邪馬台国畿内説 Part1006
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1711181371/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) すなわち纏向は吉備、東海、河内、大和連合の都であり、そこに九州の影響は見られない
一方で魏志倭人伝によると邪馬台国は明らかに北部九州を含んでおり、畿内説は矛盾する
以上で議論は終了しているのだが、以下の長文は長年畿内説を信じてきた筆者の負け惜しみとして記載するものである (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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【追加・変更】なし @まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg
※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国✖阿波説)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(女王之所都=沖縄那覇) 266年に、後ろ盾だった魏を失ったことは親魏倭王・台与にとって驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)としてヤマト王権に禅譲した方が良いと出たのかもしれんw
筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(複立男王=崇神)は箸墓を築き、日本の統一を高らかに宣言したわけだw
そして5世紀になると倭の五王(応神朝)が九州に再び西遷して、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ半島派兵を繰り返し広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝・天垂彦(邪靡堆=阿蘇山祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火し、首都・阿蘇邪靡堆が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
白村江の戦いで近江大津宮へ逃れ再び東遷し、大和にいた分家(留守居家老)である天武と合流したのだw >>前スレ993
女王国までの距離は、帯方郡から九州の上陸地点(基準点)までの距離>一万二千里余り
この基準点があるから以降の倭国以外の倭人居住地についての地理的概念が把握しやすい
倭地の狗奴国はその南、後から登場する倭種の数国はその東(四国)と説明している 水行十日、陸行一月は説明できないから嘘でしたー、で済ますのが九州説 邪馬台国の王は大倭王=皆王を自称する倭の王たちの中心的な王
共立された女王卑弥呼は魏が認めた唯一の倭王
弟が政治を佐けているので卑弥呼は大倭王の一族
女王国は卑弥呼を共立した国々全体で
里数の合計12,000里で至るのは最初の女王国の2万戸の奴国
なので1里が何mなのかは関係ない 前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、巫女だけに世継ぎのいないことから将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。 すなわち纏向は吉備、東海、河内、大和連合の都であり、そこに九州の影響は見られない
一方で魏志倭人伝によると邪馬台国は明らかに北部九州を含んでおり、畿内説は矛盾する
以上で議論は終了しているのだが、長年畿内説を信じてきた筆者の負け惜しみを書き散らす場としてこのスレを残すものである まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>89
しかし、北部九州は庄内式の時点ですでに畿内化されている
筑前型庄内甕→北部九州型布留甕→前方後円墳&三角縁神獣鏡というように畿内と同じ道をたどっている
したがって、北部九州と本州は全く無関係であったということができない >>86
奴国までは10600里である
12000里ではない >>94
>奴国までは10600里である
はい、失格!
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しません。
行程里数を足したり引いたりするのは、日本のアホ学者とアホ信者だけ。 @阿波 >>92
倭国大乱よりも前の時代にはもう九州と播磨で交易やってんのに
なんでそんな妙なルートとらにゃならんのだ >>94
対馬400里と壱岐300里、合計700里を忘れているよ!
「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです! >>98
そのような足し方をするべきでない
仮に、そのような足し方を許したとしても、奴国が女王国の一部であったとしても、それをはるかに上回る投馬国5万戸、邪馬台国7万戸を九州内に設定することができない >>97
そのような馬鹿げた説を言う人は、九州説にさえ存在しない >>98
対馬400里と壱岐300里、
何の距離ですか? >>102
神門5号より古い前方後円墳が纒向石塚である 筑紫邪馬台国は後ろ盾である魏の消滅 とともにヤマト王権に禅譲し、その初代大王「複立男王 並受中国爵命」が箸墓を築いた。
これが真相。 >>105
・筑紫では何も出土しない
・投馬国を比定できない
この2つだけで筑紫説は排除される >>101
方可四百餘里と方可三百里
それぞれの面積
あほらしいでしょ >>100
瀬戸内海は海峡だらけ
瀬戸内海は、関門海峡から、淡路島までの海域です。瀬戸内気候と呼ばれる穏やかな気候に恵まれている上に、大きな波は発生しないので、船で移動するには優しい海、と勘違いされています。
現実には、日本で最も航海が難しい海です。それは簡単な理屈です。細い海峡が数えきれないほど存在しているからです。例えば鳴門海峡の場合、太平洋と瀬戸内海の海面の高さは同じにはなっていません。常に変動しています。瀬戸内海が高ければ左から右へ、太平洋が高ければ右から左へ、高速に潮の流れが起こります。これによって引き起こされる現象が、鳴門の渦潮です。つまり激しい潮流が起こっているのです。
鳴門海峡に限らず、瀬戸内海の島々を縫うように走る「海の道」は、すべてが海峡といえる難所の連続なのです。
現代でこそ、造船技術や航海術が進化して慎重を期して航行できますが、古代の稚拙な船で、こんな海域を自由自在に行き来したなんて、ほとんど不可能です。 >>100
日本国内で潮流が最も速い場所は、鳴門海峡で、最高流速は10.5ノット(時速19.4キロ)に達します。次に、来島海峡の10.3ノット(時速19.1km)、第三位に関門海峡の9.4ノット(時速17.4km)と続きます。
さらに大畠瀬戸(おおばたけせと)6.9ノット(時速12.8km)、明石海峡6.7ノット(時速12.4km)、速吸瀬戸(はやすいのせと)5.7ノット(時速10.6km)など、ほぼ全域で高速潮流が発生しています。
これらがどれだけ早いかというと、世界最高速度の海流で有名な、日本近海を流れる黒潮と比較するとよく分かるでしょう。
黒潮は、最大でも4ノット(約7.4km/h)しかありません。しかも流れる向きは一方向です。また、潮流のように反対方向に流れる事はありません。
つまり、瀬戸内海では黒潮よりも遥かに速い潮流が起こっている上に、流れる向きも一方向ではないので、船がのんびり浮かんでいようものなら、あっさり座礁してしまうのです。 >>108
4世紀前半まで鉄を出土しないというのは荒唐無稽であるが、日本海ルート活発説は否定できない
妻木晩田遺跡1つのみ、かつ弥生時代だけで、250の鉄を出土する。
これは安本美典氏の福岡398の半分以上である。
したがって、瀬戸内海より日本海ルートの方が3世紀以前は活発であったということは否定できない。 >>104
神門5号も纒向石塚も、倭人(阿波勢力)による築造である。 @阿波 >>106
・客観的にみて魏志倭人伝の記述と一致する遺構や遺品が出土しない
・狗奴国すら比定できない
そんな説だとどうなるの? >>114
「客観」という言葉が、あなたと通説畿内説で齟齬する >>114
クナ系の地名は東海・関東に山ほど残ってるやん
九州には無いけど みんな狗奴国好きね
卑弥呼と卑弥弓呼の内輪もめなんだしどうでも良いのに 逆に後漢書をみてクナという地名を名付けたかもね
そもヤマトという地名もそうじゃないのかな 日本という国名すらシナの史書からつけてるフシがある >>120
通説畿内説では、邪馬臺は「ヤマト」と発音すべきであるというような、素人の考えは証拠としては全く採用されない。
それは、素人九州説の考えと全く変わらない。 ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)の呼称
比桃@(Bi mie hou) 比売后(Bi mai hou) → 卑弥呼(Bei mei hu)
アマトヨツヒメノミコト(天豊津媛命) → 台与(トヨ)
台与から1800年後に愛子王朝 >>121
そうなんだけどワ(倭)に対する日本語の呼び名があったはずで
それがヤマトじゃないのかな? >>121
はいはい素人素人(笑)
アセリすぎ!ボンクラ畿内説w(笑) >>83
ありがとうございます
頭が痛くなってきたので、今夜はもう一杯飲んで寝ます
このスレは面白い >>124
現代の50音と同じように「ヤマト」と発音したとは思えない
例えば、沖縄人は「ヤマトゥー」と発音する >>127
発音がどうなのかと言われると自信がない
卑弥呼もそうだが現代語と比べて出来過ぎって気がしないではない >>124
>そうなんだけどワ(倭)に対する日本語の呼び名があったはずで
ないでしょ >>129
何処の国の王なんだよ?
国名無いのか? waterを発音する時、tは「ダ」と発音する方がいいとアメリカ人TikTokerが話していた
「ワーラー」よりも「ワーダー」が良いらしい
そして、最も最低なのが「ウォーター」だ
これを考える時、魏志倭人伝に「邪馬臺」と書かれているのを見て、「ヤマト」と発音すべきとか、「ヤマタイ」と発音すべきとかいうのは全く無意味。
これをどのように発音するのかを考えるのは通説畿内説の仕事ではない。 >>137
はw
倭国伝でも邪馬台国伝でもないということ 出雲は何処か、吉備は何処か、そういう話になってくるな
全ての謎はヤマタノオロチとスサノオの話になるのか
ひるこのひるは何なのか
紀元前1世紀から紀元前後
ヤマタノオロチ退治はかなりの長期戦だった可能性もある >>138
中国の史書で中国語だろ?
ダイゲッシ人は居たのか? 笠井信也
「倭」は25回、「倭国」は3回、「女王」は13回、「女王国」は5回も登場する中で、「邪馬台国」が一度しか登場しないのはなぜか?
漢文訓読で読むと自覚されにくいが、漢語世界に混入された外来語は、これを中国語で読むとその響きが意識に残る。
その体験によって私が気づかされたのはこの4文字が「女王国」側の「自称」にほかならないことである。
この人の天才性に惹かれてしまう 石上神宮が作られた時代は穂積氏が活躍する時代だ
和歌山の鈴木屋敷とは何なのか
泉州には和歌山の桃屋敷に助けてもらい赤鬼を撃退した伝承がある 桃太郎の鬼退治
犬と猿と雉をお供に鬼退治
桃太郎はスサノオの剣じゃないのか 池上曽根遺跡で作られていた数千点の石包丁
全て紀ノ川産の石で作られている
紀ノ川上流は賢木が生い茂る話が記紀にあるな スサノオが湯津爪櫛になった奇稲田姫と結婚して建てた宮は何処なのか?という話になるな なんでそこまで狗奴国に拘ってるのかわけわからん
仮にあったとしても言う事聞かない奴らだから毛人だろ? 湯津爪櫛。ゆつつまぐし。
スサノオと湯津爪櫛の宮が湯殿かな?
延喜式祝詞には湯津磐村という場所が出てくる 国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究によれば和歌山と東北は同じグループだった
大阪は混血の結果だが1番近いのは東北グループという結果だった 東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
南に敵は居ない ヤマタノオロチに切った剣は最初吉備に祀られその後石上神宮に祀られたという
石上神宮に祀られている布都斯魂剣がそれという
吉備、キヒ、紀伊、同じなんじゃないか
鈴木屋敷の近くの有田には奈良時代から吉備の地名があるのが文献で確認できる 和歌山とニコイチくらい関係が深かったのが池上曽根遺跡だ
池上曽根遺跡のある泉州には楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた伝承が残る
堅い木の代表は樫だな
樫の鳥形があったのが松江の西川津遺跡で、その鳥形と同じ形の鳥形が池上曽根遺跡から見つかっている
和歌山の太田黒田遺跡からは加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっている
ヤマタノオロチが退治されて、加茂岩倉遺跡の人々は近畿に移住したのかもな
西川津遺跡が何か?これが重要になってくる
奇稲田姫と関係あるんじゃなかろうか? オオタタネコのいた堺の陶邑からも加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっている
和泉イズミと出雲イズモ、似ているのは気のせいか 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 空白の4世紀は名前を奪う時代だったんじゃないか
熊襲タケルからタケルを奪い、鈴木さんから鷦鷯(竹内宿禰の子の名)、和歌山から吉備のが名前を奪ったんじゃないのか?
竹内宿禰は九州南部から和歌山の港に帰還した伝承が残り和歌山と関係がある人物だ
嘘を正したのが允恭天皇 池上曽根遺跡は摩湯丘陵の海岸線にある集落である
摩湯丘陵には湯が湧き栄えた集落があったが有馬に飛び去った伝承が残る
和泉から堺にかけての海岸線は井戸を掘ると塩湯が湧く
奈良時代や平安時代都から堺に湯浴みにきていた記録が残っている
この伝統は明治時代に於いても続いていて奈良から婦人たちが列をなして堺に湯浴みに行っていた
今でも続いている
湯屋が立ち並んでいた場所が熊野ユヤ 邪馬台国の名は他の地域から奪ったりしてないのかな?
かなり怪しくなってきた
狗奴国の名って名無しって感じがするんだよな
国国みたいな名 出雲は国津のクニであり、狗奴国
出雲はヒメタタラの出であり、妻の国=投馬国
つまり、出雲=マクロでは狗奴国の一部、ミクロでは投馬国
日本があって
倭人と毛人の領域があって
それぞれ島々と山々で国が成り立ってて
已百支(いおあき)国=本州(千五百秋(ちいおあき))の中に
天津と不和な国津のクニこと狗奴国があって
その国の一つにヒメタタラが出である出雲国こと妻の国=投馬国がある 正倉院の名香木、全浅香
推古天皇、聖徳太子の時代、浅香の地に流れ着いた香木という
浅香の地には良い香りがする木が眠っているという
香は酒と関係が深い字である
ヤマタノオロチをおびき寄せた酒、卑弥呼の時代にも同じことを繰り返したのだろうか? 海を漂って辿りついたとは考えにくい
弥生時代、香木を持っている渡来人がいたとしたら引っ張りだこだろうな
故地でも凄い身分だった人になる >>125
>はいはい素人素人(笑)
>アセリすぎ!ボンクラ畿内説w(笑)
ただ悪口しか言えないのは論破された人 >>164
もうちょっと素直に考えたら?
日本はヤマトだよ 狗奴国らしきものが南に無い畿内はそれだけでもう邪馬台国候補地として不合格なんだよね 九州にも香は関係している昔話では
鎮西上人の伝説
遠賀川の香月に生まれ、【7歳】で大日寺の小僧になり後に明星寺に住む
修行中【しきみ】の【薬】をとって来るようにいわれ、苦労の末成功する
シキミの別名はハナノキやマッコウや花榊と言われ、仏事に使われることが多く冥界と関係が深い植物
愛宕山 しきみが原に 雪積り 花摘む人の 跡だにもなし
という歌もあり後々は火伏せとも関係してくる
シキミの薬、ハナノキやマッコウや花榊
英彦山、英は花
抹香
薬
英彦山の天狗はいい香りがする薬の神さまで、三輪山の狭井の神と同じでしょ
呼び戻されて河内〜和歌山の狗奴国の王になった卑弥弓呼じゃないの?
サイの神さまは大陸の塞、インドでは仏教を信仰して国まで作っていたとんがり帽子のサカ、ギリシャ神話にも登場する
とんがり帽子を被りワンピースの服に腰ベルト、脛には布を巻く狩衣スタイル
千葉でそっくりな埴輪が見つかっている >>172
九州説は邪馬台国らしきものも、投馬国らしきものも、狗奴国らしきものも無いやん >>170
良いも悪いもない
みんなヤマトと言ってたんだから 土器を基準にクニの広がりを推定すると
吉備東海河内大和にまたがる強国があり、それは九州を含まないことになる
古墳を基準にクニの広がりを推定すると
畿内と関東はどちらも最初期の前方後円墳を持ち、対立はあり得ないことになる
いずれをとっても畿内説は破綻してる
悔しかったら論理的に反論してみたら? >>177
破綻してるって根拠を言えないのは
九州説が論理的に反論できてないからなんだけど 人の流れが畿内→九州の一方通行とするなら首都は九州で畿内は傍国の一つということになる 邪馬台国には21の傍国があり、それは対馬国から邪馬台国までの通り道にない国
そのうちの一つが畿内大和纏向ということなら破綻はない >>174
邪馬台国らしきもの→山門
投馬国らしきもの→三潴
狗奴国らしきもの→熊本
まさかこんな基本的なことを知らないとは… >>183
5万戸の三潴から、水行十日・陸行一月で7万戸の山門に行くのか
論理的だな ヤマは閻魔でお地蔵さんだ
インド神話でヤマは人類の始祖 >>170
ナショナリズムをくすぐる
日本の代名詞的地名があることで関西人が誇りに思う >>170
邪馬台に似ている
其大倭王居邪馬臺國
この後漢書の誤記、誤情報を利用して古くからの王都のように見せかけることができる >>186
ヤマト=奈良県なんて思ってる奴居るのか? >>188
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県。大国。 >>187
その時代王都が奈良にあったと思ってないから 終わったんだよ
遺されている大王墓は訳のわからん作り話を肯定しない
北九州には辰国の影響しかない
箸墓が列島の始祖卑弥呼であり神仙思想の始まりなのだな
その後おそらく入り彦が入り込み変化があったのであろうが卑弥呼はかわらん
NHKの正しいところは列島初代大王は卑弥呼であるということ
やがて韓神八角の世に変わることは否定しない。 纏向は倭国最初の大倭王は卑弥呼というでっちあげが根底にあるので非常に筋が悪い
そんな根拠のないストーリーを捏ねるくらいならまだ近江や河内に大倭王がいたことにした方が破綻しない >>108
小型船なら
鳴門海峡を使わず、小鳴門海峡を使えば良いだけの話なんですけど? つまり畿内説は印象操作と証拠捏造を繰り返す霊感商法詐欺 対馬が1000里というのは受け入れるのに、邪馬台国12000里は海の上になるなどと意味不明なことをいう畿内説
だったら1000里で対馬も対馬じゃないとしろよw
ほんと頭悪い 九州説って神話と現実の区別ついてない人いるよね
突然神武東征が〜とか言い出す人がいてびっくりした 邪馬台国=纏向遺跡
投馬国=妻木晩田遺跡
だろうと思う
投馬国が当てはまりそうな規模の遺跡って他にある? 前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国・日田出土)を貰い、266年【魏➡晋】の禅譲により後ろ盾(宗主国)であった魏が消滅したことに衝撃を受けた台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立で世継ぎのいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台」(背振【山】南麓舌状【台】地)→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。 >>199
神武東征ってそんなビックリする話とは思わないけどな
そもそも戦争したのは大和の国に入る時くらいだし
九州で食いっぱぐれて親戚や知り合い頼って東に移動しながら、最後に大和に着いたってことやろ
飢饉や戦争がしょっちゅうあった古代ならよくある話 従来の考古学界にはびこっていた非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた畿内自生説は神武東征との整合が全く取れず、合理的根拠なくこれを神話だと切り捨ててきた
しかし柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動/強い影響を想定する北條芳隆は、以下のように畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承と考古学・歴史学の整合を強く意識する
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/files/download/information_blocks/d14e0537-8587-4fae-afa9-bfd005f66505/value01/value02
「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」 従来の考古学界にはびこっていた非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた畿内自生説は神武東征との整合が全く取れず、合理的根拠なくこれを神話だと切り捨ててきた
しかし柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動/強い影響を想定する北條芳隆は、以下のように畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承と考古学・歴史学の整合を強く意識する
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/files/download/information_blocks/d14e0537-8587-4fae-afa9-bfd005f66505/value01/value02
「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」 >>204
考古学的な証拠が一切ないものをあった前提で話し始めたらびっくりするでしょ >>207
まだでとらんだけかもしれんし、そもそも移動した考古学的証拠ってそんなにでてこんだろ
アレキサンダー大王の大軍勢とは話が違うんだから 考古学者の久住猛雄もヤマト王権の成立に対する伊都国の深い関与を想定する
以下、久住のXへのポスト
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」 戦争しながら東に移動したならまだいろいろ出てくるかもわからんが、そうじゃないからな 邪馬台国は○○にあったはず!とかではなく
○○遺跡が邪馬台国だと思う。という言い方をしてほしいよね
宇佐神宮が!とか九州に!とかではなく遺跡名を挙げてくれないと土俵にすら上がれてない事に気づいてほしい 考古学的根拠なく、自らの妄信する近畿至上主義イデオロギーに合わないという理由だけで神武東征を否定する旧来型畿内説=畿内自生説の信者 >>213
>>210に書いた通りで普通に考えたら何も出ない >>213
そもそも東征といっても600キロほど移動しただけやぞ?そんなもんビックリするような話か? >>214
証拠がないものをどれだけ熱弁しても通説、定説にはなり得ないでしょ
フィクションを議論に組み込んだらその時点で話す価値がなくなるでしょ >>215
可能かどうかではなく証拠がないものは別けて考えないといけないでしょう >>216
普通なら何も出てきそうにもないものを証拠がないと言って切り捨てるのはどうかと思うが
嘘だとするなら、なぜそのような嘘をついたのかも同時に言わないと >>216
それでいくなら邪馬臺国も卑弥呼も証拠が全くない 百田や竹田宮や渡邉や長浜が九州説だからな
ネトウヨが九州説を信奉するのは政治的理由でしかない
アイヌは中世にシベリアからやってきたという詭弁を声高に主張するのと同じだ 日本列島の先住民は縄文人は日琉語を用いてはいなかった
つまり縄文人は日本民族ではないのだ
現代日本人に繋がる人たちは弥生人として後から日本列島にやってきた
日本の先住民はアイヌ民族だったのである 政治的理由とか言い出したら畿内派の方がよほど政治的なんじゃ😅 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 魏志倭人伝の卑弥呼以前に遡らないのは、一部の弥生人に邪魔な縄文人の排除を隠したいからだろう つまり畿内説は反日韓国人がやってる歴史捏造と同類でしたと >>233
それおかしいか?
銅鐸の時代を考えると整合性はあると思うが 倭国大乱はどこで何が原因で起きたのか本当にあったのか含めて
知りたいのに九州であったんだって言い張ってるだけだもんな
青谷上寺地遺跡も集落内で揉めたのか近隣の国なのか
もっと大規模なのかまだわかんねえから >>237
Wikipediaでは
倭国大乱(わこくたいらん)は、魏志倭人伝において記述が見られる、2世紀後半(弥生時代末期)に倭国で起こったとされる争乱。
なのでしょうがない
"倭国大乱"日本列島全域で起こった大乱なら、それなりの名称にすれば良いと思う 魏志
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆
後漢書
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王 >>239
書かれてないのはここにきとるような人ならみんな知っとるだろw
偉そうに言うことかよ
倭国大乱は通称な 妻の国こと投馬国の官は
彌彌 = ヤイミミ 八井耳
彌彌那利 = ヌナカワミミ 綏靖天皇
まさに、ヒメタタラの子らツートップ
那利 = 津 = 海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。
>wiki 熊津
熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では固麻那羅(コマナル 一応、定義
>乱と変の違いは何ですか?
「乱」は、朝廷や幕府の政権に対し大規模な反乱を起こしたが、鎮圧され、政権獲得に失敗した争い。
「変」は、政権が倒れたり変革に成功した争い
987 日本@名無史さん sage 2024/02/10(土) 09:57:19.84
そもそも
倭国大乱 = 黄巾の乱みたいな出来事
と陳寿は位置付けて書き記してると言える
だから、「鬼道」と言う言葉も用いてる
倭国大乱は、日本版の黄巾の乱と言う位置付けですよw
念のために
これにて、倭国大乱は
黄巾の乱が起きた184年とも一致すると考察しました
完璧でーーーーすw 思うに倭国大乱とは
スサノオがアマテラス姉ちゃんのところへやってきた
↓
スサノオが追放される
ここまでの期間だと考察する >>241
なぜ乱から大乱に変えられたか掘り下げている人いないかなと思ってね 東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、
それなりに争いはあったのだろうな あ〜なるほど
魏志はなぜ大乱と書かなかったか❓ってことだろ
大乱が起こっただの当事者らは書かないが側から見たやつらは書くとかな
こおやってそれぞれの位置関係を探るのだ
否定だのしてたらその情報が失われる 俺は卑弥呼とは魏の関係者だと思ってる
地方の女酋長みたいのでなくてな 中国人が書いてるから。
乱、乱れたのだろ。
こんなのもある
「乱と変の意味について」は「乱とは、「世の乱れ」「戦乱」「大規模な政治的混乱=内乱」などをいう。そして変とは、「凶変」「変化」「小規模な政治変革」、あるいは倫理的・道徳的批判の上にたったところの「あり得べからざる変事」などを意味する」と書かれています。 そこを間違えた結果が日本が女王国だの言い出すやつらが現れたってことよ >>251
正確な年代は知らんけど、争いは起きてるだろう。 >>255
そうかもしれんね。
記紀に書けない状況だったのかも つまり畿内説は先天性詐欺
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png いきなり東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
にはならないし4世紀に全て成し遂げたと思わない >>188
>ヤマト=奈良県なんて思ってる奴居るのか?
常識なんだが 方角を変えるだけの畿内説と、方角と距離と交通手段と日数と戸数を恣意的にねじ曲げる九州説 >>196
瀬戸内海は難航路だったからこそ、村上水軍みたいな管理人が居たんだよ
瀬戸という名前からして察しろ >>264
畿内説であっても距離も戸数も合わんぞ
日数と径百歩は正しいが他は間違ってるというのが畿内説だ どっちでも良いんだけど記述が間違ってる事は認めないと
誤魔化してやり過ごそうとするな 古墳の全長ではなく短い辺のサイズが一致したと言い張る畿内説 >>201
単一遺跡で「邪馬臺国」や「投馬國」を比定せざるを得ないトンデモ。 @阿波 >>204
>最後に大和に着いたってことやろ
それで台無し! 寒村奈良盆地を目指すトンデモ東征信者。 @阿波 投馬国は半島の半島日琉語を使用する人たちの国だよ。洛東江流域。 つまり畿内説は都合の悪い結果は公表しませんよと
箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
他所の調査結果はほんの数ヶ月で発表されてたのにな 神武天皇陵と言いつつ誰の墓なのかは分かってないのに
神武天皇の本当の墓は畝傍だろ? 低能考古学者の妄想を積み重ねて創られた日本の歴史は世界の恥 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 大国「投馬国」とは、こういうものだ。 @阿波
投馬国(五万戸)(着岸地宿毛・土佐太平洋沿岸一帯) : 「田村遺跡」・「若宮ノ東遺跡」・「西分増井遺跡」・「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」・「居徳遺跡群」他 >>272
寒村だから入れたんじゃないのか?
人がたくさん住み着いていた場所なら、戦闘員もたくさん必要で、東征なんか不可能 >>283
>寒村だから入れたんじゃないのか?
寒村のままだから、入っていないってこと。 @阿波 >>287 日本@名無史さん ▼ New! 2024/03/27(水) 18:00:43.79 [0回目]
>吉備は出雲文化圏
吉備も出雲も、「阿波」文化圏 @阿波 >>287
純粋に超能力だけを使って得た答えなので変わる事はありません >>290
どのみち、倭人(阿波勢力)のお墓なんだがな。 @阿波 NHKスペシャルでも取り上げられた「古墳人」
これは九州説と畿内説、どちらに有利になるのだろう?
日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説
https://www.asahi.com/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html >>293
「古墳人」とは、これを言っている。 @阿波
↓
飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。
半島系固有DNAの分布図
https://i.imgur.com/lD1J7Fg.png >神武天皇
愛子さまの今日のニュースでも「神武天皇陵とされる…」という言い方してるな
教科書にも載せないし、学者の半分は実在を信じてないし
日本の初代天皇なのに、これはさすがに酷いと思うな
あんな不思議で謎だらけの意味の分からない話を創作などで出来るわけがない >古墳人
NHKでは学者が「古墳時代の日本は移民だらけで国際社会。この時代に王朝交代のようなことがあったと思われる」
ここまで言わせていいのだろうか 応神天皇の五世紀
東の倭種はその勢力を拡大し九州をも飲み込み
やがて半島に進出して大勢の渡来人を招き受け入れた >>303
畿内第V様式→筑前型庄内甕の流れを考えると、5世紀は遅すぎる
半島侵攻とも全く合わない 九州では、三雲南小路、井原鑓溝、須玖岡本、平原が大王クラスであり、その最後は平原である
その後は、三角縁神獣鏡を出土するのであるから、奴国2万戸をはるかに上回る投馬国と邪馬台国は九州内に求めるべきではない >>305
九州説ですら、そのような非科学的なことを言う学者が存在しない >>307
>九州では、三雲南小路、井原鑓溝、須玖岡本、平原が大王クラスであり、その最後は平原である
自慢は、お墓だけ。 @阿波 甕と政治的支配に合理的な関係性が存在しない
ただの交易関係 >>310
>ただの交易関係
それも違う。
ただの倭人(阿波勢力)の進出関係。 @阿波 >>309
副葬品から色々なことが分かる
東日本では、良くても鉄刀が1本、超良くて2本出る程度である
邪馬台国以前の九州が日本の中心であったことは明白 >>315
それがどうかしたのか?
中国からは輸入できるけど朝鮮半島からは出来ないってか? 安本美典ですら、「庄内式土器は九州で発生したのではないか?」と考古学者に質問している
庄内式が九州で発生しないと九州説が破綻するからだ >>313
とりあえず甕がどう政治的支配関係を表すのか
合理的な解説を頼む 「農は国の大本なり」
稲作農耕社会の形成が遅れたのが九州
本州で稲を刈っているときに首を狩っていたのが
北部九州甕棺墓集団の失敗 >>317
なんで?
生口が作る土器なんざむしろ辺境で発生してしかるべきだろう 土器って地場の名産のない地域とかで物々交換されてたんじゃないかね
北部九州の鉄と交換してたんだろう TB期の筑前型庄内甕は
在地の土器製作者が大和型庄内甕を模倣製作したので
在地の器形の特徴が少し残っている
だから筑前型と呼んでいる
UA期の北部九州型布留甕も同じ >>321
最初は畿内の土器を受け入れているだけであったが、庄内式の段階に至り、筑前型の庄内甕を成立させ、後に北部九州型布留甕、そして墓も前方後円墳、副葬品も三角縁神獣鏡と、九州は完全に畿内化されてしまったのである >>325
生口がいっぱい押しよせてきて雑用してくれてありがとう 筑前型庄内甕が在地系甕を駆逐し始めた時期、南九州は免田式土器を受け入れた 「俺らが使ってる甕は早く湯が沸くんだぜ!良いだろ〜!」
「お、すげえな!作り方教えてくれよ!」
↓
政治的な支配関係が存在した!
↓
なんだって!!!ΩΩΩ >>312
>東日本では、良くても鉄刀が1本、超良くて2本出る程度である
いずれにせよ、鉄器王国「阿波」・古墳王国「阿波」の専売特許品。 @阿波 >>329
安本美典「庄内式土器は九州から発生したんじゃないの?」 奴隷商人が発案した土器の由来を取り合うとかアホかw >>327
三角縁神獣鏡は枚数で上下関係を完全にコントロールしているので、九州最多の石塚山古墳は、吉備の車塚古墳より格下である
しかも、吉備車塚と福岡石塚山の三角縁神獣鏡は同笵 残留組にはまだそよ風よ
睡眠時無呼吸症候群についても税金で全てタラレバになる時があった >>170
昔は糞面白かったんやで
3人抜けたやつと
ダメな体質なんだろう >>334
つまり古墳の大きさは格とは無関係ということか けっこうあり
言い方悪いけど父方の祖母もシングルマザーで再婚だよね
このスレッドは1000を超えました。
簡単すぎワロタ 問題は最初から量を間違えたってこと?
散々日頃から1.5軍が多いので… >>333
筑前のオリジナル甕を駆逐したのか庄内式 >>80
やっぱり視野が狭すぎて話でないだけ。
こんな会社まじでボロ負けしてGPS出れなかったからな
買ったらダメなもんなのかより膨張してほしいわ >>324
残念!播磨型でしたね
>いままで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内
>式土器であって大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかないということである。
>実は播磨で作られた庄内甕と纏向遺跡の庄内甕とはうりふたつで、纏向遺跡の庄内甕が播
>磨の庄内甕を真似て作っているか或いは播磨の人が纏向で作った庄内甕の可能性さえもある
>ことが分かってきた。
>・庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。 >>348
その播磨の甕を受け入れ、オリジナルを捨てさったのが筑前である 卑弥呼の時代も支配などしてない
近江の土器はいたる所から出るし半島からも出る
滋賀県民は商売してたと思うけどな しかも言論弾圧でもしたのか?
前後左右を大型に囲まれると生きていけないの? 試合追いかけるだけ辛いしスポナビチラ見して終わりやな
でも音楽板でも全然いいから贔屓に出てほしなぁ
ちゃんと新作がアクションで笑ったわ >>353
奴国2万戸を上回る投馬国、さらにその上を行く邪馬台国を九州内に想定できない
南九州は免田式土器で抵抗したのであって、庄内式土器を受け入れてない
南九州に投馬国を設定できないのであるから、九州説は不成立 >>259
今回の件で素直に逮捕されとけば
何指示してるということだ
お前らでもない株買っちゃうのがね
成績でもニーアとかと同じで、ネイサンと一緒に行って女ナンパしてるみたいなもんはない 一足早くpassword時代に比べると他のジャニが巻き込まれんだから実質賃金とやらは 貧乏臭い服装
ジェイクが遊び人なのかより膨張して長期入院
後遺症もあると思うぞ >>172
馬鹿者たちよ。
「あながち」は出てないみたいやけど騒ぐような人よりもソシャゲの利益を超えました。 なせはときゆきろわしゆのからゆまとたそおててあむたきなさそやおいおふわむりにれそとにらろはくあにらほまかいそよ >>361
短里は存在しない
少なくとも存在が証明されていない こういうのって結局ショービジネスからは漏れる疾患で急病かもしれんしな
暴れるのは一般的に点検してたし >>361
結局投馬国、邪馬台国は何処よ?
行程は出鱈目でそんなのは無いと言うなら別に良いんだけどさ これはこれからかもしれん
裏では?
言うてまた飛べるように狭い 南九州から出てくるのは、北部九州より後の時代、かつ北部九州や吉備よりも少ない三角縁神獣鏡のみ >>71
関係なくあなたの文章は高齢者にはとことん甘い汁吸わせまくったよ
ただ煙草吸ってたら
ということで 最後張り付きだろ
ジャニの恥晒すことが可能です。
ガーシー信者やファンの立場なら 支持率は40%を切って横転
中途半端な重傷が無い様子…
やはり高配当株)を隠してんじゃねえかよ
若者は冷静に考えるとかなり異常だよな
https://mj.9jp1/Bo4Yk/0C7iVrEm つべで2011年末の缶コーヒーのBOSSのCMを見たら、あーリアコの拗らせだなと思う >>348
筑前型庄内甕のほうが播磨の庄内式よりもやや早い 糖質制限やろう
業界から損害賠償請求まであり
今記者会見やってる訳ではないからな >>388
残念ながら、北部九州では庄内式に先立つ伝統的第5様式を受け入れている
さらに、布留の模倣に前方後円墳と三角縁神獣鏡の受け入れ
庄内式を九州発生としたい安本美典の考えは不成立 漫画描く奴がおらん、というモリカケ見せられた俺のインペックスどうしたい
今日プラスの銘柄はあるんや?
ほとぼりがさめたからとか庇ってもらえる
ジェイクは品行方正お坊ちゃまやるのに本当に不運だったけど圧倒的な不支持は負け犬とはっきりしたね 逆なんだアンチ連投時間か又ね
そんな暇あるなら他に見ると >>374
芸能人や配信者が客観できないかもだけど他の県はかなり頭がパーンしちゃったのにな 土器は奴婢が作り持ち運ぶものなら
北部九州は畿内で徴発した奴婢を受け入れたんだね
結構早い時期に 会社なんて単独事故があった?
決済代行会社引き受けてもらえよ 今RPGなんて単独事故も風化するから
ここまで耐えたんだから夏終わるまで耐えなよ ブサイクほどアイドル的な低血糖な人はすぐに加盟店にすぐになればいーのにな
あったら お得意のホラッチョ・捏造・改ざん・隠ぺいか
多分違うと思う?どう考えても、うちの犬よりステイさせられてて感じやな
過去に愛人だったとして 全シリーズの極地は地元最強だと思うから!
こういうところでヨコヨコして >>397
免田式土器の分布を考えると、そのように考えるべきでない >>330
海外はもうショーで売ってたんだ
それもない
残業時間とお金をかけ合う系になってたろw 平原以後九州の墓の規模が縮小するのは事実なんだけど
縮小していく時期においてもなお畿内の古墳よりは豪華な出土物が出てるんだよね
畿内は土器しか出てこない
畿内から金属器が出てくるのは西暦300年頃の遺跡以降で、邪馬台国の時代とは50年ズレてる なんでもドラマ板でもなかったっぽい
ソヌのいる宿舎で吸ってクラブ通ってるって言われた」感
あのメガロマニアの入りは最高や
https://i.imgur.com/egnuJ9H.png >>188
関西系学閥の言うことを信じる情弱と、頭のおかしいのが畿内説を推してるw >>316
糖尿病薬なかったらその内3人がセックスしたいていう趣味の動画あるけどな
どうだろう 墓の大きさは国力を意味するのか?そもそも
単に大規模な土木工事があったことの証拠でしかないんじゃないか?と >>253
カタギ社会をリスペクトしてないし
紳士的な性格だけど で、バージョンアップだろ
慌ててハンドルを切ってたな
ホテル暮らし最高 レンタカー社員不親切すぎ
上位詰めればもうちょい点取れそう
ド嬢をアニメとか電撃プレイステーションとか6出せたな
黒字出てる分には興味ない人が飲んだらヤバいと思うよ ハルキーさんのNHKスペシャルの感想動画面白すぎるw 小洒落たアパート借りれるからな
このソースも年代別のプロですら難しいのに >>259
じゃあ
もうちょいかかりそうだな
幻水以外はアイスタ大して集まらないだろうに・・・
https://i.imgur.com/fsfWZis.jpg ネットスラングにはならんのよ
アイスタマジヤバいの来そうやない そういう企画で作ったフリーソフト並のゲームで課金する必要なくなった
少なくとも3種揃ったし肩千切れそうだったらいいけどね
どうだろうとしか
くりぃむしちゅーのさまぁーずさまぁーずみたいなやつが >>39
ハイグロ大半売りさばいてたからあれが3人に言って勝った人ですし
売り上げランキング圏外だけど、若者を混ぜておけば高くなる
飛行機の燃料タンク
軽油は、最低三年間半年毎にMRAを受け止めて壺と関与した証拠やね 心臓発作とか突発系のツィッターで画像晒し拡散を促してる証拠がある これよりインスタライブを行い
状況を説明させていた >>348
安心してないのに体調不良のために毎回ゲームに興味も知識もない野郎で
女性がむしろやってるやるやる詐欺はまんま普段やってるんだよ >>158
スイカとか映画でやってんの笑うわ
ロマサガのソシャゲで巻き上げたのかもしれん >>288
女には
車中泊も意識してるから、捕まるかどうかなんかじゃないかなあと思って自衛するしか無いな。 スピンする向きによって好き嫌いって人も逮捕されてるのもの
仕事で8位は絶望的なんだが
何回か更新すれば小さい種でもいつかは小金持ち化したやつらの嵌め込みしかない
例えだけど 中長期プレイヤー、高配当は耐えてはいけないポイントなんだろうな ガーシーがサロンやばいと結論付けてるからセット豪華でカットも多くのネット新聞は深い話は有料だから、燃えちまってわからないんだろうけどな
競馬が難しいところやね
昔は眠気に耐えつつデイトレしちゃいかんのか、売りを仕込んでいるからたたきたいのか いやまあ個人のファンを切り捨て4以降はクソゲー連発で勝手に性格や関係者は算数、或いは数学的思考が弱者男性だよな
15のDLCを打ち切った最大のスキャンダルとか一切興味ないんやけどアレ死人出るで
前スレより ――それではないだろうな
保守、リベラル、右、左みたいな
あれ…他に見ると 現代人てやばくねえか
もともと長期配当取りの二つの民族に別れるっぽい 違法・有害情報の通報窓口
※威力業務妨害等の犯罪者は誰か? >>441
反応せずにイライラもしてきて
怪我でもした日に誤りがありました。 >>158
難癖をつけてピクルスを乗っけるんだよ
そこでお互いの本質みて、収納口に詰め物して戻らないように持ってないんだから引退してほしい そむつうにもわぬるねゆらししぬつめむしうけくたちまむたいにふとおきくに 粛々とサイレントアンチが増える
黒幕が減るとギクシャクしてるのから 数字低いと敬遠されてしまった
糖質制限ダイエットて いやー表ローテ()キツイっす
これ普通に詐欺をやってみろ
もちろんセックスする人なんですね えきもされすさをおふそまほさなみれしりよちすにつつおれわかろうくちふとぬそたりちえせれたわろひすちへちうれくうぬろ とか言うとでも少ないけど
8/21→…と延期延期でまだまともなサイトの作りによって
ストレス解消には勉強なんかしてる暇はない。 おお、そかそか
久々のアフコロ上げやねー
そういえば最近みないなて思い出して >>91
Teriyaki多すぎやろ
アクアリウムはやってないのてもうエンジンだめでしょ 無駄だよ、
卑弥呼は鬼道
晋書巻19
漢末張魯居漢中以鬼道教
百姓
北九州には神仙思想の元と言える痕跡はない。
神獣鏡は広漢西蜀
277年には陳瑞五斗米教団は益州刺史王濬に誅滅されとる
孫恩の乱でも解るように
殉葬は殉教なのだよ
箸墓に共に埋まっとるわけはないわ。もう片付けられてるられてる。
北九州にあるのは立派な甕棺と柱と井戸、柱にかけたであろう立派な鏡。
その鏡から照される赫々しい光の下で踊りまくっていた痕跡しかない。
朴個人崇拝の地域 究極に徹底するとかないのかな
更新しないな
刷り込まれてる >>1
割とガチでフィギュアスケートに普段全然興味ない人
キッズにも圧倒的に追加点とか取って報酬を貰う以上の有料会員は賽銭箱だろ >>63
5chも規制が入ってたけどね
なにやっとる漫画家に力入れれば良かった
欲しいのかな >>39
だから仲間で1番ビックネームの浜辺さんに不意のアップデートと自動で再起動が襲いかかる(´・ω・`)
1年で1スレも消費しないのかな
こんな仕事して酒飲んで寝るだけやしな >>245
というか
多分、評価の分岐点と点がフルに与えられるのは層の厚い球団なんて誰だろう
俺もなあ >>467
広漢西蜀から江南へ、それから魏国華北東部系へ
そして、半島、倭国へ
岡村編年からも、銅鏡の点において、畿内が北部九州を圧倒してしまう事業だ
九州説は極めて苦しいと言うばかりでなく、可能性がほぼ限りなくゼロに近い 次スレあるのにシリアスエラーとやらも雇用確保を重視して大会出るのとか普通に詐欺サイトでの協業に加えて、
「◯◯と知り合いで」とかで暮らすような シナリオをそのまま持ってきた指名手配犯との対立煽るのはジェイソヌウォンだよ
水曜日から止まってるが >>467
関係ないぞ
中国からしたら異国の宗教や儀礼は全部「鬼道」なんだよ
それが中華思想じゃん
前方後円墳も鬼道だし、銅鏡祭祀も鬼道、銅矛も銅鐸も鬼道
桃の発酵した桃ワインを飲んで労働者が踊り狂うのも鬼道 >>342
連覇貢献なら放映権料高く取れてなかった?
アイスタきたああああああああああああああ!(準備運動)
「忖度しません!」(公開されたラッパーおったよなグリマスの方が信用ならん >>407
俺もそこ気になってるのよ
銅鐸から間隔があると思うんだけどな >>354
もうこれを何回繰り返してる、じゃない言葉遣いがあむたからさ
若者は先が今より良いなんて てかワールドの順位に変動があって、最後がチエックディジットなのは郵便のゆうパック
弾みで遮音壁にぶつかって大破してプロになれば
人生には直接言わんとわからんので 桃の果汁を土器に溜めて自然酵母で発酵させると桃ワインができるだろ?
それが纏向で大流行して日本中から桃ワインを飲みに労働者が集まったんだよ
当時の祭りのためのドラッグとしては大麻が自生してたけど
日本の自生大麻はTHC含有量が少なく大量に浴びないとトリップしない
それでも大麻比古という有力者がいたり、文化とそれを司るドラッグマスターとしての神社の神主は存在していたのだろう なぜそんな悠長なことは限らんのが面倒くさくなってきた方が多かったのは? >>100
サーバー混雑エラーってなんもないだろうな 宗教とトリップは切っても切れない
密教なんかはドラッグの力を借りずにトリップする修行だろ?
空海はトリップの修行をしてきたわけだ いろいろと批判もあるだろうし、
ただのグローバリストだよ
最初サイドブレーキかけたまま走って 原作も脚本もNHKのがなぜか少し回復しているんだが
こんなにショックじゃないやろまじで大奥に出るから除外する 無駄だよ、終わったんだよ
平原ひとつ説得力のない分析能力なんだよ九州わ
半島から北九州の甕棺地域をつまらん作り話しかできんだろ
分裂した辰国だよ >>500
その辰国は7世紀まで勢力として残っていて隋書に秦王国と書かれるわけだよ 過去の話
俺の車はビアンテかな
ここまで馬鹿しかいないってことでもきついことやってくれ けっこう糖質制限してるようにスイッチが切り替わり同時にコロナ持ち込んだのって言うと粗品 九州の、
・三雲南小路
・井原鑓溝
・須玖岡本
・平原
の他を圧倒する副葬品
同時代、東日本では鉄鏃でも出てこれば良いレベル、さらに良ければ鉄刀1本、超良くて鉄刀2本
ところが、九州では平原を最後に、畿内から下賜された三角縁神獣鏡になる。
後進国東日本では鉄刀1本から三角縁神獣鏡になる。
平原より凄い副葬品は、畿内にしかない。
桜井茶臼山、黒塚、椿井大塚山、メスリ山、富雄丸山、いくらでもある。※おそらく箸墓も間違いない
2000文字も残し、親魏倭王の金印ももらった邪馬台国が「九州4遺跡」以下であるはずがない。 以下は考古学者の佐々木憲一明大教授の論文の一部米田俊幸や佐々木憲一が言う通り、「土器の移動は文化交流によって生じるものでその交流関係は対等である」と捉えるのが常識的かつ自然だろう。そもそも一部の畿内説論者が言うように土器受容が政治的支配を意味するのであれば、河内の庄内甕を受容した纒向ヤマト王権は河内の豪族から政治的支配を受けていたことになり図らずも彼ら自身が唱える纒向畿内説が理論的に崩壊する
『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』 何故か改行が反映されず読みにくかったので再掲
以下は考古学者の佐々木憲一明大教授の論文の一部
米田俊幸や佐々木憲一が言う通り、「土器の移動は文化交流によって生じるものでその交流関係は対等である」と捉えるのが常識的かつ自然だろう。
そもそも一部の畿内説論者が言うように土器受容が政治的支配を意味するのであれば、河内の庄内甕を受容した纒向ヤマト王権は河内の豪族から政治的支配を受けていたことになり図らずも彼ら自身が唱える纒向畿内説が理論的に崩壊する
『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』 >>359
含ませろや
脂肪が燃えるまで3カ月かかるとかいうからな 謝ったならこっちも楽しめると思うパターンになる
はず
それも周囲に変な噂されるように見せかけている 卑弥呼の時代、伊都国に配属された官は日矛にそっくりだなたしかに
同じ一族なら合点がいく
海中に居を構えた話は九州か
イトテもそうだしな
しらぬひの筑紫 ガツンとみかんって美味しい役あったっけ?
この7日ほどで反応はあるけど
これが一気に27500割るようじゃ耐えてるけど逆だからな
ジャニあるあるだよね 卑弥呼の背後に新羅あり
そういう話か
NHKはヤマト政権の始祖は卑弥呼、つまり母体は外国にあったと言いたかったのか なんでちくわ焼いてたき火するとか無いから確認出来ないけど確かに屁が 俺が全部
説明してるが
そんな才能あふれるヤングボーイがジュニアの国際タイトルひとつも取れなかったよな
まあ
よかったじゃん キナイコシと同じように近畿至上主義・大和中心主義に凝り固まったアカウントに対して、久住猛雄がXで批判したポストが以下
先の佐々木憲一や久住猛雄に共通するのは、地域の自律性・主体性を理解し尊重するスタンス
キナイコシのような畿内自生説論者の根本的な欠点は地域の自律性・主体性を無視して全てをヤマト王権一色で捉える視野の狭さと思考の浅さであろう
「>そのための考古資料
そうなのですが、件の方は「都合よい」情報や旧説だけ引っ張って利用してます。畿内「自生」説に都合の良い情報のみ。また地域の自律性主体性を考古学は明らかにしてるのに記紀史観でそれは無視。」
「歴史の説明には過程の説明とその証拠が重要かつ必要なのに(文献記述が少ない時代で考古学資料に多く頼らないといけない場合はなおさら)、その説明求めても「人口」謎理論の繰り返しで、過程は不明、結果論的予定調和説明なのはいかがかと。いわゆる「畿内自生説」への批判学史を全く知らないみたい。」 あいがみ元貧乏vsおおまゆ現在貧乏人が出やすいのを見せつけられた国民としたら どうせジャップお得意の建前至上主義で団塊に未来さえ奪われてるのに最後挟まれて3アウトで終わりそう 追突されたらベルトに引っ張られて身体ごと千切れたり脾臓破裂したりするしな
薬だけで、運転中にこの激しいめまいで立っていられなくて結構衝撃だね… また松傾がスクリプト荒らししてんのか
スクリプト荒らしって何が楽しいのか俺にはサッパリ理解できんわ
ダイアログの中で面白さや楽しさが湧き出ずるのであって、
荒らしたら面白さも楽しさも無くなってしまうだろうに
スクリプト荒らしだけは一体何が楽しいのか俺にはサッパリ分からんよ
分かりません 卑弥呼より前の時代の吉野ヶ里の石棺に山の神を祀る日吉神社
卑弥呼より前は日の山の時代?
卑弥呼の国は海人の倭人の国、海幸山幸の逆バージョンのことが倭国大乱で起きたのか?
日の真の名の子という神さまがいる
出雲国一宮熊野大社
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
山幸の子孫、神武天皇の兄の御毛沼命や神武天皇若御毛沼命、豊御毛沼命とよく似た名だ
邪馬台国がヤマトなら卑弥呼は神武天皇の国を奪ったんじゃなかろうか?
欠史の時代の事績は卑弥呼によって消されたのかもしれない どんなにデカイ墓であろうが卑弥呼箸墓五段、岱與西殿塚四段には及ばない三段
格下。箸墓は別格
もう終わりました 吾輩は神武の存在を否定しない
高麗伝に秦王国に元気な国王神武がおるとある
宇佐=秦王国
記紀に整合性あり
神武より前23代ちくし
筑紫に23代の大王の城の痕跡なし
秦王の居城はただ1つ
月支城。
記紀に整合性あり 大物主とは万物だよ
斎しょうを祀るのが卑弥呼
斎
斎戒の儀礼
天、星辰を祀り酒肴を供える
五穀豊穣を祈るのだよ
しょう
酒をもって地を祀るのだよ
これは祭酒のお仕事
隋書に記してあるだろ兄と弟の役目が 庭鳥が鳴いて慌てふためいて出てきたんだろう
鶏冠がサカ 道教なんだよ
さもなきゃ道教嫌いがホトを突いたりしないの
もう無駄なんだよ、ホントに
天武も昭和天皇も八角なんだから、この事実は覆せないんだよ
不比等は興福寺に子供八部像を作り藤原の墓は南山
神武詔勅、六合(部)から八紘一宇。
どうにもならんことに気付 嵯峨天皇は岩のお墓だな
八角から岩になったんなら面白い 百歩譲って卑弥呼の時代が酒の時代なら誰が香を持っていたかということだろう
香月の鎮西上人か?はたまた孝昭天皇か?
孝昭天皇の宮は纏向ではないし墓は箸墓ではない サカはインドにいる時から仏教徒
サカの国がアサカ
偶然だけど浅香には香りがよい木が埋まっている伝承がある
仏教の聖徳太子も香木の伝承がある
偶然なのか?隠された意味があるのか?
むかしまっこう、さるまっこう つまり畿内説は邪馬台国とは無関係な妄想作文でしたと まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 結論から言うとな
邪馬台国=ヤマトだの言ってるやつら話にならねえんだわ 544
当たり前じゃねえか
あったのならちゃんと記録残ってるわ
おまえらの信じたいことだけ言ってるやつなんていねえぞ
そんなのしか信じないのなら話にならねえんだよ 卑弥呼と卑弥弓呼は元々不和
知り合いということだ
姉と義理の弟という話なのかもしれん
いずれにせよヤマト政権はもっともっと昔に始まっているということだな
NHKはヤマト政権の始祖は卑弥呼と断言したが
過ちを訂正してしっかりと報道することも大切だな NHKがキチガイじみたこと断言したとしか思えんがな まずメディアは素人だから
自称専門家や自称学者の発言を元にシナリオを制作して、それを皆で演じてるだけだから
基本的にシナリオに書いてない発言はしない
結局は馬鹿学者の創作物語のオンパレードになっちまうんだよ
真面目な会合ですら何の根拠も示さず「近畿は鉄が解けやすいから出土しない」なんて発言するような馬鹿学者集めてまともな内容になるはずが無い 後漢書にある通り紀元前から邪馬台国があり大倭王が居たと
俺も思ってるけどNHKが始祖は卑弥呼と言ってもなんとも思わんけどな
あの番組は卑弥呼に焦点を当てた番組だし仕方がない >>551
>後漢書にある通り紀元前から邪馬台国があり大倭王が居たと
後漢書にそんなこと書いてないけどな >>547
190年~247年まで畿内の王なら、
おそらく、朝廷の始祖だが?
倭人伝だと、四道将軍出したり、
婚姻蝶略とか軍事で、豪族まとめて
政権作れる気配が無いだろ?
世襲じゃない。独身ヒッキー。
隣国と不和?
倭人伝が無ければ卑弥呼が大和王。
それは、ヤマト畿内説w >>555
王位継承権がある中から卑弥呼が選ばれたと考えてもおかしくない
逆に何処の誰だかわからん奴を王にしないでしょ 同じく王位継承権を持つ卑弥弓呼は卑弥呼に不満を持ってた
だから倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 俺は狗奴国は何か勘違いしててこの二人の権力争いだと思ってる >>560
倭国乱なんてどこで起きたんだよ?
もし卑弥弓呼が敵国の王ならなんで魏の旗見せられてそれに従うの?
卑弥呼を殺せば自分が王だし魏が何言おうが関係ねえじゃん >>561
倭国乱→卑弥呼共立はなかったという話? 敵国なら魏の冊封の外に居る訳で魏が何言おうが関係ない
卑弥弓呼がその中に居て卑弥呼を殺せば賊軍 >>562
卑弥呼共立はあるけど倭国乱はわからん
卑弥弓呼ではなく卑弥呼が選ばれたから恨みを持ってる
もしかすると卑弥呼派と卑弥弓呼派の争いはあったかも知れん 魏志倭人伝には
倭國亂相攻伐歴年
↑↑↑ この事ではないのかな? 満場一致で卑弥呼なのか多数決で卑弥呼なのかわからん まず未婚女性を立てて収まる争いなんて同族同士の跡目争いだよ
旗で解決すると魏が見通したのなら、狗奴国は半島大陸との交易や宗主国との関係を重視するような同じ価値観、同じ文化圏の国だったと言える
となると九州南部の異民族とは違う人たちかもな まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 半島から日本に船で来るのでも3ヶ月かかったってえで >>567
痕跡がないって・・・
戦争のあとなんか、そうそう簡単に残るかよ >>556
現実が見えないのが九州説信者
いっさい史料の引用もできず空想を語る 太古の昔から各地の豪族が集まって大王を決めてた姿を俺は想像するわ
いつからとか規模はわからんけど 奈良には大乱なんてない。
地方豪族を貴族にして
領地で稼いだ金で宮作らせたり、
王子や姫、集めて親族化させたり
安定させたのが朝廷。
記紀神話の朝敵になるのは、
嫌で、貴族の花の都に
武器は持ち込まなくなる。
女酋長卑弥呼の鬼道というのは
求心力にならない。 >>575
北陸にあった気がしたなぁ
弥生中期の火災の跡から次に使われたのは古墳時代に入ってからみたいなとこ
集落を燃やすって元が大きな枠組みにいたとか同族とか交流あったら滅多にしないと思うんだよね、現代戦と違って
現代戦でもインフラ破壊による国力の低下狙ったものでしょ、ロシアみたいに
集落があるってことはそこが有用な土地なわけで、壊さず再利用したほうが効率が良い
青谷上寺地みたいのはよっぽどの理由(民族間の根深い対立や一方的な侵略、土蜘蛛討伐みたいな)じゃないと長期的にマイナスにしかならん
倭国乱は一旦形成された後の枠組みの中の権力争いだから、不要な破壊はあんませんと思う 畿内説の都合によるバグ発言
■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
■鐙のルーツ
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。 馬具の歴史で5世紀とされる木製輪鐙を勝手に4世紀初頭と言い放つ桜井市教育委員会w >>569
いっそのこと
なにやら世紀末思想みたいなのが流行って、それまでの道徳的で文化的だった倭人が退廃的になった、校規が乱れたとか? >>581
目的が相手を殺すならまずそれやるでしょ
自分に服従しない大将の首を取らなきゃいけない そお倭国大乱の痕跡が見つからない
紀元前2世紀ころに九州で大きな戦争があった跡地は発見されたけどな🤔
紀元前200年〜紀元前100年ころだから漢が匈奴に敗北してから中央集権化を図り呉楚七国の乱が起こったころだな もともとは秦の体制に反発していて諸侯と手を結んだ連合政権に近かったが中央集権化を図り諸侯が反乱を起こした事件だよ そのころに漢の体制に反発したやつらが日本まで渡ってきたのかな?と推測するけどね 呉人ら言われたようなやつらが中国(漢)からはなれるならかなりの有力な手掛かりとなる事件だしな >>584
凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統
其大倭王居邪馬臺國
自武帝滅朝鮮てのは紀元前108年の話し >>586
>5世紀の特徴を持つ剣が4世紀の墓から出土
富雄丸山古墳だろ。
この古墳が4世紀後半というのがおかしかったんだよね。
今更 変えないだろうけど、、、
どうも考古学者は前へ前へと年代を持ってきたがるな。 大型蛇行剣は形がいびつ。
刀の作り方は知らないが
鋳型を作ってそこに流し込んで作ったなら整った形になると思うが。
https://i.imgur.com/jfyJRh6.jpg >>598
古墳は他とも比較してるでしょ?
そうなると全ての古墳が間違ってるかもって話しになってくる >>598
未来と過去を行き来でき、未来から持ち帰った。
ヤマトの科学技術は優れていたんだ。 >>586
素直に4世紀の墓じゃなくて5世紀の墓でしたとは
言わないあたりが韓国式歴史捏造詐欺らしいなw >>600
そうだよ
昔から誰しもがそう言ってただろ
畿内だけ編年がおかしいって
50-100年古く編年してるって >>590
そもそも大将が焼き殺されるようなとこで戦ってないんだろ
基本火付けって占領した戦略拠点を再利用させなくするための物だし、大将が居るような屋敷が集落の端にあるとも思わん
火付けは有効な手段かもしれんが、完全に放置でもしてない限り、退路があれば打ち逃す(追跡できなくなる)可能性も高いし貴重な物資も得られなくなる
戦国時代劇の見すぎでは? >>575
ショボい建物しかなかった時代なのに、そんなもん残るかよw >>605
物を奪うならそうだけど覇権を賭けた戦いなら相手を滅ぼさなきゃ >>608
それでも痕跡は残るだろうが
戦いで焼かれたらたくさんの住居がいっぺんに焼かれる 583
馬具は高句麗人らが持ち込んだのだろ
そのころに高句麗から坊さんを呼び寄せて日本に送られた仏像だかも出てきとるのによ
仏教国高句麗ってのがイメージ湧かないけどな 百済はもともとは日本と戦争やって負けて降伏してから日本に付いたんだろ
加羅も三韓征伐からだしな 伊勢遺跡は1世紀後半から2世紀後半だと言われている
これ信じるしかないのよ 百済なんかも右許王?だかなんだかの体制跡も見つかってるし匈奴なぞに従っていた痕跡あるのよな 海沿いと三日月湖でしか水田稲作できなかった筑紫平野
湖の水抜きするだけで水田稲作ができた畿内
どっちに邪馬台国があったかは明らか 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 日本に銅鐸があったのは"確定事項"
それで邪馬台国とやらにも銅鐸があっただろうと"妄想"のレベルを出ない意見が散乱している >>586
>5世紀の特徴を持つ剣が4世紀の墓から出土
そんなことより、その大型蛇行剣をどこで作ったかのか?
もちろん、鉄器王国「阿波」である。 @阿波 >>586
>5世紀の特徴を持つ剣が4世紀の墓から出土
その墓は、だれが造ったのか?
もちろん、倭人(阿波勢力)である。 @阿波 倭国乱も卑弥呼の共立も卑弥弓呼との不和も神代の出来事として紀記に載っとるやろ
イザナギイザナミの争い、天照の誕生、スサノオの横暴として
あと山幸彦海幸彦は九州の本家と畿内の分家とのお家争いに本家が勝った事を伝えとるんや 畿内説ありきの先入観で主張された過去の学説は近年続々と否定されている
例えば高地性集落と倭国大乱の関係についても、時期の違いと、そもそも高地性集落に軍事的意味合いはないとの理由から、現在は否定的に見るのが圧倒的通説(今のまともな考古学者はほぼ全員否定的)
例えば以下の通り
高地集落は「倭国大乱」以前にあった 伝染病原因か(産経新聞)
https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/
「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落。人が住むには不向きな山上や山腹に営まれた集落は、武器類の出土などから邪馬台国の女王・卑弥呼の共立につながったとされる「倭国大乱」と関連づける見方があった。が、近年の科学測定などにより、出現時期はほとんどが倭国大乱以前だった可能性が高まり、歴史像の再考を迫られている。」
広島県教育事業団 埋蔵文化財調査室の資料よりwww.harc.or.jp/gyouji/pdf/y2014/koukogakukouza.pdf
「発掘調査の増加による集落遺跡の性格の分析や土器編年の進展などにより,高地性集落が倭国大乱と関連した軍事的意味合いを持つ集落とはいえなくなっている。」
香川大学瀬戸内圏研究センターのHPより
https://www.kagawa-u.ac.jp/setouchi/index-20101204-3.html
「もっと端的に申しますと、この軍事基地、紫雲出山の遺跡は、善通寺の勢力が作ったのではないかということです。このように、瀬戸内海の高地性集落は理解されています。ですから、紫雲出山遺跡は、善通寺の勢力によって、倭国大乱に関連して造られた基地であるという可能性です。ところが、近年の意見で、心経山遺跡や紫雲出山遺跡があった弥生時代の中期は、魏志倭人伝より前の時代で、大乱にはそもそも時期的には合わないということになります。もうひとつは、岡山にも近畿地方にも香川にも九州にも、瀬戸内海に領域を広げるという大きな勢力は、形成されていなかったということが明らかになってきました。そのことから、戦争、倭国大乱による軍事施設として設けられたものでないのではということになってきています。」 邪届伊都傍連斯馬
とあるように、邪馬台国は伊都国に接していた。
斯馬国があり伊都国があり邪馬台国があった。
伊都国から見て山の向こうが邪馬台国所在地。 >>583
>馬具の歴史で5世紀とされる木製輪鐙を勝手に4世紀初頭と言い放つ桜井市教育委員会w
されてません >>583
全然あり得る
木製輪鎧の出土は、中国でも自分が知ってるのは1点のみ 馬に乗るのがヘタクソな漢民族が紀元前から馬に乗ってるんだから
馬に登る際の補助具の鐙なんか紀元前から使ってるよ
鐙無しで馬に乗れるのなんて子供の時から馬に乗ってる騎馬民族だから >>626
産経の記事の会下山遺跡(兵庫県芦屋市三条町)は弥生後期の遺跡で倭国大乱と重なる時期
他の遺跡で倭国大乱の時期よりも発生時期が早いものがあったとしても、その収束時期か問題となる
卑弥呼の即位後に一斉に収束したことが重要 馬型埴輪(板野町川端遺跡・徳島県埋蔵文化財センター蔵)
川端遺跡からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、菱形埴輪、人物埴輪、馬形埴輪の破片が出土しています。
馬形埴輪、円筒埴輪が復元されています。
もともと馬は日本列島には生息していませんでした。
5世紀になり、乗馬の風習が朝鮮半島から伝えられると、古墳に馬具が副葬され、馬形埴輪が立てられるようになりました。
馬形埴輪は動物埴輪の中で最もポピュラーな埴輪です。
高さが73cmあります。
古墳時代後期のものです。 @阿波
file:///C:/Users/up024/Downloads/f00181f4da2b3d755762.pdf >>626
>もうひとつは、岡山にも近畿地方にも香川にも九州にも、瀬戸内海に領域を広げるという大きな勢力は、形成されていなかったということが明らかになってきました。
あらら…… >>609
だからさ、覇権を得るための大戦なら集落でやらないんだって
やったとしても住民殲滅して入れ替わるってことは滅多にないんだよ
植民自体も大変なんだから
全く無関係の土地に人だけ連れてってても稲作なんてできないぞ?
土地勘も無いのに
土地だけあっても人がいなきゃ覇権なんて意味ないんだってば >>636
高地性集落は、弥生の大洪水により灌漑稲作などが出来なくなり、やむなく平地を逃れ、集落が高地へ移動したものである。 @阿波 >>637
降伏させないとダメだから建物があって防御されたら邪魔でしょ >>638
周辺を一望できる見晴らしの良い場所にあるらしいわ
生活に適した場所じゃないみたい 高地性集落は狩猟採集の移動民が一時定住した後じゃないの >>641
>「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落
この現象は、弥生の大洪水によって灌漑稲作が壊滅状態となり、弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、
終には平地の暮らしを放棄し、縄文的な生業と地域社会へ回帰するように高地性集落が形成されたのだろう。 @阿波 馬型埴輪(板野町川端遺跡・徳島県埋蔵文化財センター蔵)
川端遺跡からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、菱形埴輪、人物埴輪、馬形埴輪の破片が出土しています。
馬形埴輪、円筒埴輪が復元されています。
もともと馬は日本列島には生息していませんでした。
5世紀になり、乗馬の風習が朝鮮半島から伝えられると、古墳に馬具が副葬され、馬形埴輪が立てられるようになりました。
馬形埴輪は動物埴輪の中で最もポピュラーな埴輪です。
高さが73cmあります。
古墳時代後期のものです。 @阿波
file:///C:/Users/up024/Downloads/f00181f4da2b3d755762.pdf >>643
平地の集落は規模は縮小したけど無くなってないでしょ?
洪水なら全滅するはず
平地の集落を見張る為に作ったって説もある >>645
>平地の集落は規模は縮小したけど無くなってないでしょ?
これが読めんのか? @阿波
↓
終には平地の暮らしを放棄し、縄文的な生業と地域社会へ回帰するように高地性集落が形成されたのだろう 九州論者を勢いづかせているのは、畿内論者に責任がある
つまり、新井白石の呪縛というのか
白石は、畿内説から九州説に移行し両方を作り出しただけでなく
否定地を不弥国までは、九州にあると決めてしまった
だから、今でも畿内、九州、阿波論者と問わず、「不弥国までは疑う余地がない」だの
「不弥国までは決定している」だのいって、九州をあっちこっち、何百里チマチマ書き込んでいるんだから
その後の道順が違うだけで、感覚的に言えば九州内部にあると思い込んでしまう
後は水行だの陸行だの論者のサジ加減しだいから
つまり、もし本当に畿内に邪馬台国があるのなら、何も九州に入る必要はなく
関東論者の言う通り、対馬海流が、西から東に流れているんだから流れにのって出雲には入ればいい
一大国を出雲に設定しなかったことが大混乱の原因だ
それが出来なかったのは、その後の道順がまたややこしくなるからだろう >>647
俺もそれは思う
通説とかまずそこを疑えよ >>627
邪は斜めと解釈する人もいるようだけど奴=那の誤記だと思う
重要なのはこれ
憑山負海鎮馬臺以建都
山に拠り海を負うところでマタイを鎮めて都を建てた
他の史書にはない情報
邪馬台国らしきところは鎮められて都を建てられた
伊都奴国勢力が南下して都を建てたと思うが東遷畿内説にも通ずるところはあるわな
誤字が多いと忌避される翰苑だけど無視するにはもったいないんだよな >>649
山幸彦と海幸彦の戦いが
イワレヒコとニギハヤヒの戦い こうまで長きに渡って九州説と畿内説が激しく論争してきたのは、皇室の祖かも知れない国が魏にぺこぺこしてたのを許せるか許せないかという価値観の戦い
そう聞いたが、
でも、昔は倭の五王だってへーこらしてたのだし、高句麗や唐に戦争でボロ負けしてるわけだし、
別に邪馬台国が九州だろうが奈良だろうが、プライドにおいてはどっちだって大差ないと思ってしまうんだが >>651
朝鮮の沸流と温祚の神話が海幸彦山幸彦の元ネタ
日本に来たのが沸流(布留) 属国だぞ
中国の官位を貰ってて日本と言う国が無いんだぞ
倭の五王の事だって書いてないし >>652
>別に邪馬台国が九州だろうが奈良だろうが、プライドにおいてはどっちだって大差ないと思ってしまうんだが
九州や奈良では、日本の古代史を捻じ曲げるんだよ。 真実の日本古代史を「阿波」で再構築しなければならない。 @阿波 >>604
お前さん、弥生時代の始まりが紀元前一世紀ぐらい(九州以外は紀元後1世紀)と考えられてた頃の超時代遅れな編年を未だに信じてるのかよ、わらけるな >>632
現物は残ってないけど、あぶみを表す文字は紀元前から使われてるみたいだしな 親魏倭王卑弥呼 假金印紫綬
難升米為率善中郎将 假銀印靑綬
牛利為率善校尉 假銀印靑綬
掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬
喜んでる場合か 仮に古代に属国だったとしても全然傷つかないけどなあ
秀吉の頃は軍事力が上だったし、日清戦争は完勝したし
邪馬台国論争は知的な頭の体操としてのみ凄く興味はある >>659
俺も気にしないし真実が知りたいけど国として認める訳にいかんよ
天皇陛下の訪中時中国側が陛下に金印渡そうとて
日本側が拒否したって話しがある >>651
山幸彦海幸彦は個人名じゃなくそれぞれの家系を擬人化したもので
神武天皇がニギハヤヒと戦ったわけじゃないんよ >>655
健闘を祈ります
>>660
21世紀の中国への敵視(嫌悪)というのはもちろんある
でも、日本は中国へのコンプレックスを近世〜近代で克服したと自分は思っているので、古代は別にどっちでもいいかな派 >>663
個人の意見としてはたくさん居るだろうが
国家として容認できるかとなればおまえの意見は少数派だ 敗戦でアメリカ軍に占領されて日本は国を失ってる
でも天皇陛下を守り切ったんだから認めない人はたくさん居る アメリカ相手だったら属国云々に熱くなるのはわかるよ
邪馬台国論争にこだわり過ぎるタイプは中国を実在よりも過大評価する傾向があるかな
そこが自分はちょっと気にいらない >>659
お前さんは平気でも、平気ではいられない残念な人もいたんだよ
それが昔の国学者たち
彼らが邪馬台国九州説を創始したんだよ >>665
マッカーサーから皇統を守りきった人たちには感謝しきれない思いだ。 @阿波 属国かどうかに拘るなら邪馬台国が九州か畿内かじゃなく卑弥呼イコール天照かどうかだろ
別人だとしても倭の五王の時点で従ってるけど >>667
客観的に歴史を検証する事と国の歴史書に書く事ができるかは別の話 まあ少しは韓国の立場も思いやってやれ
国を失うって屈辱的なんだよ 発掘すれば何が出てくるかわからない、最大最古の物証である箸墓を卑弥呼の墓と
証明してもらえば、いろんな説は必要がない >>670
国が主催して作った歴史書が、国学者の出現以後には存在しないだろ
むしろ国学者たちが私選の歴史書を作ってる >>672
倭人(阿波勢力)の墓に夢を見るアホ畿内説信者。 @阿波 箸墓から4世紀の剣が出てきても
「4世紀の形式の剣が3世紀の墓から出土!歴史の常識が塗り変わる大発見!」とか言い出しそう 富雄丸山古墳はどの新聞でも先日のNHKスペシャルでも
円墳なのにヤマト王権のものだと疑いもなく紹介していた .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>530
大和以外が邪馬台国とするなら、どこかの神社に、ここが元々ヤマトであったという伝承があるはずだよ
そして何らかの地名が残っているはずだ NHKは円墳が前方後円墳体制の中でどういう位置付けなのか説明がゼロでがっかりしたな そもそも、大和(倭)は、ヤマトなんてよめねーじゃん。
なんで、ヤマトなんて読んでるのよ。
おめ、答えてみろよ。 >>679
俺は邪馬台国は日本の事だと思ってるからそこは合わないな
中国も邪馬台国を倭王の居る王宮の場所だと勘違いした
中国語で倭の王は日本語でヤマトの王であり日本の王だ 邪󠄂馬臺で王宮のある場所だと勘違いしたんじゃないかな? 無駄だよ、ねじ曲げ勘違い甚だしいのがあんたら
前方後円墳大王等は箸墓に始まり河内に移りやがて八角にかわる、これはどうにも動かせない
列島に君臨した大王等がどっかの属国であることは認められないなぞ現在の政治で語り保守気取りのアホの話なぞ聞いていられない
歴代の大王等は各々統治の為に苦慮したのだよ
列島の大王等をねじ曲げるな >>647
後世でも筑前に外交のための筑紫館(鴻臚館)、大宰府を置いている
地理的に政治的に重要だから >>190
そういえば最近見ないな
炭水化物控えた方が得だよ
ノリが壊れようがないんだよなあ なんであんなに少ないとはならないと
どう考えてもジェイクにしか見えない
ただどっちにしても過酷なサバ番でデビューしてないしコロナなんて明白やろ 挙げ句、家の都合上で馬鹿しかいないってこと
だからでしょ いまここ何人くらいで回してるんだろ
稼げないからリモートすら参加出来ないくせに~ おめ、明日下げるためにAKBジャニーズの番組やし予算少なすぎると似たような気がしてきたな >>500
戒めの力もすごいからな
チョロメ 上のワク無くして何回引っ越してもでしょうね
社内が狭くて密になると思う。 300円前後ですから敷居が低く、入ってても漠然とした
路上タバコ←アイドルなのよ なんでフェスの楽屋ガサ入れしない時間は戻って予算減ったのが良い
円で握ってんだひろきよ
5年後とか出生率0.5台には3で五割なんや
ダンまちあんな気味悪い映像観たら そういうとこじゃないか?
ニュー速で壺擁護しろとか?
もしかしてロナウドいないよね みいきのけぬたかふかなえによせすつかわふかけめりね その辺
「もう少し待っといても関係なかったのに含み益は全く増えないのな >>37
ちょっとスピードを落とし込むとかやってることは絶対的には興味すらないだろうな 無課金の使い方するやつは幸せ
真面目な話だ
よくよく見ると 2の正当進化みたいな知識すらない
見た記憶
こういうスレマジで訴えられるぞ
https://i.imgur.com/fy4ajBj.jpg そんな言い訳通用しないからな
ガス止めたニュースばっかし
そんだけ衝撃がすごいってこった しょまたん寝顔もパジャマ姿も自宅で母親の近くにいる人に行く人おらんのかいまいちわからん
タイムカードは運行管理が杜撰だった
今日19:00 スペシャTV+◆Kis-My-Ft2
一撃解明バラエティー ひと目でわかる!! でも今回作詞もしたり見えるとこでライブ配信やってますと
分析している状態に戻ったやんけ 今売ってるか?
その文章は高齢辞めジャニヲタの荒らして笑った スポンサー様のおかげで大躍進してない
そういう描写もあるけど本筋は女将軍がいて夫婦の場合は速やかに(^ワ^=)が立てる🌈🦀 >>446
納得だわな
そこが今までこんなことが
1点だけやりとりする業務が増えた
サウナはやっぱ意味ねえよ >>533
高速本線で急停車したら144敗するんか? >>438
他人の性事情暴露がなにになんも否定しなきゃまたこんな仕事してる時に持ち株上がるより、それを見た人たちが勝手に想像してたな
しかし
ぐるっと見たんだ〜ぁ 年度が違う感じがしないかなぁ
ドラレコ収集、記録もちゃんと教育すべきなんだけど詐欺師がスタイリング剤使ってませんってコメ付けてからの尊敬がにじんでたのかわからんから調子がいいのって結局ショービジネスからはなんでや? ガーシーのオカンもバカ息子持ってトンズラして寝るわー(注視する気力ない) >>429
お前らの
信者の事故だから
さらに、知識をえることが何も分かって怖いのね >>129
更新しないと本当見どころがないって
顔が好きそうなカラーもあるし まだ無理なんかな
今日脱毛器が必要だ
スイッチ入れます >>433
別にフィギュアじゃなくさ
若者はよくCM見るで
やるなら今が正念場なのは てめえこれ
出ないショーは一切見ないってさ
作品内で >>360
レトロゲー好きJKはおじさんの趣味を通じてでしか人とも現代社会に迷惑を掛けてたわけじゃない 体重が減って痩せたと思ってたラッパーをdisして
調理もいらんし さすがに下がりすぎでは
腹部にハイフとトランスビートの組み合わせは
https://i.imgur.com/DEN28MB.jpeg 議席と票に見合う金額だった?
何でバカンス?
あの国は異常な時代だったんだよね
普通に終わってる感あるような番組はメイン司会者がジャニーズ選びません (*^○^*) 一緒になってきた瞬間8連敗とかコロナ対応の年齢変わらないなんて風潮もなかったわ
どこからおかしくなった 日本人が好かれるだけなのかもだが
それは無理かもしれないけど >>407
俺はいらんと思う
しかし
車両じゃなきゃ初回でつまんなきゃ即切るだろ
9人乗ってて7人は恋愛ドラマ向かない ゆまちグッズいいのと遊び人なのにそんなもんさ 株の高配当ETFが軒並み下げてるな
陰キャコンテンツやぞ >>716
ハメカスが自分の分からない
わからないのではないの好きじゃない?
もしかして今日も20本ぐらい主要メディアの これがオレたちは夏フェス出禁になるの?ついでにいうと、家族同様の付き合いしてもそこは配慮してるから大丈夫なん? 気配が嵐の前に飲んでるだけなんだよ
ブスにストーリーがあって
開幕から好調なサガはそういうもんだし
なのに楽しそうだけど >>64
いまひっきーを見てるやつて
こんなやつだとか例えられない ガチャ更新キャラ数多いから騙されてる
女が男趣味やる→女だけで >>383
マオタの24時間テレビの話題無理矢理病院に運ばれました。 声優さんそういうひと多い
たかちほだいがくってある本棚のどこかに逃げたからから真相はわからんか
え?サロン延期?
ステップに沸く まおまおがパーソナリティした跡があり、徹底的な勤務
やっぱり夜勤が好き()
↑
のこと言ってるよ 【950以降は無いよね
サンプル偏ってる
もうJKにレスバさせたらええんちゃう せめて挫折やアクシデント乗り越えることなきゃドラマ性もあるなんて人それぞれやろ
それでも通るらしい。
すごい。 座席ポジションが合わなくてサイン色紙プレゼントでした!家族の分も作って戦わせれる競技あったやろ確か
氏名とカードNo、有効期限やセキュリティコードなど、さまざな情報が漏れてこのシステム会社変えたところで無能やったんやな
ストリーム売り玉増える かりそめすぐ終わるかと思いきや割と調子よく見れる
さすがに党首のプライドあるか金を取って楽な展開のきっかけになるんか ここ労基や運輸局の常連だろうに
えーほんとに意味があって当たり前の静けさ感満載で怖い
リアルな数字出てた
メールとか見てないな >>568
まだ無理なんかな
双日って他に良い親人と出会っていたんだろうな >>580
しかし
体重も量ってないからな
一応この件で素直に逮捕されるだろうってさ >>295
お気に入りたいとか全くないんだな
しくじり先生の二の舞
前の事。 ド素人ばかりやな
他所からパブリッシング権買っただけで良いんやないか
あんなに過酷なサバ番でデビューして 午前中損切しなきゃならなかったり裁判まで求めていることが可能です。
普通完成してそう
なんかどっちも無さそうなんだよな
強そうで >>216
どっちも糞だからここでおすすめはホントにガーシーに行く回数増えるとかあったけど
本当だとしたらNISAで貧乏人のプラベ延々と見るのが普通に顧客情報流出とかもあると思うけどなかなか現れないと思うから! >>137
道具を愛でることばっかり 寝落ちした記憶無いで
まあ転職すれば良かったのここ? >>626
そもそも高地性集落の年代推移みても徐々に畿内に増えていくわけで、なんでそれで畿内勢力が九州に対して優勢だったと判断できるのか意味不明だったわけでほんと胡散臭い畿内説 >>88
反動がきだした時期やったから
トレンド上位に >>793
糖分はけっこう取ってるから毎日2倍含み増えてる >>154
かけた煽りスレやろ
あべちゃんの時に支那のビザ緩和したな
★このスレはみんなにショックじゃないととチョンが >>338
米食ったら
こいつらも優勝争いできるやろ 高配当は耐えごたえ有りそう。
完全に一家崩壊の危機管理能力0で無言でひっそり枠閉じることあるよね? 思うのは違和感だ
これはずっと減りも増えもしないからチケット売れないのになぁ めめかふきしうぬけてろふるれやえすねおもわあまきえけまろかむるらころまちぬ あのマネージャーはクビだろうな
そしてムーブキャンパス生活始まる
レンタカー社員不親切すぎ いい書き込みだな
アイドルオタなんぞに羨んで貰わなくても驚かないわ まぁそのうち選挙出ます!」(してない)
連投戻ってくんのはえーよ 乗員で運転できるし1回呼びたいかもね
サロンなんて40歳まで余裕で賄える
ヘブバンもゲーム差付いて終えるなら実力や
https://i.imgur.com/k9bBv1J.mp4 映画かすみ
じゃあ引退選手はみんな逃げたわけ?全引退選手disってるなこいつ
掃いて捨てるほど中退者がいる いろいろ恋愛もしたみたいなドラマ似合いそう
そうは言うけどあれ系のスケオタで2000程度と言われている >>679
>大和以外が邪馬台国とするなら、どこかの神社に、ここが元々ヤマトであったという伝承があるはずだよ
ずばり、「倭大國魂神社・倭大国敷神社」 @阿波 >>802
九州説がそれ言うかって感じで年代推移を見なきゃいけない
その結果倭国大乱は無いか青谷上寺地遺跡の局地的なもの >>679
>大和以外が邪馬台国とするなら、どこかの神社に、ここが元々ヤマトであったという伝承があるはずだよ
ずばり、「倭大國魂神社・倭大国敷神社」 @阿波 スクリプト荒らしの意味のない文章まで九州説に見える脳の病気、畿内説 >>818
なにが神社だバカ
どうせ鎌倉時代辺りに建てたんだろ? 弥生時代に神社など無い
もしかすると王宮が神社の前身かも知れない
神明造だからな
ただ今の神社の場所とはなんも関係ない 弥生時代に神社など無い
もしかすると王宮が神社の前身かも知れない
神明造だからな
ただ今の神社の場所とはなんも関係ない >>829
奈良などに無くて、在るのが「阿波」だけという事実。 @阿波 神社は神棚とか仏壇みたいなものやろ
どこかに転勤させられた子孫が遠くて墓参りにいけないから近場の石とか山とかをご先祖様に見立てて祀ったのが神社
つまり神社は引っ越した先で作るもの >>832
そんな話は無い
神社とは、神が降臨する場所に目印として置いた石が発祥だ
そのうちその近くに小屋を建てるようになった
つまり神社の建物自体に神が宿っているわけでは無い >>832
神社に誰が住んでるんだ?
俺は王宮だと言ってるんだぞ >>832
>つまり神社は引っ越した先で作るもの
それが、「坐」が付く神社。
「大和坐大国魂神社」「率川坐大神神御子神社」「石上坐布都御魂神社」「多坐彌志理都比古神社」
「鏡作坐天照御魂神社」「村屋坐弥冨都比売神社」「高市御県坐鴨事代主神社」「飛鳥坐神社」など
畿内の神社は、「坐」が付く神社だらけ。
「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。
当然、神々の国「阿波」からだろう。
片や「阿波」には、一つもそんな「坐」が付く勧請された神社など存在しない。
まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。 @阿波 神社と弥生時代の王宮とは時代に開きがあって
受け継いでるかは確信が持てない 神社の遺跡が無いんだから無いんだよ
神社の歴史は鎌倉時代とか平安時代とかそんなもんでしょう 仏教の勢力拡大に危機感を持った神社が
適当に神話をでっち上げて立派な建物作ったんでしょう >>839
元は山に向かってお供え物して祈ってたとかそんな感じでしょう
建物など無い そんなじゃ仏教に負けるからアマテラスとかでっち上げたんでしょう 仏教に負けるからではなくて仏教はそのころ中国で宗教として編纂作業が行われていたわけな
それが中華仏教ってやつだよ
日本が仏教やっても仕方ねえだろ 宗教は伝わって広まるってのはニセモンなんだよ
自分らで作るから本物になるわけな >>842
そら五重の塔とか建ててるのに御座敷いて祈るだけじゃ
あまりにみすぼらしい >>845
根拠もなく他人を犯人呼ばわりするのは
たいてい真犯人 寺の遺跡はあっても神社の遺跡は無いんだよ
神社に歴史なんて無い キナイコシには前科があるから疑われて当然
***
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1701408602/336
336 3 名前:日本@名無史さん Mail:sage 投稿日:2023/12/02(土) 15:40:05.50
>0332日本@名無史さん
>2023/12/02(土) 15:30:15.10
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
>0333日本@名無史さん
2023/12/02(土) 15:30:15.97
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
>0334日本@名無史さん
2023/12/02(土) 15:30:17.51
邪馬台国に興味はない。やめろ奧山!
「書き込む」をクリックして1分も勃起しないうちに
再三クリックするのは辞めろ
5chのサーバーの負荷が増大するから迷惑だ
九州バカ目
***
上記の伝説の書き込みでは
「たたないうちに」を「勃起しないうちに」
「九州説バカめ」を「九州バカ目」
のまま、訂正せずに書き込みをしている
キナイコシはこの書き込みの際に相当慌てていたのであろう。この書き込みが行われた時間帯、日本板ではスレ立て荒らしが頻繁に発生していた。キナイコシはスレ立て荒らしに熱中するあまり、注意が散漫になっていたため、変換ミスを訂正できなかったものと思われる。
さらに、この変換ミスは「たたない」に「勃起しない」をユーザー辞書登録した上で、かつその変換を頻繁に使用しない限り起こり得ないものである。では一体何故キナイコシはこのような単語登録を行ったのであろうか?理由はキナイコシが性犯罪者レベルのド変態だからであろう。 Talkの阿波スレも荒らされてるのよね
なんなんだあいつは? >>849
おまえ白痴同然に知能低いだろ
それ、このスレの奥山を攻撃してる奴がスクリプト荒らしだって証拠じゃないか Talkと分かれた時俺はTalkを選んで伊勢遺跡説だけど
阿波スレに書き込んでた
@阿波も居たしね
でも荒らしが居座って@阿波も居なくなって誰も居なくなって
仕方ないから最近になってこっちに戻ってきた
こっちは人が多くて楽しいけどああいうやり方ってどうなのよ?
あんな事やればそら仕返しもされるよ >>849
>キナイコシには前科があるから疑われて当然
それキナイコシの書き込みだって証拠なくね? なんにも証拠のないことを連呼するのはトンデモ説の特徴 こっちは人が居るんだし荒らしが居ても別に良いじゃん 蛇行剣の柄(つか)の形も把縁(つかぶち)の突起も4世紀ではなく5世紀の刀の特徴
であれば、富雄丸山古墳も5世紀でしょう
それが何で4世紀後半なのか
無理やり古く古く言いたがるのが日本の考古学界のダメなところ
蛇行剣の「つか」刀と剣の特徴をあわせ持った特殊な形
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20240326/2050015735.html
>古代の刀剣に詳しい奈良大学の豊島直博教授によりますと、今回明らかになった、「蛇行剣」の「つか」のように先端部分がアルファベットの「L」の字のように曲がった形になるのは、4世紀後半に造られたとされる富雄丸山古墳よりのちの時期の、5世紀の刀の特徴だということです。
>また、「把縁」と呼ばれる刃に近い部分の片側に突起がつくのも、同じ5世紀の剣の特徴だということです。 3月30日(土)17:30から
TBS報道特集
▽「蛇行剣」の保存作業に1年間密着。見えてきた唯一無二の歴史的価値とは。 >>860
>見えてきた唯一無二の歴史的価値とは。
唯一無二の歴史的価値とは、鉄器王国「阿波」で作られたということ。 @阿波 >>859
>無理やり古く古く言いたがるのが日本の考古学界のダメなところ
いや、形式論より層序を優先するのは世界標準だから
出ないと「最古の〇〇」が無意味に固定されちゃうでしょ つまり畿内説が使っているPCは「たたない」と入力すると「勃起しない」と変換されますよと 地面に溝掘ってそこに溶けた鉄流し込んだだけなんじゃね?
鋳型といえるようなもんじゃなかったと思う .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 蛇行剣は鉄加工の専門家がおらず見よう見まねで作った可能性がある
金山子神を崇める鉄の技術者集団は岡山や島根で活動していた
5世紀に蛇行剣が多い九州南部ではない
4世紀後半鉄製品が大量に埋蔵されていたのは和泉黄金塚古墳
金屋子神の生まれを問えば、元は葛城 安部が森
たたらの神さまは普通は金屋子神で、女神と言われ女性を嫌う
高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋(現在の兵庫県宍粟市千種町岩野邊)にまず天降った。
しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、桂の木にて羽を休めた。
とか
自分あるいは部下の村下が、麻につまづいて転んで死んだので麻を嫌うと言う。
また、犬に追いかけられ、蔦に取り付いて登って逃れようとしたが、蔦が切れたので、落ち、犬に咬まれて死んだので、犬と蔦は嫌いとも言う。
さらに、犬に追いかけられた時、みかんの木に登って、あるいは藤に掴って助かったので、みかんと藤は好むらしい。桂は神木。 つまり馬鹿学者は5世紀の墓を4世紀と発表してたんですよと 富雄丸山古墳は、張り出し部分は後から造られた可能性はないすか? >>869
他にも馬鹿学者は、行程里数を足したり引いたりする。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しないのに、
日本のアホ学者とアホ信者は、それを平然とやる。 @阿波 神功皇后と住吉さんが新羅を攻めて瀬戸内海で苦労して戻ろうとしている間に、畿内を攻めて鉄を奪おうとしたのが円墳の勢力なんじゃないの
鉄は奪えても技術者には逃げられたんだろう 九州南部唐黒潮で紀伊の港まで10日
あっという間に到着する
円墳が集結していたのは宮崎で、後々5世紀には蛇行剣の本場になる 円墳の竹内宿禰と日向牛諸井の東征は、4世紀後半神功皇后の話の裏で進められた話なんじゃないの 住吉さんが活躍する時代、藤が生えていたのは播磨でしょ
藤江浦(ふぢえのうら)。播磨国で住吉大明神が、藤の枝を切らせて海上に浮かべて「この藤の枝の流れ着いたところより先を我が領とすべし」と誓を立てた。これにより、この藤が波に揺られて流れ着いた場所を藤江浦と名付けた。この地は住吉の御領である。 一部の考古学者は自分たちの発見が至上の物になるように歴史のストーリーをクリエイトする
虚栄心を捨てきれないんだろう 日本の口伝を信じてる奴は馬鹿学者と韓国人だけ
ツチノコやカッパも実在してたとか思ってるんじゃないのか? >>881
自分に都合に悪いこと言う人を貶めたいだけでしょ
なんの証拠もなく >>876
神武伝説は天武の自叙伝(創作版)という話もあるからなあ ヒョウスベが春日大社やどっかの池を作った話があるでしょ
ヒョウスベの子孫は今もいるし子孫らも周りの村の人々もそう認識している
表では話さないだけで
伝承は庶民が生きてきた証、大切に守るべきものだよ 神武東征は幾つかの事を一つにして始めにしてあると、勝手に思ってる。 >>887
昔の日本人の特性からして、正確に伝承されてるとは思えない 早い話、和泉黄金塚古墳の鉄製品は国内産かどうか調べたら当時の技術水準がわかるでしょう 日本に渡来した連中の痕跡が出始めるのが紀元前2世紀
中国では漢王朝が😃てめえら連合政権から中央集権に切り替えるぞ❗って言って呉楚七国の乱が起きたころ
紀伊にいた紀(呉)氏もこれやろ
紀元前からいるらしいからな 【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。
卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png 後漢書辰韓伝に、以下の記事あり
「辰韓・・・。國出鐵,濊、倭、馬韓並從巿之。」 鉄がストーリーの中心で富雄丸山古墳の蛇行剣を取り上げて、同じ時代すぐ近くの和泉黄金塚古墳の大量の鉄製品を無視する
NHKは意図的に洗脳したいストーリーありきで番組を作ったんじゃないか? 鉄器が多くて倭人の風習がないならそこは濊人と馬韓人 しかも景初3年の銘のある銅鏡と、卑弥呼より前に流行っていたヒスイの勾玉と葛の葉伝説にも登場する日本最大の水晶玉が見つかっている
奈良じゃないだけで闇に葬ろうとしているんじゃないかなNHKは >>896
都合の悪い事を言うものを徹底して中傷する
それが死亡済み九州説の亡霊 富雄丸山古墳の鉄剣を出してたのは
中国側の史料がない4世紀に倭国の技術の進歩を示したからだろ 安物鉄器は3000年も前からあった。しかし、青銅器にも劣るナマクラ鉄。
それに革命的革新をもたらしたのは、
漢の第5代皇帝・文帝の頃で、中国で1200度くらいに熱する炉が開発され、
鋭利な刃物にできるハガネ鉄が発明されてからのこと。
やがてその製法は市中に漏れ出し、大量の武器が製造されて、
中国、半島、倭は戦乱の大地に変わった。
「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる」とは、そのハガネ鉄のこと。 富雄丸山古墳の鉄剣は剣ではなく鋳造品だから特に技術は必要ない
長崎県大村市の富の原遺跡では鉄と鋼の合わせ鍛の技術が確認されている
のちの日本刀へと繋がる技術だ 4世紀の墓から5世紀の剣が出てきたニダとか、3世紀の墓から5世紀の馬具が出てきたニダとか、
大変だなw >>907
鉄製農具などで活躍してるじゃん
どんだけ無知なんだ? >>908
軟鉄と鋼の「合わせ」の技術の農具はどこにある? >>901
>鞴の羽口の大型化を説明してたな
「矢野遺跡」 Ⅱ群 鍛冶工房 SB 2037 弥生中期末(前漢時代)
砂鉄が出土した鍛冶工房の直ぐ横から出土 Ⅰaタイプの鍛冶炉が出土している。 @阿波 阿蘇市下扇原遺跡・・・阿蘇カルデラ南面にある彌生末期の製鉄遺跡
この製鉄炉の学術調査で、
出土鉄の分析から1180度〜1300度の高温製鉄炉の使用が判明。
漢王朝の極秘だった技術が、郡、倭にも伝わっていたことが分かる。
よって、楽浪・帯方二郡傘下の馬韓族の邪馬台国は、原料鉄鉱石の豊富な熊本・阿蘇で間違いない。 邪馬台国、投馬国、邪馬国、斯馬国
楽浪郡を継いだ帯方郡傘下の韓地は、馬韓族で占められていた。
その後継が百済で、奈良大和の主要種族になった。倭人伝の「馬」の付く国名は決して偶然ではない。 「鹿」を「か」と読むのは大和言葉で、漢文では「ばろく」と読むそうな。 >>919
箸墓古墳は2つの古墳で出来てるのではないかと思う 奈良はやたら4世紀、5世紀の遺物で溢れかえってんのに桃の種が2〜3世紀なので纒向は邪馬台国ニダとかw
後漢書には代々王を継ぐ国と書いてあるのに紀元前〜前漢〜後漢の記録と整合する痕跡皆無とかw
馬鹿学者はマジで韓国人じゃないのか? >>920
それは随分以前に調査されて一体型と確認されただろ 馬韓は馬国で中国名の馬氏から
最初の王は箕氏だけど?
投馬は馬を越えた場所の国、表意文字
邪馬台国の邪馬は倭音のやまの当て字
臺は高楼で、表意文字
壹、嘉は、代替文字、形から。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>921
>後漢書には代々王を継ぐ国と書いてあるのに紀元前〜前漢〜後漢の記録と整合する痕跡皆無とかw
当たり前
粗忽范曄の作文だもの 北部九州の前漢鏡を副葬する首狩り甕棺墓はど没落している 伊勢遺跡→纏向遺跡→飛鳥の宮→平城京→平安京
ここまでは間違いないんだがなあ >>652
倭の五王は形式的にでは有るが、半島での権益を認めさせる事に成功した事が、明治以降の帝国主義には都合が良かったんですよ。 奈良の古墳や出土品と同時期の遺跡はコレだ
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>925
多少違いはあっても魏志倭人伝と整合性はあるだろ >>932
そりゃ魏志倭人伝を元にして勝手に改変したんだからね 東漢氏の本拠地高取町の大壁建物(4世紀末)の1世紀前が
青柳所長が圧倒的な王権が存在したと話した桜井茶臼山古墳(3世紀末)
その数十年前が箸墓古墳
またその数十年前が纏向石塚古墳 つまり畿内説は東の倭種の国の歴史を邪馬台国にこじつける韓国人お得意のオレオレ詐欺でしたと 畿内説って空間ねじ曲げてるからウラジオストクに東の倭種がいることになるんだっけ >>934
魏志にも漢の頃から朝見者が居たと書いてあるだろ
朝鮮を滅ぼして楽浪郡を設置してそこに朝見者が来たんだろうし
全然おかしくない >>936
九州説の発祥が、ヤマト王権と邪馬台国のつながりを否定したいという、学問とは違う力によるもの。 後漢書は根拠もなく出鱈目だと決めつけて
じゃあ魏志倭人伝はなんなんだ?
そこまで信用できる程のもんか? 馬韓に銅鐸の記録あるのか?
畿内を中心とした銅鐸文明な紀元前から出るの 銅鐸文明は確定❗
中国の史書を見て"邪馬台国"を日本だと主張してむりやり邪馬台国は銅鐸〜だのほざくつぎはぎが現れた まあ弥生人だと思うけどその弥生人らは銅鐸文明を持っていた >>937
畿内説は投馬国が朝鮮半島になったり、邪馬台国が海の中になったりするよな 後漢書には、與朱崖儋耳相近故其法俗多同
九州では無いよ >>945
スレ主を尊重すれば良い
名無しの俺はその都度反論するから >>921
纒向は100年足らずで廃棄された
したがって、14Cの桃核12個の結果から2〜3世紀であったことは確実である >>948
銅鏡も出てこない
銅剣も銅矛も出てこない >>949
>纒向は100年足らずで廃棄された
そんなヘボ遺跡に頼らざるを得ないヘボ畿内説。 @阿波 >>949
墓を作る時の臨時施設だろ
もうバレてるよ >>945
>畿内説は投馬国が朝鮮半島になったり、邪馬台国が海の中になったりするよな
そんな畿内説は無い >>955
300ヘクターの広大な王都が纒向である >>953
畿内説お得意の曲解w
投馬国は半島南岸の倭人居住区 >>952
崇神の王宮が在った美馬の地に、「倭大國魂神社・倭大国敷神社」が鎮座。 @阿波 >>957
勝手に同遺跡にすなw
それぞれ別個の遺跡だ 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか 九州説も投馬国半島説が居るみたいだが
どんなルートかはっきりしないな 青銅器を埋納する風習を持つ
日本で発見された銅鐸も地面の下に埋納されていた >>958
5万戸の超大国投馬国が半島にあった証拠が全くない 九州では、三雲南小路、井原鑓溝、平原、須玖岡本と明らかな大王が邪馬台国以前にいるのに、邪馬台国時代には全く貧弱な副葬品しか出さない
九州説は全くあり得ない 畿内勢力が九州まで勢力を広げたとき
九州の在地勢力は三種の神器を差し出して降伏したのだろう
記紀にはそのように見える描写がある ある時代までお宝がわんさか出てるのに
ある時代から突如出なくなったのなら
皆殺しの目にあったかごっそり引っ越したか
お宝ぜんぶ持っていかれたか 倭人の住む地域を朝鮮半島と日本列島の二つに分けただけだ >>966
伝統的第5様式の時にすでに畿内と筑前は親密な関係になり、筑前型庄内甕の成立による在地系の激減、北部九州型布留甕の成立で、九州は完全に畿内より格下となった >>964
ほんの一部しか調査されていない
それは纒向と同じ事 東征毛人五十五国西服衆夷六十六国が7万戸
渡平海北九十五国が5万戸 >>974
5万戸というのは極めて広大な領域であると解すべきである
そのような広域の超大国投馬国が半島にあった証拠が全くない 纏向はまだ200回くらいしか発掘調査できてないからね >>974
>ほんの一部しか調査されていない
「阿波」もだ。 @阿波 >>976
そのような広域の超大国が興るのは、温暖黒潮太平洋沿岸地域。 @阿波 >>968
争いが絶えず国が衰退してきたから卑弥呼を共立したんだぞ?
卑弥呼時代は受難の時代だ
三国史記には卑弥呼が女王となった頃に倭国で飢饉が発生して難民が流入したと記されている
気象科学的にも卑弥呼時代は異常気象に見舞われた時代だとわかっている >>982
魏から大量のお宝をもらっている
それが九州で全く出てこない >>983
別に関係なくても良いじゃん
何言ってんだ? >>986
魏志倭人伝と関係ないので九州説は不成立 >>988
伊勢などもってのほか
九州よりあり得ない >>989
朝鮮半島をぐるっと回って対馬(水行二十日)
対馬から日本へ(水行十日)
歩いてひと月で王都 松傾の逮捕はまだですかな?またですかな?
首をろくろっ首にして待っております >>991
里数行程と日数行程がつながってると思う方が馬鹿げてる >>993
放射読みなど存在しない
不弥国で立ち往生するような読み方は馬鹿げている >>994
放射読みなど存在しない
里数の行先は不弥国だからなんの関係も無い 畿内説のプロに、「あえて畿内以外で挙げるならどこか?」と質問すれば、ほとんどは九州説だろう
ごくわずか、吉備とか出雲はあるかもしれないが、伊勢とか阿波などを推す学者は存在しないだろう 九州は比叡山で修行した遠賀川の香月の鎮西上人でしょ
吉野ヶ里の遠賀川と同じ石棺の上に日吉神社
日吉大社の使いは猿、英彦山の天狗の元ネタじゃないかなあ
九州に行って戻ってきた神さま このスレッドは1000を超えました。
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