X



邪馬台国畿内説 Part1005
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:09:31.88
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1711005483/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:10:30.00
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:11:00.86
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:11:30.41
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:12:01.04
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:12:31.09
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:13:31.03
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:14:01.27
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:14:31.00
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:15:30.56
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:16:00.83
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:16:31.04
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:17:01.25
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 17:17:34.75
NHKの番組で呉が魏を攻めるために倭国を補給基地にしようとして接触してたとか言ってたがほんとか?初耳だがw
0015◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:18:00.99
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0016◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:18:31.25
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0017=殪ndZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:19:00.66
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0018◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:19:31.24
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:20:01.09
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 17:20:14.86
ミミ、ミミナリの国投馬国は都萬の地宮崎を含む九州南部かな
生目古墳群は3世紀後半からの古墳の地で大量の円墳や前方後円墳を認めている
NHKによると前方後円墳の地は卑弥呼を擁する女王国の地である
円墳は皿に古墳時代前期奈良でも流行し蛇行剣を伴うことが多い
古墳時代中期になると奈良を含め近畿からは円墳や蛇行剣は見られなくなり、前方後円墳の周囲には多数の方墳が作られる
日本最大の方墳は橿原の地にある5世紀前半に作られた桝山古墳である
この古墳は明治直前、前方後円墳に作りかえられている
0021◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:20:30.70
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0022◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:21:00.49
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0023◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:21:30.42
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0024◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:22:00.71
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0025◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:22:30.76
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0026◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:23:01.04
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0027◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:23:30.42
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0028◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:24:00.72
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0029◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:24:30.52
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0030◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:25:00.42
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0031◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:25:30.21
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0032◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:26:00.59
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0033◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:26:31.11
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0034◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:27:00.81
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0035◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:27:30.90
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0036◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:28:00.38
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0037◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:28:30.96
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0038◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:29:00.89
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0039日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 17:29:21.59
奈良に卑弥呼が現れ前方後円墳が作られる前の時代、ヤマト政権誕生の地橿原からは龍や鳥装のシャーマンの絵画土器、三輪山の麓からは鳥形、唐古・鍵遺跡からはヒスイの巨大な勾玉や銅鐸が見つかっている
卑弥呼の誕生と共に、龍や鳥のトーテム、銅鐸、ヒスイの勾玉は姿を消す
大阪の石切神社の上之宮にはトミの一族の伝承が伝わり黒龍が祀られている
卑弥呼の誕生と共に姿を消したヒスイの勾玉や龍の絵画土器と関係がある可能性が高い
縄文時代の世界遺産である三内丸山遺跡は大量のヒスイを集めていた集落で遼河文明の影響が強い遺跡である
遼河文明は龍をトーテムとしヒスイの玉製品が盛んに作られていた
東北の伝承では黒い龍神はアマテルを手に入れた鹿使いの赤神に北に追いやられたとある
卑弥呼により追いやられたのだろうか?
0040◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:29:30.68
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0041◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:30:00.82
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0042◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:30:30.05
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
0043◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:31:00.32
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0044◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:31:30.66
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0045◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:32:00.45
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0046◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:32:29.63
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0047◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:33:30.45
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0048◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:34:00.91
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0049◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:34:30.81
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0050◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:35:00.90
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0051◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:35:31.13
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0052◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:36:00.58
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0053◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:36:31.20
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
0054◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:36:59.79
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0055◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:37:30.93
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0056◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:38:00.64
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0057◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:38:30.98
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0058◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:39:00.63
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0059◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:39:30.92
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0060◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:40:01.94
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0061◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:40:30.56
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0062◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:41:00.80
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
0063◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:41:30.38
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0064◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:42:00.91
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
0065◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:42:30.68
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0066◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:43:00.65
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0067◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:43:30.68
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0068◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:44:00.90
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
0069◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:44:31.23
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
0070◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:45:01.46
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0071◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:45:31.48
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0072◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:46:00.66
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0073◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:46:30.92
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0074◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:47:31.62
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:48:00.94
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0076◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:48:31.26
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0077◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:49:01.60
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0078◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/23(土) 17:49:32.41
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0079日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:07:57.28
>>1
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:13:20.82
>>80
馬鹿 奧山の唯一の楽しみ
一人で1スレ 500レス以上投稿した時もあった
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:17:24.25
このスレ九州説の人たちの投稿で持っているようもん
畿内説の人は殆ど投稿しない
理由1 畿内説が論破される
  2 支離滅裂のテンプレではやってられない
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:21:45.68
理由3 畿内説者はいない
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:22:03.07
>>82
すでに九州説のスレには人が行かなくなって寂しいからお前さんたちもここに来ざるを得ないんだよな?

スレ立てても閑古鳥やもんな。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:24:46.68
全く下級生にとぅて、上級生にとっても難しすぎて意味がなかったな

本当に何言ってるのか分からない
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:24:46.88
全く下級生にとぅて、上級生にとっても難しすぎて意味がなかったな

本当に何言ってるのか分からない
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:26:49.91
>>1
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:31:40.51
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:37:12.26
まだ大和の地に奈良湖があった時代、奈良湖の水を巡り龍と鯰が争ったという
奈良湖が存在した時代から現代まで奈良の人々が大切に守り伝えてきた伝承である
龍が勝ち奈良湖の水を大阪側に流すことになった
弥生時代後期の橿原や唐古・鍵遺跡からは龍の絵画土器が見つかっている
奈良の伝承の続きが河内に残っている
奈良から降りてきた龍が柏原の地に留まり大和川の治水を行ったという
弥生時代後期の柏原からは大規模な当時の集落跡が見つかっている
その後大和川の治水を終えた龍神は堺の方へ去った時伝わる

卑弥呼の時代既に奈良湖はなく、卑弥呼の時代以降奈良からは龍の絵画土器やヒスイの勾玉が見られなくなる
卑弥呼によって征伐されたのだろう
大和川や河内湖の南側の河内和泉のエリアは卑弥呼の時代の前方後円墳がない
古墳時代前期に庭鳥古墳という前方後方墳が作られており、NHKの説に従うと狗奴国となる
多勢に無勢の中、大和川の治水を行った大恩人である龍を守る為、河内の人々は命懸けで戦ったのではないだろうか
狗奴国の王卑弥弓呼に率いられ卑弥呼に抗った狗奴国の姿がそこに重なるのだ
大義の為に戦う男たちの姿にますら男を見いだすのである
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:38:00.62
晩寝ながら北部甕の種要のぞうだいと、最多甕の加減は明確だ
さらに三角縁神獣鏡国
筑前の国,夜間は「九州を頼むぞ感じ」と、音についてお願いをされたのである
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:46:47.29
ますら男とは真に立派な男、優れた武人を表す古い言葉である
播磨風土記には升形山があり石を以って升を作りオケとした、そこには石の橋があり天へと続くという話がある

石を以って作られた升とはマスラ神のことで、マスラ男の語源ではなかろうか?
出雲風土記には本当にマスラ神の子か疑う話がある

方墳は升形である
その四角さに一直線のますらお魂を感じないだろうか?
そして日本最大の方墳があるのは奈良で、名は桝山古墳という
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:52:59.53
>直線距離を知っても、そこにドローンで移動するとかでなければ意味がない

兎にも角にも、行先がどこにあるかが分からなければ、意味がない。 行先が分かれば、後はどのルートで行けばよいか検討できる。   @阿波
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:56:47.36
畿内説ではなく畿内にあったのは確定だな
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 18:59:14.46
>>87
崇神天皇は倭国大乱で権威を失って卑弥呼に王座を譲ったのでねえ
卑弥呼も一応天皇の血筋だから万世一系には変わらん
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:00:08.97
呉が邪馬台国を補給基地にして魏を攻める計画とかNHKは言ってたのほんとかよ?
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:01:18.93
>ウェブの地図で役に立つのはルート検索

ルート検索出来るのは、行先が確定してこその話。 直線距離と方位がなければ行先を決められない。   @阿波
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:03:08.42
>>94
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:13:30.76
関東説

>(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、
其(そ)の北岸の狗邪韓国に到りる。七千余里。
始めて一海を度(わた)ること、千余里にして対馬国へ至る

帯方郡から狗邪韓国までの距離7000里ではなく
それは日本語訳の間違い
距離は最後に書いてある
つまり、そこまでの旅してきた総距離
魏の首都(洛陽)から魏里(432m)で狗邪韓国まで7000里だった

洛陽から海岸線をまわって狗邪韓国、北岸まで
グーグルマップで7000里(3000キロ)

>自郡至女王國 萬二千餘里(12000里)

7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。
余と陸行、水行あわせて12000里である。

7000里(洛陽から狗邪韓国北岸)→1000里(北岸から東にいき海を渡って対馬)→1000里(対馬から南の海
瀚海(日本海)出雲、一大国)→1000里(海を渡って金沢周辺、末盧国(航海の終わり(末路)))→
500里(南東に糸魚川から上田、伊都国)→100里(東南にいく、軽井沢周辺、奴国(信濃国))→
100里(東にいく高崎、武美、不弥国)→水行20日(南に行く利根川から多摩周辺、投馬国)→
水行10日(東京湾を南に木更津)→陸行一月(30日)(北上し鹿島神宮周辺に邪馬台国)
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:15:22.04
>>95
いやいや、卑弥呼は独身で子供もいないんだから、血統は繋がらなくなるぞよ。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:16:45.00
明治時代奈良の地名はあちこちで書き換えられている
神武天皇は橿原、安寧天皇から崇神までは大阪側に宮があった可能性もある
纏向が確実なのは垂仁天皇かな
四道将軍で纏向遺跡にいた大勢の人たちが解散した後だな
オオタタネコを先に三輪山に行かせて纏向の処理を任せていた可能性があるな
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:18:09.06
>>97
yahooマップでやってみなさい
行き先だけと移動手段だけ決めれば、ルートを表示してくれる 直線距離も方位も必要がない
0103日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:24:08.33
魏志倭人伝=書き手が2人いた、二重漢文説は素晴らしかった
何よりも、私の嫌いな放射読みなどの変なマイルールを拒絶する知的さ、そして魏志倭人伝を神聖視しないリアリズムに共感できる
前スレで教えて頂いた方にお礼をいいたい
0104日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:24:41.65
>>102
@阿波はテストで順番通りに問題解いていて、難問にひっかっかるとそこに引っ掛かって先に進めなくなるタイプなんだろうな。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:38:10.39
ただ、こうも思った
投馬国→邪馬台国(連続行程)を完全に独立して読むべきだと言うのなら
この部分は九州北部散策とは独立した、つまり別の島への道筋だと考えた方がより自然ではないだろうか?
「南至投馬國」
どこの南とも何にも書かれていない
帯方郡から投馬国(出雲)へ水行20日
投馬国から水行10日で敦賀、ここへ船を置いて陸行10日で大和へ

例えばこのような畿内説を完全に粉砕する説とも思えなかった
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:47:06.55
>>1
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
0107日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:52:37.81
ふるしょうさんが明日のNHKの番組も実況中継するみたいだからおまえらも参加したら?
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 19:58:37.11
>>102
>移動手段だけ決めれば、ルートを表示してくれる

行き先が決まればこその話。 頭だいじょうぶか?   @阿波
0109日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:00:26.02
>>103
二重漢文説って変なマイルールだぞ
0110日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:05:08.19
明日のNHKで、蛇行剣や鉄の甲冑を取り上げるようだが、
もちろん、それらは鉄器王国「阿波」で作られたものだということを認識して見るように。   @阿波
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:05:38.69
同じく古墳についても、築造技術や副葬品の水銀朱や勾玉なども、
倭人(阿波勢力)によってもたらされたことを念頭に見ること。   @阿波
0112日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:06:53.40
金印を持ってきた魏使が、
伊都までの道里と戸数を
詳細に説明したのに

なぜ九州上陸から600里以上歩いた
船の無い九州の不弥国から
船で20日以上の投馬国に寄って

どこか解らない上陸地点から
奈良に行けるの?

女王国以北の行程の国は、
道里、戸数が記載済みだよ?
無い。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:10:44.76
オオタタネコがいた陶邑のすぐ上に狭山池がある
池干しした時に見えるが、池中の祠の前には龍神淵と呼ばれる直径27m、深さ5mのすり鉢状の大きな窪みがあり、そこにご神体が祀られている
今でも龍が棲むという
陶邑からは出雲の加茂岩倉遺跡と同じ銅鐸が見つかっている

安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
龍が留まった伝承の地
龍はその後堺の方へ去ったという
欠史の時代、宮は龍と共に移動していたんじゃないか

楠の下に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた伝承が残る和泉の地にある、龍の絵画土器があった池上曽根遺跡
龍がいた可能性がある場所だ
懿徳天皇の宮は軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)
徳がつくのは仁徳、聖徳、孝徳、
記紀で仁徳天皇の時代に枯野伝説がある 楠が切られ軽船が作られる話
叡福寺の七不思議によると、聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えた
孝徳天皇は諱が軽だな
徳、軽、楠は関係が深い
0114日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:16:10.44
>>102
>移動手段だけ決めれば、ルートを表示してくれる

直線距離と方位で、行き先が決まればこその話。 頭だいじょうぶか?   @阿波
0115日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:23:05.13
朝廷は卑弥呼、邪馬台を正面から認める事が出来なかった。
そこで考案されたのが、架空の人物 「神功皇后」である。
日本書紀は次の細工をした。
1. 神功紀に魏志及び晋起居注を引用して、神功皇后を卑弥呼、台与に見せかけた。
2. 神功を201年から269年まで摂政とし、中国史書と年代の整合性をとった。
3. 神功を天皇空位の間の摂政に制し、我国の最高指導者たる天皇は中国に臣従していない。
4. 卑弥呼、台与、邪馬台なる表現を一切避けた。

とは言え、かの偉大なる初代女王を神功紀のみに収めておく事は、到底是認される事ではなかった。
・神々の最高位にある。
・日の神、太陽の神とされる。
・高天原を統治した。
・天皇家の祖先神である。
・弟の須佐男之命(卑弥呼の祖父)が乱暴をしたので、天岩屋戸に籠る。すると、国中が真っ暗になった。
・天岩屋戸から出てきた天照大御神は、孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)を葦原中国に降臨させた。

万葉集に、人の死を「岩戸に隠れる」と表現している歌がある。
天岩屋戸事件前後で、天照大御神の取り扱い方が、はっきりと異なっている。
岩戸前の天照大御神は、どんな場合も一人で行動する。
ところが、岩戸後は大半の場合、高御産巣日神(タカミムスビノカミ、高木神ともいう)と二人で行動し、
連名で他の神々に命令等を下している。
時には高御産巣日神が単独で最高主権者となっている。
岩戸前は卑弥呼、岩戸後は13歳で即位した台与である事を思わせる。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:23:19.22
伊勢神宮内宮に天照大御神、外宮に豊受大神を祀る。
記紀神話では、豊受大神は生成の神・和久産巣日神(ワクムスビ)の娘、
豊宇気毘売神(トヨウケビメ)として登場する。
和久産巣日神は、国生み・神生みを行った伊邪那岐・伊邪那美の子とされる。
豊宇気毘売神は、穀物と食物を司る神様とされる。
豊受大神は、高天原で父と暮らしていたが、大国主が天照大御神に国譲りをして、
邇邇芸命の天孫降臨とほぼ同時に地上に降りる事になる。
その後の豊受大神に関する記述は無いが、これは台与の即位を意味する。
卑弥呼と台与の2人の存在を天照大御神(皇祖)、神功皇后(実年代)としている。
つまり、2人を1柱(1人)と表現する事で、直接的描写を避ける意図が感じられる。

ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)の呼称
比桃@(Bi mie hou) 比売后(Bi mai hou) → 卑弥呼(Bei mei hu)
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/8b718aa392b29a6ac0ef99a1b9ab9cf0_ae3da5062e82674dfe0f1de6a7ddc8a6.jpg

アマトヨツヒメノミコト(天豊津媛命) → 台与(トヨ)

奈良県下で最有力な遺跡であった唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡の終焉に歩調を合わせるように
庄内式土器の開始とともに三世紀初め頃に突然出現したとされる。

そこでは南九州から南関東に至る広範な地域から土器が持ち込まれており、その割合は平均一五%、
場所によっては三〇%を占める。中でも、瀬戸内中・東部、山陰、北陸、伊勢湾沿岸地域の土器が多いという
(寺沢薫『日本の歴史〇二 王権誕生』二〇〇〇)。
また、箸墓古墳を始めとする纏向遺跡周辺の初期の古墳からは岡山地方を源流とする
特殊な祭祀土器(特殊器台・壺)が相次いで発見され、弥生終末期の墳墓と前方後円墳の関係についても
この土器を通じて一連の変遷を追うことが可能となり、古墳成立に当たって東部瀬戸内地域の勢力が
重要な役割を担っていたことが推測されるに至るなど、
弥生時代から古墳時代へ激動する社会の震源地と目されている。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:23:25.42
つまり、「神武東征」とは、全国の共立による卑弥呼の統治時代、
九州から畿内に民族大移動が行われた伝承であり、応神伝説を引用したものである。
日本神話は、以下の点で矛盾している。
・国譲りした地は出雲なのに、出雲に降臨せず、説明も無く九州へ降臨する。
・東征の目的地は出雲ではなく畿内であり、以降も出雲の話は一切出ない。
・国譲りは完了しているのに、苦難の東征や、敵対勢力が現れて戦う事になる。
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/fe096c62b0a00a96d84614e8d981b9e1_5fbff434a5f3761759d141a891b46aa1.jpg
0118日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:26:36.44
帯方郡から朝鮮半島をぐるっと回って対馬(投馬国)これが水行二十日
対馬から渡海で日本列島上陸、これが水行十日
上陸地点から歩いてひと月で王都
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:32:48.07
明日のNHKで、蛇行剣や鉄の甲冑を取り上げるようだが、
もちろん、それらは鉄器王国「阿波」で作られたものだということを認識して見るように。   

同じく古墳についても、築造技術や副葬品の水銀朱や勾玉なども、
倭人(阿波勢力)によってもたらされたことを念頭に見ること。   @阿波
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:40:57.47
>>108
>行き先だけと移動手段だけ決めれば、ルートを表示してくれる 直線距離も方位も必要がない

一部打ち間違いがあったが上記は「行き先と移動手段だけ決めれば、ルートを表示してくれる 直線距離も方位も必要がない」と訂正する
行先はもちろん必要、あとは複数の移動手段から選択してルートを選ぶことになる
0123日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:48:36.47
>>122
>直線距離も方位も必要がない

直線距離も方位も必須だ。 無ければ目的地を示せない。 頭だいじょうぶか?   @阿波
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:51:02.12
>>114
方位磁針は3世紀ごろのその原始的なものが現れたという
それは指南魚とよばれた
水に浮かべると頭が南を指すように磁石を内蔵していた
現在人にものを訪ねるとき「ご指南いただきたい」などというときにも使われる言葉の語源がそれ

もし君がどこかの目的地を指南番に尋ねたとすると、あなたが移動してその目的地に到着できる経路を教えてくれるはずだ
その際に、直線距離とか方位を訪ねてはいけない それは関係のない情報
直線距離は測定しなければわからない情報で、方位も測定しなければならない情報だが、とりあえずその必要がない
指南番の人も知らないだろう せっかく教えてやろうとしているのに余計なことを聞くやつだと煙たがられるだろう
0125日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:51:20.26
東北にも龍の黒神の伝承が残る
世界遺産三内丸山遺跡は立派な建物群と農耕の跡、大量のヒスイ、楔状耳飾りがあった集落だ
龍トーテムの遼河文明の影響が強いと言われている
藤井寺の国府遺跡は旧石器時代から続く遺跡で縄文時代前期に楔状耳飾りをした5体の人骨が見つかっている
旧石器時代からいた人々と縄文時代にやってきた楔状耳飾りの人々が共に暮らし始めた場所である
国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究によると、東北富山石川和歌山は同じグループで大阪京都が一番近かったのはこのグループだ
母なる神であり、最初の食物神だろう
イザナミのモデルじゃないか
イザナミは最後は熊野の有馬に葬られる
弥生時代末期だろうな
熊野の神々の母になったんだろう
和歌山の黒田からも加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっている
神が最初に熊野に降臨したゴトビキ岩からは銅鐸の破片と銅鐸を模した石製品が見つかっている

卑弥呼により銅鐸は葬り去られたのだな
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:54:59.44
>>124>>123へのレスとします
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:55:48.03
ハルキーさんがいうパッチワークが正解だよ。魏志倭人伝はパッチワークのオンパレードでおまえらはそれ理解せず行程記事も全て連続性あると思い込んでるから間違ったアホな書き込みだらけになるだけでw
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 20:58:39.78
熊野本宮大社の神、家津美御子
ケは食物、ミは女性、食物の女神の御子という意味かもな
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:02:51.07
>>128
パッチワークというか
200年前後~260年以上と
情報に年代差があるだけ

コウソンシ朝貢時のジャッポ情報から
チョウセイが来た年代の情報まで、ごっちゃになってるわけねw
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:05:01.57
>>128
それは下記参照
https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
>1,陳寿の解説、補足
>2,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文
>3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文
>4,裴松之の加えた注
>5,魏の公文書の写し(そのままと思われる)
>6,魏中央政府の何らかの史料から得た文の要約
きれいに色分けされて分類されている
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:05:47.20
世界遺産ゴトビキ岩、ゴトビキとは現地の言葉でヒキガエル、ガマガエルのことだね
龍の女神たちを熊野まで案内して守ってきた神さまもいたんじゃないか 
ゴトビキ岩に降臨した神が次に降臨した場所が阿須賀神社の地である
そこには事解男が祀られている
イザナギが吐いた唾の神さまだな
ツバの木はツバキ椿
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:06:03.57
古い情報は魏略レベルの情報

直接、ギシがやってきたとくに
新しい情報が魏志倭人伝で加筆された

なので、投馬国や邪馬台国の行程も
3世紀後半のイヨトヨ時代の情報ってわけねw
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:07:15.80
明日のNHKで、蛇行剣や鉄の甲冑を取り上げるようだが、
もちろん、それらは鉄器王国「阿波」で作られたものだということを認識して見るように。   

同じく古墳についても、築造技術や副葬品の水銀朱や勾玉なども、
倭人(阿波勢力)によってもたらされたことを念頭に見ること。   @阿波
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:07:44.86
阿須賀神社の境内とその周辺には弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落跡が見つかっている
大阪湾と同じ形の製塩土器を使っていた
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:10:44.85
つまり

>女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種

この時点では、九州から見て東の倭種ってわけねw

卑弥呼時代は九州地方
イヨトヨ時代で畿内が俺の考察
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:10:49.37
>>131
うまくコピペできなかったようなので、
https://以下一行を反転させてブルーの反転部分を右クリックして移動してみてください
windowsでの操作説明です 他のOSでどういう作業が必要なのかはわかりません
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:14:51.35
邪馬台国は纏向遺跡のある大和、狗奴国は河内湖と大和川の南の河内和泉、狗奴国の官は河内彦だろう
狗奴国は欠史の時代のヤマト政権そのもので龍の女神の国でもあるんじゃないか
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:20:01.05
神武景気 昭和29年12月〜32年6月(31ヶ月)神武天皇が即位した紀元前660年以来の好景気

岩戸景気 昭和33年7月〜36年12月(42ヶ月)天照大御神が天岩戸に隠れて以来の好景気

オリンピック景気 昭和37年11月〜39年10月(24ヶ月)

いざなぎ景気 昭和40年11月〜45年7月(57ヶ月)伊邪那岐が国を産んで以来の好景気
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:21:17.27
神武天皇の名前は若御毛沼命、豊御毛沼命と記紀にある
神武天皇の兄の名は御毛沼命、三毛入野命である 
スサノオとされる出雲の熊野大社の神と同じだ
食物に関係する名前である

出雲国一宮熊野大社
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:30:56.41
>>136
その時点と言うよりそこに行った人が記録した
本州に来た中国人も当然いる
0142日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:31:36.52
NHKが企んでいるのは、三内丸山遺跡に始まる最初の食物神、母神の歴史、スサノオの歴史、ヤマト政権の始まりの歴史を消し去ることだろう
恐ろしい話だ
そしてNHKはヤマト政権の始祖は卑弥呼であると断言した
これがNHK全体の見解であり、全ては会長が責任を負うことである
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:39:08.81
ここではなくふるしょうさんのライブでNHKに文句言えよw
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:40:49.56
小倉に来た中国人が向こうに見える陸地にも倭人が住んでるよと説明を受けて
それを記録すればあの文になる
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:44:12.71
NHKのことを悪く言うのはお門違いだ
悪いのは魏志倭人伝だと皆認めている
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:46:18.35
倭の五王の時代、畿内には円墳も蛇行剣もない
4世紀の代物だ
倭の五王の時代に作られたのは百舌鳥古市古墳群に代表される前方後円墳と周辺の数多の方墳である
日本最大の方墳の桝山古墳が奈良の橿原に作られるのも5世紀前半の倭の五王の時代である
また仁徳天皇の陪塚から巨大なヒスイの勾玉が見つかっているように倭の五王の時代再び勾玉ブームがやってくる

卑弥呼より前の時代の畿内は方墳と勾玉の時代
滅びたように見えた卑弥呼より前の時代の国のありようが復活するのである
0147日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:47:59.31
>>96
その目的で船団を派遣した記録はある

疫病で大勢の兵が死んで、しかし三千名ほどの捕虜は連行した
死んだ兵の方が多くて大赤字で遠征は失敗

ということだ、呉書の記述で陳寿の文章だな
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:49:25.74
番組の事なんてどうでも良いよ
面白いなとか卑弥呼美人だなとか思って見てれば良いだけじゃん
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:53:50.76
>>124
中国の神話では黄帝が指南車というものを発明したことになってるが、羅針盤の発明そのものはずっと後の話
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:54:21.82
神代、播磨の升形山で行われていた石を以って升を作りオケとする石の作法が、倭の五王の時代奈良の桝山古墳のある橿原の地で再び始められたんじゃないか?
市辺押磐皇子、磐坂皇子、磐坂市辺押羽皇子、天万国万押磐尊
雄略天皇の時代に、奴隷にされたその子、袁祁王(をけのみこ)と億計天皇(おけのすめらみこと)
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:57:53.84
>>145
自分はこういう動きがあるのはもっと後になると思っていました
これがきっかけになって、箸墓古墳が宮内庁管轄で陵墓指定で公開できないというのはおかしいという世論がおこるかもしれません
各陵墓も宮内庁の管轄から離れて、例えば文化庁の管轄にするとかの動きがありうるかもしれないと思っています
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 21:59:07.96
>>151
そうなれば良い事だ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:02:46.93
>>146
近畿だと、大王の墓どころか有力豪族の墓でさえ、天皇陵とか陵墓参考地とかの指定を受けてて、ほとんど発掘できないからな、出土しようがない
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:04:30.45
>>138
ないです
狗奴国は東海以東とNHKが宣言しますた
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:07:09.87
>>153
4世紀の丸は丸のままだ
倭の五王の時代丸はない、四角の時代
墳墓の形が違うのだ

NHKも言っていただろう?
二つの内一つでも丸が四角なら別の勢力と
0156日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:09:23.66
>>146
>卑弥呼より前の時代の畿内は方墳と勾玉の時代

方墳も勾玉も、「阿波」の専売特許。   @阿波
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:10:32.09
前方後方墳が狗奴国だとNHKが全国に向けて報道したばかりだぞw
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:19:40.03
>>100
天皇に子供がいなかったら男系子孫が天皇についてるじゃん
武烈の後の継体天皇だって
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:20:48.42
>>157
あれひどいなw
前方後方墳は広域に広がっており狗奴国とは思えない
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:21:06.89
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:25:51.74
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:26:49.57
>>148
勢夜陀多良比売は美女として知られていた。
大物主神は丹塗り矢(赤い矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便をするところを狙って川の上流から流れていき、
勢夜陀多良比売の陰部(ホト)を突いた。
驚いた勢夜陀多良比売が矢を取って部屋に戻ると、矢は美男子となった。
両者は結婚し、娘が生まれた。娘は「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)と名付けられた。
しかしのちに娘は「ホト」という名を嫌って「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改めた。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:28:36.89
>>161
崇神なんて居ないだろうし卑弥呼で良いよ
0165日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:28:40.24
3世紀後半〜宮崎の生目古墳群は早期から前方後円墳を認める地域で円墳の集積地でもある
後々九州南部は蛇行剣の集積地にもなる

竹内宿禰は日向牛諸井と配下の鹿皮の服を着た集団と懇意にしていた
日向牛諸井の娘が淡路島にいた赤い娘の髪長姫だな

播磨風土記には神々は神功皇后に新羅を平定してよく治めてこいと神託したが、実際は熊襲を平定しちょろっと朝鮮半島で戦をしただけだな
日向と懇ろだった竹内宿禰が日向の意図を汲んで熊襲を平定した説も考えられる

神功皇后の帰路をお供するのは瀬戸内海の伝承によると住吉の神だ、竹内宿禰ではない
神功皇后をほっぽり出して日向の円墳の勢力を率いて先に畿内に戻ったんじゃないか
黒潮に乗ると日向から和歌山まで10日だからな
留守の間に色々やったのかもね

住吉大社神代記には神功皇后と密事があったのは住吉の神とある
秘密でもなんでもなく和歌山にも同じ内容の伝承があり明治より前は皆当たり前のこととして知っていたのだ

吾が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつのをききそおはふいつのみたまはやさかりのみこと)
と住吉の神が名乗ったとある
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:28:57.94
明日のNHKで、蛇行剣や鉄の甲冑を取り上げるようだが、
もちろん、それらは鉄器王国「阿波」で作られたものだということを認識して見るように。   

同じく古墳についても、築造技術や副葬品の水銀朱や勾玉なども、
倭人(阿波勢力)によってもたらされたことを念頭に見ること。   @阿波
0167日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:29:11.12
>>154
この点はNHKの失点になると思う
狗奴国は後の熊襲・さらに後の隼人で九州南部にあり大伴旅人に征討されるまで存在していた
東北北部以北が蝦夷、奥州藤原氏が鎌倉政権によって滅ぼされると東北北部までが日本に帰属、さらに北海道が開拓されるのは明治になってから
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:29:49.95
>>161
だから崇神天皇は倭国大乱で権威失墜して卑弥呼が王となったんだって
魏志倭人伝にそう書いてあるだろうが
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:29:50.93
住吉の松と播磨の高砂の松が相生の松
堅い絆で結ばれた夫婦である
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:33:00.35
120歳の天皇なんて居る訳無いし崇神天皇元年てそれ西暦何年やねん?
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:35:12.02
瀬戸内海で大戦を重ねて帰ってくるのには長い年月がかかるのだ
お供したのは住吉の神である
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:36:25.68
>>154
桑名(三重)
久努(静岡)
久野(滋賀、静岡、神奈川)
久能(静岡)
鬼怒(栃木)
毛野(栃木)
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:36:56.84
住吉の地博多は弥生時代後期から播磨や河内と関係が深い地域で考古学的にも確認できている
元々住吉と播磨は一心同体みたいな面があるんだな
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:37:50.66
相生の松は播磨の高砂の松と住吉の松、堅い絆の夫婦
大事な話である
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:39:32.69
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:43:22.51
>>164
崇神がいないなら纏向と卑弥呼は無関係そうだな
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:46:43.98
>>176
誰でも良いんだけど倭王が居た
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:50:22.23
266年以降朝貢ができなくなる倭王か
0180日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:53:29.88
>>178
俺は伊勢遺跡説だからそこにも倭王が居た
0181日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 22:54:38.45
NHKなんて昔は
「吉野ケ里遺跡が邪馬台国で決まり」
と放送してたわけで、どうせ将来また変節するやろ
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:00:03.48
魏志倭人伝には倭は手づかみで飯食ってると書いてあるやろ
ほな箸墓が卑弥呼の墓なわけ無いやんか
卑弥呼の頃は箸は無かったんやから
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:03:42.30
>>180
どこの遺跡でもいいんだが
263年ごろ複数回朝貢をした後、西晋初代皇帝の二年目266年を最後に
馬韓などの東夷各国がしきりに朝貢しているなか
倭国だけが消息不明になってしまう
つぎに歴史の表舞台に現れるのが倭の五王の時代
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:08:35.38
>>172
千葉や茨城にも久能があるし、栃木にも久野、茨城にも久野町があるね

ただ房総半島だけは考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっているから
卑弥呼時代の狗奴国の領土は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯と見る事ができる

元々は滋賀県か木曽三川以東までが狗奴国だったと見られるが倭国大乱が終わるまでに
天竜川以西の領土は邪馬台国に奪われてしまったものと思われる

そういう経緯もあって卑弥呼の銅鐸禁止令以前からすでに狗奴国の人々は邪馬台国を
敵視していたものと思われる
0186日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:11:26.16
>>183
倭王が居る王宮のある場所
これが俺にとって何より重要な事
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:11:32.97
卑弥呼は王となってから見たものいないとか魏志倭人伝に書いてあったがNHKの番組で若い女でみんなの前で議長やってたぞw
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:13:47.79
>>183
247~8年がクーデターで
曹家と邪馬台国国交は終わる。
それが、倭人伝。

覇王、晋皇帝の司馬氏は、
倭国に興味は無い。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:16:05.04
3世紀中頃の倭国の様子(魏志倭人伝)
食飲用籩豆 手食
食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる

7世紀初頭頃の東の倭種の様子(隋書倭国伝)
俗無盤爼藉以檞葉 食用手餔之
その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷く。食物は手を使って食べる
0190日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:17:17.49
日本の歴史がいつ始まったか?
居たか居ないかわからん卑弥呼よりはるかに重要
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:24:24.07
>>182
箸墓伝承はあきらかに後世の創作なんやね
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:25:01.87
1番わかりやすい歴史は淡路島の誕生を見た歴史だよ
旧石器時代は瀬戸内海は陸地で淡路島は四国と陸続きで島ではなく、紀淡海峡は河口であった
瀬戸内海や大阪は内陸の地だった

最終氷期が終わり海面が上昇し瀬戸内海の地に海水が流入して淡路島は四国と切り離され島となった
この現象を伝えてきたのが日本人だ
そして淡路島より前に生まれた水蛭子
35000年以上前にいたサヌカイトを使う集団と20000年前に竪穴式住居で暮らし始めた集団が河内の藤井寺の地で出会って共に暮らし始めている
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:25:03.75
トヨと崇神のイト倭国の東遷と前方後方墳東方世界が纏向で合流した三世紀後半が強いて言えば日本の歴史の始まりだろう。
それまでは基本的に各地方バラバラでまとまりはない。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:27:45.51
>>189
つまり、漢代から隋唐まで
中国に日本情報はほぼ無い。

倭の五王が、有ったのに?
まあ、南朝との供合は言わないwww

卑弥呼は日本王朝の
次代に繋がらない。

金印とか?
九州の小国だろ?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:31:39.20
>>191
でも纏向はある
0196日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:38:06.56
崇神もモモソも創作なのかもな
0197日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/23(土) 23:46:52.89
東遷説というのが昔あった?

九州女王が倭王だったw
という歴史は
倭人伝論争にしかかい。

九州説でも、漢の委奴国が
大倭王って説が、今も有るのか?

畿内朝廷の九州統一が
246年って歴史なだけ、だろ?

倭人伝の邪馬台国が畿内は、
倭王が言い張っても不可能。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:00:54.48
倭の五王は大阪の巨大古墳の時代
この辺に居たんだろうが何処に住んでたかまだわからん
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:06:50.95
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国✖阿波説)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(女王之所都=沖縄那覇)
0200日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:08:47.37
倭の五王は
倭人と魏(と晋)の関係の延長にあるのだけはわかる
0201日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:09:16.54
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみた!w

<北部九州>
筑紫邪馬台国…魏(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…新羅(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲し、消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け激しく動揺した32歳の台与は、巫女だけに国際政治もよく知らず、共立のため跡継ぎがいないことから、死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:13:55.71
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国・日田郡出土)を貰い、巫女だけに世継ぎのいないことから将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:18:43.91
長浜浩明の説が真相・真実に一番近い。
明治天皇の玄孫である竹田恒泰も九州説だが、
竹田恒靖も長浜浩明の説は覆せないレベルと言っている。
畿内説はありえない。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:23:34.98
>>185
桑名(三重県桑名市)
久努(静岡県袋井市)
久野(栃木県鹿沼市久野、神奈川県小田原市久野、茨城県土浦市田土部)
久能(茨城県古河市久能、千葉県富里市久能、静岡県袋井市久能)
鬼怒(茨城県下妻市鬼怒、栃木県日光市鬼怒川温泉滝)
毛野(栃木県足利市毛野新町)
0205日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:57:51.37
>>188
司馬氏にとって重要な国だったから魏志に東夷伝が収録されており、西域伝が存在しないんだぞ
曹氏にとって重要だったが司馬氏にとって重要じゃなかったのが西域だからな
0206日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 00:57:54.95
王宮候補として脇本遺跡ってのがあるのね
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 01:15:50.97
郡から狗邪韓国(投馬国)までの水行7000里は20日で行けますよ。
狗邪韓国(投馬国)から伊都国までの水行3500里は上記の半分なので10日で行けますよ。
伊都国から女王国(邪馬台国)までの陸行1500里は1日50里(約20キロ)進むので30日で行けますよ。

日数記事は、里数記事を読んだ者が総距離12000里を日数に換算すると60日かかりますよ。とする後世の加筆注釈。里数記事は一里=80mほどで書かれているが、日数記事作成者は事情を知らないので魏の標準里(一里=434m)で計算している。末盧から伊都は本来は東南水行500里。壱岐から末盧を目指し南下し南東に向きを変えて伊都の港に入る。末盧には寄らないので官の記録ない。方向も南東。行くに前の人が見えずと言うのもアクシデントで上陸したことを示している。投馬国と邪馬台国は日数記事作成時の情報が反映されたもの。よって不弥国から南に水行20日などと里数記事と日数記事を連続して読んではいけない。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 03:45:49.50
長浜浩明氏は威勢がよくて、既存の学者をこき下ろすスタイルがとても痛快だった
が、安本美典氏の本で名指しでボロクソに論破されていた
とくに歴代天皇の在位年に関しては安本氏の世界の王の在位年を調べ上げた統計的な手法に軍配を上げたい
0209日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 06:22:53.62
長浜浩明は竹田と同じで単なる都市伝説屋
0210日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:02:42.61
『朝鮮投馬国』

簡単な、結論だなwww GJ
なぜ、まぬけな論争が続くのか?

投馬国は
任那加羅諸国である。

これが無ければ
倭人伝論争は始まらない。

まぬけな、学者には、
まだ、始まっていない。

と、言う話だったのか?
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:13:33.95
>>207
「投馬国=狗邪韓国」説は(九州説をdデモに貶めるための)畿内説の破壊工作だったんだねw
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:16:16.99
『朝鮮投馬国』まぬけで終了済み
0213日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:20:22.64
朝鮮投馬国は(九州説をおとしめるための)畿内説の破壊工作でした!w
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:25:56.87
投馬国は対馬
ただし五万戸は朝鮮半島の倭人居住区
朝鮮半島最後の寄港地が対馬って事だな
陳寿は投馬国と邪馬台国を集落のような国として書いてるが違う
朝鮮半島と倭の極南界日本列島の事だ
0215日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:27:35.01
今 使 譯 通所 30国
従 郡至倭
『南至 朝鮮投馬国』
『南至 九州邪馬臺国』
女王の処都 万二千余里
解決です! お疲れ様でした。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:30:48.55
>>214
対馬投馬国も(九州説をおとしめるための)畿内説の破壊工作でしたw
0217日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:37:09.50
日本に向かうのに目の前に見える対馬を避けて狗邪韓国に寄港する理由がない
0218日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:37:41.16
>>214
韓伝から5万戸は弁辰韓24国ですが、

投馬国は、240年の郡使に拠る
任那地域諸国の仮称です。

魏は弁辰韓をまだ認識出来ていない。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:38:41.85
後学に知らせるべき、(九州説をおとしめる)畿内説の破壊工作の数々w

@「卑弥呼=熊襲の女酋長」
A朝鮮投馬国
B対馬投馬国
0220日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:43:58.06
>>219
あんた病気?
0221日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:44:41.57
>>217
247年の張政は倭人船で渡った。
狗弥韓国は、女王国の北岸港国。

240年の魏船は対馬が見えれば
どこからでも渡れる。

帆船だろうね。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 07:46:16.71
>>219
そういうことか!

⇩つまりこれが正解!
>>199
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:10:10.82
>>223
イミフw
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:13:26.85
>>219
それテンプレに貼ってくれw
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:14:55.75
>>218
対馬には縄文時代から人が住んでるし朝鮮半島もおそらくそう
いつの時代の資料かはわからない
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:23:38.70
>>219
んなこたあない
このスレに書いてるんだからスレ主が歯ぎしりしてるだろう
そもそも九州説は関係ない
0229日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:27:08.17
>>219
たしかに。
九州説=頭のおかしい連中、というレッテル貼りになってゐるね
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:31:28.26
>>211
九州説なんてトンデモだけど何か?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:34:37.45
纏向遺跡発掘でもう勝負はついた
圧倒的な証拠だな
九州には纏向に匹敵する遺跡はない
古代初の都だよ纏向は
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:36:01.91
古代日本列島90度地殻変動説とかムーばりの主張すらあるスレで
そんな必死に噛み付くほどのことかね
0233日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:36:49.80
>>229
今でも九州説なんて言ってるの安本美典ぐらいだろ
纏向遺跡発掘などの考古学の成果を見て今でも九州説を言ってたら
それこそトンデモさんだな
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:38:47.40
纏向遺跡発掘などの考古学の成果を見たら九州説になるだろw
0235日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:39:39.26
東の倭種の遺跡がどれだけ発掘されても魏志倭人伝とは関係無さすぎる
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:44:04.22
つまり九州説はウソ
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:44:54.64
もう九州には何の証拠もない
金印は箸墓に眠っているだろうけど宮内庁が発掘を許可するわけがないので
どんなに状況証拠を突きつけても九州説のトンデモさんは納得しないだろう
0239日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:45:12.55
そもそも畿内説は日本列島で一番大きな勢力が卑弥呼の邪馬臺国だという根拠のない思い込みが元になってる時点で成立し得ない
なぜ卑弥呼が一番大きな勢力であるのか東の倭種の勢力と比較して証明するの先だよ
それが科学者のあるべき態度
それができないので説として欠陥がデカい
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:45:35.54
つまり畿内説は大ウソ付きでしたと
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:53:52.26
>>219
朝鮮(任那)投馬国
卑弥呼は九州の女酋長
には、賛成だが

『やまと畿内説』
は、間違い無い。
と、思うぞwww
0242日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:54:36.87
ここが人が多いので、日本史マスターのみなさんにスレ違いをお詫びして質問したいんだが・・・

英語版ウィキの日本文化に影響を与えた朝鮮(コリアン インフルエンス オン ジャパニーズカルチャー)というページで、桓武天皇の母の高野新笠が百済武寧王の250年以上後の子孫なことをもって、
桓武天皇とそれに続く源氏と平氏、北条・足利・徳川・武田とか数十の武将が氏族が全て百済系として系図に載せられてて、
トークページでの異論が「応神天皇と神功皇后は古朝鮮語が母国語」「日本の~は朝鮮由来」とか書きまくってる人たちにネトウヨ扱いされたけど納得すべき?

見るとわかるけど、この系図には高野新笠もかかれてないし、彼女が武寧王から250年以上後の子孫とも書かれてなく、
武寧王ージュンダ王子ー桓武天皇ー平氏と源氏ーその多数数十の武将氏族(足利・織田・徳川)ということになってて誤解されること必定なんだが。
そもそも織田と徳川を見ても分かる通り、武将たちの「うちの先祖は源平藤橘」なんて歴史学者からは信憑性低いといわれてるよね?

https://en.wikipedia.org/wiki/Korean_influence_on_Japanese_culture
0243日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:56:03.78
>>239
倭王だから
中国がその国の代表だと認めてるから
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:56:54.36
>>243
倭国とは東南大海中に倭人が100余国に分かれて住んでるうちの30余国で
後漢の時代からその30余国を統べる大倭王が中華に朝貢し続けていた

卑弥呼はその後漢の時代からずっと続いている倭国=30余国連合の大倭王であって
倭国大乱ののちに突然日本列島全体を統一したわけではない

ここまでは後漢書と魏志で誰でも理解できる範疇
0245日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 08:58:49.90
>>219
それいいなw
0246日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:01:34.46
>>244
それ、あなたの独自説
支持者、いる?
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:02:35.92
>>246
独自でもなんでもない
後漢書と魏志に書いてあるそのまんま
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:07:48.85
>>244
>後漢の時代からその30余国を統べる大倭王が中華に朝貢し続けていた

間違い。
前漢武帝(紀元前108年)に朝貢していた30国は、
鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交手段。   @阿波  
0250日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:12:49.80
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
これ紀元前108年の話しでかなり古いんだよね
陳寿は魏の時代の様に書いてるけど
0251日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:14:07.83
つまり「里数」行程は過去の中国の記録のコピペであり、「日数」行程は朝貢を再開した倭人からの伝聞だ
どちらも郡→女王国の道のりを示している
図:https://i.imgur.com/jvUmEkv.png

そんだけの事よ
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:17:53.95
>>251
里数の行先は不弥国だから
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:20:30.86
つまり九州説はウソ
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:20:34.18
>>242
武寧王の父、東城王は
日本貴族だった混支王の五人の王子
の中から、雄略天皇が選んで
クーデターが有った百済へ
500人の兵を付けて送り、即位させた。

350年から武寧王までの百済王の姫は
ほとんどが、代々、日本王室の姫で
王子は日本貴族として日本で養育された。

つまり百済王家は、大和朝廷の外戚。
百済滅亡後も代々日本人貴族。
桓武天皇の母も同じ、だから入内した。

現代韓国人や
しもじもは、関係無い。
だから武寧王の棺桶が日本槇製なの。
これ、朝鮮人には、内緒だよ。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:22:12.62
>>253
東に行けば不彌国と紹介しているだけであり最終到着地は奴国だろ
そしてその南に反奴国=狗奴国がある
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:26:27.63
最終「到」着地は伊都国
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:27:22.40
>>256
奴国でも同じだよ
邪馬台国じゃないんだから
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:40:33.42
凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
約100国あって紀元前108年以降はそのうちの30国と使役を通じてて皆王と称してて
大倭王は邪馬台国に居る
これが紀元前108年の話しだから周代の記録が残っててもおかしくない
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:41:11.44
>>250
>自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
>これ紀元前108年の話しでかなり古いんだよね
>陳寿は魏の時代の様に書いてるけど

陳寿が正しくて范曄はいい加減な改造をしただけ
彼は軽率で無責任な人間だと評されている
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:48:03.63
前漢の時代って倭国は百余国に分かれてたんだろ
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:48:38.92
日本人が国内でいろいろ言っても、上のみたいに韓国人や中国人に英語版ウィキで誤解を誘導する形で世界に情報拡散されるから意味なくない?

英語ウィキを直したいが英語できない場合、翻訳サイトDeepLで英文作成→DeepL Writeで校正
→みらい翻訳とGoogle翻訳で日本語に戻して欠落なく完璧に正確ならまず英文として通用するから参加しよう。
主語・目的語・述語を省かず補足説明は短くで翻訳制度が上がる。専門用語や固有名詞の誤訳が多いから、それは検索してただし綴りを確認して。
DeepLは回数制限がないアプリ版もお勧め。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 09:52:02.20
>>252
韓国で言えば野史派の方が強いようなもん
九州説というトンデモが一般に膾炙している
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:00:18.51
吉野ヶ里は上物がどんなのかわかんねえのに金にものを言わせて立派なの造ってるだけじゃん
0269伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/03/24(日) 10:02:37.74
弥生時代の建物の復元 以上の建物の復元については、発掘された建物の跡(遺構)の構造、吉野ヶ里遺跡のみならず全国の弥生時代遺跡から出土した建築木材、弥生人が描いた建物絵画、古墳時代の家形埴輪、
当時外交関係にあった古代中国の建物関係資料(発掘遺構・建物模型・古記録・画像石など)、現在の東アジア古建築など多くのものを参考にし、専門家と協議を重ねながら推定しました。
 しかし、弥生時代の吉野ヶ里(よしのがり)の丘に建っていた建物の本当の姿が明らかになったわけではありません。今後、発掘や研究が進めば、真実の姿が見えてくるものと期待されます。


https://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031327/index.html
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:04:31.95
下物を水増し捏造
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:08:55.40
>>268
纏向は柱だけだが
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:12:06.54
柱の数すら創造図w
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:14:46.94
>>271
纏向遺跡ごときに想像図ww  気恥ずかしくならないのか?   @阿波
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:15:25.47
吉野ヶ里www
あんなのが都なわけないじゃんw
唐古・鍵遺跡と大して変わらん
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:18:15.75
北部九州に卑弥呼共立につながる倭国乱の痕跡がないことは理解できたかな?
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:20:17.74
倭国乱で吉野ケ里や平塚川添など巨大環濠城塞が滅亡してる
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:21:53.86
>>276
>なんで恥ずかしいの?

住居跡さえ無いお粗末な遺跡だからよ。 そんなことも分からんか?   @阿波
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:25:38.83
>>277
じゃあ聞くけどさ
天明の大飢饉の痕跡って残ってる?
倭国大乱って黄巾の乱と同じ時期に起きてるけど、大飢饉だったんだよね
実態は食料の奪い合いだったと思うよ
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:29:48.71
纏向遺跡

唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模であるとする説がある。また、計画的な都市建設がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:30:31.87
>>282
東京のビル群みたいなもん
明らかに計画都市だった
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:31:10.64
>>283
>唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち

その規模ってなにを指すのか?   @阿波
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:33:10.07
>>285
面積
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:34:43.71
>>286
橿原考研のレポート読んでください
どーせ読む気もないくせに聞くなよw
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:36:06.02
纏向遺跡に搬入された土器分布
九州以外の西日本のほぼ全てがある

伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1%
0291伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/03/24(日) 10:36:51.84
自然発生の集落と違って、計画的に作られた人工都市って、計画倒れの失敗に終わることが多いからね。
平城京や長岡京もそんな感じだし、千年の京と呼ばれる平安京も、当初計画どおりではなく違う形で?栄した訳だし。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:39:56.05
>>291
>計画的に作られた人工都市

お前、ほんとうにそう信じているのか?  なんか、哀れになってくるのうww  遺跡の貧困地は。   @阿波
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:40:39.91
>>290
これを見れば邪馬臺国は伊勢東海から北九州の一部まで支配していたことがわかる
九州は遠いので労働力が入ってこなかったのだろう
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:44:13.35
>>295
伊都国奴国も邪馬台国連合に入っていたんだよ
魏志倭人伝に書いてある
伊都国なんか代々邪馬台国に属すって書いてある
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:47:28.18
言い張れば言い張るほど支持率が下がる畿内説(纒向説)w
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:49:41.37
倭国大乱は青谷上寺地遺跡の事じゃないかな?
渡来人がやられたって事で中国にオーバーに情報が入ったんじゃないか?
0299伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/03/24(日) 10:50:06.56
>>293
奈良湖の跡地に広大な未開の土地が有ったからヤマト王権連合の都に選ばれたのでしょう。
ヤマト王権の初期は地方王権の寄り合い所帯だったので、敢えて、各地方王権の本拠地でない場所が選ばれたのでしょう。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:51:33.48
倭国大乱や黄巾の乱の元になった大飢饉が全世界で起きたことは古気象学の研究でわかっている
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:53:00.31
>>299
>奈良湖の跡地に広大な未開の土地が有ったから

奈良湖の跡地に広大な未開の土地が有ったから、広大な墓地となった。   @阿波
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:53:25.85
計画倒れの失敗=柱穴半分だけで中止w
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:54:06.03
>>299
>ヤマト王権の初期は地方王権の寄り合い所帯だったので、敢えて、各地方王権の本拠地でない場所が選ばれたのでしょう。

能無しのお前はその程度ww   @阿波
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:55:08.18
>>299
当時の奈良が未開とは思わない
唐子鍵遺跡があるし農地開拓されてるよ
農地に適した場所ではあっただろうけど
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:57:39.46
>>304
>農地に適した場所ではあっただろうけど

>>300さんが言うように、大洪水で壊滅状態となった。   @阿波
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:59:15.85
帝紀・旧辞には「姫命」「媛命」「日女命」「比売命」「日巫命」など、
卑弥呼と分かる名前が記されていたとして、それをそのまま書けなかった
かと言って全然違う名前にしたり、存在を消す事は出来ない
よって、7世紀の出雲族の象徴である踏鞴(タタラ)と、
妹の名前である「五十鈴」を足したのであろう

ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)の呼称
比桃@(Bi mie hou) 比売后(Bi mai hou) → 卑弥呼(Bei mei hu)

アマトヨツヒメノミコト(天豊津媛命) → 台与(トヨ)

神武とは何者なのか
大和にいた女王の婿であり王配である
神武は大和入り後に結婚するが、妃はいない
これは世界中の王配の鉄則であり、女王の婿が他に子供をつくると後継問題で複雑になる
複数の妃を持つ最初の王は孝霊である

神功摂政元年は201年で、神武東遷は214〜222年頃と比定出来る
卑弥呼が女王になってから、神武の大和入りがあったと思う
魏志倭人伝の記述から、卑弥呼は神武より高齢まで生きた事になる
当時の摂政は、綏靖や安寧であろう
そして、台与の王配が懿徳なのである

神武(始馭天下之天皇)、崇神(御肇國天皇)は王朝の初代である
崇神の事績は、四道将軍の派遣、人口調査と課役、任那からの朝貢である
行燈山古墳の築造から考え、崇神は4世紀前半の大王であろう(古事記:318年崩御)
定型的規格をもつ前方後円墳の成立を古墳時代の始まりとするなら、
その最古の一つは箸墓古墳に求められる

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/8b718aa392b29a6ac0ef99a1b9ab9cf0_ae3da5062e82674dfe0f1de6a7ddc8a6.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/57b1e619a29fb576722bc3688a0acf6a_57ead9b40ce62198fceaff9226c226c4.png
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:59:30.47
伊勢遺跡の近辺も縄文時代から人が住んでて遺跡がたくさんあって人口密度は高かったと考えられてる
そこに無人の伊勢遺跡が忽然とできたわけで
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 10:59:41.89
>>290
この搬入土器分布を見て本当に驚いたもんね
ああ、もう九州説は成り立たないなと
あと狗奴国東海説ももう成り立たないかなと
土器の半分は伊勢・東海系だもんな
0311伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/03/24(日) 11:00:52.45
>>304
「奈良湖の跡地」には広大な未開地が有ったと書いた、
奈良盆地でも、扇状地の上は以前からの居住適地だったのでしょう。

ただ、奈良湖が徐々に縮小していく過程では、まだ手が付けられていない土地が多く存在していたのでは無いでしょうか。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:01:24.70
九州の土器が無いのだから大率と無関係
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:02:53.35
>>290

いつまで石野の数え間違い貼ってるんだよ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:03:10.26
>>311
奈良湖っていつの時代よ?
弥生時代にはないでしょ?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:04:14.18
>>313
>いつまで石野の数え間違い貼ってるんだよ

今は、全部「東阿波型土器」となっている。   @阿波
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:05:18.59
>>313
>いつまで石野の数え間違い貼ってるんだよ

今は、全部「東阿波型土器」技法となっている。   @阿波
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:05:18.96
高貴なものが眠る前方後円墳に吉備出雲筑紫の西側の影響が見て取れ、下賤が持ち運ぶ土器が主に東から搬入されている
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:05:56.63
>>294
北部九州を中心とする土器の交流では、東海、山陰、河内、播磨、吉備、朝鮮半島との土器交流が認められる

これ全部、北部九州の支配地域だったことがわかるね
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:06:07.91
>>310
桑名は怪しいけどな
志摩より東(魏志倭人伝の南)

斯馬國  志摩[シマ]  三重県 志摩市
己百支國 小脇[コワキ] 三重県 尾鷲市小脇・曽根遺跡
伊邪國  熊野[イヤ]  三重県 熊野市

桑名(三重県桑名市)
久努(静岡県袋井市)
久能(静岡県袋井市久能、千葉県富里市久能、茨城県古河市久能)
毛野(栃木県足利市毛野新町)
鬼怒(栃木県日光市鬼怒川温泉滝、茨城県下妻市鬼怒)
久野(神奈川県小田原市久野、栃木県鹿沼市久野、茨城県土浦市田土部)
0320伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/03/24(日) 11:07:21.86
>>314
弥生時代初期には奈良湿原と呼ぶような状態で、大きな湖は既になく、湿地の中に小さな沼がいくつも残っているような状態だったのでは無いでしょうか。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:09:09.40
>>318
57年 奴国(北九州)
107年 倭面土国(ワミャント=大和)

この間に民族大移動があったと思う
盟主交代は一人の勇敢な王の東征によってはあり得ない
ここから201年頃の卑弥呼擁立までが倭国大乱であろう
神武の婿入りはその後である
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:09:10.94
というわけで九州説ジ・エンド
考古学の成果
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:12:50.62
>>320
そういう解釈でも良いんだけど
弥生時代に徐々に生活できる環境になってきたってのは違うだろ?
0325ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/03/24(日) 11:13:03.04
ネトウヨが詭弁を弄しても、天皇家が中国皇帝の臣下になった歴史は変わらない
韓国ヘイトの一つに韓国は中国の万年属国というものがあるが、日本も同じなんだよな

ヤマト王権は邪馬台国時代に中国に朝貢して親魏倭王に封ぜられた
以上
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:15:21.17
>>325
チョンコはチョンコ。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:17:09.98
>>326
>そんな悪地に夢を見るアホの板野。 

いや、違うな。  ただひたすら「阿波」を貶めたいがために、眉唾の畿内を推しているようだ。  @阿波
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:18:07.74
ヤマト政権の始まりは倭国の始まりと同じ
倭国大乱前にあった男王による約80年の治世の始まりだ

卑弥呼の倭国がヤマト政権で、卑弥呼より前の倭国はヤマト政権ではないというのは詭弁でしかない
0331ネトウヨ撲滅タイ!
垢版 |
2024/03/24(日) 11:19:09.91
ヤマト王権の支配層は九州や吉備の文化に連なる人たちであって、2世紀後期後半に畿内にやってきた外来者
これが神武東征神話の元ネタになった邪馬台国建国であろう

邪馬台国や卑弥呼をヤマト王権や天皇家と切り離そうという言論は、日本会議の連中の国粋主義が作り上げた妄説
百田や竹田宮や渡邉や長浜といった人物は皆九州説である事を忘れてはいけない
0332日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:20:17.71
卑弥弓呼が倭国王の正統で女王国はただの反逆者でしょ
纏向の後始末をしたのは狗奴国の人々じゃないの
無責任極まりない女王国の奴ら
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:21:22.36
>>331
伊勢遺跡からに移転だから
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:22:42.44
■九州説は山門を邪馬台国としているが、山門という地名自体、山口など他にもある

  「邪馬台」「大和」は「ト」(乙類)
  「山門」は「ト」(甲類)

■卑奴母離(ヒナモリ=夷守)とは、遠方の国境周辺に展開する防衛職を意味する

  對 馬 國 卑狗 卑奴母離
  一 大 國 卑狗 卑奴母離
  末 盧 國
  伊 都 國 爾支 泄謨觚 柄渠觚
  奴  國 馬觚 卑奴母離
  不 彌 國 多模 卑奴母離
  (ここまでが九州)
  投 馬 國 彌彌 彌彌那利
  邪馬壹國 伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳

■狗奴国の拘右智卑狗(コウチヒコ)は、大阪の河内地方を故地とする人物と思われる

  魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)
  女王之南 又有 狗奴国 女男子為王 其官曰 拘右智卑狗 不属女王也
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:24:24.24
山戸は宇佐
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:27:19.58
>>290
吉備25%
東海20%
河内20%
山陰・北陸17%
讃岐・阿波・播磨8%
近江5%
西瀬戸内3%
紀伊1.5%
駿河0.5%
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:28:01.68
山門(ヤマド)
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:28:19.77
>>335
シナの史書で日本の甲類乙類を音を聞き分けて漢字をかき分けた事例を示して
0340ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/03/24(日) 11:30:13.89
ネトウヨが詭弁を弄しても、天皇家が中国皇帝の臣下になった歴史は変わらない
韓国ヘイトの一つに韓国は中国の万年属国というものがあるが、日本も同じなんだよな

百田や竹田宮や渡邉や長浜が九州説を表明している事が政治的に何を意味するのか考えるべきである
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:32:13.33
朝貢年
107年 升
239年 卑弥呼
266年 台与

升はわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した
この屈辱的な史実を記紀は書けなかった
だから基点となる神武即位を太古の紀元前660年とした
その結果100歳を超える天皇が誕生した
そして実際には女王国であった時代も、
やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかの様に演出した
高天原の場所も、まるで九州ともとれる様に潤色した
「古代天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
新井白石をはじめ、これら江戸時代の国学者たちによって、
九州説なるものが意図的に創作された
彼らは、そもそも邪馬台国が九州にあったとは思っていない
国学者としてのプライドで、古代天皇の朝貢を認めたくなかったのである
彼らが九州説を創作し、支持者が増え、論争してくれているうちは、
古代天皇の朝貢という辛く重い荷物を着地させずに済む
その着地しない状況を永遠に創ろうとしたのである
つまり九州説とは、世論誘導のための虚構である
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:32:22.40
>>340
悲しいチョンコの言葉
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:55:43.54
>>247
書いてあるまんま、というヤツにかぎって曲解と誤訳のオンパレードなんだよなあ
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 11:58:34.56
>>344
曲解する奴の典型例は100余国が統合されて30国になったとか言う
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:02:48.90
>>344
リアルで、○○には、実はこういうことが書かれている!! といってるヤツの多くは曲解、
朱熹の論語解釈とか含めてな

もちろん、九州説の諸氏の倭人伝解釈も例に漏れてない
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:07:40.34
曲解の典型例「南は東のまちがい!」
誤読ってレベルじゃねーぞ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:09:25.95
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:09:53.82
>>347
でも正解でしょ
台湾沖には日本列島が無いもの
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:10:25.41
>>347
曲解の典型例
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。 
行程里数を足したり引いたりするのは、日本のアホ学者とアホ信者だけ。   @阿波
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:16:03.49
やっぱり考古学は凄いな
徳島と大阪をセットで見ると古代の動きが見えてくる
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:19:19.36
>>347
距離も方角も文化もことごとく間違ってる、方角だけが間違ってる訳じゃないぞ
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:20:17.29
徳島の眉山のX結晶片岩製石棒だな
これはかなり興味深い
石棒(男根)祭祀の栄枯盛衰だ
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:22:22.36
ひるこに足が生えなかった話とか謎だったが徳島と大阪をセットで見ると輪郭が浮かび上がってきたな
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:22:33.88
>>350
はい曲解
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:23:40.04
南に行き過ぎたなら戻ればいいのにベクトルを回転させたら正解てのがよくわからんよな
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:25:03.39
末盧国までは七千里なのに
ソコからなぜか東に向けて長里を採用してしまう畿内説
こういうのが曲解という
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:25:39.58
七千里+三千里なのに
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:33:02.85
徳島で石棒祭祀の集落は弥生時代初頭石棒を貝塚に大量に廃棄して集落として終焉しすぐ近くに遠賀川式土器主体の集落が時期を同じくして始まる
貝塚からは埋葬された7体の犬も見つかっている
眉山では石棒の製造が行われ西は岡山東は奈良迄出荷されていた
主な出荷先は大阪だった
縄文時代徳島と大阪はかなり密接な関係にあった

大阪は弥生時代に入っても中心集落で石棒祭祀が継続して行われていた
徳島から供給が無くなった後も、弥生時代中期〜池上曽根遺跡は材料を石から木に替え男根祭祀が続いていたようだ
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:37:37.46
松江の西川津遺跡の樫で作られた鳥形と同じ形の鳥形が弥生時代中期に認めている河内の亀井遺跡でも石棒が使われていた
日本最古の分銅が見つかった地だな
縄文時代からいる集団が母体となり技術を持つ渡来人を受け入れる形で集落が発展したのかもな
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:46:26.02
神武東征神話は魏志倭人伝の航路と同じである

北九州〜広島〜難波〜陸行
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:49:18.44
始まりは阿波@阿波の話は実はその通りなのかもしれない
阿は1番最初の音だ

遠賀川式土器の分布の東端は若狭〜尾張のラインだ
遠賀川も尾張もそうだが、遠賀川式土器の勢力とオの音は関係があるんじゃないか
大陸の稲作集団だから布の技術も持っていただろう
麻植はオエ、徳島は麻をオと発音することが多い
在地の人々は石棒から稲作に乗り換えたのかもしれない
或いは石棒祭祀を大切にしていた人々は大阪などに逃れたか、或いは舟に乗せて放り出されたか
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:51:58.26
邪馬台国と狗奴国の因縁の火種は実は弥生時代の幕開けと共に始まったのかもな
渡来人主体のグループと先住民主体のグループ
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 12:52:46.98
>>362
「帯方郡から12000里(900km)」…真実
「会稽東冶の東(沖縄那覇)」…魏の認識(虚構)

この2つを同時に並べて書いたのが魏志倭人伝の真実(正解の読み方)
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:03:07.03
>>371
月刊ムー説
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:03:33.59
>>359
>ソコからなぜか東に向けて長里を採用してしまう畿内説
>こういうのが曲解という
    ↑
こういうのが曲解というw
誰も算出したことのない短里なんて妄想なんだから漢魏の1里はすべて400m超

現代人の言ってることさえ曲解する九州説が古典なんて読み解けるわけないよね
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:05:05.07
>>355
リンクを辿る手数かけるが、こういうことが魏志倭人伝には書かれてある
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:09:06.45
>>371
大昔は、見聞きを元に地図が作られると思う。
話の後に書かれたのだろう
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:09:36.65
>>372
東日本の毛人や蝦夷は倭の南に居るという大陸人の認識
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:19:38.28
おはようございます
狗奴国ヒミココについてですが
ヒミココって卑弥呼と一時違い
卑弥呼と匹敵する尊称と言える
対になっていると言ってもいい
(しかも魏志倭人伝によると、なぜか王号を与えられている)
卑弥呼を共立した倭人たちがそう呼んでるところから
彼らと同じ宗教圏、同じ言語圏、同じ文化圏に属する人物と言える
遠い東海地方または北関東の首長をヒミココなどと呼ぶだろうか?
自分たちが推戴する倭国王卑弥呼と同レベルの敬称を使うかな?
平安時代でもそこら辺の人は夷狄や毛人扱いだったのに
しかも東海は上代東国語で同じ日琉語圏の可能性もあるが
関東は当時はアイヌ系の言語な訳だ

次に、「素より和せず」
素よりが、いつからを示すか不明だが
卑弥呼が共立される前からと仮に考えると
女王国(邪馬台国)と狗奴国は地理的に近いのではないか
筑後と熊本や、奈良と河内のように隣接し
境界の争いや、交易の利得が衝突する関係にあったのではないか
やはり畿内説をとってもその他の説をとっても狗奴国東海説東国説は考えにくい
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:19:41.62
ふるしょうさんが今日のNHKの大和政権成立の謎のライブやるみたいだからおまえらも参加したら?
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:20:25.55
大阪の地はかなり興味深いな
様々な時代において、各地で住処を追われた先住民たちの逃げ込み先になっていたようだ
何でも飲み込む蛙石の伝承があるのも興味深い
脈々の雫ではないが、最後は山の雫にという共通の思いがあったのか
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:23:50.94
>>376
単に東側にスペースがないから上から順に詰め込んで描いただけ

奈良時代の行基図が元になってるだけ
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:26:41.10
>>371
三角縁神獣鏡もそうだけどとっくに効力を失ったものを根拠にし続ける心理て何なんだろうね
自分が騙されたことを認めたくないのかな?



弘中芳男氏の研究によって、この地図が、日本列島を南に転倒して描いているのは、15世紀の初頭に、 李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本の「行基図」を、不用意に挿入してしまったためであることが明らかになった。

すなわち、同じ元資料から作られたと思われる『混一彊理歴代国都地図』(島原市本光寺蔵、以下、本光寺図)の存在が明らかになり、本光寺図では、日本は正しく東西に画かれていたことから、周囲の島嶼の配置などの分析により、本光寺図こそ、当時の地理観を正しく反映したものであり、龍谷図は、スペースの都合などによって、日本を南北に画いたものであると判断された。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:34:02.59
永嘉の乱の避難渡来人を集めた邪馬台国の勝ち
いわゆる大和国である
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:34:14.39
単に北九州の30余の集落がゆるく連合して、独自外交をしていただけだと思うよ。
それも昔からやってて、光武帝から金印下賜されたり、倭国王帥升が安帝に奴隷を献上したりしていた。卑弥呼もそれをならっただけ。
奴国に畿内との一定の関係が認められても、北九州人たちの中国との外交を封じ込んだ証拠にはならないでしょう。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:42:56.91
河内の長髄彦が東国に逃れたという伝説もあるからな

長髄彦は卑弥呼の母(三炊屋姫)の兄であるが、王に立候補して落選した身分でもあったのだろう
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:45:36.04
神とは何か?3スレにいます
西知
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:47:02.37
>>380
>単に東側にスペースがないから上から順に詰め込んで描いただけ

それは根拠のないトンデモ説だな
0388日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:50:43.25
>>381
>三角縁神獣鏡もそうだけどとっくに効力を失ったものを根拠にし続ける心理て何なんだろうね

そうやって妄想に生きるのが九州説
本光寺図は後から日本で作られたものなので日本列島が正位置に修正してあって当たり前
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:52:41.21
>>363
石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、
紅簾片岩の露頭が確認でき、この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡
・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。
また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末~弥生時代前期初頭の土器型式で
2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、三谷遺跡・名東遺跡の存続期間と
ほぼ一致することが確認された。
さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、
近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、
在地の人々による積極的な関与があったと考察される。  @阿波
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:55:23.10
>>366
記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。
当時(8世紀)の倭人にとって、「あ」とか「い」に、そこはかとない尊崇の響きがあったんだろう。
だから、好んで名詞に「あ」とか「い」を付けたと思われる。   @阿波
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 13:57:42.91
>>366
>遠賀川式土器の分布の東端は若狭?尾張のラインだ

「刻目突帯文土器」も「遠賀川式土器」も「阿波」から西日本一帯に広がったのだろう。   @阿波
縄文時代晩期後半には、名東遺跡(図 1-11)で刻目突帯文土器単独の組成であるのに対し(勝浦編 1990)、
三谷遺跡(図 1-3)では刻目突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する状況が認められる(勝浦編 1997、中村編 2017)。
http://tokudaimaibun.jp/pdf/rist/syo/syou30watarirouka.pdf
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:02:51.22
>>208
安本の大昔の本を持ってるけど、古い地名を新しい地名として引っ越しさせてきたなんて話も書いてあるね。
あと、長浜説が広がる前から、世界の王の在位年を調べ上げた統計を安本はとっくのとうに出してるよ。
安本説の後に長浜説が広がったわけなので、勘違いしないように。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:12:57.82
どっちにせよ根拠のないトンデモだけどな
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:13:26.89
>>388
逆さま日本はアホのチョンコが作った出鱈目地図だから
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:13:27.08
>>387
じゃあ東にスペースがある地図持ってきて
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:13:58.98
>>377
そこ俺は分けて考えてる
卑弥弓呼とは同じ政権内の権力争い
それとは別に敵国って何処だろうと考えると東の毛人
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:16:21.00
>>383
中国が倭王として認めてるんだしその理屈は通じない
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:18:07.89
>>398
100余国にわかれてるうちの30国が大倭王の統べる倭国
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:20:13.96
>>396
>じゃあ東にスペースがある地図持ってきて

もっと古い地図でも日本より蝦夷が南に描いてある
つまり、こういう古い常識に合わせて行基図をひっくり返したことがわかる
弘中説は根拠のない空想

https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:22:14.40
>>401
なんで東側にスペースがない地図ばっかもってくんのよ
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:23:24.84
まぁ、当時の倭種最大の勢力の首長が倭王として中華王朝から冊封されるわけではないからな。
中国にとって利用価値があるかだ。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:27:04.84
>>399
後漢書   凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
魏志    舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
同じ資料を元にしてるだろうが書いてある内容には多少違いがある
0407日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:39:12.42
>>402
>なんで東側にスペースがない地図ばっかもってくんのよ

スペースいらないもの
日本列島そのものが小さいので
龍谷図でもそのまま90度回転できる
弘中説は無意味な空想
0408日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:39:33.37
畿内説の陸行は1日に500メート。
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:45:18.59
東夷海中之国
https://i.imgur.com/ObOXLwE.png
ただ単純に知ってる国を羅列して書いてたものを
地図の空いてるスペースに上から順に描き込んでいっただけの話で
そこには方角がどっちという概念は無い
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:45:29.29
>>377

纏向遺跡からは伊勢東海系外来土器が出るので
黥面土器が多い瀬戸内と東海が交差した土地
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:47:39.85
同じ国を指してても名前が違うと地図を書けばこうなるわな
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:52:39.85
>>404
漢書地理誌の情報だから「古くは100余国」と書いてるだけで倭人の国々はずっと100余国だよ

後漢書
倭はおよそ100余国ある
武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしてから漢に使訳を通じたのは30余国

魏志
古くは100余国と漢書地理誌には書かれており
漢の時代には朝見する者がいた
今使訳を通じているのは30国
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:53:11.30
長浜浩明の説が真相・真実に一番近い。
明治天皇の玄孫である竹田恒泰も九州説だが、
竹田恒靖も長浜浩明の説は覆せないレベルと言っている。
畿内説はありえない。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:56:13.58
>>413
そうだろうな
後漢書はより詳しく書いてて紀元前108年に朝鮮を滅ぼしたあと楽浪郡を設置した時の事が書いてある
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 14:56:55.54
>>404
>同じ資料を元にしてるだろうが書いてある内容には多少違いがある

魏志以外の情報がほとんど無いのに後漢代の倭国を書こうとして創作的歪曲をやらかしちゃったのが後漢書
0417日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:01:12.46
>>416
こういうのを曲解という
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:05:41.77
後漢書に書かれる倭国は卑弥呼が共立された倭国
後漢時代を書いた歴史書はいくつもあったが
評価が高くて残ったのが范曄『後漢書』で、史記、漢書とともに三史と呼ばれる
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:08:44.39
>>417
理由も言えない九州説は所詮俗説
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:09:30.46
都合が悪いので後漢書と魏志はデタラメということにした畿内説
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:14:37.73
実際に倭人の風習卜骨は、
弥生時代中期には九州を除く関東まで拡がっているので
日本の学問の通説畿内説はデタラメとは考えていない
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:16:32.00
まーたただの流行を政治的な支配関係にするのか
水稲栽培が流行ったら巨大国家が産まれてることになりそうだな
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:17:43.73
弥生時代中期に北部九州で盛行したのが
首狩りと頭顔面ど変形の風習をもつ甕棺墓
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:21:55.90
范曄の『後漢書』はほぼ『東観漢記』のぱくり

『東観漢記』の成立は後漢末とされ、ほぼ同時代史
0425日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:22:26.84
>>414
バカウヨしか支持しない二人
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:26:39.44
長浜、竹田は単なる都市伝説屋
0427日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:32:02.27
神功皇后実在だけは信じる方がおかしい
201〜269年って卑弥呼(240年には高齢)と台与(266年朝貢)が天皇空位の間に勝手にやった事にしてるだけだし
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:34:18.14
>>424
陳寿もそれを読んだんだろう
0429日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:35:12.26
>>377
卑弥呼 委奴国王
卑弥弓呼 狗奴国王
かと思う。

和音の呼は王
和音の弓は狗
和音の卑は所属の意味

和音の弥が、九州北部の自称国名だけど
弥の奴国が、委奴と狗奴に分裂したけど
本来の委奴国が本家
肥前と肥後だけど。
あ、九州説だwww
0431日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:42:19.95
伊都国と奴国で委奴国だよ。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:46:12.14
神武の親は奴国王だろうな(阿毎氏は代々筑紫城に居た)

日向は応神伝説の引用
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:57:47.34
イヌ国に対して

コイヌ国

それが狗奴国w

字義から考察したら簡単でーーーすw


>漢字辞典オンライン
漢字「狗」の部首・画数・読み方・筆順・意味など

狗は、いぬ / 小ちい犬/ つまらないものや、いやしいもののたとえなどの意味いみを持もつ漢字かんじです。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 15:58:23.42
和音国名で単音の いろはにほへと国 とかでw
組み合わせ説
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:11:06.20
日本にはまだ表音文字は無いという基本
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:12:28.81
>>377
まず卑弥国や卑弥弓呼というのがあるので
卑弥呼の名前を分解すると「卑弥+呼」となる

このことから、卑弥呼は「日女子」ないしは「姫子」と読める

なぜなら、魏略では「卑弥弓呼のことを女男子」と書かれてる
(誤写という話もあるが、俺は女男子が正解と読み解く)
「女男子」ってことは「姫の名が付く男」ってわかる

つまり、卑弥弓呼 = 姫(日女)+弓呼と解ける

ここまでは、おk?
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:15:21.53
ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)の呼称

比桃@(Bi mie hou) 比売后(Bi mai hou) → 卑弥呼(Bei mei hu)
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:19:15.26
>>290
その資料を色んなとこで見るんですが、そこから邪馬台国論争に関して確実に言えることって何なんでしょう?
「卑弥呼の時代に畿内と九州の交流はなかった」以外のことが言えるんでしょうか
邪馬台国東遷説はありえない とかですか?
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:21:59.26
ヒミコは姫御子
ヒミクコは彦御子
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:29:40.09
>>439
無知とカンチガイの生んだ初歩的な誤解
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:30:29.19
>>393
ああ、そうなんですね
著書数・権威・活動時期なども全然違っているんですね
安本氏の神武天皇実在論→天皇在位年予想は初めて読んだときにちょっと興奮しましたw
0445伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1
垢版 |
2024/03/24(日) 16:30:31.28
>>329
レスされてtのを見逃しておりました。

私は(お笑いトンデモ)阿波説を広めようとする恥知らずな人達の事を苦々しく思っておるだけで、阿波の事を貶めようとは思ってないですよ。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 16:44:37.93
三足土器は黄河中流から下流の新石器時代竜山文化
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:22:53.86
ついでなんで倭人の名前について

【官名】
對馬國 卑狗(狗邪国の家臣) 卑奴母離(奴国の家臣の母離)
一大國 卑狗 卑奴母離(倭人船に帳政と同乗)
末盧國
伊都國 爾支 泄謨觚 柄渠觚
奴國  馬觚 卑奴母離
不彌國 多模 卑奴母離
↑其八年 倭人船奴国の難升米の船で移動 伊都は一大率で常駐

投馬國 彌彌 彌彌那利(韓の国名には彌が多い)
邪馬壹國 伊支馬(壱岐の馬) 
 彌馬升彌馬獲支(邪馬国の升、獲支) 奴佳(奴国の佳鞮)
狗奴國 狗古智卑狗(狗の古智で狗の家臣)
↑正始元年 遣建中校尉梯儁等 卑弥呼に金印
 国名は梯儁による仮称で表意文字

【王名】
奴國 難升米(奴の升米)
巳百支國 伊聲耆掖邪拘
都支國 都市牛利

【国名】梯儁の漢語化 邪馬台国所属の参問和音21国
斯馬 巳百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴
呼邑 華奴蘇奴 鬼 為吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 奴
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:24:17.83
>>447
10点

鼎は8300年くらい前に中原で生まれて7000年前にはすでに黄河と長江の両下流域まで
広がり、5000年くらい前には中国全土に広がるが、4000年くらい前には
インドシナ半島まで広がった

鼎は基本的に炊飯器であるがオカズを煮る鍋でもあった

当時はまだ炊飯器と鍋が未分化だったのである
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:31:20.80
>>442
呼=子=児=觚

なぜなら 呼邑(こゆう)国=景行天皇九州巡行の子湯=現・宮崎県の児湯(&西都市)

744 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/14(金) 17:00:22.16 ID:i7D+QrZN0
卑弥呼 = 日女の子(児)

つまり、アマテラスの子 = イチキシマヒメ

>男弟佐治國
弟は年下の意味(兄弟関係なく)

伊都国の官トップ爾支はニニギ
イチキシマヒメ(年上)は天孫降臨時のニニギ(年下)の養育係

トヨはトヨタマヒメ
トヨタマヒメは山幸彦の奥さん
トヨタマヒメとイチキシマヒメは海つながりで
その関連性も一致
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:35:45.74
能無しの板野の「売郷奴」でも、さすがに声高に畿内説を唱える自信がないようだな。 わははははは   @阿波
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:40:49.82
三足器

早くは新石器時代の仰韶(ぎょうしょう)文化期以前に、
丸底の土器に小さな三足をつけた例はあるが、
発達した三足をもつ土器は、
新石器時代晩期の竜山文化期においてもっとも特徴的にみられ、
陝西省を中心とする西方では鬲が、山東省など東方地域では鼎とが盛行した。
殷代になると、各地に盛行した三足の土器を祖型とし、
新たな器種をも加えて種々の青銅製三足器も製作された。

https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=1590
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:46:41.86
>>290の資料が畿内説に有利という意味が自分にはどうにも理解できない

倭人伝では伊都国(福岡県)には一大率があり、倭国の窓口的な地位にあった
そこで女王国からの指示で交易品の管理も厳密にやっていたように考えられる
しかも”硯(すずり)”が発見されて文字を読み書きする役人もいたと推定される
もし、邪馬台国が畿内にあったとすれば、伊都国(福岡県)と邪馬台国(奈良県)の間で、役人の往来が多かっただろうし、従属関係を強く示唆するものがなければならない
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:55:49.61
>>455
>>290の資料が畿内説に有利という意味が自分にはどうにも理解できない

それ、おつむの足りない九州説信者が繰り返し貼ってるやつだから
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:56:07.25
TB期に畿内と葬制を共有する博多で大和型庄内甕を模倣製作した筑前型庄内甕や
UA期の北部九州布留甕が
今津湾東の今宿今山に多量に搬入されている
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 17:58:14.76
>>454
50点










那么,三足是何时以及缘何出现的呢?目前所见最早的具有三足的陶鼎出现在距今约8200年的裴李岗文化早期末段,从造型来看是在罐、盆等器上加三足而形成的。至于为何要揄チ三足,较可靠的推测是基于对用火炊煮的需求。鼎发明之前,若要炊煮,最初是在容器下垫石块,后还出现了专门的陶制支脚(图1),将容器抬升后便可在其下烧火,炊煮食物。而支脚的稳定性、便捷性都有不足,因此,基于用火炊煮的需求,并结合稳定性、便捷性的考虑,自带三足的陶鼎便出现了(图2)。如果说早期容器的造型很多受到了葫芦、匏瓜等天然容器的启示,正所谓“器用陶匏,以象天地之性也”(《礼记》),那么三足陶鼎的出现则是基于用火炊煮需求的自主创新,是我国造物史上的划时代杰作,充分显示了初民的智慧和“革故鼎新”的创新能力。

  二、互鉴

  文明的发展离不开不同文化间的相互启发与互鉴。陶鼎这种具有划时代意义的伟大创造由裴李岗先民发明后,便不断被周边的区域文明所学习借鉴,韩建业曾系统梳理过史前陶鼎的发展历程:“约公元前6200年发源于中原地区,约公元前5000年以后扩展至黄河下游和长江中下游地区,约公元前4200年以后从黄河下游进一步渗透到辽东半岛,约公元前3500年以后南渐至华南北部地区,约公元前2500年以后更扩展至华南大部地区”。

http://www.cssn.cn/kgxc/kgxc_kgxl/202209/t20220930_5545333.shtml









.
0459日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 18:02:28.28
そもそも三足器がどうかしたのか?
珍しくもないようだが
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 18:08:49.62
畿内説は考古学の倭王説だから良いけど
豚鼻ブラック先生の三足の話は、
どー考えても日本史と関係ない
中国貴族の威信土器の話だと思いますけど?

殷王箕氏は周による滅亡で遼東に封じられた際、
三足青銅器のようなものは王族の驕りで要らない、と言った。
漢で半島に入るが、そんなものはもう無い。

燕以降、東方に養蚕と水稲耕作、節度を教えたのは箕氏。
これが文献で、孔子は日本に住みたかったらしいwww

呉の太伯は小金井だから、絶対来ない。
BC10に米が来たなら
漂流した奴が、生米持ってただけだろ?

そういう話じゃなくて、
太伯の後と奏上するには
前漢代で太伯を知り得る奴が日本に居た?
史記読んだ中国人だろwww

殷だか夏だか?
今でも、アヤシイ国だぞw
まあ、倭人伝の九州も天下布武で統一ではない。
一大率は、ヤマト朝廷の元祖大宰府説。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 18:09:39.93
今日9:00のNHKで、蛇行剣や鉄の甲冑を取り上げるようだが、
もちろん、それらは鉄器王国「阿波」で作られたものだということを認識して見るように。   

同じく古墳についても、築造技術や副葬品の水銀朱や勾玉なども、
倭人(阿波勢力)によってもたらされたことを念頭に見ること。   @阿波
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 18:10:52.01
今日21:00のNHKで、蛇行剣や鉄の甲冑を取り上げるようだが、
もちろん、それらは鉄器王国「阿波」で作られたものだということを認識して見るように。   

同じく古墳についても、築造技術や副葬品の水銀朱や勾玉なども、
倭人(阿波勢力)によってもたらされたことを念頭に見ること。   @阿波
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 18:35:17.51
>>460
箕子朝鮮は考古痕跡がないから単なる都市伝説だぞ(嘲笑

鼎は炊飯器だが王権のシンボルでもあったんだから朝鮮王になったら
作らない訳がないの

それ以前に炊飯器なんだから作らない訳がない
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 18:55:39.42
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 19:04:29.47
ふるしょうさんが21時からライブ配信するみたいだよ
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 19:07:32.75
>>444
自分はもともと世の中が言ってるのを鵜呑みにして畿内説だった。
しかし安本の本を読んで九州説が正しいという確信を持った。
で、長浜の地質調査の結果から神武東征があったことなどで更に興奮したという次第。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 19:10:25.15
ばかは悲しいな
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 19:34:25.06
原文をちゃんと読んでわけではないが、本居宣長という人は「皇国史観の九州説」と聞かされてきたが、どうもそうではないように感じた
邪馬台国が倭人の発音から来ているという確信と、行程の精査では邪馬台国=九州は揺るがない、そういう2つの確信に引き裂かれた結果、仕方なく偽替説に至った
半分九州説、半分畿内説のきわめて誠実な人だったように思う
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 20:07:30.75
>>464
かまど、と いろり
で、三足は要らない。

縄文~弥生生活のどこで、
必要なのか?

屋外で煮炊きの必要は意味不明。
火炎土器は、三足四足に進化しない。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 20:51:28.84
>>470
中国大陸で8000年前に登場した竈は3Cに半島から伝わったんだが、
おまえの論理だと、すでに炉があってそれで事足りていて必要がないから
中国大陸から渡来入植しても中国大陸の鬲鼎竈は伝わらなかった訳だろ?

ところが、すでに炉があってそれで事足りていて必要がないのに
半島から竈が伝わると瞬く間に列島に定着した

それはなぜなのか説明してみろよ

何で?どうして?どうして?何で?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 20:56:00.90
渡来入植の証拠は?

米は漂流、
人はさらって来た
だろ?
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 21:00:56.42
NHKとふるしょうさんの番組ライブ始まった
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 21:16:40.84
>>472
それと、渡来あれば衣食住に関する故郷の生活土器、生活住居、生活衣類は
必ず伝わっている

で、必要がなければ徐々にフェードアウトして消えていくというステップを踏む

衣食住に関するものだけは必要がないから作らなかったという論理は成立しない

必ず作り、必要がなければ徐々に消えていくというステップを踏む
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 21:17:34.89
>>467
私は古代史に興味を持ってまだ半年、邪馬台国にいたっては一か月の未熟者ですが
このスレの熱量が私の嗜好に合っています
また、色々と教えて頂けるとありがたいです
少しずつ勉強を重ねてまた来週末にでも来ます
0477琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/03/24(日) 21:52:36.86
想像通りの終わり方だな
困ったものだ
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 21:56:11.88
韓国でみつかった15か所の前方後円墳って、百済に割譲する前に任那にいた倭人の墓かな
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 21:56:20.60
茨城千葉
・最初期の前方後円墳あり
・フツヌシ、タケミカヅチの神社あり
・「高天原」の地名あり
・常陸=ヒタチ=日立の国
・辰砂の産地あり
・縄文時代には人口最大地域
・弥生時代においても人口上位地域

高天原は茨城千葉
0480日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 21:56:57.85
高天原=邪馬台国=日高見国=日立(ヒタチ)の国
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:02:53.76
邪馬台国から倭の五王までの空白の4世紀に何も触れずNHKの番組終わったしなんなん?w
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:05:40.01
やたら韓国の学者ばかり出して、高句麗に負けた大和政権が馬を輸入して一矢報いたとか韓国に忖度したような番組w
0483琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/03/24(日) 22:07:02.48
倭王瓉、武でさえ親北魏親宋でもなくただの臣下将軍、卑弥呼は親魏倭王。
卑弥呼が格上。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:07:20.17
>>481
富雄丸山古墳には触れてた
中国に朝貢してないしわかんないな
ただ確かな事は中国を都合よく利用してたって事かな
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:08:49.30
>>483
一応倭王だろうが
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:10:14.82
>>483
そりゃ倭国を併合しちゃった東の倭種だもの……
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:12:20.89
親魏に制せられてる時点で属国

五王は委や親がとれてるので独立国家
0489日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:14:16.28
空白の4世紀は記録がないし遺跡に頼るしかない
0490日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:20:00.54
>>488
文字のまんま委ねるって意味なのかね?
それで奴国なのか?
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:22:03.56
空白は、神功応神期で
350年位の仁徳の子から雄略500が、倭の五王。 
NHKは糞以下。

まあ、金石で記紀を否定も国営放送は厳しいなw
って、考古学でもだろwww
また、全部、さらし茶おうか?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:22:43.58
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:23:13.03
七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世

表は七支刀が晋で作られた経緯。 宜供供侯王は、百済近肖古王、余句である。
朝貢によって百済候となったから晋帝は百済王を侯王と呼んだのである。
名前の字がおかしいのは漢字が無かった百済音の漢字変換だからである。

倭王の高句麗交戦と半島利権の主張の南朝外交は400年以降であり、
370年で、この侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は漢字を伝える属国教化ための博士も送っている。
百済はこの博士も馬2頭を付けて日本に献上した。
完全な傀儡立国なのである。

裏は百済王の請願。聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。
百済王が世子を倭王(聖帝)に委ねるのに際して、
晋王から下寵された刀の由来を示し忠誠の証として献上している。

和音、ひじりのみことに、聖帝の字を当てたのは、
百済王を日本の帝の下位に置くための謙譲である。
百済は九州諸国同様、日本の新参一領主国であった。

これ以降、百済王には倭人豪族の姫が嫁ぎ、
王子は日本で貴族待遇で養育されている。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:24:12.41
【隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文】
癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟
意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。

この金石の503年は倭の五王武、雄略の最後の遣使の後であり、
継体は雄略の父、允恭天皇の後宮をも継承し百済王の朝貢を受けた。
允恭の皇后から直系でなければ押坂の宮には入らない。

この後、継体は倭の五王外交を終わらせ、
傀儡百済による中華文明吸収に転換する。

百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。

百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:27:46.65
百済 禰軍 墓誌
去 顕慶五年 官軍 平 本藩 日 見 機
識 変 杖剣 知 帰 似 由余 之 出 戎 如 金磾子 之 入漢
聖上 嘉嘆 擢 以 榮班 授右 武衛 滻 川府折沖 都尉

于時 日本 餘噍 拠 扶桑 以 逋誅 風谷 遺甿 負 盤桃 而 阻固
萬騎 亘野 與 蓋馬 以 驚塵 千艘 横波 援 原虵 而 縦濔 以 公格 謨海 左 亀 鏡瀛
東 特在 簡 帝 往尸 招 慰

公q 臣 節 而 投命 歌
皇 華 以 載馳 飛 汎 海 之 蒼鷹
翥 凌山 之 赤雀 決 河眦 而 天 呉静 鑑風 隧 而 雲路 通 驚鳧 失 侶 済 不終 夕 遂 能

説暢 天威 喩 以 禍福 千秋 僭帝 一旦 称 臣 仍 領 大首 望 数十人 将 入 朝謁
特蒙 恩詔 授 左戎衛郎将 少 選 遷 右領軍衛 中郎将 兼 検校 熊津 都督府 司馬

意訳
660年百済滅亡の時、
日本の残党は扶桑=日本本土に逃げ帰り補足と懲罰を逃れた。
風谷となった百済の遺民は、盤桃の国土に残り固く抵抗を続けた。
これが、白村江の2〜3年前。百済滅亡時の様子である。

百済建国以来、開拓と高句麗戦で牛馬の移入などの成果を上げていた
日本移民や進駐軍は、百済滅亡によって、ほとんどが引き揚げていった。 
百済王族や将校などは逋誅され唐に送られている。

白村江はこの後で、日本国内の在日百済人や百済貴族など遺民の送還と、
多分九州豪族などの残留民の回収のために送られた。 
他に日本が、楽浪方面に上陸を目論む理由は無い。

遣唐使時代の日本には、唐と戦争の意図はなく、
新羅との戦争が目的なら釜山上陸が当然なのである。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:40:50.48
古墳と言うのは所有者が居て
700年、記紀公布の際に焚書で盗掘? 
金石も回収が有った。

一部は神社等の神体等で保存できた。
記紀の焚書と明治の廃仏稀釈は日本史の恥である。

一夫多妻なら桓武天皇の母が百済人だろうが
今上陛下の祖母がエリザベスだろうが
知ったこっちゃない。

てか、太平洋戦争、避けれただろw
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:43:56.11
日本の元ネタは邇本鳥だと思うけどね
牛留鳥とも書くことがある
牛さんと日の関係がキーじゃないか
息長川は絶えたという歌が作られたのは奈良時代で、日本の国号は7世紀か8世紀前半だろう
鎮魂の意味もあるんじゃないかと思うんだな
牛は椿の古根
絶えたことがない東大寺二月堂の修二会と椿

ひのもとと読まれるようになったのは平安時代以降らしい
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:48:58.75
最後の日は孝徳天皇、天万豊日
万は卍で和を意味する漢字
天と和した豊日
皇極天皇は日足で日ではないからね
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:53:35.77
スサノオの尻の毛から生えてくるのがマ木、マは真、磨、間だろう
マ木の用途はヒツギ日継
孝徳天皇の子が有間皇子
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:54:19.72
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:55:24.55
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)

28 其 風俗 不淫 男子 皆露結 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈結 作衣 如 単被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鉄鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣

33 有 屋室 父母 兄弟 卧息 異處
34 以 朱丹 塗 其身體 如 中國用 粉也 食飲 用 俎豆 手食
35 其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死停喪 十餘日 當時 不食肉
36 喪主 哭泣 他人 就歌舞 飲酒 已葬擧家 詣 水中澡浴 以 如練沐

37 其 行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟻蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其 持衰 不謹

39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠簳桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 獮猴黒雉

41 其 俗 擧事 行來 有所云 為輒 灼骨 而卜以 占 吉凶 先告所卜其辭 如 令亀法 視 火坼 占兆
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝

43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 僅少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有無
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:56:32.32
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛

54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 22:57:29.40
57 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
 奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
 汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬
 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
 又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬

64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授

65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之

68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與

72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
73 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:00:24.07
読めば? これは、
陳寿曰く、であって、説ではない。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:05:38.29
東夷伝序文
書稱 東漸 於 海 西被 於 流沙 其 九服之制 可得 而言 也
然 荒域之外 重譯 而 至 非足跡 車軌 所及未 有知 其 國俗殊 方者也

自 虞 及 周 西戎 有 白環之獻 東夷 有 肅慎之貢 皆 曠世 而至 其 遐遠 也 如
此及 漢氏 遣 張騫 使 西域 窮 河源 経歴 諸國 遂 置 都護 以 總領之
然 後 西域之事 具存 故 史官 得詳 載焉

魏 興 西域 雖 不能 盡 至 其 大國
亀茲 于眞 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師 之属
無歳 不奉 朝貢 略如 漢氏 故事

而 公孫淵 乃 父祖三世 有遼東
天子為 其絶域 委 以 海外之事 遂隔断 東夷 不得通 於 諸夏
景初中 大興 師旅 誅 淵 又 潜軍 浮海 収 楽浪 帯方 之 郡
而後 海表 謐然 東夷 屈服

其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭

東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀

雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉

評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:09:37.13
日本人は邪馬台国論争が大好きだけど、英語ウィキ見てる限り、一昨年の人骨12体による調査で縄文・弥生・古墳の日本人起源の「三重構造」が提唱されて以降、
中韓人と一部の英語圏マニア(偽者かもだけど)により「日本人と日本文化は中国系!」と「日本人と日本文化は朝鮮(百済と新羅)系!」で拮抗して書かれ合ってるから、国内だけで論争しても全く意味ないと思う。

英語と歴史が両方できる日本人皆無だから、マルっと日本民族は中韓人で、その文化は大陸か半島の極めて強い影響を受けた派生文化にすぎませんでしたという方向にまとめられつつあるから
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:13:14.16
雄略天皇が高句麗に勝ったとかNHKの番組でさっき聞いたが初耳だがマジなん?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:18:18.15
高句麗は668年まで滅びないが
高句麗人が日本に来なければ
牛馬の移入も成立しない。

400年代、武蔵から甲信の御牧を開拓したのは
前方後円墳を伴った高句麗墳墓
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:20:09.82
自民党がぜんぶ悪い
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:26:47.92
>>507
百済新羅の建国は
350年代に幽州刺史楽浪候となった高句麗を
370年位に日本軍背景で押し返し
朝貢が成立したからだが?

これは、傀儡立国と言う奴で
百済王が金石で日本王に献上した
七支刀や人物画像鏡は出ている。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:44:27.40
>>507
あ、雄略は500年の前なんで
高句麗に勝ったというか
百済のクーデター静めて
百済に東城王を即位させた天皇です。

日本と百済新羅が高句麗抑えたのは
仁徳の350年〜370年とかです。

百済新羅の建国は漢四郡が撤退して
新羅百済が、日本の後援で高句麗を追ったから。

これが313年晋の漢四郡撤退であって
魏に朝貢するような卑弥呼に出来る仕事ではない。
246年に大和朝廷の一大率が九州に防人を置いた。

卑弥呼は、朝廷と無関係な九州の女酋である。
昔から言ってるだろw
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:46:15.24
もっと、ホントの事言わせたいのかよw
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:53:47.43
鳩山先生は小沢先生に裏金の作り方を聞いた訳で
卑弥呼は関係ない。 と、思うぞ?

そんなことより
古代文献の話、しようぜ!(aa略
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/24(日) 23:59:32.32
根拠無し
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:01:33.03
日本は豊葦原瑞穂の国
祝詞にも朝日の豊逆登にの件がある
息長陵に埋葬された広姫を皇后にした敏達天皇の漢風諡号敏達はすばやくという意味の漢字を重ねたものだ
何が素早いのか気になるな。素早く何かしたんだろうな
広姫の娘が事績不明な逆登皇女

豊はトヨウケ、ウカノミタマの別名
和泉の信太山の葛の葉伝説と和泉黄金塚古墳の日本最大の水晶玉

孝徳天皇は本当は茅渟王と逆登皇女の子なんじゃないかと思うんだよね
個人的な意見だから気にしないでね
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:05:38.34
大塚山古墳は誰の墓なのか
二つの牛石
牛石に触ると血が流れるという伝承、牛石がなくと雨が降るという伝承
堺にも昔は山の中だったところに同じ時代の古墳、牛石古墳があり牛石が置かれている
牛石を切ると血が流れるという
0519日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:06:27.70
応神と仁徳は兄弟だよな
紀元前660年を目標に引き延ばしてるから、兄弟も親子にしてしまっている
これは欠史八代も同じだろう

つまり、在位の短い仁徳に大山陵古墳はあり得ず、応神陵だろう
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:07:18.22
学者の歴史認識って、どうかしてて
絶対漢字飛ばさないで、
古代漢文読んじゃいけない。
とか、なんじゃね?
読めば、すなわちw 判るだろwww
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:11:32.26
ソース出せ! とか根拠無し!

とかは? 言ってみ?
まあ、原文が原理だけど?

陳寿先生に、質問ある?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:17:09.70
仁徳天皇陵は聖ひじりの帝
神さまみたいなもの
なんぼ考えてもわからないんだよな

神さまは姿を見せないからね
欠史の孝とか
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:18:07.38
Q。南は東の間違いですか?
A。何言ってんだ? 馬鹿なのw
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:20:24.79
崇神天皇の時代神を見たか?
百襲姫すら見てないだろう
神に仕えたのがオオタタネコなんじゃないの
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:28:13.25
中国の田園洞人K2も褐色の肌を持って、コーカソイド的に復元されているな
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:28:23.03
うーんちょっと違う
俺の認識はそもそも「寒冷地適応などの特徴は旧人由来のものだ」、という個人的な仮説に基づいている
現生人類基準での指標「モンゴロイドかコーカソイドか」
で一概に区別出来ない可能性が高い
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:29:14.64
今どきはもう気が狂ってないと九州説になれないんじゃね?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:42:35.45
片岡の聖伝説
聖徳太子の時代だな
親はいない聖
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:45:38.38
遣隋使で意味不明な天と日の話があったな
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 00:52:55.51
聖徳太子の時代、既に聖の親はいないのだ
吉備姫王が亡くなったのは643年
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 03:05:36.08
畿内だからもう話すことはないんだけどな
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 04:45:58.07
>>525
人種的形質と言うのは4万年も経てば、生活環境適用によって変化する
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 04:57:06.89
>>506
古墳時代の時点で既に、核ゲノムの90%は遼寧系統に入れ替わってるんですがね、ヤマト民族は
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 05:11:50.41
未発掘分も含めれば、関西だけで1000基以上の百済系横穴式石室古墳が作られてる。
某歴史学者は「475~600年までに100万人以上の渡来人が流入」したと見積ってる。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 05:17:41.42
>>516
茅渟王はチヌンワンだからな新羅の王
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 05:18:59.12
新羅の王室は倭人起源だからチヌンワンの子息が茅渟王として倭国で王族やってても別に良いのよ
問題ではない
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 05:59:32.61
NHKの番組に神功皇后が全く出なかったのはなぜや?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 06:18:55.90
さすがNHKも天皇の祖先は百済人とは言えんだろうな

ヤマト王権を創ったのは九州倭人と百済人の連合体なんだよな

畿内にいた在来の倭人勢力はしいたげられ、
「五色の賤」「貴賤」にみられる身分制度の根幹となっている。

今に残る同和地区、部落問題のルーツであり、この差別の仕組みを作ったのが天皇家である。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 06:45:07.57
巨大蛇行剣が話題になったけど、別にあれで何かが変わるわけじゃないんだよな
今の文化に近くなくて、発掘品ゆえに美しくもなんもない古墳時代以前に夢中になるのは本来オカシイよな

後世の時代なら建築・庭園・彫刻・絵画・武具甲冑・工芸品・紀行・文学とか楽しめるけど、
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 07:14:58.94
>>538
説得力がある
同和地区が関西や九州に多い理由がわかるな。
九州倭国の身分制度が畿内に持ち込まれたのだろうな。

>畿内にいた在来の倭人勢力はしいたげられ、
「五色の賤」「貴賤」にみられる身分制度の根幹となっている。
今に残る同和地区、部落問題のルーツであり、この差別の仕組みを作ったのが天皇家である
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 07:44:45.28
>>529
まるっと、明確に独自に考察済み

855 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/14(金) 19:16:38.70 ID:i7D+QrZN0
すでに明確に考察済み
浮かび上がる九州倭国と本州日之本の実態

125 日本@名無史さん sage 2023/06/25(日) 20:10:56.12
九州倭国、本州日之本

もう答え出ましたよ

>俀王以天為兄以日為弟

倭王は
九州倭国の天を兄に
本州日之本の日を弟に
している

天の兄は国体(祭祀)を
日の弟は政体(政治)を
すなわち、夜は神が作り、昼は人が作る所以

これで道理も義理もはなはだ有りw
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 07:48:59.26
もう答え出ましたよ

倭王は2人で1人だとw

392 ウィズコロナの名無しさん 2023/12/01(金) 19:09:50.93 ID:LsxM3Sbd0
タリシホコは蘇我馬子

倭王は
九州倭国の天の兄と
本州日ノ本の日の弟と

2人でプリキュアなんよ

つまり、推古天皇も蘇我馬子もどっちも倭王ってこと


603 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/13(水) 19:56:26.26 ID:Bp5fYcGz0
タリシホコは蘇我のタリシ矛さんw

そして、蘇我馬子に通じる「蘇」w

↓馬子確定

738 日本@名無史さん sage 2023/07/08(土) 08:50:54.80
以下は日本書紀巻二十二に推古天皇が蘇我馬子の歌に和したものと伝える歌である。

天皇 和(こた)へ歌よみし給ひしく

真蘇我(まそが)よ 蘇我(そが)の子らは 馬ならば
日向(ひむか)の駒 太刀(たち)ならば 
呉(くれ)の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 
蘇我(そが)の子らを 大君の 使はすらしき
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 07:49:01.80
夢見る九州
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:05:27.94
朝鮮半島の前方後円墳は半島南西部の百済の領土
でも日本軍の上陸地点は中南部の加羅、任那の事だろう
なんで前方後円墳は任那に無いの?
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:20:36.59
別の国だから
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:21:19.70
>>546
>朝鮮半島の前方後円墳は半島南西部の百済の領土

継体天皇が割譲する前の任那四県(オコシタリ・アロシタリ・娑陀・牟婁)+帯沙・己汶そのもの
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:22:55.69
石を積み上げた石室があって結構手間がかかりそうなんだが
それとも当時は前方後円墳は一般的で軍人でも誰でもすぐに造れたのか?
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:33:11.29
>>539
>巨大蛇行剣が話題になったけど、別にあれで何かが変わるわけじゃないんだよな
>今の文化に近くなくて、発掘品ゆえに美しくもなんもない古墳時代以前に夢中になるのは本来オカシイよな

言えることは、その巨大蛇行剣は鉄器王国「阿波」でしか作れないということ。   @阿波
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:33:13.38
番組は期待した程じゃ無かったな
やっぱり空白の4世紀の情報が欲しい
盾形銅鏡とか蛇行剣と言っても墓の端っこから出てるし大したもんでもないんだろう
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:35:13.26
>>551
言えることは、その巨大蛇行剣は鉄器王国「阿波」でしか作れないということ。   @阿波
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:37:30.89
>>541
学界が背負いきれる問題じゃないわな
だから言ってんだよ畿内説はポリコレみたいなもんだと
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:39:04.89
NHKの倭王讃の描き方について

NHKは391年の倭人の朝鮮侵攻も、421年、425年に朝貢した倭王讃も応神天皇としていた
讃か珍か別の人物かが不明な430年の倭王の朝貢を挟んで、倭王珍の朝貢は438年だ
これに基づけば、応神天皇は少なくとも391年には即位していたことになり、少なくとも425年、長ければ437年あたりまで在位したことになる
概ね40年程度またはそれ以上の在籍期間ということになり、あり得なくはないが一代の天皇の在籍としては長過ぎる感がある
また、そもそも記紀では朝鮮侵攻(三韓征伐)を行なったのは神功皇后であって応神天皇の事績ではない
倭王讃を応神天皇と決めつけた根拠もはっきりしない上に、朝鮮侵攻を倭王讃と決めつけた根拠もはっきりしなかった

また倭王讃が南朝宋に朝貢に行った時に、宋の長官が今まで朝貢に来なかったことを叱責していた
これはおかしな解釈だ
宋の建国は420年、倭王讃の朝貢は421年だ
中国王朝では異民族が朝貢に来るのは皇帝の徳が高い証なので、前王朝の東晋に朝貢に来なかった倭が宋になってすぐに朝貢に来たのは、宋の皇帝の徳の高さを示すことになり本来は歓迎すべきことなのだ

NHKの珍解釈、勝手な決めつけが今回も随所に見られた
前回の卑弥呼が初代天皇、前方後方墳が狗奴国のシンボルなどという荒唐無稽で大胆極まりない珍解釈ほどの派手さはなかったが
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:43:26.58
>>554
まあおまえが勝手に言ってるだけなんだが
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:54:05.83
NHKじゃ技術の積み重ねによって驚くべき技術革新が!って言ってたけど
単に渡来人の持ち込んだ技術だったんじゃないのかね
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 08:56:56.26
>>556
半島や中国に同じものがあるならそう言えるけどな
0559日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:11:14.17
東晋に朝貢しなかった日本がなぜ南朝宋に替わったら朝貢したのか
それは、近い時期に日本側も王朝が交替したからだ

3世紀後半に成立したと考えられる崇神朝は4世紀末後半に北部九州で急成長した海人族勢力に滅ぼされ、5世紀初め頃に新たに応神朝が建てられたと考えられる

纒向が百年ほどで衰退したのも、古墳の場所が変わりさらに巨大化したのも、纒向時代には大陸と交流のなかったヤマト王権が急に中国との外交を活発化させた(倭の五王)のも、王朝交替が背景にあるだろう
記紀の仲哀・神功周りの記述も多分に易姓革命的だ

海人族(その長が神功皇后のモデル、おそらく実際は男性)は地元北部九州で田油津媛の邪馬台国を滅亡させ、朝鮮半島に侵攻して新羅百済を破ったが高句麗に跳ね返され(広開土王碑文)、畿内に攻め上って纒向の崇神朝を倒して息子を即位させたと見られる

この海人族は宗像族と関係が深く、宇佐など含め北部九州の東側(瀬戸内海側)に勢力を持っていただろう
4世紀後半に沖ノ島の国家祭祀が始まったのも、この海人族の勢力拡大・王権奪取と関係があると思われる
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:23:04.14
>>559
>東晋に朝貢しなかった日本がなぜ南朝宋に替わったら朝貢したのか
>それは、近い時期に日本側も王朝が交替したからだ

妄想だよ
南朝が山東半島を奪回してルートが復活したからだ
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:31:13.05
>>560
纒向には大陸系土器など大陸との直接交流の痕跡がまるでない
東晋どころか朝鮮半島とすら直接交流がなかったのが纒向崇神朝だ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:37:20.73
普通に畿内勢力が拡大していって、やがて半島に進出し
半島を統治するために中華の冊封が必要になったからに過ぎんよ

四道将軍→九州征伐→三韓征伐→倭王讃の上表文

奈良の田舎者だった畿内ヤマトが順調に勢力拡大しただけのことだ
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:39:40.46
>>563
奈良の田舎者だった畿内ヤマトが順調に勢力拡大した痕跡はない。   @阿波
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:42:36.92
>>561
画文帯神獣鏡が出てるだろ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:44:30.94
>>564
伊勢遺跡→纏向遺跡→飛鳥の宮→平城京→平安京だろ?
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 09:53:33.47
倭王讃の上表文
是年(425年)倭國王倭讃遣使奉表獻方物
表曰 封國偏逺作藩于外 自昔祖父躬擐甲胄 䟦渉山川不遑寕處
東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國

仮に倭王讃が応神天皇だったとするなら
その祖父にあたるのはヤマトタケル
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:20:15.78
>>542
任那倭国が「天=兄」(第一回遣隋使の派遣主体)

大和倭国が「日=弟」(第2回目以降の遣隋使の派遣主体)


当時は任那倭国はすでに百済に吸収されて実質消滅してる

それを負け惜しみとして「日が昇ると政治を弟に任せ」と言ってるのよ

それくらいのペーソスはわからないと
0571日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:20:20.83
倭の五王は中国に天皇と名のらかった理由はなんなのか?
0572日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:22:44.28
天多利思比孤の「タリ」は任那の地名オコシタリ、アロシタリに由来

というか歴代の「垂」「帯」がつく皇族は任那と関係が深い皇族でしょ
三韓征伐した息長帯比売命を筆頭に
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:24:10.30
>>571
そんな名称は無いからだ
倭王讃は倭王讃だ
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:24:50.77
>>571
仏教徒じゃないから
というか天文学の知識がなかったから

聖徳太子の七星刀が有名だけど
聖徳太子の時代にやっと天文学が知られて「イケてる最新の学問」としてブームになったんだよ
それで北極星=北辰=天皇大帝の信仰とかも出てきた
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:26:24.90
天皇は聖徳太子の頃まで待たなければ生まれないんだっけ
それまでは大王の時代だった
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:26:39.20
世界観なのよ

皇帝ってのは天地と時間をつかさどる存在で、単に領地領民の支配者としての王とは違うのよ

それは天文学含めた学問がないと出てこない発想

当時の倭国は単に領地領民を支配する王しかいなかったから別の称号は必要ない
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:27:31.34
名乗ればちゃんと阿毎多利思北孤という名前が出て来るし阿輩雞彌だ
0578日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:28:24.77
空を見て「この星一年中動かないじゃん、つまりこれ天の中心ってことじゃん」みたいな発想というか知識って当時の倭人にはなかったでしょ
もちろんキトラ古墳とか一部の古墳には先行的に伝わってたかもしれないけど
でもキトラ古墳にしても割と古墳時代後期の古墳だしな
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:28:43.89
>>565
仿製鏡でなければ、中国国内で後漢あたりから伝世したものや六朝時代の踏み返し鏡を倭の五王が下賜を受けたり輸入したものだろう
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:29:27.48
>>577
「多利」で調べると上多利、下多利という任那の地名が出てくるぞ
継体天皇が百済に割譲した四県のうちの二県
そこが天多利思比孤の本拠地だよ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:30:50.54
>>579
5世紀の遺物がどうして3世紀前半の遺跡から出るの?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:31:10.20
天=高天原=任那

多利=任那の上多利、下多利

思=シ=助詞「の」

比孤=倭の王子


天多利思比孤=任那の多利の倭の王子
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:32:28.45
当時上多利下多利は百済領だったから第一回遣隋使は百済の協力の元任那倭人によって派遣されたってことだろう
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:32:34.66
>>580
息長タラシ姫もそうなのかな
0587日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:34:20.53
天=朝鮮半島側の倭人政権
日=日本列島側の倭人政権

「日が出ると弟に政治を任せ」は滅亡した任那倭人の負け惜しみなのよ
「弟に任せてるだけでこっちが兄なんだ!」という
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:34:43.26
>>583
勿論そうよ
束ねる王は居ただろうけど
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:34:43.31
「倭王讃」
東讃地方(さぬき市難波郷津田辺り)には、応神天皇またの名を誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の信仰の痕跡が色濃く残っている。
郡名の寒川(さんがわ)も「讃川」であった可能性がある。
また「誉・譽(ほむ)」の音読みである「ヨ」を冠した地名が目立つ。
「誉・譽」は本来「ほむ」と呼ばれていたのであろう。   @阿波
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:35:42.74
>>586
垂、帯、足などのつく皇族も任那に関係のある皇族
息長帯比売命は任那に関係があったから三韓征伐に出たのか、三韓征伐によって任那を得たからそう呼ばれたのかどちらかだろう
0593日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:38:45.18
>>592
巨大な墓があるんだしそらそうだろ
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:40:16.92
漢字が同じななので、なんたらかんたらと多いように思う
0595日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:41:29.00
>>592
倭の五王のうち四人は大阪に古墳が比定されてるでしょ

そこも微妙な感じはするけどな

継体天皇と同じで、奈良に入れなかったから大阪に陣取ったんじゃないのか?
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:42:57.96
奈良に入れなかったから大阪に陣取ったんだとすると

奈良には別の正当な大王がいて、大阪側は王位をぶんどったか、勝手に奈良を無視して大阪で独立を宣言したのかってことになる
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:43:17.77
奈良って、有名な古墳もほとんど未調査だからな
箸墓、纒向石塚、東田大塚、纒向矢塚、纒向矢塚と行燈山と西殿塚くらいは調査して欲しい
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:44:04.97
>>595
もともとが河内の大王なんだろうな
山の中のど田舎にいく必要がなかった
0600日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:44:23.06
>>595
どれが誰とかわかんないけどあれほどデカいのを作れる権力者は倭王だろ?
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:45:31.82
そもそも仲哀天皇は天皇だったのか?というところも疑問

天皇が都を不在にして長期に海外遠征に出る、なんてことは普通はない
そんなのはアレクサンダーかチンギス・ハンだけで

王というのは部下を遠征に派遣して自分は都で政治を執るのが普通

そういう「常識」を考えなきゃいけない
0603日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:49:06.42
国内をある程度まとめてないと朝鮮出兵なんてできない
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:49:28.60
>>600
三韓征伐に成功した威光で崇敬されていただけで、正式な皇位はなかったんじゃないか?と思うぞ

理由は>>601の通りで

天皇自らが海外遠征になんかいかないから仲哀天皇は実は傍系皇族
その息子(とされてる)応神天皇も傍系皇族
三韓征伐の功績で崇敬されて、事実上大王として扱われ、そのまま奈良の皇族本家から大王位を簒奪したって感じじゃないのかな
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:51:01.93
>>602
だからって歴代天皇に当てはめようとするのがおかしい
天皇なんて居ないんだから
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:51:12.01
>>603
ヤマトタケルと同じよ
大王自ら長期遠征になんかいかない
仲哀天皇が大王だったとは考えにくい
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:53:39.56
倭王讃は倭王讃ってのはそれしか名前が残ってないんだししようがねえだろ?
0609日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:55:56.87
清須会議みたいなものよ

あれは秀吉が明智を討ったあとで、事実上リーダーとして振る舞った会議

でも血統上の次期当主は織田家だし、
織田家家臣の席順的には柴田が上

それでもその場にいる全員が秀吉をリーダーだと認識せざるを得ない状況だった

そういうことじゃないか

仲哀応神系の一派は、正式な席順としてはトップではなかったが、
三韓征伐の功績により事実上のリーダーとして振る舞った
だから河内に巨大な古墳が作られてるってことでは
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 10:56:05.06
>>592
>倭の五王は奈良にいたんですかね?

「阿波」と「讃岐」だ。   @阿波
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:04:55.47
神功皇后は畿内にいた仲哀天皇の二皇子を攻め殺して実権を奪って息子を天皇に据えた
完全に王朝簒奪だ

しかし記紀はこの事実を万世一系ナラティブに無理やり当て嵌めるために、簒奪したリーダーと簒奪された仲哀天皇の皇后を無理やり同一人物として描いた
これによって強引に前王朝最後の仲哀天皇と新王朝初代の応神天皇の血統を繋げたのだ

そして架空の皇后(モデルはいるが本来男性)の実在をカモフラージュするために、わざわざ魏志倭人伝の卑弥呼の記述を載せて、中国史書にも載っている実在の人物の如く偽装したのだ
時代が違うことはわかっていながら意図的に、だ
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:06:20.48
フトニ大王も似たり寄ったりだよ

出雲の鉄に目が眩み、まず吉備を攻略して幼い二人の息子を吉備に配置し、
いよいよ出雲に侵攻するが出雲の凄まじい抵抗に遭って戦局は難航、
長期戦となってキャンプ地の伯耆で愛人を作って暮らし、そのままキャンプ地で
崩御した
0616日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:11:36.98
阿波の五王
0617日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:11:44.67
鉄剣の銘文から獲○○○鹵大王って人が居てかなりの権力者だったろう事は想像できる
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:13:57.51
蓋鹵王(ケロワン)だよな完全に
三韓と倭国の王族は血縁関係にあるよ
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:14:41.84
獲加多支鹵大王=倭を獲得したケロワン
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:16:43.33
その蓋鹵王の弟または息子が昆支王で
オオド王(継体天皇)に贈られた銅鏡に記された「日十大王」その人
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:20:06.45
昨日のNHK見て思ったが武は半島利権に関わる勢力が裏で動いていたな
武の前は内向き政治になりつつあったんじゃないか
雄略天皇の漢風諡号と強引な手法
6世紀前後から九州で流行っていた蛇行剣と円墳が宇陀に現れる
半島利権とニコイチな九州勢が権力を握ったんだろう
泊瀬の枕詞は海人小舟
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:20:09.61
三韓と倭国の王統はつながってる

だからこそ中大兄皇子は「百済復興」に乗り出したわけだ

当時ほとんどの百済王位継承者が死ぬか逃亡しており
百済王家の血統を傍系に持つ中大兄皇子は、百済復興に成功すれば百済王になることができた
そしてそれこそが真の任那の倭地の復興でもあるわけだ
だから彼は白村江の戦いに乗り出した
他の百済王子たちがボロボロになったタイミングであえてね
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:21:51.02
九州は本当何考えているんだか
国内の民草より外国外国
明治以降も同じだわ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:22:23.74
>>606
歴代天皇だって後の世に名付けてるだけだぞ
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:22:28.31
枕詞は深いよな

飛ぶ鳥の飛鳥
そらみつ大和

これって俺はもとは一つの言葉だったと思うぞ

つまり「飛ぶ鳥が空満つ大和」であって、大和は奈良湖のある、渡り鳥が空いっぱいに飛ぶ湿地帯だったと
0627日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:24:04.05
>>624
対岸も国内
0628日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:24:34.77
>>596
半島南部と交流のあった全国政権だったことが分かる遺物は多数あるけどね
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:28:50.44
>>628
五王の個人の遺物はないんですね
墓を掘れば出るかもしれん。ですかね
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:29:18.82
>>621
>あわと言ったのを倭と聞き違えた可能性もあるね

わい・わー(阿波弁 自分のこと)だろう。   @阿波
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:32:39.58
古墳中期にさえ九州王朝wを夢見る歴史オンチが湧いてるのか
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:33:12.87
>>630
「わいのくに」と言ったのが「倭の国」になったんですか
納得できる説ですね
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:33:16.97
>>626
>飛ぶ鳥の飛鳥

飛鳥は小松島で、難波はさぬきの津田だ。   @阿波
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:34:44.83
>>632
巨大な湖としての奈良湖はなかったかもしれないが、湿地や小さな湖は点在してたんじゃないか?
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:37:01.76
記紀はかなり伝承に忠実に書いていると思われるが(皇室内の殺し合いも近親相姦も赤裸々に描いてる)、王朝交代のタイミングでの万世一系の偽装だけは無理にでも脚色していると私は考える
それが少なくとも仲哀→(神功)→応神と武烈→継体の二カ所だ(武烈天皇など王朝最後の王の常として殷の紂王の如くめちゃくちゃな人物に描かれている)

そしてもう一か所、継体→(安閑・宣化)→欽明のところも私はかなり怪しいと思っている
百済本紀には531年に「日本の天皇および太子・皇子倶に崩薨」と記載されており、継体のクーデターで倒された応神朝の手白香皇女(仁賢天皇皇女)の生んだ欽明天皇による逆クーデター(継体天皇と安閑・宣化にあたる二皇子の殺害)の可能性もある
継体擁立に貢献して継体朝で権勢を振るったと見られる大伴金村が欽明天皇即位直後に20年以上前の任那4県割譲の責を問われて失脚したことも継体朝滅亡と連動している可能性がある
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:39:52.38
>>637
そもそも継体天皇自身が百済のスパイみたいなもんだからな
継体は即位前の時点で百済王子から銅鏡をもらったり深い関係にある

百済の支援のもと継体は王位につき、約束通り任那を百済に割譲したんだろう

つまり任那四県割譲はもともと自分が倭王につくための支援と引き換えだった
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:41:09.78
>>475
あらゆる学問から考察しても魏志倭人伝に登場して金印をもらっている邪馬台国は九州説が正しいです。

随書には以下のように書かれています。

「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵」

「倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀
を執り行っている」

完全に九州のことを言ってますね。

旧唐書にもこう書かれています。

「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
「日本国は、倭
国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」

日の出の方角、東の畿内にも国があったということです。

また、「倭国とは、古の倭奴国なり。」ともあり志賀島から出土した金印とも合致します。
当時は、九州北部がヤマトを名乗っていたというわけです。

新唐書などを読んでも、日本がもともと小国で倭国の地を併合して名乗っているということまで書かれています。
後に東にあった畿内の大和王権が勢力を伸ばし、九州を併呑したということです。
大和王権のシンボルである前方後円墳が畿内を中心に3世紀中頃から7世紀初頭にかけて全国に広がっていき、朝鮮半島南部にまで広がっていく様はそれを表しています。

畿内説は引っ込みがつかなくなった関西系の考古学の学閥が無理やり推しているだけの話です。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:42:43.36
百済の倭系官僚に物部氏のブツブシュンがいる
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BF%E9%83%A8%E7%8F%A3
任那倭人にとって百済割譲は「百済官僚として生きること」を意味する
こういった倭人が百済の前方後円墳を作ったんだろう
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:44:45.23
>>639
こんな宗教的なひとがまだいたとは
0644日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:58:16.72
>>643
NHK
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 11:59:08.10
学閥は宗教だから真実を捻じ曲げる。
そういう人(たち)がまだいるというのは仕方ないことなんだと思う。
畿内説の学者は公金で生活することで精一杯なんだろうし、
自分がのしあがるためには畿内説の先輩に師事せざるを得ないから、
宗教的な不のスパイラルに陥る。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:06:21.48
現在の飛鳥の場所と低い所の標高差は40m程あるから、飛鳥は高地性集落だね。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:10:43.35
隋書の倭の都は魏志の邪馬台=大和
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:11:25.32
>>646
飛鳥時代の王宮は、外国要人を迎える迎賓館の役割もあったのだろう。 小松島も津田いずれも海辺に在る。  
大陸との往来が活発となる時期だ。   @阿波
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:14:39.57
>>639
聖徳太子は倭人伝読んでて、九州説w

阿蘇山噴火を見た
中国人の話は知らない。
奈良で聞いた話とは思うが?

600年あたりまでの噴火。
400年には甲信にも御牧が有るから
富士山の話と思うが?

裴世清は奈良の東は
毛人国と言ってた?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:15:26.47
>>571
実は魏晋以降外交的に臣従してたから。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:15:39.79
NHKの倭王讃や雄略天皇が高句麗に勝ったとかほんとかよ?w
0653日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:18:08.66
>>647
文字を持たない蛮族の300年以上前の都なぞわかるわけもなく
0656日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:25:31.74
>>651
370年には高句麗を押し返して
百済に朝貢させた。
で、
百済からは、七支刀と博士が
日本に来て、漢字が伝わった。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:27:05.62
魏晋南朝まで臣従してるよね。三角縁の年号は時の支配者皇帝の権威を利用してる。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:28:45.34
なぜ任那には前方後円墳がなく、百済に前方後円墳があったのか

その答えは「任那が倭国領の時代には、任那で死んだ倭国の貴人は倭国に移されて葬られたから」が答えだよ

任那が百済地になって倭系官僚が百済政府に組み込まれたあとは、倭系貴人も百済に葬られることになり、朝鮮半島南西部の前方後円墳になる
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:29:20.51
邪馬台国から空白の4世紀を経て倭の五王になるまでの過程がNHKの番組でカットされてたがどうなってるんや?w
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:32:48.93
>>659
残されてる文字史料からは東倭種が九州倭国を討伐して併合したようにしか見えないから深掘りできない
0661日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:41:17.79
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:46:37.27
トミ王丸山古墳=トミ長髄彦系統の縄文系豪族=ヘビをトーテム=蛇行剣
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:47:01.21
三角縁は大王が事実上の天王(皇帝一歩手前)として配布したお守りみたいな物。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:47:03.81
>>659
313年が漢四郡の滅亡だが
高句麗は350年幽州刺史楽浪候になる。

百済使って戦争して
370年百済は朝貢で建国
400年までには日本産牛馬の御牧が
甲信にも高句麗墳墓を伴い成立する。

倭の五王は高句麗との交戦権と
半島利権の保証を求めた外交。
半島忖度があると話せない。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:49:13.34
>>639
そこに行った人が記録したんでしょう
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:51:36.98
九州説って論理的思考のできない人がかかる病気だからね
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:52:33.80
>>655
親魏倭王の金印貰って喜んでましたとは書けません
0668日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:57:30.78
飛鳥時代の王宮は、外国要人を迎える迎賓館の役割もあったのだろう。 小松島も津田いずれも海辺に在る。  

大陸との往来が活発となる時期だ。   

ただし、政務を司る倭の都は、鮎喰川下流集落群の地である。   @阿波
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 12:59:25.74
日本に来て全国を旅する役人なんて居ねえだろ?
目的地があってそこの事を書いている
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:00:37.60
>>669
「裴世清」
『日本書紀』によれば、6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
この難波津とは、さぬき市難波郷津田の津。
この京とは、「阿波」の推古天皇豊浦宮。   
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波
0672日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:01:57.15
>>671
記紀にそんな事書けないよ
0673日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:03:32.48
記紀に属国の歴史なんて書けないって
0674日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:03:46.62
天皇になって冊封から離脱したら、魏晋の天子とお友達でしたくらいの関係に改変するのが正しいよね。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:07:58.86
>旧唐書にもこう書かれています。

>「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
>「日本国は、倭
>国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」

>日の出の方角、東の畿内にも国があったということです。

ヤマト王権はアマテラスから続く家系のため、昔からやたらと日が昇ることにこだわる。

神武東征でもナガスネヒコを打ち破るために、

負け戦になったのは、日の神の子なのに、日に向かって(東に向かって)攻めたのがよくなかったとして、
日を背にして(西に向かって)攻めようと、紀伊半島を熊野(和歌山県)まで 迂回うかい し、東から大和に向かった。

聖徳太子の時代には、

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」

と煬帝に書を送ったとされる。

うってかわって、九州にいた女王国の卑弥呼は基本的にシャーマンであったことしかわからないわけだが、
現代の人が、「日御子」とか「日巫女」とか、語呂合わせだけで太陽信仰と結び付けている感がある。
卑弥呼と敵対する狗奴国の男王が卑弥弓呼と呼ばれているので、卑弥呼を「日御子」とか「日巫女」とするのは少々こじつけに近い。
また当時の日食(実際には日本のごく一部でしか起きていない日食)や古事記の神話の天岩戸と結びつけている感がある。
卑弥呼がシャーマンであったことはわかるが、女王国に太陽信仰があったことは書かれていない。
倭人は何かあると、「骨を灼(や)きて卜(ぼく)し、以(も)って吉凶(きっきょう)を占う」わけで。
同じ倭人ではあるが、明らかに畿内の大和王権とは別の国である。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:09:23.44
属国ってのは日本と言う国が存在しないんだよ
そんなの記紀に書ける訳ねえじゃん
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:10:26.71
神功紀の魏晋外交は避けられない事実w
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:12:43.89
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみた!w

<北部九州>
筑紫邪馬台国…魏(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…新羅(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲し、消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け激しく動揺した32歳の台与は、巫女だけに国際政治もよく知らず、共立のため跡継ぎがいないことから、死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:20:45.63
>>678
熊襲の襲は曽於郡の曽於だ馬鹿
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:21:49.49
倭王も中国の役職で組み込まれてるんだよ
だから日本に倭王なんて言葉はない
0681日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:23:48.80
>>656
カタカナのような言葉でサヌミコトとかワカタケルとか呼んでたら、
完全にヘブライ語族だな
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:24:25.97
『旧唐書』
日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉

日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
或いはいわく、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり。
其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(尊大)、実(真実)をもって対(こた)えず。故に中国、焉(これ)を疑う。

『新唐書』
 咸享元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、悪倭名、更号日本。使者自言、国近日所出、以為名。或云、日本乃小国、為倭所并、故冒其号。
「日本という小国を倭があわし(併合し)その号(日本の名)を冒(名のる)」し、日本と改めたと説明したが、疑いを持たれた」


当時、日本人があやしいことを言っていたようなので、中国人は怪しんでいたし、
太陽信仰にこだわる大和王権に九州の邪馬台国がやがて併呑されたのは間違いがない。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:27:54.98
>>682
必死に言い訳してる姿が目に浮かぶわ
朝貢してた国とは関係ないよと言ってるんだろうが無理がある
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:33:20.80
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国・日田郡出土)を貰い、巫女だけに世継ぎのいないことから将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:33:31.16
NHKはスルーしてたけど、「謎の四世紀」に日本列島は三韓の辰王(沸流=布留・経津)に乗っ取られてるよ
文字も鉄器も馬も無かった倭人が、その逆に勝てるわけ無いだろ
馬や鉄を送って、その乗り方や鉄器の作り方を、文字も無い様なやつらに教えてあげたりはしない
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:33:38.12
つまり畿内説は反日韓国人がよくやってるオレオレ詐欺の一種ですよと
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:34:47.08
白村江の戦後処理の意味合いもあるんじゃないかな
悪いのは倭国ですよ日本国ではありませんよと
そのうえで九州の領有を主張するには神武の物語が必要だった
0689日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:39:24.81
>>683
百済が朝貢したから
教化のために中国が送った博士を
日本に渡しちゃったんだよ?
傀儡立国なんだよ。
七支刀には王子を聖帝に預けるから
よろしく頼む。と書いてある。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:39:59.35
>>687
ニニギノミコト「ここは韓国に向かい、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、いとよきところ。」
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:56:40.84
乗っ取られたとまでは思わないが加羅や百済からの難民は相当数渡来してきただろうな
そして空き地を求めて東へ東へ……
0692日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 13:57:40.71
>>684
>必死に言い訳してる姿が目に浮かぶわ

日本人「日本国は倭国の別種でさ、日本人だから同じ同じ。」

日本人「まぁ、そんな話はおいといてさ、日が昇るところに近いから日本にしたんだよね。祖先がアマテラスだしさ。あ、ていうか、倭っていい言葉じゃないから日本にしたってのもあるんだけどね。」

中国人「んなこたぁ、きいてねーよ」

日本人「もともとは、うーん、小さな国だったんだけど・・・あ、でも、倭人の国だよ?だから同じなんだけど、まぁ、倭を併合したっていうか、だから結局同じなんだよね。」

中国人「あ。や。し。い。」
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:14:37.13
南支那ブタニグロチンク

セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
セローーイ
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:19:48.57
>>691
日本に来た三韓人の象徴が、ツヌガアラシト(加羅)アメノヒボコ(新羅)弓月君(百済)
0696日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:26:38.04
>>675

骨を灼きて卜し、以って吉凶を占うのが【太占】
『古事記』では、伊弉諾尊、伊弉冉尊が国土生成(国産み)の折りに、
いかにして良き子を得ることができるか問うたところ、
天つ神が【太占】によって占って教えてくれた

卜骨は弥生時代前期に出雲、大和、伊予に伝わり
弥生時代中期には九州を除く関東に拡がった
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:35:45.02
>>692
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:38:22.71
卜骨は主に沿岸で発掘されていて、内陸は奈良と中部地方のどっか、とどっかに載ってた
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:53:10.12
>>697
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里

北京-上海間でも1000kmなのにそりゃ日本はデカいと自慢するホラ吹き呼ばわりされるわ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:54:59.49
>>700
弥生人なら西遼河流域遺伝子が多くていいんだが
古墳人(現代人)ならもっと東アジア遺伝子が出ても良さそうなもんだが
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:55:00.37
>>697

日本国は倭国の別種である。(だから、別国である)その国は日の出る所に近いので、日本という名称を国号としている。

あるいは、このように言っている。「倭国はその名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた」と。また「日本(大和)は、もと小国であったが、その後、倭国の地を併合した」とも言っている。

その国人が唐朝廷に参上した時は、その多くが自国を広大と自慢し、真実をもって対応しようとしない。従って中国側としては、彼らの主張するところに疑念をもっている。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:58:19.76
邪馬台国が渡来漢人を支配して皇帝に昇りつめたからな。
日本号とは中国神仙思想に沿った国号。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 14:59:28.66
>>703
だから、倭(国)は、遷都前の「阿波」。

日本(国)は、遷都後の奈良大和。   @阿波
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:00:38.43
>>705
>日本は東にあった小国ですね

だから、日本は遷都前の寒村奈良。   @阿波
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:03:30.64
大和国は邪馬台者の国な
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:06:27.45
日本と倭は別なのに中身は邪馬台w
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:08:47.81
旧唐書・新唐書で魏志倭人伝中の邪馬台国は九州という結論は出てるんだよな。
実際には邪馬台国(倭)を征伐した可能性もあるが、併呑して取り込んだたことにして、
対外的には、かつて中国に朝貢していた倭(九州邪馬台国、倭奴国など)と、日本(畿内ヤマト政権)が歴史的なつながりがあるように見せた。
これは外交的にはとても重要。
そうしないと、新興国になってしまい、ゼロからのスタートになってしまうから。

倭の五王の時代も、初期は「安東将軍・倭国王」という肩書からのスタートだったのが、
讃 ・珍 ・済 ・興 ・武と同じ流れを汲んでいることを強調して、最終的には倭王武の時代には、
「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」まで
ステップアップしていったことを考えると、同じ流れを汲んでいるということは非常に重要。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:10:17.26
>>712
>旧唐書・新唐書で魏志倭人伝中の邪馬台国は九州という結論は出てるんだよな。

碌に鉄器さえも作れない九州がか?   @阿波
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:15:38.11
>>714
魏氏倭人伝で邪馬台国で鉄器なんかを作ってたことなんて書かれていてないので、別に鉄器が作れるとか作れないとかは関係ない。牛や馬もいないし。馬具だって作る意味さえない時代。
鏡さえも自分たちでまともに作れない時代だったからこそもらったのだし。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:15:59.77
三輪、三角柏
三とは何を指すのか?
大和国風土記逸文、石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこと
そこが倭国であり日本の始まりと思うんだよな
三は何を意味するのか?
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:18:02.80
邪馬台国は九州、大和国は畿内で結論出てます。
邪馬台国のずっと後、もともtもは小さな国だった大和政権が鉄器生産で力をつけていったのは間違いはない。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:18:13.27
>>712
倭の五王の歴史も消したいんだと思うがな
ただ倭と言う国名だけは消せない
これは日本列島を指してるんだから
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:28:36.34
同じ倭だと思われてるけどうちは違う国だよと言いたいんでしょう
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:31:05.75
>>718
>邪馬台国は九州、大和国は畿内で結論出てます。

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い九州や畿内がか?  @阿波
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:31:47.90
魏志倭人伝に邪馬台国という真の国号を記録されちゃって、矛盾だらけになってしまったw
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:36:23.75
>>719
>倭の五王の歴史も消したいんだと思うがな
対外的には朝貢してたけど、国内の歴史的には、神の子孫のはずであり、
朝貢の黒歴史は記紀にはさすがに書けないから、そりゃそうだよね。

本音と建て前ついでの話をすると、国体と国政が分離しているというのもそれに関連する日本の特徴の一つかもね。
隋書では、600年に倭王が隋に使者を遣わしたとき(第一回目の遣隋使)、その使者は隋の文帝に対して「倭王の姓はアメ、名はタリシヒコ、号はアホケミである」と答えたとある。
607年に「日出ずる処の天子」の国書を携行させて遣隋使(小野妹子)を派遣した倭王も「タリシヒコ」であったとしている。
国内の歴史的には女性天皇の推古天皇の時代だけれども、対外的には男王のアメタリシヒコと伝えている。
さすがに女性の天子が男性の天子に書を送るっていうのはまずいと思ったのか、女性が天子だと馬鹿にされると思ったからなのかはわからないけど、
隋書に登場するアメタリシヒコは聖徳太子だよね。

天皇は国体であって、国政は聖徳太子ってことで、アメタリシヒコの名を伝えたんでしょうね。
これは今も昔も日本は変わらんですね。
征夷大将軍を任命するのは天皇だったし、今でも総理大臣は天皇から任命されるわけで。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 15:43:49.96
要するに、
九州にいた弥生人の国が倭国で、その都が邪馬台国。
畿内、四国、北陸に入植した古墳人の国が日本でその都が奈良纏向。
そして日本が倭国を併合した。
記紀は日本の歴史世であり、倭国の歴史書ではないので、卑弥呼に関する記載なし。一方で土蜘蛛や熊襲の征伐など、九州倭国を併合した記録はことが欠かない。
討伐された倭国邪馬台国人は、九州南部に押し込められ、九世紀ごろに沖縄に移動した。
簡単に言うと、こんな感じだな。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:00:39.78
>>712
703年の日本国の初朝貢で一番重要だったのは、唐と戦争したのは倭国であって、自分たちは別の国であると説明することだっただろう
0729日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:00:56.84
>>726
誰がそんな物語作れと言った?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:02:40.77
>>728
言われてみればそれが理由かもと思う
存亡の危機だもんな
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:03:34.77
>>724
ちなみに、魏志倭人伝では邪馬壹国(邪馬壱国)となっていて邪馬臺国(邪馬台国)とは書かれていない。
後に、邪馬臺国(邪馬台国)と記録されるようになり、魏志倭人伝は誤植だのと言われているが、
どちらも当時は倭人の発音を漢字に当ててヤマトと読んでいたと思われるので、誤りではない。

漢字は偏(へん)と旁(つくり)があり、基本的に旁(つくり)で音符するから、
邪馬壹国(邪馬壱国)であれば、壹(壱)の旁(つくり)は「豆」でトウと発音、
邪馬臺国(邪馬台国)であれば、臺(台)の旁(つくり)は「至」でトウと発音するので、
どちらもヤマトと読んで問題はない。
(おそらく、どこかの時代で中国で壹(壱)をトウとは読まなくなり、例外となり、臺(台)を代わりに使うようになったのではないかと考える)

そのヤマトという国号を邪馬台国から継承するために、旧唐書・新唐書でも怪しまれているように、畿内の大和王権が九州倭国になりすました形だと思われる。
なぜならば、もともとは大和王権の人々は自分たちの国ことを、
秋津島とか、豊葦原瑞穂国 (とよあしはらみずほのくに)とか、大八州 (おおやしま)などの別の呼び名で呼んでいたと思われるから。

余談ついでに話をすると、
卑弥呼の後の宗女は、イヨだのトヨだのという読みが乱立しているけれども、壹与で旁(つくり)が「豆」なのでトヨの発音のはず。
また、後継者がトヨという固有名詞で登場するので、
卑弥呼は日御子や日巫女という役職名ではなく、ヒミコという固有名詞の可能性が高い。
卑弥呼と敵対する狗奴国の男王が卑弥弓呼(ヒミクコ)と呼ばれているので、卑弥呼を「日御子」とか「日巫女」とするのは少々こじつけに近いというのもある。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:04:27.05
そう
機内にいた倭の五王によって討伐された衆夷66か国、というのが九州のことだよ
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:06:44.55
>>726
日本って言葉の初出は7世紀なのになんでこんなバカなこと言ってるやつがいるんだ?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:08:45.06
>>728
緊張緩和の意味で、併呑したかのような、でも権威は継承したいので、歴史的なつながりがあるかのような、微妙な疑わしき言い訳をした可能性はあるね。<旧唐書・新唐書
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:10:51.26
>>728
山奥の奈良大和へ避難疎開遷都が完了して、唐と対峙出来る自信がついたからだ。   @阿波
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:11:59.61
邪馬台国を無理やり九州にしたがると、このように無理に無理を重ねることになる
0737日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:13:17.13
つまり畿内説は無理を基準とした結果なので無理が無いと
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:19:11.84
旧唐書・新唐書で言われるように、たしかに大和王権はもともとは東にある小さな国だったのでしょう。
しかし、次第に勢力を伸ばしています。
7代孝霊天皇の御代で吉備を併呑していて、
だいたい3世紀末〜4世紀初頭の11代垂仁天皇、12代景行天皇の御代当たりで邪馬台国は併呑されたと思われる。
そして、倭の五王の時代につながっていくのでしょう。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:23:33.40
>>728
そんで記紀に九州からきましたって物語書いてりゃ世話ない
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:29:53.85
ただなあ、畿内説や阿波説だと南にあると言う狗奴国がどうにも比定できない。黄幡をもらうほど倭国の強敵なのに、どうやっても比定できない。東海だの関東の毛野だの、それ思いっきり東やん。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:30:02.97
おっす、おれ九州の宮崎県出身っす!転校したんで育ちは奈良県っす!よろしくな!
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:33:11.94
>>740
>ただなあ、畿内説や阿波説だと南にあると言う狗奴国がどうにも比定できない。

だから、県北が「邪馬臺国(粟国)」、県南が「狗奴国(長国)」 だと、何度言えばww   @阿波
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:35:28.93
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。
「狗奴国(長国)」は、「辰砂鉱山」と「温暖で豊かな海」に恵まれた県南部の阿南市周辺弥生後期集落遺跡群。   @阿波 
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:35:43.15
>>740
かなり無理に無理を重ねてアクロバティックなこじつけしないと、
畿内説だと、南にある狗奴国もそうだけど、北にある一大率も比定が難しいからね。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:38:44.42
>>742
西日本を覆う親魏倭国が、徳島の南半分に苦戦しちゃうんですねwww
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:38:48.60
>>740
狗奴国は、天津に相対する国津の国全般をさす

どことかない → だから、素より不和
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:42:03.86
大和王権は地域の豪族と政略結婚なんかして勢力をひろげてる。
吉備なんかもそうだしね。
あと鉄器の独占で優位性を示せたはずなんで、仲間がどんどん増えたんだと思うよ。
出雲なんか国譲り神話まであるぐらいだ。
だから戦いの痕跡ってのが九州と比較しても畿内にはあんまりない。

戦いの痕跡がある場所は常に九州。
倭国大乱時は九州は戦いの痕跡だらけだし、
その後の時代は、大和政権が九州征伐にやってきたりと、常に争って戦ってるよね。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:44:43.75
>>748
日本書紀の四道将軍や、中国の史書に出てくる倭の五王の衆夷や毛人の征伐の記事は、全くのでっち上げなのですか?
0750日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:47:34.31
>>748
>あと鉄器の独占で優位性を示せたはずなんで

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡は無いけどな。   @阿波
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:50:17.04
奈良から勢力拡大していったのなら、戦いの場は奈良以外になるよ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:51:44.76
>>740
卑弥呼と卑弥弓呼の仲が悪いと書いてあるのになんで狗奴国に拘る?
黄幡で卑弥呼が正当な王だと宣言する事はおかしくない
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 16:54:55.90
>>748
九州に戦いの痕跡はあるのか?
あるのは青谷上寺地遺跡だけだろ?
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:00:57.16
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:25:00.65
戦いの痕跡、使った武具、人骨あまり残らないのではないの
0756日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:32:29.55
畿内説の主張
・南と書いてるが実際は東だったニダ(根拠無し)
・邪馬壹(ヤマイ)はヤマトと発音するニダ
・箸墓古墳は卑弥呼の墓で確定したニダ(未調査)
・西日本の東の端にある纒向が倭国の中心ニダ
・史書や記紀は全て嘘ニダ
・根拠は無いが卑弥呼は大和王権の始祖ニダ

以上、アタオカ学者の主張でした
0758日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:39:24.62
>>756
松浦から博多を東北じゃなくて東南と書いてるから根拠あるだろ
そのまま進むと内陸の不弥国から舟を出すことになる
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:42:31.24
>>749
北陸、東海、西道、丹波を平定するということはすなわち、畿内から勢力を拡大したことは間違いないし、その時点で九州などまったく勢力下にはないということ。
のちに九州邪馬台国も勢力圏内に入る。
また、九州と比較して戦いの痕跡が少ないと言っている。<楼観、城柵、他
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:44:15.58
>旧唐書にもこう書かれています。

>「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
>「日本国は、倭
>国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」

>日の出の方角、東の畿内にも国があったということです。

本州で日本の日の出の一番早い所が鹿島神宮

関東説
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:46:13.53
九州説には学者がいない
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:48:51.02
>>760
その鹿島神宮の元社は、阿波國阿波郡「建布都神社」 御祭神 武甕槌神   @阿波
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:51:35.94
>>759
九州に邪馬台国はない
久住先生の言う通り、北部九州は筑前型庄内甕を成立させ、在地系が激減する
さらに後に北部九州型布留甕の成立、前方後円墳と三角縁神獣鏡を受け入れる

庄内式の受容は九州説にとって大ダメージ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 17:57:19.52
>>744
一大率を伊都に設置は
博多湾の半島貿易管理で良い。

でもなんで九州なのに
女王国以北なんだ?
堺ではやらんのか?
二大率とかwww
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:02:27.74
>>757
月刊ムー説
0766日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:06:13.62
14代仲哀天皇の時代に九州熊襲征伐、
26代継体天皇の時代に磐井の乱、、
44代元正天皇の時代には隼人の乱、
九州平定はなかなか難しかったと思われる。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:08:01.31
>>766
ただ、庄内式というかなり早い段階で、北部九州は畿内化されているという事実がある
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:11:14.23
>>739
九州から来ました。

ってのは、
国境を対馬に定めたから
九州は歴史的に日本の領土だぞ

半島は、くれてやるけど
この線から、こっち来るなよ。
って、言うためただよ。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:14:26.02
放射読みというアクロバットを使っても投馬国が比定できない九州説
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:16:08.96
邪馬台国は畿内にはない。
旧唐書・旧唐書からも明らかである。
記紀にも卑弥呼の記録がないから明らかである。
邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられるため邪馬台国は畿内にはない。
「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられるため邪馬台国は畿内にはない。
「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること、また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていることから邪馬台国は畿内にはない。
日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)が曹操の墓から見つかったものと同型であるため邪馬台国は畿内にはない。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:16:10.32
>>763
単に交易の存在を示すだけでしかない
九州と播磨などは倭国大乱よりもずっと以前から交易してたわけで
纏向なぞお呼びではないのだ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:18:35.16
庄内式→布留式→前方後円墳&三角縁神獣鏡

奴国がたどった道は畿内と全く同じである
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:20:20.57
>>768
いつの時代の事を言ってるんだ?
弥生時代の対馬の人が日本人と思ってたか韓国人と思ってたか対馬人と思ってたかわかんねえよ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:22:15.83
>>772
畿内って主語がデカいけどようは播磨とか河内じゃねえの?
纏向と限定しないと纏向政権と九州との関係が歪む
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:27:45.01
米田敏幸(1999)

・河内の庄内式土器は西日本各地に移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。いままで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかないということである。

・さらに胎土の研究を進めていくと庄内式の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。何故かというと胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方で作られたものがほとんどであることが判ったからである。

・纏向遺跡をはじめ大和は畿内文化発信の拠点であるという根拠は現在のところ見あたらず、庄内式文化も布留式文化も他地域からの文化を受け入れた結果に他ならない。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:28:02.72
>>775
まあそういう事だな
中国から見て倭は半島から日本列島の倭人居住地域
でも日本人は半島をどう思ってたかわかんねえんだよな
0778日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:29:11.95
ハルキーさんもNHKの邪馬台国スペシャルで九州説無視され怒りの動画出しとるw
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:31:53.62
>>778
ハルキーさんはセミプロだからな
ここにいるど素人とはレベルが違う
洛陽焼溝漢墓から三角縁神獣鏡や斜縁鏡が出てこれば畿内説で決着と言っている

いまだに魏志倭人伝の解釈しかしてないど素人九州説とは一線を画す
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:40:25.29
>>777
百済が、対高句麗戦で
日本の最前線の候国だったことは判る。
当初は百済王族を日本兵が守った。

任那4県の割譲あたりから
自分で防衛しろ、になった。
新羅が反抗的で南朝は敗色が濃くなる
だから、倭の五王は終わった。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:43:48.32
>>779
それ、素人意見だよな
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:46:45.72
一度百済が滅亡したときに、復興のために雄略が熊津(久麻那利くまなり)をあげちゃったのが最初だな
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:48:05.81
>>781
絶滅危惧種九州説にはプロがいないので何とも言いようがないが、わずかに残ってるセミプロ、プロの中ではこの考えは動かせないだろう
洛陽焼溝漢墓から三角縁神獣鏡や斜縁鏡が出てこれば、九州説は詰みなのは事実なのだから
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:56:09.70
ハルキーさんめっちゃ詳しいのにふるしょうさんの昨日のNHKの番組のライブ動画見たら周りにレベル合わせて喋っててほんとここの住人とは格が違うのわかるわ。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 18:58:25.39
邪馬台国論争は詰将棋のようなもの
プロは、数十手先を読んでもはや「詰めろ」になっている可能性が極めて高いことを理解しているが、
素人は数手先しか読めないのでまだ「詰めろ」になっていることに気づいておらず、

「魏志倭人伝の南は東と読み替えてはいけない」とか「旧唐書がー」、「記紀がー」などと馬鹿なことを言っている
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 19:01:49.84
>>782
日本で育ててた王子を返して
復興させたのかな?

370年から百済王子は日本で養育とか、
凄い先見の明だな?

てか、500年にはもう何代
百済王妃が日本王族だ?

そんな豪族、国内でも
物部とか蘇我位だろ?

まあ、日本に渡れない
しもじもには関係ないが。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 19:45:55.45
>>769
伊都国から有明海を南に出航して鹿児島半島と大隅半島を回って20日くらいで西都に着く。西都には都萬神社がある。倭人伝では女王国は周囲5000里ばかりの島と記しており伊都国から一番遠い反対側辺りにある国として投馬国を紹介してる。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 19:52:35.68
>>788
宮崎は免田式文化圏であり、女王国庄内式布留式文化圏とは別
宮崎が畿内の傘下に入ったのは100年後
すなわち、宮崎に残された可能性は狗奴国しかない
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 20:03:04.19
宮崎は投馬国、播磨はハリ国、河内は狗奴国
何ら矛盾しない
0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 20:10:04.00
邪馬台国は奈良でいいんだよ
邪馬台国の官は何処の誰なのか?
卑弥呼はどういう背景がある人物か?
卑弥呼共立にはどんな勢力が加わり外国の勢力の関与があったのか?
そういう段階に来ている
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 20:26:54.69
纏向には卑弥呼を共立する動機が無い
卑弥呼共立イベントが発生するためには「倭国大乱暦年主無し」というフラグが必要なのだ
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 20:34:07.55
桓霊間倭國大亂更相攻伐暦年無主というイベントが発生するためには
それに先立って男王の時代が70-80年ほど必要
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:00:00.92
纏向はダメ
倭人伝記述と合致する遺物なにがあるのかね??
初期ヤマト王権の都といぅても、、、集落跡ないし、、、

畿内説の学者は馬鹿じゃねーの
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:15:42.86
天岩戸開きが卑弥呼の誕生の話で、登場する物が人の例えなら大量虐殺の可能性もある
卑弥呼亡き後の内乱ですら1000人が亡くなっているからあり得る話だ
奴婢100人の殉葬の話もある

オケひっくり返して踏みつけたり火にかけたり、香具山の榊を根刮ぎ引き抜いたり
スサノオの財産を全て没収して手足の爪を剥ぐ拷問もしている

唯の作り話ならいいが今まで見てきたところ神話はかなり事実を反映しているところがあるからな
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:18:00.70
>>790
奴国の2.5倍の投馬国を何ら出土品がない宮崎県に設置することは不可能
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:25:04.07
スサノオは偉大な日真名子なんだろう?
天岩戸開きの記述は何なんだ?

出雲国一宮熊野大社
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
0799琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/03/25(月) 21:25:27.44
高句麗は百済を百残と言ってる時点で本体は異動しているわな。
まぁNHKはあんなもんだが笑劇場が酷い出来であるな、今のエンタメの程度の低さばかりが目につく
卑弥呼が始祖だがやがて八角、八角の始祖は天御中主
慶州羅井だよ。
ここまではNHKはやれんわ、ただただ濁すのみ
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:33:18.80
鳥取の青谷上寺地遺跡の人骨の内2体はC1a1だった
旧石器時代からいる人々の遺伝子タイプではないかと言われている
ヒスイを大量に集めていた青森の三内丸山遺跡は遼河文明の影響というかそのままの遺跡だ
遼河文明は龍をトーテムとしハプロタイプNの文明だったと言われている
どちらも現代では少数だな
0801日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:41:13.96
NHKが海かき混ぜて日本を作りましたと言えば納得するのか?
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:48:29.83
榊は平安時代に作られた和製漢字
神の木の意味か
上代(奈良時代以前)では、サカキ、ヒサカキ、シキミ、アセビ、ツバキなど、神仏に捧げる常緑樹の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになった
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:54:32.49
不思議だな。
方位や里数や日数は全く気にしないのに、
戸数については、魏志倭人伝の記述が正確なものとする人がいる。
東と書いてあるのをなんの疑いもなく南に読み替える。陸行一月なら、どうやっても纏向は通り過ぎるのに気しない。径100歩・100人の殉葬も箸墓と合致しないのに気にしない。 
にもかかわらず、二万戸五万戸七万戸にはやたらこだわる人がいる。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:55:28.50
天岩戸開きの時、矛を作った話もある
唐突に挿入されているから意味不明だが
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:57:46.97
>>803
それは何処よ?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 21:58:53.79
>>804
それをNHKにやれってか?
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:01:06.50
関わった神の1人は御子神を連れてすぐに信濃に鎮座した話もある
どういうことなのか?
記紀が作られた時代において、天岩戸開きはどういうことなのか
国作り神話と矛盾だらけだ
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:03:23.31
>>806
倭国、ヤマト政権の歴史は倭国大乱前の男王の時代から、伊勢遺跡が始まる1世紀後半からとやればよかったんじゃないか?
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:05:59.98
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:08:49.82
帥升という王がいて、山陰北陸近畿東海の勢力の首長連合の政治形態で夜に水の祭祀を行なっていた
銅鐸や鳥形、龍や鳥装のシャーマンの絵画土器、ヒスイの勾玉が流行り、環濠が無くなり銅鐸の絵からは長閑で平和な時代が訪れていた
これがヤマト政権の始まりである
とやればよかったんじゃないの
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:11:55.69
卑弥呼が日本列島最初の大倭王というシナリオを捨てるわけか
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:12:51.46
何故伊勢遺跡に集まったのか?
伊勢遺跡以前はあるのか?
もうちょい調査が必要
後漢書では紀元前から邪馬台国に大倭王が居るんだから
0813日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:22:53.75
池上曽根遺跡にはでっかい棟持柱建物がある
棟持柱建物は伊勢遺跡、纏向遺跡へと受け継がれてるしほぼ全国にある
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:27:40.69
棟持柱建物は北部九州にはない
それで結論を出すつもりはないけど
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:29:14.45
畿内説が纏向の呪縛から逃れるためには割と悪く無い選択肢かもね
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:30:45.63
棟持柱なんて無くても良いだろうになぜかあの形状
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:32:12.74
>>815
選択肢もなにも俺はずっと伊勢遺跡推しだから
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:37:00.43
マユは沖縄の来訪神マユンガナシによれば豊穣の地らしい
そこから蓑を纏い話すことがない神がやってくるという
縄文時代から沖縄と本州は貝の交流をしていたから本州からきた神の可能性もある
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:38:05.38
出羽三山でも湯殿山は別格だからな
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:40:15.54
池上曽根遺跡は特大棟持柱建物も特大勾玉も巨大なクスノキをくりぬいた井戸も興味深い
年代は伊勢遺跡より更に古い
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 22:47:50.17
>>820
特大棟持柱建物も特大勾玉も巨大なクスノキも
「阿波」から持ち込んだものだ。   @阿波
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 23:05:33.53
守山の下之郷遺跡からは弥生時代中期から針葉樹の鳥形が見つかっている
弥生時代前期に鳥形があるのは松江の西川津遺跡、富山の遺跡と八尾の山賀遺跡だな
弥生時代中期には大阪全体鳥取北陸に鳥形は広がる
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 23:22:43.96
>>803
魏志倭人伝通りに進んだら、陸を水行して海上を歩くことになるからな
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 23:44:58.94
>>822
下之郷遺跡も伊勢遺跡の前段階として特殊な遺跡だな
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 23:50:38.21
>>823
朝鮮半島南端から島伝いに九州そこから2か月ほどで奈良、このスケッチはきちんとできている
最初に魏志倭人伝を読んだ人からずーっと日本人は邪馬台国を「やまとのくに」と読んできた 漢字は音を表す道具で旁とか画数とかは問題にしない習慣があった
それを変えたのは新井白石、それも彼のオランダ語通訳の間違った読みをそばで聞いていて「おかしな間違いをするものだ・・」と笑いながら、しかし閃いたという
それが論争を生んだ
しかし、振り返ってみればそれもよかったのかもしれない そうでもなければ大きな話題や論争にならなかったかもしれない
倭国大乱が無ければ・・・
魏志倭人伝が無ければ・・・
新井白石がいなければ・・・
卑弥呼がここまで人々の関心を集めることはなかったかもしれない
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/25(月) 23:56:06.17
地理的に真ん中以外伊勢遺跡の場所を選んだ理由はないと思うけどなあ
委奴国は猪名県の摂津で稲作民と六甲から西宮の磐座の民の地だしなぁ
猪名川水系の稲作民は静岡の登呂遺跡などの開拓に移住した可能性はあるが
弥生時代後期猪名川水系の集落は規模を縮小し玉津田中遺跡と同じ形の鳥形がある集落が静岡に複数誕生する

常陸国風土記に富士山の福慈の神の話がある
古老が言うには、昔 神祖尊(ミオヤノミコト)という神がいた(富士・筑波の2神の親神である)。

この神が諸神の居処を巡行した際、駿河国の福慈岳(富士山)に到った時に日が暮れたので、福慈神(フジノカミ)に宿を乞うた。その時、福慈神は「今は新嘗祭のために家内で物忌をしています。今日のところはどうかお帰り下さい」と言って断った。これを恨んだ神祖尊は泣きながら「お前の親だというのに、どうして宿を貸さないのか。お前の治める山は生きている限り、冬も夏も 雪が降り 霜が降りるほど 重ねて寒さが襲い、人が登らなくなって飲食物を供えなくなるだろう」と罵った。

それから神祖尊が筑波岳(つくばのやま)に登った時に また宿を乞うた。その時、筑波神は「今夜は新嘗祭ではありますが、敢えて尊を断ることもないでしょう」と言い、敬い拝み謹んで饗した。これに神祖尊は歓んで「愛しき我が胤(子孫)よ、高い神宮は天地に並び日月共々に人々が集い、飲食物も豊かで代々絶えること無く、日に日に栄えて 千秋万歳(永遠)に遊楽が尽きないだろう」と言った。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 00:00:25.19
市が栄えた、市が割れたと昔話の最後に言うが、市が割れて大乱になったのかな
いずれにせよ卑弥呼が始まりではないな
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 02:22:58.04
畿内には神武の作った国があった。それは日向から来たアマテラス信仰の民。
卑弥呼は九州の国。
おそらく大和にのみこまれた。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 03:27:24.27
倭語は語頭に濁音はこないというが
出羽をイデワとよまずデワとよむ
出雲もイズモとよまずズモとよむ
だとしたら投馬国は出雲国かもなぁ
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 04:33:48.06
つまり九州説はウソ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 06:09:11.35
俺は九州説だけど
もし畿内説やれと命じられたら奈良捨てて大阪から候補地探すと思うので池上曽根遺跡はいいね
0832日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 06:23:06.15
>>310
時代が違うのでは? 東遷後に出来た徴税基地だとしたら土器が出ない九州がまだ優位とも解釈できる>>290
九州の方は紀元前から大陸との交流があるわけじゃん? その九州勢力と一体の塊の中に卑弥呼も内在しているわけよ
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 06:55:53.48
>>829
投馬国は中国人が作った表意文字の名
まあ、
出雲も日本で出来た表意文字名だが?
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:11:46.26
>>793
57年には奴国王が倭を代表していた
これが阿毎氏で神武に繋がる一族だろう

107年には倭面土(ワミャント=大和)の主帥の升がいた
この前にはかなり大規模な九州から畿内への民族大移動があったと思われる
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:25:33.26
AD57年の倭奴国王が倭を代表していたら倭国王や倭王と表記されたはず
倭を代表していないから倭奴国王と表記されたのだ

あと、この時代の中国が認識していた「倭」の範囲がどこか、も重要だ
少なくとも現代の我々が認識する「日本」とはかなり違うだろう
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:28:11.00
吉野ヶ里遺跡のある佐賀は幕末に
「北海道に首都を移す」計画を立てて島義勇を派遣。だから札幌は京都のように碁盤の目になってる
天皇を東京に移したのも佐賀の提案でなされた。もし薩長が主導しなかったら今頃日本の首都は札幌でロシア東部も日本の領土だった。その場合は満州も余裕
何で佐賀がそんな大胆な発想をしていたかというと長崎があったからだろう
弥生時代における長崎はどこかと考えたらどうだろう?
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:31:02.69
>>836
少なくとも外交代表ではあったし、1世紀は北九州の方が人口が多かったと言われている
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:40:36.26
>>838
倭・倭国としての連合体が存在しないのだから代表して行ったのではない
中国が倭と呼ぶ地域の最有力勢力として単独で行ったのだ

魏志倭人伝に倭国としての纏まりの王と認識されているのは倭国乱の前に70〜80年続いた男王であり、これは逆算するとAD107年に後漢に朝貢した倭国王帥升から始まる可能性が高そうだ
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:43:02.30
倭国乱の前に70〜80年続いた男王には出雲に退いたスサノオも含まれるのだな
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:54:11.78
ハルキーさんのNHK倭の五王の動画面白かったわ。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 07:54:19.47
高々博多湾岸を治めた程度で金印をもらえるんだろうかね
なんだか倭奴国王を矮小化するのに必死なんだよな
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 08:00:44.29
>>836
倭国者古倭奴国也
0845琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/03/26(火) 08:17:41.63
無駄だわ
宇佐も出雲も韓神を祀る神社に変わりはないのだよ
卑弥呼のずっと後の時代の物だ
列島の中心にはない
列島の始祖はあくまで神仙思想卑弥呼
その思想に同化していったのが韓神
23代までが筑紫(月支)。
北九州に23代の地は無い
慶州羅井だよ。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 08:18:37.73
後漢書や魏志では東の倭種は最初からずっと話の外に置かれてるからな
東の倭種が勢力拡大してやがて九州、半島に進出し
半島統治には中華の冊封が重要ということに気がついてようやく朝貢を始めたわけで
それが東晋末(413)宋初頭(421)の倭王讃の朝貢に繋がったわけだ
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 08:25:33.96
>>846
現地で見た人がそう記録しただけでしょう
0849琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/03/26(火) 08:36:27.85
魏志では最初対海国で対海は一支国との間の瀚海で半島から見て付けられた名の国でありやがて対馬韓国に変わる
北九州にみえる半島分布に繋がる甕棺地域国家集合体とみることができ
甕棺の衰退と卑弥呼により
対馬は列島邪馬台に吸収された一島であろう。
北九州は卑弥呼以前は古辰国に属する地域だよ
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 08:37:05.81
事実はストーリーと逆なのよ
東征ってインセンティブないから
だから東北は長くエミシの地だったわけ
東に向かう理由が薄いから

つまり九州から畿内に東征する理由がないのよ

事実はこう
人口で勝る関東の軍団が、貿易の窓口を求めて九州を攻めた
九州を攻めた後はヒスイを求めて新潟まで進出した
その過程で出雲を服属させた

ヤマトは関東がもともとの領地であって
だからフツヌシ、タケミカヅチの神社が関東にあるのよ
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 08:59:29.14
関東東北は大和にとって元蝦夷の領土で東夷だぞw
大和が関東だったら武神、武士階級、征夷大将軍は関西にいるよw
0852日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 09:00:09.04
>>850
関東は元々ヒスイは手に入っただろう
ヒスイを求めたのはヤマトだ
0853日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 09:04:20.47
龍さんの本拠地は元々三内丸山遺跡だろ
南下してきて畿内で共に国作り、ヤマト政権を始めたんじゃないの
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 09:07:39.72
池上曽根遺跡の王と唐子鍵遺跡の王は絶対勾玉のデカさ競ってたと思うわ
「どうです、すごいでしょ?」
0855日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 09:08:55.47
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみた!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…魏(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…新羅(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲し、消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け激しく動揺した32歳の台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため跡継ぎがいないことから、死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 09:24:47.84
卑弥呼は天照。臺与は豊受。
神功皇后は天照2世。
伊勢神宮、宇佐神宮は卑弥呼神宮。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 09:44:55.71
>>832
2、3世紀頃に東遷なんかしていないよ
考古学的に証拠がない
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 10:27:44.79
近頃の東遷説は考古学者が主張してない?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 10:39:36.55
考古学者って事は根拠があるんだよな?
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 10:48:19.25
俺は九州説だけど
もし畿内説やれと命じられたら奈良捨てて淀川から琵琶湖にかけて候補地探すと思うよ。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 10:55:05.29
>>859
古代日本のヒメヒコ制の重要な手がかりだろ。
日本が遣唐使の時代まで大陸文化を導入していく起点だから。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 10:59:04.10
纒向の外来土器にについて東海49%の間違った数字で議論している人間がまだこのスレにいるんだな

その研究を行った石野博信自身が、纏向学研究第9号P.45で以下のように書いて数字を訂正している
「1971年〜 1973年の纒向遺跡発掘報告書をつくるとき、同僚の関川尚功と2人で外来系土器Wを地域別に選別し、円グラフを作成し1975年刊行の報告書に掲載した。しかし、1900年代の末頃から気づいた「報告書」の間違い、つまり、他の地域は口縁部の点数で数えていたのに、東海系のS字口縁甕だけは胴部破片でも判るため数値に入れてしまい、円グラフで東海系49%となってしまった点である。そして2019年12月にようやく私の責任と主観で円グラフを作成し直した(石野2019b、図5)。」

訂正後の数値は以下。
吉備25%、東海20%、河内20%、山陰・北陸17%、阿波・讃岐・播磨8%、近江5%、西部瀬戸内3%、紀伊1.5%、駿河0.5%

纒向の外来土器に九州のものがないことは引き続き超重要
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:19:20.37
>>862
伊勢遺跡も下之郷遺跡も池上曽根遺跡も唐子鍵遺跡も卑弥呼の時代より古いのよ
時代に合致するのが纏向遺跡
卑弥呼の時代大規模集落は無くなってきてて突如現れた纏向遺跡は異質
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:22:35.49
247年に卑弥呼が狗奴国と交戦中と帯方郡に報告している時点で畿内説はノーチャンス!w

−東海狗奴国が一番熱心に卑弥呼の箸墓の築造を手伝っていることになるw
−張政が台与に諭告したということは、纏向まで言っていたわけで、その場合は里数表記になるはずw

其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:32:34.62
>>864
吉備東海河内連合じゃん
吉備東海河内連合
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:33:24.59
吉備25%
東海20%
河内20%
山陰・北陸17%
阿波・讃岐・播磨8%
近江5%
西部瀬戸内3%
紀伊1.5%
駿河0.5%

箸墓造営キャンプに参加した労役者の皆さん
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:38:27.28
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国・日田郡出土)を貰い、巫女だけに世継ぎのいないことから将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:46:05.33
吉備東海河内連合の都
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:48:26.41
吉備東海河内大和をまたがるエリアに強国があった
そしてそれは九州は含んでいない

邪馬台国は明らかに九州を含んでいるため、邪馬台国とは別の国

吉備東海河内大和連合=狗奴国
九州=邪馬台国

前方後方墳と前方後円墳は同じエリアに作られることもあるので、対立を意味しない
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:53:44.72
>>869
出雲→吉備→伊勢遺跡だな
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 11:56:37.84
>>867
>−東海狗奴国が一番熱心に卑弥呼の箸墓の築造を手伝っていることになるw

どうして?

>−張政が台与に諭告したということは、纏向まで言っていたわけで、その場合は里数表記になるはずw

なぜ?
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:03:10.01
>>873
出雲の影響は大きくない
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:04:10.23
>>874
纏向は東海の影響が大きい
その東海を多くの畿内説論者は狗奴国に比定してる

明らかに矛盾してるだろ
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:07:00.21
九州=邪馬台国
吉備東海河内大和=狗奴国
関東=倭種
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:07:10.83
>>875
青銅器や鉄器が入ってくるのはここでしょ
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:07:19.90
邪馬台国が畿内とすると

卑弥呼が箸墓なら台与はどこに埋葬されとるんや?
ほんで卑弥呼がモモソヒメというなら台与は誰なん?
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:09:01.18
>>878
そうでもないやろ
吉備から瀬戸内海航路つかえば出雲は不要
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:09:48.12
>>879
モモソヒメなんて居ない
台与もおそらく居ない
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:11:12.40
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:12:01.10
>>880
瀬戸内海なんか通ったら持衰が死にまくる
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:14:33.45
>>872
>吉備東海河内大和をまたがるエリアに強国があった
>そしてそれは九州は含んでいない

なぜ?
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:16:34.55
>>884
土器で見るとそうなるだろ

古墳で見るなら関東からも最初期の前方後円墳が出てるから狗奴国関東説は成立しない

お前の理屈は全部矛盾する
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:18:39.52
土器を基準にクニの広がりを推定すると
吉備東海河内大和にまたがる強国があり、それは九州を含まないことになる

古墳を基準にクニの広がりを推定すると
畿内と関東はどちらも最初期の前方後円墳を持ち、対立はあり得ないことになる

いずれをとっても畿内説は破綻してる

悔しかったら論理的に反論してみたら?
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:21:04.26
>>886
敵と言えば毛人だろ?
まあどうでも良いんだけどさ
あくまで卑弥呼と卑弥弓呼の個人的な揉め事
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:37:06.98
>>866
>卑弥呼の時代大規模集落は無くなってきてて突如現れた纏向遺跡は異質

纏向遺跡は、土砂で荒れ果てた地を墓地とする為の「古墳造営前線基地」   @阿波
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:40:19.11
東遷ではなく、東征

382 日本@名無史さん sage 2024/01/10(水) 15:28:19.91
東遷ではなく、東征

しかも、袂をわかった分家

だから関連性も薄い

24 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/16(日) 19:49:35.97 ID:hvNoR2Q00
畿内の邪馬台国は、北部九州の分家

邪馬台国の官トップは

伊支馬 = 伊(伊都国)から枝分かれした馬

あてた字を見れば一目瞭然な分家


北部九州から移ったのではなく
本家から分かれた分家であり

本家の北部九州は、倭の五王ひいては、それが筑紫君へと繋がる
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:41:58.92
>>890
>本家の北部九州

北部九州にそんなものが在った痕跡なし!   @阿波
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:51:52.75
立地的に有利な九州からわざわざ移動する理由がないからな
逆に記紀では繰り返し西征してることが記述されてる

西征はあっても東征はありえない

東征があるとしたら、それは「敗走」に近いものだろう

九州の争いに劣勢になった勢力が東に活路を求めた
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 12:53:08.11
だから神武の旅は「宮崎から」はじまるわけだ

九州の中でも僻地の小国の王子が、東に新天地を求めた

そしてその神武の子孫たちが「西征」を行った
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:05:19.71
つまり畿内説は健康食品という名の毒を拡販しているサークルですよと
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:13:17.68
266年に、後ろ盾だった魏を失ったことは親魏倭王・台与にとって驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬燕とのパイプ役)としてヤマト王権に禅譲した方が良いと出たのかもしれんw

筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(複立男王=崇神)は箸墓を築き、日本の統一を高らかに宣言したわけだw

そして5世紀になると倭の五王(応神朝)が九州に再び西遷して、宇佐八幡宮に都して半島派兵を繰り返し広開土王碑に記録され、その後、継体朝・天垂彦(邪靡堆=阿蘇山祈祷)の倭王権は九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火し、太宰府を築いて北遷。
白村江の戦いで近江大津宮へ逃れ再び東遷し、大和にいた分家である天武と合流したのだw
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:17:00.63
松傾の逮捕はまだですかな?まだですかな?

心待ちにしております
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:29:02.25
>>899
自分が逮捕されるのを?
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:39:10.29
>>898
魏が滅亡したことで政権基盤が崩壊してしまった台与政権はついに仲間割れ体質の倭国30国連合を抑えることができなくなってしまった

そんな折、遠賀川流域や奴国ら有力国は、かねてから力をつけていた東の倭種連合に九州倭国連合から所属を鞍替えしてしまった

つまり台与の倭国30国連合は内部崩壊したのだろう
その後は東倭種による西征で各個撃破されていった
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:40:00.67
松傾って、このスレを荒らしに来てた奴だろ?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:41:38.13
スクリプト狂
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:44:11.42
筑紫邪馬台国は後ろ盾である魏の消滅 とともに、ヤマト王権に禅譲し、その初代大王「複立男王 並受中国爵命」が箸墓を築いた。

これが真相。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 13:51:24.70
>>903
つまり1がスクリプト荒らしをしてるって根も葉もない中傷を
スクリプト荒らしで大量投稿した知能無しな荒らし野郎さ
逮捕されても責任能力無しで処罰されないかもな
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:06:23.01
ヤマト王権の歴史も後のヤマト朝廷が自称したものなんだよな
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:10:33.14
陰謀史観はトンデモの証明
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:10:37.72
https://i.imgur.com/83CBq4z.jpeg

日本の新モンゴロイドは西遼河起源
漢民族、韓国人、ミャオ族に特徴的な黄河の古人の遺伝子は殆ど入ってない

https://i.imgur.com/qeLE6op.jpeg

中国の検査キット
韓国人は北方漢民族と日本人の混血という結果

https://i.imgur.com/FOYPOpJ.jpeg
混血を表す図
黄 本土日本クラスター
青 韓国クラスター
橙 北部中国クラスター
緑 南部中国クラスター
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:16:53.13
北部九州説というのは卑弥呼の都も墓も北部九州にあったという説なんだろ?
そして魏の役人である張政が伊都国には間違いなく来ているとすれば
卑弥呼の墓の径百余歩というのは魏の度量衡だ
だが、そんな墓は北部九州には無い
つまり邪馬台国は北部九州以外
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:19:04.07
>>910
それ、沿海州や満州北部、モンゴルやバイカル地方も調べましたか?

調べてませんね

データ的にアウトです
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:19:16.24
日数と径百歩だけは正確だがそれ以外の数字は信用できないとするのが畿内説
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:22:58.04
>>1
https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medical_J/laboratory/basic-med/social-science/legal-med/

https://i.imgur.com/88G3NEX.png
ゲノムワイドなSTRマーカーからみた東アジアのヒト集団の遺伝的関係(「ソウルの韓国人」は「中国人」もしくは「中国系」と分類された円の中にいます。)(名古屋大学大学院医学系研究科・医学部医学科公開データより)

遼寧省瀋陽の漢民族と完全に一致
0915日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:24:44.05
>>913
裏をとって、事実と合わなきゃ信用しない
これ、人として普通
0916日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:25:40.57
>>915
自説に都合がいい部分をピックアップしてるだけのはなし
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:29:56.80
陳寿は卑弥呼の墓に関する記録にあった殉葬百余人という文言から、その大きさを径百余歩と見積もったんだろうよ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:31:18.40
倭国の名前が阿波弁のわい・わーから来ているとすると、
邪馬臺国の本名は、粟が採れたから粟国という、たったそれだけのネーミングなんですか?
それから、鹿島神宮が藤原氏の祖神というのは、
阿波元宮が藤原氏の氏神だったということですか?
あまり常陸国と藤原氏に関係があるとは思えません。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:31:38.72
倭人曰く、民衆に大人気だった卑弥呼が死に、百余人が後を追って死んだ

とかな
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:31:51.19
ああ、藤原鎌足が常陸国出身でしたっけね
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:32:08.87
墓のサイズを表現するのに
全長ではなく短い方の辺の数字を持ってくる不自然さ
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:39:36.96
>>921
不自然だっていう理由は?
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:40:07.61
墓の大きさを書くんだったら長手方向だろうw
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:40:21.85
任那が新羅に攻め込んだということは、
神功皇后と品陀和気命の三韓征伐は嘘なんですか?
確かに、初代神武天皇は7世紀の人物ですから、
時代考証がおかしいですよね
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:41:14.51
>>916
>自説に都合がいい部分をピックアップしてるだけのはなし

だっていう証拠は?
証拠もないことばかり言い張るのが九州説
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:41:50.60
>>835
いわゆる倭奴国(漢委奴国王印の委奴国)

中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。

『北史』倭国伝
安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。
後漢安帝の時(106−125年)、また遣(使)朝貢した、これを「倭奴国」という

『隋書』倭国伝
安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國
後漢安帝の時(106−125年)、また遣使朝貢した、これを「倭奴国」という

『旧唐書』倭国・日本国伝
倭國者、古倭奴國也。
倭国とは、古の「倭奴国」なり
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:43:13.58
つまり卑弥呼の墓は箸墓じゃないってことさw
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:44:15.71
>>925
自覚がないならナチュラルボーンゴッドハンド
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:47:53.20
>>928
それ、沿海州やアムール、内モンゴルや満州北部やバイカル地方も調べましたか?

調べてませんね

データ的にアウトです
0932日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:48:32.16
>>908
エジプトでも王をぶっ殺して無関係者が王になったりする
王朝交代だけどなんか問題あるか?
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:53:18.99
しかし、神武天皇でも7世紀ということは、
それまでの日本や阿波はどうなっていたのだろう?
時代考証できますか?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:54:26.02
>>923
だから理由は?
ちなみに「オレそう思った」とか「常識だー。決まってるー」は理由じゃない
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:56:59.39
>>929
>自覚がないならナチュラルボーンゴッドハンド

「証拠もなく言い張ってます」ってお返事ありがとう
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 14:58:51.53
>>926
>中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。

そう記した中国の史書は無いようだが
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:01:33.02
有名な古田武彦「邪馬台国はなかった」をまず最初に読む→「面白かった!邪馬台国は九州に決まってるじゃん、みんな馬鹿なの」
次に安川美典の本を数冊読んだ→「凄い!あらゆることに辻褄が合ってるよ。邪馬台国東遷で決まりだな」
その後、笠井新也の論文をネットで見かける→「南を東の間違いだとするだけで全てが丸く収まるじゃないか!こうなると畿内説は揺るがないな」
このスレを読み始める→「もう何が正しいんだか、さっぱりわからない…」
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:01:54.91
>>918
倭は中国語
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:02:53.33
>>935
ほんとに自覚が無いとかヤバすぎる
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:03:59.25
安川→安本だった
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:05:08.67
>>937
>このスレを読み始める→「もう何が正しいんだか、さっぱりわからない…」

つまり、「阿波」の台頭で通説を乱されたわけだ。   @阿波
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:08:00.83
九州の何処を一ヵ月も船に乗って、一ヵ月も歩いて20万30万人の巨大都市を巡るんだよ
しかも南には狗奴国があるから九州北部に限定
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:12:14.29
>>942
その論理、おかしくない?
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:14:23.15
>>939
>ほんとに自覚が無いとかヤバすぎる

このように
徹底して理由を言わず、頑として証拠を出さない
それが九州説
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:16:09.80
>>943
説明しろって
いつも畿内説よりましと言って誤魔化してる
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:17:31.06
前も書いたけど

当時の中国の認識として
「会稽の東にあるのが倭国」という認識と
「いやいや帯方郡から東南にあるのが倭国」という2つの認識があって

そこで「その2つの倭国って実は同じ国じゃね?」という解釈も出てきたわけだ

そこで魏の使者は「2つの倭国は同じ国だ」ということを確認するために倭国にわざわざ派遣されたわけだよ

だから行程記事が南に引き伸ばされてるわけよ
目的地が会稽の東になるように結論から逆算して記事を書いてるから
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:18:35.90
畿内説よりましだから九州って事にはならないから
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:18:46.16
結論から逆算して行程を書いてるから南に引き伸ばされてるわけであって
それだけの話よ
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:20:21.67
アマテラス解体新書を読めばわかる
0950日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:20:56.10
>>948
そう決めつける理由は?
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:21:46.64
>>948
それで投馬国何処よ?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:25:50.76
>>950
南に引き伸ばされてるのは事実だろ
逆に引き伸ばされてないと思うわけ?お前は
0953日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:26:17.46
南に引き伸ばされてないってことになると邪馬台国琉球説になっちゃうだろ
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:27:04.67
これから征服したり、戦争する国に役人を行かせるのだから、入れ墨云々の脚色は仮に許されても、行程・距離・方位などの情報は何よりも重視されて記述されてあるように思うな
もちろん間違いもあるだろうが
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:28:03.60
>>952
方角を変えてるだけだろ
0956日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:28:23.47
>>955
なんのために方角を変えたんだ?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:29:04.02
>>954
いや、だとしたら「里」の距離を変えちゃダメだろ
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:30:03.08
>>954
アイヌや琉球人には最近まで入れ墨の風習あったけど
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:31:16.61
>>954
俺は魏の役人が記録したと思ってない   
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:31:33.49
韓伝と倭人伝だけ里の距離がむちゃくちゃなのはなんで?って話

結局倭人伝の距離を変えたから韓伝も変えざるを得なくなったんだろ

で、なんで倭人伝の距離がむちゃくちゃなのかというと、帯方郡の東南にある倭国がちょうど会稽の東に来るように調整しなきゃいけなかったから

無理のある調整をしたから距離がむちゃくちゃになったわけだ
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:35:10.67
>>955
方角を変えてる「だけ」っていうけど
「だけ」で済ましていいようなことじゃないだろ

意図的に方角を変えたのか、間違えたのか、お前はどっちだと思うんだ?

意図的ならどういう意図でそうしたんだ?って話になるし
間違えたのなら「そんな大きなことを間違えるなんてことがあるか?」って話になる
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:41:14.75
>>960
会稽の東がどこなのか陳寿にわかるわけない
そもそも会稽までと同じ距離を書けば良いだけ
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:48:25.72
>>962
いやわかるだろ
中国国内は里数の測定がある程度できてるんだから
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:50:36.67
>>963
だったらその距離を書けば良いだけだろ
なんで水行なんだよ?
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:52:57.87
陳寿は会稽の位置も知らねえだろ
0966日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 15:55:37.92
そもそも 淮南子・時則訓 に

「東方之極,
 自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。」

とあり、東方の極たる「倭国」は萬二千里のかなたにある(なければならない)というのが当時の知識人の共通理解だったのだよ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:01:17.04
>>966
観念的な数字って事でしょ?
俺はそう思うわ
人外の東夷は萬二千里
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:02:15.70
>>964
いやだから、里数がある程度わかってるのは中国国内の話

倭国には1回来ただけでそんなちゃんと測量してるわけでもないしザックリしかわからん

ザックリしかわからないのを良いことに南に引き伸ばした

それだけだぞ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:03:46.00
>>966
>>967
なるほど
観念的な数字というのは賛成するわ
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:04:53.04
会稽東治と邪馬台国の位置がわかってないと東にあるなんて書けない
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:05:12.63
>>969
鍋として使ったんだろ
下で火を燃やすために上げ底になってる
不思議でもなんでもない
0973日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:05:34.01
>>971
お前論理学ニガテだろ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:06:43.64
会稽から東に行けば沖縄の倭人に出くわすだろ

それで「会稽の東に倭人あり!」って大昔の歴史書に書いたわけだ

それだけだよ
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:08:44.20
>>974
絶対違うと思うわ
そもそも陳寿が考えて書いたと思ってない
0976日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:11:40.50
>>972
炊飯器な

厳密に言うと、炊飯器 兼 鍋な

当時はまだ炊飯器と鍋が未分化だった
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:12:05.89
ちなみに伊豆諸島の神津島で黒曜石が取れるからな

そして神津島は関東から南九州への交易ルートの中に位置してる

関東には最初期の前方後円墳があり、フツヌシ、タケミカヅチの神社もある

「国譲り」の舞台は本当に出雲だったのか?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:13:33.29
>其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
>男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中國 皆自稱大夫
この部分は狗奴国について書いてある箇所
そこの風習として「皆黥面文身」がある それは顔や体に入れ墨をしていること

続く>夏后少康之子封於会稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 も話題は入れ墨
>今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾
>諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差

最初は魚を脅すためだったが、後には装飾となり地方ごとに様式が違う
そのような風習を持つ狗奴国の人々が会稽東治之東に住んでいるということ
倭国には関係がない

会稽東治之東は緯度的には種子島のあたり、狗奴国は熊本のあたりなので少し南に寄っているが、
狗奴国から南西諸島が倭国以外で倭人が住んでいる倭地としているので
これは概ね的確な記述になっていると思う

狗奴国が奈良よりも東としている人々もよく考えてほしい
狗奴国は種子島とほぼ同じ緯度とするような、場所にあることを陳寿はくどいほど丁寧に記している
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:16:53.75
>>978
熊本が東なら奈良も東だから
0980◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/03/26(火) 16:17:51.81
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1711434842/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:21:24.62
>>974
>それで「会稽の東に倭人あり!」って大昔の歴史書に書いたわけだ
>それだけだよ

つまり陳寿が「その道里を計算すると」ってウソついたと
九州説はそう主張するんだね
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:23:26.78
>>981
里数はむちゃくちゃなのは事実だろ
韓伝と倭人伝は
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:23:59.04
里数が間違ってないとするならフィリピン沖縄説になってしまう
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:25:56.04
ハルキーさんも箸墓は卑弥呼の墓と形状が合わないって言ってるな。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:26:00.37
魏志で一般的に使われてる一里400メートルで計算すると対馬国の時点でおかしくなるだろ

韓伝倭人伝は里数はむちゃくちゃなのは最初から確定してる

そこを反論しようとしてくるとは驚きだな畿内説くんは
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:26:32.91
>>981
陳寿の書いてる事なんていい加減
何故そう書いたのか考えた方がいい
因みに俺は伊勢遺跡説
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:33:09.90
萬二千里は観念的な距離
でも陳寿はそれが実際の距離だと考えて合わせようとした
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:36:04.14
>>984
そういう根拠のないことを言い張るのが九州説
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:44:06.74
確かに、狗奴国(もしくは邪馬台国だとしても)という単独の国を
當在會稽東治之東と表現するのはおかしいな
説得された
自分はこれをずっと倭国を言う表現だと思い続けていた
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:45:49.37
もし畿内に邪馬台国があるなら、同じ緯度だからと言って
こんな風には書かないと思う
0991日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:51:52.06
>>937
卑弥呼時代に「邪馬台国はなかった」

つまり、卑弥呼時代は北部九州
臺與時代は西日本で畿内に邪馬台国

この考察がだいぶ浸透してきてる
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 16:58:06.93
狗奴国は、委奴国から見ての蔑称

イヌ(委奴)に対して、小さいイヌ → コイヌ → 狗奴

>漢字ペディア
狗 | 漢字一字
か行 ー く · 意味. いぬ。こいぬ。また、いやしいもののたとえ。

小日本みたいに、自国より下に見てるのがわかるよねw
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 17:06:07.67
>其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
>男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中國 皆自稱大夫

でも、仮にこの部分が狗奴国だとすると、
真ん中の 自郡至女王國 萬二千餘里 がいきなりすぎて浮いているように思える
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 17:07:06.16
>>966
>東方の極たる「倭国」は萬二千里のかなたにある

観念的な数字なら、萬二千里じゃなく、萬里でよいはず。   @阿波
0995日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 17:09:11.69
>>977
>ちなみに伊豆諸島の神津島で黒曜石が取れるからな

侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m
裸国=三宅島(またその神津島から東南)
黒歯国=御藤島   
其南とは、女王国「阿波」付近からの黒潮大蛇行による南への流れによるものだろう。   
論理的に侏儒国・裸国・黒歯国を比定できるのは「阿波」だけ。   @阿波
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 17:13:30.17
魏略曰

「女王之南、又有狗奴國、女男子為王、其官曰拘右智卑狗、不属女王也、自帶方至女國万二千餘里、其俗男子皆黥而文、聞其舊語、自謂太伯之後、昔夏后小康之子、封於會稽、断髪文身、以避蛟龍之吾、今[イ妾]人亦文身、以厭水害也。」
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 17:26:21.76
そこをトンデモに読むのが九州説
0999日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 17:27:26.17
常に通説の逆を言い張るのが九州説だよ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2024/03/26(火) 17:28:58.76
理由があろうが無かろうが京大と違うこと言わずに居られなかったのが森浩一
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 3日 0時間 19分 28秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《UPLIFT会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
4 USD/mon. から匿名でご購入いただけます。

▼ UPLIFT会員登録はこちら ▼
https://uplift.5ch.net/

▼ UPLIFTログインはこちら ▼
https://uplift.5ch.net/login
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況