邪馬台国畿内説 Part1016
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713580888/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 論文読んでたが、歴博も「邪馬台国はヤマト王権」と断言してるな >>76
何の根拠も無く希望を語ってるだけのバカだよ 歴博論文が素晴らしい
短里を完全に否定している
九服之制で全てを説明している
夫餘の方2千里、高句麗の方2千里、韓の方可4千里を比較して、全く短里なるもので測ってないことを説明している
渡海したら全部千里もこれで全てを説明してしまった ヤマト民族の由来は邪馬台国だよな。魏の年号の鏡を全国にばら撒くほどの権威。 天円地方、地は方
帯方から韓方四千□左辺南に四千下辺四分三で狗や韓国
海三千北九州伊万里。
残り周旋二千で畿内。
合っとるんだよ。 >>80
九服之制で検索して一番最初に出てくる歴博の論文 >>82
なにが、論文だよ?
九服の500里の一里がご都合だろ?
その基準は一里が何mだよ?
方可4千里がでかいしw
九服の500里の4倍か?
学問は、詐欺師か?
西域伝里の一里200歩には近い。
九服の500里は常に一定ではない。
松本清張が、投げ出した原因。
首都や王朝の変遷で、周礼一服500里の
東夷50歩一里、西域200歩一里
の変化は、あり得た。
300歩一里、360歩一里は
事実として存在する。 かなり難しいことだが、地図を全て忘れて欲しい。
「狗邪韓国から対馬までは渡海千里です」
「対馬から壱岐までは渡海千里です」
「壱岐から末盧国までは渡海千里です」
「関門海峡は渡海千里です」
これの意味するところは、海を渡ったら、別の領域に入るということを意味するのであろう。
であるから、伊都国→奴国は100里であり、奴国→不弥国は100里なのであるにも関わらず、渡海は全て1000里なのであろう。
今は疲れていて、うまく説明することはできないが、明日以降、上手く説明できるようにしたいと思います。
歴博の「九服之制」は極めて論理的なので、九州説の方々も読んだ方がよろしいでしょう。 >>84
全く論文の内容を理解していないようなので、明日以降疲労が取れてから説明したいと思います また、1.にもあるように纏向の南に円丘箸墓
天南地北。
紫禁城の天壇地壇なんだな
中華の思想。
入り婿が中華で学んだんならわからないでもない。
もう覆せないよ。 倭人伝の周里では、洛陽から、
西は375km、長安は西域の入り口
北の遼東遼西も域外。
会稽も域外である。
始皇帝が50歩の6倍を主張して
漢は域外の200歩一里を限度にした。
一里が何歩かは、変動する。
焚書で記録が非公開、限定している。
倭人伝里は、陳寿と魏使で共有した。 前スレ読んだ初心者ですが
↓これにいまだ誰も反論できていないと思った
0986日本@名無史さん垢版
2024/04/23(火) 18:02:34.83
理屈は述べた
ボールは素人九州説側にある
奴国を上回る投馬国と邪馬台国を九州内に想定することは可能か?
不可能である 994 日本@名無史さん[] 2024/04/23(火) 18:10:37.43
戸数が信用できるというやつは里数が信用できるというやつと同じ迷路にはまり込んでるなw 魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、
《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》
《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》
桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。
桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年
倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる
最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる >>91
そんなとこなんだろうけど九州説がダメなのは説明しなくても
わかってくれるでしょ?ってのが透けて見えるんだよね
千戸と二万戸の集落が並んでるのがそもそもおかしいわけで
何故なんだろう?ってのを考えなきゃいけない >>90
女王国より南に投馬国のある
九州説は論外
行ってない国は、名もしらぬ余傍国。
朝鮮投馬国www 以外には無い。
帯方郡から水行は1万里で九州上陸。
残りの陸1月行=二千里で女王の処都。
女王国は次有り21国で
境界が尽きる七万戸の国。
2万が奴国なら残り20国は2500戸平均
大は2万、小は1000戸。
吉野ヶ里が21国で女王共立。
南に狗奴国。
参問21国は、九州北部で周旋可5千里。
3千里は対馬海峡。
南北2千里で21国を5千里で廻れる。
小国である。 @まず(魏使が直接足を運んで見た場所と考えられる)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg 「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)
残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです! ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg
魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)の海上から、宿敵・孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。
⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png
※魏志倭人伝の蛇足(虚構)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
.........................↖投馬国(宮崎都萬)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖虚構 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に木棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸紐の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。 「有棺無槨」は木棺をそのまま土葬すると棺が腐って空洞となり、埋葬主体部が崩落してしまうから、腐らない甕棺か石棺ということだ。
つまり3世紀に甕棺か石棺だった地域に邪馬台国があったんだ!どこだ?w >>100
http://sakuwa.com/p13.html
ホケノ山古墳
埋葬施設は、木槨と石槨からなる内外二重構造の槨に木棺を納めたものであった。 槨:棺を収納し、保護保護するための埋葬用施設のことをいう。 邪馬台国=ヤマト王権
日本の建国は紀元前ではなく、九州や吉備から来た銅鏡文化人が畿内を制圧した西暦180年頃であり、邪馬台国と同時期である。
初代天皇は九州や吉備の兵を率いた軍事王と倭国の祭祀を一手にになった祭祀王の二人であったろう。
軍事王が男王で神武天皇のモデルになった人物であり、祭祀王が卑弥呼であったと考えるのが妥当な推測である。
邪馬台国とはヤマト王権であり纏向遺跡がその故地だったのだ。 3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。
<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏・帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との最終戦争(日向投馬国と同盟し挟み撃ち)へ
<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)
247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳(中学1年生)の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。
つまり、
ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓
で良いだろう。 266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利一族で高家筆頭・吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。
そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。
さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に分家=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗(水軍全滅)で近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和分家(留守番)の歴史として描いたのが記紀なのだ。 >>90
それって邪馬台国が倭国の首都で大王都であるはずだという前提から出てるんだけどそんなこと魏志には書いてないんだよ
だから考古学者はものの解釈が平板で薄っぺらいと思うんだ >>101
>「有棺無槨」は木棺をそのまま土葬すると棺が腐って空洞となり、埋葬主体部が崩落してしまうから、腐らない甕棺か石棺ということだ。
妄想
畿内は伝統的に木棺直葬の方形周溝墓が主流
これが「有棺無槨」 >>108
大王都かどうかはともかく中国の使節が来るんだからただの集落ってのは違うだろ? >>101
前期古墳は石槨+木棺だから、北部九州だ! 倭人伝を読めば邪馬台国は九州。
これは事実で設じゃない。
畿内説はその時倭王は畿内に居た。
で、ヤマト畿内説。
卑弥呼は190~247年までの女王。
戦乱収めて、対立国有るのに
女給1000人で、引きこもり?
そんなの日本の古代史には要らない。
九州の女酋長でもなきゃ、嘘松。 纏向は当時の倭国内では異次元に外国の影響の強い文化地域
後世のヤマト王権が仏教を受け入れる国際的感覚は纏向遺跡の時点から現れていた
ネトウヨは物部氏と共に飛鳥で生首を並べられる立場だよな 要人を招けば儀式的な事もやるだろうに竪穴式住居しかないような
広場で王が儀式をやらないでしょ 邪馬台国まで呼んでないという意見もあるな
引きこもっているのに招いても仕方ない気もする
倭王の都が倭国に一つしかないという根拠もない
記紀を見ると一人の天皇がいくつも都を作っている
魏志に書かれてないものは存在しないとする根拠もない
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
などの邪馬台国っぽい情報は別に見なくても伝聞で賄えるほどの情報量しかない
それに邪馬台国だけの特徴とも言えない
魏使は邪馬台国まで行ってない、そして邪馬台国は魏使が行くほどでもない場所だった可能性はかなり高いと思う >>102
http://sakuwa.com/p13.html
>ホケノ山古墳
>埋葬施設は、木槨と石槨からなる内外二重構造の槨に木棺を納めたものであった。 槨:棺を収納し、保護保護するための埋葬用施設のことをいう。
この「石槨」というのが現代日本語であって古代中国人のいう「槨」とは全く無関係だから
九州説は無知の作った妄想ってこと >>115
それは実に九州説らしい「倭人伝無視」だからw
倭人伝は「詣倭国、拝仮倭王」と明記 >>117
邪馬台国とは書いてないな
魏使に会うために引きこもりを解くならば、魏使に会うためにふさわしい場所に出向くことも出来る >>118
女王の都が邪馬台国にあると書いて、どっかよそに行ったと書いてないから
オッカムの剃刀で、魏使が女王に会った場所は邪馬台国にある女王の都
それが学問 卑弥呼は魏略の時代、邪馬台国はまだなかった
イヨが纏向に東遷して作ったのが邪馬台国、そのことを陳寿が魏略情報に付け足したのが魏志 奉詔書印綬詣倭國拝暇倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表荅謝詔恩
こう言った儀式をやってるし相応しい場所があるでしょ セレモニーとか式典とか言ってやってるでしょ
ちゃんと形式があるんだよ 邪馬台国=熊襲の皇国史観の認識は要らん。
まだ皇国史観が未完成だった時代の大和=邪馬台の認識のほうが真実w >>129
という証拠は?
九州説には証拠が無いことが証拠として提出されました 歴博論文が面白い。
韓の方4千里は半島の南端まで4千里、そして狗邪韓国まで3千里だから7千里であるという。
ところが、魏志東夷伝、帯方郡→月子国まで220Kmで千里であるから、本来なら狗邪韓国までは南に2千里、東に2千里の4千里で行けると指摘している。
また、帯方郡→月子国までの千里(220Km)を、韓の方4千里に合わせると、韓の南端はほぼ奄美大島の西側になってしまう。
すなわち、魏里=432mというのは倭人伝だけではなく、東夷ですら使用していなかったのだ。
よって、短里などというものは全く存在しないことが明白となった。 >>131
>よって、短里などというものは全く存在しないことが明白となった。
長里の間違いか? @阿波 >>131
何を言っているのかさっぱりわからない
特に以下の部分
>すなわち、魏里=432mというのは倭人伝だけではなく、東夷ですら使用していなかったのだ。
よって、短里などというものは全く存在しないことが明白となった。 >>133
夷狄の里数は全て観念
九服之制に則っており、すなわち魏里も短里も使ってない
単に観念 @まず(魏使が足を運んで直接見た場所と考えられる)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
そして「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)
残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです! >>135
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 わははははは @阿波 >>137
歴博による
・遼陽(遼東郡治)→集安(国内城)250km
・遼陽(遼東郡治)→桓仁(卒本)180km
・遼陽(遼東郡治)→平壌(楽浪治)330km
・撫順(玄菟郡治)→吉林(夫餘東団山城)320km
・吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )480km
・撫順→吉林→佳木斯 800km
・東団山→中興土城・黒龍江 600km
・鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km
これ全て千里
全くバラバラ 邪馬台国泥棒・畿内説の「宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」はどこなんだ?w >>136
>①まず(魏使が足を運んで直接見た場所と考えられる)里数表記の「女王国(九州)
まず、女王国(九州)が空想 実在した痕跡無し。 @阿波 >>142
あったと見るべきである
まだ2%しか調査できてない >>142
>楼観なし厳設城柵なしで
と言う証拠は? >>136
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とするための魏の希望的観測(誤り)だとすると辻褄が合いますよ。
⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg
魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)から、宿敵・孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。
⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png
※魏志倭人伝の蛇足(虚構)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
.........................↖投馬国(宮崎都萬)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖虚構 >>139
>邪馬台国泥棒・畿内説の「宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」はどこなんだ?w
九州説は? (於)投馬国も水行十日陸行一月も戸数も全部無視するのが九州説 >>138
それらの例は以下の2つの共通点がある
「公孫氏の支配していた地域であること」
「全て1里が100m未満であること」
これらは、私が主張する「魏志倭人伝前半の行程記事を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使」説、および「公孫氏は短里を採用していた」説を補強する 千人の侍女が居たのに、千二百人の吉野ケ里が邪馬台国の訳無いだろ >>136
割れ目クッキリJKの競泳水着のようにピッタリだね 以下は私の独自説
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する >>150
人口5500人だから1戸につき1人の若い侍女を招集でピッタリw 久住猛雄も以下のXのポストで「公孫氏政権」とは明言しないものの地方で短里が採用されていた可能性を認める
「地方短里は可能性としてはある。
しかしながら「1/10」はさすがに無い。
何言ってんだあー?」 魏志倭人伝で卑弥呼が下賜された五尺刀は、椿井大塚山や桜井茶臼山の鉄剣がそれに当たると見られ、
小札革綴冑は、雪野山古墳、京都妙見山古墳、西求女塚古墳、石塚山古墳の副葬品がそれに当たるであろう
銅鏡は言わずもがな、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、斜縁鏡がそれである
吉野ヶ里からは卑弥呼の下賜品と見られる物は出てない >>149
1里が100m未満の場所が1つもないけど? 吉野ケ里一帯で5400人のクニが7万戸の邪馬台国の訳無いだろ >>160
大和盆地全体で7万戸の畿内説と同じように、筑紫平野全体で7万戸(から共立)だよw >>157
>魏志倭人伝で卑弥呼が下賜された五尺刀は、椿井大塚山や桜井茶臼山の鉄剣がそれに当たると見られ、
それら全部、鉄器王国「阿波」で作られたもの。 碌に鉄器さえも作れなかった寒村畿内。 @阿波 >>162
畿内説は近畿一体+αが邪馬台国だ
都が奈良盆地なだけど >>157
>吉野ヶ里からは卑弥呼の下賜品と見られる物は出てない
しかし、「阿波」の水銀朱や蛇紋岩製鋳型が出ている。 @阿波 >>162
筑紫からは何も出てこない
何も出てこない場所に、超大国7万戸邪馬台国を置いてはならない >>136
>>145
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw
全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒とする)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。
まさに「ヤマトよ永遠に」。この千を超える洗脳スレも当然だw
「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w 吉野ケ里一帯のクニの人口5400人なんで筑紫平野全体で8000人ぐらいだろ >>158
ああ、魏里は採用されていないという記述から早とちりした
むしろ列挙された例だと魏里の誤差(測定精度の低さから誤差がかなり大きいが)のように見える 吉備特殊器台は殉葬の代用品(埴輪)の先祖
卑弥呼の墓(殉葬がある)とする時点で論理的思考力ゼロ(バカ)を自白したようなものだw 暴れ川の筑後次郎周辺に、治水してない古代にそんな大国があった訳無い >>170
と言う理由が説明できないのは
論理的思考力ゼロ(バカ)の自白 魏帝から何かを下賜されたのは難升米をはじめ30人いるから、30の遺跡または古墳を想定しなければならない
九州説ではそれすらも不可能 遠くて戸数や里程が分からない斯馬国やら己百支国やらが、すぐ近くになってしまう馬鹿九州説 >>177
斯馬国、己百支国その他の国々は何処になるの? 畿内説は、学者の定説なので、素人九州説は学者に反論する必要がある。 >>136
たしかに
魏使や張政が纏向まで行っていたら、里数表記になるはずだよねw >>169
だから、歴博は魏里など使ってないという主張
九服之制という天下観念からの里数であるという
だから、倭国では渡海すると全部千里になる >>181
隋書倭国伝
「(蛮)夷人不知里数但計以日」だからなw 里数表記は魏使が私たち(中華文明人)が足を運んで直接見た場所ですよ、ってことを同胞に報らせてるんだね!
名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。 >>180
>畿内説は、学者の定説なので
碌に鉄器さえも作れない畿内がか? @阿波 >>164
奴国は律令期の那珂郡に相当する説があり、伊都国は同様に怡土郡に比定する説が強い
奴国は旧郡一つでニ万戸に対して、畿内だけで旧郡が40以上ある
近畿一体プラスアルファならさらに郡が増える
それが邪馬台国なら奴国に対してスカスカじゃないか
そんなものが畿内説の一般的な理解なの?
アホ過ぎない? 中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国) >>189
九州説を否定するために七万戸を固定してしまい
そのせいで邪馬台国の範囲を広げざるを得なくなったマヌケ つまり畿内説は台与(13歳)以下(見た目は老人、頭脳は小学生)の邪馬台国泥棒 >>191
九州説は熊本を狗奴国にしてるから筑紫平野に限定されるしか無いだろ >>136
なるほど、卑弥呼は日見子か…
銅鏡で絹布に太陽を反射させて八咫烏(黒点)の数で吉凶を占っていたんだろうな しかも邪馬台国と狗奴国の間に斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国その他の国々があるのに、九州説は一切説明できないという >>195
吉野ヶ里の主祭殿は雲仙普賢岳を向いている
おそらく噴煙(火山活動)による吉凶占いもしていたのだろう
名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。 桃の種、カエルの骨、鍬の再利用の木製仮面が出てるじゃないか! 魏志倭人伝に「桃」の一文字が書いてあったらなぁ…orz >>195
>なるほど、卑弥呼は日見子か…
「日弥子」
昭和36年「阿波」の故・保田兵治郎氏が地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見した。 @阿波 百々襲姫のモモは桃のことじゃね?つまり卑弥呼じゃないってことだよ! 「磯輪上乃秀真国是阿波国也(舎心山 太龍寺縁起)」
天長二年、空海 教王護国寺の管長になりて三年、阿波国太龍寺縁起金剛遍照撰を修め、
「阿波国那賀郡舎心山太龍寺天神七代之内六世面足尊煌根尊降居坐磯輪上秀真国是阿波国也」と阿波国太龍寺に一文を寄せた。 @阿波 魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、
《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》
《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》
桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。
桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年
倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる
最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる 箸墓に眠る百々(桃)襲姫は、桃太郎でおなじみ吉備(特殊器台・直弧紋)の出身!つながった!卑弥呼じゃないってことだよ(魏志倭人伝に書いてあるはず)!
それで⇩これはそのまんま吉野ヶ里(人口5500人で、1戸が娘の1人を奉公人=女中として供出)のことだよ!
名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食傳辭出入。居處、宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞。 >>99
つまり3世紀に甕棺墓もしくは石棺墓だった地域が邪馬台国ということだね! >>182
歴博の九服の基準
洛陽から平壌5000里は
多分、三角関数省略wの文系暗算だが
一里260mで概ね200歩一里の
西域短里と一致する。
西域探検は漢代だが、周礼九服での
短里の存在の根拠としては成立する。
倭人伝里は、50歩一里で
5000里は、洛陽から長安。
戦国も有り、里程が定まるほどの
統一国とも、まだ言いきれない。
一歩も6尺なので、尺器指定で変わる。
始皇帝が300歩一里に定めたのは知ってる。
いずれにせよ4夷の概念図が存在して
その図面上での話である。
倭人伝里は50歩一里で話になる。
デタラメの主張なら話にならない。 >>213
2世紀末から高野槙(防腐)木棺(石槨内に安置し主体部崩壊を予防)の畿内はアウト! つまり畿内説は歴博の妄言を盲信する宗教
最終的に歴史捏造をやらかすテロ組織 卑弥呼は鬼道で王権を握るまでになったのだよ
鉄とは全く記されず原子爆弾が神と勘違いしとるアホが九州。
卑弥呼の鬼道とは何か?をまず探求せずにはいかないのだが結局結論は初期道教にたどり着くしかないのだな、これが後の神道、八角族には非常に都合が悪いと考える本居のような御用学者が居るから今日まで引き摺っているだけだな。
卑弥呼は大衆が選んだ神であり神武は神にあらせばと操作した神だわ >>214
その西域短里とかいうのも1里260mですか、すなわち魏里ですね しかし倭人伝では確かに短里が使われている
末盧(松浦)→伊都(糸島)→奴国(博多) 君らの話では今日昭和までのこの列島の辻褄が合っていない。嘘話。
親とは違う単なる一姫の墓
箸墓が卑弥呼の墓。天円地方で方地纏向の南にある天南地北。北辰北枕。魏度量衡。三種神器は剣と鏡と玉璽
倭王五王はおそらく名に阿の付く者達、故に河内は阿都。その後は八角アサガオ
間違いなく聖地は慶州羅井
レガリアは三種と百済大刀契。 青谷上寺地遺跡の109人分の惨死体はDNA分析で家族関係を持たない人たち、つまり奴隷階級ではないかという推論が上がっている
この人たちの多くは母方は弥生系だが父方のYハプロは縄文系という成分の持ち主であった
これらの人たちに家族関係があれば敵対者を族滅させたと考察することができるが、家族関係がないのなら戦争捕虜や奴隷を祭祀の生贄にしたか殉死にでもしたということだろう
大きな建築物があれば人柱になった可能性もある
どちらにしてもネトウヨが言うような父方縄文系統=支配者ということはないのである ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に【木】棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する【甕】棺墓や【石】棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸紐の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。 古墳時代のジャップは漢字が読めないから、漢字を以っての考察をしてはならない
そもそも安寧やら崇神やら雄略やらといった名前は飛鳥時代に後付けで贈られたものだからな 祇園山の被葬者は石棺、殉葬者66体(うち2体は刺し違え痕)は甕棺で、ズバリw >>226
うち2体は刺し違え痕??
単に遺体が交差して発見されただけだろ? 時代劇見すぎ! @阿波 まず邪馬台かはヤマトを連想する時点でアタオカ宗教確定だよなw >>218
歴博が基準にした洛陽から平壌5000里は、
後漢書とあったが出典は確認してない。
なぜ尚書や地理志じゃ無いのかな?
秦漢の定めた里程しかない
という幻想は、歴博が崩壊させた。
唐ならともかく
魏は統一国の中央ですら無い。
蜀呉があるのに、
西域や東夷が域外なのは当たり前。 祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
形状は方墳で、規模は東西24m、南北23m、高さ6mで、標高60m(墳丘頂部)、標高55m(墳丘基準面)である。葺石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を【楕円形に整形】した台地の上に存在する。
周辺からは埴輪(殉葬の代用品)は出土していない。埋葬主体は墳頂部中央の箱式石棺である。【石棺はあるが槨はなく】形状、規模とも吉野ケ里遺跡の【楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓】および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似する。
墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置づけられる。第7号箱式石棺墓(H7)では、石棺の両小口側(短辺側)それぞれに朱に染まった粘土塊があることから枕の痕跡と捉え(人骨は見つかっていない)、被葬者2体の頭位を逆にして同じ棺に埋葬した「差し違い2体葬」と考えられる。このような「差し違い2体葬」は当墓のほか、祇園山古墳の南に位置する祇園山2号墳の墳丘直下で検出された石蓋土壙墓でも見つかっている。 >>230
明らかに高野槙(防腐)木棺+石槨のヤマト王権前期古墳と異なる墓制だなw 甕棺は半島から熊本平野まである平原は柱にそれに掛ける大きな鏡、傍らに井
韓伝にある通りの半島鬼神信仰
初めて海を渡る、対海国がありその南を瀚海と呼ぶ
半島から名付けた国名
対馬対馬韓の国とはまだなっていない。
北九州を含む半島南域は卑弥呼以前、分裂前は古辰国の域であろう、であるから半島南が投馬だなんて勘違いが起きる、甕棺は卑弥呼登場と共に衰退するから其処から鬼道倭王は生まれないのだよ。無駄だよ
邪馬台国女王卑弥呼は帯方も戦時中にも関わらず疑いもせず案内を付け都まで皇帝に会わせ曹叡は絶賛する
それだけのことができる女性はひとりしかいないのだよ。
卑弥呼は張琪瑛である。 >>230
布留1式の祇園山「石棺無槨」が箸墓(布留0式)より新しく、ヤマト王権の傘下に入っていたとしたら、「木棺石槨」木棺+竪穴石室、吉備特殊器台(もしくは埴輪)がないとおかしいだろw >>191
九州説を否定するためじゃ無いけど7万戸なんてのは集落じゃない >>236
京都の古墳では埴輪だけ他の古墳から移植されていたケースが確認されている 魏の役人が出鱈目な距離単位なんか使うわけねえじゃん
だったら万二千里って何なの?って考えなきゃ >>243
見えてる島なんだからどう考えても千里もあるわけねえじゃん
そんな記録する訳がない >>230
箸墓(布留0)より新しい祇園山(布留1)が、ヤマト王権(前期古墳)とは似ても似つかない墓制ってどゆこと?www 魏略・・・倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
これ魏志とは書いてある事が違うね
度海千里復有国皆倭種
畿内説の根拠は史書に記録の無い作り話ばかり
・纒向遺跡の近くでたまたま発見した桃の種の年代
・同じくカエルの骨
・同じく木片
・住人の居ない大集落
・殉葬形跡の無い径150歩の前方後円墳
・南は東の間違い
さらに遺跡や出土品を意図的に100年古く編年している
つまり畿内説は韓流霊感商法詐欺と一緒 >>245
まさに木を森を見ず、劇場型歴史詐欺グループ「邪馬台国泥棒」畿内説! >>245
まさに木を見て森を見ず、劇団「邪馬台国泥棒」畿内説! >>245
クズ先生は開きメクラの論理的思考力ゼロ(バカ)と自白したようなもんだな
学芸員の分際で実名でSNSなんかやるもんじゃないw
布留式土器の出土状況(後世の追葬の可能性)や実年代に関しても抜本的な見直しが必要なようだ >>229
>秦漢の定めた里程しかない
>という幻想は、歴博が崩壊させた。
面白い冗談だが
実際は秦漢の定めた「里」しかない まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 石上神宮の禁足地から発掘されたフツノミタマと言われる剣が形状から二世期末頃のものと推測されている
このフツノミタマは日本書紀によると神武東征の際にヤマトに持ち込まれたことになっている
やはり桓霊の倭国乱の直後つまり二世期後期後半にヤマト王権が誕生したと考えるのが適切であろう
これは邪馬台国の成立と同じ時期であり、ここからも邪馬台国=ヤマト王権と同定できるのである >>245
>箸墓(布留0)より新しい祇園山(布留1)が、ヤマト王権(前期古墳)とは似ても似つかない墓制ってどゆこと?www
田舎だから ヨーロッパでは近親婚で途絶えてしまった一族があるとか 箸墓古墳と同型式の京都の五冢原古墳も4世紀ですね
箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
都合の悪い結果は公表しない主義の畿内説さんだから4年以上ダンマリ続けてる >>267
古墳は初期前方後円で
卑弥呼以降の中央派遣の国造の類か?
一大率だよ。文字出るのに残念・・・
割竹木棺は舟の海神族で姫かも?
270だと早いけど臺与も有るな?
三角縁200年代あるし。
神社の菊紋は安曇の穂高神社もだな。 いいか?
魏志倭人伝など中国の記録に残る邪馬台国と
記紀を正史とするヤマト王権は、全く別物だ
同一視している連中の主張は全て根拠の無い脳内物語がベースとなっており学術的見解なんてものは存在しない 中国の記録にはこうした遺跡が該当する記述も無い
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html >>276
東漢氏の遺構だろ
東漢氏は元楽浪帯方郡人の百済人
楽浪帯方郡人は元異民族漢人の遼東漢人
遼東人はウラルアルタイ語族で燕に併合されてから異民族中華人になった
だから文化が中国大陸の文化とは異なっていて中国文化が希薄
伝わった住居も中国大陸とは違った満州の影響も受けた中国文化が希薄な
住居になっている ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう >>279
まだ、自分の作り出したネトウヨと戦っているのですか
そろそろ成長したら? >>279
お前が東京15区の有権者だとしたら誰に投票するか答えろ >>242
朝、デタラメ距離単位を使ってたことを明らかにしたんだけど 百済は、高句麗よりも中国の影響を受け、中国風の文化が根付いていました。
と書いてるサイトもある >>276と整合するよなコレ
つまり畿内説は韓国式ウリナラ起源説
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png 歴博の論文によると、東夷伝では鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) まで千里(実際の距離220km)であるという。
他方、帯方郡から狗邪韓国までの7000里は「方可4千里」との設定から、帯方郡から半島南端までを4千里、そこから東に3千里で着く場所であるということだ。
しかし、1里が220Kmなのに、方可4千里にすると、韓の南端まで約880Kmで奄美大島の緯度になる。
すなわち、魏志韓伝ですら魏里はおろか短里なんてもってのほかだったのである。
全て九服之制に従う天下観念による里数を記したのが魏志東夷伝の実態である。 >>286の話を聞いて
1里が220mなんじゃなくて「千」里という数字が虚構なんだ
ということが理解できない人がいたら
その人は間違いなく白痴 >>286
鳳山(帯方郡治)と天安(月支国)は、現在の地名ではどこですか? >>289
Googleだと北朝鮮鳳山駅に鳳山を指定
天安は韓国天安市を指定 >>285
まだ、自分の作り出した韓国人と戦っているのですか
そろそろ成長したら? 陸行○里と渡海○里は里の長さが違うと思います。
渡海1000里は1000里
陸行1000里は100里×10
たぶん 吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )までが千里で480km
つまり、ここの1里は480m
したがって、1300里=624Km
九服之制を考えると、里数は単に観念で全く使い物にならない >>289
>鳳山(帯方郡治)と天安(月支国)は、現在の地名ではどこですか?
>>286
鳳山も天安も現在の地名だ
まったく調べない人なのか? 方可4千里の韓国
方2千里の夫餘
普通に考えると、韓国の方が4倍大きくないといけないが、夫餘の方が大きい
この時点で「里」は単なる観念であることが確実となった 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>301の頭が悪すぎる
鳳山や天安が現在の地名じゃないと思い込む脳が悲惨 わからないから使えない
なら話にならない。
九服が里の基準なのは
方可で1000里の中央洛陽から
半径500里の1服ずつ増やした方の面を
示した図面上の里程基準。
45度で水平垂直座標と1.4倍の誤差だし直線。
これに域外の概念図を重ねて
500里基準の行程を示した。
対馬方化400里、壱岐300里の丸。
行程は南4千東3千で渡海千×3水行終り
陸行南東5百里で直線ではない万5百里
倭人伝里の九服は
西洛陽~長安が5000里で東は寸足らず
北敵、南蛮にも控え目な時代だった。
これが50歩一里で、秦漢は6倍300歩。
西域里は200歩。
都の位置や王朝の都合だろ?
混ぜたら使えない。
松本清張が、投げた原因。
歴博の図面もこれ。
話にならない。 クズタケという公務員によれば
卑弥呼の墓は箸墓古墳ではなく
勝山古墳だそうだ >>308
大王クラスは平地には葬らない と、何度言えばww @阿波 勝山古墳
規模 全長約115m 後円部径約70m、前方部長約45m、周濠幅約25m
築造時期 3世紀前期-後期
径100歩でないし、 玄菟郡→夫餘の千里(320Km)は比較的古代としては的確であると歴博は言う。
景初2年、公孫淵討伐の際に明帝は問うた。
「何日かかる?」
司馬宣王は、「行くのに100日、攻撃するのに100日、帰ってくるのに100日、休憩が60日で1年です」と答えたという。 奈良湿地や河内湿地に大王クラスは葬れれない。 そこらは倭人(阿波勢力)の豪族墓 だと、何度言えばww @阿波 >>311
「隋書」
「倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」
倭国は、百済・新羅から東南水陸三千里行くと大海之中に在る。
百済新羅から倭国(阿波)まで約700km。 ∴一里=230m
これは、隋王権の度量衡での、直線距離。
中国史書の距離表示は、編纂した時代の権力度量衡で、直線距離を示しているってこと。 @阿波 >>313
周濠部からU字形木製品。
わざわざ捨てに行ったのかね 「旧唐書」
「百濟國,本亦扶餘之別種,嘗為馬韓故地,在京師東六千二百里」
百濟國は、長安から東六千二百里に在る。
長安から百濟國まで約1620km。 ∴一里=260m
これは、後晋王権の度量衡での、直線距離。
中国史書の距離表示は、編纂した時代の権力度量衡で、直線距離を示しているってこと。 @阿波 俺が見てた歴博論文は、東潮とかいう九州大卒の徳島大学教授だったわ
多分、畿内自生説系
卑弥呼は倭国王であり、邪馬台国には別の王がいたと述べている
箸墓を卑弥呼の墓と断言
久住との戦いを見てみたい >>315
箸墓の輪鐙も布留0も布留1も周濠で出たものだが? 日本の炊飯器はふたが有れば良くて
保温性さえ有れば普通の鍋だが?
蒸す炊飯?料理というのは
餅米は聞いた事あるけど?
蓋の鍋で普通に炊ける。
米と三足土器は無縁。
シュウマイと肉まん、かw
芋も旨いけど、俺は石焼きが良い。
栗でもw 蛭子命を乗せた葦舟は、物部(忌部)の郷に在る吉野川中州のオノゴロ島(粟島)の葦で作って
ここから流したのだろう。
海に浮かぶ小島では葦は生えない。 @阿波 >>317
倭国王は中国の役職で中国語なんだがなあ 東潮(あずまうしお)徳島大学教授の考えは新鮮
倭王墓と邪馬台王墓を分けている
それぞれ、難升米、都市牛利、伊聲耆、倭載斯烏越、掖邪拘ら30人以上の倭の高官達は卑弥呼とは別に、官位やお宝を与えられており、墓は別にあると当然に考えている
そうすると、倭王である卑弥呼の墓、箸墓古墳を頂点とする考えも蓋然性が高いと言わざるを得ないのである
なぜなら、卑弥呼以上に周りの高官達に官位やお宝を与えられた「王」が、倭の五王を除いては存在しないからである >>308
久住説では、
初代卑弥呼が平原
東遷後の3代目卑弥呼が纏向石塚
親魏倭王の3代目が勝山 >>320
どうした?
始まりもしなかった畿内説さん 親魏倭王が3代もいるとか斬新だな
台与すらもらえてないのに >>328
卑弥呼の在位年数を考えるとそういうのも有りな気はする
60年はおかしい >>325
久住が平原を卑弥呼の墓と言っているというデマを流すのは犯罪的です 平原が卑弥呼の墓である可能性はあるかもしれないと思っているのは高島忠平だけ >>321
おまえ鼎と鬲を勘違いしてないか?
鼎が一番一般的な炊飯器で鬲が蒸して炊飯する炊飯器で
鼎は単体で炊飯できるが、鬲は甑と蒸籠(セイロ)のセットじゃないと
蒸して炊飯できない
ただ古代は炊飯器とおかずを煮る鍋は未分化で鼎は炊飯器であるのと同時に
おかずを煮る鍋でもあった
まあ、鬲と甑のセットでも蒸して炊飯してだがな
イネやアワを蒸して炊飯するのと同時に饅頭(マントウ)や餃子、
野菜や鶏肉や豚肉や魚などを蒸して食べていた
中国は7000年前から甑があり、蒸すという調理法があった
日本に甑が半島から伝わり、蒸すという調理法が伝わったのは3C後半
中国大陸から渡来人があったなんて一瞬でも思った事があったなら、
そいつあ中卒です(嘲笑 あ、
中国は飲める水が無いから
蒸し料理になるのか?
勉強になった
豚鼻先生ありがとう。
でも、核実験以前の
昔からか?
プーさんの、
キンペに聞きてみるか? >>330
「3世紀のチクシと三韓と倭国」 久住
5.「倭国」の再成立と「卑弥呼」〜新「東遷」説〜
「前述のように 「卑弥呼」は職名ないし称号名であって、一人とは限らず、「初代卑弥呼」王墓は平原であり、T A期新相=庄内 1 式併行とした。・・・
纒向石塚が「第2代卑弥呼」王墓であろうと述べたが、その次は前方部がやや長大化して次の 箸墓築造への準備段階となった庄内3式期の勝山古墳(全長 115m 前後、図 24)が、「第3代卑 弥呼」王墓であろう。」
誰も読んでないんだな、かっわいいそうにw >>335
久住は平原卑弥呼をとってない
単に、邪馬台国への関与を示すだけである
これはTwitterで3日前に聞いた ごめん、わかった。
氷河の水でご飯炊くとジャリジャリ
だから、蒸すんだ。
日本の水には三足調理は要らない。
電気炊飯器は、
ペットボトルの水が無いと
意味がないんだろ? この全員が畿内説である邪馬台国論争に、畿内定説確定学者の論文を引用してくるのが面白い >>336
あくまでも初代卑弥呼だから(柳田説と一緒かな)
倭人伝の頃の卑弥呼は纏向の3代目ということらしい >>337
ふつうに鼎にイネと水入れて炊飯してるっての
現代の調理法から考えるな
古代は炊飯器と鍋がまだ未分化なの
鼎でイネも野菜も肉魚も何でも煮て食べるの
鬲でイネもマントウも餃子も野菜も肉魚も何でも蒸して食べるの
よろしいか
つか、おまえ現役時代、偏差値40ないだろ(嘲笑 >>335
クズタケという公務員は伊都国東遷説なのか
神武の東征や古事記や日本書紀は全く無視か 三足土器は中国の水で
食品を調理する場合
必要な水分の蒸留装置だった。
だな、納得。
インダスみたいなのは、
米や汁、煮物は無理だ。
甘栗や焼き芋も旨いけどな。 >>342
それは鬲での蒸し炊飯の事だろ
鼎はふつうに水入れて炊くの
イネだけじゃなく野菜も肉魚も鼎で煮炊きして食べるの
ただマントウだけは鬲で蒸さないと食べれないが
鬲は鼎のように単体では使えず、甑と蒸籠(セイロ)を上にセットしないと
使えないの
蒸し器だから
餃子は鼎で煮た場合、ワンタンになっちまうがな(嘲笑 日本や半島は
ヒマラヤ氷河が水源じゃ無い。
だから、砂利水を蒸留するための
三足土器は必要無い。
京大で、教えて貰ったか?
中卒の高校生からの助言だ。学べよ。 >>345
監視 中共国策工作員乙
いいや
必要がなくても渡来人があれば渡来人の故郷の衣食住に関する生活土器や生活衣類や
生活住居は1万%伝わる
伝わって必要がなければ徐々にフェードアウトして消滅するというステップを踏む
中国大陸から渡来人があれば特に生命の維持に関わる食に関する鬲、鼎、竈は
必ず伝わる
伝わって必要がなければ徐々にフェードアウトして消滅するというステップを
踏んでいるはずだ
中国大陸で8000年前に登場した竈は3Cに半島から伝わったんだが、
おまえの論理だと、すでに炉があってそれで事足りていて必要がないから
中国大陸から渡来入植しても中国大陸の鬲、鼎、竈は伝わらなかった訳だろ?
ところが、すでに炉があってそれで事足りていて必要がないのに
半島から竈が伝わると瞬く間に列島に定着した
それはなぜなのか説明してみろよ
何で?どうして?どうして?何で?
ほれ言ってみろグロすぎる汚物の南支那ブタチックアフリカーノ(嘲笑 かまどなら三足は要らないし使えない。
暖房兼用じゃないから、
いろりじゃなくて、かまど。
狩猟動物の配分のような
祭祀が必要でも無くなるが?
かまどは室内調理場だが?
家族用の弥生土器にはなる。
併用期間は、有るだろ? 京大キッドちゃん
スレちだなw ごめん。
なんで、あぼん、オワタ?
ドングリ喰うか? >>347
違うだろ馬鹿チンコロ
ただ単純に中国大陸なんかから渡来人は一切渡来入植してないから
鼎も鬲もないだけの話なんだよ
中国大陸から渡来定着あれば鼎の一つくらい伝わるはず
で、必要なければ徐々にフェードアウトして消滅するというステップを
踏んでいるはず
それなのになぜ鬲鼎がないのか?
ただ単純に中国大陸から渡来定着なんか一切なかったからに他ならない .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 道教、鬼道で供えられたと云われる桃。
平成22年、邪馬台国の中心地とも言われる奈良県纏向遺跡から、
2,765個のモモの種(桃核)が出土したことが報じられましたが、
実は岡山県でも約10,000個ものモモの種が弥生時代の遺跡から
見つかっているのです。 倭人伝では、
卑弥呼が. 統括する邪馬台国(連合)は、鯨面文身の習俗がある地域に
所在していると考えられる。
日本で一番、鯨面土器が出土する地域が吉備国のあった岡山県なんです。 弥生時代後期に吉備地方で発達し葬送儀礼用の特殊な土器がある。
特殊壷形土器・特殊器台形土器と呼ばれる円筒埴輪である。
これらが卑弥呼時代に纒向地域から突如出土しだすのである。
まるで、吉備地方にあった政治権力中枢が纒向に移動したかの様である。 卑弥呼時代ころより国内生産が始まった三角縁神獣鏡が
奈良県を中心に古墳より大量出土する。 卑弥呼は鏡貰ったけど大量生産したとは書かれてない
むしろ鏡が貰えなかった東の倭種が自分たちで作って代用したのでは 240年から正始までの年記鏡を
九州の卑弥呼以外が作る理由は何?
200年代に畿内で銅鏡作ったかな?
古墳作ってみませんか?
だろ? 中国には東方の海を越えた先に楽園があると言う伝説があって
大陸で動乱があるたびに難民が列島に渡来してきてる節がある
楽浪帯方群が動乱に巻き込まれたときに
難民と化した鏡職人が東方の楽園目指して畿内にたどり着いたのかもね >>359
中国大陸から入植した考古痕跡など一切ない
中卒相手に吹かすな南支那ブタセロウ >>357
国名も魏に知られていない東の倭種が魏の技法で独自に銅鏡を作るって可能だと思う? 楽浪の、さざなみのは滋賀や大津の枕詞
国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究では奈良滋賀で一つのグループを作っていた
ちなみに京都大阪は東北グループ、奈良グループ、東海グループの混血
鏡なすは思うや見の枕詞
思兼と関係があるかも
阿智 畿内に吉備の影響が強くあった事は全くなんも否定してないから
遺跡から認めなきゃしようがないし何を意味するのか興味深い 畿内説の人たちが大きく勘違いしてることのひとつに
卑弥呼が貰った鏡を配ったというものがあるが
魏志倭人伝にはそのようなことは一言も書かれていない
魏志倭人伝に書かれてる魏帝の指示は
お宝を見せびらかして魏から大事にされてることを自慢しなさい
そうやって魏の後ろ盾を吹聴しつつ自国民が反乱など起こさないように努めなさい
なので、貰ったたくさんのお宝を見せびらかして自慢したかもしれない
西の女王がそんなことをやってる噂を聞いた東の倭種の大酋長は
何を思ってどういう行動に出るかな 出雲、吉備辺りまでは太古から邪馬台国連合に入ってるでしょう 弥生時代後期、吉備は龍の絵画土器が集中している場所の一つ
その後倭国大乱
吉備の歴史も複雑
備前と備後は違うだろうし
蘇民将来の娘1人残してスサノオに全滅させられた話が備後国風土記逸文にある
鞆の浦辺りが瀬戸内海の港がある要衝で、アナの地 邪馬台国連合の記述はない。
女王国と女王境界所盡である >>364がパクリ商品ばかり作っておいて「こっちが起源だ」と言うのが好きな国のひとの発想でワラタ 出雲は元々大阪と関係が深い
大阪も出雲も弥生時代前期から鳥形の地
松江の西川津遺跡の樫の鳥形と同じ形の鳥形が青谷上寺地遺跡、大阪の亀井、雁屋、池上曽根遺跡から見つかっている
加茂岩倉遺跡の銅鐸は葛城の上牧、堺の陶器、和歌山の太田黒田遺跡から見つかっている 大阪は大阪湾の水運の重要な拠点でしょう
そこには淀川や大和川も含まれる >>368
残念だが三角縁神獣鏡は魏の鏡ではなく国産の鏡なんだ
諦めよう >>361
わーくにの産業を支えているのは名も知られぬ中小企業の熱いモノ作り魂なのだぞ。
風の中のすーばるー♪ >>371
理由をひとことも言えないのが九州説の特徴 中国で出土せず日本で何百枚も出土するのに中国産と言い張る畿内説 >>374
三角縁神獣鏡が国産だとしても魏から貰った鏡がそれと似てる可能性はある
有難みが有るから各地の豪族は欲したんだから 出張鏡職人が各地の古墳造営キャンプに出向いては
見本の鏡をずらっと並べて見せて受注生産してたんだろうな
渾身の自信作をお薦めしたりしてたのだろうか 三角縁神獣鏡が畿内に次いで多く出るのが福岡、次が吉備 4世紀にもなると流行も広がりを見せるようになるのだなあ 楽浪あたりになぜか呉人の鏡職人がいて
それが日本に逃げてきていて
来日してから何十年も後に突然仏像を作るとか
不自然に不自然を重ねた設定を捏ね上げるのが
国産説
だから学者がいない >>379
違うな。
わーくにの職人が何の知識もノウハウもない所から血のにじむような試行錯誤を重ねて作ったんだよ。
気がついたら魏鏡より高品質なモノができちゃってたのもわーくににありがちなこと。
全てが済んだあと、ヒミコが、静かに言った。
「苦労をさせてしまいましたね…もう、止めてもいいんですよ」
暫くして、職人は言った。
「また、呼んで下さい」
(声:田口トモロヲ)
かたぁーりつぐぅー ひとーもぉなくぅー♪ >>377
>三角縁神獣鏡が畿内に次いで多く出るのが福岡、次が吉備
それは、」倭人(阿波勢力)の進出頻度によるもの。 @阿波 王仲殊は、広峰15号の景初4年斜縁鏡を「三角縁神獣鏡」と呼んでいる
中国のプロですら、斜縁(ななめぶち)と三角縁(さんかくぶち)の区別がつかないレベルだ
斜縁鏡は、中国では華北東部、半島、日本で出るが絶対数は多くない
三角縁神獣鏡が卑弥呼がもらった銅鏡でなかったとしても、斜縁鏡が三角縁神獣鏡のルーツ(ハルキー氏) 魏から下賜された鏡は、画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡。 このどちらかだろうね。
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
または、同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡 @阿波 >>373
紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。 調べてみると、中国からも「三角縁」自体は出ているようだ
ただし、三角縁盤龍鏡
山東省嘉祥県の墓から出土
王金林教授は、後漢末期の鏡としている
同じく、三角縁盤龍鏡は平壌市大同からもいくつか出土しているということである 朝鮮半島出土の同向式神獣鏡(伝楽浪大同江面) と
徳島県鳴門市萩原1号墳の画文帯神獣鏡 とは、同笵鏡である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>387
伊聲耆、掖邪拘らその他6人の率善中朗将の官職に任命された倭高官の墓だろうか?
あるいは、倭載斯烏越の墓か?
いずれにしても、阿波にも纒向邪馬台国の中枢にいた人物がいたことは確実 >>389
理由が言えないのは、ただのダダコネ
つまり子供レベル >>385
もう死んだ昔の人の意見ばかりなうえ
どこにも「国産である」という根拠は書いてない
残念でした >>388
>纒向邪馬台国の中枢
夢を見ているのか? 碌に鉄器さえも作れない纒向邪馬台国ww @阿波 島根大学の教授も、シンポジウムで三角縁神獣鏡が卑弥呼がもらった鏡と言ってた
若い人で見た目40〜49歳ぐらい
ただ、100枚の中に画文帯神獣鏡も入ってるかもしれないとも言っていた >>393
たぶん彼は
大事なのは真実ではない、畿内説が勝つことなんだ
という信念の人なんだよ >>393
>根拠は書いてあるが
どんな根拠?
それ、ほかの人には見えない >>390
その理由が言えないのは、ただのダダコネ
つまり子供レベルの畿内説 >>396
仕上げが雑で中国から贈られたものじゃないと書いてある >>398
>仕上げが雑で中国から贈られたものじゃないと書いてある
「仕上げが雑」だというのと
「中国から贈られたものじゃない」というのは
論理的な関係がないから
根拠のない印象が書かれているだけですけど 神獣鏡自体は後漢のデザインだとしても
300年で日本に仏獣鏡が伝わっていた
というのは凄い。知らなかった。
中国でも西域探検時代~後漢では
まだ、神仙の一人の扱いだった。
中国仏教としての成立、隆盛は
300年以降の教典翻訳からである。
まあ、
古墳時代なので当たり前かも?だけど
日本に神獣の意味が伝わってたか?
漢字有るし? そもそも当時は中国産の原料しかない時代の銅鏡だからいくら成分を調べてもどの時代の中国製品を溶かして作られたものなのか、ぐらいしかわからない
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/ >>397
>その理由が言えないのは、
「その理由」って、何の理由?
九州説さん、また文として意味をなさないオウム返しですか?
それって事実上の敗北宣言になるんですよ 畿内で多々発見されてる銅鐸も調べれば全て中国産となってしまう >>403
まだ日本語を習得できないのかい?
キナイコシは日本に来て何年だ? >>402
その研究をした人の結論は
「『国産』と思われていた鏡も国産じゃなかった」
なんですけど >>405
そうやって罵るだけになるのは論破された人な証拠 >>406
調べた人はコテコテの畿内説だからお察し >>404
>畿内で多々発見されてる銅鐸も調べれば全て中国産となってしまう
九州説さん、また理由が無いですよ >>400
雑なもの周辺国に贈ってないと書いてあるだろ >>408
つまり、九州説の人は何も調べない
たぶん彼らは
大事なのは真実ではない、九州説が勝つことなんだ
という信念の人なんだね >>410
>雑なもの周辺国に贈ってないと書いてあるだろ
それが根拠のない印象でしょ?
つまり学問ではない >>412
おまえ何言ってんだ?
確実じゃなくても根拠にはなってるだろ?
因みに俺は九州説ではないぞ 三角縁神獣鏡の鋳型が無いのは何故なんだろうな?
中国人が日本向けに作って売りに来てた? >>402
舶載鏡仿製鏡の区分が意味をなさないという研究か
古墳ごとに加工跡が違うという研究と合わせると面白いことになりそうだな >>411
頭悪すぎw
成分や時代が異なる銅鏡において鋳型が同じものである事例が確認されたわけ
これは成分などいくら調べても何も特定出来ないという事だ
こんな簡単な話でもキナイコシには難しいのか?w >>402
シワが一致って、その写真
普通に見てデザイン違うだろ?
雑な、複製? コレひど。
4つ、並べて見たんだろうけど? 中国の鏡は実用性を重視してるから紐を通す穴の加工は大切
ギザギザがあったら紐がすぐ切れてしまう
そして墓に副葬する時は生前に使っていた鏡だから
馬鹿みたいな大きい鏡は副葬されてない
でも日本は
墓に鏡を副葬するのが中国の貴人の風習としか理解しないから
紐を通す穴の加工は雑、なんなら穴自体塞がっていても構わないレベル
そして生前に使っていた鏡ではないから大きさ自慢に走る >>417
>頭悪すぎw
鋳型の使い回しがあるって研究成果は、成分分析による生産地特定となにも矛盾しないけど? 中国で唯一出てきた三角縁神獣鏡
洛陽の骨董市で売られていたもので、出土場所は不明
これを市で買って保有する中国人研究者/コレクターは「日本の三角縁神獣鏡」と言っており、彼自身中国鏡とは思っていないようだ
以下、朝日新聞2015年3月2日の記事「卑弥呼の鏡?三角縁神獣鏡」より
「邪馬台国の女王・卑弥呼がもらったとも言われ、製作地を巡り論争が続く謎の鏡・三角縁神獣鏡(注参照)これと同じ型式の鏡が中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が、地元の研究誌に掲載された。
論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さん。王さんは鏡について「2009年ごろ、当時、洛陽最大の骨董(こっとう)市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明する。正確な出土地点はわからないという。
鏡は直径18.3センチ厚さ0.5センチ三角縁神獣鏡としてはやや小ぶりで、内側に西王母(せいおうぼ)と東王父(とうおうふ)という神仙や霊獣、外側にノコギリの刃のような鋸歯文(きょしもん)と二重の波状の模様を巡らせる。」
「今回発見された「三角縁神獣鏡」の最大の特徴は、今まで中国の鏡では確認されていなかったような「笠松文様」がある点だ。三角縁神獣鏡独特のもので、王さんは、「外側の鋸歯文も日本の三角縁神獣鏡の典型的な特徴の一つ」と主張する。」 >>419
それも
「仕上げが雑」だと
「中国から贈られたものじゃない」という
根拠になってないですよね? >>420
お前には理解出来ないというのはよくわかったから >>415
>古墳ごとに加工跡が違うという研究と合わせると面白いことになりそうだな
ならない
最終のミガキは埋葬直前でおかしくないから >>423
>お前には理解出来ないというのはよくわかったから
それ、あなたがいつも論破されてスゴスゴ逃げるとき
いつも言うセリフですよね
他人に説明できないってことは
あなたが理解してないって証拠です >>422
紐穴が雑、鏡面仕上げが施されていないもの
これらは実用性のない副葬専用品と言われている
中国がそんなイミテーションのような雑貨を授けると思うか? >>425
いやいやお前が理論を理解出来ない思考回路だからどうしようもないだろw 三角縁神獣鏡を中国鏡などと主張するのは、世界中で日本の一部の畿内説学者だけだ
三角縁神獣鏡を中国鏡と考えるべき合理的根拠は完全にゼロだが、日本の畿内説学者だけは邪馬台国=ヤマト王権の結論(根拠はない)からの逆算で全ての論を組み立てるので主張が著しくガラパゴス化している >>424
鏡職人が古墳造営キャンプに出張ってたのか!すごい発見来たな 中国出土0枚
日本出土600枚以上
これで中国産とか言い張るのは考古学的にアウトじゃないんか >>421
とうとうでたね。。。
邪馬台国洛陽説w
複製して箸墓に埋めとけよ。
卑弥呼が中国に贈った鏡だ。 銅鏡A:成分分析結果や形式から1世紀の船載鏡と推定
銅鏡B:同様にして3世紀の国産と推定
↓
しかしAとBは同じ鋳型が使われていた
↓
・昨今の畿内説の主張
三角縁神獣鏡をSpring8で成分分析した結果、中国産であると判明したニダ!
だったら銅鐸も中国産ニダ!と発表しろよw
つまり畿内説の思考回路は韓国製w
・正常な判断結果
国内の鋳型で様々な時代の青銅品をリサイクルして副葬品を製作していた >>421
>これを市で買って保有する中国人研究者/コレクターは「日本の三角縁神獣鏡」と言っており、彼自身中国鏡とは思っていないようだ
ガセネタ
保有者王趁意氏は「私はこの鏡が三国時代の魏の鏡だと認識し」(田中勝 訳)と書いている >>430
>これで中国産とか言い張るのは考古学的にアウトじゃないんか
考古学者の多数説ですけど ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に【木】棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する【甕】棺墓や【石】棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+(【斜縁】に銅鐸紐の鋸歯紋▲▲▲を入れた)【三角縁】神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。 >>433
文句は朝日新聞に言ってくれ
「日本の三角縁神獣鏡」と発言したと書いてある ちなみに9割の古墳が盗掘済みであるにも関わらず600枚もの三角縁神獣鏡が発見されている
発見される確率的に見ると当時国内で数千枚は流通していたと考えられる
多くの過去の墓を盗掘し、副葬されていた青銅品をリサイクルして三角縁を大量生産していた可能性もある >>426
>これらは実用性のない副葬専用品と言われている
>中国がそんなイミテーションのような雑貨を授けると思うか?
結局は印象論のゴリ押しですね
しかし実際には、中国皇帝は副葬専用品を下賜してます >>430
と、言うよりも
これ△以降、ありがたがって、
中国から輸入する奴が、馬鹿だろ?
大流行だよ? >>439
その理屈だとトヨタが国内で国産高級車レクサス販売網を構築してるのに、わざわざベンツやBMWなどの欧州製高級車を有り難がって輸入する奴がバカだろ?って理屈になるがw >>436
>文句は朝日新聞に言ってくれ
>「日本の三角縁神獣鏡」と発言したと書いてある
「日本製の」と書いてないので文句を言う必要はありません
「日本で出土している」の意味ですから
朝日新聞は「日本の三角縁神獣鏡の典型的な特徴」を備えた鏡だという本人の言葉を伝えています
つまり、あなたが朝日新聞の記事を歪曲しているのです
そして発見者本人は「魏の鏡」だと言っています 三角縁神獣鏡が日本で人気があったのは間違いないでしょう
じゃあその理由は何かって事だな >>437
>多くの過去の墓を盗掘し、副葬されていた青銅品をリサイクルして三角縁を大量生産していた可能性もある
その可能性がないことを
Spring-8の分析結果が証明しました >>441
ん?
日本の三角縁神獣鏡と本人が言ってるじゃん
ごちゃごちゃ言っても結論は同じ
で、発表者本人が「魏の鏡」と言った証拠は? 本場中国からは1枚しか出土せず、日本でゎすでに600枚以上出ている(ということは、ゴキブリ1匹見たら100匹いると思えで、6万枚以上10万枚くらい流通か)古墳時代のヤマト王権が大量に生産&配布していた三角縁神獣鏡は、高度成長期から1家(田舎では1人)に1台となった国産車に喩えると判りやすいかも。
当たり前のように普及したからこそ、逆に欧州輸入車のステイタスが上がると。 >>443
製造過程で混入する中国特有の異物があればそうだけど本当にそうなのか? >>435
ホケノ山古墳に「槨」は無いよ
現代日本語の槨は三国時代に中国人の言葉とは全く意味が違う >>422
なるよ
中国は鏡を贈る相手の地位によって紐の色を変える
冠位十二階みたいなもの
つまり鏡と紐はセット >>447
ホケノ山古墳
http://sakuwa.com/p13.html
埋葬施設は、木槨と石槨からなる内外二重構造の槨に木棺を納めたものであった。
槨とは棺を収納し、保護するための埋葬用施設のことをいう。
石槨というより、むしろ棺の材質だよ。木棺なら有槨、甕棺もしくは石棺なら無槨 中国に冊封された北部九州(倭国)に対抗して、大和・吉備・丹波・東海・北陸の有力者が集まって、独自の新たな墓制(前方後円墳)や銅鏡(三角縁神獣鏡)を使った共通の祭祀を行う緩やかな連合体を形成したのだろう
これに西日本各地と交易関係にある福岡の有力者の一部が商売上の付き合いで軽く参加したようだ 祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
形状は方墳で、規模は東西24m、南北23m、高さ6mで、標高60m(墳丘頂部)、標高55m(墳丘基準面)である。葺石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を【楕円形に整形】した台地の上に存在する。
周辺からは埴輪(殉葬の代用品)は出土していない。埋葬主体は墳頂部中央の箱式石棺である。【石棺はあるが槨はなく】形状、規模とも吉野ケ里遺跡の【楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓】および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似する。
墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置づけられる。第7号箱式石棺墓(H7)では、石棺の両小口側(短辺側)それぞれに朱に染まった粘土塊があることから枕の痕跡と捉え(人骨は見つかっていない)、被葬者2体の頭位を逆にして同じ棺に埋葬した「差し違い2体葬」と考えられる。このような「差し違い2体葬」は当墓のほか、祇園山古墳の南に位置する祇園山2号墳の墳丘直下で検出された石蓋土壙墓でも見つかっている。 >>444
>日本の三角縁神獣鏡と本人が言ってるじゃん
>ごちゃごちゃ言っても結論は同じ
また嘘をつき続けるのですか?
>で、発表者本人が「魏の鏡」と言った証拠は?
河南博物館 刊「中原文物」2014/12に掲載された王趁意氏の論文「洛陽三角縁笠松紋神獣鏡初探」 >>452
箱式石棺は中国語でいう「棺」ではない日本独特のコトバ
なので祇園山は「有棺無槨」には非該当 >>434
つまり多数の考古学者が発掘状況からわかることじゃなく結論を固定してからあーだこーだ言ってるんだな >>448
>中国は鏡を贈る相手の地位によって紐の色を変える
証拠は? 黒塚古墳だっけ?
大量の三角縁が棺の外側の隙間に差し込んであったのは
そんな副葬の仕方は他の古墳では見られない
たいていは棺の中に副葬する
吉野ヶ里の日吉神社下で発見された甕棺からは絹の衣、漢鏡、ゴボウラ貝の腕輪、女性の遺骨が出て中国の学者はそれが卑弥呼だと言っていた
それを難癖つけて意地でも認めない畿内説って宗教だろ >>454
中国に無いのであれば誤認した可能性はある
そもそも見てないだろうし >>459
220年、英雄曹操は病のため死去し、魏武王と諡され、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。
そして曹丕は献帝から禅譲を受け、土徳の王朝のため、火徳であった後漢の都の雒陽の名を洛陽に戻して都とし、魏の皇帝となった。そして父曹操に太祖武皇帝と追号した。また、後漢の献帝を山陽公とし、後漢の諸侯王はそれぞれ崇徳侯に降封した。翌年に蜀の劉備も対抗して(漢の)皇帝を称し、さらに229年には呉の孫権も皇帝を称し、1人しか存在できないはずの皇帝(天子)が3人並び立つという、かつてない異常事態になった >>459
卑弥呼は朝貢を出すずっと以前から共立女王なんだが?
女王となる以前から多くの民衆に支持される巫女だったわけだが、その頃の卑弥呼は鏡を持っていなかったと思う理由は?
確か中国の学者は卑弥呼は巫女の間で代々継がれてきた漢鏡などを使っていたはずだと推測していたよな
魏から貰った鏡を自分の墓に副葬させるというのも考えにくい
枚数からしておそらく配布用だろう >>457
>そんな副葬の仕方は他の古墳では見られない
>たいていは棺の中に副葬する
九州説さん、証拠は? >>460
つまり我こそが漢の後継であると公言してたって事か? 本場中国では1枚、日本ではすでに600枚ということは6万枚以上流通していたと見られ、しかも一つの墓から大量に出土する▲は、卑弥呼の「銅鏡百枚」ではないだろう >>462
考古学的常識であり奈良と滋賀だけ棺の外に副葬されている例があるというのも多くの学者が知っているはずだが?
自称学者は知らんのかもなw >>463
劉備玄徳は前漢の劉邦の血を引いているから正統なんだが、重臣に過ぎない英雄曹操(孫の明帝曹叡)はだからこそ逆に後漢の正当性をアピールしようとするのではないだろうか? >>465
何のために貰ったと考えてるんだ?
自分で使うものならそれこそ鉄鏡のような特別仕様の物を一枚貰えば済む話だろ >>457
>吉野ヶ里の日吉神社下で発見された甕棺からは絹の衣、漢鏡、ゴボウラ貝の腕輪、女性の遺骨が出て中国の学者はそれが卑弥呼だと言っていた
それが学者だったらレベル低すぎだろ中国
いつの時代の墓よソレ >>466
>考古学的常識であり奈良と滋賀だけ棺の外に副葬されている例があるというのも多くの学者が知っているはずだが?
そんな常識ありませんけど?
証拠は? 本場中国では1枚、日本では600枚出土だから、古墳時代前期の4世紀に三角縁神獣鏡は10万枚以上流通していたとみられる
卑弥呼が貰った「銅鏡百枚」とするには無理があり過ぎる >>472
何故需要があったのか考えると全く別の鏡ではないと思うけどね >>469
グローバル基準で日本の学者より遥かに賢い連中だが?
独自の屁理屈で意固地になってるのが日本の考古学だ
それも有名な話だよな?w
残念ながら今どきの日本で賢い奴が考古学を専攻することもなく必然的に底辺の寄せ集めになってるわけでw >>471
知らないのは単にお前が無知なだけ
しまいには前方後円墳が古墳の始まりだとか言い出すんだろw 魏には倭に百国あるという認識がある
その中で通ずる(交流できている)国は30国だと書いてある
もしかすると下賜された鏡の枚数は記録されておらず、陳寿が百国分渡したと推測して百枚と記述したのかもしれない >>466
その二つの県で製造してたのかもね
「これ穴開いてないぞ」
「墓に埋めるだけだし良いよ」 景初三年鏡。
おそらくこれが筑紫邪馬台国女王卑弥呼が貰った「銅鏡百枚」で、266年台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」の箸墓を中心に副葬されたのではないだろうか? >>478
しかし景初三年鏡が発見されたのは出雲付近なんだよな
そこで出土したというわけではないが 「銅鏡百枚」は全部同じでゎなく、⇩このようなランク付けがあったのでゎないだろうか?
「景初三年」画紋帯神獣鏡…Sランク王20枚
「景初三年」三角縁神獣鏡…Aランク王30枚
「景初三年」斜縁神獣鏡…Bランク王50枚 卑弥呼が貰った「銅鏡百枚」
現在まで発掘された各種600枚以上の中にそれはあるのか
あるとすれば、どの銅鏡なのか?
それともまだ一枚も発掘されていないのか >>456
>>385
学者の意見が証拠にならないなら
畿内説にも証拠ないぞw >>474
>グローバル基準で日本の学者より遥かに賢い連中だが?
証拠は?
賢い人が、そんなとんでもなく時代を間違える? >>480
う〜ん、実に面白い!
邪馬台国論争が一段と活発になりそうだなw >>483
>噓じゃないよ
>記事読めよ文盲
でも、真っ赤な嘘だよね?
朝日新聞は彼自身中国鏡とは思っていないなどと書いてないし
本人は魏の鏡だと書いている 日本人の中でも一際低能な考古学者の発した作り話を信じてやまない理由は何なんだろう?w ちなみにメディアの記者というのもたいていは底辺の執筆バイトだからなw >>481
あるだろうが、「どれかわかりません」状態 >>488
その人の考えは別に信じて無いけど発掘で発表されてるのは信じてるよ
だって自分で確かめようがないでしょ? >>482
>学者の意見が証拠にならないなら
誰の意見でも、意見は証拠になりません
調べた結果が証拠です
ましてや森浩一の意見でしょ?
デタラメですよ
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。」
ほら
印綬の制度の話を鏡にすり替えてる >>480
金印紫綬・銀印青綬・銅印赤綬があるくらいだから、「銅鏡百枚」には少なくとも3種類はあったと思われ 中国では鏡に付けられた紐の色が重要だったらしいから、紐を付ける穴が綺麗に仕上げられてるのが、おそらく中国製 以前、ヒッグス粒子の件で世界中のメディアで大いに盛り上がって特番が大量に報道されたがすぐに火が消えたの覚えてるか?
低能学者や無知なコメンテーターなどが見当違いな解釈を広めてるとヒッグスさんが激怒したんだよ 吉野ヶ里の日吉神社下で発見された甕棺からは絹の衣、漢鏡、ゴボウラ貝の腕輪、女性の遺骨が出て中国の学者はそれが卑弥呼だと言っていた
例えばこれは出土した事自体は疑っては居ない
ただ何故漢鏡なのに卑弥呼なのか疑問には思う >>488
>日本人の中でも一際低能な考古学者の発した作り話を信じてやまない理由は何なんだろう?w
考古学者を理由もなく罵倒すれば
都合の悪い調査結果が消えてくれると思う九州説信者が
日本人の中でも一際低能 >>494
>中国では鏡に付けられた紐の色が重要だったらしいから、
証拠は? >>494
そういや金印に付いてる蛇紐は「南」を意味するんだよな
南方の国に授ける物だから蛇をモチーフにしたのだろうと >>480
中身は全部同じ「神獣鏡」だよ。
あとは「額縁」の工芸技術でランク付け(S画紋帯→A三角縁→B斜縁)して明帝から下賜されたんジャマイカ? >>496
卑弥呼が後漢時代すでに巫女だったからだろ
朝貢して鏡を貰ってから巫女や女王になったわけではないから >>501
魏の皇帝から貰った鏡を何故埋めないのかおかしいだろ? >>495
>以前、ヒッグス粒子の件で世界中のメディアで大いに盛り上がって特番が大量に報道されたがすぐに火が消えた
以前、吉野ヶ里で石棺が見つかって、調査前で何も情報がないのに卑弥呼の時代だ卑弥呼の時代だ大発見って大量に報道されたがすぐに火が消えた 吉備特殊器台(殉葬の代用=埴輪の祖先)に殉葬なし
纏向大型建物に楼観なし厳設城柵なし 畿内説は一切触れようとしないが、卑弥呼は共立女王となって50年ほど経ってから朝貢を出し魏との交流を開始した
そしてすぐ狗奴国に戦争を仕掛けられ、その最中に死去した
これは邪馬台国連合が廃れた終末期の話だろ?
卑弥呼時代は異常気象による飢饉に見舞われるなど受難の時代でもあったわけで、決して平和で優雅な時代ではない
畿内説が思い描く卑弥呼時代は全くの見当違いだ >>505
>そしてすぐ狗奴国に戦争を仕掛けられ、その最中に死去した
という根拠は? >>503
その二例に全く関連性なし
また頭の悪さを露呈したなw 考古学者の考えなんか別に信じなくて良いけど
発掘されたものを信じないとなると都合のいいもんだけ信じるって事だからなぁ @まず(魏使が足を運んで直接見た場所と考えられる)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
そして「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。
狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)
残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qで恐ろしいほどピッタリです! 証拠【しょうこ】
裁判をするには,まず,当事者が主張する事実の存否を確定することが必要であり,この事実の存否について裁判所に心証を得させる資料をいう。近代国家では,公平な裁判のために,事実認定は必ず証拠によるべきものとされ,この取調べを証拠調べという。訴訟法上,証拠という言葉は,取調べの対象となる有形物(証人などの人証や文書などの物証)をさす場合(証拠方法),裁判所が取調べによって感得した資料(証言・文書の趣旨など)をさす場合(証拠資料),裁判所が取調べによって確信を得た原因をさす場合(証拠原因)にも用いられる。有形物が証拠方法として用いられ得る適性を証拠能力といい,民事訴訟では証拠能力に制限を認めないのが原則であるが,刑事訴訟では自白と伝聞証拠に大きな制限を設けている。証拠は,人証・物証のほか,犯罪事実の存否を直接に証明する直接証拠と間接に証明する間接証拠(情況証拠),本証(罪証)と反証などに分けられる。なお証拠調べは,民事訴訟では原則として当事者からの申立てによるが,刑事訴訟では職権でも行われる。 >>509
結果がどうなったか書いてないけど
しかも後継が台与だし卑弥呼の威光健在だよ 洛陽の骨董市で三角縁神獣鏡を手に入れたコレクター王趁意氏が書いた論文「洛陽三角縁笠松紋神獣鏡初探」(中原文物2014年第6期)の平松健翻訳文を読んでみた
以下の部分で洛陽から発見されたから王氏は魏の鏡と考えているそうだ
しかしながら、洛陽から「出土」ではないため論拠は甚だ希薄だ(なお、出土場所は不明)
「これは神獣鏡ではあるが、特別の装飾紋、神と瑞獣がいる点、鋳造製作工芸の風格、出土の特徴、特に銘文の書体等、各方面から総合的に判断して、同時期に呉(国)の各種の神獣鏡とはどれとも相当な大差がある。これ故私はこの鏡は三国時代の魏の国の鏡であり、上限は三国時代早期とすることはできず、下限は西晋時代の晩期とすることはできない。この鏡は洛陽で発見され収蔵されたからである。 」
また以下の部分では、ずいぶん日本の考古学界のことを慮っていて何とも違和感を禁じ得ない
誰か日本に黒幕がいないか?と勘繰りたくなる
(続く) ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とする魏の認識(誤り)だとすると辻褄が合いますよ。
⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg
魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)で、宿敵・孫権を牽制してくれようとしている可愛い東夷という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。
⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png
※魏志倭人伝の蛇足(魏の誤識)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
.........................↖投馬国(宮崎都萬)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖誤認 >>510
ちょっとズレてるぞ?w
纒向の発掘調査で柱穴や桃の種が発見されたのは事実だよ
しかしながら柱穴と桃の種が同時期のものだという証拠はない
さらに桃の種は柱穴とは時代の異なる遺構から発見されたものだ
つまり発掘調査の結果は
「建物と桃は同時に存在していなかった」というのが正しい >>509
>史書に記された記事の時系列順だろ低能
だという証拠は? (続き)
「 この鏡は日本の学会で認定されている日本三角縁神獣鏡の6大条件(注5)と比べて見て、直径標準が20センチ以上という条件には直径17センチでやや小さいことを除けば、他の五条件は完全に具備しているのみならず、二本の珍しい笠松文様までがあるのである。以上のようであるが、現在の時点ですぐに日本の三角縁神獣鏡と決定するには時期尚早と私は考えている。中国において一面の日本の三角縁神獣鏡を探し当てた、これはまさに日本の考古学会の百年の夢であり、この洛陽三角縁笠松鏡はその夢を占うものではないだろか。」
「今後私は日本の三角縁神獣鏡と関連して、洛陽三角縁笠松鏡の流行地域、魏鏡の是非、その銘文の文字の特徴、神と瑞獣装飾の工芸的特徴、あるいはこの鏡の金属構成の特徴、最重要課題はすでに五〇〇面以上出土している日本の三角縁神獣鏡との対比、どのように洛陽三角縁笠松鏡の時代の線引き5 をするか、学術分野の問題、逐一研究探索論証したい。 洛陽三角縁笠松鏡が国内で発見されたことは研究上、日本の三角縁神獣鏡の千古の謎を解き明かすものであり、これは重大な突破口である。この鏡は日本の三角縁神獣鏡の謎を解く一個の鍵であり、この発見は日本の三角縁神獣鏡研究に新しい一輪としての推進力を持つであろう。」 >>513
卑弥呼と臺与の間に男王時代があるだろ
その男王が卑弥呼と不和だった狗奴国の男王だとしたらどうよ?
その後継の臺与は狗奴国側が推薦した巫女かもしれない >>516
そこも俺にはわかんねえのよ
何故それを調べたのか?
何を調べるのが適切なのか? >>516
>しかしながら柱穴と桃の種が同時期のものだという証拠はない
>さらに桃の種は柱穴とは時代の異なる遺構から発見されたものだ
という証拠がないから
あなたの捏造情報ですね つまり畿内説は推論を述べる脳すら無い
単に畿内説という呪文を唱えたり、証拠は?を繰り返すだけのBOTよ >>519
後継者が居ないんだから争いも起こるだろうよ
それでもやむなく13歳の台与を王にしたんだから >>518
メチャクチャ日本の考古学界にラブコール送ってるなw 邪馬台国には4人の王がいた。
T卑弥呼→U更立男王(国中不服)→V台与→W複立男王(並受中国爵命)
これらのうち、W複立男王がヤマト王権初代大王(箸墓の被葬者)であることは間違いない
>>504
その上で、TUVがどこに都していたのか?さぁ、議論をしようではないか? >>521
畿内説の学者も認めてる事実だが?
そして「建物を取り壊した後に土坑を掘って桃を埋めたんだろう」と適当な作り話をして終わった >>526
おまえか考古学の発表のどっちを信じるかって話しだからな
とにかく何が正しいか俺にはわかんねえ >>523
臺与の時代になりようやく平和が訪れたと記されている
つまり卑弥呼時代からそこまでの間は平和じゃなかったわけだ
畿内説がでっち上げてる城柵すら無い無防備な纒向御殿何てのは理由なき妄想という事だ >>528
卑弥呼の時代の事なんて書いてねえから
そもそも俺は内輪もめだと思ってるから >>525
「複立男王」は九州説も間違いなく箸墓の被葬者(ヤマト王権初代大王)だろう
で、漏れちゃんの考える予想がこちら⇩
「更立男王」の候補…本命)男弟、対抗)伊都国王、穴場)投馬国王「禰禰」、大穴)狗奴国王「卑弥弓呼」 >>510
> 発掘されたものを信じないとなると都合のいいもんだけ信じるって事だからなぁ
中国出土0枚
日本出土600枚以上
発掘されないものを信じる畿内説のひとたち…… >>531
信じてるよ
ただ何故鋳型が出ないのか? 三角縁神獣鏡はおそらく畿内で製造されてたんだろうと言われてるだけで
実際は何処かわかんないんだよね >>532
鏡を作ってた場所を探せば残ってるかもしれんね 箸墓=卑弥呼の墓
発掘されないものを信じる畿内説のひとたち……
掘らない考古学でも追求してんのか >>536
箸墓古墳は存在してるから
おそらく誰かの墓でしょう >>525
「更立男王」の候補(その根拠=生前の卑弥呼との距離)
本命)男弟(卑弥呼の摂政)
対抗)伊都国王(一大率)
穴場)投馬国王「禰禰」(同盟国)
大穴)狗奴国王「卑弥弓呼」(敵国) 三角縁神獣鏡の鋳型が出ないからもしかすると中国か朝鮮の商人が
自国じゃ売れない粗悪品を日本に売りに来てたのかなとも思ってるよ
あくまで可能性の話し 中国より日本の方が鏡の出土が多いんだよね?
正に飛ぶように売れたんじゃないか? >>538
247年時点で狗奴国卑弥弓呼と戦争中だから、卑弥呼の遺言で(戦況を完全に共有している)男弟の可能性が高いな(この状況で箸墓の築造は無理だろう)
正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹 方位を変えるだけでいいのに、屁理屈曲解コジツケ使いまくっても矛盾しまくる九州説 南→東にしても畿内説は成立せんのよw
不弥国(奴国から百里7.5qなら宗像、もしくは直方平野=遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない
@日本海ルート(出雲投馬国)
A瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
B豊後水道ルート(日向投馬国)
ここでヒントになるのが「女王国東渡海千里、複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在其南 去女王四千里」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使は直接見たわけで、四国を見るルートはABで、@日本海ルートは消えることだ。
次にA瀬戸内海ルートだが、山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要はなく、さらに水行十日を大阪へ向かうとすると、同様に道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判り、仮に大阪から陸行一月(20q×30日=600q)すると、女王之所都は東京(498q)大宮(520q)から水戸(620q)となり、其南有狗奴国は北になってしまう。
残るB豊後水道ルートだが、山が海岸線に迫り道が紆余曲折し狭くアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg&name=medium
さらにB豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫邪馬台国7万戸女王卑弥呼は、12万戸で狗奴国(8〜9万戸か)を挟撃しようとしたため、卑弥弓呼と狗古智卑狗は「窮鼠猫を噛む」決死の覚悟で卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かったものと判り、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。
正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹 九州は西岸と東岸で、オランダとスイスくらい地形が全く違う 畿内説の人へ
魏志倭人伝を畿内の事とすると、畿内にはどんな利点があるのか? >>548
俺自身には何の利益も無いけど
YouTubeもブログもやってないし地元商工会ともなんの関わりも無い
勿論著書も無い 大体今伊勢遺跡説とか言っても関心持ってもらえないだろ? 水行二十日で投馬国(対馬)→水行十日で出雲→陸行ひと月で伊勢遺跡
なんでこれがわからんかねえ? 魏略 倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
これはどう読んでも海を千里渡ったところに複数の国があり皆倭人。だと思うけどな .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. >>555
史書を度外視する考古学視点の畿内説スレをなぜ日本史板に立てるのか?
考古学板に行けよ
イタチだろ >>559
史書を忠実に読んで一体何がしたいんだ? >>555
畿内説がいかに間違いかを議論するのなら畿内説スレで良いのでは? >>562
短里は正しいなんていくら訴えても無理だから
魏の役人がそんな出鱈目使うわけがない
記録として意味が無い >>505
卑弥呼の宗女十三歳の台与が真珠五千孔も贈ってるから
邪馬台国連合が廃れた終末期ではない >>561
史書を忠実に読むのが日本史板だと思ってる理由は? >>565
臺与の時代の記録は266年であり平和になった後の記録だが?
なにを根拠に卑弥呼時代と一緒くたと考えてるんだ? 九州説だった頃は短里が正しいと思ってたのよ
他に情報が無いしそういうもんだと思ってた
でも勉強するとそんなもんが存在する事がおかしい >>568
臺与が卑弥呼の宗女で十三歳の少女でであるということは
邪馬台国連合は廃れていない 190年頃 卑弥呼共立
204年 帯方郡設置 後漢と連絡が途切れる
237年 公孫淵が独立して燕王と称する
238年 卑弥呼朝貢 公孫氏滅亡
247年頃 卑弥呼没 台与共立 張政帰国
263年頃 度々朝貢
266年 この時の朝貢を最後に消息不明になる >>559
考古学を度外視すると
どこに比定しても結論はでない 中国で出土しない鏡を中国産と言い張る、掘らない考古学 >>569
論理的には短里は無かったとも言えないんだが?
崇神紀65年の記事に筑紫〜任那が二千里と記されている
隋書には倭人は里を知らないと書かれているあたり、倭人が勝手に里を作ってたんじゃ無いのかとも考えられる >>572
畿内説にとって出土した壺は文章かもしれんが現実世界では得体の知れない壺でしか無いんだよ 魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、
《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》
《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》
桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。
桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年
倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる
最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる >>575
やけのやんぱちになってはいけない
そういうのを「わまかし」という 1.斯馬国、2.己百支国、3.伊邪国、4.都支国、5.彌奴国、6.好古都国、7.不呼国、8.姐奴国、9.對蘇国、10.蘇奴国、11.呼邑国、12.華奴蘇奴国、13.鬼国、14.爲吾国、15.鬼奴国、16.邪馬国、17.躬臣国、18.巴利国、19.支惟国、20.烏奴国、21.奴国
これらを邪馬台国(筑紫平野)より南、狗奴国(熊本県菊池市)より北に全部比定できたら九州説信じるよ 短里なんて都合のいい解釈でしかない事に気付けよ
だから存在しないと考える人が居ても当たり前なのよ >>564
単里も長里も必要ない
A:帯方郡から狗邪韓国までの7000里
現実の帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
B:狗邪韓国から対馬までの1000里
現実の狗邪韓国から対馬までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
C:対馬から壱岐島までの1000里
現実の対馬から壱岐島までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
D:壱岐島から末盧国までの1000里
現実の壱岐島から松浦市までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
ABCDで概ね同じ単位が導き出せるならそれが一里の距離と考えて間違いがない
その一里の距離を使えば魏志倭人伝に書かれた国々の場所は概ね比定出来る 尚、>>581のやり方で調べると大体1里75~85メートルくらいになるが
こういう話もある
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m
つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい
そして実測できない邪馬台国のような外国だから
一寸千里法を使わざるを得ず、
倭人伝だけ短里になった >>583
>洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
なんで宮崎市? >>574
>論理的には短里は無かったとも言えないんだが?
言えます 奴国2万戸の2.5枚の投馬国、3.5倍な邪馬台国を九州内に設定することができず、九州説不成立 「又至竹斯國、又東至秦王國」
投馬国は後の秦王国と違うのか?
読みは違うけども >>589
秦王國の人は中国語を話していたと書いてあるだろ?
外国人政権だよ
つまり畿内がすでに西日本統一政権を構築していたなんてのは全くのデタラメという事だ >>589
「裴世清」
『隋書』によれば、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、そして東に進み、秦王国(辰王国?)に着いたという。(Wikipedia)
竹斯国(筑紫)から東に進んだのは瀬戸内海。
その「秦王国」とは、東四国の倭国(阿波)。 @阿波 >>589
訂正
竹斯国(筑紫)から東に進んだのは瀬戸内海。
その「秦王国」とは、東四国のさぬき市津田。 @阿波 >>582
女王国より北は戸数や距離が記載出来ると書いて、戸数距離が分からない国としてそれらの国を挙げてるのに、邪馬台国の北、しかもすぐ近くに比定してるそいつドアホだろ そもそも投馬国が女王国の南、戸数距離が分からない国々がすぐ近くになる九州説は論外 次に斯馬國(對馬國)有り。次に巳百支國(一支國)有り もう忘れちゃったな
相当に古い戸籍の記録に秦姓ばかりの人が
住んでる大分県の場所があって
色々動きはあるんだけど、そこに卜部姓の人も
伴っているんだよな
卜部は秦氏に従って亀卜を学んだというわけ
なぜ大分かというと現実にそこに秦姓集住地があったということと
何より宇佐神宮があるからだという理屈 隋書はかなり正確に書かれてるんだと思う
それでもあの程度だ
おまけに小野妹子の名前も出てこない それをモノした著者によれば公権に従って
戸籍を提出している点、以前の事情はともかく
独立国はまああり得なくてむしろ
隼人を征伐した後にそこにヤマトの人間を
殖民してしまおうとなったらしく
秦氏らはじめ大分県域の人間がそれに選ばれた
だから鹿児島に正八幡宮が残っていると >>569
存在しないからな
九服之制で全て説明がつく 以下、これは全て千里であるがバラバラ
・遼陽(遼東郡治)→集安(国内城)250km
・遼陽(遼東郡治)→桓仁(卒本)180km
・遼陽(遼東郡治)→平壌(楽浪治)330km
・撫順(玄菟郡治)→吉林(夫餘東団山城)320km
・吉林(夫餘東団山城)→佳木斯(挹婁滾兎嶺土城 )480km
・鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) 220km >>602
俺もそこに辿り着いた
あんまり理解出来ないけどとりあえず観念的な距離があるのを理解した
その前は時代が違うんだろうと思って調べたら周代は長さが定まってないってのを学習した >>590
6世紀もいまだ九州はヤマトに服していないなどというのはさすがに珍説の領域
トンデモ論 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 海を渡ったらとりあえず全部千里で、別の蛮域に入るという思想だろう
3回千里渡海をするから、相当に遠方の地域であるという認識、あるいは先行地図が存在したのであろう そもそも何で大和でヤマトなんだよw
どうせ関西人が後からこじつけたんだろw ヤマトの音が先にあって
聖徳太子が「和を以て貴しと為す」と定めたので
「大和」にしようということに決定した >>612
一応、魏の率善中朗将である
箸墓を卑弥呼の墓とし、臺与の墓を西殿塚に比定すれば、黒塚が難升米であっても違和感はない じゃあ大王は銅鏡50枚以上入れないとダメじゃないかw
黒塚は明らかに大王陵だよ 魏志に出てくる大倭はダーワと読むがその発音を聞いた半島系畿内民はダーバンと聞こえたので大坂と記した
女王国の市の監視役は大阪だったのかも知れないな その大倭が銅鏡の不足を訴え卑弥呼が魏に銅鏡をくれと言ったのかも知れないな 記紀に記録されていないから支持できるんだよなあ
大王として卑弥呼と台与の二人分
大王墓じゃない近似年代前方後円墳のうち
ランクの上位2つがこの二人のもの >>602
説明はつかないだろw
観念的数値なんだから つまり女王国の東の倭種の国々とは、鉄器より青銅品を好む半島系民族だったのかも知れないな
弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png >>623
ざんねん。弥生時代はその終わりまで
まったく日本人だけのイベント >>619
箸墓と同年代同型式の古墳は京都向日市の五塚原古墳だけ
どう見ても4世紀のものだが >>625
箸墓は百襲姫として記載があるので
ヤマト王権公認の人物が被葬者に違いない >>625
あ、百襲姫は大王じゃないという意味かすまん
記紀に言及すらない前方後円墳でお願い >>629
俺は逢う坂と聞いたことがある
口伝なんていい加減なもんよ 黒塚古墳から出土したU字型鉄パイプはU字型の飾りがある布製冠帽の形を保持する芯
元々合理的根拠のなかった妄想同然の「魏からもらった黄幢説」は吹っ飛んだ
https://www.asahi.com/articles/ASS3775HFS2GPOMB00Q.html >>631
通説畿内説同士で意見が違っているだけ
東潮は黄幢の可能性が高いことを示唆しているが、冠帽形埴輪だという学者もいる >>631
「黒塚古墳」は、木棺内の水銀朱や三角縁神獣鏡、鉄製品などから、
畿内へ進出した「倭人(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。 @阿波 難升米は倭国ではそこまで上位の人物ではなかったとしても、中国側からするとナンバー2
率善中朗将に銀色 黒塚古墳からはU字型鉄パイプだけじゃなく
両端が尖る棒状鉄製品も出ているから
黄幢ではないかもしれないが、
何かU字型に布を取り付けたものを棒状の鉄棒で掲げる
幢のようなもので、布の色が黄色だとすると
黄色い幢のようなものだろう 布製冠帽の芯だとしても鉄パイプは当時の列島の技術では作れないから
舶来品という事になるな >>638
>黒塚古墳からはU字型鉄パイプだけじゃなく
>両端が尖る棒状鉄製品も出ているから
碌に鉄器さえも作れない奈良盆地なんだけどなww @阿波 畿内説信者っていつも醜い言い訳垂れ流してるだけだよな >>639
巨大蛇行剣も作れているから、鉄器王国「阿波」の作だ。 @阿波 布の付着がどういう状態かわからんな
帽子なのか固定されてるのか? 椿井大塚山では、他の墓を圧倒するほどの鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃が出る
「まだ調査できてないほとんどの墓」も開けてみないと何とも言えないが、これはどう考えても魏帝からの下賜品でしょう
魏帝からもらった五尺刀2本もこれかもしれないが、箸墓から出てしまえば、椿井大塚山の鉄剣刀矛30本は別に魏からもらったと言える
いずれにしても、魏との交流により鉄製武器が飛躍的に発達したと評価できるでしょう >>642
俺様の言ってる事が正しいから信じろってのはやめて >>645
椿井大塚山古墳も、木棺内の水銀朱や三角縁神獣鏡、鉄製品などから、
畿内へ進出した「倭人(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。 @阿波 >>631
居たなw
畿内では「魏からもらった黄幢」が出土しているニダ!
としつこく語ってた奴 >>643
阿波が鉄器王国だった証拠を出して下さい
ヤマタノオロチ氏と同じ理由だとなると、無視せざるを得ないでしょう
ヤマタノオロチ氏は林・藤島遺跡から鉄が2000点出てるという福井県からも学者からも無視されている主張をしている >>649
いまだ黄幢の可能性が高いと見るべきである
冠帽形埴輪説を採る学者もいるが、小数説の域を出ていない 魏から何らかの官職に任命された倭高官
・難升米→率善中朗将
・都市牛利→率善校尉
・伊聲耆→率善中朗将
・掖邪拘→率善中朗将(正始4年、伊聲耆、掖邪拘ら8人と書かれているので他に6人が率善中朗将の官職に任命されたと見られる)
・倭載斯烏越→記述はないが何らかの官職に任命されたと推認できる
この11人の墓はどこにあるのであろうか?
この時期はすでに博多では筑前型庄内甕が成立しているので、11人全てが畿内人であったと見るべきではなく、九州人も間違いなくいたであろう。
それが那珂八幡古墳なのか、福岡石塚山古墳なのか大分赤塚古墳なのかは分からないが、これらの人物の墓と想定すべきでしょう。 >>650
>阿波が鉄器王国だった証拠を出して下さい
「阿波」の「鍛冶炉遺構」を自分で調べろ! @阿波 >>653
畿内の鍛治炉であった場合、何の意味もなさなくなりますがよろしいですか? >>655
畿内説を採った場合、四国は単に纒向邪馬台国の一部であり、よしんば鍛治炉が多数あったとしても、単に中央へ鉄器を搬入させられたと見るべきです >>656
>単に中央へ鉄器を搬入させられたと見るべきです
そんな、中央なる実態が無いので、見るべきでない! @阿波 >>651
いずれにせよ舶来製である事には変わりない
当時の倭の技術では作れない文物 >>658
>いずれにせよ舶来製である事には変わりない
鉄器王国「阿波」の作だよ。 @阿波 黒塚古墳のU字型鉄パイプだけじゃなく、
棺内の水銀朱も、水銀朱王国「阿波」の産だから。 見落とすなよ! @阿波 古墳時代になっても畿内勢力が直接朝鮮半島に進出した痕跡は殆どない
庄内甕は半島からも出土するようになるが畿内型ではなく筑前型ばかりだし、任那四県地域の前方後円墳も北部九州型の特徴を持つ
畿内は基本的には博多湾貿易への参加を通じて(すなわち日本列島内の流通ネットワークを通して)大陸からの物を入手していただけだと考えられる
古墳時代ですらそうなので、ましてや弥生末期の卑弥呼の時代においてはなおさら大陸との交流などあろうはずもない(実際に纒向には大陸との交流の痕跡がない) ネトウヨってアフリカ単一起源説すら信用してないのかな >>661
あなたの書き込み
画文帯神獣鏡が畿内に圧倒的に集中している >>661
>すなわち日本列島内の流通ネットワーク
そんな大層なもの、弥生末期の卑弥呼の時代にあるかい! 倭人(阿波勢力)が各地へ進出したでけのこと。 @阿波 >>665
北部九州経由で入手しただけではないか
その頃は威信財をかき集めるタイプの専制的な王は北部九州にはいなくなっている(過去にいたそういうタイプの王は奈良盆地に移った)ので、北部九州には少なく畿内に多いだけだろう 帥升は伊都国王であり、朝鮮半島の金官・釜山あたりから対馬海峡を経て北部九州の玄界灘沿岸あたり(当時の中国が「倭」と呼んだ地域)に勢力を持ち、原の辻三雲貿易を押えて倭国王的な立場にあったろう
魏志倭人伝で倭国乱の前に70~80年続いたとされる男王の時代は帥升から始まった可能性が高いと考える
この伊都国王=倭国男王達が代々専制的な権力を振るったことに北部九州の他の諸国が反発して倭国乱が起き、その収拾のために伊都国王の血筋ではなく、軍事的・外交的ヘゲモニーを行使する恐れもない若年の巫女(しかし血統は良くカリスマ性高い)を新たな倭国王として共立したと考える
この巫女女王(個人名は不明だが尊称のヒメミコ=卑弥呼と魏志倭人伝に記載)は山門(邪馬台国)に所在したと考えられる
邪馬台国は戸数や距離(日数)が倭人からの伝聞で誇張されて魏志倭人伝に記載されたが、実態はおそらく軍事大国でも経済大国でもなく、各国の協調のバランスの上に卑弥呼の政権は立っていたのだろう
(現代のEU本部がEUの中で大国ではないベルギーのブリュッセルにあるようなもの) >>668
だから少ないと書いただろう
理由も添えて >>669
続きだが、この北部九州から排除された専制的な伊都国王の血筋が東遷して吉備勢力を巻き込んで奈良盆地を征服したのが初期ヤマト王権だろう
だからヤマト王権の王はかつての伊都国王のように専制的な性格を持ち、銅鏡などの威信財をかき集めて墓に副葬した 私の「専制的な伊都国王の東遷→専制的な初期ヤマト王権成立」説は、以下の松木武彦「古墳とはなにか」に書かれた北部九州と畿内のリーダー像の違いと頗るフィットする
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」 >>672
伊都国は東遷したが筑後の邪馬台国は九州に残り田油津媛の代に滅亡したというのが私の説、すなわち九州説
皇室に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないこともこれで説明ができる >>676
山門は田畑が広がり発掘自体があまりなされていない
Absence of evidence is not evidence of absence. >>677
同条件で畿内もいくつかの古墳しか調べられていないが、それでも畿内では古墳の存在から、ヤマト王権が代々その地で「まつりごと」をしていたことが分かる
筑後には、それすらも無い 黄幢は魏の正規郡の旗であって
持っていても参戦しなければ無意味。
参戦すれば正規軍の将軍だった。
韓州刺史、九州候である。
畿内と戦争で、東遷成立だwww
魏からの激、帯方郡への参戦要請は
245年韓制圧戦だが
日本は九州と日本海ルートが結束。
一大率を伊都に置いた。
公孫氏と韓の次は、九州制服である。
対魏の防衛対策は当然富国強兵である。
コレが古墳時代で半島進出に繋がる
大和朝廷の誕生である。
246年である。 倭人伝論争はタコ。 >>678
>ヤマト王権が代々その地で「まつりごと」をしていたことが分かる
畿内に、ヤマト王権なる実態が存在しないので、代々その地で「まつりごと」をしていないことが分かる。 @阿波 >>678
九州説では一般に、邪馬台国を含む魏志倭人伝の倭国はヤマト王権とは違う王権だと捉えている(多元王朝論)
ヤマト王権という奈良地方の地方政権がどんなマツリゴトをしようが北部九州倭国には関係のない話だ ヤマト王権は九州倭国の下部組織に決まってるだろ
畿内に独自の勢力を作れるような文明はなかった 黒塚ができたときにはもう狗奴国戦は終わってるだろ
だから黄幢を副葬したんだろ >>682
九州にも、倭国なるものの実態が存在しない。 @阿波 >>682
>ヤマト王権は九州倭国の下部組織に決まってるだろ
という証拠は? なんか知らんけど荒らしネトウヨが発狂してるな
死ねばいいのに >>686
場所から考えても黒塚は難升米ごときの陵じゃないよ
柳本は皇室が住んでいた場所 >>690
たった今確認した
あれたぶんツングースおじさんだわ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww ・長野県などで部落民が毛人と呼ばれ異人種と見られていたこと
・人類学者の小浜基次が「部落住民の形質について」(『社会的緊張の研究』有斐閣、1953年)で部落の内外における長頭率と短頭率の差を示したこと
部落の起源は複数あるものの、その一つが大和朝廷の被征服民であることを示唆しています この時代に日本の皇室の存在を求めるのは無理だな。
この時代は邪馬台者の時で倭の別種と言われた者の時代はまだ後の話だな。
まずはミマキ姫の入り婿
ミマキは単純に三番目の纏向の姫位に考えているが行どん山とはちと時代が合わないわな。
入り彦が続くから確実に男系なぞない。どちらかは確実に奪う
次に来るのが河内王朝とも言えるおそらく五王。河内は阿都、阿と呼ばれた者らが築いた可能性もあり
讃珍済興武といかにも中華風1字であるけど頭に阿が付いていたと思うね
因みに2世紀から卑弥呼が共立王というのは無しにした方が利口に見える 嘘がバレても何食わぬ顔で詐欺を続ける畿内説は居直り詐欺 >>682
地ならしせずいきなり遷都はせんだろうからそれまでは下部組織だったかもな
3世紀は東の倭種の飼い慣らし
4世紀に東の狗奴国を平らげて
5世紀に正式な遷都くらいかな 百舌鳥古市古墳群の時代は仲良し3人組の時代
なにわの軽業師の寅吉、橋の薬屋、高間寺の山伏
茅渟、狭井、狭野讃岐の時代だよ 狗奴国は香の薬屋さんと石さんと鈴木さんが黒と白の姫と子どもたちを守っている国 イリは尊称の一部で、崇神なら五十瓊殖(イニエ)
垂仁天皇で五十狭茅(イサチ)と、通字に見える連続性はある
景行天皇の大足彦(オオタラシヒコ)でちょっとくずれるけど
景行天皇の子女にも五十ナントカさんは居る
五十に大した意味があるかは分からんけどな
大物主の娘で神武の妻も持っているし
諸蕃の怡土県主も持ってる
素戔嗚の新羅時代からの第一子五十猛にもある
出雲系の豪族にもある(忍熊皇子に加勢した五十狭茅宿禰)
饒速日の別名胆杵磯丹杵穂命は
五十研丹穂とも作るようだ
内宮に流れる川の名前にも含まれる 水の神さまも守っていたと思うが水の神さまは何なんだろうな
からくれないに水括るとはの歌は奈良の唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の関係と思うが
1番大事な水の神さまが難しい
百舌鳥古市古墳群の時代にも重要なキーワードなんだよな
軽船は淡路島に水を運ぶ
ミズハ 邪馬台国論争は
日本の半島進出の歴史を
うやむやにする為だけの論争か?
もちろん百済は日本が傀儡建国した。
九州も日本海ルート諸国も
半島に任那加羅諸国を持っていた。
日本の学者は、半島人の
反論テロに耐えられるのか?
アタシは、女子高生なので
5ちゃんでしか本当の事は言えない。 明治天皇は水の歌を詠まれている
月見れはば 雁かりがとんて飛んでゐる 水の中にも うつるなりけり
水石契久
さざれ石の巖とならむ末までも五十鈴の川の水はにごらじ
水と五十鈴川は関係ありそうだ 常世の波が打ち寄せる国伊勢
伊勢は大阪のコピー、鎮魂の場所
五十鈴川は石津川だろう
孝元天皇、劔池嶋上陵、軽之堺原宮
弥生時代の島がある池を探したら謎が解けそうだけどな
古い池は窪地を堰き止めたダム式
川の本流を堰き止めたら大事になる
川の本流に影響がない支流の上流で、池の下に弥生時代の大水田がある場所に作られた古い池
真ん中に島がある
そういう池を探したらいい 無駄だな、陳寿は中華史に卑弥呼は鬼道と記してある中華人が解る鬼道であり中華で解らなければ説明書きが加わる。
纏向は1.にもあるように中華に影響を受けた都なのだよ、卑弥呼は五斗米巫女、曹家天后とされたのが琪瑛
水神なんだな、卑弥呼の理念は道教、後々神道の道の部分だよ
どのように話を繕ったところで九州には古辰国の影響しか残って居らず、出雲も柱韓神。畿内以外に道教の痕跡は無いね
そして卑弥呼以降は前方後円墳が去り八角アサガオになって行く事実は変わらない。
八角墳墓族は間違いなく聖地は慶州羅井、舒明辺りから始まり天武で確定し明治から昭和と受け継ぐ
昭和の理念は神武八角の理念八紘一宇。それは先の対戦に表れてもいる。
何故素直にそう思えない?
多くの大衆は理解していないと思うね。昭和天皇の我が帝国は耐え難き…
何れそれを継承する大王が現れればあんたらも解るな。 陳寿は邪馬台国や倭人関連の中華側の多くも古文書を一つにまとめた
魏志倭人伝の編纂者じゃねーの?
確かに陰陽❺行および道教は現代に繋がる日本列島国家を作りだしたわな
で天海が徳川を利用して総細工を施したと
が寒間盆地育ちの天海ごときの思惑は射抜いたけどね(笑) 女王として共立されるのに必要なのは
ガチのシャーマンとしての能力だよ
中国伝来の呪術を知っています、やってますだけじゃ無理
ガチで未来予知するなり天気変えるなり霊視を当てるなりやって見せなきゃならない
んでそういう能力は努力すれば誰でも手に入るもんでもない
生まれ持っての霊能力があるのが大前提
そういう意味では卑弥呼の鬼道が中国由来かどうかは大した問題じゃない 鬼道といえば、「卑彌呼」。
神道といえば、「忌部一族」。
大麻といえば、「阿波忌部」。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 つまり畿内説は架空の作り話のみで構成された月刊ムーの記事ですよと 記紀は八角墳墓には史書として整合性はある。
高麗伝にも秦王国国王神武という名が出てくる
古朝鮮は六部が王を選び
分裂後は和白で選ばれていたとあり一時的に魏に支配を受けることになる
神武より前は筑紫城。これは北九州には無い、月支城で間違いない。
日本とは古辰国である半島列島と現代まで続いているのであろう、故に日本韓国北朝鮮が仲良くなることは絶対に有り得ないのである 漢風諡号である「神武」は、
8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる
ため高麗伝の記載はそれ以降の依拠だろうけど
漢風だからこそ中華世界に知られたのかな
なんというか扶桑や徐福じゃないけど
日本て大陸人の歴史小説の格好のネタになっていた
気がしてならないが… 「阿波国続風土記」第五巻84ページ
「天日鷲命ハ即日向皇子ニテ」とある。
「日向皇子」は「神武天皇」のことである。
「日本書紀」でご存知の通り「天日鷲命」は阿波国の神である。 @阿波
※阿波国続風土記(阿波國風土記編輯雜纂)
https://goutara.blogspot.com/2013/03/blog-post_15.html 記紀は邪馬台国の時代から400年以上後の記録
その上魏志倭人伝をはじめとする大陸側の記録を参考にして書かれいるから
邪馬台国の場所を比定する為の参考にはならない 記紀はディテールがどこまで正しいかはわからないが、皇室の祖が九州から来たこと、崇神垂仁の頃は九州に政治的影響力が及んでいない(西は吉備まで)こと、などの情報は重要 266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利一族で高家筆頭・吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。
そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。
さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に分家=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗(水軍全滅)で近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和分家(留守番)の歴史として描いたのが記紀なのだ。 ここで改めて3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。
<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏・帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との最終戦争(日向投馬国と同盟し挟み撃ち)へ
<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)
247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳(中学1年生)の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。
つまり、
ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓
で良いだろう。 >>720
8世紀の皇室がそのように書いた(書かせた)という事実は重い 箸墓がヤマト王権初代大王の墓なら、磐余彦(神武)陵、西殿塚が真のニギハヤヒ陵とするのが自然ジャマイカ? そもそも垂仁天皇がいつ頃の人か?
そもそも実在したかどうかが分からない
没年齢が無茶苦茶だから
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳 箸墓=ヤマト王権初代大王の墓 は後の大王墓系譜からほぼ確実と見られることから
卑弥呼(皇祖天照大神)陵、もしくは神武陵なら記紀に堂々とそう書くだろう
なぜ(実在はともかく、伝承ですら大王に即位しておらず、さしたる政治的実績がない)モモソ姫の墓なのか?
つまり皇室にとって都合の悪い真実(神武以前に大和にいた王権=真のニギハヤヒ陵)だからだ。 なのにモモソは卑弥呼、箸墓は卑弥呼の墓と言い張る人が後を絶たない >>722
>8世紀の皇室がそのように書いた(書かせた)という事実は重い
つまり遥か後世の政治の都合
史実と無関係 箸墓(280m)=ヤマト王権初代大王の墓 はその後の大王墓系譜からほぼ確実と見られることから
神武陵、もしくはそれ以前に大和にいた卑弥呼・台与(皇祖天照大神・豊受大神)陵なら、記紀に堂々とそう書くだろう
なぜ(実在はともかく、大王に即位しておらず、伝承にすらさしたる政治的実績がない7代大王孝霊の娘)モモソ姫の墓なのか?
つまり皇室にとって都合の悪い真実(神武東征時に大和にいた王権=真のニギハヤヒ陵)だからとしか考えられない
それとほぼ同規格の50m縮小版(前方部が撥型に開く)西殿塚は真の神武陵(230m)なら、そのことをあえて隠したことも納得できる >>718
記紀は百済侵攻した唐に対して
九州が歴史的日本領であることの主張
九州が天皇が任じた筑紫の君による
百済同様の候国であった事の修正で
半島利権の放棄にともなう国境
対馬以南への侵攻は断固許さない。
という、皇国宣言なんだよ。
銅鐸時代も卑弥呼も知らないのに
作った歴史で収拾つかないのが
記紀の古代史でもあるんだけど?
600年でも日本の大和朝廷は
卑弥呼なんて知らんがな。
って、聖徳太子は言ってたw
昔に平定したどっかの女王だろ?
と言いつつ倭人伝読んで神功かぶせた
記紀のアホ作者はダサいけど・・・
神話で漢四郡征伐しちゃうか? 箸墓(ヤマト王権初代大王陵)の被葬者を推理してみた!
まず、(殉葬の代用品=埴輪の祖先)吉備特殊器台が飾られていることから、「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない。
次に、神武もしくは欠史八代+崇神の誰かなら、記紀が堂々とそう書くはずだから消える。
よって、記紀の記述(大王に即位しておらず、さしたる政治的実績のない)百々襲姫(第7代大王の娘)ではない。
すると、247年亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍により、肥後狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年ヤマト王権に倭王権を禅譲してくれた筑紫邪馬台国女王台与。
もしくは筑紫邪馬台国興王・台与から禅譲を受けたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」ということになる。
以上、箸墓(280m)の被葬者予想をまとめると、
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚(230m)=真のニギハヤヒ陵】
対抗…複立男王(真のニギハヤヒ陵)【西殿塚(230m)=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵 >>718
>皇室の祖が九州から来たこと
そんのこと、記紀に一切書かれていない。 @阿波 >>733
自説に都合の悪い事実が見えないのは畿内説も阿波説も同じか >>735
日本書紀』によると庚午年(『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に
『筑紫の日向で誕生。』
15歳で立太子[注 4]。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。
『45歳時に兄や子を集め東征を開始。』
日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え
中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた >>732
>吉備特殊器台が飾られていることから、「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない。
理由の説明できない九州説は永遠のゼロ 箸墓(ヤマト王権初代大王陵)の被葬者を推理してみた!
まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で壮齢に飾り立てられていたことから、「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない。
次に、初代神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代と崇神の誰か)なら、記紀が堂々とそう書くはずだから消える。
よって、記紀の記述(大王に即位しておらず、さしたる政治的実績のない)百々襲姫(第7代大王の娘)ではない。
すると、247年亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋の禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲し(てくれ)た筑紫邪馬台国女王台与。
もしくは266年筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受けたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書く)神武でないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。
以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王ニギハヤヒ陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵 狗古智卑狗の古は右の誤写で菊池彦ではない、という事実だけでも九州説の妄想は崩れる 狗古智卑狗の古は右の誤写で菊池彦ではない、という妄想だけでも畿内説は崩れるな >>738
吉備特殊器台は殉葬を廃止して代わりに導入されたものだからでしょ 九州説でも熊本平野に邪馬台国があった派には
菊地彦の話は問題にならない さらに投馬国は於投馬国の誤写なんで、九州説は何処にもコジツケ出来ない
「遠くて戸数・里程が分からない国々」も何処にもコジツケ出来ない 鹿児島宮崎の中間点にある山間盆地に存在する都城市に
倭国連合の宗主となる卑弥呼が居住した邪馬台国があった 箸墓(ヤマト王権初代大王陵)の被葬者を推理してみますた!
まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない(論理矛盾)。
次に、初代神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀が堂々とそう書くはずだから消える。
ただし、記紀の主張(大王【倭王】に即位しておらず、さしたる政治的実績のない)百々襲姫(すでに第7代大王の娘なので、共立ではなく世襲になる)ではない。
すると、247年亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の軍事顧問の支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲し(てくれ)た筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武でないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。
以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王ニギハヤヒ陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵 >>737
どこにも、一切九州などと書かれていない。 @阿波 日向も筑紫も豊浦も飛鳥も纏向も磯城も大津も吉野も阿蘇も出雲も伊勢も吉備も、記紀以降の後付け地名。
記紀に固有の「国名」など有る訳がない。
「好字二字令」は元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令である。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 薩摩・大隅は元々日向国
優秀なので日向国から分岐しただけ
総元は筑紫国(九州) 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
九州神道の本流祝詞でも詠われるように
阿波って語彙が挿まれてるくらいだから
四国の徳島は何か古代の重要な事に関係してるかもね >>742
>吉備特殊器台は殉葬を廃止して代わりに導入されたものだからでしょ
妄想ですな
まったく根拠がない 中国の史書はそれらしいものが出てくれば比定は出来る
記紀は書かれた通りのものが出てこないと信用できない
神社なんてのはまずその時代にあったのかって話しでまずそれを証明しなきゃ
無かったらその説は根底から崩れる事を理解してるのか? >>756
なんてこった
不弥国から南に水行できるようになってしまったぞ 考古学者を批判してる奴が神社とか考古学者がそんなもん根拠にできる訳ねえじゃん >>753
>四国の徳島は何か古代の重要な事に関係してるかもね
四国の徳島以外にあるか? @阿波 >>755
>畿内説の妄想はもううんざりだw
まったく反論できず罵るだけになるのは
九州説がまた一発で論破された証拠 >>756
つ>>511
だからこそ筑紫邪馬台国女王台与は266年(魏→晋への禅譲に倣って)ヤマト王権に禅譲したのだろう つまり畿内説はひたすら妄想と作文に明け暮れるだけの日々ですよと 仏教は6世紀辺りに伝わったとされてて寺の遺跡は出て来るのに何で神社の遺跡が無いんだよ? 神社なんて存在しなかった事がわかってて邪馬台国の場所の比定してるんでしょ?
そんなの最初から探す気なんてねえじゃん 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww つまり考古学はたまたま出てきたものを作文にこじつけるだけの簡単なお仕事ですよと 中国からまったく出てこないものでも中国産という作文を書きます >>747
つ>>756
今でも水田(水耕稲作)に適した筑紫平野は、逆に言えば台風の度に水浸しになるという宿命的な弱点がある。
266年に筑紫邪馬台国女王台与がヤマト王権の複立男王(並受中国爵命)に禅譲した理由は、それも大きかったのではないだろうか? >>765
>垂仁 埴輪 で検索
まったく反論できない九州説また鎧袖一触で論破されますた
ちなみに垂仁紀の埴輪は明らかに形象埴輪なので特殊器台と無関係 >>750
クナ国が熊本
ヤマト国が奈良
河内彦は河内みかんで有名な熊本
応神東遷で大阪を河内と命名 >>756
垂仁の埴輪は、吉備特殊器台(近現代の考古学用語)のことだろうね >>774
古墳時代になると特殊器台は、吉備地方だけでなく、箸墓古墳などを代表例として、
畿内の最古型式の前方後円墳からも出土する。その形態は器台としての機能を完全に失い、むしろ円筒埴輪の類に入る。
特殊器台は円筒埴輪へと変化していくのである。
この様な特殊器台の変化は、墳丘墓から前方後円墳への変化の過程、
さらには弥生時代から古墳時代への変化の過程で起きており、時代の変革を説く鍵となっている。
https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/632631.html つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ歴史泥棒 大陸側の世界観ではあの方角と行程で邪馬台国に辿り着くわけだから、
やはり混一疆理歴代国都之図のように実際よりはるか南海上にある国だと思われてたんだろうね
全身刺青を入れているというのも南蛮東夷のイメージなんだろう 動かぬ証拠である遺跡を第一に考えていくと邪馬台国は纏向以外にないとして
投馬国五万戸を比定しうるのは出雲でその中心は妻木晩田遺跡しかないと思う
3世紀に妻木晩田遺跡以上の規模の遺跡ってどこかある? >>730
天皇の成り立ちSUGEEEEE!と主張する為に書いた記紀で昔朝貢してた女王が天皇の先祖ですなんて事実であっても堂々と書くわけないだろ >>780
必要条件と十分条件
2~3世紀の大規模集落の存在は邪馬台国として比定する必要条件ではあるけど
それだけでは十分ではない
何故なら魏志倭人伝には他にも邪馬台国を特定するための情報がいくつもあるから
例えば絹
例えば鉄の矢じりを使う
卑弥呼が擁立される前には倭国大乱があったとされるから
それを裏付けるような形跡
中国鏡
帯方郡からの道里も書いてあるからそれとの整合性
女王国連合に名を連ねる奴国が漢委奴国王印を貰った奴国のことなら
紀元前から大陸との交流があったことになるからそれを示す遺物が無ければならない
それらが揃ってはじめて十分条件を満たしたと言えるのではないだろうか? 卑弥呼から1000年以上後の朝鮮の地図を持ち出してきて地理感云々いうやつは歴史を語るセンスがゼロ
それはもうムーのセンス >>780
まず結果を固定してから
それに合致するものは採用、合致しないものは不採用
これをチェリーピッキングという >>780
>動かぬ証拠である遺跡を第一に考えていくと邪馬台国は纏向以外にないとして
碌に鉄器さえも作れない纏向がか? @阿波 >>782
それは倭人伝の記載が細部に至るまで全て正確な前提だから、それを満たす遺跡は出てこないだろうね >>785
現に纏向勢力はその後日本を統一してるんだから何も不思議ではない
後の世で結果は出てるんだから >>781
日本書紀の神功皇后紀には魏志倭人伝を引用している
隠蔽する意図があるならこんなことをするはずがない
魏志倭人伝の卑弥呼は誰なのか、皇室に伝承がなく本当にわからなかったのだろう >>787
>現に纏向勢力はその後日本を統一してるんだから
8世紀に、倭国(阿波)によってな。 @阿波 >>783
1000年前はさらに不正確というならともかく、より現実に近い地理認識を持ってるはずがないからな
中華思想からそういう認識をしてたということは文献史学者もいってる事だ
というか、実際会稽東冶の東という認識なんだから
現代の正確な地図をいくら眺めたって正解に辿り着けるわけない >>788
魏志が有名すぎて存在を無視できなかったから仕方なくちょっと触れただけだろ
魏志の記録を全面的に認めるつもりがあるなら本文に朝貢した描写が一切ないのはおかしい >>786
『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国』を比定するなら魏志倭人伝が正しいという前提にするのが当たり前
魏志倭人伝より400年以上後に書かれた日本書紀や古事記よりは信憑性は高い記録だしな >>788
俺もそう思う
編纂時点で3世紀なんて4.500年前だからな
現代の人間が戦国時代の伝承をまとめるようなもん >>793
正史は重要で正確性が求められる部分とそうでない部分がある
外交記録に関しては正確と言える
献上品や下賜品、与えた官位など
その国の風俗や行程などは正確性を求めらる部分ではないし、その後の中国史の日本に関する記述も間違いだらけ ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!
まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない(論理矛盾)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀の記述(大王【倭王】に即位しておらず、さしたる政治的実績のない)百々襲姫(すでに第7代大王の娘なので、共立ではなく世襲になる)ではない。
すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神でないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。
以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王ニギハヤヒ陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵 >>788
明らかに隠蔽する意図で神功皇后を捏造したんだよ
1:卑弥呼は女王だから女性でなくてはならない
2:記紀では卑弥呼の時代は既に大和王権が日本を統治していたことになってる
この二つの条件を満たすのは本来は不可能
何故なら皇室は男系継承だから女王はいなかったことになってるから
だから『摂政』という立場の皇后をでっち上げた
神功皇后の記述は魏志倭人伝の記述を説明するのに都合が良すぎる
明らかに捏造 >>792
だからおかしくないんだよ
別の王朝の話で伝承がないんだから
合理的根拠が全くないのに同じ王朝だと勘違いしているから、そんな変な感想になる 纏向が大陸と交流してる時点で邪馬台国は纏向でしか有り得ないんだよな
壱岐と対馬を支配下に置いた勢力以外、大陸に渡れないんだから >>800
纒向に大陸と交流した考古学的痕跡はびっくりするほど何もない
それどころか、北部九州との交流の痕跡も殆どない
纒向が初期ヤマト王権の遺跡であることはほぼ確実だが、邪馬台国の遺跡であった可能性は限りなくゼロに近い いつものレベルの低いスレッドになってるな
やっぱり、トナカイがいないとダメだよ >>804
現在、邪馬台国の最有力候補地です。
中国原産のベニバナや紀年鏡もそうだが纏向遺跡自体が大陸との交流の証拠
日本で最初の方角を揃えた当時最先端の計画的な都市作りは大陸の影響だから
長安を模した藤原京などと同じ流れ >>800
>纏向が大陸と交流してる時点で邪馬台国は纏向でしか有り得ないんだよな
碌に鉄器さえも作れない纏向がか? @阿波 >>807
根拠のない宗教ですな
勝手に盲信してなさい >>804
>纒向が初期ヤマト王権の遺跡であることはほぼ確実だが
つまり初期ヤマト王権とは、貧しい寒村ということか? @阿波 >>805
トナカイ以外の畿内説が極端に頭が悪過ぎるんだよ、ここは >>808
北部九州まで勢力圏に納めてたんだから勢力圏内で鉄器の生産をしてるのは何も不思議じゃない
朝鮮半島から鉄を運んで、北部九州は加工をしていたとみられてる >>809
現在最有力です
根拠が遺跡として残ってるからね 桃の種、カエルの骨、鍬の再利用の木製仮面が出ている
これは巫女だった卑弥呼の女王之所都の証であろう >>807
魏志倭人伝にベニバナの話なんかないし
色は赤いけど魏志倭人伝に書かれた倭人の使っていた水銀朱とも違う
纒向の都市としての評価に関して
畿内説の権威大御所寺澤薫の「卑弥呼とヤマト王権」から抜粋です
纒向遺跡が形成された初瀬川上流の「纒向川扇状地」小共同体には、弥生時代の拠点的母集落はおろか、集落といえるほどの遺跡がない。
自然林に覆われた空閑地に突如として纒向遺跡は出現したのである。
纒向遺跡の第一の特徴は、弥生時代にはほとんど人の手が入らなかった地域に、
三世紀になって突然、人が集まりはじめて巨大な集落を形成し、一〇〇年もたたないうちに急速に衰退する点にある。以上転載終わり
要するに2世紀の纒向には邪馬台国の痕跡どころか集落遺跡も無かったという事です >>814
>北部九州まで勢力圏に納めてたんだから
碌に鉄器さえも作れない纏向がか? @阿波 >>815
>根拠が遺跡として残ってるからね
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い纏向がか? @阿波 畿内勢力が3世紀に北部九州を征服したり支配下に置いたと考えるべき文献的根拠や考古学的根拠は全くない
以外、久住のXポスト
「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」
「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」 >>821
伊都国が代々邪馬臺国に服属してたんだよ
北九州の大国の奴国がそれと同盟組んで北九州を制圧した
邪馬臺国が北九州を制圧したわけではない 久住は纒向こそが邪馬台国と言っている
素人九州説は安本美典が言ってることをそのまま書くだけの毎日 >>782
おまえ何言ってんの?
必要条件だからそこから遺跡が出て無いと話しにならんのよ 定説畿内説に反論できていないのが素人九州説
学者は高島忠平と関川くらいしかいないのでやむを得ない部分もあるが
畿内論文に反論するのは同じ畿内説の学者 >>817
魏志倭人伝にベニバナの記述が無くても良いんだよ
銅鐸は銅が無きゃ作れない
この意味わかるか? その後の大王墓系譜から、ヤマト王権の初代大王墓と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!
まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない(論理矛盾)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、百々襲媛は巫女であったとされるが、卑弥呼の様に曹魏に朝貢するなど対外的な実績もなく、すでに第7代大王の娘なので、共立ではなく世襲になるが、そもそも大王【倭王】に即位していないので、否定される。
すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜欠史八代〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。
以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王ニギハヤヒ陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵 >>831
そういうの要らんから
なんの根拠もない 三角縁神獣鏡国産説と魏鏡説との戦いも、畿内説と九州説との戦いではなく、定説畿内説の学者同士の戦い 阿毎多利思がアマテラスで良いじゃん
なんか問題あるの? >>830
>銅鐸は銅が無きゃ作れない
鉄器は? @阿波 >>833
定説畿内説???
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内がか? @阿波 阿波の輸入ルートは関門海峡を通ったと思ってるのか? 突如出現する纏向遺跡はヤマト王権最初の遷都なんだろうな
引っ越し元の唐古・鍵遺跡は弥生前期からの遺跡だから神武東征ってのはやはりフィクションなんだろう
もしくはスケール小さいが唐古・鍵遺跡からの遷都物語か つまり畿内説には妄想作文以外何も根拠がありませんよと 伊勢遺跡の柱引き抜いてお掃除して纏向遺跡に引っ越した >>830
つまりベニバナはなんの証拠にもならない
チャバネゴキブリの化石もね
銅鐸?
魏志倭人伝に銅鐸に関する記述なんてないな
無関係 >>843
唐古・鍵遺跡の環濠を纏向の土器で埋めて引っ越す準備をしてる >>846
ベニバナは染織の染料に使った物で大陸との交流の証だから
染織りは当時の最先端技術で大陸から渡ってきている
計画都市もそうだが九州を飛び越えて最先端技術が最初に畿内に入ってきている >>846
チャバネゴキブリは輸入品じゃないだろ? 自信が無い奴ほど素人と口上垂れて煙に巻く癖がある
よーくわかってるから >>838
畿内説は慌てふためく必要がない
ヒスイは糸魚川でしか取れないから糸魚川から
ゴホウラは沖縄でしか取れないから沖縄から
鉄は半島からしか取れないから半島から
阿波の鍛治工房も畿内向けであったと見ることができる
直接的には纒向で発見された鍛治工房もそれだろうが、まだ鍛治工房と確定したわけではない
そうすると、五斗長垣内や、弥生後期最大の舟木遺跡が纒向邪馬台国の鍛治を担ったと言えよう まぁ遺跡のスケールが纏向遺跡は飛び抜けてるよな
ここが邪馬台国なんだろう >>854
北部九州で鉄器が出ても、そこも邪馬台国連合だからねー >>853
この文系文系言ってる人が、いちばん文系っぽいんだけどなあ
とても立証いやがる印象論専門のひとでしょ >>856
北部九州は邪馬台国連合の構成地域ではない
少なくとも、魏志倭人伝を読むと、一大率の監視下にある 邪馬台国の管理下に置かれていたのだよ北部九州は衛星国として 半島との交易の痕跡は北陸にだってある訳で九州だけが特別じゃない >>854
古墳時代には消滅する遺跡が何を担ったって? >>860
一大率はどう考えても各地豪族の王だろ? あのー日本の正史に北陸なんてよってないですから
明治維新後のドサクサの印象操作でポッと世に出てきたぐらいだからガチ >>863
王都は纒向の後、大和北部に移動するが、あなたの言いたいことは何でしょう? >>860
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
「女王国より北は、特に一人の大率を置いて検察する。
諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。
(魏)国中に於ける刺史のような地位である。」
この文章の前は邪馬台国の税を集めて高床式倉庫に集めたり市場を大倭に監視させてる話をしてる
つまり女王国連合の統治体制の話をしてる
女王国の北側は大率に監督させてるという話なんだから女王国の一部だろ 中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。
伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)
A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国) 中心に邪馬台朝廷があって東北に蝦夷が居て九州に熊襲が居るんじゃないか? >>867
だからそこの一大率はそういう役割を担ってたってだけで >>869
まだやってんの熊襲とかw
熊曾の謎は色んなスレで明らかにされてるやん
印象操作と違いビックリするエピソードが豊富に横たわる
九州邪馬台国関連の指摘が多い 中華思想もどきの日本におけるレベルの低い中央史観なんて
幾らでも論破出来るし(笑) 旧唐書 四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆
畏附之設官有十二等
この時代だと中央集権が確立してるだろうが一大率は一人じゃないよね? 中華思想もどきの日本におけるレベルの低い中央史観なんて
幾らでも論破出来るし(笑) 邪馬台国は奈良で蝦夷の起源と思うぞ
纏向にいた海人はその後関東北部に侵入し船を献上して開拓民に転じそれが後々の蝦夷になったと思われる
赤頭、四郎将軍とか四道将軍の末じゃないか >>872
九州が特別じゃないと言いたかったんだけど
熊襲でも未開拓地でもなんでも良いんだけど .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
. 畿内を中心に中四国から関東辺りが勢力圏じゃないのかな? >>840
直方の伊都国へ立ち寄らなくてはならないから、関門海峡は通らない。 @阿波 >>841
畿内には無いのか? 畿外のそこだけか? たったそこだけで需要に間に合うのか? @阿波 >>877
エピソードの一つ
ヤマトタケルこと小碓尊って九州熊曾国の行縢山に住むカワカミタケルに勝負を挑み
闇討ちに近い(女装して刃物でブスリ)暗殺作戦に成功した後
死ぬ直前カワカミタケルにその強さ??を称えられ(笑
熊曾国のリーダー・カワカミタケルからタケルの称号を与えられ
本名・小碓尊はそれから日本各地の豪族達に対しヤマトタケルって名乗り始めてるんだよ
それが本当ならヤマトタケルってどれだけレベルが低いキャラなるんだよってなるタケル伝説w >>854
>阿波の鍛治工房も畿内向けであったと見ることができる
だから、倭国(阿波)からの下賜品だ。 @阿波 >>866
>王都は纒向の後、大和北部に移動するが
移動したのは、墓地だけ。 @阿波 >>882
>やっぱ船は担ぐよな
「不弥国(築上)」で船を待機させている。 @阿波 川上タケルにヤマトタケルという名前を貰った後
すぐに出雲まで遠征し豪族・出雲タケルを汚いやり方で騙し射ちしてるし
卑怯すぎる英雄?(笑)ヤマトタケルってどんだけーって人物 >>867
「女王国の一部」という表現に明確な線引きができていない立場で考えると、女王国の一部とも言える
しかし、筑前型庄内甕の成立や北部九州型布留甕の成立を考える時、纒向王権が奴国に強く介入し始めたと推認することは可能である
それを女王国の一部と表現しても良いし、しなくても良い
。
陳寿がどのように考えていたのかという主観と、客観に錯誤があっても何ら不思議なことではない
さらに言えば、主観と客観の線引きもあいまいである
私は上記の立場を採る。すなわち、奴国は女王国の構成国ではない 中華思想もどきの日本における
レベルの低い中央信仰なんて
幾らでも論破出来るし(笑) >>881
阿波の鍛治工房も纒向へ鉄器を搬入したであろう
古墳時代に入ると、そこに出庭遺跡も加わる >>890
>しかし、筑前型庄内甕の成立や北部九州型布留甕の成立を考える時、纒向王権が奴国に強く介入し始めたと推認することは可能である
まったく、頓珍漢。
倭人(阿波勢力)が九州へ進出して、「東阿波型土器」を作っただけのこと。 @阿波 誉田御廟山古墳、大仙陵古墳のような世界的にも巨大な墓は畿内単独の経済力では作れない >>892
>阿波の鍛治工房も纒向へ鉄器を搬入したであろう
鉄器も作れない所に王権など立つ訳がない。 寝言は寝てから言え。 @阿波 >>895
そこで勢力範囲内から労働力をかき集めてくるわけで
外来土器が出土する一因もそこだろう >>895
>誉田御廟山古墳、大仙陵古墳のような世界的にも巨大な墓は畿内単独の経済力では作れない
鉄器も作れない寒村に、経済力など有るわけがない。 @阿波 >>896
ホケノ山、椿井大塚山などを見れば、よしんば地元で鉄器を製産できなかったとしても、同勢力圏あるいは大陸との交易で鉄器を仕入れることができたことは確実である
が、纒向にも鍛治工房があったこともほぼ確実である 掖上博多山上陵って博多にあったんじゃないの?
何で奈良なの?w >>899
>ホケノ山、椿井大塚山などを見れば、
倭人(阿波勢力)のお墓だと一発で分かる。 @阿波 仮に、阿波が日本最大の鍛治工房であったとしても、阿波の墓からホケノ山やメスリ山や椿井大塚山や恵解山古墳のような鉄器の多量副葬が見られない
かつ、鏡の多量副葬も見られない
このことは、阿波が倭国内でどのような役割を果たしていたのかを示していると見るべきである >>903
>このことは、阿波が倭国内でどのような役割を果たしていたのかを示していると見るべきである
下賜する側だから。 下賜される方は、多く欲しがる。 @阿波 阿波人かどうか知らんけど、勢力集団が居たのかもしれんね。 >>905
「阿波」以外にそんな勢力がどこにあるというのか? @阿波 播磨風土記のこの記述は興味深い
時系列がどうなっているのか
古墳時代前期の統治の仕組みはまだまだ謎が多い
石見神楽などを見ると四道将軍の話も国土を幾つかに分けて治める話とも取れる
郡の南の海中に小嶋があり、その名を南毗津麻(なびつま)という。志我高穴穂宮御宇天皇(成務天皇)の御世、丸部臣(わにべのおみ)らの始祖である比古汝茅(ヒコナムチ)を遣わせて、国の堺を定めさせた。この時、吉備彦(キビヒコ)・吉備姫(キビヒメ)の二人が迎えに来た。そこで比古汝茅は吉備姫を娶り、印南別嬢を生んだ。この娘は端正で美しく、容貌に秀でていた。その当時、大帯日古天皇(景行天皇)はこの娘を娶りたいと思い、ここに下ってきた。これを聞いた印南別嬢は、かの島に逃げ渡って隠れてしまった。故に南毗都麻という。 阿波は倭国において重要な土地であることは確実であろう
五斗長垣内遺跡、舟木遺跡からも非常に近い場所に萩原墳墓群がある
その1号墓からは平壌市大同と同笵とも言われる画文帯神獣鏡が出ている
萩原1号の被葬者は、かなりの高官であろうことが確実である
率善中朗将・伊聲耆、率善校尉・都市牛利の可能性もある
また、魏から官位を授けられた記述こそないが、倭載斯烏越の墓である可能性もある 阿波が遠絶21ヶ国のどれかであることは確実であるが、萩原1号の被葬者が誰であるのか、非常に興味深く、勉強させて頂きたい
それは、箸墓古墳を卑弥呼の墓と断言し、邪馬台国=ヤマト王権と断言する徳島大学教授である東潮(あずまうしお)先生に聞いてみたい
誰か、東潮徳島大教授が萩原1号の被葬者を誰だと予測しているか知りませんか? >>798
卑弥呼から神功を作ったにしては卑弥呼と神功の実態が合わなすぎる
引き籠って占いだけしてた卑弥呼
前線で戦いまくってた神功
というか卑弥呼と気長足ではまず名前が全然違う
卑弥呼から神功を創造したのなら神功の名前をもっと卑弥呼に寄せてるはず
神功は卑弥呼とは全く別の由来から生まれたものだろう
それでも当時の書紀編纂者は魏志の卑弥呼に一番近いのが神功だから卑弥呼=神功と考えて魏志の引用をした 日本民族=北東アジアから渡来した騎馬民族説
普通にありえるな
馬のような神経質な動物を船で大量輸入など出来るわけもない
民族といっしょに馬の移動があったと考えるのはごくごく妥当だ 北東アジアから渡来してきたのはキビアワ農耕民だろ
その農耕民を北から押し出したのが騎馬民族 >>910
卑弥呼は知らない国の人だって
「我が国と同じ女王が居たとは奇遇だな」 >>910
神功皇后「3年前のセックスで懐妊した天皇の子供を福岡で産みました」
武内宿禰「応神天皇が生まれた福岡のカダの近くにわしが祀られております。わし、ずっと神功皇后と一緒で一緒に福岡を通りました」
????「旦那の天皇の名前は仲哀天皇とする」
明治の人「神功皇后を歴代天皇から外せ!はやく!」
大正の人「外しました」 そうそう
神功はむかしは初代女性天皇だったんだよなー だとしたら、日本書紀は天皇が中国に朝貢することを別に恥だと思ってなかったということになるな 平壌市大同と同笵かと言われる萩原1号から画文帯神獣鏡が出て、黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡に囲まれる中、大事に棺の中に1面だけ画文帯神獣鏡が副葬されていた
画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡より格上だったのは間違いない
その点で、萩原1号の被葬者はかなりの高官あるいは地元のオウである
ところが、桜井茶臼山の大王は、盗掘されているにも関わらず、この画文帯神獣鏡を19面も保有していた(盗掘前は一体何面あったのか?)
この事実によって、橿考研の所長である青柳氏は「邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王」と評し、同学芸員アドバイザーである岡林氏は「他の追随を許さない圧倒的な王」と評し、
かつ、「これまでは、倭国の王といっても脆弱な面があると思われていたが、他を圧倒する隔絶した力があった」とコメントし、初期ヤマト王権弱体論の見直しを迫られている。 >>917
百済は
日本と中国の両方に朝貢
日本は高句麗や唐の侵攻から
交戦をけいぞう 五斗長垣内遺跡は後から丹波か近江方面に
移転してるんよな
誰かが教えてくれた 遣唐使は問い詰められて中国は疑ってるのよ
それが記紀の内容だから 若い頃はイケイケだった神功皇后も
年取ったら引きこもって占いババ状態やろw そもそも神功皇后は実在していたとしても4世紀後半
卑弥呼とは無関係 つまり畿内説はさまざまな時空をワームホールで継ぎ接ぎした妄想作文でしたと >>926
記紀は嘘まつ。
百済新羅の半島と
日本の国境は無い。
薩摩や奥州にしても 同じ候国。
対高句麗、中原勢力防衛での
重要な、前線国家なのである。
倭の五王は、半島利権と
中国貴族、高句麗との交戦の交渉。
倭と南朝の同盟で有り、北朝の隋唐が
成立で史書には、書けなくなった。
これは、記紀成立の背景。 隋唐が昔は遊牧民だったのを隠してるから日本も倭人だったのを隠している。
これが漢化。 >>931
370年の七支刀の話なら、神功と
仁徳、聖帝は同一人物。
神話の長寿の祖母と、金石の残る
百済外交が有った天皇が同時に即位?
日本の古代史200年が、嘘松。
なぞの世紀だなwww
漢四郡は、日本が征伐しないし
女王卑弥呼なんて、朝廷に居ない。 神功と仁徳は創作
他は史実(但し神武、武烈の経歴はでっち上げ) その後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!
まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳?前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない(論理矛盾)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、百々襲媛は巫女であったとされるが、卑弥呼の様に曹魏に朝貢するなど外交政治的な実績は全くなく、実在であったとしても存在感のない皇女であり、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲となり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、否定される。
すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡太守・王?(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜欠史八代〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。
以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵 大発見をしてしまった
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ 皇族は苗字がないというのはウソで、ちゃんと阿毎(アマ)という苗字があるのよな
今上天皇は苗字がない事がコンプレックスだったというけど、
阿毎徳仁と堂々と名乗れば良かったんですよ 私は定説畿内説です。
九州説とかいうのは全く成立の余地なしと考えています。
また、セミプロレベルのハルキー氏も「考古学者の説明はあまりにも複雑すぎて分からない」というようなことを動画で言っていたことも考慮して、
考古学者というのは非常に高次元の域にあることを認める立場で以下のことを言いたいと思います。
確かに、考古学者は素人とは桁違いに知識があるのでしょう。
が、某SNS考古学者のツイートを見ると、「考古学=全ての科学=全知全能」であるかのように振る舞っているかのように見えます。
これは私が畿内自生説を排除するべきでないと思っているから、某SNS考古学者に対して、批判的に見ているのではなく、
明らかに「自分は天才で他の科学はゴミ」とも思えるようなツイートを繰り返しているからです。
畿内自生説の関西人学者も傲慢に見えるが、このSNS考古学者のツイートをいくつも見ていると、コイツの方が最も傲慢だと思い始めるようになりました。
まだ安本美典の方が謙虚に見えます。 >>938
天皇に名字がないのは
名字というのは天皇が臣籍降下する皇族に与えるものだったからだよ
天皇に名字を与えるような天皇より上位の存在はいない
だから天皇には名字がない 私は定説畿内説を採用し、畿内自生説の学者もあまり好まない立場ではあるが、この学者を「ひろゆきみたいな人」と評価します。
まだ、九州説の安本美典氏、ハルキー氏の方が好感を持てます。
この人は本当に謙虚さに欠け、不快です。 大学教授でもないただの公務員である久住が高い評価を得られるようになった要因は議論好きだったからだろうな
議論で負けたくないからとことん調べる
モチベーションこそ最大の要因 >>942
学者ってそういうもんだよ
寝ても覚めても常に論争という戦争状態
ただ銃と刃物がないだけ
むかしの邪馬台国論者は殴り合いは常時で刃物で刺される事もあったとか >>943
この人は、とても良く調べているとは思えない
前年末、桜井茶臼山古墳の銅鏡103面についての橿考研の青柳所長や岡林学芸員のコメント新聞記事→「他の追随を許さない圧倒的な王」に対して、
「103面も出たということに懐疑的」とか、「関西の大学は〜」とか、全く科学的ではなく個人の主観・想像でそれを否定している。 九州論者は「水行十日・陸行一月は嘘!戸数は盛ってる!」とか簡単に言うけど、魏の使いが皇帝に嘘の報告したら普通に死刑だからね >>947
あなたは素人中の素人なので、九州説、畿内説、または他説、いかなる説を採っているとしても、非常にレベルの低い書き込みです。
最も書き込みレベルの高いのを100、最も低いのをゼロとすると、あなたの書き込みは10未満です >>947
畿内説得意の、方向間違いもな。 @阿波 「水行十日・陸行一月」は倭国からの使者から得られた情報 >>950
何れにせよ、正しい情報ということだ。 @阿波 関西人は粉もの(小麦)ばっか食ってるから脳筋なんだよ
アジアなら低カロリーな米を食わないとな
日本の衰退は米離れからきていると言っても過言ではない その後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!
まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」卑弥呼ではない(すべてが矛盾し魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち巫女であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように曹魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女であり、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。
すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜欠史八代〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。
以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>948
死刑はともかく意図的な嘘は書かないでしょ >>938 >>941
「苗字(名字)」が何であるか理解しているか?
まさか日本史板でこれほど無知或いは無神経な術語の使い方を見るとは…(嘆)。 因みに九服周礼は嘘じゃないよ
そう定められたんだから まあ途中まで里数で記録してた魏使が突然に日数での記録に切り替える理由も無さそうだしな 八角墳墓の皇位継承は三種神器プラス大刀契。
この大刀契が卑弥呼の大刀ではないか?と考えている
百済から貰い受けているとなっているが七支刀より前とも言われ何より銘文が道教。おかしい、道教を認めない者らが何でこんな物を持っていたのか?
怪しいな、この倭の別種わ >>947
魏の使者が盛ったという主張をした九州説論者がこのスレに一人でもいたかね? 魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する 魏使「○○国まで○千里です、次は○○国まで○千里です、次は○○国まで○千里です……」
畿内説「嘘だッ!」 威信財が村落共同体の銅鐸から、被葬者専用の三種の神器(伊都国平原王墓)に替わっていることから、畿内が北部九州勢力に征服されたことが判る。 それは畿内が甕棺になっていないとダメだな。そんな話は✕ >>963
そこは陳寿が辻褄を合わせる為の嘘かもね 神功皇后も神がかりして託宣してるんだけどな
三韓へ行ったのは張政の檄に呼応したんやないの >>967
北部九州で甕棺墓がとっくに廃れてから東遷したのだよ もし里数が嘘じゃ無いならあれは周代の記録って事になる
当然国名も周代 ところがだね、箸墓(布留0式)より新しい布留1式の祇園山には甕棺の殉葬者がいるんだよw つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ詐欺(ウソ) もう諦めた方がいいよ
三世紀はもう九州が独立を保つのは不可能だから
それくらい本州各地のスケールが大きくなっている 甕棺は瓢、ドングリじゃない別名は朴のタマゴ
太陽信仰と言うか八紘一宇だな、太陽が朴だ、その元で全ては治まるわけだな。
多神教ではない絶対神
それを大戦で経験したのよ 何一つとして魏志倭人伝の記述に合致しない畿内説はもうあきらめた方が良い。
邪馬台国ではない倭種の王権だ。 全て辻褄が合うのが畿内説だよ。顔を背けているのが九州。九州に古朝鮮の痕跡しか無い 邪馬台国は大和
狗奴国は河内湖と大和川の南の河内和泉
弥生時代末期の河内和泉はまだ銅鐸、ヒスイの勾玉、鳥形、石棒信仰、龍の絵画土器の国だな
纏向遺跡みたいに東海や吉備の影響もない >>969
卑弥呼の鬼道は神降ろし
いわゆるイタコ芸
魏が倭に期待したのは
呉の挟撃・牽制というよりは
半島支配における魏の援軍
それが黄幢の証
ゆえに、神功皇后記でも三韓征伐
また倭の五王でも半島案件が出てくるのは
魏志倭人伝の記述由来の所以と思える 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1714138651/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>982
倭国から産出されてればいいんでしょ
邪馬台国の比定地となんの関係があるの? >>984
九州説のいう倭国の範囲はどこからどこ? O2の王朝
秦朝 O2 始皇帝
漢朝 O2 劉邦、武帝(劉徹)、光武帝(劉秀)
蜀漢 O2 劉備
孫呉 O2 孫権
劉宋 O2 劉裕
明朝 O2 朱元璋、永楽帝
朝鮮
高麗 O2 王建
李氏朝鮮 O2 李成桂
下層に追いやられてたのに繁殖力だけは異常 O2の王朝
秦朝 O2 始皇帝
漢朝 O2 劉邦、武帝(劉徹)、光武帝(劉秀)
蜀漢 O2 劉備
孫呉 O2 孫権
劉宋 O2 劉裕
明朝 O2 朱元璋、永楽帝
朝鮮
高麗 O2 王建
李氏朝鮮 O2 李成桂
下層に追いやられてたのに繁殖力だけは異常 O2の王朝
秦朝 O2 始皇帝
漢朝 O2 劉邦、武帝(劉徹)、光武帝(劉秀)
蜀漢 O2 劉備
孫呉 O2 孫権
劉宋 O2 劉裕
明朝 O2 朱元璋、永楽帝
朝鮮
高麗 O2 王建
李氏朝鮮 O2 李成桂
下層に追いやられてたのに繁殖力だけは異常 三皇五帝、夏、殷、周、曹魏、晋、北魏、西魏、東魏、北斉、北周、隋、唐、宋、遼、金、西夏、元、順、清
獫狁、葷粥、山戎、戎狄、月氏、匈奴、東胡、丁零、鮮卑、高車、柔然、鉄勒、突厥、烏桓、回鶻黠、戛斯、達靼、乃蛮、客烈亦、羯、氐、羌
濊貊、沃沮、粛慎、挹婁、扶余、高句麗、百済、新羅、勿吉、靺鞨、渤海、東丹、女真、大真国
倭、日本
C2.N.Q.O1.D1
少数の異民族に支配されるO2w 三皇五帝、夏、殷、周、曹魏、晋、北魏、西魏、東魏、北斉、北周、隋、唐、宋、遼、金、西夏、元、順、清
獫狁、葷粥、山戎、戎狄、月氏、匈奴、東胡、丁零、鮮卑、高車、柔然、鉄勒、突厥、烏桓、回鶻黠、戛斯、達靼、乃蛮、客烈亦、羯、氐、羌
濊貊、沃沮、粛慎、挹婁、扶余、高句麗、百済、新羅、勿吉、靺鞨、渤海、東丹、女真、大真国
倭、日本
C2.N.Q.O1.D1
少数の異民族に支配されるO2w 三皇五帝、夏、殷、周、曹魏、晋、北魏、西魏、東魏、北斉、北周、隋、唐、宋、遼、金、西夏、元、順、清
獫狁、葷粥、山戎、戎狄、月氏、匈奴、東胡、丁零、鮮卑、高車、柔然、鉄勒、突厥、烏桓、回鶻黠、戛斯、達靼、乃蛮、客烈亦、羯、氐、羌
濊貊、沃沮、粛慎、挹婁、扶余、高句麗、百済、新羅、勿吉、靺鞨、渤海、東丹、女真、大真国
倭、日本
C2.N.Q.O1.D1
少数の異民族に支配されるO2w 高句麗に背乗り
百済に背乗り
渤海に背乗り
殷に背乗り
隋に背乗り
唐に背乗り
元に背乗り
清に背乗り 高句麗に背乗り
百済に背乗り
渤海に背乗り
殷に背乗り
隋に背乗り
唐に背乗り
元に背乗り
清に背乗り 高句麗に背乗り
百済に背乗り
渤海に背乗り
殷に背乗り
隋に背乗り
唐に背乗り
元に背乗り
清に背乗り 北方遊牧民に対する先入観を捨てて中国史やアジア史を見直さなければ、その本来の姿が見えてきません。
歴史の実態として、中国はほとんどの時期において北方遊牧民のもので、彼らこそが中国王朝の推進者であり、漢民族はそれに付随していただけの周辺的な存在に過ぎません。 このスレッドは1000を超えました。
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