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邪馬台国畿内説 Part1011
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0001◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:31:04.91
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712449170/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:31:59.54
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
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2024/04/09(火) 09:32:30.83
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
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2024/04/09(火) 09:32:59.99
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:33:30.51
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:34:30.94
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:35:00.08
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:35:31.11
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:36:00.40
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:36:30.20
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:37:00.85
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:37:30.82
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:38:00.14
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:38:30.99
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:39:31.39
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:40:01.16
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:40:30.17
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:41:00.52
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:41:30.54
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:42:00.85
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:42:31.36
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:43:01.39
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:43:31.14
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:44:00.91
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:44:30.82
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:45:00.86
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:45:31.00
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:46:01.16
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:46:30.43
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:47:30.99
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:48:00.72
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:48:30.42
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:49:01.16
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:49:30.32
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2024/04/09(火) 09:50:01.04
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2024/04/09(火) 09:50:31.00
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:51:01.36
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 09:51:31.05
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/04/09(火) 09:52:31.98
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2024/04/09(火) 09:53:03.51
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2024/04/09(火) 09:53:30.88
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2024/04/09(火) 09:54:02.51
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2024/04/09(火) 09:55:02.36
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2024/04/09(火) 09:55:32.89
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
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2024/04/09(火) 09:56:02.60
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/04/09(火) 09:56:32.20
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2024/04/09(火) 09:57:03.05
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2024/04/09(火) 09:57:32.70
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2024/04/09(火) 09:58:02.37
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2024/04/09(火) 09:58:32.23
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
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2024/04/09(火) 09:59:02.07
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2024/04/09(火) 09:59:32.41
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2024/04/09(火) 10:00:02.22
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2024/04/09(火) 10:00:31.82
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2024/04/09(火) 10:01:02.24
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2024/04/09(火) 10:01:32.66
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2024/04/09(火) 10:02:03.50
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2024/04/09(火) 10:02:33.11
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2024/04/09(火) 10:03:02.35
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2024/04/09(火) 10:03:31.69
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2024/04/09(火) 10:04:02.04
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2024/04/09(火) 10:04:33.04
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2024/04/09(火) 10:05:02.87
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2024/04/09(火) 10:05:32.50
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2024/04/09(火) 10:06:02.02
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
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2024/04/09(火) 10:06:32.08
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2024/04/09(火) 10:07:02.37
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2024/04/09(火) 10:07:32.37
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2024/04/09(火) 10:08:02.31
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 10:08:32.60
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 10:09:02.14
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 10:09:32.81
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 10:10:02.66
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/09(火) 10:10:32.47
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/04/09(火) 10:11:03.70
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0076日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:07:49.61
炭素年代測定も考古学で考古学者もそれを認めてるんだから
こっちは原理とか知らんし信用するしかない
0077日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:15:07.90
>>76
炭素年代を信用しないなら、海外のあらゆる遺跡の年代を否定しないといけないしな
0078日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:24:13.08
九州説は引導渡されちゃったから非科学非常識路線に走るしか無いんだよね
0079日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:32:24.98
畿内説は久住や寺沢の説を拠り所にしておきながら、久住や寺沢に箸墓は卑弥呼の墓ではないと断言されてるんだから
チェリーピッキングで作った妄想作文みたいなもの
0080日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:34:45.62
断言はしとらんだろ
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:39:57.87
九=飛
0083日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:48:15.82
>>79
>畿内説は久住や寺沢の説を拠り所にしておきながら、

畿内説は学説だから人の主張の中で妥当なものは妥当、失当なものは失当で、そう言うのをチェリーピックとは言わない
言ってる内容じゃなくて肩書きや名声で信用する九州説とは違うのだよ
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:53:04.06
>>82
それ、単に九州説の人の科学的知識が間違ってるだけでしょ
0085日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:54:08.99
とっととデータ公開すりゃいいのにどんな理由で拒否るんだか
0086日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:54:13.31
纒向遺跡に対する日本の炭素14年代測定及び年輪年代測定は、なぜか国際基準よりも100年古い結果がでる。
例えば建立と再建が資料によって明確な法隆寺に当てはめると【上宮聖徳法王帝説により推古15年(607年)頃建立・日本書紀により1度焼失し670年に再建】という高校生でも知っている事実に対して、500年代中期という結果が出る代物…
つまり纒向遺跡は卑弥呼の没後100年以降の物という事。

これは日本の考古学会により、危険な【捏造】が行われている証左であろう。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:54:24.25
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 12:55:56.30
土器付着炭化物は他素材(木材・種実・骨)より古い測定値が出る傾向が強い事を多くの識者が指摘し、
試料として不適切なのは明らかなのに、「今回報告」は依然として土器付着炭化物を中心に判定している。
しかも、古い値の出方幅がコンスタントならデータ処理も可能であるが、
実際には0~600年幅までバラバラである。そのような不確かなデータをいくら精緻に時系列で並べても砂上の楼閣である。
 ②今回報告はせっかく木材・種実も測定対象としながら、
その結果が十分に反映されていない。すなわち、木材の古木効果を考慮していない。
その結果、木材でも古い測定値を採用している。
 ③歴博は年輪年代法の年代観が正しいことを前提に、炭素14年代が年輪年代と整合性有るとして、
「今回報告」で池上曽根遺跡・石塚古墳・勝山古墳の年輪年代を例示している。
端的に言えば、「今回報告」は年輪年代の年代観に合わせて土器型式を並べたに過ぎない。
しかし、年輪年代法の古代すなわちAD640年以前の測定値は、全て100年古く狂っていることを拙論で指摘済みである。

そして、古墳出現期はおおよそAD300年頃である。より具体的には、
①石塚古墳がAD280~310年頃、
②勝山および矢塚古墳はAD290~320年頃の築造で、年輪年代の100年修正と合致する。一方、
③箸墓古墳はAD295~315年頃、
また④ホケノ山古墳はAD300~330年頃の築造で、年輪年代法登場以前の従来多数説がほぼ正しいことが明らかになった。
従って、年輪年代法(および連動する炭素14年代法)に基づく弥生中後期および古墳開始期の100年遡上論は誤りである。
当然のこととして、この遡上論を主な根拠とする「箸墓=卑弥呼の墓」「纏向遺跡=邪馬台国の王都」説は根底から揺らぐ。

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.html
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 13:00:41.27
>>82
結局この人はどうしろと?
建物の年代に触れてるけどその年代はいつよ?
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 13:10:05.73
>>88
他の遺跡も全部100年ずらせば正しくなるって事か?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 13:10:50.01
九州説だと卑弥呼の墓は何処よ 候補すら無いんだろ
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 13:33:15.73
纏向の年代には拘るのに在りもしない神社には無頓着
なんで?
前スレの考古学者もこういうのを批判してたんじゃないの?
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:03:37.22
>>79

歴博が箸墓古墳の推定年代を発表する前から畿内説が学者の通説だから
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:31:16.06
中国社会科学院考古研究所前所長の王仲殊氏は、

「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなく、

当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」

との説を唱えています。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:37:01.52
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
https://diamond.jp/articles/-/306767

現代日本人の祖は古墳人だった
そしてその時代に「王朝交代のようなもの」が行われた可能性が高いという
0097日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:46:46.24
騎馬民族説は正しかった
0098日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:47:53.21
>>96

そんなことは書いてない
0100日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:58:37.88
邪馬台国の卑弥呼は倭人ですらないのかもしれんな🤔

日本史から抹殺してもよいのかもしれん
0101日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:59:15.65
九州説のひと科学に弱すぎ
0102日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 14:59:49.68
証拠証拠ってうるせえがその必要もなくなってくるだら

匈奴人卑弥呼の話は中国に関係あるからやつらにまかせよう
0103日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:00:41.50
>>85
公表されてるデータもあるがお前の目には入らない
0105日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:03:01.39
下手したら曹操の奥さん(女王)の話か?

知るかそんなもん😠
0106日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:04:41.19
>>101
そりゃ、科学に弱くない健常な頭の人は九州説が間違ってることに気付いて見切りをつけたから、残ってる人は、そうではない人だけしかいないのが当然だわな
0107日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:09:32.59
>>96
篠田謙一はさっぱり考古整合していない

何で5万年前に台形様石器や石刃技法のない東南アジアから北上して38000年前に
日本列島入りした、その日本列島最古の人類の足跡が台形様石器や石刃技法になるんだよ

南支那以南の東南アジアには13000年前まで石刃技法などない

それも細石刃として華中から伝わったもので石刃技法として伝わったものではない

5万年前に台形様石器や石刃技法があったのはレヴァントなどの中近東から
中央アジアにかけてだよ

遺伝学はルート探査にはさっぱり使えないゴミだと宣伝しているようなもの

遺伝学は大人しく医療用だけに使っていてくれ
0108日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:13:29.11
>>88みたいな100年ずらしの暴論が罷り通るほど一般人は馬鹿じゃないんだよね
これ一発でバレちゃう

>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない
誰が見てもバレバレ
0109日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:18:28.02
>>99

このゲノムデータは、
佐世保市下本山岩陰遺跡から出土した2体の弥生人骨と
金沢市の古墳人骨3体
西北九州弥生人はおチビちゃん

https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419
0111日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 15:28:03.42
>>95
なんでそんな詳しい事までわかるんだよ?
0112日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/04/09(火) 15:37:55.51
邪馬台国連合30国は後漢時代ですでに代々王を継いできた国々だったと記録されているにも関わらず、3世紀に突如栄えた国であるかのようにデタラメ作文を展開している畿内説は間違いなくアカデミック詐欺である
0113日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/04/09(火) 15:42:00.81
北部九州で盛行した首狩り甕棺墓は2世紀までにど没落した
0114日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/04/09(火) 15:45:06.18
>>110
「邪馬台国は究極の自分探し」
ワロタ
0115日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/04/09(火) 15:50:40.66
>>112
どっちが考古学的に支持されるか、わかってんだろ?
九州説の復権は無いよ
0117日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/04/09(火) 15:56:07.86
>>116

日本の考古学者を罵るなら、
一人一説やけのやんぱち雑多九州小説は考古資料を一切使えない
0119日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:00:56.29
>>116
前科があるのは人手不足の考古学界に土足で入り込んだアマチュア
0120日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:27:27.92
九=飛
0121日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:36:28.32
>>88
>年輪年代法登場以前の従来多数説がほぼ正しいことが明らかになった。
>従って、年輪年代法(および連動する炭素14年代法)に基づく弥生中後期および古墳開始期の100年遡上論は誤りである。

こういうウソ平気でついちゃうとこが九州説だよなあ

自分で出した資料
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif
年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない
0122日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:41:56.58
>>121
トンデモどもよ、落ち着け!

古墳の年代が分かったところで、どのみち倭人(阿波勢力)のお墓なんだから。 お前ら、それが分かっているくせになぜ騒ぐ?   @阿波
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 16:59:10.32
>>110
畿内説だよ
纏向がそうではないかと言ってる
考古学的な成果では明らかに畿内説だとも
イデオロギーのある人ではないのできわめて正当な見方
0125日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:08:45.65
>>124
>纏向がそうではないかと言ってる

磯田道史も竹田恒泰も、「阿波」を知ってか知らずか、ど素人。   @阿波
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:15:10.50
三角縁神獣鏡は徐州でしょ。徐州人は魏と呉に属したから呉の鏡があっても問題なし!
0127日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:16:09.88
>>117
日本の考古学だなんて拡大解釈するなよ詐欺
畿内説でっち上げ考古学者の事だ
いつも名前の上がる数人だけどなw
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:17:52.49
>>119
まさにお前だな
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:20:51.63
今んとこ東の倭種がいた以上のことは何もわかってない
テレビでも畿内説の研究者の人が卑弥呼の文字が出るか金印でも出ないと決着しないと言ってた
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:21:54.70
>>127
炭素年代測定が間違ってると言ってるんだろ?
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:23:35.95
>>129
魏略には東とも書いてない
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:25:32.57
>>129
少なくとも、碌に鉄器さえも作れない畿内や九州ではないわな。   @阿波
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:34:01.76
九州説は宗教だからね
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:37:34.35
通説畿内説
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:37:37.57
通説畿内説
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:42:02.24
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:42:26.62
126
おまえらドロボーの意見は参考にならん

現生中国人より東夷人らの方が緻密なものを作り上げる
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 17:49:39.47
三角縁神獣鏡は、やっぱり中国で作られていた
「鏡の古代史」辻田淳一郎 1973年生まれ。九州大学大学院人文科学研究院准教授
この本は面白かった!
https://books.j-cast.com/2020/01/24010696.html
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:03:24.29
山崎1936
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:13:20.50
そもそも日本国の公式見解は
「卑弥呼? 神功皇后のことかもねー 知らんけど」だったわけで
やっとここへきて収まるところに収まりつつあるようだ
本居宣長以降の300年に渡る顛沛流浪はもうやめにしよう
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:28:23.10
>>130
海草とか海魚由来の炭素以外は海外のと同一の年代が出てるのに、どういう根拠で否定できるのか
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:29:52.74
🤔俺の意見は卑弥呼の正体は魏って国がそもそも大王、女王の役割り分担だから

卑弥呼の鬼道だのもな😳

曹操が死んだのが西暦220年だ

その後日談かな?ってとこ

なんで日本に来たんだよ?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:31:25.06
日本に住んでる女酋長とか🤔

そっちのがでっち上げだろ😳
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:33:12.67
アマテラスと卑弥呼がこうまで似ているのはどう考えても異様
0148琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 18:36:36.23
勘違い皇国論者では崩せないよ
本居もそっ
商業右翼として語り継ぐんだな
九州には甕棺族の痕跡しかない、決定的だよ
甕棺が東遷して神仙思想を始めたのか?誰に教わったんだ?自然発生か?
無駄だよ結論はもう出てる
吾輩からすればそもそも日本を勘違いし否定しているように感じるがね。
もうほぼ古の辰国を自称する者らだよ。卑弥呼とは関係が無いな
0149日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:36:57.57
卑弥呼が鬼道だってえなら大王の妻として敵に呪いをかけ呪い殺すような集団のリーダーだったってえこと

これは実に中国らしい話となりますなあ
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:38:35.07
148
無駄無駄
おまえら日本内に潜り込みたいんだろうが結論あり気で話をどんどん誤魔化すから話にならないんだよ
0151日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:39:17.75
漢字から読み解くくらいのこと俺だって出来るわ😳

残念だったな
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:42:29.00
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096
0153琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 18:43:12.55
なんだその呪い殺すというのは
卑弥呼鬼道、巫女道は隋代まで一番信用されていたんだよ、呪い殺し続けていたのか?笑っちゃうおつむだな
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:45:22.14
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png&name=900x900
0155日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:46:48.71
アマテラスと卑弥呼は似てない
放射読み

さすがにこの2つは天動説的に無理がある
0156琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 18:48:36.11
道教は万物だよ大物主だな
なんだその太陽って?
平原の柱に鏡を取り付け赫々しい光だろ?菊花紋章だな。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:48:56.23
畿内説は古代日本列島90度地動説だから
0158日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:49:55.28
太陽神は義和だよ
天照は義和なんだ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:50:48.66
>>121
鷲崎は炭素年代法はその表よりも遡るって言ってんじゃないの?
0160日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:51:42.57
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである!
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 18:52:45.72
鬼道、道教の起源地徐州ゆかりの三角縁神獣鏡
0162琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 18:54:58.28
曹叡は巫女を呼び祓わせたが効果なく処刑している
が卑弥呼に対しては別扱いしているんだな。
その辺のイタコとは違うんだな。
因みに曹家皇后では琪瑛は天后なんだよ。水神様だ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:00:20.94
ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:03:08.83
安本の天照=卑弥呼、および邪馬台国東遷説を読んでみたけど
話が出来すぎていてどうにも信用ならなかったな
神武東征の根拠は?と問われて「神武の英雄性です」
ここで一気にしらけた
0165琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 19:07:12.10
本州倭種が神獣鏡の神獣を説明していた人は誰よ?
崇神とやらか?何処からその知識を得たの?説明して
0166日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:10:43.98
>>159
>鷲崎は炭素年代法はその表よりも遡るって言ってんじゃないの?

そんな変なこと言う理由は?
0167 警備員[Lv.18][苗]
垢版 |
2024/04/09(火) 19:15:13.62
国譲りと神武東征どっちが先か?
って話なんだが、時系列で言うと、こう

倭国大乱後 漢鏡の変移からニギハヤヒ東征

相攻撃状  国譲り神話の最中

卑弥呼死後 国譲りの途中から神武東征にすりかわる

こうだろうなw
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:16:02.21
>>165
自分の頭を使って考えろw
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:16:55.38
>>163
>ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、

「有棺石槨」だっていう理由は?
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:19:34.69
国を譲ったのは出雲だよ
畿内から見てまずは出雲が先、九州を飲み込むのはそのあと
先に九州なんてことはない
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:22:29.84
>>170
アンタ面白いわ
まぁがんばってw
0173日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:22:38.02
シュリーマンのトロイア発掘みたく、俺の生きてる間に決定的な証拠が見つかって欲しい
0174日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:23:23.78
>>164
伊都国の製鉄王であった阿毎氏(神武)と出雲族令嬢(卑弥呼)の政略結婚
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:26:36.25
>>149
同じく鬼道と書かれてる五斗米道とか、近縁の太平道でさえも敵を呪い殺すような宗教じゃなかったと思うが
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:27:15.61
某九州説団体の主張はあまりにも荒唐無稽
14Cも年輪年代法も酸素同位体比年輪年代法も全て、M氏年輪年代法を元に作っているのではないかと言っているが、馬鹿馬鹿しいと言わざるを得ない
0177琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 19:29:55.34
168.そのいい加減な話を人に考えて貰うには辻褄があってないとダメだよ、
それは俺が考えるんじゃなくてあなたが説くの
何れにしろだな、朝鮮神宮はアマテラスなんだよ。
まぁこれが全てだな
また満州は阿残の地だしな。何故そんなに隠したがるのか?何故恐れるのか?解らんねぇ
我はこれまでを否定しないのにな、この国を勘違いしてるよ君らわ
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:32:29.11
卑弥呼の墓が「棺有りて槨なし」かどうかは分からない
この後にこう続く
「始め、死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日。その当時は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりするが、それは(一周忌に白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。」

すなわち、一般人の墓は棺有りて槨なしと見るべきである。
0181琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 19:37:29.09
178.そのとおり
倭人の風習が記されているのが倭人伝。
卑弥呼は鬼道で中華には全て説明されているのだよ。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:38:25.49
>>173
邪馬台国が畿内であることは明白であるが、シュリーマンのような証拠を期待するのは難しいでしょう
例えば、曹操の墓の決め手になったのは「魏武王」の文字のみ
いまだに、あれは曹操の墓ではないと主張する中国人学者がいるぐらいなんで
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:40:55.39
>>99
それNHK特集でもやってたけど
皇室廃絶キャンペーンの一環にしか思えなかったわ
0184日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:47:02.88
卑弥呼、卑弥弓呼の最後についてる呼(ホ)ってなんだろう?
0185 警備員[Lv.19][苗]
垢版 |
2024/04/09(火) 19:51:20.39
>天津サイド
初代卑弥呼 アマテラス
曹魏    タカミムスビ
・黄憧   オモイカネ
・黄幢   ヨロズハタヒメ
載斯烏越  サイシュフツ(ヌシ)

VS

>国津サイド
卑弥弓呼  ヒミコト(日命。ニギハヤヒ)
狗古智卑狗 ウヅヒコ(東征中の神武に従属)

完璧でーーーすw
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:53:51.96
😳なんかのパズルでもやってんのか?

てよりそれなら日本の創建の話とまったく関係なくなってくるだろ
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:55:00.86
>>180
やっぱり陸を水行してるな
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:57:12.90
>>188
たくさんの船頭を動員したら船で山を登れる、んだっけ



船頭多くして船山に上る
0190日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 19:58:21.66
卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である
・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼
・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼

魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)
時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている
男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか

古事記では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火照命(ホデリ=海幸彦)
・第二子 火須勢理命(ホスセリ)
・第三子 火遠理命(ホオリ=山幸彦)である

日本書紀では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火酢芹命、火闌降命(ホスセリ、ホスソリ=海幸彦)
・第二子 彦火火出見尊、火折尊(ヒコホホデミ、ホオリ=山幸彦)
・第三子 火明命(ホアカリ)である

記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶の建国神話、檀君朝鮮の檀君神話、モンゴルのゲセル神話には、天から王が降臨する神話があり、日本神話も同様である
伽耶は製鉄遺跡の多い地である
神武の父の??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武の名も製鉄業とされる彦火火出見命であるが、
これは後世に付けた名前であるのなら、祖父と別の名前にするはずである
漁猟だけの時代ではなくなり、稲作や鉄工といった資本関係が生まれて貧富の差が出来、そして長い年月を経て豪族と庶民の区別が出来た
九州では製鉄王が王様となっていたのである

畿内で行われた倭の覇権争い(いわゆる倭国大乱)を終結させたのは神武の婿入りである
倭の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、畿内への交易路を確保していたので安定した
0191日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:01:16.99
でもさ、卑弥呼の実在を疑う研究者って少ないけど、普通にありえると思う
「国民の歴史」で知られる西尾幹二は魏志倭人伝はとても歴史資料として扱えるレベルにないと断定した上で
卑弥呼の記述は日本に伝わっていた天照大神の伝承が反映されただけのものとした
0192日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:03:56.53
>>191
確実に正しいだろうと考えられる部分はある、国書の文面だ

ほかは全てフィクション、という可能性もあるだろうが……
0193日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:07:59.13
トンデモどもよ、まぁ、落ち着け!

お前ら、碌な遺跡がないんだから、いくら夢を見ても無駄なこと。 諦めな。   @阿波
0194日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:16:34.18
🤪🌿きえーきえーきえー

😄→🥶→💀 🐷何人呪い殺すニダ
0195日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:18:41.45
祭儀は全て卑弥呼さまが取り仕切っておられる🐷

何人も死んだニダ🐷
0196日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:19:14.81
>>189
バイキングは分水嶺を船を担いで超えたらしい
海人族も日本海側から太平洋側に船を担いで超えた可能性ある
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 20:28:28.16
前方後円墳の原型と考えられている陸橋を持つ弥生時代末期(2世紀中ごろ〜後半)の
大型円形周溝墓(直径約31メートル)が奈良県橿原市城殿町の瀬田遺跡で見つかり12日、
奈良文化財研究所が発表した。墳丘は失われていたが周溝ははっきり残り、
国内最大級の規模。奈良県内では初の発見で、専門家は「前方後円墳の誕生を考える重要な資料」とみている。
円形周溝墓は墳丘部の直径約19メートル。幅6〜7メートル、深さ約50センチの溝をめぐらせ、
南西部に長さ約7メートル、最大幅6メートルの陸橋が付いていた。埋葬施設は見つかっていない。
同県の大和盆地東南部には、最古級の前方後円墳・箸墓古墳(桜井市、3世紀半ば)があるだけでなく、
その前段階とされる纒向型前方後円墳も確認されている。今回の周溝墓は、
さらに古く、前方後円墳の原型だった可能性がある。

陸橋を持つ弥生時代の大型円形周溝墓は四国や近畿に多いが、同県内では見つかっていなかった。
奈文研は「纒向石塚古墳(3世紀初め)など『纒向型』と呼ばれる前方後円墳につながる形を持つ周溝墓だ。
奈良県内で見つかったことには大きな意義がある」としている。
石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)は「前方後円墳の先がけのような姿。
纒向遺跡に前方後円墳が誕生する直前の大和盆地の姿を解明する資料にもなる」とした。

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/2bb47f55156c471c570886e0ec5a6123_4097c6352c9267c8aa0660b65b043016.jpg
0200日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:33:01.90
>>198
なにこれすげえ
卑弥呼の墓だろこれ
0202日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:38:54.83
>>198
奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代終末期(2世紀後半ごろ)の陸橋付き円形周溝墓が見つかった。
しかし「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されている。
一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土しており、
弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされている。
さらに、弥生後期後葉になると、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがある。
隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である
萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)がある。
萩原1・2号墓は、突出部を持つその形状から日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、
奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されている。   @阿波
0203日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:39:50.81
8年も前の発見にいまさら何で?
このスレのレベルを疑ってしまうのだが
0204日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:40:20.10
>>201
奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代終末期(2世紀後半ごろ)の陸橋付き円形周溝墓が見つかった。
しかし「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されている。
一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土しており、
弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされている。
さらに、弥生後期後葉になると、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがある。
隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である
萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)がある。
萩原1・2号墓は、突出部を持つその形状から日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、
奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されている。   @阿波
0205日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 20:41:08.62
トンデモどもよ、まぁ、落ち着け!

お前ら、碌な遺跡がないんだから、いくら夢を見ても無駄なこと。 諦めな。   @阿波
0207日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 21:27:33.34
纏向=邪馬台国への自信の無さを吐露しているようにしか思えん
0209日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 21:41:15.78
古墳は壺型の蓬莱山。神獣鏡と共に神仙思想の産物。
0210日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 22:02:18.21
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0211 警備員[Lv.19][苗]
垢版 |
2024/04/09(火) 22:03:54.43
>>209
ご名答♪

851 日本@名無史さん 2023/12/26(火) 14:03:32.07
前方後円墳のカタチは「壺」から来ている

その「壺」は、「蓬壺」から来てると考察w

678 日本@名無史さん 2023/12/20(水) 12:52:43.19
蓬莱山 ←「蓬」は「よもぎ」

よもぎ→よも→黄泉→富士山

簡単な答えですw

よもぎの由来は、こっちが正解なんじゃないかと
訓読みでのねw

ちなみに蓬壺 ←ほうこ

ほう‐こ【蓬壺】
(その形がつぼに似ているところからいう) 仙人のすむという蓬莱山の別称。また、上皇の御所をたとえてもいう

↑前方後円墳のカタチの由来って、これでしょw

「壺」

つまり、前方後円墳は、蓬莱山を模してるとw
完璧でーすw


ちなみにちなみに「よも」 ←よもやま話の四方山
0212日本@名無史さん
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2024/04/09(火) 22:04:23.98
>>190
結婚してないって書いてあんだろ
最初から魏志倭人伝を無視すんなよ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 22:19:47.47
■本邦初の異国政府の公式訪問であった

  狗邪韓国、伊都国には「到」の字が使用されている
  その他は「至」である
  魏略で1万戸あった伊都国の人口が、魏志では1千戸となっている
  これは、かなりの短期間で、畿内への民族大移動クラスの東遷があった事を想起させる
  伊都国には、大和朝廷の王族、高官等が大挙集結していたのではないか
  女王に属す30ヶ国の官等も集結したはずである
  高齢の女王は面会に訪れず、だから直接会っていないとなっている
  「夫がいない」とは生涯独身ではなく、既に神武の未亡人なのである
  都の位置を問われ、倭人が方位で回答したと思えず、日出づる方角と回答したはずである
  魏は、伊都国までの経路を問うた
  であるならば、出雲ルートはあり得ず、瀬戸内海ルートの事を述べている
0215ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/09(火) 22:45:51.32
Xで久住先生のレスバを見たのだが、ネトウヨ九州説の底辺低知能の陰謀論者っぷりが酷いな
久住先生は韓民族の民族主義に批判的で妙に敏感なのが気になる。
日韓平等に国粋主義による学問のねじまげが嫌いという気持ちは分かるのだが、ネトウヨを叩くのなら韓国人は叩かないで欲しい

俺は大人としてネトウヨ陰謀論者を叩く先生の攻撃性を支持する
一つ要望としては親日韓国人は叩かないで欲しい
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 23:08:42.45
えべっさんの話でしょ
五色に光り輝く石を持つえべっさんは堺に降臨して、磐山を作り五色に光り輝く石を埋めた
後を継いだのは誰か?

元々日真名子は誰か?という話でしょ
卑弥呼、卑弥弓呼も誰かの配下だったんじゃないの?
0218琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 23:17:00.48
卑弥呼が配下にいるなら随分と控えめな支配者だな
箸墓の築造列にでも並んで居たのかな?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 23:18:01.70
出雲国一宮熊野大社
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。
「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。

神武天皇や神武天皇の兄、御毛沼命、三毛入野命と非常によく似た名だな
記紀では三毛入野命、御毛沼命は常世に去ったとある
和泉国風土記逸文には和泉国は三毛入野命の所領だったとある

若御毛沼命、豊御毛沼命、狭野サヌは神武天皇の名だ
スサノオに瓜二つ

兄と弟の関係はどうだったのか?
長い年月を経て弟から兄にという話じゃないのか?
長い長い大国主誕生迄の系譜は新たな大国主誕生の系譜かもな
最後はスサノオの姫を娶り完成する
0220琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/09(火) 23:25:19.72
出雲も宇佐も韓神であると言っとるだろう。覆せる要素はもう無い
思い込みは自由だが統一の信者とかわらん
0221日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 23:30:48.79
狗奴のミコト
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 23:32:58.55
アシナヅチ、テナヅチの子、櫛稲田姫クシナダ姫
ナヅが名の核だ
那津の板付遺跡から始まった稲作民の姫じゃないのか?スサノオの妻は

ナヅの木は枯野伝説の返歌に登場する
楠は切られ船にされ最後は燃やされて琴だけ残った

クニの語源にも関係するがクには神聖なという意味があるらしい
スは鳥だ
神聖な鳥の木が楠
琴は女、姫だろう
楠はスサノオの眉、眉は目マナコの上にあるものやな

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
といふ。此これは志都しつ歌うたの歌返うたかへしぞ。(仁徳記)

最後は琴だけになった楠
ナヅの木は由良の門の石に触れて蘇ったのだな
楠から由良の門の石に
0223日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 23:35:41.50
仁徳天皇陵は新しい大国主、聖ヒジリの墓じゃないの?
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 23:40:11.11
楠を切ったのは誰だ?
楠の船を燃やしたのは誰だ?
という話だろ?
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/09(火) 23:44:18.77
テとアシが生えずに誕生したのはひるこでしょ
イザナギ、イザナミの長男
稲作民がやってくる前、縄文時代より前、淡路島より前に誕生したのがひるこ
ひるこのえべっさん
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 00:14:40.88
>>224
> 楠を切ったのは誰だ?
 
親父を殺ったのは足利尊氏。
伜の方は高師直だったか。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 01:09:53.62
>>196
分水嶺のとこで川と川の間を陸路で船を渡したって話はあるよ
ほかの分水嶺よりも低い、平坦に近いとこを通って越えられる便利な場所として丹波が有名らしい
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 01:11:56.07
>>214
安房ってだけあって、思い切り泡沫候補やな
0230日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 06:37:39.35
>>160
266年に、後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。また鯨漁の「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 06:51:35.71
筑紫は隈・西小田遺跡が最大の勢力であり、そこに邪馬台国はない
0232日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 06:53:43.95
楼観なし城柵なしの纏向遺跡は4世紀。そこに邪馬台国はない。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 06:57:49.45
魏使も張政も纏向まで陸行したなら、日数表記ではなく里数表記になっているはず。
つまり纏向まで行ってないわけで、卑弥呼の年齢、宮殿の墓の描写だけがやけに詳しく具体的なのは変だ、とまともな人間なら気付くだろうねw
0235日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:00:15.03
纒向が3世紀であることは桃核12個から明白
4世紀よりはむしろ2世紀の可能性が高く、3世紀であることが確実
0236日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:00:43.06
>>150
>>152
魏志倭人伝の記述に完全合致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマトの諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳作文)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマトの諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w
0237日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:01:04.54
>>234
九州説であったとしても畿内であったとしても行ったと見るべきである
0238日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:05:23.29
行ったなら里数が分かりそうなもんだが
0239日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:05:51.62
女王国東渡海千里 複有国皆倭種、又有侏儒国在其南去女王四千里は明らかに本州と四国。
また南陸行一月だが、魏使・張政が「陸行」してる時点で里数表記になってるはず。
しかも卑弥呼に直接会っていると思しき年齢・政治体制(弟が摂政)、宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛、殉葬百人など直接見ていない情報から、
彼ら魏人は九州島を出て纏向まで行っていないことは明らかだw
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:06:58.25
直接見ていないと書けない情報からw スマホ
0241日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:09:07.67
九州では、漢鏡7-2画文帯神獣鏡の20面の半分は大分から出る
また、三角縁神獣鏡も北部九州の東岸(より畿内に近い方)から出る

筑紫に邪馬台国があった可能性は全くない
0242日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:10:59.03
つまり邪馬台国が纏向にあった可能性はゼロだw
0243日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:15:06.38
中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)
0244日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:20:38.28
帯方郡からが
循海岸水行歴韓国乍南乍東
各寄港地名と説明

瀬戸内海だか日本海が
南至水行20日投馬国
南至水行10日
って、倭国内は
何も説明してなくないか?
0245日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:24:20.23
つまり畿内説は論理的思考力皆無の小卒レベル
0246日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:29:04.41
女王国は、伊都国(糸島市)の南、狗奴国(菊池市)の北、にあったんだよw
0248日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:32:15.31
女王国というのは、伊都国や奴国や不彌国の総称

伊都国は神武の一族、不彌国は応神の一族
畿内生まれの創始者は崇神のみ
0249日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:35:06.88
>>247
投馬は(中)津かもしれない
0250琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/10(水) 07:37:41.84
無駄だよ、液やくは宮廷保護者、その者に送られている以上張政は都に行っているのだよ
伊都の官は刺史のような者
これは地方官。
全くいい加減な話をしているのが九州である
九州の責務は平原は朴個人崇拝の地域であり卑弥呼以前の北九州はどうであったのか?を解明すべき
卑弥呼倭の管理下は覆えらない
0251日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:43:48.26
畿内説は印象操作がんばるべしw
0252日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:56:29.89
最低でも上陸地名と戸数は書くはず。
海岸水行なのに、島や浜のような
土地や人々の様子も記録して無い。
別の文だろ?
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 07:56:38.42
>>235
まぁ、落ち着け! 纒向が2世紀であろうが3世紀であろうが、倭人(阿波勢力)の墓であることに変わりはないんだから。   @阿波
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 08:03:37.82
>>252
魏略では対馬も行って、不彌国まで行ってる
魏志では日本では伊都国のみで各国高官と面会している
邪馬台国は魏略には出て来ない、魏志で伊都国で聞いた話
0255日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 08:04:33.05
魏略では狗奴国も行っているな
つまり、狗奴国までが九州
0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 08:10:08.66
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する
0257日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 08:17:19.27
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ

狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿市の方保田東原遺跡がある

邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時のルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻)すなわち投馬国もある

邪馬台国と狗奴国の間の菊池川流域には鉄鏃が大量に出土し、両国の間に激しい戦いがあったことを示唆する

邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる

魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する

帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ

魏志倭人伝の方角、距離、位置関係を素直に読めば、邪馬台国やそれを含む連合国倭国は自然と北部九州に収まることがわかる
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 08:26:34.93
廣志を見れば倭国が九州島であることは確実


「倭國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、
 百女國以北、其戸數道里、可得略載、
 次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、
 安倭西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革為衣、蓋伊邪國也。」

→倭国、東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。又南して邪馬嘉(台)国に至る。・・・
  次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。
  倭国の西南に海行すると1日で伊邪分國(屋久島)に到達する。・・・
0259日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 08:41:50.29
>>258
廣志にそう書いてあった証拠ないんだよね

残念でした
0260日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 08:43:27.88
>>255
魏略は倭が九州であることを
理解している。

船を降りて歩いたら
伊都、不弥国から水行は不可能。

投馬国は弁韓とは思うが不明?
邪馬台国は女王国のこと。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 08:59:19.35
>>152
>>154
魏志倭人伝の記述に完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳作文)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマトの諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 09:09:32.33
>>261
「魏志倭人伝の記述に完全に一致している」って
印象操作に必死な九州説
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 09:10:43.34
つまり畿内説はオレオレ詐欺
0264日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 09:37:51.15
魏志倭人伝の唯一正しい記述は大和朝廷がわざわざ卑字の漢字を書き換えている耶麻等、野馬台の名前。邪馬臺=ヤマトだけだw
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 09:51:28.99
>>244
帯方郡から循海岸水行歴韓国乍南乍東の日数が何故ないんだ?
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 09:52:19.92
つまり畿内説は記紀の後付け地名ヤマトによる電波
0267日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 10:01:21.21
>>256
卑弥呼派倭王だから
帥升も倭王だし漢代に金印貰ったのも倭王
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:04:41.61
>>247
投馬国は寄港地の対馬だよ
日本に向けて出発する直前の港
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:06:30.79
卑弥呼時代の紀年鏡が複数ある時点で邪馬臺=ヤマト。4世紀の古墳王朝には邪馬臺国の後継意識があった。
九州ざまあーwww
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:07:39.73
対馬を避けて狗邪韓國なんか行くわけねえじゃん
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:16:08.27
紀年鏡の謎は、富雄丸山古墳(4世紀後半)から出土した5世紀の蛇行剣追葬により、解決している
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:21:47.83
奈良って紀年銘鏡少ないよね
鏡の総数に対する紀年銘鏡率は、出土県の中で最下位だ
これがなんの指標になるのかね?
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:24:07.97
富雄丸山古墳(4世紀後半)の蛇行剣は、5世紀(50回忌か)に制作され、追葬されたと見られることから、
紀年鏡など築造年代と合わない副葬品は、前期古墳では主体部に直接追葬したものと考えられる。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:24:43.90
漢代の紀年銘鏡は違うと思うけどな
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:26:28.78
>>272
纒向石塚、東田大塚、纒向勝山、纒向矢塚、箸墓、行燈山、西殿塚
めぼしい墓はほとんど調査してない
桜井茶臼山正始元年鏡は出てるが
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:29:19.44
>>265
>帯方郡から循海岸水行歴韓国乍南乍東の日数が何故ないんだ?

フィクションの1万2千里を記録したい人たちが記録から消した。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:29:57.49
中国サイドからすると、九州卑弥呼の邪馬台国がすでに倭国の中では一番有名な国になってたので、
畿内大和王権は九州併呑後にその後継を名乗った。後継意識はあるけど、客観的に見ると乗っ取りとかなりすましって感じになるわね。

旧唐書に、倭人がいいわけしまくってる描写が書いてあるしね。
倭人の言ってることを中国官吏があやしんできいてる描写もあるしね。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:32:59.25
富雄丸山古墳(4世紀後半)の蛇行剣(5世紀)の画期性は、副葬品の追葬の可能性が高まったことで、
紀年鏡が出たからと言って必ずしも築造年代の特定には至らないということで、「副葬品=築造年代」としてきた畿内説の牙城を根本から覆すものであることだw
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:33:07.93
>>276
瀬戸内海だか日本海が
南至水行20日投馬国
南至水行10日
って、倭国内は
何も説明してなくないか?
この書き込みに対するレスだよ
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:38:22.41
>>277
逆だろ
あの言い訳は朝貢してた国とは別だよと言いたいんだろ
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:42:08.33
まあ実際に朝貢してた国とは別種だしね
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:44:19.28
>>281
だったら正直に知らない人たちと言えば良いんだよ
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:49:41.18
正直に併合したと言ってる
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:49:53.93
卑弥呼どころか倭の五王も知らないって事になるからな
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:52:49.41
倭人「我々は元小国であったが倭の国を併合した」
倭王武「先祖が西に66国を併合した」
倭王讃「祖父が西に66国を併合した」

畿内説「全部嘘です」
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:54:23.93
>>283
併合したってのは飲み込んだって意味だろう
併合されたんなら正当な後継国になってしまうし立場は属国
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 10:57:21.81
>>278
つまり畿内説は単細胞クズ
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:05:27.54
>>278
九州説さん
考古学を無視した妄想して、なんか楽しいの?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:07:56.15
畿内説に転向した文盲クズは黙ってろw
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:18:37.32
大和朝廷が邪馬臺国の後継なのは否定できないwwww
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:29:11.88
九州北部に5万戸7万戸の大国とか、一ヵ月歩くとか普通に頭おかしい
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:29:50.23
>>289
論破されると罵るだけになるから
九州説の敗北は分かりやすい
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:32:09.43
楼観なし城柵なしの纏向遺跡は女王之所都ではないし、吉備特殊器台の(殉葬がない)箸墓は卑弥呼の冢ではないw

ハイ論破!w
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:34:32.53
>>293
投馬国邪馬台国は何処で、どこを一ヵ月歩くの
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:37:39.75
倭人伝の日数記事は、里数記事を日数に換算した後世の加筆注釈にすぎない。作成時期も作成者も異なる。里数記事と日数記事を連続して読んではいけない。
郡から狗邪韓国(投馬国)までの水行7000里は20日に換算。
狗邪韓国(投馬国)から伊都国までの水行3500里は上記の半分なので10日に換算。
伊都国から女王国(邪馬台国)までの陸行1500里は1日50里(約20キロ)進むので30日に換算。
注意点は、以下の3点。
①里数記事は総距離を12000里と引き伸ばしたため、いわゆる短里(一里=80m)ほどで書かれているが、日数記事作成者は事情を知らず魏の標準里(一里=434m)で計算している。
②末盧から伊都は本来は東南水行500里。壱岐から末盧を目指し南下し南東に向きを変えて伊都の港に入る。末盧には寄らないので官の記録ない。方向も南東。行くに前の人が見えずと言うのもアクシデントで上陸したことを示している。
③投馬国と邪馬台国は日数記事作成時の情報が反映されたもの。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:41:09.64
>>295
結論しか言わないので九州説はお互いの主張すら理解し合えない
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:41:12.55
漢劉氏以来の万世一系、漢民族のみにしかなれない天子のルールを鮮卑の隋、倭の日本は破った。
天子になったら漢民族から見下された民族史は否定するだろw隋なんて鮮卑文化放棄宣言してるもんなw
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:41:55.90
沼と干潟だった古代筑紫平野に大国は無かった 終了
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:46:56.12
つまり畿内説は印象工作オレオレ詐欺
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 11:55:34.41
>>298
そこ奈良に置き換えても通じそう
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:00:45.51
>>300
干潟は海岸に出来るものですが
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:01:43.07
表音文字と表意文字の違いくらい分かるだろ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:02:57.37
>>302
沼と湿地帯だらけで困っちゃうな
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:04:07.26
呉越の末裔ってなら遺伝子🧬はハプロO1を示すはず

だがそれ以外にも曹魏もハプロO1だし東南アジアもそおだし韓国人らもそおだ
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:05:19.94
母さん、俺だよオレオレ、畿内説!w
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:05:32.24
言っても理解すらできず参考にもならんて言ってるやつらはしょせん初めからニセモンなんだよ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:05:46.82
日程記事と里程記事は、単位が距離から時間にいきなり変わってるし、戸数の書き方も違ってるね
系統の違う史料なんだろうけど、意図的につなげたかもね
倭国を遠い大国とするためにね
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:06:18.28
>>291
大阪から奈良まで1ヶ月歩いて7千戸も変でしょ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:06:31.84
日本語ってのは縄文人らの使う言葉に漢字を当てはめて表現できるように細工をしたもんなんでな
0311日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:25:29.36
大阪から奈良なら里数表記

ハイ、論破!w
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:26:24.27
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0313日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:26:51.13
ヤマト以前に、
近江や摂津、大阪が拠点集落なのは
古墳や倭の五王でも明らかだが、

倭人伝は、なんでいきなり、
邪馬台国5万戸なんだ?
畿内で良いけど、
ヤマトは奥地。

邪馬台国がヤマトなら歴史や地勢は、
どーでも良いのか? 淀川は?
対馬や壱岐の説明有るのに?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:27:31.68
なんだか畿内説が可哀想になってきたよw
0315日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:38:20.15
後漢書に後漢の時代のことがしっかり書かれてるよ

倭は韓の東南大海の中にあり山島に居住しおよそ百余国ある
武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどで
国はみな王を称し代々受け継いでいる
その大倭王は邪馬台国にいる
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:45:48.13
>>244
倭国は地の果ての国で詳しい地理は分からない、という前置きがあるんだから、おかしくないだろ
0317日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:48:46.27
自女王國以北 其戸數道里可得略載
女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来る
里数が記載できとらんな
0318日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:49:57.73
>>313
伝聞だし、纏向は王権以前から栄えてたスーパー遺跡
奈良盆地全体だけでも博多周辺より広いし、河内平野もデカイ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:50:17.48
>>272
奈良の古墳は大半が発掘できないから副葬品の出土が珍しいんだよ

高松塚含め少数の発掘しか行われていない

発掘の大半は古墳の中ではない場所なんだ
0321日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:52:07.57
>>277
むしろ、記紀の編纂直前ごろまで中国での呼称のことを知らなかったのではないかな
0322日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:53:49.80
>>313
魏略では熊本までしか行ってない
魏志では伊都国しか行ってない

邪馬台国は遥か彼方の国
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:56:28.19
>>297
南北朝時代にはマトモな王朝はない

朝廷から追い出されて地方にすんでたハグレ皇族が建てた東晋がかろうじて漢人貴族系、それ以外はみんな賤民皇帝の国、隋や唐も含めてな
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 12:59:14.57
その以北は行程としての道里で、
南下してきたから、通過してきた
国々の戸数も記載出来た。

って、話で
東行したから要らないのかもな?
奈良じゃ女王国以東表現も無理。

まあ、伊都からは
乗ってきた船無いし、飛行船www
0326日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:16:00.18
まあ本物の周王朝系すら跡形もなく記録すら消えてるからそんなもんやろ

匈奴王朝系の武将やらそんなもんが古代中国の武将なのか?
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:19:17.95
モンゴル高原に存在した匈奴王朝はハプロQ

あの羽飾りだのは匈奴の名残りなわけだ

周は武将すら出さんかったわけか

始皇帝はO2だろ

呉の伝統だのか伝わった日本の兜飾りは位牌、もしくは鬼の顔
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:20:59.03
モンゴルはどこだ?

その隣、沿海州にいたまだ現地在住の部族ですよ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:22:34.97
古代に秦が存在したところより西側に漢人と呼ばれた連中らの大半が住んでたのだ

つまり山西より西側
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:24:48.79
>>318
奴国2万戸より少ない奈良7千戸
0331日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:25:19.75
東夷って呼ばれた連中らは元は周王朝と戦争やってるからな

そんで征伐されるかなんかして上の方が周王朝系の皇族やら貴族やらが占めるようになっていった

そのときすでに離反したのも出てきてるんだろ

周王朝のハプロはNっての解明されてるからな

そいつらもまたみんな追い出された

民族としてもほとんど消えた
0332日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:30:03.81
もともとは呉の武将らが兜に位牌みたいの飾って戦闘をやったみたいだしな
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:31:41.38
匈奴って風貌的にはもともとトルコ系に近い連中らだろ
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:38:07.66
漢以降、中国内ではどんどん漢人(O2)が増えていった
その逆に東夷人(O1)だの呼ばれた連中らは中国から出て国外に渡るのが多くなっていった

中国人らから見て自分らの認識できないところに行くのが増えたわけやな
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:40:28.96
中国東海岸地方にいたやつらが国外に拡散したってのは分かってるからよ

逆に異民族だの言われた連中らが中国内をめざすようになっていったのよな
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:46:07.72
古代に瀬戸内海航路が避けられてたのを知らないアホ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 13:47:33.16
>>330
吉野ケ里一帯は5千人
0339日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 14:34:48.82
>>313
ヤマトは日本の事だから近江や摂津、大阪くらいは全部含んでる
0340日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 14:35:50.27
弥生時代弥生前期で最大規模か 奈良・中西遺跡に新たな水田跡

弥生時代前期後半(約2500〜2400年前)の水田跡が確認されていた奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡で、新たに約3500平方メートルの水田跡がみつかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が20日発表した。水田跡は延べ約4万3千平方メートルに及び、これまでに確認された弥生前期の水田跡では全国最大規模とみられる。弥生時代初めに稲作が朝鮮半島から日本列島に伝わったとされるころからまもなく、奈良盆地で灌漑(かんがい)施設をそなえた大規模な稲作が営まれていたことが明らかになった。

 橿考研によると、京奈和自動車道の建設工事に伴い、今年4月から約6千平方メートルを発掘調査した。出土した水田跡の数は410区画、1区画あたりの面積は平均約9平方メートル。小さなあぜで区画され、表面には人の足跡も残っていた。足跡の長さは約15〜26センチで、土を軟らかくするために踏んでいたとみられるという。川のような跡もみつかり、両側に田んぼがつくられていた。弥生前期末(約2400年前)に洪水の土砂で埋まったとみられ、一帯の水田の広さは約10万平方メートルを超えていたと推定される。

 弥生時代の水田に詳しい大阪府立狭山池博物館の工楽善通(くらくよしゆき)館長(考古学)は「稲作が最初に伝わったとされる北部九州でも、これほど大規模な水田跡はみつかっておらず貴重な成果だった。今後は稲作を営んだ人が暮らした集落跡や墓地の発見に期待したい」と話す。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 14:39:53.69
今の中国人(漢人)呼ばれてるやつらの方がチベット系とは混血している連中らが多い

まあ場所的にそおなるわな
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 15:01:07.37
魏志倭人伝も魏略逸文も唐突に女王国とか女王とか出て来るな
魏略は女王が何なのかわからないし魏志もずっと後まで読まないと
女王が倭王だと分からない
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 15:14:24.91
>>343
稲作に向いた場所ってのはわかる
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 15:28:25.89
>>343
古くから稲作が盛んだった場所って認めたくない?
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 15:59:43.67
>>346
ところが、弥生の気候変動による大洪水で灌漑稲作は壊滅。 集落遺跡も土砂に埋まり、廃絶となった。   @阿波
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:02:36.14
そこで「卑弥呼」=「大宜都比売命」による雑穀栽培が倭国(阿波)から全国へと広まっていった。   @阿波   
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:33:11.24
>>347
おまえが何故それを言い続けてるのか訳わかんないんだけど
誰に教わったか知らんが伊勢遺跡とか埋まってないよ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:50:48.32
>>340
これは神武
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:50:59.03
阿波の宗教
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:53:09.70
長江百越がO1aらしいからな

O1b1がインドまで到達しO1b2が北東アジアに広がった
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:54:02.32
台湾先住民もO1a
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:55:45.27
まあ見た目はあまり変わらないだろうが日本に直接来たのは長江そのものとは言えん

長江より北側は確かだけどな
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:57:27.22
百越地方は東夷とは呼ばれとらんのよ
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:57:52.09
閔越って呼ばれたの
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 16:58:50.02
つまり周との戦争は経験しとらんのよなあ

中国史では名指しで東夷征伐が行われているのでな
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:01:13.03
>>278
紀年銘鏡はそもそも富雄丸山から出ていない
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:03:05.04
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:03:52.39
中国で閔悦との戦争みたいのが行われたのは漢の時代なのや

はっきり皇帝命令で討伐軍でとるんでな

周による東夷討伐だのってのが紀元前700-800年頃

漢による閔越討伐が紀元前100-200年ころか

その閔越が後のベトナムなんかにも繋がってくるわけだろ

はっきり東夷の離散組が弥生人だよ
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:03:56.28
>>330
魏志倭人伝には、「奈良」という言葉も「7千戸」という言葉も出てこない
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:05:32.23
>>322
魏略は伊都国までであり、それ以降は散逸したと見られる
魏志は伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国である
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:05:41.33
まあどう言っても弥生人は北東アジア系統でしょう
古墳人はよくわからんけど
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:10:11.74
>>313
隋書にもヤマトの地勢や淀川の記述はない
歴史の記述はある「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
すなわち、魏志で言う邪馬臺なる者なり
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:15:42.75
>>364
形質のコンピュータ解析では渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、
朝鮮人骨よりもはるかに沿海州の北方民族に近い形質だという結果だった
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:16:20.43
>>365
文字のない蛮族の何百年も昔の話なんてどうやって調査したんやろな
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:18:53.25
自分は邪馬台国初心者なので、スレのレベルにまだ全然ついてゆけないが
國國有市、交易有無使大倭監之 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之 常治伊都國、於國中有如刺史
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
この部分を最初に読んだ時に九州説以外にありえない!と思ったことだけは依然として変わらない
畿内説を主張する人が本当に不思議で仕方がない
それとも自分がまだまだ未熟なのだろうか
0369日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:25:49.10
>>367
隋の時代は邪靡堆が都って事だ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:26:27.94
>>365
でもそれ、
倭王が別国也って、否定した事。

昔の史書の
倭国を併合して
今はここヤマトが都
って、聖徳太子が言った。

聖徳太子は魏志読んでて九州説。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:30:56.40
>>368
俺も最初は行程で九州だと思った
ただおまえが例に挙げてるのはよくわからんな
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:36:58.40
370
別国なりってことはその地に国としては成立してるってことだよ

紀元前の日本から出てくるのは銅鐸や

だから日本銅鐸王国と書いた

中国の楚と呼ばれた時代と同じ風習なんだがよ
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:37:17.81
>>365
裴世清は瀬戸内海ルートで
中国人町や難波津でも待たされた。
奈良から飾り馬のチンドン屋が
行列で迎えに来た。
詳しいよ。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:38:33.55
>>370
しどろもどろのいい訳でしょ?
でも尊大
質問されて「そりゃあ、おめえあれだよ」
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:39:00.25
周王家の者らが日本に来たなんてことは言っとらん

飯炊き釜が皇帝のシンボルなの周だろ

それの取り合いをして始皇帝が探せー❗って命令したとか

で見つからなくて金印を作り始めたんだろ
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:39:12.10
>>371
玄人的にはそうなるのですか…
自分はこの2か所で九州以外にありえないと思ってしまいました
「邪馬台国の東に海が続き、その先に倭の国がある」
「邪馬台国の(そう遠くない)北に伊都国がある」
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:41:13.66
>>369
後漢書李賢注(唐代)にもあるように案じないと邪馬臺国の訛りかどうかわからんわけで
何か核心があって魏志の邪馬臺国だと言ってるわけではなくて
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」ヤビタイは発音が似てるから魏志のヤマダイだろうと推測してるにすぎない
0378日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:41:16.53
>>368
>この部分を最初に読んだ時に九州説以外にありえない!と思ったことだけは依然として変わらない

思った理由の言えないところがーーー

>それとも自分がまだまだ未熟なのだろうか

ーーー未熟だと言える
0379日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:43:22.08
>>376
思う理由がわからない
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:43:59.84
>>378
これから勉強していきたく思っています
理由としては>>376でどうでしょうか?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:44:13.47
漢委奴国王と倭国王帥升(倭面土国王帥升)が北部九州にいたのはほぼ間違いない。
では、親魏倭王がどこにいたか?
畿内が有力だが、魏志倭人伝の文言と畿内の出土物が全く一致しない。纏向遺跡も箸墓も倭人伝の記述とは、大きくかけ離れている。吉備あたりの可能性が高いんじゃないかと思ってる。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:45:21.93
女王国東渡海千余里復有国皆倭種は畿内説にとって致命的にすぎる
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:46:28.84
>>373
>中国人町や難波津でも待たされた。

その難波津は、さぬき市の難波郷津田の津な。

後期聖武難波の宮に、津はないから。   @阿波
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:46:57.77
>>376
ドの付く素人だけどさ
まず倉庫はいたる所にあるしそこで市をやって物が行き渡るようにしてたと書いてある
大倭は役職じゃなく中国人に理解できる偉い倭人とかそんな感じ
それと一大率は刺史のような地方官で伊都国だけに居るんじゃない
軍隊を率いてるから恐れるのは当たり前
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:51:13.11
普通は、

東に海がある→周防灘かな?畿内説なら伊勢湾だろうけど無理があるな。当時は海岸線が内陸に入っていると言っても。
北に一大率があり、伊都国に治す→糸島市の南だから九州かな?
南に狗奴国がある→東海地方を狗奴国とするのは無理だな。南ではなく東だから。熊本平野、菊池平野ならバッチリだな。となると九州だな。
会稽の東→畿内に中心がある国を会稽の東なんて表現しないよな。やっぱり九州北部だな。

普通に読めば畿内説は無理でしょとなる。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:52:50.92
>>377
ずっと中国から行く場所は変わってないんでしょ
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:52:59.73
銅鐸は古いよ〜

すでに紀元前700年ころには作られていたからね

フィリピンからも出るし東南アジアからも出る

その連中らでそっちに行ったのがいるってことだな
0388日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:53:10.60
>>385
畿内説にとって都合が悪い記述は全て嘘ということになるのでへーきへーき
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:53:18.83
地面を掘るのもタダではないし、遺跡を保護するためにも邪馬台国やら卑弥呼やらを示唆すれば有利になるよ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:53:46.82
>>385
魏略には東とは書いてない
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:54:21.49
>>384
どうもありがとうございます
頓珍漢な質問をしてたら申し訳ないのですが、
多くの人が北九州に比定している伊都国に近い(ように記述されている)邪馬台国が九州にある
という考えは単純すぎるのですか?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:54:21.86
つまり畿内説は時空を歪めて印象工作を行い妄想作文を歴史と呼ぶ韓国式ウリナラ起源説でしたと
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:54:29.07
現代の中国の文化とはちょっと異質かもしれない
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:54:40.23
>>390
逸文しか残ってないから書いてないのか書いてあっても残ってないのかわからん
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:55:46.82
なんか土の中に埋めて呪いするんだか国境線とするんだか知らないが銅鐸を地面の中に埋没させるのは中国でもやってるからな

なんかの結界なんかな?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:56:09.00
>>391
俺も最初はそう思ったのよ
遺跡は近畿が圧倒してると分かってても記述は九州を指してるよね
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:56:46.74
倭人伝に出てくる倭人は、身なりも整っていて嘘を付かない正直な民族だとの事
つまり邪馬台国民は関西人とは真逆の特性を持った人たちだったわけだ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:56:52.95
>>391
一大率が女王の北にあるということについては、
畿内説はそれには答えない。
質問に質問で返してくるか、アホとか馬鹿とか罵詈雑言を浴びせてくる。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:57:25.35
396
そりゃ魏と関連が深かったからじゃないの?

関連の無いところほど分からないものだろ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:57:44.24
>>375
炊飯器の鼎が王族のシンボルになったのは夏王朝から

秦代から鼎ではなく玉璽になった

ただ陶鼎は後漢の時代まで中国の炊飯器の中心だった

それ以降は竈が中国の炊飯器の中心となり、鬲鼎はあまり使われなくなった

ただ南支那の内陸部の山奥では今でも金属製の鼎が使われている
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:58:36.02
邪馬台国の情報が書かれている文献は魏志倭人伝だけではありません

【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 17:58:43.98
>>396
どうもお邪魔いたしました
今後もスレを楽しみつつ探求を続けます
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:00:17.44
>>398
それはその通り
ただ出雲から瀬戸内海沿岸に向かうと一旦北に向かうんだけどね
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:01:48.20
>>396
>記述は九州を指してるよね

とか思うのが九州説貧困の名残り
どこでそう思う?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:02:14.18
>>324 のつづき
北朝の場合は「遊牧民という賤民のなかの貴族」が皇帝になってる

南朝は、宋の劉氏含めだいたいは、兵戸という賤民の出身者が皇帝になってる
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:03:43.54
>>398
>一大率が女王の北にあるということについては、
>畿内説はそれには答えない。

というような嘘を言っちゃうのが九州説の脳貧
0407日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:04:25.57
>>404
そう言われても短里とか伊都国とか奴国とか全部正しい前提だから
0408日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:05:51.49
畿内説いわく
古代日本列島は90度傾いてたから西が北だったそうな
月刊ムーかと思っちゃった
0409日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:06:17.52
>>402
最後に一つだけ
魏の時代に短里は存在しない
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:07:46.79
韓国人らの主張してるのはウリナラ朝鮮史だからな

古代朝鮮皇帝は周王家の分家
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:08:25.47
😩バカやろ❗ってな

自分らを名門に見せかけるための工作よ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:17:56.79
>>368
全く未熟
まだまだ素人
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:21:32.07
>>382
魏晋南北朝史学会副会長の陳長崎先生の説を採用し、この部分の竹簡を57年〜107年のものと見る
0414日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:22:38.12
>>381
紀年銘鏡から三角縁神獣鏡が完全に一致している
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:25:00.86
>>408
そのように考えるべきではない
「倭国にある物と無い物は海南島と同じ」との記述から、先に南北に伸びた地図、あるいはそのような概念があったと見るべきである
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:26:12.63
>>413
そんな変な説を採用する理由は?
0417日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:26:17.87
>>368
陳寿は「プロ」に読ませるように書いてないからそれで正解だよ
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:27:11.02
>>416
伊勢湾を渡海すべきでないから
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:28:58.99
>>408
>畿内説いわく
>古代日本列島は90度傾いてたから西が北だったそうな
>月刊ムーかと思っちゃった

畿内説がこんなこと言ったって証拠は?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:36:40.75
>>391
>多くの人が北九州に比定している伊都国に近い(ように記述されている)邪馬台国が九州にある
>という考えは単純すぎるのですか?

単純とかいう以前に
「伊都国に近い(ように記述されている)」
という証拠は?
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:37:13.74
半島と出土物が一致しないんだろ

な〜るほど🧐
0422日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:38:21.29
遺伝的に近いと言っても三万年くらい開きがあるらしいからな
0423日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:39:45.76
>>418
>伊勢湾を渡海すべきでないから

「渡海すべきでない」という理由は?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:40:24.88
>>423
陸で行けるから
単純な話
0425日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 18:42:18.00
通説畿内説同士の戦いの方が面白い
0426日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 18:43:33.82
>>385
そんな狂った考えを普通だと思う理由は?
0427日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 18:44:46.64
>>385
通説畿内説だがその通り
0428日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 18:45:53.17
>>424
>陸で行けるから

陸で行けるから渡海すべきでないって理由は?
0429日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 18:50:13.65
>>407
>そう言われても短里とか伊都国とか>奴国とか全部正しい前提だから

つまり前提に根拠が無いのが九州説
0430日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 18:51:18.46
>>428
テンプレはこのように言い訳をしている。
山東半島→遼東半島も陸で行けるが、渡海していると。
全く馬鹿げた例を挙げている。
山東半島→遼東半島は渡海すればわずか100キロであるが、陸で行くと1200キロもある。
どう考えても、その多くは渡海したと見るべきである。
他方、畿内邪馬台国では伊勢湾をわざわざ渡海しなくても歩いて行ける、むしろ歩いた方が安全かつ近いと考えられるのであるから、
畿内→東海を渡海千里で又倭種というのは極めて不自然である。
0431日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 18:57:46.55
>>430
>畿内→東海を渡海千里で又倭種とい>うのは極めて不自然である。

「畿内→東海を渡海千里で又倭種」と言ったのは、どこの誰?

誰に反論してるの?
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 18:59:08.84
>>431
テンプレ
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:01:14.56
>>432
証拠は?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:01:49.75
さあ、通説畿内説は伊勢湾渡海説にどのような反論をするのか
通説畿内説のあざやかな反論は手強いぞ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:02:32.32
>>295
こんな屁理屈をこねくり回して、
辻褄を合わせようとするのが痛々しい
それは結論ありきだからなんだよ

目的地が決まっていて、それに合わせて逆算しようとするから
こんな理屈が出る
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:03:17.51
>>434
伊勢湾渡海説を主張してるのは誰が
0438日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 19:05:35.48
>>433
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:10:27.30
>>438
遠駿相総に行くって
伊勢湾渡海説じゃないよね
0440日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:12:02.36
>>361
周の頃の東夷征伐って山東半島攻略戦のことで韓半島への進出より前やぞ
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:13:09.50
満州あたりには3本足のカラスの伝承があるんだっけ?

3本足の香炉に変な🐷みたいな珍獣の顔を乗せた珍しいのも見つかってるしな

なるほど〜🧐
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:14:15.06
>>439
そうではなく、例えばそれならこうでも良い。
「邪馬台国から東にはまた沢山の国があり皆倭種である」

さあ、通説畿内説同士の頂上決戦だ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:16:51.80
>>435
>目的地が決まっていて、それに合わせて逆算しようとするからこんな理屈が出る
目的地が決まっていてそれに合わせて捻じ曲げると南は間違いで本当は東とか言い出しちゃう
0444日本@名無史さん
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2024/04/10(水) 19:16:53.03
>>295
面白かったです
その論の真偽を確かめる術は自分にはまだないが
その説で一冊、本が読みたいw
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:17:09.33
>>280
「日本の国は、倭国の別の種なり。 その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」そして続いて言い分が異なる二例を挙げ、
まず「或いは曰く、倭国は自ら其の名が雅でない事を悪(にく)み、改めて日本と為す」、
しかし続いて「或いは云ふ、日本は旧小国。倭国の地を併せる。其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(傲慢)、実(真実)をもって対(こた)えず。故に中国、焉(これ)を疑う。」
総括として前者の言い分には懐疑的であり、後者の見解により「日本の国は、倭国の別の種なり。
その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」の言葉となっている。
そして地勢が述べられ、「又云う、その国境は、東西南北各数千里、西と南の境界は大海に全て至り、東と北は大山が有る為限られている。
山の外は即ち毛族の国である。」と記述されている。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:19:15.84
>>384
漢代の刺史って巡察/監察官で軍権も行政権もない(といっても、任地の町だけは治めた)んだから、一大率も軍権無さそうな気がする
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:22:50.67
>>442
>さあ、通説畿内説同士の頂上決戦だ

何も反論出来ないで逃げ回る九州説じゃ
相手にならんもんな
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:23:02.36
>>385
実在しない架空の単位を創作しないと九州からはみ出して沖縄あたりの位置に行かないといけないんだよね
ところが、その付近は陸地じゃない(少し西に行けば沖縄島がある)

書かれているはずの場所には陸地がないから位置論争が白熱した
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:23:31.56
残念ながら、通説畿内説同士の頂上決戦では私の勝利のようだ。
東に渡海千里で皆倭種の渡海する場所は、伊勢湾ではなく、 
「関門海峡から東に1000里渡海するとまた国があり皆倭種」という意味であり、ただしこの部分の竹簡は魏晋南北朝史学会副会長・陳長崎先生の説を採用し、57年〜107年頃の竹簡を単に魏志倭人伝に繋ぎ合わせたということである。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:26:55.50
>>447
私は明確に通説畿内説であり、九州説などというものを採用しているのはど素人かつ絶対にあり得ないという立場。
ただし、渡海千里で皆倭種の部分ではテンプレとは全く違う結論を導き出した。
テンプレの主張は間違いである。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:27:42.35
>>401
ちうか、広志の記述と言っても、「魏志倭人伝にはこう書いてある」との記述で、それでいて現存の魏志倭人伝と文面が異なってるってことやろ
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:28:52.20
>>427
>通説畿内説だがその通り

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い、通説畿内説ww   @阿波
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:30:25.17
>>418
しかし、中世の東海道も、律令時代のルートと異なって伊勢湾横断ルートを通ることが多かったようだし、伊勢湾を通る往来ルートは古代から栄えてたのではないかなあ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:31:20.26
>>452
五斗長垣内会、舟木遺跡、稲部遺跡が現在のところ、畿内邪馬台国の鍛治炉遺跡であったと見るべきである。
五斗長垣内遺跡は弥生時代後期最大の鍛治炉遺跡である。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:34:43.80
>>453
だから、それは不自然。
畿内邪馬台国と倭種駿遠相総は陸で隣り合っていると見るべきであるから、わざわざ「渡海千里で皆倭種」と書くのはあまりにも不自然ということ。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:35:09.49
>>430
伊勢湾どころか東海道地方までも船で越えて関東まで往来することは古代には珍しくなかったようだし

だからこそ伊豆や安房が関東で特に重視されてたとすら
奈良を拠点とし、かつ関東の平野部を掌握しきれていなかった大和朝廷にとっては、海路でも往来できる伊豆と安房こそ重要拠点、しかし関東の人々にとっては少しだけ重要な程度の土地でしかない、と
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:35:21.01
>>454
>五斗長垣内会、舟木遺跡、稲部遺跡が現在のところ、畿内邪馬台国の鍛治炉遺跡であったと見るべきである。

畿内ではないので、見るべきではない!   @阿波
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:35:47.82
>>448
ところが行くんだよ
短里を使わず長里(1里、345m)で、方角もそのままで
それが、関東説だ
0459日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:36:26.13
>>457
沖縄に米軍基地があるのと同じである
役割分担というものがある
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:38:30.32
>>456
何度も書いている。
倭と倭種は陸で隣合っているのだから、「東にも皆倭種」と書くだけで良い。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:41:38.87
>>449
あんたはただの珍説だろ
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:43:08.56
九州説も韓国が作り出したウリナラファンタジーじゃん。江戸時代に突然生まれた珍説。日本の歴史プロパガンダは嘘つき、大和朝廷に歴史を奪われたニダってやつw
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:44:50.93
>>451
違う

廣志オリジナルの文章(参照した原データは同じかもしれないが)
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:45:47.04
>>450
>私は明確に通説畿内説であり、九州説などというものを採用しているのはど素人かつ絶対にあり得ないという立場。

はい、ナリスマシ乙
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:47:10.28
>>451
これ

>廣志を見れば倭国が九州島であることは確実


>「倭國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、
> 百女國以北、其戸數道里、可得略載、
> 次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、
> 安倭西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革為衣、蓋伊邪國也。」

>→倭国、東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。又南して邪馬嘉(台)国に至る。・>・・
>  次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。
>  倭国の西南に海行すると1日で伊邪分國(屋久島)に到達する。・・・
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:47:53.13
>>461
明確な反論が通説畿内説からない。
邪馬台国九州説は絶対にあり得ないが、伊勢湾を渡海するのも同程度にあり得ない。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:49:11.01
>>464
あなたは九州説ですね。
通説畿内説は意見は違えども、邪馬台国が九州にあったなどということは100%あり得ない。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:50:49.21
>>466
なにに対して?
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:52:29.52
寺澤も通説畿内説でありながら、関西人には嫌われて九州説寄りの発言をして、安本美典に好かれている。
久住も同じ。
要するに、邪馬台国論争は通説畿内説同士の頂上決戦に過ぎない。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:53:05.68
腐った九州説はナリスマシが好き
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:54:04.83
>>468
伊勢湾を渡海1000里したらまた国があり皆倭種とかいう絶対にあり得ない説をあなたは採用しているのですか?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:54:47.11
>>469
寺澤は森浩一の教え子だもの
後遺症はあるさ
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 19:56:18.75
>>471
そんなバカ説を誰が言ってるの?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 20:00:24.18
>>473
だからテンプレ。
私もテンプレも通説畿内説であることに変わりはないし、九州説などというゴミは排除しているが、テンプレでは伊勢湾を渡らないと倭種がいないらしい。
全く馬鹿げている
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 20:17:07.68
>>465

翰苑に、あるとおり

「邪届伊都 傍連斯馬」
→邪馬台国は伊都国より届き、傍(カタワラ)にある斯馬国に連なる

九州島に上陸すると、北から南へ
■伊都国→邪馬嘉國→斯馬國→巴百支國→伊邪國→→伊邪分國(屋久島)
と国が連なっている、

ということ
0476琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/10(水) 21:46:51.76
九州につける薬は無いな
九州の責務は平原は絶対的朴個人崇拝の地域であり卑弥呼以前を解明することだよ。
倭人伝にあるように初めて海を渡り対海国とある、対海国と一支国の間に瀚海があるのだよ、その瀚海に対する国が対海国だ、これは半島側から見た国名だよ
その後馬韓に対する国として対馬に変わる
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 21:47:01.23
俺は近畿説だが伊勢湾を渡海とは言わないと思う
ただ魏略には東とは書いてないし瀬戸内海で隔てた四国はあり得る
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 21:49:29.80
鳥羽から伊良湖岬までは実際に海を渡りますよ
0479琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/10(水) 21:54:26.91
傍らの国は遠く情報もないと説明している、何処に在るかも解っていない、東渡海倭種もハッキリと確認した訳ではないであろう
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 22:01:09.35
>>446
これこそ漢代ではなく魏代の記録でしょう
梯儁や張政が来た記録があって下賜した品を一大率が調べるんだから
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 22:06:40.18
畿内説論者は事大主義者。大勢に抗おうとせず、優勢な方につく。自説というものがない。納豆を買うにしても、とりあえずオカメ納豆を買っちゃうような冒険心の無い詰まらない奴ら。友達になりたく無いね。普通すぎて退屈だ。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 22:12:13.16
>>482
だったら阿波説でもやってれば?
てかどう考えてもそれ九州説だろ?
アンケートでもやれば九州説が多くなるのは想像できるし畿内説なんてつまらん
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 22:19:47.48
>>481
いや、権限を拡大するときは役職名もセットで変更なんだよ
一定規模の行政権と軍権を持つ場合は刺史ではなく牧という名前の官職なんだ
三国時代になると、権限の大小によって同時期に併存して、ある場所では刺史、別の場所には牧がいる時期さえあった
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 22:20:39.85
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0489日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 23:00:12.45
久住はいつも話が通じないデンパと戦ってるが、何をしたいんだろう?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 23:14:47.50
>>362
魏使は奈良には行ってないですからね
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/10(水) 23:27:07.27
畿内説は持論を述べちゃだめだ
馬鹿に見える
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 00:26:01.28
いつまでやってんだか🤔

夏王朝だってハプロO1aの王朝だっての分かってるのによ

あったらとしたらだけどな
0494琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/11(木) 00:59:22.00
一大率、率善、
率とは兵
液邪狗は率善中郞将
宮廷守護官
九州の可能性なぞゼロ
鬼道は神仙思想五斗米
益州や山東が発祥地
列島畿内に流民と共に根を張ったのだよ
もう覆えらない。おしまい
九州は朴のタマゴをよく考えるのだな、甕棺族は卑弥呼の管理下
甕棺が消え前方後円墳が中心になりやがて八角が現れる、この流れは変わらない
昭和天皇は八角であり慶州羅井南山に神社を建てられた。主祭神はアマテラス。藤原の墓は木幡南山八部地蔵を興福寺に造る朴の子供達だ
神武詔勅八紘一宇。
もう無駄だよ
何故そんなに本来の姿を否定したがるのか?
さっぱりわからん
吾輩からすれば日本を否定している。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 01:01:25.11
そおか?

朴なんて名前なぞ知らんぞ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 01:02:10.22
知らないものは知らない

誰かがでっち上げた可能性の方が高いかな?

どおやって日本まで来た?
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 01:02:35.55
安宅船がどこから出たのか知ってる?
0498琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/11(木) 01:07:02.91
何も考えないで生きているのだな
哀れ
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 01:28:12.85
さよか
てめえらに航海技術あるのか?
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 01:29:24.08
どおやって半島の国々は自分らで国を作る術を学んだのだ?

誰かが教えてくるたのか?
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 01:47:56.95
すべて韓国紀元だのほざいたりいちいち日本を絡めて優位に立ちたいだけよね〜

遺伝子番号君らの方が後進なんだけどさ
0502日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 02:07:02.03
おまえら馬鹿だろ?
日本海でも瀬戸内海でも
渡海じゃなくて海岸水行だぞ?

瀬戸内海行くなら
日本は女王国ではなく
内海国だよな。

対馬海峡では
航路の見える島2つ紹介。

瀬戸内海航路は島幾つだよ。
両岸陸の海だぞ?
淡路島だけでも無視できるか?
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 02:28:04.84
投馬は對馬で対馬
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 03:13:28.75
頓馬だろ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 03:44:10.22
使用する史料の質がどんどん落ちてく九州説
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 05:41:56.38
>>506
君が適任だ。
纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記してくれない。
九州の奴ら、カエルや水路や土器や桃、大きな建物などは倭人伝に出てこないけど。いっぱいあるんだよね。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 07:24:44.81
九州説信者には日本語が不自由なやつが多い
なぜだろう?
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 07:47:43.10
  ・景初三年銘画文帯同向式神獣鏡(大阪府和泉市和泉黄金塚古墳出土)

  ・景初三年銘三角縁神獣鏡(島根県雲南市神原神社古墳出土)
0510琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/11(木) 07:49:02.20
平原は鬼道ではない
無いのだな神仙思想の痕跡わ
卑弥呼は鬼道なのだよそれを誤魔化し続けるのももう終わりにしないとな
鬼道と呼べる痕跡のある処に卑弥呼はおるのだな
卑弥呼とはおそらく倭人がそう呼んでいたのであろう
新羅に残る2世紀の卑弥呼は平原の巫女だろうな
鬼神の巫女だな
どう足掻いても甕棺は朴の瓢だよ、タマゴ、それを自覚することだな。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 07:56:11.22
>>311
確かにw
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 08:25:40.54
>>511
お前・・・自分で自分に相槌打ってんだろ
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 08:29:53.98
>>152
>>154
ピッタリやん!
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 08:34:23.36
>>509
奈良じゃないのがまたなんとも
0515日本@名無史さん
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2024/04/11(木) 08:39:21.71
>>278
祇園山古墳(有棺無槨)の葺石は後世の追加、三角縁神獣鏡は後世の追葬、とすれば、卑弥呼の冢で何の問題もなくなる!w
0516日本@名無史さん
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2024/04/11(木) 08:52:24.73
>>515
サイズ違うだろ
0517日本@名無史さん
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2024/04/11(木) 08:52:33.00
>>515
>>160
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州、✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩、✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定(葺石&三角縁神獣鏡は後世の追加)。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 08:53:03.88
原は何かということやな
平原、高天原、
タカマは高松、高天原は高と松の原じゃないか
高松の地は五色台というサヌカイトの産地と坂出の地でもある
弥生時代の鳥形も見つかっているね
高松が高天原の地ではないと思うが
平ヒラはビラで元々は崖の意味らしい

原が何かだよな

後支配域の交換の話があちこちにある
海と山、柿の種とおにぎりなどなど
1世紀半ば、国のシステムを一新した可能性もある
まだまだ謎は多いな
0519日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 08:54:09.21
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩 半円半方」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百【尺】」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:00:06.77
>>475

伊邪分國(屋久島)って、隋書琉球国伝では 夷邪久国 で出てくるやつだな

倭国は九州島で決まりだね
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:02:35.33
なんだか革命的な展開やね!w
0522日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:03:05.64
>>517
狗奴国戦争なんて無いから
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:03:52.07
大国主の系譜にサシ国の姫があるね
大国主になる旅は関東にいた時期もあるんじゃないか
古墳時代前期とか

九州北部鳥取琵琶湖北部大阪和歌山山梨伊豆関東辺りは狗奴国派だったかもしれん
NHKの説とは違うが詳しく検証していかないといけない
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:05:09.91
斯馬も対馬
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:07:54.28
>>522
卑弥呼が帯方郡にわざわざ報告に行って、張政が来てるんだがw
畿内説はまず交戦中の東海狗奴国が卑弥呼の箸墓(全長280m)の築造を手伝ってる謎を解明せよw

其(正始)八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:09:44.28
>>525
痕跡が無いから無いと判断するしかない
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:11:16.46
卑彌弓呼との権力争いだって
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:11:43.87
つまり畿内説はオレオレ詐欺
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:13:49.48
>>525
>卑弥呼が帯方郡にわざわざ報告に行って、張政が来てるんだがw
>畿内説はまず交戦中の東海狗奴国が卑弥呼の箸墓(全長280m)の築造を手伝ってる謎を解明せよw

東海狗奴国が箸墓の築造を手伝ってるって、だれの説?
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:16:05.78
つまり狗奴国をどこにも比定できなくなってしまって語るに落ちた畿内説w
1000ヌレ以上に渡る洗脳工作完全が水の泡www

乙でしたw
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:16:23.30
魏の皇帝の名前を使って倭王は卑弥呼だと言ってもらったんだよ
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:16:48.14
訂正:
完全に水の阿波w
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:20:59.11
>>530
また妄想か
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:23:01.84
>>243
つまり畿内説は妄想オレオレ詐欺
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:26:45.83
もし敵国なら魏の言う事に従ってもなんも得が無い
魏の旗見せられても効力がない
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:29:06.23
>>526
倭国大乱、狗奴国戦争、宮室楼観城柵厳設、殉葬百人、すべて勝手になかったことにしてしまうとゎwww
畿内説は阿波説と大して変わらん歴史詐欺だw
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:30:15.32
>>536
痕跡が無いなら無いと判断するしかない
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:31:08.54
>>536
1つ2つじゃないからなw
まさに典型的なオレオレ詐欺だw
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:32:27.03
>>537
つまり(狗奴国がどこにも比定できない)纏向は邪馬台国じゃないってことだよw
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:32:28.49
>>538
無いもんを有ると言い張る方がおかしい
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:33:31.63
>>539
戦争の痕跡なんて無いと言ってんじゃん
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:34:47.86
畿内説と阿波説は完全なオレオレ詐欺や!w
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:39:57.45
俺は戦争じゃなくて卑彌弓呼が卑彌呼の暗殺を企てたとかだと思ってる
0544日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:42:14.51
「あったこと」も「なかった」ことにして洗脳…急に新興宗教じみて来た歴史詐欺の畿内説w
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:43:08.09
>>544
痕跡出せよ
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:45:05.84
>>545
それは汚舞の仕事だろwww
オレオレ詐欺師めw
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:47:31.54
>>546
俺は無いと言っててその通り無い訳だが
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:49:30.67
こいつ(ら)wの詭弁で確信した!www
畿内説は壮大な歴史詐欺だw

やっぱり九州説が史実だ!
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:51:11.70
>>548
詭弁でも何でもない
痕跡は?
0550ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/04/11(木) 09:52:32.98
大王家の本願地が九州であるのはほぼ間違いない
記紀を見るとヤマト王権初代王の畿内制圧から前の記憶はほぼ失われているようだし、そもそも崇神より前は欠史八代と言われるくらい記録が薄い

オレは神功が九州から攻め上って畿内を制圧した時に多くの歴史伝承者が失われたのだと推測する

江戸時代の国学者やネトウヨは九州にヤマト王権の力が及ぶのは景行以後というが、記紀を詳しく見てみると筑前の諸国は景行の九州巡行を譜代大名が将軍を迎えるように丁重に迎えている
伊都国や奴国などはヤマト王権成立最初期からの親藩のような位置付けであったと見た方が良い

ヒムカを伊都国とすると日王がヤマト王権を建てたのは韓半島の文化を受け入れる最先進地域の王だったからと考える事ができる
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:53:17.73
>>160
266年に、後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのだろうw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦「阿毎多利思比孤」(首都「邪靡堆」阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

しかし、663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:54:56.99
>>549
>>539
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 09:58:18.29
>>551
魏国のなかでも重臣の司馬懿とのつながりが強かったから、晋にかわっても大きな影響はないはずなんだけどな
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:00:48.23
>>551
歴史詐欺の畿内説、そして東遷説、九州(王朝「阿毎多利思比孤」)説をすべて取り込んだ画期的な凄い仮説の誕生だ!
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:02:54.22
>>552
卑弥呼の時代環濠は取り払われてるし大規模な戦闘があったなら
焼き払われた集落とかあるはずだろ?
0556日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:03:46.07
畿内にはそんな痕跡は一切ないw
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:05:13.06
漢は匈奴の属国
漢王朝の建国者の劉邦は、白登山の戦いで北方遊牧民の匈奴に敗退し、屈服しました。漢王朝は大量の貢物と一族の娘を人質として匈奴に嫁がせることになります。漢王朝は50年間、匈奴の属国だったのです。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:06:06.92
>>556
何処にも無いから戦争なんて無いんだよ
0559日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:06:49.80
畿内説の洗脳が続くなw
0560日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:08:06.79
何度も言ってるが畿内に無いと言えば九州にあった証明にはならないから
0561日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:09:01.63
>>152
>>154
魏志倭人伝の記述に完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳作文)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w
0562日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:11:29.71
やたらアニメ(古いやつ)の話するやつって松傾だよな
0563日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:12:11.99
>>560
嘘も百回繰り返せば本当になる…か!www
0564日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:27:06.94
トンデモどもよ、まだ無駄で骨折り損をやってるのか?

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い九州や畿内が、日本の起源になど成り得る訳もなし!   @阿波
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:50:34.62
>>520
屋久島まで把握できてるなら女王国から南四千里の侏儒国も把握してたかもしらんな
0566日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 10:51:56.07
>>560
畿内じゃないことさえはっきりすれば十分だよね
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:01:41.70
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:10:31.70
中1地理歴史の3学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:17:04.21
倭人伝は有り得ない九州上陸、
内陸へ徒歩後の船行で、直列行程の
畿内にワープの畿内説が可能だがw

廣志、魏略は、
無理な行程に成らない構成で
九州内完結の行程である。

邪馬臺国は
240年の魏使が使用した仮称国名で、
投馬国も弁韓の仮称だが、
魏略では採用しなかったし、
張政は狗邪国は韓の認識
陳寿も引用以外では女王国を使用した。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:17:42.95
>>561
一致してるという嘘を連呼するだけだもんな
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:33:28.55
>>475
そうすると、狗奴国って九州島じゃなくて、後漢書のいうように東方向、吉備あたりだったのかもしれんね
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:33:59.45
>>278
不弥国からワープ失敗!w
>>568
B!
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:35:50.56
>>570
>廣志、魏略は、
>無理な行程に成らない構成で
>九州内完結の行程である。

つまり、明らかに信頼性のないテキストを使って
倭人伝は無視するってことね?
九州説も困ったもんだ
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:37:06.73
畿内説はまず畿内であると言う決めつけがあって
都合が悪い記述は全て嘘というスタンスだもんな
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:37:11.85
>>569
卑弥呼にも卑弥弓呼にも王位継承権があって跡目争いをしたと考えれば自然だろ?
それで卑弥呼が根回しして魏の権威を利用した
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:43:40.00
本来男王の卑弥弓呼が就くはずだった王位を卑弥呼に取られたら恨むだろ?
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:44:02.47
邪馬台国九州説は説として有りだと思いますが、「北部九州説」は無しでしょう。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:46:10.70
>>293
>>311
不弥国からワープ大失敗!w

畿内説は時空間の谷間を漂流し、オレオレ詐欺をして回る、抱きつき幽霊船になり果てたw
0582日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:46:59.50
>>581
不弥国って何処やねん?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:47:19.36
>>581
卑弥呼の墓は筑紫平野の何処にあるの
0584日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:49:06.89
短里など無いと言ってるのにわからん奴らだな
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:50:13.87
ホケノ山「有棺石槨+木槨」を見ても、箸墓が卑弥呼の墓ではないことは明らかの畿内説w
0587日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:52:40.77
箸墓でないことだけは確かw
0588日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:53:38.45
結果から逆算して現代になって短里なんてもんを勝手に作り出しただけだからな
0590日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 11:55:46.83
>>515
なるほど
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:00:41.34
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:06:23.79
>>593
女王国は中国が付けた名称だけど何故?
何処の誰だかわからん馬の骨を話し合いで王にはしないでしょ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:07:07.45
地方の豪族の王も世襲制だからな
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:09:06.99
吉野ケ里一帯(約5,400人)が邪馬台国だったの
0598日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:18:18.08
>>594
集団を治めていた人物を王と言うなら、村長も王、自治会長も王、岸田首相も王、キリストも王と言われてたが王位継承権は無い。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:19:22.46
>>586
良い地図ですね。
邪馬台国21国 
周旋可5000里が見える。

卑弥呼の墓の報告書は
247年張政が見た時のもの。

到達地の伊都までにあって
上陸から600里程度の範囲
北西だから図だと早良~イトの範囲、

死を以て作るというのは
古墳じゃない可能性が高い。
弥生墳丘墓。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:29:34.01
>>599
>卑弥呼の墓の報告書は
>247年張政が見た時のもの。

なら魏尺ベースで本当に径百余歩ないとダメだね
0602日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:31:27.87
>>598
そっちか?

代々王の有る、大倭王の倭国を
中国人に女王国と言われる
と、いうのはおかしい。

卑弥呼が190年~247年の王なら
大和朝廷の歴史が始まって無いのに
無理やり奈良に持ってく意味がない。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:31:46.10
詳しくはしらないけど、弥生時代終わり頃の海面は高くても現在より1メートル位でないの
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:43:25.09
>>605
年数から考えて、中間報告ぐらいは出ててもおかしくないよな
最終報告はまだ出てなくてもおかしくない

あと、報告にニュースバリューがなくて黙殺された可能性だって、ありうるな
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:43:58.77
>>604
わずかな平地に押し合いへし合い、横になる事もなく、生涯立って暮らしていた
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:56:28.01
>>598
何言ってんだ?
世襲だと言ってるだろ?
0611日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 12:58:56.17
>>602
そもそも女王国なんて名前の方がおかしいのよ
男王ならなんて国名なんだ?
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:06:40.27
>>601
周里だと100歩は、2里なんだよw
魏里なら1里の3分の1って見方かな?
周里は始皇帝の気分で6倍説
国土も方可里程だと6倍になった。

歩は2足で120~150cmとかで
6尺一歩の都合で尺度で変動するけど
歩は人体尺度で同じ程度なのでは?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:07:12.71
>>612
ごめん、>>595も俺の書き込みだわ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:10:15.11
「大いに冢を作る、全長ではなく短い方の辺が100歩」

なんだこの報告書
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:16:45.48
陰謀論は敗北の母
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:17:57.78
陰謀論じゃなくきちんと記録が残されてる話として
卑弥呼は後漢の時代から続く30国を統べる倭国の大倭王だけど
100余国ある日本列島全体から見たら地方の王にすぎないな
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:18:44.21
>>611
委奴国じゃダメだったみたいだね?

私は(卑弥)ヒミ国が
委奴国と狗奴国に分裂説ですが。
卑弥呼、卑弥弓呼から
卑弥王と卑弥狗王、で。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:18:47.54
殉葬なんてないし倭人がすっげえ大きいよって言ったのを想像で書いただけかも知れんし墓の大きさなんかどうでも良いし
張政が見たかどうかもわかんねえじゃん
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:19:04.12
よく後漢書なんかを根拠にしょうと思うね
0624日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:20:58.50
>>621
どういう事かわからんが卑弥呼も帥升もそれ以前も倭王なんだが
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:21:27.21
>>623
やっぱ魏略か?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:24:22.78
>>625
それは論外
0627日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:25:27.86
>>624
>どういう事かわからんが卑弥呼も帥升もそれ以前も倭王なんだが

だという理由は?
理由がないなら妄言
0628日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:25:38.10
漢代にも朝貢してたのは魏志にも書いてある
後漢書は漢代の事だからその部分を詳しく書いてるだけ
0629日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:26:04.42
漢書 分かれて100余国
後漢書 100余国
魏志 ふるくは100余国
冊府元亀 東に55国西に66国
宋書 東に55国西に66国
隋書 クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようだ

※国造は140ほどとされる
0630日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:29:04.29
>>627
帥升は倭王だと書いてるし自武帝滅朝鮮以降大倭王が邪馬臺國に居たともかいてある
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:29:44.23
畿内説にとって都合が悪い記録は全て嘘なので
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:37:27.37
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
後漢書が信用できないってこれが嘘って事か?
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:44:01.19
>>629
こうしてみると倭王武の先祖、倭王讃の祖父の時代(空白の4世紀)に一気に日本列島統一事業がなされたことがはっきりわかるな
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:49:00.45
>>633
俺はそうは思わない
元々形があったし過大に言ってるだけ
戦いに明け暮れたなんて事はない
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:53:41.50
ちなみに九州北部が畿内勢に帰順したのは崇神の四道将軍の時代(3世紀後半)
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:58:14.33
>>620
それ、根拠ないでしょ
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 13:58:33.45
半島なんて高句麗に追い詰められて
95国なんて昔はそれくらいあったって話しだろ?
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:02:32.79
畿内説にとって都合が悪い記録は全て嘘なので
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:04:19.27
>>638
朝鮮半島の権益を貰う為に既成事実が欲しかったんでしょ?
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:04:55.63
>>639
四道将軍に限らず、崇神の時代(3世紀後半)には九州北部が畿内勢に帰順したと考える
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:05:28.27
>>630
>帥升は倭王だと書いてるし

倭国の「主帥」である「升」だって説もあるんだよね
国王の帥升「等」が中国に来たって、おかしいだろ?
同格みたいな書き方だ

>自武帝滅朝鮮以降大倭王が邪馬臺國に居たともかいてある

建安年間のことでも「自武帝滅朝鮮以降」なんだよね
范曄は安直な原文改変を平気でする人だから当時「いい加減なやつ」と評されてる
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:07:18.73
五王讃、珍、済、興、武、司馬曹達って中国風の名前じゃないですか。もう漢化してるねコレはw
0644日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:08:48.83
>>637
魏志で、馬韓54国、弁辰韓24国
高句麗戦中だが、郡域で17国で95国
で、辻褄は合う。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:10:06.76
邪馬臺国が漢化した姿が大和国であるw
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:14:11.70
>>642
その部分だけ抜き取ってるけど原文は
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

邪馬臺國のの方は其が全部つながってるし
帥升の方は何言ってるか意味わからん
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:17:24.82
そういう事なんだろうな
中国に合わせてる
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:20:16.01
後漢書と三国志で食い違ってる部分があるなら三国志優先
これは常識
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:23:03.03
>>648
それぞれの時代を詳しく書いてるだけで食い違ってないが
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:24:45.89
3世紀後半
崇神の時代に九州北部が畿内勢に帰順し、対馬海峡の制海権と鉄利権が畿内の手に落ちる

4世紀
畿内勢力の制海権、鉄利権奪取が気に入らない旧女王国の残存勢力は畿内政権に反抗し、ヤマトタケルらによって土蜘蛛として各個撃破される

5世紀
東の倭種五王の時代、半島攻略のために東晋、宋に朝貢開始
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:30:26.56
>>643
司馬曹達は渡来人
370年百済が朝貢で建国。
七支刀と百済王子、博士が日本に渡来。

これで、高句麗が朝貢で
幽州刺史、楽浪候になった事を知る。
倭の五王は高句麗交戦半島利権の外交

博士は随時交代なので讃はこの時
阿直伎師も倭使で送還した。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:36:12.60
つまり畿内説の主張する事一つ一つには必ず根拠不明なこじつけ論が必要となりますよと
0653日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:37:53.47
崇神の時代に「聖なる王」がいると聞いて加羅の王子がやってきた
その途中に穴門で自称倭王の「伊都々比古」に出会ったという

台与の時代、魏が滅亡すると同時に九州にあった倭国連合が崩壊してバラバラになり、台与の次代の大倭王と称して伊都々比古が立つも、九州北部の国々は畿内勢力に帰順してしまい自称大倭王の伊都々比古は居場所をなくしてしまった

そこでしかたなく伊都々比古は九州から逃げ出して穴門で臨時政府を立ち上げた
のかもしれない
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:38:21.22
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ
文献を度外視して古墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界もその類だろう
邪馬台国の真実は魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ

まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く)
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:39:15.76
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ

「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
予断を廃して魏志倭人伝と記紀と考古学を虚心坦懐に照らし合わせれば、必然的にこの結論に至る
0656日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 14:55:46.47
倭国の大倭王の歴史

師升 → 70-80年男王の時代 → 倭国大乱暦年無主 → 卑弥呼 → 男王

台与

台与の後ろ盾の魏が滅亡(255年)して台与失脚

九州にあった倭国連合がバラバラになる

自称倭王の伊都々比古(伊都のヒコ)が台与の後を継ごうとするも北部九州は畿内に帰順

鉄利権と対馬海峡の制海権が畿内の手に落ちる(3世紀後葉)

伊都々比古は九州を逃げ出して穴門で臨時政府を立ち上げる

聖なる王の噂を聞いて加羅の王子がやってくる
0657日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:10:31.97
>>613
周里なんて実在しない

「周牌算の里」 ならまだしも。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:16:17.42
>>643
司馬曹達って、司馬という官職の曹達という人のようにも思えるんだよなあ
奇貨人やろか?
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:19:14.37
>>642
等って文字も名前の一部やろな
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:24:08.45
658
王家でも立ってそのまま姓にしたんだろ

氏(氏)姓(姓)苗字(みょうじ)の違いも分かってないのだろ
0661日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:24:57.32
氏(うじ)姓(かばね)苗字(みょうじ)

その違いも分かってないだろおまえ
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:26:20.69
歴史に興味ないってほんと分かるなあ

だいたい名乗りはこのうちのどれかを選ぶもんだぞ
0663日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:28:42.71
中国において行われた漢化ってのはこのうちの氏族姓を名乗り始めたり僭称したりするもんだ
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:34:09.13
659
そのころは平安仮名が作られ策定されたころだからな

日本だってもともとは

阿(あ)伊(い)宇(う)江(え)於(お)

ってとこから始めたんだぞ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:40:24.73
>>654
複合的に見ることが手かせ足かせになることもある
つまり、考古学的に言えば、九州か畿内というふうに早くも限定され
それに合わせて魏志倭人伝を読み、自分の目的地に合わせて逆算し
短里だの放射読みだの方角間違いだの奇妙奇天烈なつじつま合わせが
邪馬台国論争をがんじがらめにする
0666日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:52:24.99
>>657
東夷伝序文の冒頭に
周令、九服の制 
という文言があるが

王畿が方千里。
周囲各500里で九服。
この半径5000里が
50歩(100歩)1里の周里だと
洛陽から長安に相当する。
周はそんなもんで、
外が非課税の外域。
半島や倭

西域里も同じか検討したが違った。
都が長安だと東が足りないので
周里の50歩が100歩になるの
かもしれない。検討中。

九服が案外小さいので
始皇帝が里程を6倍にしたという話。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 15:55:40.06
今年度も、日本国が設置した公的機関が、邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が無いという真実を、発表しているな。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 16:13:06.75
>>502
口は悪いが、まったくもってその通りだと思う
0671日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 16:15:43.84
渡海1000里は国東半島辺りから見た風景だろうな
0674日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 16:33:24.98
伊勢湾が渡海とか無理有り過ぎ
やり直し
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 16:44:58.98
>>654-655
低能呼ばわりはひどいが、テンプレにして欲しいようなきわめて妥当な正論だと思った
自分もこの考えをとりあえずのスタートラインに設定しようと思う
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 16:56:02.85
>>671
魏使が聞いた話だろうね。
干満での流れを避ける交易航路で。

関門海峡は仲哀、神功皇后まで
舟が通れない穴だったw 説
歩けたりしてな?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:14:46.14
よく知らんのよなあやつらも

書見読んだ程度の知識だからよ

しかも中国のだろ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:21:01.30
難波から陸行すること一ヶ月。ようやく我々魏使一団は、卑弥呼(ヒメ)が遷都した茨城に到着しました。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:47:06.19
>>654-655

九州で最も発展している経済都市が博多を中心とした福岡平野
九州で最も開拓が遅れているのが洪水地帯筑後
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:58:14.87
>>674
>伊勢湾が渡海とか無理有り過ぎ

反論できなきゃお前の負け
0681日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:59:48.74
卑弥ってそれ姓だろもはや

職掌を姓にしたって感じだな
0682日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 17:59:53.44
現在、九州で最も発展している経済都市が博多を中心とした福岡平野。

しかしながら、古代の福岡平野は碌に鉄器さえも作れない寒村だけどな。   @阿波
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:00:26.65
>>668
後漢時代から代々王がいるのは九州だな
3世紀以降になって勢力が拡大したのが畿内ということは
畿内説アウト
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:00:50.04
氏と姓の違いを半島人らあたりあまり認識できとらんのだろうがな

朴ってのはそれ氏なんだよ
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:01:54.82
漢化ってのが起こったときに姓から氏に切り替える連中らが多く現れたわけ
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:01:56.43
>>674
>伊勢湾が渡海とか無理有り過ぎ

まぁ、出航地の女王国が無いんだから話にならんわな。   @阿波 
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:02:34.22
>>683

北部九州で盛行した首狩り甕棺墓は2世紀までに
ど没落した
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:04:03.20
>>687
SNSで九州の研究者とレスバしててください
0689日本@名無史さん
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2024/04/11(木) 18:07:13.52
>>675
>低能呼ばわりはひどいが、テンプレにして欲しいようなきわめて妥当な正論だと思った

でも>>654-655は低能でしょ?
箱式石棺が有棺無槨だとか
w
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:12:24.91
答志島から伊良湖岬間は沿岸なんてないぞ

実際に海を渡る訳だが
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:15:38.30
>>580
南九州に奴国より大きい国を想定することができない
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:17:04.85
>>667
畿内で確定しているので発表する必要がない
0695日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:19:04.68
中国における妲己の伝説とかな

太公望だの出てくる時代の話だろ

原型となった物語りはちゃんと存在するんだよ
0696ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/11(木) 18:20:33.89
オレは箸箸を卑弥呼陵と考えるが、もしこれを台与の墓とするのなら、卑弥呼陵は纏向石塚が相応しいだろう
まんま寺沢先生の説になってしまうな

基本的に王陵というのは寿陵であって生前に作るものだ
当時の平均年齢から考えて卑弥呼の陵も生前の彼女が30代くらいには出来ていたかもしれぬ

韓半島の文化に生前に風水の吉相墓を作ったら自分の爪や髪の毛を入れておくとよいという発想があった
今でも風水信者はやっているかもしれないが、これは恐らく中国発祥の文化だから、卑弥呼もやっていた可能性がある

後の日本文化に逆修という死んでからではなく生きているうちに自分の供養を初めるというものがあった
生前に自分の供養や祭祀を初める発想は、或いは仏教以前からのものだったという可能性は捨てきれまい
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:20:55.30
何のことはないが周王朝の人々が顔は東洋人だが髪の毛や目の色などは西洋人みたいな特徴を持った人々と言う話

その時代において彼らが中華だの名乗ったのだ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:21:47.21
>>654
九州はすでに伝統的第5を受け入れ、庄内式の時点では筑前型庄内甕を成立させていることから、すでに畿内の傘下に入ったと見るべきである
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:22:02.38
漢の連中らも中華の名乗りを引き継いだけどな
0700日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:22:58.35
>>696
神は山稜に宿り、山稜に葬られるもの。

「卑弥呼」などの高貴な人は、沼地や平地の前方後円墳には葬られない。 そんなの常識。   @阿波
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:24:53.76
>>654
>ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ


YouTubeだけで九州説を採る人々のことだ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:25:15.28
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:25:18.93
>>694
>有棺無槨とは甕棺墓の事だろうよ

卑弥呼が遣使した頃には甕棺はかなり珍しい
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:27:42.84
>>525
黄幢や張政の派遣で狗奴国とは和解したと見るべきである
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:33:26.05
>>705
つまり九州説は歴史を無視したい
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:40:03.27
>>706
>>1を読んでいる九州説はいない
文字を読むのがめんどくさいからだ
0710ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/04/11(木) 18:41:29.93
倭国が温暖というのは奴国が金印をもらった頃の話だろう
卑弥呼の時代は南九州ですら温暖ではなかった

特に二世紀の後期後半は世界的な火山噴火の影響で異常気象が発生していた
中国では夏なのに冬のように寒く飢餓が蔓延した挙句に黄巾の乱という大反乱が発生した
邪馬台国が生まれた頃の倭国でも異常気象に見舞われて壮絶な殺し合いが起きていたはずだ

倭地温暖というのは信用に足らぬ記述である
0711日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:45:30.83
>>710
>倭地温暖というのは信用に足らぬ記述である

アホか! 「倭地温暖」でも異常気象はたびたび起こる。   @阿波
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:48:24.36
>>709
文字なら倭人伝をそのまま読もうよ。
1の、それは根拠のない妄想。
一読あぼんでOK
0714ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/11(木) 18:48:26.29
中国で黄巾の乱が起きていた頃、ローマ帝国でも疫病が流行ってる死者が続出していたからな
ゲルマニアの蛮族がローマ帝国に侵入を試みてマルコマンニ戦争という10年以上の大戦乱の見舞われていた

異常気象で不作が続いてゲルマン諸族も南の農耕最適地を獲得するべく命懸けだったのかもしれないな
0715日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:48:36.58
>>712
文体は極めて難しいが、非常に勉強になる内容
レベルの低いYouTubeばかり見るべきではない
YouTubeだとしたら、ハルキーさんや講演会の動画を見るべきだ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:50:54.98
>>711
そうそう、気象科学の話によれば卑弥呼時代は異常気象に見舞われた時代だ
寺沢もその話を知ってる
そして半島に難民が流入したという記録もある
科学的研究成果と記録文献を調べれば畿内説という作文がいかにデタラメかがよくわかる
0717琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/11(木) 18:53:30.04
阿波先生が飛び付くような話しに振られただけだよ
0718日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:53:44.26
>>715
難しくは無いだろ
テンプレの特徴は、想像を根拠に断言するというスタイルで一貫している
理系からするとそれは「空想作文」なんだよ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:54:17.54
>>711
倭地は温暖というレベルではない
海南島(完全に熱帯)にある物は倭国にあり、海南島にない物は倭国にもないという記述から、常夏を想定したと見るべきである
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:55:23.26
>>718
一部想像はあるが、ほとんどは単に事実を述べているだけである
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:56:38.47
>>718
おまえ理系じゃないだろ
理系ならデータなしで他人をケナさない
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 18:57:56.72
>>661
曹という姓は曹操を筆頭にたくさん三国志に出てくるし、達という名の人は蜀の孟達を含めて何人かは出てくる
三国志では官職名に続けて姓名を書く事例がある

だから、司馬の曹達だとしてもおかしくはない

ちなみに司馬というのは将軍に相当する軍事職のひとつで、まあまあ上位の官職だ
時代によっては軍の最上位の時すらある(三公が司徒と司馬と司空の場合など)
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:00:28.75
>>666
王畿ってのは、首都のことじゃなくて首都圏、周囲の村々を含んだ領域やぞ
0726ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/11(木) 19:03:34.79
ネトウヨにとっては工業高校卒や情報専門学校卒でも理系ちゃんなんだよな
平均学歴が中卒や高校中退のニートだらけだからな
0727琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/11(木) 19:04:35.30
楠や柑橘類があんだから温暖ではあるね
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:05:26.65
>>694

首狩り甕棺墓に副葬されたのは前漢鏡
0729ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/04/11(木) 19:07:49.24
畿内というのは現代語の首都圏という概念に近い
だから本来は関西が畿内というのは意味的におかしいのだが京都人にいわせると京都周辺という意味だから問題ないそうである
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:08:12.17
畿内ヤマトの物語には九州勢力が降伏する時に三種の神器を差し出す話が書かれてる
その時代に九州勢が持っていたお宝はごっそり消えて無くなった理由がそれ
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:11:18.96
畿内は五畿内
畿内第X様式と呼ばれる弥生土器圏がほぼ畿内圏
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:11:32.67
三種の神器が平原で最後なら、卑弥呼の国に降伏したわけだ
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:16:33.16
倭人伝は
九州のローカル王の話だが

畿内説は、
倭王は奈良に居たという
考古学で論点が違う。
邪馬台国ヤマト説w

邪馬台国はどこか?
なら、邪馬台国の定義は
240年に
弁韓の仮称を投馬国
女王国の仮称を邪馬臺国
とした、
魏使の報告書の九州で
あるべき なのである。

魏志の一大率は九州が対魏防衛で
大和朝廷を受け入れた日本統一。

文献の邪馬台国は九州の一首長国で
倭王が邪馬台国に居たなら奈良である。
の考古学は無意味。 
大和朝廷は絶対女王国じゃ無いし?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:17:35.49
皇室の三種の神器は天照から貰ったもの。だから大和朝廷は正統邪馬臺国。九州は正閠でも負けたw
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:21:22.20
>>729
畿内は五畿、大阪府全域に京都府南部と兵庫県南東部と奈良県まで
京都府や兵庫県の、それ以外地域は中国地方(丹波と丹後と但馬は山陰地方で播磨は山陽地方)滋賀や三重や和歌山も畿内ではない
畿内及び周辺地域って意味で近畿って言うんだよ
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:22:35.82
>>733
倭人伝は九州のローカル王の話ではないというのがすでに通説となっています
0737日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:23:42.24
つまり倭人とは夏人から分かれた別の人々だってことだ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:24:18.35
中国(三国志の時代あたり)のやつらもよく知らなかったみたいだからな
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:24:50.10
>>730
畿内邪馬台国にごっそり持っていかれたのかもな
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:28:38.34
まだ言ってる
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:32:31.83
HKKさんや岡上さんが来ないと面白くない
岡上さんよりHKKさんの方が詳しいように思えるが
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:33:39.57
>>733みたいに、ひとことも理由を言わないのが九州説の特徴
だから九州説どうしでも話が通じない
必然的に一人一説の零細泡沫説になる
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:35:31.83
>>741
そういうこと言われても他人にゃ何の話かわからないよ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:36:11.63
>>734
八咫鏡を作ったのはいつか?
一応、平原で出た。
卑弥呼でいいのに、2世紀なのかな?
天照神、卑弥呼説はヤケクソ。

一大率以降
九州は中央進出もするが
王の東遷ではない。

既に畿内に諸豪族の宮が有る。
九州は後進の外様だった。

たぶん、顔の入れ墨も都で嫌われた。
100年後350年の百済王族も同じである。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:36:47.57
最高峰の九州邪馬台国卑弥呼神武天皇
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:46:20.82
>>744
>一応、平原で出た。

出たって証拠は?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:50:18.34
最近、ためになった文献上の考えは、卑弥呼と卑弥弓呼は似ているから単に身内の争いという考え。
「素より和せず」
元々仲が悪かったと考えれば、ストンと落ちていく。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 19:59:36.29
ハイハイ現実逃避妄想厨の畿内説さん
文字読めますか?w

【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
0749日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:04:55.52
はいはいがんばれよ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:08:15.01
中国ではっきりした伝承が伝わってないってことはそおいうことなのだろ

最後は漢化によってみんな塗り潰された

日本じゃあ漢化っての起こらなかったからな
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:09:03.48
日本独自の氏族姓は生まれたけどな
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:10:24.97
>>748
かなり古い時代の資料ですね〜
五斗長垣内も舟木も反映されてない
0753日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:10:27.36
中国人らはっきり言えば風水によって占い🔮で決めたからな

それが漢化
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:12:17.55
>>748
九州説はいい加減な史料といい加減なデータで空想してるんだな
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:19:53.46
>>747
だから、
「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3姉弟。   だと、何度言えばww   @阿波
0756日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:23:09.12
魏志倭人伝の記述を完全に頭から追い払って畿内説の論考を読むと、畿内説支持者の気持ちも徐々にわかってくる
三角縁神獣鏡、景初3年、黒塚古墳出土の鏡の蛍光X線分析、桃の種
確かにこの4つは強力だ
後者の2つが不明な時代から畿内説を唱えていた人は凄いとも思った
(もし将来、仮に畿内説の確定証拠が出たなら)ある意味、シュリーマン的な情熱の勝利という言い方もできる
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:23:18.34
まだ言ってる
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:26:24.09
>>756
そう。
畿内説を否定する為に使われる三角縁神獣鏡こそ、畿内説の核です。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:28:10.93
九州説には核がない
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:38:37.42
中国産の原料しかない時代の三角縁について成分分析して中国産ニダー!なんて低能文系の極みだよなw
どんな結果が出ようとも全て中国産と出るんだよ

どんな中国製品をリサイクルて作ったのか?
ぐらいしかわからないんだよ低能畿内説w

「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:47:11.84
>>748
鉄鉱石から鉄の精製は出来ないから出来上がった鉄を買ってたのよ
掘ってたのは現地の倭人
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:52:55.38
>>759
三角縁は難升米が239年の帰国時に
公孫氏の楽浪帯方郡から亡命させた
呉の鏡師が作った可能性が高い。

特に紀年鏡は紀年の意味が不明。
和製なのに魏鏡である意味がない。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:58:50.60
畿内説は三角縁神獣鏡を卑弥呼の時代に持ってくるために、中国で洛陽晋墓などから出土し魏晋鏡とされている位至三公鏡を後漢鏡と言い張る
三角縁神獣鏡は位至三公鏡より後の時代であることははっきりしているので、位至三公鏡が魏晋鏡だと三角縁神獣鏡は4世紀になって卑弥呼と関係がなくなるからだ

実際には、中国本国で通説になっている通り位至三公鏡は魏晋鏡で、三角縁神獣鏡は4世紀に日本国内で作られた卑弥呼とは全く無関係な鏡だろう
邪馬台国畿内説を言い張るために学問を歪める恥ずかしい畿内説学者
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 20:59:09.55
畿内説では後漢書が不味すぎて無かったことにします
0766日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 21:01:40.05
>>763
紀年銘鏡は呉の年号とか卑弥呼朝貢以前の年号が出るからな
本当に意味不明なもん
卑弥呼の鏡とか全く関係のないブツ
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 21:03:14.39
>>750
それぞれルーツがバラバラの五胡は漢化によってまとまり北朝を作り上げた。
邪馬臺も倭人と渡来人が漢化という共通ツールでまとまり大国化したw
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 21:14:07.23
高句麗も百済も中国人系官僚を起用し漢化で多民族をまとめたw
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 21:45:24.44
三角縁神獣鏡特注説とかあったな
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 21:59:02.34
伊都国の製鉄王であった阿毎氏(神武)と出雲族令嬢(卑弥呼)の政略結婚
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 21:59:58.70
>>769
紀年鏡は意味不明の特注だが?

以降は、量産にも程がある、だよ。
漢魏じゃなくて、呉の様式。

渡来人の作品にするには、
呉の滅亡より早い。

呉と同盟の公孫氏は滅びた。
239なら、難升米が連れて来た。
景初4年の紀年は九州なら有る。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 22:04:40.49
製鉄と鉄器製造の違いがわかってない人もいるのかな?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 22:07:05.11
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 22:10:18.44
・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼

・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 22:31:01.23
>>655
畿内に勢力などない
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 22:45:04.20
ホントの謎は
なぜ無駄な大王墓を作るか? だが
王権や豪族の財力を削ぐなら
有効な格式でも有る。

600年位まで所有者が有り守った。
記紀成立の為の焚書で古墳から
金石などの文字異物は消えたはず。
墓主の先祖が埋めた富は
盗掘で増えたはず。買い手は?

七支刀、人物画像鏡は、
仁徳天皇、継体天皇の
墓から出たはず。

古墳時代に
無かった神社は
金石も保管しないが
例外は有る。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:00:11.03
>>766
年号があるかは別にしてばらばらの寄せ集めの鏡ではないでしょう
0778日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:01:50.53
232.03呉、將軍周賀、校尉裴潛を遼東へ遣わし公孫淵へ接近を図る
232.09周賀、帰還中魏軍に撃沈され山東半島成山で死亡、遼東から送使として随行してきた宿舒は助かり、呉へ向かう
232.10宿舒、孫権に公孫淵の臣従申出を伝える
233.03孫権、公孫淵を燕王に封じ、宿舒が遼東に還るのを送り使者張彌、許晏ら遼東に向かう
変心した公孫淵、使者の張彌、許晏らを殺し、首を魏に送り呉からの贈り物を奪う
孫権怒って遼東に親征すると言うが皆に止められる

遼東に渡った呉の鏡職人などいない
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:03:21.19
呉の姫が嫁いだ伝承があるのは宗像だよ
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:07:16.05
有名な呉姫伝説があるだろう
中臣の1人も呉の姫を娶って記憶は曖昧だが呉って名乗っていたと思う
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:12:06.22
東大寺二月堂の修二会
椿の花が咲く季節に何故造花の椿の花なのか?
重要な意味があるんじゃないか?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:49:28.39
>>775
半世紀前までの古い説しか知らん文蒙さんかな
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/11(木) 23:50:38.49
まあ現状鏡なんかじゃわからんわ
三角縁神獣鏡は大きめではあるけど中国に無い訳じゃないんだな
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 03:28:36.23
>>778
魏の対呉で遼東敗戦の歴史だろ?
司馬氏が半島奇襲で公孫氏を追った
理由であって、公孫氏と呉の蜜月の
否定になってない。

戦国王の曹魏は
敗戦続きで司馬氏の晋になる。
倭人伝は溺れる曹魏が
九州の女酋長、藁をつかんだ歴史
だから倭人伝は、247年で終わった。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 05:16:14.65
761
でおまえは中国産すげーみたいなバカな妄想抱くようになるわけだろ
バカだからな
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 05:17:07.25
785
そおそお
魏は呉に負けた
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 05:19:57.32
三韓征伐ってのも呉の兵力を主力とする倭軍による三韓地征伐って感じだからな
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 05:21:48.89
畿内説のウリがさっぱりわからん。
倭人伝と合致する遺物少ないし、方位、距離はデタラメだし
何がウリなのか説明してくれないか?
倭人伝は無かったことにする説か???
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 05:28:50.52
不揃いの年号もおかしいが、無い年号を入れて贈り物として送ってくるかな。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 05:47:27.06
大陸においても呉の残存兵(倭軍)がその時代においても存在してたのやろ

日本と中国大陸両方で活動していた
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:13:57.89
バカは朝鮮だのを夢見るようだがルーツ的には夏王朝が連なる氏族の始祖に当たる

夏から分かれ一方はインドまで到達し一方は日本まで到達したのだ

匈奴に従ってたような漢人らに従う義理もない
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:16:02.00
漢人らは匈奴から独立してそのあと漢人として中国内で増えたのだ
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:36:34.46
>>763
銅出徐州師出洛陽
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:37:21.96
那智の滝には龍が住むらしい
飛龍神社、青岸渡寺
何色の龍なのか
黒なのか白なのか、黒と白の間の全ての色を表す青なのか

7300年前鬼界カルデラが噴火し同じ時代東北では三内丸山遺跡が誕生、その後縄文時代後期東日本の影響を受けた土偶が九州に現れる
那津に稲作民がやってくる前そこにいたのは東北の伝承に残る黒い龍神だったのかもしれない
先住民と稲作民が協力して弥生時代の始まりを告げる板付遺跡が作られたのか?
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:39:11.71
>>764
位至三公鏡は漢代にも晋代にも作られていることは事実であるが、大阪と福岡で大差ないのでいつの時代だとしても邪馬台国論争には関係ない
0797日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:41:39.79
弥生時代後期、奈良の清水風遺跡や唐古・鍵遺跡、橿原、大和川の堤防の下にも広がる柏原の船橋遺跡、池上曽根遺跡、兵庫の玉津田中遺跡、壱岐から龍の絵画土器が見つかっている
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:42:49.33
>>771
従来、三角縁神獣鏡は呉鏡ではないかと言われていたが、華北東部系鏡なるものが登場し、魏鏡説が強まっている
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:45:28.20
黒と白が一体となる
聖徳太子の伝承でも見られる
聖徳太子は甲斐の足が白い黒馬に乗り、富士山から河内の磯長に降臨した
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 06:52:41.64
常世にいるのは黒い童女と白い童女である
常世はあの世、黄泉の国、ヨモギ蓬の国
蓬は体を溶かす
鬼は体を溶かす蓬を恐れる
混然一体となり蓬の国の住人になる
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:22:54.90
>>796
それは「事実」ではなく日本の一部の考古学者の「意見」だろう
事実として認められていないから中国では位至三公鏡は魏晋鏡とされている

位至三公銘のない双頭龍文鏡(Ⅰ式)であれば後漢鏡だが

卑弥呼と関係がないのは、魏晋鏡より後すなわち4世紀に日本で作られた三角縁神獣鏡だ
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:27:24.45
>>802
日本出土の位至三公鏡で弥生時代確実なのが北部九州から多く出てるんで魏晋に限定されない
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:31:27.31
弥生時代後期の壱岐から龍の絵画土器
弥生時代中期、鰐に押されて北や内陸に押しやられつつあった龍が弥生時代後期、播磨や河内の協力の下、元の地に戻ってきたのかもしれないね
龍は海神でもあるからね
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:33:17.45
三角縁神獣鏡のように日本でしか出土しなければ日本の考古学者が一見好きに年代を繰り上げられるようではあるが、実は中国からも出土する斜縁神獣鏡や位至三公鏡との相対的編年の縛りで矛盾が露呈する

日本の考古学界は邪馬台国畿内説立証目的で年代を繰り上げ過ぎたようだ
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 07:38:36.86
日本の一部の考古学者が3世紀半ばと主張する箸墓から、大陸では4世紀にならないと出土しない鐙が出て来た
日本だけ考古学の編年がめちゃくちゃになっている
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 08:02:10.52
三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も柄の違いがよくわからん
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 08:05:50.45
呉の職人が日本で作ったって主張もよくわからん
なんで日本で作ると三角縁になるんだ?
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 08:10:49.26
つまり畿内説は前科持ち馬鹿学者による歴史捏造テロという日本の恥
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 08:25:52.87
>>152
>>154
魏志倭人伝の記述に完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳作文)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:03:56.10
つまり畿内説の思考回路は韓国製

4世紀の古墳から5世紀の剣が出たニダ → 古墳が5世紀って事だろアホ

3世紀の古墳から4世紀の三角縁が出たニダ → 古墳が4世紀って事だろ馬鹿

3世紀の箸墓古墳周辺で5世紀の木製輪鐙が4世紀の層から発見されたニダ → 古墳が4世紀って事だろサル
0813日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:33:57.36
>>809
中華の流行と切り離された独自文化だから独自発展する余地がある
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:37:25.71
>>501
三韓の韓は河北省の出場権で大陸出身者 漢からも合流して混合しまくってる
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:39:31.81
とくに蛇行剣とだ龍鏡で出雲系の巨大な権力があったのかってなるよね へび龍で
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:44:05.85
円墳大王に征服されてしまった前方後円墳大王
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:45:51.09
箸墓はAD300年(プラスα)頃の築造で、三角縁神獣鏡は4世紀に日本で作られた鏡だろう
九州や吉備からの征服勢力が空白の4世紀に奈良盆地で力をつけたのが初期ヤマト王権(纒向崇神朝)ということだ

そして4世紀後半に北部九州で急成長した海人族系「神功・応神勢力」に4世紀末に征服され取って代わられた(応神朝)
海人族系で元々半島でも活動していた(広開土王碑文)応神朝になってから中国との外交が復活した
これが5世紀の倭の五王だ

「畿内ヤマト王権」と「邪馬台国を含む魏志倭人伝の倭国」とは別の国だ
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:47:10.93
まだ韓国だのほざいてるわバカが🤔
0819ネトウヨ撲滅タイ!
垢版 |
2024/04/12(金) 09:50:31.40
ネトウヨにとっては工業高校卒や情報専門学校卒でも理系ちゃんなんだよな
平均学歴が中卒や高校中退のニートだらけだからな

高校時代に数三すら納めておらぬネトウヨが理系を名乗るとは笑ってしまうわ
少なくとも東大京大や旧帝大と言われる学校に入ってから言うべきであるな
私大なら早慶でやっと理系と文系の区別を名乗れるレベルだな

理系文系と本格的な区別が付けられるのは院進してからなのだ
そもそも文系の学部でも計量的な分析をやる場合にはある程度の数学知識は必要だろう
もっとも高校の数三レベルに毛が生えた程度だがな

修士課程まで進んだ人間でネトウヨなんぞはおらんだろう
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:51:24.28
いつまでグダグダ言ってんだクズ

おまえなにもんよ😳
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:52:07.38
学歴だのほざいてるがおまえみたいなんドロボーと変わらんやん

おいドロボーてめえは死刑だ😳
0822ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/04/12(金) 09:54:37.35
野党
米山隆一 灘から東大理三
小池晃 筑駒から東北大医学部
志位和夫 東大工学部
鳩山由紀夫 東大工学部
菅直人 東工大理工学部
福島瑞穂 東大法学部
前原誠司 京大法学部
枝野幸男 東北大法学部

与党
安倍晋三 エスカレーターで成蹊大法学部
麻生太郎 エスカレーターで学習院大政治経済学部
岸田文雄 3回東大落ちて早稲田大法学部
菅義偉 マーチ最下位の法政大法学部
小泉進次郎 関東学院大経済学部
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 09:58:45.23
岡尚大
0824日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 10:04:18.92
>>160
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣だった司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷w

663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 10:10:00.36
>>824
平和的な政権交代なら日本書紀にちゃんと書かれていないとおかしいし
親魏倭王の金印が正倉院にある、またはかつて持っていたという記録くらい残っていないとな
0826日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 10:27:05.72
金印「漢委奴国王」のように、記紀の記述を覆す物証は決して公開しないだろうw
0827日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 10:30:11.89
つまり漢委奴国王金印がアマテラスよりも前の時代ならセーフか
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 10:38:06.45
金印「親魏倭王」や「倭の五王」は皇室に不都合な(記紀の記述を根底から覆す)物証だからなw
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 10:47:50.98
>>805
>三角縁神獣鏡のように日本でしか出土しなければ日本の考古学者が一見好きに年代を繰り上げられるようではあるが、実は中国からも出土する斜縁神獣鏡や位至三公鏡との相対的編年の縛りで矛盾が露呈する

あんたの妄想だよ
世界どこでも、まともな考古学者は九州説なんか認めない
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 11:22:20.28
>>832
「斜縁神獣鏡や位至三公鏡との相対的編年の縛りで矛盾」なんて無いって話なんだけど?
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 11:32:02.03
>>834
いや、あるよ
三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡にしたい日本の一部の考古学者だけが三角縁神獣鏡より古い位至三公鏡を魏晋鏡ではなく後漢鏡だと言い張っている
これで日本だけ位至三公鏡の絶対的年代がズレる齟齬が起きている
0836日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 11:35:22.87
>>834
車のモデルには昭和と平成と令和で特徴がことなるように
位至三公鏡にも時代ごとに特徴がある
んで明らかに西晋時代の位至三公鏡であるにも関わらず
それを認めたら西晋の位至三公鏡より新しい特徴の三角縁神獣鏡が4世紀の鏡ということになってしまう。
それだと三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡である、という前提の邪馬台国畿内説に都合が悪いから
まず三角縁神獣鏡を卑弥呼の時代の鏡だと定義して
3世紀末~4世紀の西晋時代の位至三公鏡を1~2世紀の鏡『ということにした』

これが現代のゴッドハンド捏造考古学
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 11:36:07.68
ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 11:36:37.14
何でやねん妄想たくましいおっさん
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 11:37:44.29
位至三公鏡、箸墓の鐙、富雄丸山古墳の蛇行剣
邪馬台国畿内説強弁のための年代繰り上げの歪みがあちこちに生じている

どこが「考古学を勉強したら畿内説」だ
臍が茶を沸かす
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:02:50.89
三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡や斜縁神獣鏡の柄の違いがよくわかんねえわ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:03:46.27
考古学ってマイナーな世界だしどうでもいい分野だから誰も干渉しないし、で勝手な事やりたい放題なんだよ
しかも一般社会では使いもんにならない低能の寄せ集めでさ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:09:21.56
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:17:38.26
卑弥呼時代の青龍、景初、正始、赤烏の紀年銘鏡で決まりだろ。
支那人が日本列島に来た年の景初四年と正始元年のズレはリアルだろwそもそも中国の歴史書がまだ日本列島に来てない時代の鏡だから年号偽造は無理w
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:19:54.56
△は卑弥呼も作っただろ?

九州の鏡作りは100年代からで
卑弥呼は新型の鏡が見たくて、皇帝に
鏡好きだと言って、ねだったような。
特に280年位の古墳で出てるし、

九州海人族は全国に配流されて行った。
紀年鏡は特に九州製の可能性が高い。

400年位にはどこでも作ってる。
同じ型のがあるのは和製だろ?
0845日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:20:10.69
>>843
卑弥呼朝貢前の年号とか一体何の意味が
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:20:11.18
>>843
倭人伝を読んだ事がある倭人が居たなら偽造できるだろ
卑弥呼時代にすでに文字は読めてた訳だし
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:21:27.78
呉の年号とか何がしたかったんだ
0850日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:23:20.71
>>843
確かになんで日本人が四年なんて入れたんだろうな?
もし呉の職人ならなんで景初なんだ?
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:23:45.45
>>849
何らかの言い伝えに沿って作ってだんだろうよ
景初三年の鏡なんてのは魏志倭人伝の卑弥呼に憧れて再現したのかもよ
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:31:04.35
古墳に副葬される鏡は出張鏡職人による受注生産という説があったな
0855日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:31:12.84
魏の皇帝が後漢鏡を送ったりしないと思うんだがなあ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:31:27.35
富雄丸山古墳(4世紀後半)の蛇行剣(5世紀)の画期性は、副葬品の追葬の可能性が高まったことで、
紀年鏡が出たからと言って必ずしも築造年代の特定には至らないということで、「副葬品=築造年代」としてきた畿内説の牙城を根本から覆すものであることだ
0857日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:32:15.59
魏の皇帝なら宝石散りばめた鉄鏡送りそう
0858日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:32:57.44
>>856
そんなんより炭素年代測定で良いよ
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:35:02.72
>>856
祇園山古墳(有棺無槨)の葺石は後世の追加、三角縁神獣鏡は後世の追葬、とすれば、卑弥呼の冢で何の問題もなくなるねw
0861日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:36:00.90
炭素年代測定は土器の外側の煤は試料から外そうぜ
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:37:04.11
出来がいいから舶載鏡、出来が悪いから仿製鏡とかいう分類は
今思えば頭悪すぎたな
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:46:01.42
>>860
祇園山古墳は有棺無槨じゃないですけど
0865 警備員[Lv.7(前25)][苗]
垢版 |
2024/04/12(金) 12:51:16.69
>>850
倭は1年が2年ぶんだからねw

景初3年の下半期は
倭ではすでに次の年号になる

これで幻の景初4年が出来上がりw

ついでに春秋二倍暦説を後押しすることにもなる

完璧な答えw
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:53:16.74
>>814
半島の韓は春秋戦国の中原の韓とはまったく無関係やぞ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:53:30.64
>>806
後に混入したと見るべき
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:54:36.81
>>807
ほとんどは国産であろう
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:58:06.37
>>809
銅出徐州師出洛陽との言葉から、魏の職人が画文帯神獣鏡と斜縁鏡を組み合わせて作ったと見られる
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:58:18.62
>>865
景初3年・4年 「だけ」 2倍歴かw

さすが、アホはいろいろ思いつくな
0872 警備員[Lv.7(前25)][苗]
垢版 |
2024/04/12(金) 12:59:06.43
ちなみに赤烏は太陽の異称だ

赤烏に対して、白兎

白兎が月の異称になる

白兎 = はくと = 好古都 = ツキヨミの国 = 阿波

好古都はオオゲツとすでに紐解いてるが

およよ、これはこれで繋がるねーーw
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 12:59:21.35
>>856
蛇行剣は4世紀の物であるということが分かったというべきである
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:00:22.26
>>846
魏志倭人伝が書かれたのはトヨの朝貢の途絶よりあとやぞ
そのあとしばらく途絶してる

王朝交代後の、宋へと朝貢時に魏志倭人伝を入手できたとは思えないしな
0876日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:10:11.33
>>805
位至三公鏡の日本での出土数は、29面。
うち、13面は九州。12面は九州以外。4面は出土地不明。
大阪は福岡の7面に並ぶ6面。
漢鏡の位至三公鏡は福岡や佐賀の遺跡から出たものだろう。
そして、晋の時代に復古した位至三公鏡は九州以外から出土しているから、晋の時代に外交を持ったのは畿内である。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:14:03.20
朝鮮半島にいた穢人て漢人て書かれることもあるからO2だろ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:14:40.97
>>798
なにそれ
詳しく教えて
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:14:43.56
ちなみに、晋の時代の銅鏡はこれだけではない。
泰遠寺山古墳(福井)、天山1号(愛媛)、尾ノ上古墳(広島)、巽山古墳(徳島)、待兼山古墳(大阪)、奥坂古墳(大阪)などからも晋鏡が出ており、
安本美典は「西暦300年頃に西晋と関係を持ったのは北部九州だ」というが、
その主張は極めて苦しいと言わざるを得ない。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:16:21.90
>>863
じゃホケノ山や箸墓はなおさらだねw
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:17:54.01
畿内説は銅鏡に関する重要事項に触れようとしない
・銅鏡の成分分析で中国製だと主張しているが当時の日本に国産の原材料は存在しない
・銅鐸も成分を調べれば中国製となる
・国産の原材料が無かった時代の国産銅鏡が存在する
・紐を通す穴の形状で製造過程の違いを分類できる
・鏡面仕上げされていたかどうかで祭祀用品か副葬専用品か分類できる
・奈良と滋賀だけ鏡が棺の中ではなく外に副葬されていたケースがある
・中国の墓で三角縁が副葬されていた事例は無い
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:21:50.86
>>876
1:中国で主に西晋時代に流通した「位至三公鏡」は主に福岡、佐賀県から出土し
奈良から確実な出土例はない。

2:「位至三公鏡」より形式的に前の中国鏡についても北部九州を中心に出土する

3:九州出土の「位至三公鏡」は弥生時代の遺跡から出土するものもあるが
九州以外の「位至三公鏡」はまず古墳時代の遺跡から出土していて
伝世鏡か踏み返しによって作られた鏡か
どちらにせよ古墳時代に埋葬されたものと見られる

4:これらのことから魏の後を受け継ぐ西晋の西暦300年頃まで鏡の出土分布は九州北部が中心だったと思われる。

5:「位至三公鏡」よりも形式的にも出土状況も後の時代の「三角縁神獣鏡」は畿内、奈良を中心に出土する。

6:西晋の記録には西暦266年に倭国の女王の使いが来たことが書かれている。
この際に鏡を受け取ったのならそれは「位至三公鏡」であった可能性が高い。

7:西暦266年に受け取った鏡が「位至三公鏡」であるのならその鏡が主に出土する九州北部が
西暦300年頃まで
中国との外交の窓口であったと思われる。

結論:邪馬台国は九州北部
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:24:39.27
>>880
>じゃホケノ山や箸墓はなおさらだねw

ホケノ山や箸墓は有棺無槨だけど?
0884日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:26:35.73
石棺だから石槨は必要ないんだよw
木棺なら石槨が必要だけどねw
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:29:37.28
前方後円墳の木棺を無槨にすると、木棺が腐った途端、上から押し潰されて主体部が崩壊してしまうからねw
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:31:50.18
>>880
そもそも有棺無槨は一般人の墓について書かれた記事である
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:34:55.55
>>876
漢鏡であるという確たる根拠がない
そもそも中国では基本的に晋代の遺跡から出土しており位至三公鏡は西晋代の鏡である可能性が高い
(漢代に作られたのは双頭龍文鏡でも位至三公銘のないⅠ式に属するもの)

日本から出土したものだけ漢代のものがあるとは極めて考えにくい
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:35:07.06
>>882
位至三公鏡
九州のが仮に全て晋代と想定しても、13面
九州以外では12面
それに、泰遠寺山古墳(福井)、天山1号(愛媛)、尾ノ上古墳(広島)、巽山古墳(徳島)、待兼山古墳(大阪)、奥坂古墳(大阪)の6面の西晋鏡を加えれば、
九州13に対し、九州以外は18となり、西晋と関わりを持ったのは畿内であることが分かる。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:35:42.73
>>886
その根拠は?w
0890日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:36:24.22
>>882
>1:中国で主に西晋時代に流通した「位至三公鏡」は主に福岡、佐賀県から出土し
>奈良から確実な出土例はない。

粗末な小型鏡だからね
王侯や有力貴族は使わない
西晋時代に流通したのは盗掘で得た中古品かコピー複製品だろう
もっと古い鏡と一緒だったりするからね

古墳からの出土は
三重 1 
佐賀 1
島根 1
山口 1
岡山 1
大分 1
佐賀 2
大阪 3

時代不詳が
奈良 1
神奈川1
福岡 2
滋賀 1
大阪 2
香川 1
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:36:32.84
>>889
魏志倭人伝を読むとそのように解すべきである
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:39:18.77
>>877
>漢鏡であるという確たる根拠がない

漢墓から出てるけど?

>そもそも中国では基本的に晋代の遺跡から出土しており位至三公鏡は西晋代の鏡である可能性が高い

そういう学説は無い
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:40:01.77
>>887
漢代にも作られていたことは、佐賀の遺跡から出てきたことからも明らか
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:46:45.74
安本美典は、「位至三公鏡は西晋鏡であり、この位至三公鏡は九州でたくさん出るから西暦300年ごろに西晋と交流があったのは九州」だとしている。
ところが、まず絶対数が少ない。
25面のうち13面は九州、12面は九州以外。
ここに、泰遠寺山古墳(福井)、天山1号(愛媛)、尾ノ上古墳(広島)、巽山古墳(徳島)、待兼山古墳(大阪)、奥坂古墳(大阪)の6面の西晋鏡を加えると、九州以外の方が多くなる。

都道府県で言えば、大阪府8面がトップになる。
つまり、安本美典理論でいけば、西暦300年頃に西晋と関係の深かったのは大阪府ということになる。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:49:39.56
ちなみに中国の学者は>>895で発見された巫女が卑弥呼だと言っていた
しかし根拠もなく豪華絢爛な卑弥呼時代を妄想している畿内説はそれをガン無視
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:52:54.71
卑弥呼が葬られたのは甕棺墓囲まれた丘陵地だったとすれば、径百歩、殉葬百人と記述されてもおかしくは無い
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:54:19.91
>>891
根拠はない、と言うべきだなw
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:54:51.22
>>894
弥生時代に貰った鏡が古墳時代に埋葬された
という話
弥生時代に位至三公鏡が埋葬された場所が
『弥生時代の大陸との交易の中心地』という話だよ
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:57:17.98
エジプトのファラオの時代の宝物がイギリスに沢山展示されてるからといって
イギリスがファラオの文明の中心とはならない
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 13:59:05.05
>>892
漢墓と主張する日本の学者はいるが、中国では漢墓とは見なされず位至三公鏡は魏晋鏡が通説
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:01:59.91
>>899
墓誌が出てるから位至三公鏡は西晋鏡というのはやめたのか?
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:04:14.98
>>901
>中国では漢墓とは見なされず位至三公鏡は魏晋鏡が通説

だって証拠は?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:08:08.83
西晋鏡説が急に漢鏡説になる酔っ払いの九州説
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:17:07.85
九州説は定見がないことで有名
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:23:26.10
畿内説だって人によってディテールはずいぶん違うだろう
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:30:16.47
位至三公鏡にも時代区分がある
位至三公鏡の中の西晋鏡を漢鏡に分類するのが畿内説のゴッドハンド
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:34:23.01
>>906
大筋は一緒
九州説は完全にみんなバラバラ
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:35:42.80
>>908
別に西晋代にしてもいいんだが、九州とそれ以外で大差がない
その上、泰遠寺山古墳(福井)、天山1号(愛媛)、尾ノ上古墳(広島)、巽山古墳(徳島)、待兼山古墳(大阪)、奥坂古墳(大阪)の6面は確実に西晋鏡なので、
九州より、九州以外の方が多くなってしまい、最多は大阪府になってしまう
0911日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:36:31.06
>>908
>位至三公鏡の中の西晋鏡を漢鏡に分類するのが畿内説のゴッドハンド

位至三公鏡を西晋鏡に分類してる学者名と論文プリーズ
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:37:54.43
>>910
古墳時代に埋められたのなら
弥生時代古墳時代にかけて
九州から西に鏡文化圏が広まり
銅鐸文化圏を駆逐していったことを示す
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:38:11.00
>>909
古い畿内自生説と、畿内自生説否定の最近の畿内説はかなり違う
久住猛雄なんてXで畿内自生説論者をコテンパンに論破している
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:39:43.01
>>911
中国で出版された『洛陽銅鏡』だろw

昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:46:08.14
>>912
漢鏡7期に畿内が九州を圧倒し始めるので、鏡の文化は確かに九州から広まったのだろう
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:48:32.26
>>913
久住ですら九州説を採れないのが現実
つまり、九州説は終わったのだ
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:49:25.52
そもそも攻めたり攻められたりな世の中にうんざりしたから卑弥呼を共立して平和な時代を築こうとしたんだろ
九州が征服したとか畿内が征服したとかいう考え方は根本的にズレてると思うぞ?
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 14:50:38.11
>>909
九州説に不弥国・投馬国・邪馬台国は何処だと聞いても答えないからな
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:00:32.94
自生説か否かは通説畿内説の頂上決戦
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:02:39.69
纏向から畿内説の学者が公金チュウチュウに走った
纏向なんて倭人伝記述と合致する遺物あるのかな
0924日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:03:17.79
>>923
三角縁神獣鏡
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:04:21.30
久住先生に質問する為にアカウントを作った
なぜ、久住先生は通説畿内説を採用しているのかを聞いてみます
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:06:43.34
>>922
川を遡った挙句、5千人の吉野ケ里が5万戸の投馬国
そしてさらに田舎の山鹿が7万戸の邪馬台国
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:10:47.84
>>927
吉野ケ里遺跡を中心とした国
という意味だろう?
吉野ケ里遺跡が投馬国の全てというのは流石に曲解すぎる
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:16:22.49
>>926
>久住先生に質問する為にアカウントを作った

おすえて!
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:16:38.01
>>928
Q吉野ケ里の人口はどのくらいだったの?
当時の人口を調べることはとても難しいことです。基本的には、お墓の数や住居の数などから推察していきますが、当時の燃料が薪だったことを考えると、周辺の森林の伐採等による環境のことも考えなくてはいけません。また、当時の人々が1日どれくらいの食物を食べていたのか、それを満たす食糧の確保が可能だったのか、など、考えなくてはならないことはたくさんあります。吉野ヶ里では、こうした様々なことについても調査研究を行い、現時点で最盛期には、外環壕の内部におよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:18:15.72
>>913
>古い畿内自生説と、畿内自生説否定の最近の畿内説はかなり違う

その自生説とやらの定義は?
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:28:01.31
>>932
不弥国・投馬国・邪馬台国は何処だ
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:30:17.53
>>930
吉野ケ里遺跡を中心とした村がどれくらいあったのかは不明だよ
発展した国や都市は単独で出現したりはしない
それを支える農村がいくつもある
そうでないと都市人口が支えられないから
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:32:50.51
5000人が5万戸?
いかにも中国が盛りそうなレベルの数字操作だなw
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:40:13.81
三角が見つかれば邪馬台国なんて言ってる馬鹿がまだいるんだな
Ww
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 15:47:23.45
>>933
九州であることは間違いがないとはわかっている。
けれども、どこかまでは畿内説など同様にわからないというのが実情。
つまり、九州説は別に一つの説でまとまっているというわけではなく、それぞれの説が独立してかなり有力だから、そこは何とも言えないね。

菊池彦の狗奴国との争いを考えると、山門群もかなり有力だけれども、
豊後水道とか瀬戸内海をわたっていくとまた倭人の国があるわけなので、海沿いの宇佐も有力かもね。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:03:06.34
>>938
関係ありまくりです
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:06:23.29
九州説は倭人伝の俺様超解釈だけで邪馬臺国論争したかった人々だからね
近年は倭人伝解釈でも非主流派で、晩年の古田あたりから、どんどん質の低い史料どころかインチキ史料をネタにし始めた
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:10:13.32
>>940
邪馬台国って魏志倭人伝によって初めて認知された日本の国なんだから
魏志倭人伝の記述から場所を探るのは当たり前だろう?
まさか邪馬台国はヤマトと発音したはずだなんてトンデモを信じてる分けないよな?
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:12:13.35
インチキ資料というならまずは日本書紀だよな

神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳

考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:37:31.50
>>895
卑弥呼は骨焼いて占いしてたから
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:39:31.24
非現実的な年齢ではなく日本独自の二倍暦だったのかも知れない
記紀で100歳を超える異常な年齢は応神・仁徳あたりが最後なので、倭の五王の朝貢外交で中国から暦を導入した可能性がある
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:42:46.65
>>942
それもそうだしまず神社なんとかしろよ
存在しないんだから
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:50:26.16
絶対無いと言い切れる神社なんか根拠にされると脱力するわ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:51:44.45
>>943
じゃあ鏡なんて関係無いわけだ
魏から銅鏡を貰ったのはそれを欲しがる国があったからだな
東の倭種の国とか
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 16:55:06.62
卑弥呼女王に属する30国が朝貢して倭種の国70国を賛同させるべく鏡を100枚準備したが
狗奴国に戦争を仕掛けられるなど失敗に終わった
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:02:26.59
鏡を配るなんて話は後世の研究者による捏造

還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
帰り着いたなら記録したものを受け取り
ことごとく汝の国中の人に示して魏が汝をいとおしんでいることを周知しなさい
そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:04:38.48
三角縁神獣鏡がいっぱい出てきた!

あちこちからいっぱい出てきた!配ったに違いない!

600枚以上出てきたけどこれどうしよう……
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:09:19.79
>>952
古墳の9割は盗掘されてる
そんな状況下で600枚も発見されるという事は当時数千枚は流通していたと考えられる
0956日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:12:46.98
>>945
神社は701年とかそこらで日本全国の神社を登録する時に
一旦全部リセットされてる気がする
イメージ敵には明治の廃仏毀釈
全国の神社を大和朝廷の序列に組み込むために登録させたんじゃないかと
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:15:12.23
>>955
高級品という意味なのか

故鄭重賜汝好物也
ゆえに丁重になんじにオタカラをやるのだ

くらいの意味か
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:16:18.08
つまり大量に出てくる三角縁は倭種の国がオレオレ詐欺するために作ったツールでしたと
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:21:19.21
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0960琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/04/12(金) 17:40:33.66
無駄だよ
銅矛銅鐸が消え神獣鏡が現れるのだよ
神仙思想の始まり
国産?神獣を何故理解している?
馬鹿馬鹿しいい加減な話間違った解釈はもう無理なんだな
吾輩は記紀も完全否定していない、整合性を求めている
神武より前筑紫、筑紫に23代ご先祖の聖地なぞ無い、筑紫は月支。
神武天武昭和共通の理念は八紘為宇。
卑弥呼は上善如水、関係は無い。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 17:40:57.83
>>956
倭国(阿波)から奈良大和への遷都に従い、神社も「阿波」の元社から奈良を手始めに、全国へ勧請していった。 それだけのこと。

だから、畿内の神社は「坐」の付く神社ばかりと言っても過言でない。   @阿波   
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:33:27.10
>>899
さすがに伝世の期間が長すぎないかね
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:37:11.00
『倭国乱』であり、
倭種乱、倭人乱ではないことに注意だね。
倭国という時のは北部九州。つまり倭国乱とは北部九州の集落間の盟主争い。牛馬のいない時代のスケール感はこんなもん。
列島規模の騒乱なら倭種乱、倭人乱、倭乱になるはずだもんね。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:37:39.18
>>930
その人の説に従うなら、吉野ヶ里の国は戸数にして千余戸しかない、中堅国家やな
0966日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:39:29.15
>>937
>九州であることは間違いがないとはわかっている。

そんなこと言うから九州説は宗教だと言われるようになった
そしてとうとう滅んだ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:42:43.25
>>946
たいていの神社は社殿を作るようになったのは奈良時代後半か平安時代からやし、それぞれの神社で文字史料を残し始めたのは鎌倉時代ごろからやもんな
そんなんで古墳時代を語ろうとする夢想家の説は信用できない
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:47:09.85
卑弥呼の居所は、纏向でも吉備でも阿波でも良いんだけど、北部九州が中華王朝と独自外交をするのを妨げるだけの支配力を北部九州に持っていないといけない。
それまで漢委奴国王や倭國王帥升(倭面土國王師升?)を出してきたのは玄界灘諸国とされているからね。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 18:51:34.48
>>956
それなら遺跡として出る
無いもんは無いんだよ
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 19:10:23.62
ハイ論破

瀬田遺跡 葛城王朝初代王 卑弥呼陵

箸墓古墳 三輪王朝初代王 崇神陵

大仙古墳 河内王朝初代王 応神陵
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 19:13:35.98
>>942
日本の伝統行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)一年に二回ずつ行われるものが多いが、古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦[注 2]説』がある。
『魏志倭人伝』の裴松之注には「『魏略』に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、
古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。
そのことを踏まえれば天皇達の異常な寿命・在位年数にも不自然さがなくなり、『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、
あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。
また一つの季節を一年と数え、一年を四回カウントする『4倍年暦説』もある。この二通りで古代天皇の在位年数を計算すると以下のようになる。

神武天皇 半年暦で38年、4倍年暦で19年
綏靖天皇 半年暦で16.5年、4倍年暦で8.25年
安寧天皇 半年暦で19年、4倍年暦で9.5年
懿徳天皇 半年暦で17年、4倍年暦で8.5年
孝昭天皇 半年暦で41.5年、4倍年暦で20.75年
孝安天皇 半年暦で51年、4倍年暦で25.5年
孝霊天皇 半年暦で38年、4倍年暦で19年
孝元天皇 半年暦で28.5年、4倍年暦で14.25年
開化天皇 半年暦で30年、4倍年暦で15年
崇神天皇 半年暦で34年、4倍年暦で17年

古代においては兄弟相続、傍系相続が普通であり、また平均寿命が40 - 50年であったことを考慮すると、実際は在位年数に4倍年暦、即位前の年齢には半年暦を採用していた可能性が高い。
それら考慮した場合、その世代数は以下のようになる[7]。

1.神武
2.綏靖・安寧
3.懿徳・孝安(別族)
4.孝昭
5.孝霊・孝元
6.開化・崇神
0973日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 19:19:29.84
帥升はいろんな文献に出てくるのな
後漢書は倭國王で他はそれの引用なんだけど
倭面上國王、倭國土地王、倭面土國、倭面國、等いろいろある
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 19:21:56.44
卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である

・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼

・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼

魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)

時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている

男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 19:24:26.62
>>968
碌に鉄器さえも作れない北部九州に、中華王朝と独自外交をするだけの、力は無い! 夢もほどほどに。   @阿波
0976◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/04/12(金) 19:28:13.25
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712914992/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0979日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:16:32.29
>>586
2年前に佐賀の大和町で王だらけの集団墓地が見つかってるけど
その場所はその図じゃ海なので
もっと海岸線は南では?
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:29:14.50
>>978
今とても熱い説だよ。
これがないと畿内へ神武東征とかなかったことになってしまうからね。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:42:06.92
>>981
>これがないと畿内へ神武東征とかなかったことになってしまうからね

寒村畿内に、神武が東征した痕跡など皆無! アホな夢もほどほどに。   @阿波
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:47:50.35
畿内が寒村とか
嘘つくのも大概にしやなあかんで
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:58:49.52
絵文字ガイジ〜
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:58:52.55
絵文字ガイジ〜
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:58:55.45
絵文字ガイジ〜
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:59:18.27
阿波おじさんは鼻くそ
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:59:20.89
阿波おじさんは鼻くそ
0991日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:59:25.39
阿波おじさんは鼻くそ
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:59:45.72
阿波おじさんはくさそう
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:59:48.36
阿波おじさんはくさそう
0994日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 20:59:50.79
阿波おじさんはくさそう
0995日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 21:00:23.86
@阿波

くさい
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 21:00:26.74
@阿波

くさい
0997日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 21:00:43.24
くさい
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 21:00:45.77
くさい
0999日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 21:00:48.24
くさい
1000日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/12(金) 21:01:38.22
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