邪馬台国畿内説 Part1012
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712622664/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
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【追加・変更】なし 984
碌に鉄器さえも作れない畿内だから、立派な寒村だ。 @阿波 で、倭人伝の記述と一致する遺構や出土品は出てきたの? 銅鐸文化圏は敗北したんだ
戦わずして永く続けた銅鐸を捨てたんだ
その腹いせとして畿内説が存在するんだよ @まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096 >>80
だから、鉄器王国「阿波」の前に敵は存在しなかった。 @阿波 ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg
※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png&name=900x900 ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。 よく考古学者が提出する年代観を素直に受け入れる気になれるな 3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!
<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)
<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)
247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。 >>83
九州説は奴国の東の不弥国を北にしたらダメです
畿内説にツッコめなくなるでしょ >>86
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣だった司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw
そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw
さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。 卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である
・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼
・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼
魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)
時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている
男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか 3世紀に半島の鉄と糸魚川の翡翠は交換されていて、その交易ルートが北九州〜山陰〜糸魚川であったことは今では通説になっている
ならば、魏の役人や卑弥呼が使ったルートも当然、このルートを利用したと考えるのが自然ではないだろうか? 瀬田遺跡 葛城王朝初代王 卑弥呼陵
箸墓古墳 三輪王朝初代王 崇神陵
大仙古墳 河内王朝初代王 応神陵 >>90
ところが魏の役人は九州に上陸して陸行してしまっている
これは仮に畿内説をとるとしても瀬戸内海ルートを示しているのではないか .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 邪馬台国畿内説のfull-showもYouTuberだよな >>92
瀬戸内海航路がまともに使われるようになったのは平清盛の時代から 書いてあるとおり南に行ったと思えば色々悩まなくていいよw >>92
いま、播田安弘「日本史サイエンス」(1000円)という本を読んでおりまして
ちょっと感動してしまったため、思わずレスしてしまいました
船の専門家で古代の船の性能と航路という点から邪馬台国を論じているほか、秀吉の朝鮮出兵で相対した亀甲船の真実や日露戦争の本当の勝因などなど、めちゃ面白いです
3世紀の瀬戸内海航海の危険性もたっぷり語っています
真偽はどうあれ、暇があれば是非一読を >>90
糸魚川の翡翠は殆ど輸出されてないみたいなんだけど
中国には全くない >>92
畿内説の場合上陸地点が九州じゃないんだよ >>85
>よく考古学者が提出する年代観を素直に受け入れる気になれるな
つまり九州説は反学問 >>102
日本海ルートなら当然上陸地点は丹波あたりまで北上することになるだろうな
それはもう魏志倭人伝との相違がものすごいことになるが >>86
>「有棺石槨」ホケノ山
ホケノ山に「石槨」とか無いから 無駄だ
九州は半島甕棺の遺影でしか無い
本居や田中智学の勘違い皇国論者でしかない
もう大体大筋はハッキリし覆せないよ >>104
不弥国から水行してるんだから、その比定地は海沿いの宗像あたりしか有り得ない
不弥国が宗像なら、奴国(博多)から北になるのに倭人伝は東と書いてるんだから、投馬国への南も東に読み替えないと逆におかしい それに投馬(於投馬)国は出雲で間違いない
地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。
『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。
また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。
他に近江国伊香郡の伊香刀美(イカトミ、伊香津臣命か)なども地名にミを付けた地域的首長を表すと考えられる。また綏靖天皇の和風諱号である神沼河耳命(カムヌナカワミミ)や、その兄である神八井耳命(カムヤイミミ)なども同様である。 >>107
海岸沿いを北上していくなら完全に水行ルートで陸行する場所がない >>108
ミミのつく人物が、出雲のみならず、和泉、摂津、丹波、但馬、近江にいたことが記録されてるんでしょ?
なら、投馬国が出雲で間違いがないことの理由になってないじゃん。 帯方郡から水行二十日だから投馬国は対馬が妥当だろ? 伊都国に相当する場所が出雲
輸出入の権益を握ってるからお金持ち このスレの人にとっては何をいまさらな話だろうが
ヤマタノオロチ(製鉄)、桃太郎(温羅)、アメノヒコボといった伝説の数々が卑弥呼以後の話と知ってショックだった
神武天皇=1世紀くらいの人、神話=さらに大昔という刷り込みがあったからだ
自分の中で卑弥呼=アマテレス説にますます信ぴょう性が出てきた
和辻哲郎という人は凄いな >>115
何をいまさら。
①「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼(天照大御神)」を立てた。
②「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼(須佐之男命)」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
③「國中不服更相誅」して、卑彌呼宗女「壹與(豊玉比売命)」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
④卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
⑤「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性 だと、何度言えばww @阿波 大和の大蛇が日本海勢力の英雄に返り討ちにあう話
ホンダワケとイザサワケの時代の話かもしれん ヤマタノオロチ退治は紀元前後
遠賀川式土器の稲作民vs那津の稲作民が引き金かもな
遠賀川式土器の分布は若狭〜尾張のラインが東端
尾張の朝日遺跡は遠賀川式土器の集落であったが紀元前後に墓域が変わり墓制も日本海側と共通のものに変わる
弥生時代後期になると松江の西川津遺跡と同じ形の鳥形が見つかっている
河内にもヤマタノオロチ伝承が残り出雲からやってきた人々が退治してくれたという
紀元前後で営みを終えた加茂岩倉遺跡の銅鐸が近畿各地で見つかっており、ヤマタノオロチの後釜に銅鐸の勢力が収まったのか?
遠賀川でもスサノオのヤマタノオロチ退治の伝承が残り、ヤマタノオロチが倒された後遠賀川は赤くなったという
九州では鹿使いの赤神が後釜に収まったのかもな >>115
隋書の阿毎多利思北孤が日出処の天子でアマテラスだ >>105
石囲い木槨だって!「有棺無槨(棺を直接土葬)」と明らかに矛盾してるねw
http://sakuwa.com/p13.html >>81
>>86
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 「複有国B」皆倭種
〇九州説…「東渡海A」関門海峡「複有国B」本州
✕畿内説…「東渡海A」鈴鹿山脈「複有国B」北海道
−其南有狗奴国 不属女王
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂
畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡は後世の追加&追葬)を比定。 三角縁神獣鏡が出ない南九州が邪馬台国や投馬国である可能性は限りなくゼロ >>123
投馬(対馬)は寄港地ってだけ
朝鮮半島(5万戸)から日本列島(7万戸)に出発した 陳寿は投馬国も邪馬台国も集落のつもりで書いてるが集落ではない 239年に来た明帝勅使も、247年に来た張政も、南「陸行」一月してる時点で里数表記に変わるはず
彼らに東夷に関して嘘を吐く理由なんてないから、女王之所都が纏向である可能性は完全にゼロ >>121
>隋書の阿毎多利思北孤
記紀は「あ」か「い」で始まる名称が非常に多い。
当時(8世紀)の倭人にとって、「あ」とか「い」に、そこはかとない尊崇の響きがあったんだろう。
だから、好んで名詞に「あ」とか「い」を付けたと思われる。
その心は、「天照大神」・「粟」の「あ」、や「伊予之二名島」の「い」等に由来しているためか。
これは、記紀が倭国(阿波)での出来事を記載している証左である。 @阿波 >>131
どの文字をあてるかはその人次第
聞いた人に依って微妙に違ってくる >>81
>>83
魏志倭人伝の記述に完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw
全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。
まさに「ヤマトよ永遠に」w
「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w 粟、稗、稷、縄文時代の穀物だ
粟、日枝、吉備
まだまだ謎が多いよ
旧石器時代から一つ一つ人々の営みの歴史を解明し積み上げていくしかないかもな 中国で西晋の遺跡からしか出ない位至三公鏡は魏晋鏡というのが世界の通説
しかしこれでは位至三公鏡よりも新しい三角縁神獣鏡が4世紀の鏡になってしまい三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡にしたい畿内説にとっては甚だ都合が悪い
このため世界中で日本の畿内説考古学者だけが位至三公鏡を後漢鏡と言い張る
畿内説の結論ありきで考古学を歪める恥知らずの畿内説学者 >>135
位至三公鏡を全て西晋の銅鏡であると仮定しよう。(明らかに漢代のもあるのだが)
すると、13面は九州、12面は九州以外。
また、西晋鏡であることが確実である泰遠寺山古墳(福井)、天山1号(愛媛)、尾ノ上古墳(広島)、巽山古墳(徳島)、待兼山古墳(大阪)、奥坂古墳(大阪)などの6面を加えると、
西晋鏡は九州より九州以外が多くなり、かつ最多の都道府県は大阪府になる。
よって、位至三公鏡は邪馬台国論争に何らの影響も与えない。 >>137
邪馬台国論争に影響を与える
三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡と言う一部畿内説学者の主張が理論的に崩壊する >>124
>>129
ある意味(白○を黒●と言い張る)畿内説学者によって纏向は⇩邪馬台国女王之所都という冤罪・濡れ衣を着せられているとも言えるな
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg >>138
三角縁神獣鏡は卑弥呼からもらった鏡であろう。
ただし、卑弥呼がもらった鏡は画文帯神獣鏡や斜縁鏡も考えられる。
西晋の時代には、大阪府がもっとも多くの西晋鏡を副葬していることから、大阪と西晋は蜜月な関係にあったのだろう。 >>138
三角縁神獣鏡を権威の象徴として全国に配ったってのは理には適ってる 本場中国ではたったの1枚、日本ではすでに500枚以上出ている三角縁神獣鏡が前方後円墳「有棺石槨」とセットという時点で、卑弥呼の鏡ではないことが明らかw >>141
九州説の私もそれは否定しない
北部九州倭国とは全く別の国である畿内ヤマトか4世紀にそれをやった 魏の皇帝から貰った鏡が無くなって自作したって事だよね 1つの古墳の棺外に大量に副葬されることが多い三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるわけがなかろう(もうすぐ600枚!)w >>142
有棺無槨は一般人の被葬方法である
魏志倭人伝を読もう 畿内に九州とは無関係に王権が存在できるわけ無いだろ
王権の象徴である前方後円墳がそもそも前時代の畿内になかった 三角縁神獣鏡は明らかに日本独自の古墳埋葬用の祭器だ
3世紀後半ないし4世紀以降の畿内周辺の宗教的リーダーであるヤマト王権が古墳祭祀とともに各地の有力者に広めたものだろう
魏とは全く関係ない >>148
魏志高句麗伝「厚葬金銀財幣盡於送死 積石為封列種松柏」
>厚葬金銀財幣
権力者の被葬方法である。
魏志韓伝「其葬有棺無槨 不知乗牛馬牛馬盡於送死」
>牛馬盡於送死
権力者の被葬方法である。 >>146
黒塚古墳では中央に画文帯神獣鏡で周囲に三角縁神獣鏡
画文帯神獣鏡こそが卑弥呼の鏡とも考えられる 本場中国ではたったの1枚、日本では600枚に迫る勢いで1つの古墳の棺外副葬品として大量に出土する三角縁神獣鏡だが、
@筑紫女王卑弥呼が239年に魏帝から貰ったオリジナルの百枚(祇園山のはコレ)と、
A筑紫女王台与から266年禅譲を受けたヤマト王権が大量にコピーして配った倣製鏡
の2種類あるのかもしれないね! >>147
画文帯神獣鏡は呉の鏡だが、三角縁神獣鏡は後の鏡とは言えない。
明確に斜縁鏡の影響を受けている。
そこでこの名文が出てくる。
「銅出徐州師出洛陽」 阿波さんよ、あなたの近くに「闇のクマさん」と言うYouTuberはいませんか? 三角縁神獣鏡は、1つの古墳の棺外の、それも足元に30枚とか大量に副葬されることが多いことから、明らかに卑弥呼の鏡ではない 三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の模様の違いってよくわかんねえわ >>158
画文帯に斜縁鏡を合わせれば、三角縁神獣鏡になります でっかい十円玉だよ。
当時は街道がないから参勤交代で浪費させることができなかった。
だから巨大な土盛りを作らせたり、
大量の年貢や生口と引き換えにでっかい十円玉をご褒美に渡して、しかも副葬させた。
地方疲弊して従うしかない。 >>153
慧眼!
舶載と倣製の2種類あるとすれば、三角縁神獣鏡の謎が解明できるかもw >>103
少なくとも、年代学研究の専門家である年代学者の分析結果を過度に疑って分析結果よりも大幅に新しい年代を主張していた前科はある
最近は反省して年代学を受け入れるようになってきたが。 >>140
西晋の時代には、大阪府がもっとも多くの西晋鏡を副葬していることから、倭人(阿波勢力)が多く進出したのだろう。 @阿波 >>142
>本場中国ではたったの1枚、
その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、
神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、
神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。
これは取りも直さず、その同じ工人が、徳島・宮谷古墳付近に暮らし、
「三角縁神獣鏡」を?製していたことを示している。 @阿波 >>163
三角縁神獣鏡が本場中国で1枚しか出てないっておかしくね?
266年に筑紫女王台与から禅譲を受けたヤマト王権初代大王「複立男王」が献上したんだろうか? 骨董屋で買った一枚の鏡なんてなんの証明にもならんよ 魏から貰ったのが画文帯神獣鏡で複製して全国に配ったのが三角縁神獣鏡でも仮説として成り立つでしょ?
どっちも似たようなもんだから 要は、春秋二倍暦説などがないと、神武東征がなかったことになってしまうってことだよね。 >>174
汚舞もしつこいねw トナカイか?w
至【魏】景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親【魏】王假金印紫綬
正始中 卑彌死更立男王國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與為王【其後】復立男王並受中國爵命
【晉安帝】時 有倭王賛 賛死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武
齊建元中 除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍
高祖即位 進武號征東大將軍
なるほど、「複立男王並受中国爵命」は(「讃」では断じてなくw)崇神だな! >>142
>本場中国ではたったの1枚、
その洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、
神像表現が同じであり、同じ工人作である。
また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、
神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。
これは取りも直さず、その同じ工人が、徳島・宮谷古墳付近に暮らし、
「三角縁神獣鏡」を?製していたことを示している。 @阿波 画文帯神獣鏡は、呉鏡である画像鏡と華北東部系鏡をハイブリッドさせた銅鏡である。 【宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とその時代】
制作年代としては、3面とも舶載第2段階で、かなり古い鏡である。
歴年代では、240年代の製作である可能性が高い。
副葬時期(古墳の時期)
・舶載第1・2段階の「三角縁神獣鏡」 は、古墳時代前期前半に築造された古墳から多数出土している。
・宮谷古墳も、古墳時代前期前半となる可能性が高い。
※古墳時代前期前半に相当するとみられる古墳の数の多さは、東四国あるいは徳島を特徴づけるものと評価できる。
島根大学法文学部考古学研究室 准教授(当時) 岩本 崇氏 2019/09/28 @阿波 >>176
捏造する気がないなら誤解する余地はゼロだな
復立卑彌呼宗女臺與為王
【其後】復立男王並受中國爵命
【晉安帝】時 有倭王賛 賛死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武
齊建元中 除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍
高祖即位 進武號征東大將軍 >>181
読解力ゼロすぎてお話にならん
普通に読めば倭の五王としか読めない >>176
>>181
文盲のトナカイ以外には、複立男王は台与(234〜?)と同時代人ということがよく判るねw トヨが百歳くらいめっちゃ長生きして神功皇后になった説…あると思います 【正始中】の出来事として
・卑彌死更立男王國中不服更相誅殺
・復立卑彌呼宗女臺與為王
・其後復立男王並受中國爵命
と読解するのであれば
247年に台与が共立されたと仮定しても
正始10年(249年)には復立男王並受中國爵命となって
台与は超短命政権で終わる
※249年は魏の嘉平元年
まあ普通の読解力してたらそんなふうには読まないからどうでもいいけど >>138
>三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡と言う一部畿内説学者の主張が理論的に崩壊する
する理由ないんだけど
九州説さんは理由のないこと言い張りすぎ .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>186
君は三角縁神獣鏡を邪馬台国の根拠とする古い畿内自生説の残党福永伸哉や岸本直文の盲目的信者だからね
証拠やロジックではなくイデオロギーとして認められないよね >>188
証拠やロジックではなくレッテル貼りで他説を潰そうとする腐った九州説 >>190
三角縁神獣鏡が卑弥呼におくられた銅鏡百枚なんていまだに主張してる学者っているの?
論文なりあったら教えて? >>185
台与は傀儡って事でしょ
実質的な王が居る なんで未だに数世紀後の日本語で「邪馬臺国」を発音しようとするんだろうな?
後漢時代の発音でヤマダ国というのがわかってるんだからそれを採用すればいいのにね ダじゃなくて曖昧母音のシュアーだから、上古音ト乙がいちばん近い 隋唐の中国人が奈良の大和を「臺が訛って堆」と言ってるんだから確実だろ 畿内説ってなんで文字が書かれた当時の発音無視して外国語で読もうとすんだろな >>191
久住はアカウント持ってるから質問したら、やっぱり三角縁神獣鏡だったわ 對馬国も投馬国も斯馬国も全部同じ対馬だけど陳寿はそれに気付いてない >>193
岡村秀典「鏡が語る古代史」(岩波新書) 投馬国は、元狗奴国の一部であり
妻の国(妻の出身)である出雲のこと
ついに明確に、投馬国も考察完了でーーーすw
165 日本@名無史さん sage 2024/03/26(火) 22:57:43.21
出雲は国津のクニであり、狗奴国
出雲はヒメタタラの出であり、妻の国=投馬国
つまり、出雲=マクロでは狗奴国の一部、ミクロでは投馬国
日本(日本列島)があって
倭人と毛人の領域があって
それぞれ島々と山々で国が成り立ってて
已百支(いおあき)国=本州(千五百秋(ちいおあき))の中に
天津と、天津と不和な国津のクニこと狗奴国があって
その国の一つにヒメタタラが出である出雲国こと妻の国=投馬国がある
242 日本@名無史さん sage 2024/03/27(水) 14:19:10.28
妻の国こと投馬国の官は
彌彌 = ヤイミミ 八井耳
彌彌那利 = ヌナカワミミ 綏靖天皇
まさに、ヒメタタラの子らツートップ
那利 = 津 = 海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。
>wiki 熊津
熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、百済語では固麻那羅(コマナル 魏晋と繋がってた鮮卑様が言うんだから邪馬臺は大和。
大和朝廷も台をトに修正してるし。トが正しい日本語なんだよな。 「どんな国名か?」
「どんな国か?」
魏の役人はこれらを聞いた上で
どんな国かパッと見でわかるように
字を選んで、字をアテてる、が俺の見解
488 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/30(土) 08:42:31.00 ID:L2QR4Xcd0
だから、投馬国も
その国の特長を字義にアテ込めてる
投げる 手に殳(ほこ)を持ち投げる形をした地形の国
投じる 国譲り神話で天津に投じた国津の大国主
俺の考察では、出雲と比定 縄文時代は1万年以上あるからねw
さすがに把握できるでしょ、一国程度の地形なら 卑弥呼の前の男王
出雲 素佐之男尊、大国主尊、事代主尊
大和 素佐之男尊、長髄彦、饒速日尊、宇摩志麻治尊 >>210
>じゃあ、山門郡の山門は?
当然失格
上古音甲類だから >>203
>畿内説ってなんで文字が書かれた当時の発音無視して外国語で読もうとすんだろな
外国語を話すひとが倭人語を耳で聞いて当てた漢字だからに決まってんじゃん 卑弥呼の死後、懿徳天皇が即位したが、国中服さず、台与に禅譲
台与退位後、孝霊天皇即位 >>218
上代特殊仮名遣いは逃亡してきた百済官僚が持ち込んだ方言
そいつらが死ぬと数代経るだけですたれた
もちろん弥生時代には列島では使われていない >>221
古墳時代の百済人官僚は移住ではなく期間限定の赴任っぽい、任期が終わると次の担当の官僚が来て交代で帰国した
だから時間がたっても百済での発音、使い分けのまま 上代日本語の「オ段」などに2種類あったから
漢字を使い分けたのだろ 久住先生に、東に渡海千里で皆倭種はどう考えるか聞いたら、「後漢のある時期の北部九州主体の倭国の情報が、魏志で錯綜した」と返ってきた。
まさに、私の提唱する57年〜107年ぐらいの竹簡が紛れ込んでいるとする説と同じ。
伊勢湾を渡海する説はやめた方が良い。 後漢代の地理認識が混ざってるなら
行程記事は使えない 久住も邪馬台国畿内大和説って言ってるから、畿内のどこかじゃなくて、考古学者はみんな纒向こそが邪馬台国であると考えているということだろう 紀元前1000年ころから痕跡があるんだからそおなるだろう
紀元前1000年〜紀元前200年は周の時代やん 中国4000年の歴史だ
文字もあるし記録が残っててもなんの不思議もない きっと伊都国も後漢代の記事が紛れ込んでしまったのだろう
邪馬臺国は奈良にあったということだけが正しくてあとはすべて間違いとするのが畿内説の正しい姿 そお
中国(漢)の時代だけと区切るなら2200年の歴史 >>81
帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る。
その内訳は、
狗邪韓国まで7000里+渡海1000里+対馬400里+渡海1000里+壱岐300里+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで合計11300里(850q)。
残り700里(50q)となり、糸島→博多の北は玄海灘、東は不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、博多→吉野ヶ里まで50qでピッタリです! つまり畿内説にとっての後漢書に書かれてる大倭王の歴史などはほぼ偽書ということだな >>235
伊都国はともかく對海國、一大國、末盧國は本気で俺は周代だと思ってるよ
狗邪韓國も
じゃあ伊都國はどうかと言うとこの辺の国は存在があやしい >>232
>一里の距離考えたらそらそうでしょ
その「一里の距離」を誰も考てないのが九州説
ただ決めつけてるだけ >>239
邪馬臺国は水行ひと月陸行ひと月と書いてあんじゃん >>242
里数も戸数も大きく盛ってあるのに日数だけ正確だとする根拠がない >>243
帯方郡からだよ
出鱈目な里数行程なんて無視 >>245
戸数が大きく盛ってるかはわかんねえなあ
確かに千戸でも過大だとは思うけど 一大國の三千許家はどういう意味なんだろう?
三千戸とは意味が違うのかね? 末盧國の四千餘戸も過大だと思うが何処かの勢力圏に入ってると考えればおかしくない
王も官も居ないし 原の辻遺跡ってえらい立派らしいな
勢力圏が壱岐だけなのか九州島にも及んでるのか? 国を形成できるほどまだ開拓が進んでなかったのだろ
大阪平野の治水工事が仁徳天皇の時代だぜ 関東の河川の流れを今の形として完成したのが室町時代だからな
利根川も千葉沖の方に流れを変えたのや まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 原の辻遺跡は環濠集落で敵の襲撃に備えてるわけでおそらく九州の敵だろう
そうなると前線基地は欲しい 「戸」と書いてあっても家の数を表していない。
「里」と書いてあっても距離を表してない。
なのかも >>257
表してると思うよ
有り得ない数字は無視すればいい
奴国2万戸なんてあったとしても博多ではない 吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージしてるんだけど 「戸」は、「其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦」「重者没其門戸及宗族」
とあるから、門戸の数
「家」は、一大国あたりは渡海の中継地だから
三千ばかりの家が有るけど門戸の数はわからない
ということだろう >>260
博多ではなく熊本とかそういう意味じゃなくて
二万戸はそれら全部含む国家を意味するくらいじゃないと 末盧や伊都とは格の違う大国ってことは誰でも認めてるんじゃないの? >>259
>吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージ
碌に鉄器さえも作れない吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡がな? @阿波 順番通りなら朝鮮半島が投馬国で日本列島が邪馬台国ならその前に奴国はある
まあこれは行程が別だから全くあてにならんけど 邪馬台国って名称がどおにもな
これ山東半島あたりに存在した始皇帝絡みの矢倉かなんかの名称じゃなかったか?
つまり起源的には始皇帝に関係ある集団名とかだと思うんだが
弓尊王に関係してるんじゃないのか? 韓伝では、
「・・・凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶。」
で、家数>>戸数 だね 千戸の国と二万戸の国が同じ様に並んでるわけがない
領土の大きさが違いすぎるだろ? >>259
>吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡はにらみ合う大国二つってイメージ
碌に鉄器さえも作れない吉野ヶ里遺跡と原の辻遺跡がな? @阿波 久住先生に、邪馬台国大和説とは、まさに纒向が邪馬台国の中枢と考えて良いですか?と質問したら、
「それで良いでしょう」と返ってきた >>271
碌に鉄器さえも作れない纏向遺跡がな? @阿波 現代みたいに行政区画されてるわけじゃなし
自然の山や川で国が分かれてたような気がするよ
https://i.imgur.com/Fv1l5Qa.jpg >>271
すると後漢書にある大倭王は邪馬臺国に居るというのは
倭国大乱よりもずっと前から奈良が倭国の中心地だったと考えた方が良さそうだな >>274
そこが違う
纏向の前は伊勢遺跡
王宮の移転は当たり前 >>275
碌に鉄器さえも作れない伊勢遺跡がな? @阿波 だよなあ
山間地を利用しての小集落を作るのが精一杯だよ 中国人らも知らなかったわけではない
その人々のことを ふと思ったんだが
巻向が卑弥呼の都ならヤマト国じゃなくシキ国じゃないとおかしくね? 伊勢遺跡ではレンガ状壁材が使われているので
纏向とは違う集団 久住氏のように後漢の記事の混入などと考えるより、魏志倭人伝の邪馬台国およびそれを含む連合国倭国はストレートに北部九州にあったと考える方がシンプル
伊都国が畿内ヤマト王権の母体と考えるところまでは久住氏と私は共通だが、私は邪馬台国が北部九州に残り北部九州倭国の畿内ヤマト王権は3世紀以降並立したと考える点が違う ただ、久住氏のXはめちゃくちゃ参考になる
他の考古学者もあのようにバンバン発信してくれれば良いのだが 伊勢遺跡の時代は鳥形、銅鐸、龍の絵画土器、勾玉の時代でもあるからね
山陰若狭北陸近畿東海の静岡迄は鳥形が分布している
龍の絵画土器は唐古・鍵遺跡、橿原、柏原の船橋遺跡、池上曽根遺跡、玉津田中遺跡、壱岐の原の辻遺跡から見つかっている >>282
なんで九州説の人はまったく理由を言わないんだ? >>282
単に妄想を楽しんでいるだけのおめでたい奴。 @阿波 久住先生曰く、位至三公鏡は邪馬台国論争には全く影響しないそうです。 >>281
伊勢遺跡のレンガは竪穴建物で円周上ではなくおそらく祭祀施設ではない 三角縁神獣鏡を畿内説の根拠にしなければ、三角縁神獣鏡より古い魏晋鏡の位至三公鏡は邪馬台国論争に影響しない 魏晋鏡の位至三公鏡より新しい4世紀の三角縁神獣鏡は邪馬台国論争とは全く関係がない 天照(卑弥呼)は崇神より前の世代だから、箸墓は卑弥呼ではない
第10代 崇神 宮中で祀っていた天照大神を
皇女の豊鋤入姫に託して宮外に祀らせたりした
最古の前方後円墳である箸墓古墳の伝承は崇神紀にある
磯城は崇神・垂仁・景行3代の大王の都と記紀に記される
箸墓は崇神天皇陵とする説もある 否定するにももうちょっとましなのないの?
天照とか崇神とか頼むはホント >>295
>魏晋鏡の位至三公鏡より新しい4世紀の三角縁神獣鏡は邪馬台国論争とは全く関係がない
魏晋鏡じゃないから位至三公鏡は邪馬台国論争とは全く関係がないだろ 伊勢遺跡は夜に水の祭祀が行われていたと考えられている
祭祀場の真ん中に聖なる井戸があり、池上曽根遺跡との類似性も指摘されている
水の祭祀と聖なる井戸は古墳時代の埴輪にも見られる 纏向遺跡からはそのような施設は見つかっていない
伊勢遺跡、池上曽根遺跡→古墳時代のヤマト政権 ヤマト政権が全て奈良の地であったと思わせる為か、明治時代奈良の地名はあちこちで記紀に登場する地名に書き換えられている >>299
魏晋鏡だよ
西晋の遺跡からしか出ないから中国では通説 >>297
なるほど
根拠を知りたいがXの文字数では難しいか 箸墓ってさぁ…
あれ大王家が吉備制圧した記念碑的なやつなんじゃね?
そんで孝霊天皇の代で磯城県主からの后がストップしたのも関係あると思うわ 位至三公だからだよ
神仙思想の者には意味の無い鏡だからだ
本居なんかが喜ぶ鏡 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>304
>魏晋鏡だよ
>西晋の遺跡からしか出ないから中国では通説
ニセ情報乙
そういうの世間じゃ通用しないよ
だから九州説は滅んじゃった クズを先生なんて読んでるから公金チューチューのオレオレ詐欺に簡単に引っかかるんだよw >>305
根拠もなにも長方形鈕孔を持つ三角縁神獣鏡が魏鏡であることは明らかだからなぁ
「魏」の紀年銘を持っている鏡11例中9例は長方形の鈕孔
対して「呉」の紀年銘を持つものは76例中75例までが円形、半円形の鈕孔 九州説が未だに1984年に発表された三角縁神獣鏡呉鏡説信奉してるの、無知すぎて哀れになってくるな 位至三公鏡は後漢代のもあるが、魏晋鏡だよ。
ただ、邪馬台国論争には全く何の影響もないだけ。
位至三公鏡に、西晋鏡であることが確実な6面を足すと、九州以外の方が多くなり、安本美典が主張する「晋と国交を持ったのは九州だ」という主張が破綻するだけ 三角縁神獣鏡C形式の文様が中国出土魏景元四年(263年)紀年銘鏡と一致してる時点で九州説死んでるんだよ
何が4世紀の鏡なんだか 上野の研究で画文帯神獣鏡が魏鏡だと確定したよな
呉では華北の画文帯神獣鏡を模倣した銘帯神獣鏡が流行していた。ちなみに九州論者は馬鹿だから銘帯神獣鏡と画文帯神獣鏡の区別をしないでカウントしてる >>312
魏鏡であることが明らかとは全く言えない
魏鏡であれば中国から出土しなければおかしい
私は何らかの理由で中国東北部から日本に来た中国人の工人にヤマト王権が作らせた鏡ではないかと考える >>314
>位至三公鏡は後漢代のもあるが、魏晋鏡だよ。
逆
位至三公鏡はI型→II型→III型と変化するが後漢代に完了してる
粗製濫造されたIII型が最後で、以降は変化がない
変化がなくなるということは新規製造がないということ
つまり魏晋代に流通してたのは中古品かコピー品だ >>317
>魏鏡であれば中国から出土しなければおかしい
三角縁神獣鏡に分類されてるものの初期型は斜縁神獣鏡だよ
斜縁神獣鏡は中国から出土してる >>318
Ⅰ式、Ⅱ式、Ⅲ式と変化するのは双頭龍文鏡の話だろう
そのうち位至三公銘のあるⅡ式とⅢ式が位至三公鏡
後漢代に作られたのは位至三公銘のないⅠ式 >>319
ということはその後の変化を日本で独自に遂げたわけか >>124
何言ってるのか全く分からん
東渡海は普通に考えて伊勢湾のことだろ
鈴鹿山脈とか北海道とかどっから出てきたんだ
狗奴国の位置も後漢書に「女王国の東の海を渡った先にある」と書かれてるから東で重複するのは記録と合致してるし >>319
私は斜縁神獣鏡の技術を持つ中国人がヤマト王権のオーダーで日本で作ったのが三角縁神獣鏡だと考える
何度も書くが、三角縁神獣鏡が魏鏡であれば中国で出土しなければおかしい 4世紀のヤマト王権が陳是という中国人に斜縁神獣鏡をベースに日本独自仕様で作らせた鏡が三角縁神獣鏡だ 答志島と伊良湖岬間に沿岸なんかないぞ
実際に海を渡るぞ >>323
>何度も書くが、三角縁神獣鏡が魏鏡であれば中国で出土しなければおかしい
だから、斜縁神獣鏡は中国で出土してるでしょ? >>320
>後漢代に作られたのは位至三公銘のないT式
V式の最末期型とされるものが洛陽西郊漢墓3177号から出土してる >>327
>斜縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だったの?
三角縁神獣鏡の初期ロットは斜縁神獣鏡だよ ■約500年間に亘り居住してきた拠点集落の廃絶
畿内の拠点集落は、2~3世紀に入ると存続しないものが多い
河内の池上曽根遺跡が代表例である
多くの地域で拠点集落が解体する中、
河内の亀井遺跡や、大和の唐古・鍵遺跡といった拠点集落は存続する
唐古・鍵遺跡は径500mの環濠を持ち、木器・青銅器・石器製作の工房がある
そこで、BC1世紀の北部九州の須玖式の土器片が出土した
青銅器鋳造(銅鐸文化)のピークは1世紀後~2世紀初にあり、土製鋳型外枠を利用した
この遺跡を特徴付けるのは、弥生土器に線刻で建物・人物・動物を描いた絵画土器である
しかし、弥生時代の集落を囲む環濠や銅鐸が埋められたりするのと入れ替わりに、
2世紀末~3世紀初に突然、その東南5kmにある纏向遺跡が出現する ■畿内でも青銅祭器から銅鏡の時代へ
列島における本格的な青銅器文化は、BC2世紀初に始まった
北九州では、弥生中期初頭に朝鮮半島から武器型青銅器を受容した
銅鐸は、山陰、近畿、北陸、東海に及ぶ広域に広がった
畿内は当初から祭祀としての銅鐸、北九州では銅剣・銅矛・銅鏡を青銅器祭器とした
南九州では青銅器はほとんど存在しない
倭国大乱(146~189年、或いは178~184年)の時、青銅祭器が消滅し、
西日本は北九州で尊重された銅鏡を最高の威信財とする体制となった
鏡を副葬する風習が北九州以外でも見られる様になったのである ■北九州では倭国大乱の痕跡が無い
倭国大乱の原因は、東アジアにおける2世紀後半からの寒冷化による農産物への悪影響、
そして後漢での黄巾の乱(184~192年)の混乱等による漢の楽浪郡の弱体化であった
弁辰の鉄取得の秩序が一時的に乱れ、朝鮮半島からの鉄素材や、
先進文物の入手を巡る主導権争いになったとも言われる
高地性集落は標高200~300mの山頂や急斜面に立地する事もあり、石製武器が多量出土する
BC1世紀後半~1世紀に第1次高地性集落が瀬戸内沿岸に出現
畿内では、2世紀に出現する拠点的高地性集落が卓越する事から、
軍事的緊張が恒常化していたと思われる
特に大阪湾や瀬戸内海を望む見晴らしの良い高地に集中した
古墳時代になると消滅する
北九州の武器は、1世紀以後、鉄製の剣・刀・矛・鏃に交代している
2世紀後半の大乱の時期、鉄製武器の保有は北九州、中九州にほぼ限定される ■2~3世紀の鉄器伝播ルート
①鋳造鉄斧の上面に縦方向の隆起線が無い
加耶 → 対馬下県 → 厳原 → 壱岐 → 玄界灘 → 北九州(末盧国・伊都国・奴国)
②鋳造鉄斧の上面に縦方向の隆起線がある
加耶 → 対馬上県 → 比田勝 → 沖ノ島 → 北九州(鐘崎・宗像) → 山陰 → 瀬戸内 → 畿内 高地性集落と倭国大乱とを結びつけるのは無理
その始めも終わりも倭国大乱とはまるきり相関関係が無い >>310
日本(の関西考古学界)と違って邪馬台国畿内説ありきで考古学を歪める動機を持たない中国では、位至三公鏡=魏晋鏡説が圧倒的通説だ 古墳全国分布MPでは、関東にも沢山古墳があるようです。
地図の白い部分に広く分布してます。
https://i.imgur.com/rYq2wCZ.jpg >>332 >>335
高地性「集落」という不正確な印象を与える言葉を使うべきではない。
故・森浩一氏は生活痕跡無しとしてこれを単に高地性遺跡と呼称すべしと提唱していた。
異国の史書に記された「倭国大乱」との関係はいざ知らず、
これが考古学の証明した弥生末期の戦乱状況と関連することは年代からも自明。
更に山陽地域の高地性遺跡所在が神武伝説の船団寄港地と一致すると云う不気味な事実をも森氏は指摘している。 すぐ神話伝説を持ち出すから森浩一は考古学者の異端
というか元々神話学者 高地性集落は狩猟採集民が定住していた後だよ
民話では高間寺の山伏
陸のえべっさん
サヌキの山伏
2世紀になると海を治めなさいと言われたんだろう
スサノオは中々海を治めたがらず母の元を離れなかった話に繋がる
神武天皇の本当の東征はヤマタノオロチ退治なんじゃないの
ヤマタノオロチを退治した後母がいる黄泉の国常世の国を離れたがらなかったんでしょ
可哀想な話 住吉大社神代記
住吉の神さまは吾が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊と名乗っている
五色の石神の元に登った神さまみたいな名だな
偉大な歴史を持つ五つ御魂の速狭が海を統べる神さまじゃないのか? >>324
4世紀に景初3年とか正始元年とか景初4年とかの年号を入れる必要がない 常陸国風土記に曰く、採大谷村の大きな榛の木を伐採して,根の部分で鼓を造り,先の部分で琴を造った。俗に比佐頭(ひさつ)といわれる(云々)。
榛の木はハリの木
日殺とか恐ろしい話だ 常陸国風土記には興味深い話が沢山ある
猿、鏡で滅んだトキ鬼、青
郡の西北6里のところに河内里がある。元の名は古々之邑(ここのむら)という。土地の言葉では、猿の声は古々(ここ)といわれる。東の山には石鏡がある。昔、此処には魑魅(おに)がいた。魑魅は集まって遊んでいた時に鏡を見たところ、自然と消え去ってしまったという。土地の人は、疾鬼(ときおに)は鏡に向かうと自然と滅ぶと言った。この土地の土は青い紺のようで、絵具に用いると鮮やかである。土地の言葉では阿乎尓(あをに)あるいは加支川尓(かきつに)という。これは朝廷の命令によって採取して献上する。いわゆる久慈河の水源は猿声(ここ)である(以下略。なお、猿声は地名である)。 神さまを体よく追いやる話もある
東には大きな山があり、そこを賀毗禮之高峰(かびれのたかみね)という。そこには天津神がおり、名を立速男命(タチハヤヲ)といい、別名に速経和気命(ハヤフワケ)という。元は自ら天降り、松澤松樹八俣(まつざはまつのきやまた)の上に鎮座していた。この神の祟りはとても厳しい。ある人が神に向かって大小便をした時、災いを起こして病にかけて苦しめた。
この神の付近の住人は、日々とても苦しめられていたので朝廷に奏上した。すると、片岡大連が遣わされてきて、この神を祀り、崇敬して「今、鎮座されている場所は百姓の家が近くにあるので、朝夕は不浄となります。鎮座するには不適当です。ですので、ここを避けて移り、高い山にある清浄な土地に鎮座なさいませ」と言った。すると、神は願いを聞き届け、遂に賀毗禮之峰に登っていった。その社は石を垣根とし、中には神の一族がとてもたくさんいる。また、様々な宝があり、弓・桙・釜・器の類は皆石になって残っている。この辺りを飛ぶ多くの鳥は悉く避けて飛び、この峰の上を通らない。古からそうであり、今も同じである。ここには小川があり、その名を薩都河(さつがわ)という。小川の水源は北の山であり、そこから流れて南の久慈河に入る(以下略)。 風土記が編纂された時代の常陸国司は 阿倍狛秋麻呂、石川難波麻呂 先住民を蔑ろにするとか許さない話だろ
現代なら国連も含め世界中から糾弾されて然るべき案件 宗像三女神の話だろ
倭人が九州〜山東半島間を船で行き来したのだから海人の話やねもともと
朝鮮人は陸路の歴史しかないから除外されんだよ >>81
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで合計11300里(850q)。
残り700里(50q)となり、糸島→博多の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、博多→吉野ヶ里まで50qでピッタリです! 倭人は周から分かれた集団じゃねえの
長江文明の夏人から分かれたのが倭人なの 倭人は北東アジア人でしょう
西遼河流域のキビアワ農耕民がその出自 >>129
>>354
南→東に読み替えても、纏向までは全然届かないなw 殷周の影響は奈良時代の畿内ではかなり排除できていたが東国ではまだその影響が強かったみたいだな 女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか? >>358
スーパー素人さん、短里は存在しませんよ 日本人は35000年以上前の旧石器時代から存在した
20000年前には竪穴式住居の技術を持つ集団が渡来
縄文時代前期には楔状耳飾りの集団がやってくる
7500年前には三内丸山遺跡に大量の渡来人
日本人のゲノムに下戸遺伝子が加わったのは最近の研究によると20000年前と7500年前らしい
海人の縄文人は縄文時代以降様々な時代様々なルートでやってきたようだ たとえ(南→東)に読み替えても、
丹後もしくは大阪から奈良まで「陸行」一月wなら里数表記になるはずw
ハイ論破!w >>345
権威付けになるから入れる動機は十分ある 常陸国の河内の里に昔トキ鬼がいたという
青に関係する
興味深い話だ >>363
魏里434メートルなんだから里数表記になるわけねえじゃん >>366
中国の年号なんて理解できないし既に滅んだ王朝だしどうだろ? >>81
>>83
魏志倭人伝の記述に完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw
全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。
まさに「ヤマトよ永遠に」w
「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w 女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか? 6世紀後半の大塚山古墳が誰の墓なのか?
これがわかれば古代の歴史の輪郭がより見えてきそうだが
6世紀後半の大塚山古墳、地元の人はアオ親王の墓だという
2つの牛石、触れると血が出る伝承
全く同じ時代の堺の山の中にある牛石古墳
牛石を切ると血が流れる伝承
事績が丸々消された茅渟王
継体と敏達の2人の天皇に娘を出した息長真手王(矛盾する)
この辺の系図はおそらく牛石に纏わる人物を消し去り無理矢理系図を繋げた可能性がある
牛石は敏達天皇と茅渟王の仲間だったんじゃないかと推察 高地性集落と魏志倭人伝の倭国乱とを結び付ける見方は、一昔前に主流だった古い畿内自生説の名残りだ
高地性集落と倭国乱の関係については、年代の違い(瀬戸内海沿岸は倭国乱より概ね百年ほど古く逆に越後あたりは卑弥呼死後の古墳時代に造られている)と、そもそも高地性集落に軍事的意味合いはないとの最近の研究結果から、現在の考古学では否定的に見られている
例えば以下の通り
高地集落は「倭国大乱」以前にあった 伝染病原因か(産経新聞)
https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/
「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落。人が住むには不向きな山上や山腹に営まれた集落は、武器類の出土などから邪馬台国の女王・卑弥呼の共立につながったとされる「倭国大乱」と関連づける見方があった。が、近年の科学測定などにより、出現時期はほとんどが倭国大乱以前だった可能性が高まり、歴史像の再考を迫られている。」
広島県教育事業団 埋蔵文化財調査室の資料よりwww.harc.or.jp/gyouji/pdf/y2014/koukogakukouza.pdf
「発掘調査の増加による集落遺跡の性格の分析や土器編年の進展などにより,高地性集落が倭国大乱と関連した軍事的意味合いを持つ集落とはいえなくなっている。」
香川大学瀬戸内圏研究センターのHPより
https://www.kagawa-u.ac.jp/setouchi/index-20101204-3.html
「もっと端的に申しますと、この軍事基地、紫雲出山の遺跡は、善通寺の勢力が作ったのではないかということです。このように、瀬戸内海の高地性集落は理解されています。ですから、紫雲出山遺跡は、善通寺の勢力によって、倭国大乱に関連して造られた基地であるという可能性です。ところが、近年の意見で、心経山遺跡や紫雲出山遺跡があった弥生時代の中期は、魏志倭人伝より前の時代で、大乱にはそもそも時期的には合わないということになります。もうひとつは、岡山にも近畿地方にも香川にも九州にも、瀬戸内海に領域を広げるという大きな勢力は、形成されていなかったということが明らかになってきました。そのことから、戦争、倭国大乱による軍事施設として設けられたものでないのではということになってきています。」 瀬戸内海沿岸の高地性集落を倭国大乱の痕跡とするのは、吉備楯築王(後漢鏡副葬なしw)を帥升に比定する畿内説の陰謀w >もうひとつは、岡山にも近畿地方にも香川にも九州にも、瀬戸内海に領域を広げるという大きな勢力は、形成されていなかったということが明らかになってきました。
アホか
祭祀型銅剣、祭祀型銅戈、祭祀型銅矛、で一発で吹き飛ぶ話だろ >>373
>高地性集落と魏志倭人伝の倭国乱とを結び付ける見方
それは、どちらも弥生の異常気候変動によるものだ。 @阿波 >>374
帥升の倭面土国は、2世紀の後漢鏡の圧倒的な出土状況から見て、伊都国であることは明らかw
わみゃんど(ヤマト)国じゃねぇよ!www >>375
文化圏というとものは統一的な政治勢力の証拠には全くならない
文化や宗教の影響範囲であったり、あるいは単に交易関係を表すものでしかない
例えば日本は箸の文化圏だから中国の一部ということでは全くないし、今の日本はクリスマスの習慣が普及しているから欧州や米国などキリスト教文化の国から政治的支配を受けている訳でもない 平地集落を護るための見張り役として高地性集落はあったって説はどうなんだろ? >>379
土器の流れは生口の流れ
威信材の分布は統一的な政治勢力の証拠 高地性集落は西から東へ発生消滅してたよね
九州勢力の東進だろ 文化の伝播と政治的支配を混同し、全てをヤマト王権側の支配にこじつけた(しかもヤマト王権が受容した文化には政治的支配の意味を持たせないご都合主義)のが、古い畿内自生説の致命的な欠点 >>380
だめ! 弥生の異常気候変動によって高地へ逃れたものだ。 @阿波 >>383
下手な妄想。 弥生の異常気候変動によるものだ 2000年後の中国で爆買いブームの日本製炊飯器(布留式土器)が大量に出土するとして、それで日本が中国を支配していたとするのが畿内説w 常陸の国の多珂郡には桁藻山がある。
風土記に記される歌の中に
「道後(みちのしり) 桁藻山(たなめのやま)」
と詠まれたものがある。
道と言えば道敷大神のイザナミだな
常陸の地では、道の後は田の女ということか
日向髪長姫は道の後はコハダオトメと歌っているが
応神天皇が日向髪長姫を譲る歌も興味深い
いざ吾君 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香細し
花橘 下枝らは 人皆取り 上つ枝は 鳥居枯らし 三栗の 中つ枝の 含隱り
赤れる孃子 いざさかば 良な >>384
> (しかもヤマト王権が受容した文化には政治的支配の意味を持たせないご都合主義)
ほんとそれな 高地性集落は定住し始めた狩猟採集の移動民の集落跡だよ
神さまが住んでいたところ 107年、倭面土(ヤマト)国の主帥・匠
昭和56年(1981年)、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて、
弥生時代後期の巨大な集落遺跡が広がっていることがわかりました。
その後、平成19年3月までに実施した104次にわたる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約700m、
南北約450mの楕円形状に形成されていることが明らかになっています。集落が営まれた時代は、
縄文時代後期から室町時代で、最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1~2世紀)です。
遺跡は、南と北にある低地に挟まれた微高地にあり、東から西にかけて傾斜する土地にあります。
弥生時代後期の建物跡には、竪穴住居と掘立柱建物の2種類の建物跡があり、
竪穴住居の平面形には円形と方形そして五角形の3種類があります。
また、掘立柱建物の規模には大小が見られ、
ここでは床面積が30㎡以上のものを大型建物と呼んでいます。
遺跡の西半部には竪穴住居が広がり、東半部の大型建物跡が無くなると、
その上にも竪穴住居が造られるようになります。
遺跡の西側では、溝を挟んで方形周溝墓が築かれていますが、
弥生時代集落の有力者の墓域であったと推定されます。 環濠集落が無くなって高地性集落が出現する
ただし平地にも人は生活している
もしこれが事実であれば高地性集落は軍事目的 >>396
平地に人は住んでるから
瀬戸内海沿岸に津波なんか来るのか? 瀬戸内海沿岸を中心とする高地性集落の中には、狼煙(のろし)台と目される遺物が発見されるなど、軍事的な要素を備えています。 洪水で大勢死んだため、高地性集落に移動した。
その被害状況を狼煙で知らせた。それだけのこと。
いずれにしろ倭国大乱とは無関係w >>399
倭国大乱とは時期が違うし無関係だと思うけどさ 常陸国風土記を見れば分かるが稲作民も差別意識の塊
中華思想と通じるものがある
先住民の神さまの下につくのは意地でも嫌だったんだろうな
倭国大乱の原因もこれじゃないのか
卑弥呼が必死になって狗奴国を潰そうとした理由 倭=瀬戸内海沿岸の国々(奴国を含む)
倭の東に面する土地 → ワミャント → ヤマト 倭国乱は倭国で起こったものであって倭種のところじゃない 奴国(博多)を瀬戸内海沿岸に含めるキチガイ(畿内説)と議論してるんだ、おいらは…ゾッとしたw 平地で見つかる銅鐸と高地性集落付近で見つかる銅鐸は違うんだって
意味不明だな >>405
博多を瀬戸内海沿岸に含めるって、どこの誰?
存在しなければ頭がヘンなのはキミって事になるけど >>409
どこにもない奴国二万戸を瀬戸内海沿岸に含めるってか?頭大丈夫?w >>395
>環濠集落が無くなって高地性集落が出現する
平地の環濠集落が大洪水で埋没し、高地性集落が出現する。 もちろん、全てではない。 @阿波 >>410
瀬戸内海沿岸に含めるって意味がわかんないんだけど
奴国など無いと言ってるんだけど >>399
>いずれにしろ倭国大乱とは無関係w
大いに関係がある。 どちらの異常な気候変動によって起こった。 @阿波 >>402
>倭=瀬戸内海沿岸の国々(奴国を含む)
>倭の東に面する土地 → ワミャント → ヤマト
やっぱ頭おかしいわw 山の上の僅かばかりの農地でどうやって人が暮らすんだよ? >>416
一時避難的に焼き畑、狩猟採集など。 よって大規模化は出来ず、気候変動が落ち着くと、やがて放棄して郷に下りる。 @阿波 摂津国風土記逸文も興味深い
美奴賣ミヌメは牛と関係がありそうだな
摩耶山の麓のミヌメ神社は牛頭天王を祀っていた 天稚彦は天磐船に乗って難波高津に降臨した。
九州から呼び戻された卑弥弓呼だろう
その謂れは、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)がこの山に天降ったため、味耜山(あぢすきのやま)と呼ばれるようになった。
卑弥弓呼と卑弥呼の次の男王だろうな 摂津国風土記逸文によれば神功皇后は廣田神社の地、武庫で兵を解いた話がある
畿内中心部に攻め入ることはなかったようだ
やっぱり竹内宿禰と途中から別行動して住吉さんと共にいたのかもな >>381
久住は北部九州型布留甕の成立時を、畿内が九州を逆転した時期を想定した つまり三種の神器は九州が畿内を支配下に入れた証拠ということか トヨウケがいたのは摂津の稲倉山
猪名川上流じゃないかと言われている
卑弥呼は纏向遺跡だがそれ以外は奈良以外にいた可能性が高い
奈良の地は各地から集められた兵が何十年も行き場もなく居続けた場所で入るのも恐ろしい場所になっていたのかもしれん 三輪山の麓の恐ろしい場所になっていた纏向遺跡
楔を打ちそれをこじ開けたのは大物主が持ってきた酒、サカである
香島の天の大神だな
此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇) Takeo Kusumi@T_Kusumi057
なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。 >>378
前期古墳と伊都国の墓制との関連も気になるな
>>424
そういうこと >>423
2000年後の中国で爆買いブームの時に持ち帰られた日本製炊飯器(布留式土器)が圧倒的に出土するとして、それで日本が中国を支配していたとするのがクズ畿内説w トナカイも畿内が九州を上回る時期を布留ゼロとし、ハルキーは庄内期に想定した >>433
元々上回ってるだろ
青銅器がたくさんあるし https://i.imgur.com/m2lr4US.png
まあ3世紀後葉だな
つまりは魏から西晋に禅譲され倭国の朝貢が途絶えた頃の話だ 九州と畿内みたいな対立はないからね
存在しない対立の構図をでっち上げて、議論をミスリードするのは悪質
九州北部ははるか昔から近畿と関係が深い >>378
畿内説だがその通り
漢鏡3期帥升は九州 そりゃ交易してたんだから関係は深い
しかしこれを政治的な関係と言い出す輩がいるから面倒くさいことになる >>441
わざとやってるんじゃないか
ミスリードする為に 政治的な関係は九州のなかだけだよな
海を渡って東には(政治的には無関係な)東の倭種がいるだけ >>440
青銅器は畿内に入ってきてたんだけど
どうじゃなきゃ銅鐸を作れない >>354
計算がおかしい
対馬と壱岐は一辺が400里と300里なんだから通り抜ける際はその倍かかる
船のルート
/ \ ↘
/ 対馬 \ ↘(ここで400里)
\ / ↙
\ / ↙
(ここで更に400里)
壱岐の場合も同じ
だから12000里は奴国でもう使い果たしてる 漢鏡は九州出土が多いから中国との交易は九州こそミスリードだろ?
銅鐸どうやって作るんだよ? 筑前型庄内甕は九州の首長も使用している
博多が単なる交易拠点であったとしても、数多ある土器の中から庄内式土器、布留式土器を選んだのは単に交易の結果と見なすことができない すると三種の神器を選んだ畿内は九州に支配されたと見て良さそうだな アメノワカヒコ(香島の天の大神、卑弥弓呼)摂津、卑弥呼 大和
↓
味耜高彦根命 摂津
↓
台与 摂津
纏向遺跡の後処理以外の期間は大和以外に宮がある期間が長かったんじゃないか
次に奈良が都になるのは飛鳥時代かな 九州の畿内系土器は古墳築造のために畿内で徴発した奴婢が持ち込んだものだろうね 問題はNHKだよな
卑弥呼がヤマト政権の始祖と断言してたからな
ヤマト政権の始祖は大物主なら分かるが
まだ卑弥弓呼をヤマト政権の始祖にする方がマシだな
実際は倭国大乱前にヤマト政権は既に始まっているが 女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか? 最近の久住猛雄のXよりピックアップ
「なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。」
「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」
「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」
「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」
「倭国王配下の国々は倭国王が「統治」しているらしい。
古代史を勉強してください。」
「考古学を学ぶ気がない方に「近隣窮乏化」と言われてもなあ。記紀だけこねくり回している方がそれです。
「西日本共立説」で括ってもいいですが、「自生説」の考古学的根拠が崩れていることぐらいお調べくださいね。たぶん調べないだろうけど。」 久住は最近狗奴国にも言及している
失笑ものの東海説はさすがに採らないようだ
「久努国造って遠江西部のはずなのに、遠江東部沼津の高尾山古墳を狗奴国王墓とか、無茶苦茶過ぎます。
土器様相の急な相違や大型銅鐸の分布有無とか、天竜川の東西で全然違う考古学的文化なのに、それを一緒くたにするような「狗奴国」論は考古学的に成立しかねる、と指摘させていただきます。」
「そんでもって謎の「王」号所持。どこかで魏か公孫氏か後漢後半に少なくとも楽浪、帯方郡と直接接触したはずと考えますが(仁藤敦史「卑弥呼と邪馬台国」)、正直言って3世紀中頃までの遠江地域の首長にそれを期待するのはかなり困難。」
「女王と「素より和せず」、さらに脅かすほどの戦争仕掛ける勢力が、遠江西部にいたのか?
考古学的に証明していただきたく存じます。」
「内藤湖南の狗奴国=肥後国説、
他の肥後国説が「クマ←→クナ」説だが、「キノ←→クノ」説だったっぽい。明治大正時代に、中国の音韻変化について知ってた?しかし東洋史学の泰斗、何か知ってたかも?清代とかに、清の皇帝が編纂した大辞典に中国語(漢字)の歴史的音韻変化の研究があったとか?」
「近代史学の邪馬台国畿内大和説の祖は東洋史の碩学内藤湖南だが、内藤は「狗奴国」を「肥後国菊池郡城野(キノ)郷」にその本拠を比定する。
「クマ」でなく「キノ」が一つの根拠というのに気づいた(「狗古智卑狗」は「ククチ彦」)。」
「ここキノ郷は、後に鞠智城ができるが、方保田東原に並ぶ弥生終末の肥後の二大集落の一つうてな遺跡もある。偶然か?」
「後漢書は「北部九州中心倭国」時期の地理情報があったがあやふやで、東の倭種の国情報と、もう一つ周縁国の狗奴国情報があったが、それをくっつけてしまった。魏志は「倭種の国」情報だけ古い地理情報が残ったが、狗奴国と女王国の交戦で狗奴国情報が増えて是正かと」
「肥後に初期古墳はないが、大型方形周溝墓は古墳初頭に出てきます。しかしながらここで重要なのは、むしろ典型的「古墳」を受容していないことこそが、「女王に属さず」を徹底しているとも言えることです。
一方で集落は大規模、舶載遺物も多く、鉄器生産(「製鉄」としてる方は誤り)盛んです」 中国にいる馬さん(ハプロO1a)とかあれは回教(イスラム教)徒から始まってるんだな >>457
俺とは全く考えが違うがクズの言ってる事は理解できる
勝手に物語作ってる奴は話しにならんのよね 久住 「倭国」の再成立と「卑弥呼」〜新「東遷」説〜
・「卑弥呼」は職名ないし称号名であって、一人とは限らず、「初代卑弥呼」王墓は平原であり、T A期新相=庄内 1 式併行とした。
・伊都国ではTA期に平原があるが、その後卓越した首長墓が一時断絶する。ここで伊都国出身 の卑弥呼の王家一族が「東遷」したのではないか? 卑弥呼東遷説は寺沢センセ似たようなこと言ってなかったっけ 伊都国東遷説は柳田康雄、寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄と増えている
纒向遺跡が在地の弥生勢力との文化的政治的連続性が見られないことと、国家体制・埋葬儀礼・銅鏡等の副葬・農事暦など様々な面で伊都国との共通性が見られるからだ
纒向遺跡の発掘により考古学的に滅んだのは畿内自生説だ >>463
伊勢遺跡→纏向遺跡
祭祀施設としての建物跡 >>464
伊勢遺跡は北部九州・吉備勢力の征服により一掃された前時代の銅鐸など青銅器祭祀文化の遺跡だろう >>466
伊勢遺跡と銅鐸は関係するか分からない
ずっと以前から銅鐸はあっただろうし 寺澤は2世紀までは伊都国が倭国の中心(彼は「イト倭国」と呼ぶ)で、大和に遷都したような説明をする
彼は「征服」のような強い言葉は閉鎖的な考古学界に忖度して使わない 私も以下の通り伊都国東遷の枠組みを支持する
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)
しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう
北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)
しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)
私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える
タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう
欠史八代や纒向築造開始時期などを考慮すればタイミング1の可能性が高いと思われる
初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはそれに敵対する周辺勢力)
(続く) (続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった
北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では銅鏡など威信財の豪華な副葬も見られなくなる
翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる
こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」 女王国が伊都国に置いた官、泄謨觚、柄渠觚はアメノヒボコにそっくり
怡土県主は天日槍の後裔でもある
女王国は九州の統治を新羅人に委ねていたのかもな
岡山も天日槍伝承の地
天日槍の神宝は垂仁天皇の時代朝廷に差し出されるから遅くともこの時代迄には天日槍の勢力を一掃したんだろう
孝霊天皇は台与と思われるが、孝霊天皇の事績吉備征伐は実は天日槍の勢力の征伐だった可能性もある
吉備の元々の主人が留守にしている時に天日槍に乗っ取られたのかもな
中国地方の真ん中から始まる四隅突出型墳丘墓
弥生時代末期には鳥取や富山で作られている
糸魚川の奴奈川姫は美保の神さまと関係がある
いわゆる事代主でしょう
興味深いのは国立遺伝学研究所から発表された母系遺伝子の研究
新潟福井香川が同じグループを作っていた
瀬戸内海西部の勢力は弥生時代後期、日本海側の統治に関わって日本海側に移住したんじゃないか
四隅突出型墳丘墓 伊勢遺跡はヤマト王権から見て被征服者側の銅鐸文化人のものだからな
銅鐸文化人であった磯城の唐子鍵の人たちは纏向王権を作った人たちに降った後、磐余の坪井大福で銅鐸を壊していたようだ
伊勢遺跡の人たちが纏向王権を建てたなら、銅鐸破壊などするわけなかろう 椿の古根の牛鬼、牛蟹伝説は瀬戸内海と日本海側に多い >>475
伊勢遺跡のすぐ隣の下長遺跡でも銅鐸の耳が出てるんだけど
この二つの遺跡は被ってる時期もあるのよ 銅鐸はヤマト王権を建てた人たちに征服された勢力の祭祀道具であり、ヤマト王権は銅鐸祭祀を禁じて没収しこれを打ち壊した
ヤマト王権の宗教は今の神社神道に繋がる銅鏡祭祀であって、銅鐸文化は既に断絶した異文化の宗教のものになる
そもそも宗教というのは簡単に変わるものではなく、九州吉備勢力による畿内征服という歴史があったとしか考えられない アメノヒボコがやって来たのは垂仁時代
崇神時代にはすでにツヌガアラシトやソナカシチの来朝がある
つまり畿内が半島に鉄を取りに行き始めて畿内の噂が半島に広まったのが崇神時代なのだろう
その時代が3世紀後半ということ 伊勢遺跡の近辺は縄文時代の遺跡もいくつもある
伊勢遺跡自体も縄文遺跡がある
だからいつの時代に銅鐸を使ってたかわかんないのよ 銅鐸を木にぶら下げた絵画土器が鳥取で見つかっている
鐘みたいに鳴らして使っていたのかもな元々は
祭祀に使っていた根拠は今のところない
戦の最中には敵に居場所を知らせるだけになるから使えないだろうし
纏向遺跡より前の奈良は坪井遺跡や清水風遺跡から鳥装のシャーマンの絵画土器が見つかっている
今でも鳥装の巫女が舞う巫女舞があるね 天日槍は葦原シコオや伊和大神と戦っているからな
大物主葦原のシコ
卑弥呼の時代だな天日槍
卑弥呼の共立に加わったんじゃないか 俺は銅鐸用の青銅器が手に入り難くなったんじゃないかと思ってるんだけど
だって銅鏡以外の青銅器を作ってないでしょ?
銅鏡から銅鐸や銅剣銅矛は作れないし つまり畿内説は必死にオレオレ詐欺をゴリ押ししてる学問テロでしたと 鏃とかは銅鐸を溶かして作ってるけど祭祀用としては作ってない 瀬戸内海にいたはずの牛さんがどんどんと北上する
どういうことなんだろうな
シナノの善光寺、牛と白い布ヌノの話
その後牛さんは新潟辺りまで行ったのか? 弥生時代の青銅器は大半を銅鐸用に使われてたと言われている やっぱり漢人らの影響かね〜
中国でも漢が主流となってから中国にあった銅鐸消えた 漢では鉄を溶かして剣を鋳造するだの簡単にやってるからな 鳥居を潜り井戸の水で身を清め鐘を鳴らし神に祈る
銅鐸は神社の銅鑼やお寺の鐘そのままやけどな
物部と中臣が、鈴がどうの鳥がどうのという話が記紀にあるけどね そもそも邪馬台国時代の畿内にはちゃんと鉄があった
淡路島の五斗長垣内遺跡で製鉄が行われていたし、記紀の神話でも磐余彦の皇后は姫タタラ五十鈴姫であり、タタラ製鉄の名を負っている
イサナキイサナミの国産み神話の舞台は淡路島であり、淡路島には前方後円墳が一つもないという謎の地域でもある
恐らくとても神聖な特殊な島に思われていたのだろう
国産み神話では男神と女神が天柱を廻るが、これは明らかに北極星を中心に星が回る自然現象がモチーフになっている
太陽神を信仰し星に触れないヤマト大王家の神話とは異質な物語である
オレはイサナキイサナミは淡路島の在地人が崇めた世界創生神で、九州発祥の纏向王権の元で淡路の製鉄民が重用されてから、正式に朝廷の神話に組み込まれたのだろうと推測する
イサナキから威を表す接頭辞イをとるとサナキとなり鐸という意味になる
淡路の五斗長垣内遺跡はヤマト王権が生まれる前までは銅鐸の一大生産地だった
イサナキイサナミは纏向王権以前からの畿内土着の神格であり、これが太陽神の神話と異質な内容であるというのは、逆説的にヤマト王権の本貫地が畿内ではないという事を示しているのである 神楽鈴かな
銅鐸、鈴は今でも大切なアイテムか
教令を伝える時に鳴らすものが鐸 松原にも白い布を敷いて神さま(スサノオらしい)を迎える話が地名の伝承であるな
牛頭天王社
いつの時代の話なのか?
ひょっとしたら6世紀後半の話かもしれない
聖徳太子と善光寺
牛が逃げ込んだ先が善光寺だったかな 台与の九州倭国 vs 崇神の東倭種
265年に魏が西晋に禅譲してしまい魏が滅亡
魏の後ろ盾を得て共立されていた台与が失脚
九州倭国連合が崩壊、266年朝貢途絶
↓
九州北部勢が畿内に帰順して、制海権、鉄利権が九州から畿内へ(3世紀後葉)
鉄器の出土量が九州と畿内で逆転
↓
畿内に帰順しなかった国々は数十年後に土蜘蛛として討伐される 畿内に勢力なるものがあったとしたらそれはすでに銅鐸祭祀とともに滅んだだろ
九州説でも大和に夢見てる人がいるんだよな 奴国と畿内は密接な関係にあったことが分かる
畿内では銅鐸が消える一方、奴国では在地甕や楽浪土器が消える
また甕棺が消え前方後円墳と三角縁神獣鏡を受け入れる 493
詳しい情報は出さないでおまえがどこまでやれるのか見てみるわ 北部九州は畿内の前方後円墳文化の受容には消極的だった
以下、松木武彦「古墳とはなにか」より
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」 ヤマト政権は倭国大乱前に既に始まり、卑弥弓呼が孝昭天皇のモデルじゃないの?
その次の男王が孝安天皇のモデル、台与は孝霊天皇のモデルでしょ
魏に親魏倭王とされても国内の王権は狗奴国側にあったんじゃないか?
NHKは卑弥呼がヤマト政権の始祖と断言したが、よく軽々しく根拠もなく言えたものだ
このシナリオを書いたのは誰なのか? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 東京出身の人は東京の歴史を研究したらいいのにな
大国主の母は刺国の姫だろう
武蔵国なんじゃないの
東京の地元民しか知らない歴史が日本全体に関係することもあると思うんだよな 前方後円墳は、奴国、伊都国の領域よりは豊前の領域に強大な権力を想定できる。
おそらく、卑弥呼共立の時点では九州では博多の方に権力の主体があったが、定型型前方後円墳ができる布留ゼロ以降の博多は権力を喪失したのではないか?
同じく、山陰地方でも前方後円墳は100年間作られない。
桜井茶臼山を見ると、当初「卑弥呼共立」でしか成立し得なかった邪馬台国は、布留ゼロ以降は、
「他の追随を許さない隔絶した王(橿考研・岡林孝作)
「邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王(橿考研所長・青柳正規)」
が誕生したものと思われる。 宇佐市長のコラム
↓
市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)
県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。
このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。
三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。
なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。
魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。
赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。
ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。 >>492
それを想像するのは良いんだけど弥生時代今ある神社の場所でそれをやってたかと言うとやってない >>461
>・伊都国ではTA期に平原があるが、その後卓越した首長墓が一時断絶する。ここで伊都国出身 の卑弥呼の王家一族が「東遷」したのではないか?
平原1号墓の後は、2号、3,4号と続いてるよ、小さくなりながら
そして纒向の建設開始は平原1号より前だ
東遷説は無理
タイムパラドックスだ https://i.imgur.com/0bQV4uz.jpg
台与の九州倭国 vs 崇神の東倭種
まとめ
・魏の滅亡を機に台与が失脚し九州倭国が崩壊
・九州北部勢が畿内に帰順して制海権、鉄利権が九州から畿内へ
・鉄器の出土量が九州と畿内とで逆転(3世紀後葉) >>511
銅鐸の原料の青銅器が畿内に入ってきてたって
何が制海権だよ >>513
そんなもん交易してんだからなんぼでも流通するぞ
鉄だって早い段階で流通してる 久住先生30分前のツイート
「九州では奴国伊都国に匹敵する地域がない」
まさにこれ >>514
それだと鉄だって自由に手に入れられるって事じゃん >>511
3世紀後葉に畿内と北部九州で鉄器が逆転した事実はない
その頃の畿内では鉄器が普及しておらず農具も木製、古墳を作る土木具も木製だったが、北部九州では当たり前に鉄製農具で農業を行い武器も鉄製だった
テンプレは間違っていて、副葬された鉄器だけで比較している
単にこの頃の先進北部九州は鉄器は実用段階だったが、後進畿内はレアな鉄器が権威の象徴たる貴金属として王が独占し副葬していただけだ
3世紀後葉でも相変わらず鉄器の普及は北部九州が圧倒的だ
先程私が貼った松木武彦の著書にも書かれていた通り 銅原料を求めて列島中から奴国に倭種が集まって来てもいいじゃない 豊前辺りは不弥国じゃないかな
タモの地
後々の大墓公と関係するんじゃないか >>517
畿内や出雲から大量の青銅器が出てる
これは出雲を通して輸入してたと考えるのが自然 >>512
倭人伝の1里は確かに奴国までは432mではないが、魏の1里は432mである
尚、奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国までは1里432mを想定した可能性を排除できない >>520
不弥国でしょう
石塚山古墳、赤塚古墳などの定型化前方後円墳の主体権力がここにある 畿内が制海権、鉄利権をゲットすると東の倭種が半島へ鉄をとりに行き始める
↓
半島で東の倭種の酋長のことが噂になる
↓
ツヌガアラシト、ソナカシチ、アメノヒボコらが様子を見に来る
これが3世紀後葉 奴国二万戸なんてのは集落としてはバカでかい
と言うより集落ではない
しかも距離も出鱈目
奴国が仮にあったとしても北部九州ではない >>515
それは九州説の私も否定しない
筑後邪馬台国の卑弥呼は卓越した軍事力政治力経済力で北部九州のヘゲモニーを握ったのではなく、むしろ(宗教的カリスマ性はともかく)そこまで世俗的な力が強くなかったから、協調的な王として共立されたのだろう
欧州でパリやベルリンやロンドン(後に脱退したが)ではなく大して軍事力政治力経済力が強くないベルギーのブリュッセルにEU本部が置かれているようなものだ 青柳正規(まさのり)所長は調査の意義について「邪馬台国(やまたいこく)が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と述べた。
現在、初期ヤマト王権の見直しが迫られている。
これまでは初期ヤマト王権は弱体と見られていたが、桜井茶臼山の存在により、3世紀末にはすでに「他の追随を許さない圧倒的な王」が誕生したことが分かった。 一大卒の支配下だぞ九州北部は
卑弥呼は圧倒的な武力で脅してたんだよ
纏向遺跡見てたら分かる
闇雲に大量に集められた人々の集落跡
相手を攻め落とすには10倍の兵力がいるらしいからいくら集めても狗奴国は攻め落とせず膠着状態が数十年続いていたんじゃないかな 豊富な遺跡や文献上の位置関係や地名から勘案して奴国が今の福岡市(細かくは春日市にも跨る)にあったことは、畿内説九州説問わず争点にすらならない合意事項だろう 九州でも銅剣銅矛が作られなくなった
これは原料となる銅の輸入が途絶えたんじゃないかな?
いくら祭祀用と言っても割れる剣や矛じゃな >>528
君に久住猛雄のポストを捧げる
「なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。」
「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」
「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」
「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」
「倭国王配下の国々は倭国王が「統治」しているらしい。
古代史を勉強してください。」 >>527
3世紀末だと台与はまだ60代で生きていた可能性が高いな、九州で >>534
だったらどれくらいなんだ?
戸数は全く無視するって事か? 鉄については詳しく見ないとよく分からない
例えば、ヤマタノオロチという人が林・藤島遺跡からは鉄が2000点出てるからここが邪馬台国だと主張しているが、学者レベルはおろか福井県からも無視されている
砂粒みたいな鉄も1個と数えてるんでしょう
大切なのは鉄の量(何キロ?何トン?)
あと、鉄器の形状。
例えば、富雄丸山の蛇行剣みたいな立派な物を1点、砂粒みたいなのも1点と数えて、「福井県が上だー」と言われても誰も納得しない 弥生時代後期の博多は播磨や河内と関係が深く伊勢遺跡の枠組みに参加してたんじゃないか
その時代の壱岐からは玉津田中遺跡、唐古・鍵遺跡遺跡、河内の船橋遺跡、池上曽根遺跡と同じく龍の絵画土器が見つかっている >>537
あなたの説では奴国までは短里と言う事でしょ >>533
短里は存在しない
単に、「倭国にある物ない物は海南島と同じ」との記述から、海南島の近くと想定して当てはめたか、
ヴァルトゼーミュラー地図、古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖みたいな地図が初めにあって、それに当てはめたと見る >>539
博多が河内や播磨と交流が深いのはその通りだろうな
一方纏向なんかと九州はほぼ交渉がないのではなかろうか
吉備25%
東海20%
河内20%
山陰・北陸17%
讃岐・阿波・播磨8%
近江5%
西瀬戸内3%
紀伊1.5%
駿河0.5% >>541
違う人にレスしてるが、奴国までは短里ではない
4つの海全て渡海千里だから、概念上適当に当てはめたと見るべき
・壱岐→末盧1000里
・関門海峡1000里 >>540
周代の古い資料で距離を盛ったと思ってない >>543
残念ながら、伝統的第X→筑前型庄内甕→北部九州型布留甕→纒向型前方後円墳→定型型前方後円墳→三角縁神獣鏡と連続性を持って、博多と畿内は接している 周代の古い資料は末盧國まででそれ以降は陳寿が勝手に付け加えたんだろう >>546
渡海千里皆倭種は、当然に関門海峡を渡ったと見るべき >>544
>韓方4千里。これは短里
なんか根拠でも? 弥生時代後期龍の絵画土器が一世風靡するからな
卑弥呼の前の時代
壱岐、九州北部、五島列島、岡山、兵庫、大阪、奈良、三重
松江九州南部滋賀北陸愛知静岡にも点在
倭国大乱前には、九州山陰四国北陸近畿東海にまたがる国の枠組みが出来つつあったんじゃないか 末盧國から東南なら有明海の方向
しかも糸島なら歩く必要が無い
そうであればここまでの行程は書いてある通りに解釈すべき >>543
連続性をもって生口を供給していたのだな >>549
列島最大の貿易港博多(奴国)は弥生時代から出雲丹後播磨をはじめ西日本各地および朝鮮半島と活発に交易を行い、それらの文化を吸収したりあるいはそれらに文化を伝えた
筑前型への改良を伴う庄内甕の受容はその一環だ
そしてそれは纒向勢力が河内から庄内甕を文化として受容したのと何も変わらない 弥生時代後期に突如として現れ広範囲で一斉に認めるようになるが古墳時代には見られなくなる龍の絵画土器 >>553
九州と本州を隔てるのが関門海峡であること
古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖では、日本は九州と本州のみでほぼ構成されていると見なすことができること >>559
中国人が大挙亡命してきて、そして粛清されたのだね 河内→纒向の庄内甕の受容は文化の伝播
河内ないし播磨→筑前の庄内甕受容は政治的支配の証拠
このご都合主義が既に理論的に滅亡した古臭い畿内自生説の特徴 >>528
中国の正史 魏書 第三十巻収蔵『 魏志倭人伝 』によると
女王邪馬台国の以北には、一大率を置き北方諸国を検察し
小国が群がるの北方の人々は邪馬台国から派遣された駐留軍を怖れ憚る。
常に伊都国で植民地にする北方諸国を治める。北方に於ける視察官の如く有り。
卑弥呼女王が中国皇帝に使を遣わし、(中国の)京都、帯方郡、諸韓国を巡って
中国の統治機関あったの韓国半島の群から倭国に物資を送る時、港で物資を検閲する
また倭の国々を統治する邪馬台国の女王卑弥呼に、多くの倭の国々は
邪馬台国を宗主と仰ぐ文書、賜遺の物を献上するが数が多すぎて手違いが起こりやすい。
と中国側の正史魏志倭人伝に記録されてあるけど
どう考えても南九州に倭国の最高峰邪馬台国が君臨してたとしか考えられない事実 >>558
であるならば、畿内以外の土器も受容するべき
また祭祀形態も畿内以外の形態も受容するべき
ところが、奴国は楽浪土器すら排除し、在地系も捨て去ったのである 卑弥呼の前に龍の絵画土器の国の枠組みがある
その中心が龍の絵画土器の密集地河内、大和
ヤマト政権の始まりじゃないの?
NHKはヤマト政権の始祖は卑弥呼と言っていたがこれは事実ではないんじゃないか? >>567
旧石器捏造事件を生み出した日本の考古学界の体質 ゴッドハンドと言えば九州説が成立すると思っている九州説 >>561
本州かも知れないし魏略は方向が書いてないし本州から見た四国かも知れない 北條芳隆などは旧石器捏造にも通じる畿内自生説の悪しき体質を内から批判する >>565
いや纒向遺跡は河内勢力が建設した都市だろ
ただの文化伝播だなんて畿内論者は主張してないぞ >>569
NHKではなく寺澤の主張
後の桜井茶臼山も考慮すると妥当な見解 >>572
古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖には四国と考えられる島が描かれていない >>573
通説畿内説かつ箸墓卑弥呼説の人だな
通説畿内説でありながら、箸墓は卑弥呼の墓ではないとする久住とはちょっと違う >>577
>計算できないの?
お前もできないだろ? >>574
奈良盆地が一様に庄内甕を受容したのではなく、奈良盆地の河内と近い地域をすっ飛ばして東南部の纒向界隈が庄内甕を受容している
まだ奈良盆地すら統一出来ていない初期のヤマト王権が何らかの経緯で河内の庄内甕を文化として受容したと考えるのが自然 >>576
当然倭人から話し聞いただけでしょ
現地人がそれを知らないとは思えない
四国とは海を隔ててる事くらい知ってるよ >>578
その立場でありながら、彼は歴博の箸墓240~260年説の発表などはとても許容できない、旧石器捏造のようなことが行われていると批判する >>582
16世紀、四海華夷總圖に至っても四国は描かれていないのだから、渡海千里皆倭種は本州と見なすべきであり、関門海峡を渡ると解するべき 遺物の分布をなんでも交易で説明するのも能がないよな >>584
現地に住んでる人間が知らないわけねえじゃん >>404
倭種というのは、伊都国までしか行かなかった使節団の記述
都は太陽の方角で遠方にあると聞いた(中国にとって太陽は南) 伊勢遺跡の時代の方が統一されていた
ヤマト政権は伊勢遺跡と共に始まり倭国大乱で一時混沌の状態になり、仁徳天皇陵の時代へ向けてまた纏まりを取り戻していく
そんな感じだろう
卑弥呼より前に帥升など男王の時代があったんだから、帥升はヤマト政権ではない、卑弥呼からだというのはちゃんちゃらおかしい >>586
北部九州から四国に渡海するのは魏志倭人伝の構成からも不合理である 本によると主な古墳は
1世は九州が多く、畿内、関東にもある。
2世紀は九州を除く西日本。
3世紀は奈良から東。(西日本にも幾つかある)
にあるそうな >>407
奴国→瀬戸内海沿岸→邪馬台国
これらが倭国 大和国風土記逸文にある、石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこと
これが国の根幹じゃないの?
両方ががっちりと手を組む >>585
政治的・軍事的支配の考古学的根拠があるなら主張すれば良い
古い畿内自生説は単なる憶測で文化の受容を何でもかんでもヤマト王権の支配に結びつけた
最近の松木武彦や久住猛雄はそうした非合理的な態度とは一線を画している >>588
卑弥呼からと考えないと難しい
誉田御廟山古墳をさらに後ろにずらさないといけなくなる >>589
倭人に話を聞いただけでしょ
行ってないから >>580
朝鮮半島の横幅を地図で計測すればいいだろ >>452
大物主は出雲だよ
それ以前に出雲、大和を統括したのはスサノオ >>596
北部九州の倭人が関門海峡を渡った先の本州を無視して、四国の話を持ち出すとは考えられない >>599
九州か本州か知らんけど四国とは海で隔ててる 古代人と現代人とでは考え方が違っても不思議は無いと >>452
中国側に保管されたある数々の正史の記録には
大物主や出雲、スサノオ などを想定できる記述が
全くと言っていいほど無いんだよね(笑) >>601
さっきも書いた通り
古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖、ヴァルトゼーミュラー地図には四国が描かれていない
であるから、渡海千里皆倭種は本州と見なすべきであり、魏志倭人伝の構成からも北部九州から四国に渡るのは不合理と言わざるを得ない >>527
>桜井茶臼山の存在により、3世紀末にはすでに「他の追随を許さない圧倒的な王」が誕生したことが分かった。
桜井茶臼山の存在により、3世紀末にはすでに倭人(阿波勢力)が畿内進出をしていたことが分かった。 @阿波 >>598
中国側に保管されたある数々の正史の記録には
大物主や出雲、スサノオ などを想定できる記述が
全くと言っていいほど無いんだよね 捏造が濃厚(笑) 倭人の歴史は上海や釜山や燕台から一歩、海に出たらそりゃ日本史の方だからな
中国人や朝鮮人などに海洋史ないんだよ
その理由考えてみな >>529
>豊富な遺跡や文献上の位置関係や地名から勘案して奴国が今の福岡市(細かくは春日市にも跨る)にあったことは、畿内説九州説問わず争点にすらならない合意事項だろう
碌に鉄器さえも作れない福岡市に夢を見すぎ! @阿波 >>610
そんなの現地人が知らないわけねえじゃん
向こうの陸地にも倭人が住んでるよと教えて貰ったんでしょ >>470
57年 伊都国王(阿毎氏、天御中主神か?)
107年 ワミャント国王(伊勢遺跡)
239年 ヤマト国王(卑弥呼、瀬田遺跡) >>566
なんだこの訳? どこから持ってきたんだ
糞みたいな訳だな >>615
それが四国のこととは到底考えられない
不合理 >>620
そうかね?
何処を指してるか俺は確信が持てない >>618
「阿波」は鉄器王国、威信材王国などの超先進文化の中心。 @阿波 海に出たら中国人らにしろ半島人らにしろ倭人に教えてもらった情報しかないんだよ 一大率は地方官で他にも居るよ
伊都国だけの特別なもんじゃない 中国にも倭人はいたし日本にも倭人はいた
それだけのこと >>623
そうとも言えないが向こうに見える島にも倭人が居るってのは教えて貰ったんだよ 九州説の言う通り、編年を100年ずらすと、桜井茶臼山や西殿塚が370年ぐらいになり、行燈山が401年頃になり、行燈山と誉田御廟山古墳がバッティングする
橿考研の青柳正規所長や岡林孝作のように、桜井茶臼山はやはり270年頃と考えるべき >>629
だから、
桜井茶臼山の存在により、3世紀末にはすでに倭人(阿波勢力)が畿内進出をしていたことが分かった。 @阿波 卑弥呼共立当時(201年頃)は、いまだ北部九州の方が勢力的には優勢だったことは畿内説の一部も認めるところである
が、布留ゼロ(250年頃)時点では、畿内と九州は確実に逆転していることはアンチ畿内自生説も認めるところである
逆転時には、すでに畿内邪馬台国は「他の追随を許さない圧倒的な王権(青柳、岡林)」に手をかけていたことが確実である
そこから桜井茶臼山、西殿塚の大王→半島侵攻→誉田御廟山古墳→大仙陵古墳とする年代観は相当である 神武天皇 建国の詔
觀夫畝傍山〈畝傍山。此云宇禰縻夜摩。〉東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之。
觀れば、かの畝傍(うねび)山の東南の橿原の地は、蓋(けだ)し國の墺區(もなか)か、之治むべし。 0566日本@名無史さん垢版
2024/04/14(日) 14:12:02.79
>>528
中国の正史 魏書 第三十巻収蔵『 魏志倭人伝 』によると
女王邪馬台国の以北には、一大率を置き北方諸国を検察し
小国が群がるの北方の人々は邪馬台国から派遣された駐留軍を怖れ憚る。
常に伊都国で植民地にする北方諸国を治める。北方に於ける視察官の如く有り。
卑弥呼女王が中国皇帝に使を遣わし、(中国の)京都、帯方郡、諸韓国を巡って
中国の統治機関あったの韓国半島の群から倭国に物資を送る時、港で物資を検閲する
また倭の国々を統治する邪馬台国の女王卑弥呼に、多くの倭の国々は
邪馬台国を宗主と仰ぐ文書、賜遺の物を献上するが数が多すぎて手違いが起こりやすい。
と中国側の正史魏志倭人伝に記録されてあるけど
どう考えても南九州に倭国の最高峰邪馬台国が君臨してたとしか考えられない事実 >>626
1世紀に古墳はないよ
その本にも1世紀のものは「古墳」とは書いてなかったはず 南九州なら1ヶ月かかるという表現はしないし、直接行けばいいだろう
里数ではなく日数で表現しているので、直接行っていない >>478
かつては近畿を中心とした銅鐸文化圏という概念がありましたが、その後吉野ケ里遺跡をはじめ北部九州で多くの銅鐸や鋳型が出土しその概念は否定されることになりました
銅鐸が使われなくなった時期は卑弥呼の即位の時期に連動していると思います
私は、銅鐸が村落単位の好戦的な対立を生むシンボルとして、卑弥呼によって廃止されたのではと想像します 畿内説の常識は疑似科学的な文学調常識w
九州説の常識は基礎科学的な推察常識 アンチ畿内自生説の寺澤、久住などは「纒向は突如としてできた」とするが、桜井茶臼山の存在を考える時、
卑弥呼共立時(184年〜201年頃)にはすでに畿内が北部九州とほぼ同等であった可能性や、すでに上回っていたことすら考慮せざるを得ない
桜井茶臼山は盗掘されているのに、103面の銅鏡が出るのであるから、盗掘前はその2倍、3倍、4倍も検討しなければならない
箸墓古墳や西殿塚古墳や行燈山古墳の副葬品次第では、当然にして畿内自生説は成立するばかりか、「纒向は突如としてできた」とする考えの方を改めなければならない 銅鐸は平和の象徴
牧歌的な絵が描かれている
1世紀巨大な銅鐸文化が盛んだった時代、畿内からは環濠がなくなり首長連合の祭祀場跡の伊勢遺跡が誕生する
古墳時代の埴輪
従軍する、鏡を掲げた巫女の一群の埴輪が見つかっている
巫女と鏡、軍、戦はセット 女王国は文身の風習のある海人が中心の国と魏志倭人伝にある
海で暮らす者が陸に上がり稲作をしようとすると争いが生まれるのは当然
狩場を稲作に提供した人々が水田まで海人に奪われたら怒るのは仕方がない
各地に残る羽衣伝説
松や岩に掛けてあった天女の羽衣を盗んだのは漁師である
例外は一切ない 常陸国風土記そのままだよ
常陸国
海人がやってきて船を献上させて農業に従事させた
農村が広がり風土記が作られた奈良時代には野山の神が邪魔になり体良く山へ追いやる
海人が陸へ陸へ侵入し先住民の狩猟採集民を山へ山へ追いやっていったんじゃないのか?
狩に適した場所は山ではない。野の水辺である。 >>644
国宝が無くても、鍛冶工房遺跡がいっぱい在るって、「阿波」はやはり特異なところ。 @阿波 畿内説は公金チューチューしたいがために生きながらえてるやばい学説。 ばかか
公務員はみんな税金で給与所得ゲットしてんだよ 女王邪馬臺国が漢化した姿が万世一系大和国。
女王は適正な男王が不在時の中継ぎ摂政に慣習化されていったわけですね。 >>650
瀬戸内海広域に共立された最初の王が卑弥呼 阿波も近畿と密接な関係があると思うんだよな
弥生時代近畿で使われていた石棒は徳島で作られていた
徳島、淡路島、友ヶ島、加太、和泉は近い
天石門別八倉比賣大神御本記に
大泉神が天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。
という件がある
大泉神は楠伝承が残る和泉の地の神で、池上曽根遺跡の井戸の水の可能性もあるんじゃないか?
徳島の徳
軽の宮の懿徳天皇、軽船に関係する枯野伝説の仁徳天皇、母の棺から楠が生えてきた伝承が残る聖徳太子、諱が軽の孝徳天皇
徳=軽 天照大神は卑弥呼、台与の事績に合わせた架空の人物
神功皇后は卑弥呼、台与の年代に合わせた架空の人物
仁徳天皇は台与退位の269年の後に応神即位270年とするために挿入された架空の人物 常識的に考えて、今より海没してた筑紫平野に、5万戸・7万戸の大国があった訳ないじゃん
九州の何処を水行一月・陸行一月するんだよ 奴国より少なく言うわけにいかないとして、5万戸、7万戸とホラを吹いたのが当時の倭人
実際に行ける近さじゃない邪馬台国は >>657
里程と日程は並列だから綺麗に伊都国に到着するよ。 鵜呑みにしたら列島は巨大化して九州内に収まりそうだが 隋書には東西五月行南北三月行とあるから
2か月くらいなら九州に収まりかねない 隋書「ヤミェツァイに都する、魏志にいうヤバタイなる者なり」
ヤミェツァイとかヤバタイとかどこよ? 邪靡堆は昔あったのだろう。説明してるときには滅ぼされて無いと思われる 桜井茶臼山古墳からも三角縁神獣鏡は26面出ているということ >>666
隋代に邪靡堆があってこれは魏志いうところの邪馬臺なる者なりと言ってるんでしょ >>658
>里程と日程は並列だから綺麗に伊都国に到着するよ。
嘘つけ
1万2千里で伊都国は通り過ぎてるだろ
うそつくだけの九州説 三角縁神獣鏡C形式の文様が中国出土魏景元四年(263年)紀年銘鏡と一致してるので、臺與が266年の献使で入手した鏡が三角縁神獣鏡C形式だってところまで特定されてんだよね
もう九州説終わりなのよ >>671
てことは、C形式は263年以降ってことが確定したな。
台与は外交嫌い。
263年以降の外交記録って、いつよ??? >>671
畿内説ですが、マジですか?
ちなみに、それは何鏡ですか?
三角縁神獣鏡でないことだけは確かですが >>669
>隋代に邪靡堆があって
その邪靡堆は、「倭大国魂神大国敷神社 二座」が鎮座する「阿波」。 @阿波 >>669
後漢書李賢注というのがあって隋書とほぼ同時代に書かれてるんだが
「大倭王はヤバタイに居る(じっくり考えてみるに今の名前のヤムアツァイの訛りであろう)」
と注釈が入っている
同じものだという認識が当時無かったもんだから
じっくり考えてしまったことが赤裸々に書き記されてしまった >>674
聖徳太子の時代だし、阿波に聖徳太子居ないし >>675
俺らより少ない情報で俺らと同じように悩んだんだろうなぁ >>676
居るとすれば、「阿波」以外にないだろ? @阿波 >>676
居るとすれば、金メッキの馬具が出た「阿波」以外にないだろ? @阿波 九州で発見された1800年前の九州吉野ケ里遺跡の存在が
古代日本の大宗主国・邪馬台国の威容をおぼろげながら
中国の歴史書 魏志倭人伝によって証明されたのであろう その台与がいたのはどうやら摂津の稲倉山の可能性もある
卑弥呼が亡くなった時に狗奴国の卑弥弓呼もお役御免になったようだな
台与の時には卑弥弓呼の話はないからね
卑弥呼の次の男王の時代の内乱で色々変わったのかもな
文身の風習は無くなるし池を作ったり農業主体の国作りに変わっていく
大は百姓の国という意味らしいな >>682
吉野ケ里遺跡ってそんな大層なもんじゃないから >>671
C型って蟹沢古墳の三角縁神獣鏡ですか? 文身の風習の人々の国であった女王国と邪馬台国
4世紀のヤマト政権は文身の風習がない農業国家
邪馬台国卑弥呼とそれに連なる人々はNHKがいうようにヤマト政権の始祖なのか? >>682
>九州で発見された1800年前の九州吉野ケ里遺跡の存在
水銀朱や蛇紋岩製鋳型などにより、倭人(阿波勢力)の墓が確定済み。 @阿波 >>673
三角縁201番鏡の内区外周雲紋が
景元四(263)年円圏紋鏡の雲紋と一致 なにわというくらいやからな
那津の木の庭で那庭説は考えられる
那津の板付は日本列島での稲作発祥の地やからね
丹後国風土記逸文に丹波は田庭であるとあるからやね >>675
九州脳がどんな状態だったらこんな誤訳ができるのか正気を疑う ウカノミタマの母も大やな
神大市姫
市は板付のITだったりして >>689
同笵鏡が日本に輸入されてコピー品が作られて
同笵鏡は見つかってないとかその程度の話 >>687
朝鮮と一緒で漢人系渡来人に影響され漢化したヤマト政権。古墳から出てきた鏡や鉄剣の銘文は漢人が漢文で書いた。 >>687
文身の風習があった「海人族」。
「古事記」にある神武東征の中で、同行した久米族も「海人族」だったのだろう。 @阿波 >>689
円圏紋鏡で検索したらヒットしました
勉強します >>690
>なにわというくらいやからな
難所鳴門海峡の通るさぬき市難波郷が、「なにわ」。 @阿波 >>695
>同笵鏡が日本に輸入されて
つまり三角縁神獣鏡中国製説ってこと? >>695
よう!
同笵鏡の意味、わかってるかい!!?? .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 徳島になにわの地があってもいいが上町台地辺りがなにわと昔から呼ばれているんだからそれを否定して奪う必要があるのか?
やることがえげつないな >>700
つまり円圏紋鏡は三角縁神獣鏡だったって言う主張? 海を渡るときには海、陸を歩くときは陸とはっきり言ってるのに
水行の際に何にも言及していないのは異様
川なら川と言うはずなので遠賀川などもありえない
投馬国と邪馬台国の2つの記述は書き手が異なったパッチワークであるのは間違いない
だから、九州か畿内かどっちなんだよ?と言われても分からん
これからゆっくり考える >>704
後期聖武天皇難波宮に、津は無い! @阿波 >>707
伊都国でヤマトの高官が話した事を書いただけ >>705と>>706の九州説がいかに無知かが分かる >>708
卜骨はまだ出ていないが、鍛冶工房はいっぱい在る。 @阿波 あーあ
畿内説がアホ論理<一部が似てるだけで同笵鏡と主張>をしたのを追求したら
@阿波にロープタッチしたぜ
こいつらマッチポンプだ
さすがホケノ山から阿波朱が出てるだけあるw >>703
>今の倉敷市と岡山市の大部分は
当時はまだ海の底だったのである
邪馬台国時代のこれが1800年前も大阪の姿だ!!!
大阪大学提供資料
https://i.imgur.com/hfN76VV.jpeg
なんと!河内湖という沼や河口が入り込む
複雑な地形を形成する土地だったのである >>707
畿内説にたどり着くにはかなりの努力が必要だぞ
勉強に勉強を重ねなければ、まず「南」と書かれたものを克服できずに、九州説から動けない すんげえ勢いでタゲ逸らししていくなw
こびりついたウンコの@阿波も協力
>>695
で、どの鏡とどの鏡が同笵鏡だと? >>703
>今の倉敷市と岡山市の大部分は
当時はまだ海の底だったのである
邪馬台国時代のこれが1800年前の
大阪という所の姿だ!!!
大阪大学提供資料
https://i.imgur.com/hfN76VV.jpeg
なんと!河内湖という沼や河口が入り込む
古代の大阪は複雑な地形を形成する土地だったのである どれとどれが同笵などと言ってないのに、どれとどれが同笵なのかと質問する無知な九州説 >>716
>畿内説がアホ論理<一部が似てるだけで同笵鏡と主張>をしたのを追求したら
こういう嘘が平気でつけるのも九州説の特徴 畿内説の常識は疑似科学的な文学調常識
九州説の常識は基礎科学的な推察常識 卜骨は播磨にも香川にも和泉にもない和歌山にもない
九州南部にもないし東北もない
関東も弥生時代の時点では卜骨がない地域が大半
魏志倭人伝に描かれている倭人はこれらの地域にはほとんどいなかったのかもしれない
和泉の地は風土記逸文にはこうある
河海の産物はたくさんあるが、山陸の産物は少なく、穀物を作る民は多くはない
貧しい下国だが昔ながらの生活をしていたようだ 阿波は邪馬台国ではないし播磨や和泉和歌山も邪馬台国はもちろん女王国ですらない可能性すらある >>726
中世の戦国時代、九州を瞬く間に制覇した薩摩の知将 島津義久が
重要局面では何故か卜骨を盛んに用いて戦術や方位を決定しているがな 頭の極度に悪い九州説信者が唐突に同笵鏡とか言い出したのがこのレス
同笵鏡の意味を知らないと皆からばかにされた
0695日本@名無史さん垢版
2024/04/14(日) 17:50:46.29
>>689
同笵鏡が日本に輸入されてコピー品が作られて
同笵鏡は見つかってないとかその程度の話 弥生時代後期〜末期卜骨の地域
肥前、筑後、伊予、備前備中、奈良、静岡、神奈川、長野、金沢、佐渡、房総半島
NHKの説によると狗奴国とされた地域が卜骨の地なんだな
NHKの説はやっぱり出鱈目なんじゃないか? >>716
>畿内説がアホ論理<一部が似てるだけで同笵鏡と主張>をしたのを追求したら
つまりそれは真っ赤な嘘
九州説やってると嘘つきになる >>652
徳島の呼び方は安土桃山時代の命名、それまでは国名は阿波で郡名が(名方)名東・名西 >>722
誰でも知っていることを、何を今更鬼の首でも獲ったように騒ぐか。
もう少し古い時代は砂嘴の発達も弱くて「河内湾」だった。
神武伝説の緒戦、長髄彦との「河内湾岸戦争」はその時代の地理条件下で戦われたと記紀に謂う。
まさかあれがそのまま史実でもあるまいが、
少なくとも「全ては天武朝で捏造された」と云う津田ドグマに上記の環境記述が風穴を開けてしまったことは否めない。
--という所までひっくるめて常識だ。
>>727
>阿波は邪馬台国ではないし
卜骨が出ていないからか? @阿波 >>735
「倭大国魂神大国敷神社 二座」が鎮座しているところ。 @阿波 >>736
そんなもん出なくたって邪馬台国は安房ですよねえ? >>737
それはそれとして 徳島ヴォルティスの惨状はどうするんですか阿波さん テミの安寧天皇とトモの懿徳天皇はトミの一族と関係があるんじゃないか
石切神社の上之宮には黒い龍神が祀られトミの一族の伝承が残る
弥生時代後期一斉に龍の絵画土器が九州全域吉備松江徳島を含めた四国近畿東海北陸に広がる
特に大阪は盛ん
龍が一世風靡した時代
スキトモ、鳥の木の友でもあり、トミでもあるんじゃないか >>709
さぬきの難波郷にも津は無い内陸の旧大川町・白鳥町五名が旧難波郷。 邪馬台国論争は司法試験みたいなもので、知識量が必要
河野玄斗みたいな天才でも1年の勉強時間が必要
凡庸なら10年かかってやっと合格できる
だから、通説畿内説を採用していても9割5分の人はちゃんと理解していない
俺も多分まだちゃんと理解していないが、九州説だけは採用できないことは確信している >>742
凡庸な秀才にありがちな固定観念岩石系だね
誰もが認める秀でた仕事は無理だから
権威に縋って無難な事務作業が向いてっるぽっい >>743
そんなことより、碌に鉄器さえも作れない畿内をどう収集つけるんだよ???
超先進文化を謳歌していたのは、「阿波」だけ。 @阿波 反論ができないで、すぐ罵るだけになるのが
九州説の特徴 3本足の土器
足の部分が中空なのが鼎(かなえ、テイ)、つまっているのが鬲(レキ)である。
そうだ。 >>747
>論理破綻してるのが畿内説の特徴
表面上そういうカンバン立てるだけで
何が破綻してるのか絶対に言えないのが九州説脳
つまり畿内説に破綻なんて無いってこと >>743
お前、畿内説だろ?
そんなことより、碌に鉄器さえも作れない畿内をどう収集つけるんだよ???
超先進文化を謳歌していたのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>750
それ逆
足の部分が中空なのが鬲、つまっているのが鼎 古田武彦「邪馬台国はなかった」は読む前に、トンデモ論だとか、今では誰も相手にしない遺物とか、そういう否定的な論調をネットで散々見かけたあとで、入門書的に話半分で読んでみたがとんでもなく面白かった。
文体に自信がみなぎっているし、何よりも邪馬台国に対する情熱がびんびん伝わってくるのがいい。
wikipediaには「彼の主張のほとんどは通説にならなかった」などと酷い書かれようだが、水行10日陸行1か月を帯方郡からの全行程と読んだり、不弥国までで邪馬台国への行程をゼロ地点とするなどは革命的で、今でも普通に通用する理論のように思えた。
邪馬台国が九州だと確定する日かくるかどうかは分からないが、こういう人はいつか再評価されるような気がする。 >>752
徳島ヴォルティス 2024年度J2成績
(4月14日現在 10節終了時点)
01節 負 1-5甲府
02節 負 1-2鹿児島
03節 負 1-2秋田
04節 勝 2-1水戸
05節 負 1-2山口
06節 分 0-0仙台
07節 負 0-1群馬
08節 分 1-1清水
09節 負 0-1千葉
10節 負 1-6長崎
1勝2分7敗 勝点5
順位:20位(20クラブ中)
この成績で 内乱も起きてグダグダ チームがバラバラじゃねーか! ちゃんとまとまてるの? 残留できるの? 来年はJ3? 古田武彦は再評価も何も元々学術的には全く評価されてない
無知など素人だけが騙されるのは昔も今も変わらない もう済んでる話であろう
九州は所詮卑弥呼の地方官の管理下と倭人伝に記されておるだろ
九州に卑弥呼の都があっては畿内神仙思想の説明に無理が生じ某天皇を持ち出した所で中華の度量衡が使われておるのだよ。
九州には甕棺族の痕跡しかない、これを無視して作り話をしてもダメだよ
あんたら大衆は勘違いしてるのだな3韓の書物の影響でな
その勘違いは朝鮮神宮の主祭神に反対した神道者も同じなんだな。
無駄だよ
箸墓纏向が道教の指導者の墓と臺
天御柱主の地は慶州羅井。 >>743
畿内説の「売郷奴」と東遷説の「閑古鳥」は、遺跡の話になるととたんに黙り込む。
超先進文化を謳歌していたのは、「阿波」だけ。 @阿波 邪馬台国はなかったって言うのは、「邪馬臺」じゃなくて「邪馬壹ヤマイ」だって言う本なんだろ?
俺も邪馬台国論争初心者の頃はそれを採用して、このスレッドにも「邪馬壹」とか「壹与」とか書き込んでいたけど、トナカイと喧嘩しているうちに、紹煕本とか紹興本とかを調べ始めたら、まだ九州説だったけど、邪馬壹ヤマイではなく「邪馬臺」や「臺与」が正しいと思ったわ >>682
ドイツのシュリーマンの自伝『古代への情熱』で語られているように
子供の頃に読んだホメロスの『イーリアス』に登場する伝説のトロイア国や
ミケーネ文明が栄えたミケーネ国に大人になってもロマンを掻き立てられ
一般人には書物の空想物語と片づけられていたトロイア王国やミケーネ国を
発掘するため生涯をかけて発見に情熱を傾けた結果
遂に奇跡のトロイア王国やミケーネ国の遺跡を発見したみたいに
九州吉野ケ里遺跡の発見は古代史ロマンを感じさせることになったね >>755
我がふるさと板野はヴォルテスのホームタウンでも有るのだが・・・。
頑張ってとしか言えないねぇ。 >>753
他を調べてみた。棒状が鼎とある。
2:1で つまってるほうが鼎のよう。 牛馬のない時代に、纏向の勢力が北部九州を影響下に置いていたなどと考える人間は夢をみすぎている
奴国の葬送儀礼が畿内と同じくすることをもって北部九州が支配下にあったとするのは強引すぎるよ >>528
中国の正史 魏書 第三十巻収蔵『 魏志倭人伝 』によると
女王邪馬台国の以北には、一大率を置き北方諸国を検察し
小国が群がる北方の人々は邪馬台国から派遣された駐留軍を怖れ憚る。
常に伊都国で植民地にする北方諸国を治める。北方に於ける視察官の如く有り。
卑弥呼女王が中国皇帝に使を遣わし、(中国の)京都、帯方郡、諸韓国を巡って
中国の統治機関あった韓国半島の群から倭国に物資を送る時、港で物資を検閲する
また倭の国々を統治する邪馬台国の女王卑弥呼に、多くの倭の国々は
邪馬台国を宗主と仰ぐ文書、賜遺の物を献上するが数が多すぎて手違いが起こりやすい。
と中国側の正史魏志倭人伝に記録されてあるけど
どう考えても南九州に倭国の最高峰邪馬台国が君臨してたとしか考えられない事実 トロイアの木馬はシュリーマンによって実在が確定したと思っていたが、調べたらガチでまだ神話だった
いまだフィクションと考えられていることが分かった >>767
そうだな。
伊都国はヤマダイ国の北になければならない。
また、伊都国には港がなければならない。つまり内陸国ではない。
これ基本ね。この文言を無視するのが阿波説や畿内説。 >>769
>また、伊都国には港がなければならない。
なんでや? @阿波 >>769
卑弥呼の時代には半島の鉄が山陰や北陸に流出しまくってたけど キタは当時の日本語で西のこと
畿内の邪馬台国が西の九州に一大率を置いていたという話
そもそも一大率は中国における刺史(地方官)のようなものと書かれてるんだから邪馬台国と一大率が共に九州にあったら距離が近すぎておかしい 南は南、北は北
方角の定義など、方角を何と呼ぼうが変わりません >>772
2024/04/14(日) 18:21:02.78
>>703
>今の倉敷市と岡山市の大部分は当時は海の底だったのである
邪馬台国時代のこれが1800年前の
大阪という所の姿だ!!!
大阪大学提供資料
https://i.imgur.com/hfN76VV.jpeg
なんと!河内湖という沼や河口が入り込む
古代の大阪は複雑な地形を形成する土地だったのである 倭人「一大率を女王国のキタ(西)に置いてて〜」
日本語をよく分かってない魏の調査員「一大率を女王国の北に置いてるのか。報告書にメモメモ」
当時こういうことがあった >>772
距離が近い、というのは現代の私たちの感覚
牛馬すらない時代であることを考えよう >>775
魏使は卑弥呼の元に赴いている。
倭人からの伝聞ではない。 >>772
魏志倭人伝は中国人が中国語で書いた書物。
倭人が言った言葉も通訳が中国語に変換するだろう まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>777
赴いていようが何だろうが一大率の詳細は倭人に聞き取りしないと分からないだろ
>>778
その通訳が既に西と北を間違えてた >>778
一大率の置かれている伊都国から倭王のいる邪馬台国まで魏使は自分の足で移動している。
北と西を取り違えるわけがなかろう。 >>781
>一大率の置かれている伊都国から倭王のいる邪馬台国まで魏使は自分の足で移動している。
それ、空想 >>774
古来から南大阪が都会としての大阪の中心だったのを
明治30年頃までは畑作業が行われる広い湿地帯だった北部大阪市を
明治以後各地方(主に大阪以西)からの大阪への流入が大きくなるにつれ
人が住がめるように梅田を造成した経緯がある
で最初の地名は単純に埋田だったが
さすがにこれではマズイと梅田と当て字にした訳 梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王
これを普通に読めば
魏使は倭王にあってるんだよな >>784
梅がついてる地域の土地は買っちゃダメだと死んだおばあちゃんがいつてました!埋立地だからって! 弥生時代後期一斉に勢力を広げた龍の絵画土器と鳥形
駿河の拠点集落の登呂遺跡は弥生時代後期に誕生した、玉津田中遺跡と同じ鳥形の稲作の集落であった
駿河国風土記には神女降臨神話と漁師に羽衣を奪われて仕方なし夫婦になった羽衣伝説がある
羽衣が何かということだが毛を失った白兎の話と準えると羽衣は毛=食べ物、穀物ということだろう
倭国大乱はミニ氷河期で食糧難の時代であったのも倭国大乱の引き金かもしれない
海人と仕方なしで手を組んだ東海の稲作民が旧体制に反旗を翻したのかもね
同じように吉備は龍の絵画土器の地であったが何が起きたのか?こちらは東海とは別の動きで数千の兵を率いた天日槍の軍門に降った可能性もある
吉備は天日槍伝承の地だが、考古学的な裏付けが得られればいいが
駿河は後々新羅人の入植地になるので駿河ー新羅ー吉備は何らかの繋がりがあった可能性がある
旧体制への反旗と見ると狙うは旧体制の中心地だろう
鳥形と龍の絵画土器が密集している河内和泉かな
邪馬台国卑弥呼と狗奴国卑弥弓呼の睨み合いで数十年に渡る膠着状態が続く
その後も卑弥呼亡き後内乱があり、3世紀後半纏向遺跡から吉備の土器が消え記紀では吉備征伐
龍の絵画土器や勾玉、銅鐸、鳥形の勢力が何処かに消える現象も起きているな
摂津国風土記逸文にはトヨウケに触ることがあり丹後に帰ってしまった話もある
かなり歴史は複雑そうだ >>784
難波津のオオサザキ(仁徳)は天皇ではなく、難波という地方の官だった可能性がある
都は堺市だった
仁徳挿入説 『梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王』
魏使は倭王に会っている
つまり魏使は倭王のいる邪馬台国まで赴いているのである
よって、通訳の間違いとか沖縄の方言とか全く関係なく、北は北、西は西なのである。 倭王に会って印綬を授けた使者と倭人に聞き取り調査したり測量した人間は普通に考えて別人
そして測量技師は邪馬台国までは行かなかったから邪馬台国までの里数は書かれなかった
聞き取り調査役も邪馬台国まではいかずに聞き取りをした
だから西と北の取り違えが起こった >>790
5世紀初頭の履中天皇陵が生前に作り始めたオオサザキの陵墓だよ
百舌鳥の耳原伝説は耳の下で奴婢として働いていた百舌鳥の反乱
これは播磨の勢力や住吉さんとも連動している
オオサザキ(本当の名はミミヅク)はどうなったかというと淡路島の妾の日向髪長姫に会いにいく途中で殺されたんだよ
だから履中天皇陵にはオオサザキはいない
摂津国風土記逸文
雄伴郡(をとものこほり)には夢野(いめの)がある。
父・老が共に伝えて言うのは、昔 刀我野には牡鹿(おじが)がいた。その嫡(本妻)の牝鹿は この野に居り、その妾の牝鹿は淡路国の野嶋に居た。
この牡鹿は野嶋に行って妾をとても愛おしんだので、その日は嫡の元には帰らなかった。その翌日、牡鹿は嫡の牝鹿に「今夜 夢を見たが、私の背に雪が降り積もっていた。また、(背の上に)すすきという草が生えているのもみたが、この夢は何の兆しだろうか」と言うと、嫡の牝鹿は夫が妾の所に向かうのを憎み、偽って「背の草が生えるというのは、背の上を矢で射られるという兆しでしょう。また、雪が降り積もるというのは鹽(塩)を宍(肉)に塗られる兆しでしょう。あなたが淡路の野嶋に渡るのであれば、必ず船人と遭遇して海中にて射たれ死ぬことでしょう。謹んで往復してください」と言った。
しかし、その牡鹿は妾を愛おしむあまりに野嶋に渡っていき、海を行く船に遭遇して射殺されてしまった。よって、この野は夢野と名付けられた。土地に伝わる説に「刀我野に立てる眞牡鹿も、夢相のまにまに」というものがある。 >>787
流石の徳川幕府も青梅まで埋め立てたわけではない。 >>789
ざっと読んだので詳しくは知らない。
明治以降管轄する所が何度も変わっているようです。
出来た当時は管轄地域の西や北だったようです。
名称は残ったのでしょう 耳が作った原だから耳原
纏向遺跡みたいなものだ
妻木晩田も一昔前の同じようなものだろう
戦の産物 履中天皇陵の造成を指揮していた人々は何処に行ったのか?
吉備に移って履中天皇陵と相似形の造山古墳を作っている
履中天皇陵だけ他の百舌鳥古墳群と形が違う 魏志倭人伝の中の
・阿蘇と思われる山
・顔の入墨
この2つからも九州説と感じるが 魏志倭人伝の中の
阿蘇と思われる山
顔の入墨
この2つからも九州説と感じるが >>800
>この2つからも九州説と感じるが
理由もなく感じちゃうのが九州説 >>803
そこは地名に方角を含むものすべてを挙げるべきだろう なるほど!
「真珠と青玉と丹を産出する」
この記述に絞れば、四国説が俄然優位になるのか
いや、面白すぎるだろ 邪馬台国
今夜も邪馬台国の夢を見て眠るとしよう 顔の入れ墨が邪馬台国の風習だなんてどこにも書かれてない
風習の記録係が九州までしか行ってないから九州で見た風習を書いてるだけ 顔の入れ墨が盛んだったのは岡山と東海
九州には少ない この地図なら中国地方(投馬国)も近畿(邪馬台国)も東海(狗奴国)も東や >>809
その地図だと45度ほどズレているが倭人伝の方位は30度ズラすと丁度いい >>803
良い地図だ。
目的地は伊都。
壱岐から九州に1000里
伊都に500里
方角はまあ・・・
最短、吉武高木で良いな。 >>803
畿内説の解釈通りではなく畿内説とは正反対だ
畿内説の解釈→「東」の表記は実際は南、すなわち地図が「右に90°」傾く
長崎県の地名→「東」とつく地名が実際は北で「西」とつく地名が南、すなわち(ざっくり)「左に90°」傾く 畿内説は「邪馬台国=ヤマト王権」の結論が出発点で文献解釈も考古学の解釈もその結論ありきの逆算である(例えば魏志倭人伝の地図は90°傾いている、などの類)から、纒向がヤマト王権発祥を示す遺跡であれば自動的に纒向=邪馬台国の主張になる
一方、九州説は魏志倭人伝の方角(邪馬台国は伊都国・不弥国の南など)、距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里など)、文化(鉄鏃・絹・有棺無槨など)などから邪馬台国は北部九州と解釈するが、たった二千文字で甚だ簡潔な文章のため特定の場所・遺跡にまでは絞り込めず候補が複数になる
畿内説論者が九州説の候補地が多いことをしばしば批判するが、それは上記のように畿内説と九州説のそもそもの成り立ちの違いに起因する
逆に九州説から見れば、畿内説がその根拠と主張するものは、どれも結論ありきの後付けの根拠(本質的には根拠ではなくそれ自体証明すべき仮説)にしか見えない 不弥国から突然90度ズレるのは変でしょ90度ズレた >>816
九州説もまた結論ありきの逆算なのである
それが短里説を生み出した >>819
それは全く違う
魏志韓伝・倭人伝の一里を実際の距離から計算すれば、ある程度の幅はあるものの100m以下の短い距離になるというのは客観的事実だ
結論ありきの畿内説脳がその不都合な真実を認められないだけだ >>820
そう思い込んだけなのだ
魏志倭人伝と魏志韓伝だけは、短里説が使われていると言い出したのは
九州説の古田武彦だったことが象徴している
そもそも、九州説と畿内説を作り出したのは新井白石
それは下半身の繋がった双子説なのだ
比定地まで不弥国までは九州内陸にあるという白石の説にしたがって
あとは、水行、陸行などさじ加減でどうにもなるところで変わるだけで
お互いを補強しあって、考古学物的証拠でさらに強化され
この二つ以外はありえないという逆算から短里説が出てくるのである >>821
全く違う
何の先入観もなく魏志韓伝と倭人伝に記載された里数を普通に計算すれば誰でも100m以下の結果になる
無知など素人しか騙されないトンデモ古田武彦が何を主張したかなど一切関係ない >>822
本当に目的地を決めないで進めば、当時中国で使われていた魏里(約435m)で
計算できるはずである
現にそういう計算で魏志倭人伝と魏志韓伝は魏里が使われてるという
全て魏里を使って目的地に達した人がいる
それが関東説である >>823
>本当に目的地を決めないで進めば、当時中国で使われていた魏里(約435m)で計算できるはずである
⇒できないよ
実際の地理で概ね300km四方の三韓地域を魏志倭人伝は方四千里と書いている
この1里を計算してみなさい >>825
最近、平壌で遺跡が発見され平壌あたりが帯方郡だったことがわかり
計算すると周囲約1700キロ、グーグルマップでピッタリになるそうだ >>827
方◯里というのは正方形の一辺が◯里ということだよ
さっきの魏志韓伝の例で言えば、三韓地域を正方形と見立てたときの一辺が四千里ということだ >>828
誰の解釈?
通常、方は、周囲だよ
魏志倭人伝の日本語訳もそうなっている
現に対馬も方は、四方で周囲と解釈されている
ちなみに対馬も周囲400里
魏里(約435m)で約174キロ、グーグルマップでピッタリだそう >>829
何言ってんだこの馬鹿は。
方は正方形の一辺だ。
さすが隔離場。アホすぎて話にならん。 考古学では畿内説がほぼ証明されたような言い方が度々なされるが、考古学者の書いた論文や著書を読んでも私にはちっとも畿内説が正しいようには思えない
その理由を考えたが、まず畿内説は「邪馬台国=後の大和朝廷(ヤマト王権)」が学説自体の出発点になっている
そして纒向がヤマト王権発祥の地であることが考古学的にほぼ確実になっているので、畿内説論者にはこれで纒向=邪馬台国がほぼ証明されたように感じるのだろう
しかし九州説の私を含め畿内説以外の人間には「邪馬台国=ヤマト王権」という前提自体が頭の中に存在しない
だから纒向がヤマト王権発祥の地であっても、「それは歴史的に重要なことではあるが纒向=邪馬台国の証明には全くなってないよね」と思うわけだ
このギャップはなかなか埋まらない >>829
誰の解釈も何も中国で「方」とは昔からそういう意味だ 方を周囲と解釈したらピッタリだ!てyoutubeにあるんだよ 九州説論者は「邪馬台国≠ヤマト王権」という前提を宗教的に信じているからな
そしてアイヌ非先住民説を詭弁と分かっていながら宣伝しているような壺や日本会議のネトウヨがネット声闘で九州説が正しいように世論操作を行なっているわけだ
学会では九州説なんてイロモノしかいないのが現実なのである >>835
「邪馬台国=ヤマト王権」という前提を持たないことと「邪馬台国≠ヤマト王権」を信じることは全く違う
「纒向=ヤマト王権」と「纒向=邪馬台国」がそれぞれ独立して証明されれば当然に「邪馬台国=ヤマト王権」を認めるが、「纒向=邪馬台国」が全く証明されていないので「纒向=邪馬台国」を信じる合理的な理由がない >>836
最後の部分書き間違えた
「邪馬台国=ヤマト王権」を信じる合理的な理由がない、だ >>834
それは短里では合わないから周囲ではないということだろ 伊都国から南に1000里、邪馬台国に「到る」と書いてないので九州は無い
遠方にあるから日数表記になっており、「至る」となっている
太陽の方角と聞いたので、中国人にとっては南
だから、山口県を見て、東にも国があったと書いている
寧ろ、侏儒国(足摺岬)は4千里(女王国=福岡平野より)と書いているので、こちらは直接行ったのではないか
その後、有明海の方を周旋して5千里と言ったのだろう >>836
纒向は卑弥呼の時代から崇神につながる豪族はいただろう >>842
解釈の違いでは
中には一辺ではなく正方形の面積だとかいう人もいる
それで合うとか、合わないとか >>844
少なくとも四辺の合計という意味はない
それは解釈の違いではなく単なる間違い >>845
しかしだよ
韓国や対馬を紹介するのに
一辺だけの距離を紹介するというのもおかしくないか
それは杓子定規な解釈では 崇神天皇の時代辺りは鈴木屋敷の鈴木さんもの子孫である穂積氏と豊の勢力が活躍する
和歌山と大分、五十猛に関係するのかもな
崇神天皇の和風諡号も五十の玉を植えたと読める名だ >>81
>>83
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw
全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。
まさに「ヤマトよ永遠に」w
「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w >>846
方四千里は魏志韓伝で三韓地域の大きさを説明する文言
杓子定規もへったくれもない https://i.imgur.com/T6Fqkrw.jpg
北はニシなんだーという主張に対しては
じゃあ南はフェーだし
西はイリ(日没の方角)だし
東はアガリ(日の出の方角)だね
ということになる >>81
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。
残り700里(50q)となり、糸島→博多の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、博多→吉野ヶ里まで50qでピッタリです! >>851
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
いまだに、行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。 @阿波 つまり畿内説は阿波説とまったく同じオレオレ歴史詐欺 >>852
「方千里」
ある地点から東西南北の方向にそれぞれ千里の意味(千里四方) >>852
文脈によって使い方が違うのでは
それに韓国や対馬が周囲として
魏里であってしまうのは偶然なのか 畿内説の脳内では対馬方400里が魏里になってしまうそうだwww 方400里の対馬(周囲1600里)が720qになってしまう畿内説(魏里)www @南→東、に読み替えて纏向に持って来たとしても、不弥国も狗奴国も複有国皆倭種もすべてダブり、丹後(大阪)から陸行一月(20q×30日=600q)すると新潟(水戸)になってしまう
A明らかに短里で書いてる倭人伝を魏里に読み替えて纏向に持って来ようとしても、日数表記だから無意味www
どうあがいても纏向には来ないオレオレ歴史詐欺、畿内説!w 当時の韓(馬韓、辰韓、弁韓)の範囲は、東西南北四千里四方 直線距離280km四方
∴一里=70m @阿波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93 >>860
そうではなくて、400里×435m(魏里)=174キロ
対馬の周囲、174キロ >>863
方400里って書いてあるのが読めんのか?w
始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。 >>862
魏の時代に誰が一里=70mで記録するのよ?
誰か最初にこれ言った奴が居るんだよね >>854
郡から狗邪韓国まで直線で水行は出来ない 魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する >>864
どう考えても韓国(平壌あたりまで)も対馬も長方形であって
正方形で当てはめても無理がある
わからなかったはずがない 對馬国、一大国、末盧国は他とは記録内容が違うし別の人物の記録だよ >>868
>どう考えても韓国(平壌あたりまで)
三韓の話だ。 @阿波 >>871
つまり万2千里は直線距離では無いと言う事だ >>874
なんでや?
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg >>875
>阿波は論破された事を忘れるボケ老人
それは、お前だ。
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
いまだに、行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。 @阿波 >>876
どうやって計測したか説明出来ない以上はトンデモだ 1寸千里方は同じ時刻(正午)の影の長さの差で距離を測るから
結果的に直線距離になる
しかし緯度によっても影の長さに差が出ることを知らなかった為に
南に行けばいくほど1里の長さが実際よりも短く測定されてしまった。
九州で計測したらおよそ1里が75メートルになってしまう計算 畿内説は倭人伝の記述を何とか大和に持って来ようとするが、部分部分で上手くいっても全体の整合性が全く取れないため、漢代の記述が混ざったとか、陳寿がいい加減に編集したとか文句を言い続けているw 漢代の記述が混じったところで
後漢書の記述が都合悪いので後漢書は無視します >>882
首尾一貫、筋が通るのは、「阿波」だけ。 @阿波 「前方後円墳」や「東阿波型土器」が全国へ広まったのは、倭人(阿波勢力)が進出していったから だと、何度言えばww @阿波 超先進文化を謳歌していたのは、「阿波」が中心。 @阿波 俺は本気で對馬国、一大国、末盧国は周代の記録だと思ってる
狗邪韓国もそうかな? 畿内説の根拠は史書に記録の無い作り話ばかり
・纒向遺跡の近くでたまたま発見した桃の種の年代
・同じくカエルの骨
・同じく木片
・住人の居ない大集落
・殉葬形跡の無い径150歩の前方後円墳
・南は東の間違い
さらに遺跡や出土品を意図的に100年古く編年している
つまり畿内説は詐欺 魏の時代に一里=70mなんて無理有り過ぎ
そんな記録するわけない >>81
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。
残り700里(50q)となり、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです! >>890
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
いまだに、行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。 @阿波 中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国) >>896
陳寿は、西晋政権の度量衡で書いたまで。 @阿波 つまり畿内説の知能指数(読解力・計算力)は小卒以下 吉野ケ里遺跡は周代からあった
末盧国から東南五百里はここを目指したかもしれない >>894
それもだな
チャバネゴキブリは暖かい場所に生息するから纒向には暖かい場所=住居があったニダ
とお得意の印象操作コメントしてたな >>901
そういえば周代の一里が75mぐらいだったという説があったな >>903
糸島なら歩くのがおかしいのよ
吉野ケ里の方が方向も合ってて自然 >>905
昔の地図を見ると、博多湾は北に入口のある丸い湖のような地形で描かれている
入口西側の岬にあたる部分が呼子だろう
そこから博多湾岸まで出て海岸沿いに伊都まで歩いた
とすれば何の違和感も無いが? >>909
違和感あるわ
壱岐から船で行けよ
港で検査するんだから 博多方面は避けないといけない理由があったんだろう
弥生時代末期の卜骨が見つかっているのは佐賀 >>912
博多湾まるっと海軍基地みたいなもんだったんじゃ無いかな 無理な解釈するより周代に末盧国から吉野ヶ里を目指した人が居たと考える方が自然 倭人の丸木舟なら博多湾の砂浜に直接乗り入れできたのだろうが
喫水の深い大型船が接岸するには呼子あたりに天然の良港でもあったのかもしれん
https://i.imgur.com/YSksLqC.jpg まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>916
鉄器も青銅器も周代には日本に入ってきてるんだしおかしくないだろ? >>917
吉野ヶ里が伊都国だとは言ってない
對馬国、一大国、末盧国とは記述内容が違うからこの三国は別人の記録だ 【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg 福永伸哉阪大教授
「三角縁神獣鏡は、日本でこれまでに600枚ほど発見されています。そして、そのうちの約450枚が中国製で、約150枚が日本製だとみる説が有力です。
卑弥呼が中国に支社を送って持ち帰ったものが一番古いタイプのもので、その後も邪馬台国は何度か魏や西晋に使者を送っているので、そのたびに三角縁神獣鏡をもらったため450枚くらいになったと考えられています。」(本日発売/週プレ・奈良「富雄丸山古墳は誰の墓なのか?」)
中国で流通してないのにw
倭国が遣使を送るたびに特注したらしい 本場中国で1枚しか出てない三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と持ち上げる(年代繰り上げマジックハンドで御馴染み)福永伸哉センセw
50年前から何にも変わってないじゃん!w 富雄丸山から5世紀の剣が出たのに墓は4世紀だと言い張る馬鹿考古学 >>924
この人は銅鏡の細かいところを調べたりするのは得意なようだが、それらの結果を歴史のストーリーとして構成する能力は冗談抜きで素人の妄想レベル 富雄丸山古墳(4世紀後半)の蛇行剣は、5世紀(50回忌か)に制作され、追葬されたと見られることから、
紀年鏡など築造年代と合わない副葬品は、前期古墳では主体部に直接追葬したものと考えられる。 墳丘の築造年代≠副葬品の追葬年代で、富雄丸山古墳ではなんと半世紀もズレることが判ったため、後漢鏡7期や紀年鏡を根拠にしてきた畿内説は馬糞の川流れのように跡形もなく消滅したわけだw >>929
だから炭素年代測定でいいんだよ
異物は出るんだから クズこと、久住孟雄センセがトイレに流れるウンコにしか見えないなw 三種の神器が副葬されている時点で、九州勢力の東遷があったと見るのが自然だろ? >>924
もらったもの全部発掘されたわけじゃないのに、全部で何千枚ももらったことにしないとw >>932
九州勢力と言っても一枚岩ではないと思うんだ
例えば物部一族は畿内に行ってても卑弥呼は行ってないとか >>924
考えられています
てことは結構有力な説なの? >>932
慧眼!
筑紫邪馬台国配下の伊都国、あるいは最大同盟国である日向投馬(都萬)国が、卑弥呼に内緒で本州出雲吉備連合(ヤマト)王権に分家した可能性はあるだろう
そして266年に台与が出雲吉備連合(ヤマト王権)に譲位したのだろう 神武東征とは、筑紫邪馬台国配下の伊都国と日向投馬(都萬)国が共同で本州の出雲吉備連合(ヤマト王権)の傘下にも分家を派遣してて、それが天下を取ってしまったということジャマイカ? >>935
>てことは結構有力な説なの?
学会の主流 邪馬台国がイギリス
大和王権がアメリカ
共通の言語や文化や歴史伝統があっても
イギリスとアメリカは紛れもなく別の国
奇しくもつい最近までイギリスも女王国だったな
これは単なる偶然だろうが >>939
たしかに266年筑紫邪馬台国台与からヤマト王権崇神への倭王位禅譲は、イギリスとアメリカの関係に似ているなw >>940
まあその通りだ
短里なんてもんがあると考える方がおかしい
何故そうなったか別の理由を考えなきゃ 短里なんてまるっきりの思考停止
結果から存在しないものを導き出しただけ >>890
計算がおかしい
対馬と壱岐は一辺が400里と300里なんだから通り抜ける際はその倍かかる
船のルート
/ \ ↘
/ 対馬 \ ↘(ここで400里)
\ / ↙
\ / ↙
(ここで更に400里)
壱岐の場合も同じ
だから12000里は奴国でもう使い果たしてる >>83
道理でw今まで邪馬台国がどこなのか判らなかったんだね! >>890
>>949
本当の位置(吉野ヶ里)と偽の位置(呉の背後=会稽東冶の東≒沖縄那覇あたり)が同時に書かれてるわけだからな、そりゃ混乱するよw
その混乱に乗じたオレオレ歴史詐欺が畿内説だw >>947
なんで、頂点2つ通過するルール?
進行方向に一辺が平行だとどうなる?
円だったら2分の3.14倍なwww
でも、なんで船は港に入るだけなのに
島に正面衝突すんだよ。 邪馬台国畿内説は、なぜ、完全に破綻してしまったのだろうか。 >>86
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw
そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw
さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流し、古代史のすべてを留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。 関東の視点が欠けるよな
四道将軍も関東だし弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて卜骨が相模武蔵安房上野などで見つかっている
大国主の系譜で母が刺国の姫なんだよな
古墳時代前期関東で何が起きてたか、詳しい人いないだろうか? 本来なら妄想を語った時点で学者失格
しかし畿内説は学問では無いので学者が平気で妄想を語るのです
その意味がわかってない>>1は井の中の蛙 >>955
筑紫⇔大和を行き来しているうちに邪馬台国まで大和にあったと錯覚するようになってしまったんだろう >>956
俺も邪馬台国連合30国に関東も含んでるんじゃないかと思ってる >>957
>>1って学者なのか?
邪馬台国専業歴史愛好家じゃないの? >>960
>>1は単なる引きこもりの妄想家らしい
以前知り合いがこのスレに来てそう言ってた >>952
優れた者達に、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無いことを、曝かれ、公的機関の、娯楽を重視する、バラエティーな分野からではなく、学術を重視する、教育分野からによって、発表されたからでは、ないのかな。 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713161550/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>962
今年度も、邪馬台国畿内説には、具体的な証拠が全く無いことが、今週、発表されますね。 >>959
畿内説もここまで堕ちたか…
やはり邪馬台国=纏向という前提がおかしいと、ここまでおかしくなるという見本だな 旧唐書の記述からハッキリ判ることは
倭国=九州
日ノ本=本州
ということ。 >>968
たしかに
倭国=九州+本州
日本=北海道
の可能性はゼロだからなw 奈良が世界遺産申請をするようだが、邪馬台国には全く触れていなくて草 心の中では誰もが邪馬台国は北部九州(筑紫平野)だったと思ってるからな ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。 女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡って千余里で、また国が有り、皆、倭種である。」
畿内説の人は畿内が邪馬台国の東、海を渡った先の倭人の国ではなく邪馬台国そのものだという根拠を示すべきだと思う
邪馬台国の時代の遺跡だからとか桃の種とかゴキブリの化石は魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の描写と100%関係ない
邪馬台国と同じ時代の遺跡というのは邪馬台国であるための必要条件ではあるが
十分条件ではない
それプラス邪馬台国であることを証明する何かが無くてはならない つまり畿内説は東の倭種の国による韓国式霊感商法詐欺でしたと >>967
俺伊勢遺跡説だから東とは関りがあるのよ >>976
>それプラス邪馬台国であることを証明する何かが無くてはならない
当時あったいちばん大きい国ってことで十分だろ? 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>971
邪馬台国はどこにあっても世界遺産(人類共通の遺産)にはならんだろ >>976
ポイントは東に海があるということだろう
纏向では、伊勢湾らしい
九州では何になるんだ? >>982
魏略には方向が書いてないし後漢書は狗奴国でしょ
ポイントと言うほどのもんか? 女王国の東、海
九州説では瀬戸内海かな
女王を去ること四千余里、又、裸国・黒歯国がある、復その東南にある、
船で一年がかりで着くことができる。
太平洋のことを言ってると思うんだよな 俺は狗奴国は毛人だと思うけどな
戦ってるとかじゃなくて言う事聞かない奴らとかそういう意味合いで
差別的な意味も含んでるだろうし >>988
方角のズレはあったと思うが(日の出の方角が東)
地名(郡)に関しては明治の話じゃね? >>989
そもそも侏儒国とか裸国・黒歯国なんて無いから >>990
九州中部南部もなかなかいうことを聞かなくて反抗勢力は実力行使で討伐されてしまった >>979
いや、全然違う
魏志倭人伝のどこに邪馬台国は倭人の国々で最も大きな国だと書かれてる?
該当箇所を引用できる? >>979
>当時あったいちばん大きい国ってことで十分だろ?
邪馬台国と関係ない 日本で一番大きな国だとかいうのは根拠のない捏造だものな >>994
>魏志倭人伝のどこに邪馬台国は倭人の国々で最も大きな国だと書かれてる?
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