
後世の学者が「倭人(阿波勢力)」各部族の全国進出を、「十把一絡」に忌部氏と表現したのだろう。
実際は、「物部一派」や「賀茂一派」や「蘇我一派」や「中臣一派」や「葛城一派」や「大伴一派」など、
倭人(阿波勢力)の各部族が全国へ進出していったものであろう。 @阿波 >>939
>神代の頃の話は何故だかしたがらない。
神代の頃の話。
「国生み」にも「神生み」にも出てくるのは「阿波」の神「大宜都比売」だけ。
更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても登場する。
いかに「阿波」の神「大宜都比売」が偉大で、欠かすことのできない重要な存在であることが分かる。 @阿波 そしてその「大宜都比売命」をお祀りしているのは。勿論「阿波」だけ。 @阿波
阿波國名方郡「一宮神社」 御祭神 大宜都比売命
阿波國名方郡(名西郡)神山町「上一宮大粟神社」 御祭神 大宜都比売命 徳島商工会はニセ皇室を使ってプロパガンダもやってます 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>936
そう
馬がいない時代
陸路は整備されていない道を徒歩、水路は丸木舟
市町村レベルの小さな「クニ」がいくつも点在して争っていたのに
いきなり九州から畿内までまとまるとは思えない
せいぜい九州だけとか畿内だけとかだろう
遠征は馬が導入されてからだろね やっぱり北陸からの南下か
近江の古墳なんか見つかるかな? >>942
日本を語るに、近代化した明治時代から語るような事をしてる。
江戸時代に出来た邪馬台国のスレだから大昔の事は必要ないかもしれんね 馬もない牛もない
街道も整備されてない
陸上の移動は全て徒歩
物資の運搬も全て人力
船も丸木舟
海路も難所だらけで土地の人しか通過できない
そんな時代の出来事です 中央・地方間の情報伝達システムとして
駅制あるいは駅伝制と呼ばれる交通・通信制度である伝馬制が整備されたのは
律令制の時代
律令制以前は地方豪族が国造
騎馬軍団が遠征した戦なんて日本の歴史にあったか? >>947は、
>遠征は馬が導入されてから
と書いてるから騎馬軍団が遠征したんだろ? 崇神は4世紀だな
「オホビコはただちに馬を返して大和に戻り、ミマキイリビコノ天皇に、この由を詳しく奏上した。」
—『現代語訳 日本書紀 (河出文庫)』福永武彦著 >>946
あんたのせいで畿内派がバカにされる
「ここで念のため、狗奴国を東海地方とみる説にふれておきたい。(中略)学問的手続きをあまりにも欠いている。邪馬台国=大和(近畿)説を前提にしてのみ着想できる典型的な亜流学説だと、私は思う」
「また、狗奴国=東海説の主張者は全然ふれないが、「狗古智」の地名だけではなく、「狗古智卑狗(ヒコ)」という官名にも注意して欲しい。つまり、対馬国、壱岐国、狗奴国の大官の称にはヒコが付いている。ヒコという官名は、中国では『国の良臣』(『魏志』)、つまり立派な官をいう」 >>759
〜であるの論文より、〜でないの論文読んだ方がいいよ
畿内でない根拠を見落とすと畿内派になる
例えば張政の帰国時期はつい最近まで多くの学者が見落としていた。九州説に有利なのに九州説の学者も含めてみんなで見落としてた >>961
張政の帰国時期がどういう理由で九州説に有利なのか? 張政が滞在している間に卑弥呼の冢は完成していないとおかしい。 正始八年(247)に太守王頎は張政を遣わし、
詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りて告諭した
張政は檄を以って壹與に告喩しているから
張政は一度帯方郡に戻っている >>957
馬は応神期に入ってきたので4C末頃から
4C初頭の崇神期にはまだ馬はいない
ゆえにそれは後世の人の創作だろうね ここが畿内説の恥さらしがいて賑わってると言うスレか。。。。 >>964
>>966
そこじゃなくて倭人伝の最後にトヨが帰国させるタイミング >>967
正始六年(245)に帯方郡に付託された詔書黄幢を
正始八年に到官した太守王頎が檄とともに難升米にもたらしている
塞曹掾史の張政が倭国に滞在して独断で檄を作って壹與に告喩することはない >>969
書き方が悪かった。ID出ないのがまずいね
>>970
この指摘も重要だけど
それとは別に倭人伝の最後の部分が中国側にも記録されていたというやつ
「冊府元亀」巻九百六十八 外臣部 朝貢第一
「(正始)八年(二四七年)、倭国の女王である壹與は、大夫の掖邪狗たちを派遣して(洛陽の)尚書台に至らせ、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠を五千枚、青大句珠を二枚、異文雑錦を二十匹を朝貢した。」
『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』(中公新書、2012年) 張政帰国は247年で間違いない
その時の張政の記録が魏志倭人伝の最後の記事だな レス番も間違えてる>>968 から畿内派が言ってるように見えないな、すまん 激は参戦要請で、
詔書は皇帝の文書。
皇帝の文書が激。
黄幢は魏の軍旗
魏は戦国大名で
常に戦争中。
告諭は、
参戦要請に応えなかった
馬鹿な将軍に意義をただし
教え諭す事。
つまり、張政は査察に来た。 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1710447331/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>961
>例えば張政の帰国時期はつい最近まで多くの学者が見落としていた。九州説に有利なのに九州説の学者も含めてみんなで見落としてた
あなたしか知らないってことは
あなたの妄想ってことじゃないかな? 九州説に有利なことって何かあるのか?
ひとつでも、さ 東大大学院が全国47都道府県11000人のゲノム成分を解析した結果、近畿・四国地方の住民は北部九州より北京・漢民族に遺伝的に近い事が判明。
それによれば、九州と東北地方は遺伝的集団構造が近縁関係にはなく、
北部九州は春秋戦国時代の山東半島・江南地方からの移民が多かった仮説が証明された。
ソース
ttps://nazology.net/archives/71445 >>979
つまり魏志倭人伝の倭人とは北部九州人の事でしたと 末廬国から先は完全に間違ってる。
①末廬国から陸行で東南へ500里に伊都国、
②更に東南へ100里に奴国、
③更に東へ100里に不弥国だから、①②伊都国・奴国は有明海沿岸地域、
③不弥国は筑後川中流域以外に考えられない。
そうすると
④投馬国は熊本、
⑤邪馬台国は宮崎、
⑥狗奴国は鹿児島だと素人研究家でも分かる。
魏志倭人伝に本州らしき記述は何処にも見当たらない。 いろんな嘘をでっち上げないと、成立しないのが畿内説
政府や行政機関が出してくる、あらゆる数値が捏造されてるのは、もうニューノーマル
まともに信じてる奴はバカ 弥生後期の遺跡数から推定する人口、
九州44万人余り・
中国地方27万人弱・
四国10万人余り・
近畿25万人弱・
中部地方35万人余り・
関東33万人余り・
東北13万人余り・
北海道6万人余り。
奈良時代の推定人口(奴隷数十万人除く)、
九州71万人・
中国地方84万人弱・
四国32万人・
近畿119万人・
中部105万人弱・
関東94万人余り・
東北29万人弱
5世紀になると、九州より近畿の方が人口多くなる、3世紀中盤の時点では、まだ五分五分。
その年代測定が畿内説有利になるように100年ほど前倒しに操作されてるとしたら、4世紀中盤までは人口五分五分。 奈良が都市化されるのは、4世紀中盤以降
まだまだ田舎 倭国大乱は「倭国」に所属していた30国によって行われた後継者争い
「倭国」に所属していた30国は後漢の時代からずっとほぼ同じ地域・勢力
その「倭国」30国によって共立されたのが「大倭王」卑弥呼
倭国大乱を契機に全国に規模が拡大したなんてことは無い
半島から渡海してきたところにあったのが「倭国」
東に海を渡るとあるのが倭種の国々
「倭種の国」は五王の先祖が東西に数多の国を併合した
この時代になってようやく列島は全国規模に拡大した
それまでは元小国で倭国の別種だった ほらばかだ
同じセリフの繰り返ししかできない
理由も言えない
それが九州説 先進九州倭国を妬み恨む、後進朝鮮大和民族www
遺伝子は嘘を付かない 纏向土坑から出土した残飯についての考古学見解
このうち蛙類、齧歯類は出土状況などから供養された物ではなく、自然に混入したものと考えています。
↓畿内説馬鹿学者のメディア向けコメント
祭祀の最後に蛙を食う儀式があったニダ!
つまり畿内説は空想世界の作文でしたと カエルぐらいしか食えなかった、出雲・大和の乞食豪族達が、家畜の豚肉を腹いっぱい食ってた九州人に勝てる訳ないだろ、瀬戸内地方も鉄器は少なかったし >>982
>魏志倭人伝に本州らしき記述は何処にも見当たらない。
当り前。 「魏志倭人伝」は、四国「阿波」の記述だから。 @阿波 >>986
>倭国大乱は「倭国」に所属していた30国によって行われた後継者争い
理由を言わずに言い張っても意味ないって
どうして理解できないんだろうな
九州説信者って、あたま悪いんだな >>985
弥生後期の畿内勢力は、丹後地方のよりも小型の墳丘墓しか作れなかった。王族も何も、まともな豪族さえ実在したかどうか疑問ですね~苦笑 >>986
>倭国大乱は「倭国」に所属していた30国によって行われた後継者争い
倭国大乱は倭国(阿波)に所属していた30国によって行われた後継者争い。 @阿波 >>991
>纏向土坑から出土した残飯についての考古学見解
>このうち蛙類、齧歯類は出土状況などから供養された物ではなく、自然に混入したものと考えています。
それは最初の見解
のち良く分析したら蛙はお供物と判明した まぁ、百歩譲って、周辺地域の豪族達が寄り集まって出来た連合体制だったとしても、中央集権支配がちゃんと機能するようになるには数百年かかる。 このスレッドは1000を超えました。
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