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邪馬台国畿内説 Part1018
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0001◆ondZSOlfxeS6
垢版 |
2024/04/30(火) 10:22:31.03
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1714138651/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。
0002◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:24:59.94
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:25:29.15
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:25:59.59
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:26:30.38
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:27:00.27
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:27:30.34
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:28:00.53
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:28:30.20
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:29:00.17
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:29:30.93
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:30:00.31
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:30:30.01
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:31:00.07
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:31:30.93
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:32:00.57
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:32:30.63
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:33:30.35
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:34:30.85
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:35:00.12
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
0021◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:35:30.11
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:36:00.45
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:36:30.18
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:37:00.29
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:37:30.43
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:38:00.39
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:39:00.16
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
0028◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:39:30.45
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:40:00.44
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:40:30.02
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:40:59.29
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:41:30.23
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:41:59.80
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:42:29.25
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2024/04/30(火) 10:43:00.44
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2024/04/30(火) 10:43:30.48
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
0037◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:44:00.01
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2024/04/30(火) 10:44:30.56
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2024/04/30(火) 10:45:00.45
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
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2024/04/30(火) 10:45:30.04
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2024/04/30(火) 10:46:00.19
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2024/04/30(火) 10:46:29.94
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2024/04/30(火) 10:46:59.69
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:47:29.95
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:48:00.19
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
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2024/04/30(火) 10:48:30.01
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2024/04/30(火) 10:48:59.86
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2024/04/30(火) 10:49:30.18
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2024/04/30(火) 10:49:59.94
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2024/04/30(火) 10:50:30.21
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)
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2024/04/30(火) 10:50:59.66
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2024/04/30(火) 10:51:30.24
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2024/04/30(火) 10:51:59.64
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:52:30.23
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 10:53:00.74
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2024/04/30(火) 10:53:29.96
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 
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2024/04/30(火) 10:54:30.69
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2024/04/30(火) 10:55:00.85
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2024/04/30(火) 10:55:30.47
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
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2024/04/30(火) 10:55:59.98
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2024/04/30(火) 10:56:30.19
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
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2024/04/30(火) 10:56:59.81
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2024/04/30(火) 10:57:30.62
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2024/04/30(火) 10:58:00.38
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2024/04/30(火) 10:58:30.66
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である
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2024/04/30(火) 10:59:00.42
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2024/04/30(火) 10:59:30.86
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2024/04/30(火) 11:00:00.33
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2024/04/30(火) 11:00:30.25
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
0070◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 11:01:00.04
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
0071◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 11:01:30.21
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
0072◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 11:01:59.83
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
0073◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 11:02:29.69
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
0074◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 11:03:00.24
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0075◆ondZSOlfxeS6
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2024/04/30(火) 11:03:31.46
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
0077日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 11:12:45.69
問2
魏志倭人伝によると3世紀の倭国には邪馬台国やその連合国、狗奴国、倭種の国々が存在する
3世紀と証明されると邪馬台国だと比定される理由を説明せよ
0079日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:13:41.43
>>77
日本語がおかしくて質問の意味がわかりません
0080日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:16:27.50
>>77
東海倭種は魏晋南北朝史学会副会長・陳長崎の「倭国について知っている情報をとにかく混ぜ込んだとする説、
あるいは久住のように後世の混在とする
0081日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:19:53.46
スレ建て荒らしは九州説バカウヨ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:22:10.50
@まず【魏人にしか書けない里数表記(倭人不知但計以日)】の「女王国(九州)東渡海【千里】(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、人長三四尺(少彦名)去女王【四千里】(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官、狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

そして「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!
0083日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:25:21.72
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とする魏の誤認で蛇足だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)にあり、宿敵・孫権を牽制してくれようとしている可愛い東夷という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(魏の誤認)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
.........................↖投馬国(都萬・耳川)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖誤認
0084日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:28:15.57
◯景初3年→卑弥呼(親魏倭王に任命。金印紫綬をもらう)
・難升米(率善中朗将に任命。銀印青綬をもらう)
・都市牛利(率善校尉に任命。銀印青綬をもらう)
◯正始4年→大夫伊聲耆・掖邪拘ら8人(皆、等しく率善中郎将に任命。印綬をもらう)
◯正始6年→難升米(黄幢を授かる)
◯正始8年→倭載斯烏越らを魏に派遣
◯正始8年→倭大夫かつ率善中朗将・掖邪拘ら20人が張政の帰国に随伴

他に倭国がもらった物
◯景初3年→ 絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、【銅鏡百枚】、真珠、鉛丹各五十斤
◯正始元年→ 詔書、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

出土物から、滋賀雪野山古墳、徳島萩原墳墓群、福岡石塚山古墳、桜井茶臼山古墳、黒塚古墳、椿井大塚山などが想定されるできしょう
0085日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:28:35.31
>>83
https://blog-imgs-128.fc2.com/h/y/e/hyenanopapa/blog_import_5d41643af0702.jpeg
於投馬・ia du mæ・イアドゥマ≠投馬・都満

地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:32:49.25
九州説では、北部九州から魏志倭人伝に書いてある通り「南」に進みます。本居宣長らは日向国都萬(つま)神社付近(日向国児湯郡、現宮崎県西都市)としましたが、都萬神社付近の西都原古墳群や児屋根塚古墳は、古くてもせいぜい4世紀初頭のもので、3世紀のものはありません。安彦良和氏は西都原を日向邪馬台国として描きましたが、考古学的には不可能です。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:36:39.92
>>82
うゎ、すげー!
0089日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:36:52.54
関門海峡は元々陸続きであった(参考)

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

(於)投馬国=宮崎のコジツケはスリーアウト
0090日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:37:32.07
ヒント:吉野ヶ里遺跡発掘前の筑紫平野w
0091日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:39:58.96
>>89
関門海峡の北側と南側に別の舟が用意してあったんだよ!
0092日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:42:29.64
古代九州に百万人ぐらい居た、言ってるのがアホ九州説
0093日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:42:55.03
>>90
官禰禰(ミミ→耳川)の宮も(宮崎だけに)そのうち発掘されるよw
0094日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:46:37.92
九州説はそのうち出る出る詐欺
0095日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 14:47:46.29
残念ながら(南→東)に読み替えても畿内説は成立せんのよw

不弥国(奴国から百里7.5qなら宗像、もしくは直方平野=遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない。

@日本海ルート(出雲投馬国)
A瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
B豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海【千里】複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在【其】南 去女王【四千里】」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使が直接見たわけだから「倭人不知里数但以計日数」、四国を見るルートはA瀬戸内海ルート(吉備投馬国)かB豊後水道ルート(日向投馬国)のどちらかで、@日本海ルート(出雲投馬国)は消えることだ⇩
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg

次にA瀬戸内海ルートだが、ご存じ山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要がなく、さらに水行十日で大阪へ向かうとすると、同様に直線的かつ平坦で道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで「倭人不知里数但計以日」、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判る。

仮に大阪から陸行一月(20q×30日=600q)すると、邪馬台国女王之所都は横浜(486q)東京(498q)大宮(520q)から水戸(620q)となり、其南有狗奴国は北(蝦夷)になってしまう。
0096日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:49:12.00
バカの脳死コピペ誰も読んでねえ
0097日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:50:00.15
残るB豊後水道ルートだが、山が海岸線に迫り道が狭く紆余曲折しアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。

さらにB豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫邪馬台国7万戸女王卑弥呼は、合計12万戸で狗奴国(8〜9万戸か)を挟み撃ちしようとしたため、(有明)海にしか逃げ場がなくなり絶体絶命となった卑弥弓呼と狗古智卑狗(鞠智彦)は「窮鼠猫を噛む」で卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かったという政治的な軍事情勢も判明し、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0098日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:53:41.40
>>96
纏向に魏志倭人伝に一致する遺物ってなんかあるの?w
「径百歩」「殉葬百人」卑弥呼の墓でないことは確実な箸墓の築造年代だけでは?w
0099日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 14:59:10.95
>>98
>纏向に魏志倭人伝に一致する遺物ってなんかあるの?w
>「径百歩」「殉葬百人」卑弥呼の墓でないことは確実な箸墓の築造年代だけでは?w

いや一致しておらんよw

Wikiより
奈良県立橿原考古学研究所は(箸墓の)築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材のC14炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており、さらにC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることが判明したとして、(箸墓だけでなく)この墓も卑弥呼の墓である可能性は限りなくゼロに近いとする意見を紹介している。
0101日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:02:42.42
>>99
>木槨木材のC14炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告

おいおい、ホケノ山が4世紀前半?(築造は一番新しい部材以降とするのが常識だろ)w
だとするとそれより新しい箸墓はどうなるんだ?www
0103日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:11:16.22
>>101
ホケノ山の出土遺物(副葬品)が3世紀中(250年)頃で、築造が木槨から4世紀前半(中間値を取って325年頃)とすると、
築造の約75年前の遺物(副葬品)ということになり、筑紫邪馬台国東遷説や禅譲説も十分成り立つなw
0104日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:13:41.68
大和屁の行き方
『又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲。』
『又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。』
『後十日、又遣大禮哥多毗從二百餘騎、郊勞。既至彼都。
これでついた
0105日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:15:45.20
>>103
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に【木】棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する【甕】棺墓や【石】棺墓)の象徴ではありません。
畿内説の皆さんは、槨の定義より、棺の材質【木】か【石】かに着目してくださいね。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+(【斜縁】に銅鐸紐の鋸歯紋▲▲▲を入れた)【三角縁】神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
0106日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:30:48.21
絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹、これらの下賜品は当然にして九州にはない
桜井茶臼山古墳、雪野山古墳の出土品がこれに該当するだろう
0107日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:33:01.11
>>105
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

その結果、狗古智卑狗=菊池彦の幻想が産まれ、今日の九州(狗奴国=熊本)説に至っているのです。
0108日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:33:15.31
>>100
だから台地に集落を作ってんじゃん
ナイル川と同じで暴れ川の周りほど肥沃な土地になるから収穫量も多い
0109日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:33:55.09
これは話題なった?
韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見
0110日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:40:50.45
>>108
山沿いの狭い土地しか住めないのに7万戸も居たと思うか?
それに筑紫平野は江戸時代でも収穫量少ない
0111日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:45:35.97
>>99
後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!

まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが互いに矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち巫女であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように曹魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。

すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。

以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。

本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵
0112ネトウヨ撲滅隊!
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2024/04/30(火) 15:58:02.14
ヤマト王権の建国を卑弥呼の後にしようとするのもネトウヨ思想の延長だろうな

卑弥呼が天皇だと天皇家が過去に中国皇帝に臣下の礼をとった事になるからな

だから卑弥呼と天皇家を切り離したくてヤマト王権の成立を卑弥呼の後ろに置くというアクロバティックな論理構築をするわけだ
0113日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:58:45.62
247年に東海狗奴国の卑弥弓呼と交戦中の卑弥呼w
しかも、死んだ後に立った男王を巡って内戦がぼっ発して、1000人が討ち死にw
三方ケ原の戦いの死者が徳川方1000人w
⇩この状況で箸墓築造(盛土30万㎥=135万人必要)は無理だろうw

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0114日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 15:59:00.35
スクリプト狂、捕まってないじゃないか

何してんだよ京都府警
0115ネトウヨボクメツ隊!
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2024/04/30(火) 16:01:19.51
卑弥呼は紛れもなく天皇家の人間であって、日本の天皇は過去に中国皇帝に臣下の礼を取っている

ネトウヨは韓国を中国の属国などと言っていたが、日本も同じなわけだ

これを認めたくないネトウヨが九州説を主張したり、神武はの卑弥呼より後の人などというわけなのだ
0117日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:28:10.14
ネトウヨが板荒らしてるから逮捕しとけ
0118日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:34:49.62
>>115
>卑弥呼は紛れもなく天皇家の人間
これはわかんないな
ただしヤマトとして連続性はあるし属国だった過去はある
それと神武は
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
0119日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:39:44.64
>>110
古代の話だろ
原始的な農業しかできない以上、自然の力で土壌ができる地域のほうが有利
0120日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:43:16.39
計ってもいないのに渡海千里。
数えてもいないのに7万戸。
0121日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:49:52.28
司馬懿あたりが大国に見せかけようと誇張したんじゃね?
0122日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 16:51:11.96
数字に関してはほぼ誇張
0124日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 16:57:05.66
天皇家は卑弥呼の直径じゃないのは100%間違いない
何故なら親魏倭王の金印が皇室に伝わってないから
0126日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:01:46.99
>>124
ばかなの?
0128日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:04:10.51
相変わらず文系脳の非科学的思考に左右それぞれの政治的偏向を掛け合わせた朦朧たる妄言の応酬。
スクリプト荒らしの埋め立てレスよりも無意味かつ不毛。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:11:13.33
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0130日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:13:04.52
科学的思考してたら中国で出土しない三角縁神獣鏡が中国産の鏡だとか
恥ずかしくて口に出せない
0131日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:14:20.85
>>99
>木槨木材のC14炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告

こういうニセ情報を流すから九州説は信用を失なって亡んだ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:15:05.12
同じ金印仲間の大月氏国と比べるとおかしいね
0133日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:16:12.87
>>124
宇美から堺に東遷した応神天皇からの系譜
よく継体天皇からと言われるが、古代の血縁関係は四世孫までとされていたところを、
馬鹿正直に五世孫と書いているのがリアルである
捏造なら四世孫以内と書けばいいだけ
0134日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:16:29.31
倭国ってのが問題がある
中国が名付けた中国語だからな
0135日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:20:44.81
やっぱ大月氏国に対するヤマト国だ
それもこれも文字が無いのが悪い
0136日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:23:16.66
>>119
吉野ケ里には水田も無くて魚介類食ってた
0137日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:25:16.12
>>134
問題であるとは思うが大したことではない。
名前など単なる識別記号だ。
倭でも日本でもホニャララでも何でも構わない。
いっそ「地域A」「B」「C」…でも支障は無い。
固有名詞などと云うタチの悪い共同幻想に囚われるから議論が要点を見失って明後日の方向へ拡散する。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:29:59.44
>>137
日本人にとっては倭国では無いってのが問題
集落を国とか言ってるから誤解されたんだろうけど
0139日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:34:33.45
本当なら親魏大月氏王に対して親魏ヤマト王じゃなきゃいけないのに文字がない
0140日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:46:26.09
>>138
どうでもいい。
三世紀だったら三世紀に列島内の幾つかの地域に於いて当該地域内で相対的に優越する祭政共同体(権力体)の形成されていた物理的痕跡が確認されている、
と、それだけの事実で十分。
その各個について言及する場合には識別記号を付ければ足りる。
その記号がヤマタイだろうがアトランティスだろうが何だろうが支障は無い。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:54:16.49
>>140
なんで中国目線なの?
てか大月氏国に対して集落に金印くれるわけねえじゃん
0143日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:55:03.35
>>108

日本は降水量が少ない砂漠気候じゃねぇんだから
少しは考えてからもの言えぼんくらが
0144日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 17:59:35.45
邪馬台国が大きい倭になって倭地を統一したから倭をヤマトと読む。歴史の勝者の権利。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 18:11:06.44
私は今、徳島大教授であり、おそらく九州人(九大卒)である東潮(あずまうしお)先生の考えに興味をそそられています。
東潮先生は、「箸墓は卑弥呼の墓」と断言、さらに邪馬台国=ヤマト王権と断言している

また、卑弥呼だけでなく、魏志倭人伝に登場する人物の墓の比定にも熱心
黒塚は難升米の可能性が高く、冠帽形埴輪という意見もある中、黄幢だろうという。
小札革綴冑は雪野山古墳や石塚山古墳出土のそれに当てる。

すなわち、倭高官は畿内出身者だけではないというのである。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 18:20:44.50
>>142
何故?
『魏志倭人伝』他の「文献」などというアヤフヤなものを狂信するから固有名詞なんぞが気になるだけだろう。
物理事実だけを追究するなら固有名詞に意味など無い。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 18:23:30.30
>>141
大月氏国?
当方はそんな名詞に一度も触れていないが。
それもまた単なる記号だ。
興味も無い。
月でも火星でも好きなように呼べば宜しい。
0149日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 18:34:31.60
>>146
歴史を語るのは固有名詞がすべて

おまえは纏向掘って、でっかいぞーって叫んでろw
0150日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 18:40:56.86
>>136
炭になった米や農具、高床式倉庫まで出てきても「水田はない」と考えるのか
畿内さんの発想はおもしろいな
0152日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 18:53:37.78
吉野ヶ里は確かに水田跡が発見されてない
が、間接証拠からあったと見なすべきだろう
纒向にも鉄器があったことは確実であり、それを示す間接証拠はいくつもある
0153日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 18:55:14.76
>>150
あったとしても見つからないぐらいショボい
0154日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 18:56:12.06
公務員クズタケのいう「地方短里」のはどういうものなんだ?
0155日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:02:33.11
水田に向いてるのは水はけの悪い沼地
筑紫平野は何作っても筑後川が流してしまうからアウト
0156日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:03:24.62
>>145
なるほど?平壌同范のものであるものの
画文帯神獣鏡が阿波から出るのを重く見ているのか
しかも阿波国造の太祖・大麻比古の社地に近い
阿波は間違いなく邪馬台連合の一つ
0158日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:05:19.01
>>152
鉄器があったかなかったかならあっただろうが
全体からみた量は……
0160日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:09:15.14
>>156
>阿波は間違いなく邪馬台連合の一つ

違う。  邪馬台連合=「邪馬臺国」は、「阿波」の北部(粟国)だ。 「阿波」の南部が「狗奴国(長国)」。   @阿波
0161日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 19:10:53.55
纒向古墳群並びに畿内の大王墓の鉄器の量は異常である
ホケノ山、椿井大塚山、メスリ山、恵解山古墳などと時を経ても鉄器の多量副葬を欠かさない

他方、鉄期化が進んだと見られる北部九州の墓からは、銅剣、銅矛などの多量副葬が見られ、なお、鉄器は墓に入れてはもったいないシロモノだったと思われる
0162日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:11:11.09
>>158
>鉄器があったかなかったかならあっただろうが

勿論、鉄器王国「阿波」から持ち込んだものだ。   @阿波
0163日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:15:43.87
邪馬壹国をヤマトと発音したかどうかは分かっていない
それを根拠に邪馬台国論争するのは学問ではなく妄想
0164日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:16:32.19
大麻比古の本殿後方には神奈備に相応しい
稜線を描く山が聳えているよ
ここに降臨したのは猿田彦だと言われていたが
これは同じく阿波の御祖となる大宜津比売が
伊勢から来たという伝えに合わせて後から
混ざった可能性があるようだ
0166日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 19:20:37.94
>>160
↑九州説だの関西説だのの他にも固有名詞中毒者がいるのか。
阿波(?)に何物かがあったにせよ、
「当該時代の列島に於ける地域内相対優越権力体のうちの一つ」即ち one of them という物理事実だけで十分だろうに、
何の不足あって意味無き記号を争う?
0168日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 19:45:27.00
古事記は卑弥呼をモデルに、天照大神の高天原神話を創作した。
しかし、だからといって卑弥呼は天照大神ではない。
その点、邪馬台国の隗人は勘違いしてる。

天照は神だから永遠の存在で、年も取らず、死もないし、当然墓もない。
他方、卑弥呼は人間だったから年を得て死し、徑百余歩の塚に葬られた。
其の塚は多分高千穂にある。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 19:53:30.49
邪馬壹国と書いて竈門国と言います
即ち竈門神社
0170日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 19:55:45.53
竈が日本に来たのは古墳時代だそうだぞ
卑弥呼はこれを使った米をギリ食べられなかったようだ
0171日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:06:07.03
漢人の邪馬臺国、鮮卑人の邪靡堆国、日本人の夜摩苔は同じ国なんだなw
0172日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:07:36.81
共通しているだけまだいい
ロシアは今でも中国を契丹呼ばわりだ
0174 警備員[Lv.4][新初]
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2024/04/30(火) 20:15:39.73
>>171
>goo辞書
「堆」とは? 部首・画数・読み方・意味 - 漢字辞典 - goo辞書
①うずたかい。積みあげる。「堆積」「堆肥」 ②おか。海底で丘状のところ堆 (うずたか)い、積み上げる


堆い = うずたかい

積み上げる?

オオヤマツミ?
0175日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:17:06.81
質問だが?

糞スレ立て嵐と言うのは
日本史板の限定で

キナイコシが、犯人なのか?
0176日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:23:07.43
松傾だろ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:31:17.09
新刊

「卑弥呼の鏡」が解く邪馬台国 (単行本) 単行本 – 2024/5/9
安本 美典 (著)

邪馬台国と卑弥呼は、日本古代史上最大の謎である。
本書は、半世紀以上にわたって邪馬台国研究をリードしてきた著者が、
「元伊勢籠神社伝世の二面の鏡」と「パラレル年代推定法」という新たな視点を導入し、

@邪馬台国北部九州説、
A卑弥呼は天照大神である、
B邪馬台国東遷説(神武天皇東征は、邪馬台国の後継王朝による畿内への本拠地移動)
という、これまでの自説をより堅固なものとする。

同時に、卑弥呼が魏の皇帝から受け取った銅鏡百枚のうち、二枚が現存し、
その実物写真をこの目で見ることができるということの、確実な論拠を提示する。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:46:44.89
答え
>>175が犯人
0179日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:53:07.73
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通り過ぎた筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMTfAfuaEAEBmVS?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆
0180日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:54:36.35
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が何かと便利じゃね?wという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケとして継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ!

その名残が、継体が傀儡の武寧王を通じて百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(✕琵琶湖○有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗った阿毎多利思比孤(天から垂れた彦)。そして大和にいた分家(留守番)欽明の孫・推古と摂政厩戸王子。

その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して都の阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)
0181日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:57:02.89
>>178
おれは見た
数日前のスレ立て荒らしの中に贅六というワードが入っていたのを
スクリプトが拾ったのかもしれないが
ともかく贅六というワードの使用者と句読点は別人だろう
句読点も長いこと巻き込まれて規制に遭っていたらしいな
0182日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 20:59:21.88
>>177

おお面白そうだね

海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」
息津鏡(おきつ-)は後漢代の作と伝えられ直径175mmの長宜子孫内行花文八葉鏡、辺津鏡(へつ-)は前漢代の作と伝えられ直径95mmの内行花文昭明鏡。「海部氏系図」の勘注系図にも記載があり、天祖が火明命に授けたという。出土品でない伝世鏡では日本最古という。なお、鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は明らかでない。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:06:25.98
>>179
>>180
以上、倭王権の変遷をまとめてみますた!

57年漢委奴国王(奴国博多)→107年帥升(伊都国)【倭国大乱】
→239年卑弥呼・247年台与(筑紫吉野ヶ里・邪馬台=脊振【山】南麓舌状【台】地)
→266年(魏→晋への禅譲に倣い)台与がヤマト吉備王権へ禅譲(大和崇神朝→河内応神朝)
→527年筑紫君岩井の乱で継体朝が阿蘇邪靡堆(山外)へ西遷(ピンク石棺)
→607年「日出処天子」阿毎多利思比孤(阿蘇山祷祭)
→阿蘇山大噴火で都・邪靡堆(山外)が壊滅し、天智が北遷(太宰府)
→663年白村江完敗で東遷(近江大津宮へ)
→672年壬申の乱で天武持統朝(飛鳥・藤原京)へ
0184日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:12:28.04
>>177
安本美典氏って…かつて故・古田武彦氏をまともに相手にしたりして学界の品位を大いに下げた御仁だろう。
まだ現存していたとは驚いた。
いや、生物学的な長寿はめでたいが、
どのツラ下げて学界に現存してやがるんだよ、と。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:20:42.48
⇩倭王権変遷早見表だよ!(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)

漢委奴国王(博多)帥升(糸島)卑弥呼・台与(吉野ヶ里)
崇神朝(大和)応神朝(河内)継体朝(阿蘇)天智朝(太宰府→近江大津宮)天武朝(飛鳥藤原京)
0186日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:29:26.14
>>185
太宰府に遺跡は無いと言ってるんだけど
0187日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:30:43.62
>>184
>どのツラ下げて学界に現存してやがるんだよ、と。

してません
0188日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:32:26.52
筑紫邪馬台国台与から禅譲を受けたヤマト王権の系統

崇神朝(大和)複立男王並受中国爵命
応神朝(河内)倭の五王(讃珍済興武)安東大将軍(筑紫宇佐八幡宮)
継体朝(阿蘇)安閑宣化阿毎多利思比孤(天垂彦)天智
└欽明朝(大和)敏達用明推古崇峻舒明皇極孝徳斉明天武
0189日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:34:24.26
邪馬台国
本能寺の変
坂本龍馬暗殺
 
「常人には見えないものが見える人たち」が季節毎に「今シーズンの新説コレクションです!」と躍動する分野
0191日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:36:41.95
>>185
天智時代(7世紀)の太宰府は時期的に前期難波宮と同じ掘立柱、って優香、むしろ前期難波宮645が太宰府を模した可能性が高いな
0192日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:39:48.58
太宰府の歴史

7世紀 - 筑紫大宰が置かれる(阿蘇山大噴火で都・邪靡堆が壊滅し天智が北遷)。
663年 - 白村江の戦い。防衛のため大宰府を内陸(現在の大宰府跡)へ移したと推定される。
664年 - 水城(みずき)の設置。防人を配す。
671年 - 大宰府の名、『日本書紀』に初出。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:45:37.89
>>192
>663年 - 白村江の戦い。防衛のため大宰府を内陸(現在の大宰府跡)へ移したと推定される。

すると、天智が壊滅した首都・阿蘇邪靡堆から北遷した時の太宰府は、今の太宰府の場所じゃないってことだね!w
0194日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:49:18.49
やっぱりクズタケ先生はダメだなぁ…orz
0195日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:58:07.52
板付遺跡の人々は紀元前1世紀頃何処に移動したのか
縄文時代前期以降長い間定住の跡がなく弥生時代の始まりと共に板付遺跡が誕生するんだよな
一部弥生時代前期、板付遺跡の人々は大阪にも移っている
弥生時代前期に始まる雁屋遺跡は板付式土器が見つかっているな
0196日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 21:59:12.40
>>193
【壬申の乱】の舞台、 阿波市市場町に天智天皇・天武天皇(大海人皇子)の痕跡
「得道山灌頂院大野寺」(とくどうさん かんちょういん おおのじ)

天智天皇の勅願により、同天皇2年(663)に現寺域の西方、大野島御所原に創建された。
その後、平安初期に嵯峨天皇の尊崇を得て、七堂伽藍が整えられた。
しかし、度重なる吉野川の氾濫に被害を受け、文亀年間に現寺域の北方、山野上白坂に移転、享保年間に現在地に移転した。
四国八十八ヶ所札所となっている切幡寺と土成町秋月の光福寺は、大野寺の末寺であった。   
天智天皇十年、病床に臥した天智天皇は、皇太弟大海人に即位を求めたが、大海人は固辞し、
「私は出家して、天皇のために功徳を積みたい」と申し出た。そして、天智天皇が創建したこの寺で得度し、灌頂を受けた。
これが当寺の山号院号の由来である。   @阿波
https://omairi.club/spots/86432/point?post_id=42549#42549
0197日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:00:46.60
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0198日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:01:29.05
邪「靡」堆
という表記がさっきから気になるんだが。
これは何だ?原典が「靡」と表記してるのか?
「靡」は逆立ちしたってマとは読めないわけだが、
邪馬「壹」が邪馬「臺」の誤記だってのと同じ扱いで--「摩」の誤記とか--通用してるもんなのか?
 
0199日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:19:03.76
別の書物だと「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれてるから摩の誤字だな
0201日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:22:57.37
隋書の時代でも最期ツァイで終ってんだよな
いつの時代も一貫してトとは言わないのなんだろうな
0202日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:24:52.13
>>186
考古バカのクズタケ、残念でしたw
0204日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:33:25.95
丹波と呼ばれる所以は、往昔 豊宇気大神(トヨウケノオオカミ)が天降って この国の伊去奈子嶽(いさなこだけ)に坐した時、天道日女命(アメノミチヒメ)らが五穀の種や桑蚕などを請うた。そして、この嶽に真名井を掘り、その水を水田や陸田にそそいで種を悉く植えると、秋には八握にもなる垂穂が生い茂り、とても快い様になった。これを見た大神も大いに歓んで「あなにやし植弥之子の田庭」と言った。そして、しばらく後に大神は高天原に登って行った。故に田庭という。

同じ理屈でいけば、なにわは那庭か?
大阪の民話に登場するなにわの軽業師の寅吉、那と軽は何か関係があるのだろうか? 
楠から軽船が作られる枯野伝説
なづの木の歌
軽と那津は関係があるんじゃなかろうか

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
といふ。此これは志都しつ歌うたの歌返うたかへしぞ。(仁徳記)
0205日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:37:43.25
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
0207日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:48:01.16
>>200
>>179
0209ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/30(火) 22:53:14.96
卑弥呼は明らかに天皇家の人間
ジャップは中国皇帝に臣下の礼をとっている
ネトウヨは無念だろうが韓日とも同じようなものだから気にするな
0210日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 22:55:03.45
三雲井原遺跡の王宮は?
ここの人たち墓守でもしてたんじゃないのか?
0211日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:01:33.03
周知の如く神武東征伝説は高句麗他の東アジア地域建国伝説とプロットを共有している。
即ち既存の規格品の器にヤマト天武政権独自の内容物を盛るという構造を有している。
従って如何なる意味でもプロット自体に史実を求めることはできない。
 
今、津田ドグマの呪縛を破って神武東征伝説に何物かを求めるならば、
それはこの伝説なる函数を--森浩一氏がそうした如く--「地理水文」「モノ」等の単位要素まで微分した上で考古学的/自然科学的解析を行うという方法論に拠らなければならない。
 
0212日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:06:45.47
北部九州の沿岸地域は吉野ヶ里遺跡か原の辻遺跡の勢力圏で
伊都国とか奴国とか言ってる場所は墓域でしょ?
0213日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:09:06.88
微分すりゃ草下江や難波の描写は
河内湖そのものを反映しているわな
0214日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:10:17.52
ねぇ、みんな、なんか部屋の中が暑くない?
1時間くらい前から、汗びっしょりでエアコン点けてるんだけど、みんなはどう?
0215日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:12:38.98
別に昨日と変わりないよ
それより知り合いのキウスだか松傾だかを始末してくれよ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:13:51.30
>>213
河内湾、打ち羽ぶき来る人、足一騰宮、黥ける利目、船団寄港地と高地性遺跡所在地との一致、馬の不在、
森氏が着目した単位要素はこの辺り。
 
0217ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/04/30(火) 23:18:19.43
オレはネトウヨは嫌いだが神武のモデルになったヤマト王権初代王は実在だろうと考えている
西暦170〜180年頃に畿内は外来者の征服を受けている
そしてこの征服者たちは銅鐸祭祀を廃絶させて今の神社神道の原型になる鏡を社に祀る社を作った
彼らがヤマト王権を建てた人たちに相違ない
卑弥呼は明らかに鏡の祭祀者であってヤマト王権の人物である
0218日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 23:20:49.00
神武天皇はスサノオで、東征ではなくヤマタノオロチ退治じゃないか
遠賀川から畿内を含め朝日遺跡迄
遠賀川にもヤマタノオロチ伝説、河内には出雲からきた人々がヤマタノオロチを退治してくれた伝承がある
弥生時代中期後葉を境に出雲から近畿に人々が移ったんじゃないか
加茂岩倉遺跡の銅鐸が近畿各地に、松江の樫の鳥形と同じ形の鳥形が池上曽根遺跡や雁屋遺跡に
池上曽根遺跡の大神殿が作られるのもこの時代だ
0219日本@名無史さん
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2024/04/30(火) 23:25:32.92
>>217
>鏡を社に祀る社を作った
社の遺跡は?
0220日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:29:27.40
オオヤマツミの子で、出雲国の肥河(ひかわ)の上流、鳥髪(とりかみ)に住むアシナヅチ、テナヅチの娘、クシナダ姫

オオヤマツミは伊豫の神さまだな
弥生時代の稲作の中心は北緯34〜35度
稲の発育は緯度の影響を強く受ける
中国で同じ緯度の地域は洛陽のある豫州、中原ど真ん中だ
夏は中原を指す言葉で、禹はこの地を中心に国を作ったという。夏だな

伊豫、豫州、夏、ナヅ、那津は何か関係があるんじゃないか
0222日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:32:47.04
スサノオのヤマタノオロチ退治、ヤマト政権の始まりをきっかけにして板付遺跡や出雲のナヅの人々は近畿に移住したんじゃないか
0223日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:40:26.31
遠賀川式土器の分布の東端は若狭〜尾張のライン
朝日遺跡は遠賀川式土器がある集落でゲノムが100%渡来人由来の人骨が見つかっている
朝日遺跡は紀元前後を境に墓域や墓制が変わる
日本海側と共通の墓制になり、弥生時代後期出雲の西川津遺跡の鳥形と同じ形の鳥形が見つかっている
0224日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:41:51.21
ヤマタノオロチ伝説の地遠賀川、ヤマタノオロチの体内から見つかった剣を祀り遠賀川式土器の集落のある尾張
遠賀川式土器とヤマタノオロチ伝説
0225日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:41:51.48
魏との国交は黒船来航に近い出来事で
ある種の宗教改革か或いは道教のほとんど
そのままの受け入れがされたのではないか
魏志の言う鬼道への言及はまるで他人事だが
この影響を受けた場所では銅鐸の一斉埋納がされた
伊勢遺跡も例外ではないしむしろここが銅鐸祭祀の本山だったろう
打ち壊して別の用途に再利用するのは躊躇われたのだな
それが内国目線でみれば先に鏡が舶来されていた
九州勢の影響に見えるし或いは神武東遷の
史実の一端なのかもしれない
だが弥生後期の北部九州はもう独自の勢力ではないよ
神武東遷はいつだったのだろうな
0226日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:46:41.63
アベの亡霊に振り回されるジャップは滅びるべきだと思うよ
自民党を指示して統一教会の指示を受ける馬鹿が多すぎて精神的に嫌儲しか居場所がないわ
0227日本@名無史さん
垢版 |
2024/04/30(火) 23:49:06.13
うるせえな何なんだオマエは
ジャップジャップ言われてもこっちは何も響かんのよ
ヤマトっつー外には伝わらなかった真名があるんでな
0228日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 00:03:55.50
紀元前後に作られた近畿で宮らしい建物は池上曽根遺跡の大神殿くらいじゃないか
出雲の西川津遺跡の樫の鳥形と同じ形の鳥形があった池上曽根遺跡の大神殿は、須賀の地の稲田宮の候補の一つかもな
0229日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:04:03.81
>>225
鬼道は魏志に書いてある通り卜骨でしょう
銅鏡はそういうもんじゃないような気がするんだが
0230日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:08:30.15
>>229
その辺りも勘案して寺澤御大はひととき
伊都東遷を言っていたんかな
この前は何かその辺はトーンダウンしていたような気がするけど
0231日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:11:29.95
ああ卜骨(倭人・卑弥呼)≠銅鏡か
次の世代の崇神で亀卜に変わっているから
これは秦氏というか大陸のやり方に倣っている
0232日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:13:17.63
卑弥呼は骨で占うというよりは
ガチの霊能者だったんじゃないかな
何故ならそうでなきゃ誰も従わないから
当たらない占い師に信者はつかない
幾つもの国から女王として擁立されるということは
本当に未来予知レベルの占いしたり天気を操るくらいはしていたと思う
0233日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:23:47.78
吉野ヶ里は不人気な印象あるけど環濠はある
じゃあ環濠のない纏向は吉野ヶ里以下の不人気じゃないと整合性ないのでは!?
0235日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:32:11.49
>>232
何で占おうが結果は同じだ
0236日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:38:04.74
>>233
環濠なんて既にない
吉野ヶ里も年代的に卑弥呼の時代なのかどうか?
0237日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:38:13.90
>>234-235
現代でも珍しくないでしょ
政治家や財界人お抱えの占い師や
一代で新興宗教立ち上げてそれなりの規模の宗教団体にしちゃうような人
0238日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:40:22.60
>>237
例えば空中浮遊?
0239日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 00:43:28.76
>>237
だから。
その手合いは全て大脳新皮質の表面がRa0.2以下の鏡面仕上の人々だと云っている。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 00:44:21.72
>>238
アレは都知事選挙だか国政選挙に出馬して
惨敗していたから
アマチュアよりはマシなセミプロくらいかな
ガチな奴は連立与党にまで食い込むからw
0241日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 02:14:52.74
環濠の消滅具合からすれば倭国大乱は
国々の対立どころが超広域の政治統合への嚆矢となっている
狗奴国との対立も終戦と卑弥呼共立後すぐではないからね
それに纏向に厳しい城柵や楼閣が無かったとは分かっていないのでは
0243日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 04:27:44.06
つまり九州説はウソ
0244琪瑛教大祭酒
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2024/05/01(水) 06:40:20.61
隋書、倭人は巫女を一番信じる
300年も霊能者を信じるのであればその者らが居る地が残っとるわ。
訳の解らん解釈しか出来ないのが九州。
素直に鬼道とは漢中の張魯の五斗米が第一の候補だよ
畿内前方後円墳と九州甕棺とは別種であり畿内前方後円墳と畿内八角アサガオ墳墓もまた別種なのだよ。
前方後円墳~八角アサガオもまた素直に慶州六部の仏教朴信仰の流れの者であろう。
前方後円墳は確実に道教の影響者らであり八角は朴であること慶州羅井であることは絶対なんだな。
この大きな流れは変えられないから無駄だよ。
九州は日本すら錯覚しているか、知らないふりをしているかのどちらか
0245日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 06:49:32.58
>>244
感想文はいいからさ
現実的に
纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を列記してくれないかな。
0246琪瑛教大祭酒
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2024/05/01(水) 06:59:55.93
1.に示されているであろう。1.も研究成果の感想文と言うだけの脳ミソでしかないでないであろう。
そんな者に説いたところで無駄だ。
日本とは古辰国だよ
聖地は慶州羅井。
これは絶対だよ。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 07:17:08.07
巫女とか鬼道とかという単語は
霊能者、サイキッカーをなんと呼ぶかの違いでしかないから
そこは本質じゃない
30ヵ国の君主達から連合国の王にと共立されるレベルの
強力な何か摩訶不思議な力なりカリスマがあったから他の誰でもない、卑弥呼が女王になったのだろう
0248日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 07:18:08.30
>>183
⇩倭王都の変遷早見表だよ!(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)

漢委奴国王(博多)帥升(糸島)
━倭国大乱━
卑弥呼・台与(吉野ヶ里)
━魏晋禅譲━
崇神朝(大和)
━香坂忍熊の乱━
応神朝(河内)倭の五王「讃珍済興武」本陣・宇佐八幡宮
━磐井の乱━━
継体朝(阿蘇)阿毎多利思比孤
━阿蘇山大噴火━
天智朝(太宰府)
━白村江の戦い━
天智朝(近江大津宮)
━━壬申の乱━━
天武朝(飛鳥藤原京)
0249日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 07:28:57.84
纒向邪馬台国政権における九州で最も高位の者は、石塚山古墳の被葬者であろう
前方後円墳の大きさ、三角縁神獣鏡の数も申し分ない
また、魏帝から下賜されたと見られる倭人伝に記述のある小札革綴冑も出土している
小札革綴冑は滋賀県雪野山古墳からも出土している

石塚山古墳と同笵の三角縁神獣鏡が椿井大塚山古墳から出土しており、椿井大塚山は鉄剣などの多数の鉄器副葬から  率善中朗将・難升米を想定すると、
石塚山古墳の被葬者は、率善校尉・都市牛利、あるいは率善中朗将・伊聲耆、同じく率善中朗将・掖邪拘の墓を想定できるかもしれない
0250日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 07:53:22.30
>>248
古代史を鳥瞰すれば、邪馬台国所在地論争なんてまったくの枝葉末節で、どうでもよくなってくるなw
筑紫平野の吉野ヶ里(宮室・楼観・厳設城柵・邸閣の4点セットが完全に出揃う日本で唯一の遺跡)以外に比定しようがない邪馬台国は、あくまで魏志倭人伝に登場する国だw
>>82
0251日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 08:00:39.53
>>99
結局、畿内説が魏志倭人伝に出てくる邪馬台国と唯一一致させられたのは、卑弥呼の冢「有棺無槨」「径百歩」「殉葬百人」でないことが確実な箸墓「有棺石槨」「長二百歩」「吉備特殊器台(殉葬代用品)」の築造時期だけw
0252日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 08:09:49.61
径「百歩」は陳寿が径「百尺」に盛ったとすれば、祇園山がピッタリ!(三角縁神獣鏡、布留1式並行土器、須恵器はヤマト王権による追葬)
0253日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 08:14:30.19
東鯷人の国が二十余国
卑弥呼共立の母体じゃないか
女王国は文身の風習のある海人の国として描かれているからね
0254日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 08:17:30.47
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

形状は方墳で、規模は東西24m、南北23m、高さ6mで、標高60m(墳丘頂部)、標高55m(墳丘基準面)である。葺石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を【楕円形に整形】した台地の上に存在する。

周辺からは埴輪(殉葬の代用品)は出土していない。埋葬主体は墳頂部中央の箱式石棺である。【石棺はあるが槨はなく】形状、規模とも吉野ケ里遺跡の【楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓】および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似する。

墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5基・不明2基を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されている。甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置づけられる。第7号箱式石棺墓(H7)では、石棺の両小口側(短辺側)それぞれに朱に染まった粘土塊があることから枕の痕跡と考えられ(ただし人骨は見つかっていない)、被葬者2体の頭位を逆にして同じ棺に埋葬した「差し違い2体葬」と考えられる。このような「差し違い2体葬」は当墓のほか、祇園山古墳の南に位置する祇園山2号墳の墳丘直下で検出された石蓋土壙墓でも見つかっている。
0255日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 08:24:10.68
私の独自説?を挙げれば、

「坐」阿波からいらっしゃった説
「一大率」出入国在留管理庁説
「竪穴式住居」の廻りには、下層階級の人々が大勢生活していた説
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字説
「白珠」はハマグリの貝殻加工説(白碁石のごとく)
「三種の神器」飛鳥時代制定説
「南北市櫂」島内南北説
「渡海」絶海説
往来別ルート説
末盧国(福津市辺り・万津浦)説
纏向遺跡「古墳造営前線基地」説
「忌部一族」とは『新撰姓氏録』記載各部族 総称説
物部氏→忌部氏継承説
日本の灌漑稲作「阿波」説
日本のイネ日本固有種説。

結構、センスあるなぁ。 わははははは   @阿波
0256日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 08:25:25.00
>>252
>>254
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」に並ぶ、呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説それぞれの狗奴国を検討すると以下のようになる。

「女王国東渡海千里(A)複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)

「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本(熊襲)鞠智彦、もしくは薩摩(隼人)
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
よって九州説が正しい。

では、狗奴国が熊本(熊襲)か鹿児島(隼人)かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等もしくはそれ以上の人口(八〜九万戸)を想定。
面積から、川内(せんだい)平野でゎ「面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗本拠)+熊本平野+八代平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が66体(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡・布留1式土器・須恵器は後世の追加&追葬祭礼)を比定。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 08:45:15.68
祇園山古墳には「棺」がなくて殉葬者66体なんて物もない
倭人伝と全く合わないよ
0258ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/01(水) 08:45:49.43
纏向石塚古墳が真のヤマト王権初代王の墓であろう
卑弥呼は最初はこの石塚古墳に合葬され、その後に箸墓が完成してから改葬された考えられよう

魏志倭人伝から卑弥呼が死んでから巨大な古墳が作られたと推定できる
卑弥呼が薨じたと思われる西暦247年頃から労働者を集めて箸墓の構築に入ったとしても出来上がるまで十年はかかるだろう
よって箸墓は西暦260年頃のもののはずだ

殯を十年もやるわけにはいかないから、最初は纏向石塚に葬ったというのが考えるのが妥当な推論であろう
0259日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 08:52:54.67
>>258
卑弥呼は役職名で3人いたとか、考古バカのクズタケみたいなことをいう香具師だな(察)w
0260日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 08:55:31.41
>>99
つまり畿内説が魏志倭人伝にある邪馬台国に一致させられたのは、箸墓の築造年代だけということだねw

しかし247年時点で卑弥呼は其南有w狗奴国卑弥弓呼と戦争中だから、⇩この状況で280mもの巨大古墳の築造は無理だろうw

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說【相攻擊狀】 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 【狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人】 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:00:13.67
邪馬台国は大和盆地、狗奴国は河内だろ
卑弥呼が亡くなった後纏向遺跡には河内の土器が大量の流入
いわば3世紀後半からは纏向は狗奴国の勢力の統治下に入ったんじゃないか
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:00:54.88
>>257
舌先三寸の印象操作乙w
0264日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 09:02:16.09
畿内説も結構バラエティに富んでてイイね!
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:04:38.50
>>179
>>180
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒と言いくるめる)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」。この千を超える洗脳スレも当然だw

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラーよりw
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:05:05.29
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩

これを読んで280mの箸墓を想像したなんて正気の沙汰ではない
ヤマトヒメの名は知っていたものの、箸墓の大きさを知らなかったか、
出版社あたりに煽られたかが、始まりだったのだろう。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:17:41.48
>>252
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)英雄曹操の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩 半円半方」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、英雄曹操の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:20:01.56
>>99
畿内説が魏志倭人伝の邪馬台国と一致されられたのは、卑弥呼の冢ではないことが確実な箸墓の築造時期だけ!
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:26:29.25
楽浪/帯方郡の下書きを採用したのだろうから、
部分的に盛ったりはしない。

径百余歩の塚/神域は実際に、高千穂にある。
殉葬者百余名を祀ったと思われる荒立神社も神域内に有る。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:29:37.73
>>95
>>97
方角を変えれば済む話
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:48:42.15
殉葬だって魏志倭人伝を読んで日本人はそんな事をしてたって知ったわけで
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:49:37.22
つまり畿内説は邪馬台国なりすましの歴史泥棒
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:54:50.23
書いてあるものが実際出てこないとあったとは言えない
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:57:13.41
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
これで問題ないんだよ
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 09:57:40.37
>>254
遺骨は溶けてしまったのだね…
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:08:30.38
>>269
>畿内説が魏志倭人伝の邪馬台国と一致されられたのは、卑弥呼の冢ではないことが確実な箸墓の築造時期だけ!

理由もなく「確実」だなんて断言する九州説は
間違いなく詐欺師
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:12:48.99
>>230
>その辺りも勘案して寺澤御大はひととき
>伊都東遷を言っていたんかな

最初から言ってない
デマ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:17:15.19
>>272
垂仁時代の皇族の近習殉葬は
倭人伝を参考にしたクリエイトなのかい
そんなことを言い募るほど
ヤマト王権の自生可能性は強まってしまうのだが

殉葬というのがまず九州にも遺構が無い
無いのに有ることにしたのは
記紀にとって倭人伝は本当に呪縛だったのだな

大化2年3月条でも人馬の殉葬を禁じてみせる
徹底ぶりである
しかもこの条は後付けでされた架空の勅令
殉葬の部分だけでなく勅令の全体部分である
「大化の改新」そのものの記述が記紀編纂時の
潤色であるというのが今の研究者の評価
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:17:25.98
>>278
そうなの
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:18:16.59
>>252
最初から北部九州説一択だったんだねw
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:20:46.59
>>281
結局また九州説は全面的に倭人伝否定ってこと
だから亡んだ


w
0284琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/01(水) 10:22:43.73
卑弥呼はもう済んでる話で九州の話に覆せる物はもう無い。
卑弥呼以前からの朴研究をキチンとすることだな。
やがて竈宇佐秦王国が出来上がるしね。
鬼道の根拠のまったく無い地域だよ。いつまでも嘘話をしていても仕方ないと思うがね。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:23:05.92
>>279
魏志に書いてあろうが遺跡がないならやってないんだよ
ただ魏志倭人伝を読んで日本人は知ったってだけだよ

神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
これで問題ないんだよ
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:25:59.73
>>285
>神武も居ないんだけど

阿波市一帯で大戦争しているよ。   @阿波
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:27:16.16
>>282
>>283
なんか開きメクラの畿内説が哀れになってきたよw
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 10:52:59.23
日本書紀の不比等は、皇統の仲哀天皇・神功皇后が北部九州にいて、
しかも皇后は三韓征伐で帯方郡下の馬韓まで攻め入ったと書いている。

そんな皇后と帯方郡に、親密な交流があるわけない。
卑弥呼は、中〜南部九州の女君長だったとほのめかしているんだよ、、。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:04:07.94
>>288
罵るだけの九州説は論争の敗北者
0291日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 11:10:45.56
論争(勝負事)と思ってるクズタケ哀れ!w
0292日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 11:20:47.87
>>289
>卑弥呼は、中~南部九州の女君長だったとほのめかしているんだよ、、。

違う。 不比等は、「卑弥呼」が「阿波」の女王だったとほのめかしているんだよ、、。    @阿波
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:22:25.17
>>252
>>193
やっぱり想像力ゼロの考古バカ、クズタケ先生は本当にダメだなぁ…orz
卑弥呼は3人いた(平原女王、石塚、勝山)、箸墓は台与の墓!とか言っちゃってるし
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:24:05.90
藤原不比等は、持統天皇の血統を皇統に繋げるために「三種の神器」を制定した。   @阿波
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:28:46.78
>>291
哀れは負け組九州説
いつも負ける
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:31:15.25
公務員クズタケは、四方八方に喧嘩を売ってるな
自説以外絶対認めたくないんだろう
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:32:39.09
九州説はあらゆる学問に喧嘩を売ってる狂犬だけど
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:33:17.12
不比等の子の藤原宮子が産んだのが聖武天皇で光明皇后は不比等の子供、つまり孝謙天皇は不比等の孫であり曾孫でもある。記紀が成立したのはそう言う時代背景もある
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:36:47.31
もちろん、「三種の神器」は倭国(阿波)の専売特許品。   @阿波
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 11:41:24.28
>>297
Twitter見てみ、畿内説にも凄い嫌われてるよw
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 12:00:09.50
>>301
なんにも反論出来ない悪口だけの九州説みたいには嫌われないでしょ
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 12:03:22.86
卑弥呼3人説で墓穴を掘ったクズタケセンセw
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 12:09:37.45
>>302
知らぬは本人ばかりなり(察し)w
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 12:15:08.01
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 14:12:46.47
>>183
>>193
⇩倭王都の変遷早見表だよ!(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)

漢委奴国王(博多)
└→帥升(糸島)
━倭国大乱━
卑弥呼・台与(吉野ヶ里)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
━魏晋禅譲━
崇神朝(大和)山門(▲二上山▲河内平野⇔大和盆地出入り口の門柱)
━香坂忍熊の乱━
応神朝(筑紫⇔河内)倭の五王「讃珍済興武」本陣・宇佐八幡宮
━磐井の乱━━
継体朝(阿蘇)ピンク石棺、万葉集鯨漁(✕琵琶湖〇有明海)阿毎多利思比孤
━阿蘇山大噴火━
天智朝(太宰府)
━白村江の戦い━
天智朝(近江大津宮)
━壬申の乱━
天武朝(飛鳥藤原京)
0307日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 14:24:06.43
またキナイコシがスレ立て荒らししとるんかよ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 14:42:17.47
お前が犯人ってことは九州説の犯行だな
0309日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 14:46:28.72
一番の勝ち組はクズタケを追い出し、卑弥呼3人説を出させて永遠の負け組に突き落とした九州説ではないかな?w
0310日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 15:02:33.91
>>306
卑弥呼・台与の(吉野ヶ里)は、
佐賀伊都国と肥後邪馬台国共同運営の兵站基地で、此処が新兵の訓練場だったのだろう。
吉野ヶ里の城柵は、内部からの脱走を防ぐよう、内濠・外柵で作られているし、
将が身に着けたとされる破鏡の原点を出土図で探ると、吉野ヶ里だったように見えるからね。
そして、ここから東のヤマトを目指し、数次に分けて出撃したのだろうね。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 15:30:44.54
畿内が大陸との航路が出来たのは宗像を味方につけてから、つまり四世紀から。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 15:43:21.96
>>310
吉野ケ里は1200人で侍女が1000人だったんだろ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 16:03:18.73
濃尾平野も関東平野もそうだが、暴れ川の近くは治水してない古代ほど住めない
0316日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 16:12:37.46
水田跡も発見されない吉野ケ里近辺
0318 警備員[Lv.1][新芽]
垢版 |
2024/05/01(水) 16:21:07.32
テスト
0319日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 16:29:35.42
吉野ヶ里は出土物がしょぼい
須玖岡本遺跡が奴国の首都だろう
0323日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:06:56.47
不弥国から南に水行なんてできないって思い込んでたわ
https://i.imgur.com/TnuefbZ.jpeg
でもそれは間違いだったんだな
0324日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:17:49.33
どんぐりって何??
0325日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:18:12.64
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0326日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:19:36.58
https://i.imgur.com/133CpML.png
もしかしたら邪馬臺国と狗奴国は大昔から朱の採取を巡って利権がぶつかってたのかもな
0327日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:32:15.28
4世紀に漢化し出す畿内が魏晋に接触した邪馬台国連合=大倭国だろうな。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:36:02.09
313年に楽浪郡・帯方郡が滅亡したとき難民が渡来してきたのでは
0329日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:45:51.94
畿内や四国は弥生時代には人口が少ない地域だったようだ
古墳時代に大量の渡来人がやって来てる
0330日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:47:32.22
>>323
縄文海進の時代でもそこまでは水没してないよw
0331 警備員[Lv.11][新苗]
垢版 |
2024/05/01(水) 17:50:24.33
まっ、こういう地図も作ってみた
https://i.imgur.com/ESXD0Wo.jpeg

これは「九州だけで日本全体だと思われていた!」
と言う考察として

阿蘇山頂が元水域だったから琵琶湖
八女あたりが奈良になる

侏儒は種子島だが、肥前あたりを
九州地方と見立てた場合、五島列島が一致した

俺は「西日本が大きな九州地方だった」と思ってるが
(鹿児島湾が琵琶湖で、四国と東日本は地形がないので、だから歴史も消えてる
もちろん、阿波が隠されてる理由もこれw)
今回は九州地方だけで日本全体だと思われてた
という仮説で地図を見立ててみた
(本州や四国は別の島と言う仮定で)

もちろん、妄想の域


なお、大宰府の位置は「大きな九州地方」で見たら
イワレヒコが最初に建国した阿岐国に該当となるw

不彌国こと宇美町に該当するのも
玉祖神社(官の多模は玉?)のある防府市となる

九州にあったコト・モノ・ヒトを本州にまで拡大解釈できるなー
と思うでしょw
0332 警備員[Lv.11][新苗]
垢版 |
2024/05/01(水) 17:53:52.06
九州と西日本が混同されてるのが、そもそもの発端

つまり、西日本は「大きな九州地方だった(勘違い)」ってワケw

海岸線も緑と橙の線がまっすぐでソックリw
(初見なら博多湾を関門海峡と間違えてもおかしくないw)
https://i.imgur.com/w7SkGDg.jpeg


759 日本@名無史さん sage 2023/05/13(土) 07:14:42.19
前にも指摘したが
九州地方と西日本の地形は酷似している
https://i.imgur.com/XajP3ZC.jpg

壱岐から千里と聞いたら
そりゃ勘違いするだろうさw
(呼子じゃ近すぎるw)
https://i.imgur.com/HRYk81g.jpeg
0333日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 17:55:36.04
>建興元年(313年)遼東を征服した高句麗が南下して楽浪郡を征服した。この以降から漢人については朝鮮半島の正史出てくることはなく、漢人は虐殺されたり、奴隷となった。高句麗は楽浪と帯方郡を征服した。 高句麗が漢四郡と遼東を征服した後、遼東と楽浪、大方郡には漢族は断絶し、漢族式墓が発見されない。

これは楽浪帯方郡から漢人逃げ出しますわ
0334日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:02:55.97
>>328
>313年に楽浪郡・帯方郡が滅亡したとき難民が渡来してきたのでは

畿内の漢化はもっと早いのでペケ
0335日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:04:50.27
>>333
常識的な歴史とぜんぜん違うけど、それってどっから湧いたデマ?
0336日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:05:35.17
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
魏略のこれが距離的にも正解でしょう
0337日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:07:15.68
銅が無きゃ銅鐸作れないんだって
0338日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:07:22.81
>>336
日本語に訳してみて
0339日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:08:35.96
>>334
>畿内の漢化はもっと早いのでペケ

景初二年の族滅戦争でも逃げ出した難民がたくさん居そう
0342日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:12:27.78
>>338
帯方東南大海の中にに倭あり。山や島に依って国を成す。
渡海千里に複数の国があり皆倭人
0343日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:14:26.76
大和水銀鉱山があるから、朱の利権争いなどない
0344日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:21:42.07
>>342
>復有国
「複数の国があり」と訳してる人ほかに誰かいる?
0345日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:22:48.86
>>344
文字の通り書いただけだし知らね
で、何が言いたいんだ?
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:27:41.59
>>345
ばかだと言いたい
0347日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:28:07.38
>>345
そんな訳し方してる人初めて見たので
何か出典でもあるのかと思って
0348日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:28:26.95
>>346
じゃあ何よ?
0349日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:29:22.88
>>347
結局何が言いたい?
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:33:11.82
全く違う解釈で魏略は間違ってると言うんならともかく何が言いたいんだ?
0352日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:43:27.28
>>349
「そんな訳し方してる人ほかに見たことない」と言いたかった
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:43:33.43
九州は小国乱立時代の倭奴国。
畿内は大倭王の都邪馬台国で律令で大倭国として残る。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:45:24.89
>>352
くだらねえ
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
魏略のこれが距離的にも正解でしょう
この書き込みに対するレスがそんな事か?
0355日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:46:06.12
>>354
他にそんな訳し方してる出典がなにかあれば良かった
0356日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:46:52.06
>>355
それで何かが違って来るの?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:51:14.03
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種

「魏志倭人伝」の方が、倭の地と倭種の地との区別がよくわかる。   @阿波
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:53:08.46
>>357
魏略はそんな事書いてないから
0359日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:53:51.44
>>357
それを捻じ曲げるためにわざとトボケてるのよ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:55:27.79
>>358
>魏略はそんな事書いてないから

やっつけ仕事だからな。   @阿波
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:56:49.92
>>358
魏略には邪馬台国も出てこないから。

北部九州の国々があって、南に狗奴国。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:58:16.98
>>361
>魏略には邪馬台国も出てこないから。

やっつけ仕事だからな。   @阿波
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:58:36.50
>>360
意味が全く違うでしょ?
魏里434mなんだから距離的に魏略が正解でしょう
0364日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 18:59:16.84
「魏志倭人伝」は陳寿の渾身の作。   @阿波
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:00:34.21
>>363
>意味が全く違うでしょ?

魏略はやっつけ仕事だから。   @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:02:01.43
>>363
魏略には邪馬台国も出てこないから。

北部九州の国々があって、南に狗奴国。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:03:03.39
>>366
>魏略には邪馬台国も出てこないから。

魏略はやっつけ仕事だからな。   @阿波
0368日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:04:41.81
>>367
陳寿は魏略を引用してるんだろ?
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:24:11.82
魏志   女王国東渡海千餘里復有國皆倭種
魏略   倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有國皆倭種
0371日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:29:28.17
>>368
アホか!   @阿波
0372日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:29:44.42
>>366
魏使の梯儁が北部九州地域を邪馬壹國と呼んでのだから
公孫氏の資料だけを参考に書かれた魏略には邪馬壹國は出て来ないね
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:30:22.94
>>370
だから、「魏志倭人伝」の方が、倭の地と倭種の地との区別がよくわかる。   @阿波
0374日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:32:10.46
「魏志倭人伝」は陳寿の渾身の作。   @阿波
0375日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:34:03.54
>>373
魏略は区別してないから
区別してるとしたら半島と列島だ
魏里434mで渡海千里で434km
そんなもんでしょう
0376日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:34:41.26
魏略は、清代のやっつけ仕事。   @阿波
0377日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:35:53.60
>>375
>魏略は区別してないから

だから、魏略は清代のやっつけ仕事。   @阿波
0378ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/01(水) 19:36:11.88
九州説論者のほとんどはネトウヨだからな
今更邪馬台国が九州などと言っているのは漢字の起源は日本だとか神代文字は実際したとかウガヤフキアエズ王朝がどうとかアベ晋三は名宰相だったとそんな連中だらけだ
0380日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:37:23.46
魏略の段階では、まだ纒向に行っていなかったと見ることもできる
梯儁が纒向に行ってから、不弥国や投馬国や邪馬台国の場所が明らかになった
0381日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:39:05.31
>>378
>神代文字は実際したとか

阿波文字な。 「阿波」で使ってたよ。   @阿波
0382日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:45:11.77
>>379
俺は違うと思うけどなるほどな
関門海峡が千里と言ってるよりまともだ
0383日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:53:50.92
伊勢湾は何里なんだ
0384日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:57:25.38
>>383
陸続きだから、測りようがない。   @阿波
0385日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 19:58:02.18
>>383
伊勢湾も関門海峡も壱岐→末盧も全て千里
実測に基づくものではなく単なる天下観念
0386日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 20:06:00.50
四海華夷總圖では、倭が日本より南に位置しているが、半島からの距離はほぼ同じである
四海華夷總圖は、元寇よりも後の時代にできた地図であり、魏志倭人伝の地理観を修正したように思われる
ただし、大琉球こと沖縄と「倭」の距離が、倭と日本よりやや近くまだまだ適当である

「渡海すると全て千里理論」を引きずった地図であろう
0387日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 20:50:58.98
侏儒国を四国とする考えがあるが、四国と見なすべきではない。
なぜなら、古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖にも四国はない。※混一疆理歴代国都之図には四国はある。
東にこそ渡海しないが、倭と日本の距離感はほぼ同じであり、これは「渡海千里で皆倭種」を採用していると見られる。

すなわち、渡海千里で皆倭種=四国という説は採用不可能であり、渡海千里で皆倭種は、関門海峡を千里渡ったら皆倭種と見るべきである。
であるから、千里というのは実測ではなく天下観念によるものである。
おそらく、侏儒国と見られるものは古今華夷區域總要圖にはあるが、「小人国」と書かれており、沖縄よりも南にあるので、フィリピンなどが想定できる。
魏志倭人伝で沖縄を飛ばして、フィリピンを出すのは不合理であるから、魏志における侏儒国は南西諸島のどこかであろう。

さて、まわりくどくなったが、渡海千里で皆倭種を「実測によるもの」とする主張は全く成り立たないというべきであり、古今華夷區域總要圖・四海華夷總圖から関門海峡が千里であるという天下観念の距離であることに疑いがない。

この点でも、残念ながら九州説なるものは排除されるべきである。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:08:15.40
魏志倭人伝の方位通り進んだら邪馬台国は太平洋の中 その東も海
0390日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:09:58.06
>>389
その通り。
だから里程と日程は並列。
同じ経路を詳しく2回説明しただけ。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:10:07.60
>>387
>侏儒国を四国とする考えがあるが、四国と見なすべきではない。

侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m
裸国=三宅島(またその神津島から東南)
黒歯国=御藤島   
其南とは、女王国「阿波」付近からの黒潮大蛇行による南への流れによるものだろう。   @阿波
0392日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:11:09.22
邪馬台国の時代は関門海峡は陸続きで水行不可
0393日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:14:46.02
>>392
とすると一旦九州に上陸して陸行したのは瀬戸内海ルートの可能性が出てきたな
0394日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:16:44.68
>>393
望みなし!   @阿波
0395日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:18:05.85
アホすぎておもろいw
0396日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:18:46.34
>>392
6万年前ひ九州と本州は分離している
0397日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:19:02.38
日本海ルートであればする必要さらさらない陸行してるからな
0398日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:19:02.90
北部九州の叙述はメインコンテンツにあらず
もう帯方郡から本州直行です
0399日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:20:23.60
九州上陸は都合が悪いのでなかったことにしました。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:22:06.45
倭人伝なのでそれも書いた
また大使館が伊都にあったのは事実
0401日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:27:16.57
>>390
『太平御覧』引用の倭人伝
至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 
東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →
又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 

不弥国から「又」水行十日陸行一月、なので並列ではなくて順列
0402日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:29:12.41
不弥国から「又」又南水行二十日至於投馬国、「又」南水行十日至耶馬臺国
0403日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:30:02.88
>>400
>また大使館が伊都にあったのは事実

というより、出入国管理局だな。   @阿波
0404日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:32:19.93
>>403
そうすね
0405日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:33:18.42
>>393
しかし、畿内説論者では瀬戸内海は波が複雑で
平安時代まで使われなかったとして
日本海ルート説が有力

しかし、そうなると九州に上陸する必要はなく
最初から出雲に行けばよく比定地をやり直さなければならず
畿内説は距離から方角から比定地からメチャクチャになってしまう
だから、倭人伝は全てデタラメとするしいかない
0406日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:35:34.51
>>405
>だから、倭人伝は全てデタラメとするしいかない

むりくり九州説や畿内説だと、そうなるわな。   @阿波
0408 警備員[Lv.5][新苗]
垢版 |
2024/05/01(水) 21:39:00.32
>>405
復路を忘れてる
半島へ渡るルート
0409日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:39:16.04
>>405
そら偵察・記録を兼ねて各駅停車しただけだろ
バカかお前は
0410日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:41:58.78
畿内説もバラエティに富んでるね!
0411日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:42:34.87
一回上陸する意味が無いのは投馬国や
邪馬台国が同じ九州にあるとしても同じ
伊都が必ず寄る必要のある入国管理局として
そこから不弥国まで陸行するのはやっぱり無駄で
末盧に上陸するのも意味が通らない

疑問の残る記述
0412日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:48:02.19
>>409
魏の使者を迎えるのに、最短距離で首都に連れていくもの
九州をウロウロさせる必要もない

そこで困った畿内説は、偵察してただの、物見見物をしてただのと
無理やりな設定をするしかない
0413日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 21:56:05.06
>>411
>そこから不弥国まで陸行するのはやっぱり無駄で

四国の「阿波」へ行くんだから、無駄どころか必須だ。   @阿波
0414 警備員[Lv.6][新苗]
垢版 |
2024/05/01(水) 22:04:11.07
>>411
不彌国は臺與を輩出した国
臺與 = トヨタマヒメ
多模 = トヨタマヒコ

なぜ、こんな小国が記載されたのか?
魏使が向かうのも、これで必然の理由
0415日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 22:05:41.55
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0416日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 22:07:10.16
>>413
伝わるか分からないけど
行き先が阿波かは別にして
伊都国や奴国の面する水際と
不弥国の面する水際(水行の起点)が
異なる海域だった場合にのみ意味がありますね

それでも末盧に降り立つ必要はないですが
0417 警備員[Lv.6][新苗]
垢版 |
2024/05/01(水) 22:15:34.11
末蘆国もすでに考察済み

924 日本@名無史さん sage 2023/03/29(水) 00:14:08.41
末盧国は海流を利用するための復路

>皆臨津捜露

往路は糸島半島付近で、一大率がその津まで来て監察する

>草木茂盛 行不見前人 ←こんな状態で一大率が出向くわけないw

・字義考察
末 端っこ
盧 あし、よし、イネ科

末盧国 = 豊葦原の端っこにある国

なお官が居ない点からも
伊都国に「まつろう国=従う国」と考察できる


服ふ/順ふ(まつろう) とは? 意味・使い方 - 国語辞書
服ふ/順ふ(まつろう)とは。意味や使い方、類語をわかりやすく解説。[動ハ四]《「まつらう」の音変化》服従する。従う。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 22:34:18.96
>>412
明らかに知能レベルが格下な連中だから
安心していじれるよなw楽しいw
0419日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 22:37:57.51
>そら偵察・記録を兼ねて各駅停車しただけだろ

各駅停車したのはいいがそこから先に行っていないという喜劇w
0420日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 22:43:30.22
特急が最後に各駅停車しはじめたら終点だろw

都内周遊券で観光旅行したんよ

横浜〜品川〜東京-神田-秋葉原
0421日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 22:53:33.18
>>1
久住が生意気なんでコテンパンに論破してよ
0424日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 23:24:19.71
鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈』
『伊都国だけは官・副ともに古来の役職名とみてよい。そして「爾支」が王をさし、つまり「世 王あり」で、伊都国の特異性がみられる』
爾支=ニキ
ニニギ、ニギハヤヒ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 23:26:43.48
>>421
公務員クズタケが、ついに業を煮やし、俺の論文を読めw
なんで一般人が公務員の資料を読まなきゃならんのか
悪しき公務員の姿がここにある

Takeo Kusumi@T_Kusumi057

「久住猛雄」「http://academia.edu」でまずは検索してください。
そこに載っていない暦年代に関する論文もいくつかあります。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/01(水) 23:30:06.06
方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致
0431日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 01:30:48.81
>>374
> 「魏志倭人伝」は陳寿の渾身の作。   
 
渾身の 創 作 だな。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 05:45:51.75
>>426
お前が何説を採っていたとしても、真実にたどり着きたいならばプロの論文を読むべき
毎日1論文を読んでも読みきれないほどの量だ
難しすぎて、素人のYouTubeしか見たくない気持ちは理解できるが
0433日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 05:57:02.28
畿内説であっても九州説であっても他説であっても学者の論文や著書はできるだけ読むべき

学者は必ずしも正しいことを言っているとは限らないし学者によって言うことが全然違う場合もあるが、一定レベルの実証性と論理性で構築された思考・論証のプロセスに数多く触れておくことはとても重要

学者を盲信する必要はないが、何も知らないド素人のくせに根拠なく学者をバカにして論文や著書を読まない人間は永久に1ミリも成長しない
0434日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 05:57:04.37
つまり九州説はウソ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 05:57:19.72
畿内説であっても九州説であっても他説であっても学者の論文や著書はできるだけ読むべき

学者は必ずしも正しいことを言っているとは限らないし学者によって言うことが全然違う場合もあるが、一定レベルの実証性と論理性で構築された思考・論証のプロセスに数多く触れておくことはとても重要

学者を盲信する必要はないが、何も知らないド素人のくせに根拠なく学者をバカにして論文や著書を読まない人間は永久に1ミリも成長しない
0436日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:05:43.92
それが九州説をさらに悲惨にする
0437日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:09:54.20
>>416
>伊都国や奴国の面する水際と

内陸の「伊都国」や「奴国」に水際など存在しない。   @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:12:03.96
>>416
>それでも末盧に降り立つ必要はないですが

必要もなにも、対馬海流によって必然的に「末盧国」の福津市(万津浦)辺りに着岸する。   @阿波
0439日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:15:30.50
>>437
マジで阿波説ガチ過ぎる
何か一つくらい他と同じ立場の考えは無いんでしょうか…
0440日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:22:13.65
>>439
>何か一つくらい他と同じ立場の考えは無いんでしょうか…

トンデモ畿内や九州と同じになる訳がない。   @阿波
0441日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:28:50.85
九州説の学者とかまだ居るのか
0442日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:28:55.78
>>440
つ🪞
0443日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:30:42.05
>>441
オランウータン
0444日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:32:11.40
>>441
高島忠平と関川だけ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:42:34.31
九州説の私でも畿内説の学者から得るものは多い
逆にコテコテの畿内自生説でもなければ九州説との決定的矛盾は殆どない
0446日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:47:49.03
むしろ邪馬台国がどこか、などという論文は殆どない
それぞれ土器や銅鏡や古墳の論文なので書いた人が畿内説だろうが九州説だろうが基本的にはあまり関係なく得るものは多い
0447日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:49:18.56
>>445
畿内自生説の学者の主張も当然勉強になる
0448日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:50:23.35
>>446
普通にあるよ
佐原真歴博館長は「考古学者の大多数は大和説です」と言ってる
0449日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:52:20.09
>>448
邪馬台国自体を論じた論文は岸本直文の国家形成プロセスのようなものもあるけど比率はかなり少ない
0450日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:53:35.68
>>447
もちろん全くならない訳ではない
ただ読んでいてツッコミどころが大量にある
0451日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:53:44.04
>>449
学者の間では大和説しか存在しないので、わざわざ論ずる必要がない
0452日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:54:33.51
>>451
結局、比率が少ないという私の見解には、同意させざるを得ないでしょ
事実なので
0453日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:56:11.84
>>452
大和説しか存在しない状態でわざわざ「邪馬台国は大和です」と論ずる必要がどこにありますか?
みんな大和説を前提として論文を書いている
0454琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/02(木) 06:56:48.44
九州なぞ無い。
元々記紀を肯定する為の讒言。
北枕前方後円墳族は中華思想を持っていなければならずそれ以前の甕棺族、半島には無い
九州甕棺は朴六部の影響を受けていた連中。
やがて八角アサガオ東枕が統治する
これは歴史上事実。
もう変えられないよ
0455日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 06:58:16.01
>>446
>それぞれ土器や銅鏡や古墳の論文なので書いた人が畿内説だろうが九州説だろうが基本的にはあまり関係なく得るものは多い

九州説は、それを知りたがらない
得たら負けなので
0456日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:01:13.28
>>452
書くと、九州説のお爺さんたちから
迷惑行為が及ぶらしいよ
0457日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:01:16.32
>>453
私が書いた結論に素直に同意すればよろしい
あなたは私の書いた結論の理由を述べているに過ぎない
0458日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:01:54.33
>>455
九州説の私はバンバン読んでいるが
そして決定的な矛盾は見出だせないが
0459日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:02:15.30
>>457
意味不明
0460日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:02:35.79
>>459
読解力がないだけ
0461日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:03:03.42
奴国2万戸を上回る国がない
この時点で九州説は終わります
0462日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:04:12.56
>>458
バンバン読んでたら九州説など存在しないことが分かるだろ?
0463日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:04:44.48
その理屈で行けば、奈良盆地は七千戸しかないからその時点で畿内説も終わってるな
何でこのスレの畿内説はこんなに頭が悪いのだろう?
0464日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:04:53.72
>>450
ツッコミどころを教えて下さい
0465日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:05:34.35
>>463
魏志倭人伝には、「奈良」という言葉も、「7千戸」なる言葉も登場しない
0466日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:06:14.43
>>462
バンバン読んで私が確信したのは畿内自生説が成り立たないことだ
0467日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:07:41.05
>>464
論文のツッコミは長文になるから今はやらない
0468日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:08:00.90
>>466
畿内自生説の学者をバンバン読んだ?
岸本直文しか知らないのにか?
0469日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:08:23.16
>>467
いや、読んでないだけだ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:09:13.37
>>465
寺澤薫の推計で奈良盆地は七千戸だ
奴国より少なければ失格なら奈良盆地は失格だ

そういう当たり前な反論が来ることが予想できないのは頭が悪い証拠
0471日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:09:59.27
>>451
>学者の間では大和説しか存在しないので

碌に鉄器さえも作れない大和奈良盆地だけどな。   @阿波
0472日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:10:02.40
>>469
根拠なし
そして事実と違う

まさに畿内説そのものた
0473日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:11:16.35
脳が正常なら九州説にはならない
0474日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:11:25.67
>>470
魏志倭人伝には、「奈良」も「7千戸」も登場しない
奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸
テンプレすらお前は読んでないわけだ
0475日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:12:10.34
>>472
岸本直文以外の畿内自生説学者の論文を読んだんだろ?
誰の論文を読んだ?
0476日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:13:59.70
>>474
論理がずれてるが、君の元々のロジックで畿内説が成り立たないことには同意するよな?
奈良盆地は考古学的事実として二万戸の奴国よりも人口が少ないのだから
0477日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:14:36.06
>>475
福永伸哉
0478日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:15:54.31
>>476
魏志倭人伝には、寺澤という人物も登場しませんが?
0479日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:16:37.02
>>477
福永がなぜ畿内自生説と思った?
0480日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:16:54.87
>>478
もちろん知ってるがだから何だ?
君は考古学と文献を突合させないのかね?
0481日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:17:33.97
>>479
逆に畿内自生説以外の何だ?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:20:47.58
>>480
頭が悪いな
0483日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:21:47.47
寺澤は奴国は実際に2万戸あったとは言ってない
しかも、寺澤は邪馬台国を奈良県とすら言ってない
0484日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:21:47.92
>>482
その種の悪態で逃げるパターンね、了解
0485日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:23:00.58
>>484
また逃げた
いつも逃げている九州説
0486日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:24:17.26
>>481
福永が畿内自生説だと判断した理由を説明しろよ
逃げないで
0487日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:28:35.46
>>470
>寺澤薫の推計で奈良盆地は七千戸だ

ソースは?
0488日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:42:43.38
つまり九州説はウソ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:48:25.70
>>461
奴国を含む北部九州地域全域が邪馬壹國
七万戸の3世紀の遺跡とか日本には無い
邪馬壹國とは魏使の梯儁が報告書で北部九州地域を指して使用した名称
日程部分は魏使の梯儁が報告書から引用
里程部分や女王国はそれより前の公孫氏時代の資料から引用
0490日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:49:35.99
>>461
奴国を含む北部九州地域全域が邪馬壹國
七万戸の3世紀の遺跡とか日本には無い
邪馬壹國とは魏使の梯儁が報告書で北部九州地域を指して使用した名称
日程部分は魏使の梯儁の報告書から引用
里程部分や女王国はそれより前の公孫氏時代の資料から引用
0491日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:49:45.05
なんで畿内第V様式圏なんていうバカデカイ範囲でしか邪馬台国を認識しなかったのか
その中に博多湾岸のような細かいクニグニはなかったのかね
0492日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:51:28.08
「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
0493日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:52:19.66
つまり九州説はウソ
0494日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:56:18.50
倭国乱の結果できた広域政治連合の
畿内の単位として邪馬台国7万戸はアリ
投馬国も吉備と出雲を合わせたものだという見方はできる
ただつらつらと書かれたその他の「傍国」らには
明らかに針間や吉備といった地名に見えるものもあるから
そこの収まりの悪さはある
0495日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:57:55.50
>>487
「卑弥呼とヤマト王権」322~323ページ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:58:11.01
>>470
ちなみに、箸墓(30万㎥の土の版築が必要)の築造には135万人必要(大手ゼネコン試算)w
0497日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:58:48.12
>>492
寺澤は奈良盆地が邪馬台国と言ってない
0498日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 07:59:14.02
奈良盆地で七千戸なら奴国は一千戸程度なんでわ
0499日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:00:12.86
同じ理屈で、北部九州全体で二万戸ならアリよ
0500日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:00:37.78
>>496
重機なんてない、すべて人力の時代だからな
0501日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:03:06.14
>>500
牛馬があればなんとかなりそうだがなw
0503日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:13:03.03
弥生時代末期河内や和泉は銅鐸ヒスイの勾玉龍の絵画土器鳥形石棒祭祀の時代
纏向遺跡とは全く違う
邪馬台国は大和盆地、狗奴国は河内、卑弥呼亡き後狗奴国が邪馬台国を飲み込んだんだろうね
0504日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:16:00.48
畿内説は纏向説だし
邪馬台国は五畿(とその傍国)のこと
寺澤御大の頭の中身はこういうことでしょ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:16:17.89
>>286
日数表記だから纏向まで行っていないことが確実なw張政もしくは魏使が仮に箸墓(全長280m)の築造を見ていたら、倭人技術官僚から設計図は見せてもらっていただろう。
いくら畿内説の汚舞らだって「長二百歩(半円半方>乍南乍東)」って書くだろう?
でも「径百歩」「殉葬百人」→それが答えだ!w
0506日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:18:27.51
殉葬なんて倭地には無いんだから
張政は慣れない異国で見た悪夢を報告に書いた
0507日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:20:35.41
>>252
>>254
なるほど
0508日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:26:05.49
つまり畿内説は妄想(張政の悪夢)
0509日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:29:16.37
祇園山は4世紀の畿内墓の流れ
畿内系だからダメということはないけど
卑弥呼にはとてもではないけど関係ない

方形周溝墓だって溝や墳丘に別の個体を埋葬するなど
家族墓・集団墓の様相を呈する
陪塚や後方部に埋葬施設が追加される場合もあるとはいえ
基本個人墓である古墳が弥生墓の伝統から見て異質なんよ
0510日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:30:01.58
>>505
>いくら畿内説の汚舞らだって「長二百歩(半円半方>乍南乍東)」って書くだろう?

そんな記載方は類例がないから、つまらん印象論に意味がない
0512日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:34:48.42
>>509
>祇園山は4世紀の畿内墓の流れ

おやおや、4世紀の畿内は前方後円墳前期古墳(木棺+竪穴石室+円筒埴輪)じゃなかったの?w

>>254
>周辺からは埴輪(殉葬の代用品)は出土していない。埋葬主体は墳頂部中央の箱式石棺である。【石棺はあるが槨はなく】

祇園山は箱式石棺+無槨じゃんw

自らの墓穴を掘る畿内説w
0513日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:37:11.41
祇園山のショボさはむしろ薄葬令に従った結果と
言うが張政が悪夢で見た冢は大きく作られたんだよ
0514日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:37:33.90
>>252
やっぱり卑弥呼3人説(平原女王、黒塚、勝山)のクズタケ先生は本当にダメだなぁ…orz
0515日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:39:17.05
>>512
祇園山は典型的な家族・集団墓
王墓として、個人墓として企画される
前方後円墳とは別物だし
これを作る資格は無かったかそもそも御井の
指導者の墓かどうかも疑問
0516日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 08:41:20.02
>>252
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

形状は方墳で、規模は東西24m、南北23m、高さ6mで、標高60m(墳丘頂部)、標高55m(墳丘基準面)である。葺石は2段(墳丘裾部と上段の盛土部分)であり、方墳は本来の地形を【楕円形に整形】した台地の上に存在する。

周辺からは埴輪(殉葬の代用品)は出土していない。埋葬主体は墳頂部中央の箱式石棺である。【石棺はあるが槨はなく】形状、規模とも吉野ケ里遺跡の【楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓】および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似する。

【墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5基・不明2基を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設】が確認されている。甕棺は糸島地区にみられる甕棺専用大型土器の系統に連なり、その末期型式に位置付けられる。第7号箱式石棺墓(H7)では、石棺の両小口側(短辺側)それぞれに朱に染まった粘土塊があることから枕の痕跡と考えられ(ただし人骨は見つかっていない)、被葬者2体の頭位を逆にして同じ棺に埋葬した「差し違い2体葬」と考えられる。このような「差し違い2体葬」は当墓のほか、祇園山古墳の南に位置する祇園山2号墳の墳丘直下で検出された石蓋土壙墓でも見つかっている。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:00:12.53
ぶっちゃけ梯儁も張政も
奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬臺国七万戸なんてデカい数字
実施調査なんかしとらんだろ

倭人が吹いたのか、報告時に盛ったのか、概念的なものか、適当にでっち上げたのか
0518日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:00:40.17
弥生時代中期末のヤマタノオロチ退治の産物妻木晩田
倭国大乱の産物纏向
誰が汗と血を流し身を削り民の為に働いてきたか、その事をよく考えないとな
卑弥呼は荒魂だよ
後片付けの辛い仕事をした人たちがヤマト政権の中興の祖だ
孝や孝の要請に応じた人たちでしょ
0519日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:01:36.60
考古学的には、畿内説が一番有利
しかし、文献学的(魏志倭人伝)には畿内説が一番ありえない
という大矛盾だろう
0520日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:02:48.21
>>516
卑弥呼様〜!!!(号泣)
0521日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:07:46.59
荒ぶる卑弥呼と女王国を食い止めていたのは狗奴国卑弥弓呼でしょ
大物主が招いた酒
酒はミキ、ミカ
香島の天の大神、アメノワカヒコ、孝昭天皇のモデルでしょ

台与を担いだのは布留社の大刀、布都御魂剣、布都主とアメノヒナドリでしょ

荒ぶったのは国津神ではなく、天の海人とそれに担がれた卑弥呼
記紀の出鱈目さの一例だな
0523日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:22:12.91
3世紀の中国をを発音しようとするときに
8世紀の日本語を持ち出すのはどうかと思う
0524日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:24:40.37
>>519
>考古学的には、畿内説が一番有利

碌に鉄器さえも作れない畿内奈良盆地がか?   @阿波
0525日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:26:14.04
>>502
奈良盆地だけを邪馬台国としてる通説学者はいない
0526日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:28:28.19
>>525
通説ではどこからどこまでが邪馬臺国なんだ?
0527日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:31:05.30
>>526
それが分からないから畿内説と詐欺る。   @阿波
0528日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:32:55.88
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通り過ぎた筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMTfAfuaEAEBmVS?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆
0529日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:35:12.57
>>526
>通説ではどこからどこまでが邪馬臺国なんだ?

畿内説って名前を聞いても理解できないのは脳が弱い
0530日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:35:40.90
>>528
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が何かと便利じゃね?wという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケとして継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ!

その名残が、継体が傀儡の武寧王を通じて百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(✕琵琶湖○有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗った阿毎多利思比孤(天から垂れた彦)。そして大和にいた分家(留守番)欽明の孫・推古と摂政厩戸王子。

その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して都の阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)
0531日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:36:39.21
>>529
畿内説の畿内って、何世紀の畿内?w
0532日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:39:20.86
>>529
畿内説の頭が悪すぎて草
0533日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 09:41:36.05
>>193
>>530
⇩倭王都の変遷だよ!(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)

漢委奴国王(博多)
└→帥升(糸島)
━倭国大乱━
卑弥呼・台与(吉野ヶ里)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
━魏晋禅譲━
崇神朝(大和)山門(▲二上山▲河内平野⇔大和盆地出入り口の門柱)
━香坂忍熊の乱━
応神朝(筑紫⇔河内)倭の五王「讃珍済興武」本陣・宇佐八幡宮
━磐井の乱━━
継体朝(阿蘇)ピンク石棺、万葉集鯨漁(✕琵琶湖〇有明海)阿毎多利思比孤
━阿蘇山大噴火━
天智朝(太宰府)
━白村江の戦い━
天智朝(近江大津宮)
━壬申の乱━
天武朝(飛鳥藤原京)
0534日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:04:44.14
つまり畿内説は頭の悪い畿内民による天然オレオレ詐欺でしたと
0535日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:13:18.25
(2011/11/27)
・石野
確かに、奈良から邪馬台国関係の遺物が出ないのは事実。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:18:44.79
>>528
>新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、
>外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
>5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。

これが後漢代にまで遡って誤解され、大倭王が(筑紫)邪馬台国を治めていたという記述になってしまったのかもな…orz
0537日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:25:39.85
>>531
>畿内説の畿内って、何世紀の畿内?w

時代によって畿内がどう違うか知ってる?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:27:32.24
>>531
8世紀の畿内だよw
0539日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:36:41.13
畿内説の「畿内」って、そもそもの律令制の概念だからねw
日本では8世紀の奈良時代から導入w
0540日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:41:03.61
つまり>>531は無脳
0541日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:44:36.57
つまり畿内説は、8世紀の律令制の概念「畿内」で、律令制導入500年前(3世紀)の邪馬台国を理解しようとする無理筋
0542日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:52:15.87
>>541
畿内説が8世紀の律令制の概念「畿内」で邪馬台国を理解しようとしてるって証拠は?
0543日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:56:18.93
つまり畿内説は、室町時代(京都)も現代の首都(東京)も一緒くたの〇〇味噌歴史学
0545日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:59:07.56
伊都国王家の版図は筑前や長門から四国全域に及んでいたと見て良い。何故なら弥生末 期の銅剣祭祀圏の広がりがこれであったからだ。
この勢力が畿内を征服したと考えれば、崇神の四道将軍派遣に筑前や長門や安芸や四国 の国々が入っていなかった理由もすんなりと理解できよう。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 10:59:47.40
畿内のどこかで何かが出たら全て「邪馬臺国」に結びつけるのが畿内説詐欺の手口だよな
例えば播磨-博多や河内-博多で交流の痕跡が見つかったなら、それはそれぞれの国間での交流なのであって、纏向は関係ない

纏向が邪馬臺国だと言うなら纏向とどこかとの関係で論じないと主語デカ詐欺になってしまう
0547日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:01:59.45
>>544
畿内説って頭悪すぎひん?w
0548日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:07:58.00
>>547
証拠もなくデタラメな非難をしてるとバレて、ただ理由もなく罵るだけになるという
いつも不変の九州説の敗北パターン
0549日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:10:16.33
>>546
>例えば播磨-博多や河内-博多で交流の痕跡が見つかったなら、それはそれぞれの国間での交流なのであって、纏向は関係ない

という理由は?
常に言うことに理由がない
それが九州説の悲しすぎる特徴


w
0550日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:17:39.92
>>549
まずもって纏向と関係があるという根拠がなにも示されていないぞ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:25:29.14
突き詰めると畿内説も本当にびっくりするほど根拠がないからね
考古学を勉強すると畿内説になるなどと偉そうなことを言う勘違い素人がこのスレにもいるが、そういう人間ほどろくに論文も読んでいない
0552日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:25:34.62
>>531
卑弥呼時代の通説
実際には、畿内説ではなく、大和説というが、纒向こそが卑弥呼がいたところという説
0553日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:31:53.42
つまり九州説はウソ
0554日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:40:56.70
奈良県くらいの範囲を邪馬臺国だという説はちょくちょく見かけるが
畿内全域をひとまとめにして邪馬臺国だという研究者はどのくらいいるの?
0555日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:46:15.29
>>190
邪馬台国の会の卑弥呼会とかいうのがただただ気持ち悪いから無理
0557日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 11:56:53.87
邪馬臺はヤマトで日本だよ
中国語の倭に相当する日本語がヤマト
7万戸は日本の人口
0559日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 12:00:21.62
>>558
倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國
そうではあるけどこれが倭
0560日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 12:08:19.25
魏志倭人伝の倭は中国人が九州の1部の地域をそうよんだ。
日本書紀の倭とは違う。
と思うが
0561日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 12:08:34.64
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
0562日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 12:09:42.89
それと重要な事は倭国者古倭奴国也という倭国に相当する国が倭の極南界にあった
これは後漢書の記述からほぼ間違いないでしょう
0563日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 12:11:27.42
>>560
倭は倭人居住地全部だよ
0564日本@名無史さん
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2024/05/02(木) 12:12:04.93
楽浪海中に「倭人」あり、分かれて100余国をなす

「倭」は韓東南大海の中にあり山島に依り居をなす、およそ百余国
武帝が衛氏朝鮮を滅してより使駅を漢に通じるのは30余国

「倭人」は帯方東南大海の中にあり山島に依り国邑をなす、ふるくは百余国
漢の時代には朝貢する者がいて、今使訳を通じているのは30国


倭王讃、倭王武の上表文「東に55国、西に66国平定した」

隋書「クニは120人いる、中国でいう牧宰(国司)のようなものだ」

※国造は140ほど
0565日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:16:01.70
唐の時代倭と呼ばれてた地域は昔は倭奴国だった
0567日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:19:37.24
>>554
>畿内全域をひとまとめにして邪馬臺国だという研究者はどのくらいいるの?

邪馬台国の会
邪馬台国大研究
全国邪馬台国連絡協議会
考古学を科学する会
日本古代史ネットワーク
東京古代史研究会

邪馬台国の位置と日本国家の起源
日本人と日本語 邪馬台国
倭国と日本国の関係史

邪馬台国と大和朝廷
邪馬台国と狗奴国
卑弥呼の墓と邪馬台国論争
邪馬台国総論
神倭伊波礼比古命
伊都国女王卑弥呼
古墳にコーフン協会
邪馬台国の道標(みちしるべ)
邪馬台国は、なぜ越前だったのか?

どれでもいいから入会しろ
0568日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:21:11.09
>>566
万二千里から歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里の七千里を引いた単純な話
0569日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:23:28.84
畿内説の邪馬台国は、畿内にあった想像上の国だから畿内にあって当然。
魏志倭人伝には畿内説の邪馬台国は書かれていない
0570日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:25:57.34
光武帝が金印を与えたのは倭奴国王で後の時代の倭国王に相当する
0572日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:28:38.40
このように
理由もなくトンデモを断定するのが九州説
0573日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:31:50.22
>>571
そこまで認識してないよ
そもそも倭人から聞いた話で中国人は邪馬台国すら行ってないんじゃなかったのかよ?
0574日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:32:10.73
>>554
>畿内全域をひとまとめにして邪馬臺国だという研究者はどのくらいいるの?

ほぼ全員
だって畿内説だから
0575日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:35:52.04
>>574
例えば誰のどの論文?
0576日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:38:38.92
どのくらいの面積でどのくらい人が住んでるかは中国側も関心があるはずで詳しく倭人から聞いてると思うよ
ただ面積は説明し難いだろうけど
0577日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:43:00.41
>>575
東とか米田
0578日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:44:16.38
>>577
なんて論文?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:44:56.61
倭人は里を知らないんだから、倭人に聞いたという「周旋五千里」はでたらめということだ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:45:15.40
つまり九州説はウソ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:50:32.29
周旋5千里は万二千里から七千里引いただけなんだよ
陳寿はこういった数合わせをやってて行程も万二千里に合わせようとしただけでしょう
0583日本@名無史さん ころころ
垢版 |
2024/05/02(木) 12:53:31.28
>>581
そんな事中国人にわかるわけねえじゃん
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
遠くてよくわからんと言ってるのに
0584琪瑛教大祭酒
垢版 |
2024/05/02(木) 12:56:01.57
唯一五段前方後円墳箸墓は神仙思想の始まりなのだよ
ここから始まり神道と呼ばれるようになった今日の道の源泉がここなのだよ。
箸で刺したくなる連中が後々担うがそれもまたそうせざるおえない状況でもあったのであろう。
いくら作り話をこさえても無駄だな。
箸墓が卑弥呼の墓
その器に相応しい女性はその時代ただ1人。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 12:57:07.19
ここで贅六、贅六、叫んでいた奴って誰だったっけ?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:00:55.82
>>583
自郡至女王國萬二千餘里
おそらく、倭人が言った日数は無視してるだろう。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:03:44.39
>>585
0588日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:04:44.73
五千里というと375q
門司港から佐多岬までGPSの直線距離で330qだから周回すれば、45qは誤差の範囲でほぼピッタリ!
0589日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:05:21.85
>>586
それは女王国までの距離
そこから邪馬台国までが倭人に聞いた日数行程
0591日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:07:22.08
@まず【魏人にしか書けない里数表記(倭人不知但計以日)】の「女王国(九州)東渡海【千里】(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、人長三四尺(少彦名)去女王【四千里】(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官、狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

そして「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!
0593日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:10:52.26
>>592
帯方郡〜博多11300里+700里で吉野ヶ里
0594日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:13:49.45
つまり畿内説は足し算の出来ない人生の負け組
0596日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:16:19.64
>>595
対馬400里+壱岐300里を足せば奴国まで11300里
0597日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:19:01.12
>>595
つまり九州説は足し算のできない間抜けな人生の負け組
0599日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:21:38.76
畿内説スレにしか人が集まらないのが全てを物語ってるな
廃れた説には人は集まらない
0600日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:22:16.52
>>598
九州バカは黙ってろw
0601日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:22:54.15
ここで、贅六、贅六、叫んでいた奴って誰だったっけ?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:23:01.03
遠くてよく分からんね、と書かれたのは筑後を含む以南だな
0604日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:25:53.35
畿内説を通説と言い張る考古学界に異論百出ということだよ
ガチで
0605日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:28:44.91
女王の国は、奴国〜不弥国〜投馬国〜邪馬台国〜旁国21国
邪馬台国は皆王を称する倭の国々の中心的な大倭王の国
里数の合計12000余里で至るのは2万戸の奴国
0606日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:29:09.34
まぁ3世紀のもっとも大規模な遺跡が邪馬台国と考えるのが1番正解に近いと思うよ
次に大きな遺跡が投馬国
0607日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:32:42.88
12000という数字は大月氏国に合わせた数字だから実際の行程ではないね
理念化された「この辺りにあるはずだ」という位置にすぎない
0608日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:32:47.50
>>606
>まぁ3世紀のもっとも大規模な遺跡が邪馬台国と考えるのが1番正解に近いと思うよ

それが、大河吉野川流域集落群。   @阿波
0609日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:33:04.54
邪馬臺国がもっとも大規模というのがまず思い込みなのよな
0610日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:34:10.04
>>607
>12000という数字は

それなら、なんで切りのいい1万里にしなかったんだ?   @阿波
0612日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:40:29.89
>>611
そもそも邪馬臺国の戸数に無理がある
0613日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:40:54.56
>>611
理由は?
魏志倭人伝では邪馬台国は狗奴国と長らく対立していて、さらに倭種の国がある
邪馬台国が1番大きいとか誰が言ってんの?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:41:57.23
>>601
散らかしたゴミスレ片付けろ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:42:43.98
科学的思考のできない奴が戸数に囚われてしまう
0617日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:43:52.63
>>606
倭国の中ではそうかもしれない
倭種の国との比較では大小は不明である
0618日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:44:20.63
>>616
女王国東渡海千余里復有国皆倭種
の国の戸数はなんぼなん?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:44:59.80
>>613
邪馬台国よりデカい国があるとは一言も書かれてない
大陸の痕跡のない纏向より大きな遺跡は見つかってない
出てから言えばいい
0620日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:47:14.55
纏向に外国の痕跡がないと言うが
纏向の前方後円墳を巨大化させたのは
魏の土木技術だとこの前NHK教皇庁が教勅を発していただろう
0621日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:48:34.94
九州接論者はさ、出てないものをある前提で語るから話ができないんだよな
あそこから遺跡がでるはずだ、もっと大きな国があるはずだ
出てから言ってくれよと
0622日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:50:03.84
>>620
言い方間違えた
大陸の痕跡のない、纏向より大きな遺跡ね
纏向遺跡は都市整備の思想を大陸から持ち込んで作った大陸の痕跡の塊だから
0623日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:50:51.92
>>622
あいやおれの読解力不足
0625日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:51:59.01
魏から古墳の作り方教わりましたと書かれてるならまだしも
渡来人くらいどこにでもでもおるわ
すずりが出土してる地域だってあるんやで~
0626日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:54:10.39
魏には前方後円墳なんてない
曹操の薄葬令が守られていた時代だってのに
0627日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:55:34.87
纏向勢力が魏から技術者集団を招聘してる以上、北部九州から壱岐島、対馬を勢力下に置いてるのはわかるじゃん?
九州説の人って纏向の人たちが自然に方角を揃えて近代的な都市を作り出したと思ってるんか?
0628日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 13:56:52.54
そういう意味じゃない
硬い土と柔らかい土を交互に盛ることで
大きな強度を得ることができることや
石材をつかって雨水を逃す構造
そういったノウハウのことで
墓の形まで魏人の設計には入らない
0631日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:00:01.79
当時の最新技術の染織と染料に使うベニバナなど中国原産の植物が最初に纏向からでてるが、これはどういうルートで来たと思ってるのかね?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:02:57.04
このエンジニアたちがいちいちその都度伊都に
立ち寄らされたかどうかは分からない
乗り換えの不便を思えば日本海ルートが自然
0633日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:04:01.99
>>627
渡来人がどこにいくかなんて纏向が指示を出してた証拠でもあるのか
0634日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:04:14.90
纏向見たらそれまでの弥生時代の集落より文明レベルが一段上がってるからな
工場の排水設備だったり、建物の向きを揃えて計画的に建てたり
こんな飛び抜けた遺跡が大陸と無縁なわけないでしょ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:06:33.14
つまり後漢末期の動乱で、おおくの難民が東の海の向こうの楽園伝説をたよりに流れてきたのだなあ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:07:45.00
魏との関係を思わせる唯一の鉄パイプは黄幢ではなかった……無念也
0637日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:09:40.98
>>634
>纏向見たらそれまでの弥生時代の集落より文明レベルが一段上がってるからな

碌に鉄器さえも作れない纏向がか?   @阿波
0638日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:12:45.46
>>586
倭人が言ったんじゃない
目安は日数の行程だけだ
出鱈目な里数なんて目安にならないでしょ?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:15:09.34
>>634
それの前段階が伊勢遺跡にはある
0640日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:16:03.63
>>632
伊都が出雲なら無問題
0641日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:17:04.87
>>637
鉄鉱石は朝鮮からとり、鉄器は北部九州で加工してたんだと
そしてそこに畿内の土器が出土することから北部九州から畿内までは一つの勢力圏だとみられるのが現在の考古学の見解
0642日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:19:12.08
筑後はその外
0643日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:19:13.61
>>640
ΩΩΩ<
0644日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:19:13.81
>>641
>鉄器は北部九州で加工してたんだと

碌に鉄器さえも作れない北部九州だけどな。   @阿波
0645日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:20:08.32
>>626
>曹操の薄葬令が守られていた時代だってのに

曹操の薄葬令を守るとか
そういう妄想を信じてるのが九州説
自分で史料なんか読まない人々
0646日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:22:36.21
現に鏡を神聖視してる畿内勢力が大陸と交流がないわけがないわな
交流がある以上、壱岐対馬は畿内の勢力下にあったわけで
0647日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:23:57.12
つーかもう3世紀は九州だけで完結するような世界じゃないのよ
0648日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:25:18.76
ファクトで殴り続ける御仁を観測
しかし起き上がり小法師九州説は意に介さないぞと
0649日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:26:04.51
王都に見合う遺跡も無いのに勝手に伊都国は糸島とか奴国は博多とか
まずそこから疑えよ
0650日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:27:17.00
畿内説もバラエティ豊かでイイネ
0651日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:28:51.83
2世紀とのつながりが薄すぎて苦慮する畿内説
とりあえず後漢書をなかったことにしてみた
0652日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:29:48.37
畿内勢力が大陸と交流がある以上、邪馬台国連合に属さないクニは壱岐対馬を使えないから大陸に渡れない、当然魏の使者も連れてこれない
必然的に邪馬台国=畿内ということになる
0653日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:30:41.11
後漢書こそ畿内の勝利を保証してない?
逆に取る見解はどうして
0654日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:33:11.24
>>629
>方角を揃えられるのに方位を間違えるおちゃめさん

方位を間違えるとか
畿内説が主張してないことを言い張らないと
反論の真似事もできない敗残九州説のみじめさよ
0655日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 14:59:22.44
>>652
>畿内勢力が大陸と交流がある以上

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内がか?  @阿波
0656日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 15:50:54.66
>>651
>2世紀とのつながりが薄すぎて苦慮する畿内説

別に苦慮してませんが

九州説って脳内妄想だけで出来てるの?



0658日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 16:14:58.98
つまり九州説はウソ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 16:16:10.59
壱岐の原の辻遺跡が北部九州一帯を治める王が居た大集落だったんじゃないの?
0660日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 16:17:52.03
息長鳥は猪名や安房の枕詞 
息長にかかる枕詞はにほ鳥、にほの海は琵琶湖
弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて、静岡東部に琵琶湖北部や日本海側の土器が流入し日本海側で流行っていた舟形木棺が見られるようになる
静岡の土器は古墳時代初頭から前期にかけて千葉など関東に広がる
弥生時代末期以降日本海側→静岡東部経由→関東の動きが見られる

石見神楽五神、東を任されたのは青
青谷や青草の言葉があるように青は山陰と関係があるんじゃないか

粟については伯耆国風土記逸文に出てくる
アワの故地は伯耆会見郡の妻木晩田じゃないか
スクナヒコナ、狭井、斎

相見郡(あふみのこほり)。

群家の西北には餘戸里(あまりべのさと)と粟嶋(あはしま)がある。

少日子命(スクナヒコ)が粟を蒔いたので、莠(はぐさ?)がよく実って垂れた。そこで(スクナヒコは)粟に乗ると弾かれて常世国(とこよのくに)に渡った。故に粟島という。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 16:21:03.80
弥生時代後期の壱岐は龍の絵画土器が集中してみつかる場所
壱岐の伝承では竜宮への信仰があつい夫婦が竜宮一の宝禿童をもらい栄えた話がある
0662日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 16:23:14.81
>>660
>粟については伯耆国風土記逸文に出てくる

そりゃ、出雲忌部だから当り前。   @阿波
0663 警備員[Lv.25(前18)][苗]
垢版 |
2024/05/02(木) 16:31:33.47
吉野ケ里一帯は5400人で水田跡も見つからない
何処に7万戸いて何食って生きてたんだよ
0664日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 16:32:01.15
またキナイコシがスレ立て荒らししてんのか
0665日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 16:37:55.32
九州自慢の鉄鏃で猪とか狗奴国人を狩って食ってたのか
0667 警備員[Lv.1][新芽]
垢版 |
2024/05/02(木) 17:28:12.45
>>588
5千里は洛陽から楽浪郡までの距離で約1500キロ
すなわち、中華の辺境地帯まで5千里という天下観念であり、おそらくは実測距離ではない
0668「」 警備員[Lv.1][新芽]
垢版 |
2024/05/02(木) 17:31:30.70
ドングリころころ
0669日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:32:03.61
>>604
定説だよ
纒向説一択
0670日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:34:04.20
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.
0671日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:35:07.61
>>621
九州説の最も痛いところはそこ
平原の次のオウ墓級は福岡県苅田町石塚山古墳
すなわち、平原から100年経ってる
100年間落ちぶれていた理由は明らかだ
0672日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:36:48.13
>>609
邪馬臺国が最も大きいことは、ホケノ山、箸墓、それに続く桜井茶臼山からも明白である
0673日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:38:30.06
末盧は
待つ浦だろう
潮待ちの港
0674日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:41:40.68
畿内説は理論的な思考が出来無さすぎてめちゃくちゃになってんな
0675日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:42:55.76
畿内説は南を東と読み替える
とすると東は北と読み替えなくてはならなくなる
したがって、東に渡海千里の倭種は、沿海州、ウラジオストクあたりに倭種がいたということになりそうだ。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:47:31.10
これが九州南部や東北地方から大量の鉄器が出土したとかなら既存の考えを改める必要があるけど
北部九州は纏向勢力の傘下なんだから、そこからいくら出たところで畿内説の補強にしかならないんだよ
0677逃げまくる畿内説
垢版 |
2024/05/02(木) 17:53:02.87
>>676
感想文はいいからさ、、Ww

事実を語ってくれよ
纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を列記してくれよ!
水路、桃、カエル、大型建物、ゴキブリ、花粉、各地の土器???倭人伝に記述ないし、、
3世紀に纏向に人は居たとは思うよ、日本全国いたるところに人が居ただろうから纏向だけいないとは言ってない、
0679日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:53:48.25
北部九州にある墓は一支国王の墓じゃないの?
狭い島だし死体埋めると病気が蔓延するし
0680日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 17:55:59.03
>>677
女王之所都、つまり王宮がある
0681日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:00:52.24
>>667
洛陽中心で方万里を国域とするのは
周礼の九服の制だけど

洛陽から帯方郡五千里は
一里が200歩で秦漢里ではない。
三分の二になる、西域里がこれ。

倭人伝里は50歩一里で6分の1
洛陽から長安が五千里
周は小さ過ぎで
始皇帝は欲張り過ぎw

都が長安だと150歩一里も必要かと?
地理としての正確性は無理で
方万里の九服の500里枡に国邑を
嵌めたただけだと思う。

この五百里が基準で
渡海が全部千里でOKなのかと。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:06:41.13
>>677

箸墓古墳が宮内庁管理の陵墓なので
学術調査研究成果の最も重要な考古学的根拠は、
2万戸の奴国の中心地と推定されている九州最大の外港都市博多と
密接な交流関係であり影響を与えているということ
0684日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:07:07.86
>>193
>>530
⇩倭王都の変遷だよ!(´。✪ω✪。 ` )

漢委奴国王(博多)
└帥升(糸島)
━倭国大乱━
卑弥呼・台与(吉野ヶ里)邪馬台=脊振【山】南麓の舌状【台】地
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
━魏晋禅譲━
崇神朝(大和)山門(▲二上山▲河内平野⇔大和盆地出入り口の門柱)
━香坂忍熊の乱━
応神朝(筑紫⇔河内)倭の五王「讃珍済興武」本陣・宇佐八幡宮
━磐井の乱━━
継体朝(阿蘇)邪靡堆=【外】輪【山】ピンク石棺、万葉集鯨漁=有明海→阿毎多利思比孤
━阿蘇山大噴火━
天智朝(太宰府)
━白村江の戦い━
天智朝(近江大津宮)
━壬申の乱━
天武朝(飛鳥藤原京)
0685日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:07:32.00
久住にTwitterで、「布留ゼロが畿内と九州の逆転時期と想定するのは遅すぎではないか?庄内併行期に逆転していると見るべきではないか?」と質問したが一蹴された。

そこで、「ならば、九州説の言うように、初期の前方後円墳ができてから、50年くらいで誉田御廟山古墳や大仙陵古墳ができるということも可能ではないか?ソッコーで桜井茶臼山、西殿塚、メスリ山、行燈山、五社神、宝来山、佐紀石塚山、上石津ミサンザイもできても不思議ではないのではないか?」
という質問をしたら、「50年でこれだけの大王墓ができるというのは悪ふざけがすぎる」みたいな感じで返ってきた。

まあ、悪ふざけの質問と重々理解した上で聞いてみたんだが
0686日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:09:30.40
クズタケは卑弥呼3人説(平原女王、石塚、勝山)を出してトンデモ決定!もう居場所ないよw
0687日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:11:59.35
つまり畿内説は空想の上に空想を重ねただけのオール空想でしたと
0688日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:13:14.87
逆転といっても舶載品に関するものであって、
農耕社会の形成は畿内のほうが進んでいる
0689日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:13:28.21
>>684みたいな珍説を九州説は受け入れてるの?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:16:21.24
>>684
つまり真実は「九州説+畿内説+九州王朝説」すべてのイイトコドリだったってことだねw
0691日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:19:23.86
一人一説雑多九州小説は、一人一説なので
他の九州小説にはスルーが基本のお互い素振り
だから畿内説スレに聞いてもらいに来る
0692日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:28:24.80
>>528
邪靡堆=阿蘇「外」輪「山」→外山⇔山外(YAMATO)か!なるほど
0693日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:31:51.73
「ヤマト」は、「やはと」、「やわと」(温和・平和な所=災害が少ない所)だろうな
0694日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:34:36.19
剣道が韓国発祥と言う起源説によく似た九州説
0696 警備員[Lv.10][新苗]
垢版 |
2024/05/02(木) 18:40:36.73
俺の永平寺アーカイブスより

426 日本@名無史さん 2021/01/17(日) 18:20:08.36
やまと = 山跡

万葉集で「やまと」と言えば
大和ではなく倭、山跡だ

↓参考 当時の日本人はこう発音してます

882 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/29(日) 13:32:13.81 ID:mAkgo2qF0
古代日本人、当時的には

倭 = 山跡 = 山は邪麻、跡は止 と発音する

>日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云【山跡】。山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿未乾、是以栖山徃來固自多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:41:29.08
最初は山戸、水戸なんだろうが既に意味は変わってる
0698日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:46:43.50
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことだったのです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通り過ぎた筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMTfAfuaEAEBmVS?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆
0699日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:47:44.06
港(水戸)は何処だと言ってもそこらじゅうにある
0701日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:48:51.77
>>689
何を突っ込んでも聞く耳持たないコピぺ豚なんかこのスレのテンプレ荒らしと同類
0702日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 18:55:28.90
筑紫邪馬台国女王台与は、266年西晋武帝に一緒に朝貢した「複立男王(並受中国爵命)」と養子縁組して、彼の養母として箸墓を築いてもらったんジャマイカ?

まとめると、
箸墓280m=筑紫邪馬台国女王卑弥呼の墓、西殿塚230m=複立男王(ニギハヤヒ)の墓
そこに伊都国と投馬国の血を引いた神武が東遷してきて、ニギハヤヒから倭王権を奪い、桜井(外山)茶臼山を築くとw
0703日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:00:21.68
>>702>>698へのレスね

箸墓=筑紫邪馬台国女王台与の墓
西殿塚=複立男王 並受中国爵命(ニギハヤヒ)の墓
桜井茶臼山=東征王・神武(磐余彦)の墓
0704日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:20:43.64
>>701
テンプレに論破され尽くした敗者が負け惜しみ悲し




 
0705日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:22:12.94
>>703
うむ、イイ線だね
0706日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:23:42.21
筑紫に邪馬台国などない
何にも出てこないところに邪馬台国は置くことは不可能
0707日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:24:59.30
>>703
で、女王台与が暮らした筑紫系の土器や各種道具を揃えた集落は?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:25:32.69
>>1
>何にも出てこないところに邪馬台国は置くことは不可能

だとさw
0709日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:26:04.22
>>260
なるほど
0710日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:26:29.44
>>708
も、桃のタネ出るから!
0711日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:27:42.49
>>710
夜になるとカエルの大合唱も聞こえてくるよ!
0712日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:29:23.05
>>711
うそつけ。骨までしゃぶられて絶滅寸前だったらしいぞ。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:30:34.33
論理的な反論ではなく、「w」などをつけ始めた九州説はすでに敗北している
0714日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:51:48.29
コピペ自演するやつなんか人間として終わっている
0715日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:52:48.76
>>714
それな
0716日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 19:54:49.41
>>714
まるっと同意
0717日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:11:47.09
《邪馬台は「ヤマト」と読む》「邪馬台国はどこにあったのか論争」に歴史学者が画期的新説
https://news.yahoo.co.jp/articles/26d2681b19db630bb66988173d1701a9a5981bdb
(桃崎有一郎「 画期的新説 邪馬台はヤマトである 」)。

コメント362件

お前たちも、ここにばかり書き込んでいないで
Yahoo!ニュースのコメント欄に書き込んで来いよ
みんな書き込んでるぞ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:38:22.17
クズダケが卑弥呼三人説を出したらしいよ!w
豚も鳴かずば撃たれまいwww
0720日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:45:40.30
>>717
福岡県糸島(いとしま)市)までのルートには疑問の余地がない。
なんて言ってるようじゃこいつもダメだ
王宮何処よ?
なんで船で行かないの?
0721日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:46:03.49
いろいろ思いつくもんだなあ
畿内説さえ諦めればもっとシンプルな答えに気がつくだろうに
0722日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:49:24.81
>>717
この人の見たけど、ただのスーパー超絶素人
畿内説を採っているが、こういうスーパー超絶素人よりも関川の方がマシ
0723日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:49:44.26
>>719
トナカイとクズダケの論争が楽しみだなw
0724日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:53:50.13
王趁意は、洛陽の畑から出土した8面の三角縁神獣鏡を所有しているという
しかし、日本人の考古学者が中国にそれを見に行ったが、日本規格の三角縁神獣鏡とはやや違い、三角縁神獣鏡として認定されなかった
また畑から出てきたということで日本の考古学者からは無視されている

が、日本規格と違う三角縁神獣鏡のような銅鏡が出てきたことは、日本から中国に渡ったというものを否定する好材料となる
0725日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:54:30.71
0714 2024/05/02(木) 19:51:48.29
コピペ自演するやつなんか人間として終わっている
0715 2024/05/02(木) 19:52:48.76
>714
それな
0716 2024/05/02(木) 19:54:49.41
>714
まるっと同意

>>714-716
おまえがなーw
0726日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:56:05.00
>>720
全く意味のない話
隋書でも阿蘇山の近くを通っており、様々な理由から九州も歩いたと考えられる
0727日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 20:56:24.33
残念ながら邪馬台国は日本語の音写。
邪馬台のネイティブ発音はヤマト。
ニホンよりジパン、ジーベンという外国語発音を基準にするのはナンセンス。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:02:00.31
>>698
筑紫邪馬台国女王台与は、266年「複立男王(並受中国爵命)」と養子縁組して西晋武帝に一緒に朝貢し、彼は養母台与に箸墓を築いてあげたのだろう。

そこに伊都国と投馬国の血を引いた神武が(日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→)大和へ東遷してきて、ニギハヤヒから倭王権を奪い、桜井(外山)茶臼山を築いた。

まとめると、

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓(撥型)=筑紫邪馬台国女王台与の墓
西殿塚(撥型)=複立男王(並受中国爵命=倭大物主の子・ニギハヤヒ)の墓
桜井茶臼山(柄鏡型)=東征王・神武(磐余彦)の墓
0729日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:03:22.87
>>726
行った中国人が火を噴く珍しい山があると記録してただけでしょ
隋書には行程が書いてあるが阿蘇はどの国よ?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:05:24.14
船で直に行けるのに五百里歩く不自然さ
伊都国は糸島じゃなきゃダメなの?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:06:27.18
大王阿毎多利思比孤、有後宮女六七百人

推古女帝ではないぬw
0732日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:08:57.14
>>731
阿毎多利思比孤は大王と書いてあるし推古天皇とどっちが正しいかとなると中国の史書でしょう
0733日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:10:25.52
>>732
記紀には何か不都合な事情がありそうだけど、裴世清にはウソかく理由ないからねw
0734日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:10:49.91
たった100年前の推古天皇憶えてねえのかよ?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:12:28.92
太平御覧所引「魏志倭人伝」
◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也

文頭に「又」があるため放射読みアウト
投馬国が於投馬国になっているためツマだけのコジツケはアウト
狗奴国の官名が拘右智卑狗になっているため菊池へのコジツケはアウト
0736日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:12:29.31
>>698
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が何かと便利じゃね?wという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケとして継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ!

その名残が、継体が傀儡の武寧王を通じて百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(✕琵琶湖○有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗った阿毎多利思比孤(天から垂れた彦)。そして大和にいた分家(留守番)欽明の孫・推古と摂政厩戸王子。

その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して都の阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)v(^^
0737日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:27:34.04
>>736
そういう事かもな
うちは推古天皇という女帝だし阿毎多利思比孤なんて知らない
かなり苦しいな
0738日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:30:11.18
推古の摂政・甥の厩戸王子は大王に即位してないし、600人〜700人も愛妾がいたら、365日ほぼ毎晩乱交パーティーしてなきゃオカシイしなw
0739日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:34:40.12
中国人、あるいは日本の事情により、九州内は歩行した可能性が極めて高い

・隋書に阿蘇山の記述があること
・漢鏡7-3あるいは魏鏡である斜縁二神二獣鏡は、博多の3面を除けば、九州では大分県宇佐市・免ヶ平古墳からしか出土していないこと
・同じく、3世紀に最多の三角縁神獣鏡を出土したのは、福岡東岸の石塚山古墳、並びに宇佐市赤塚古墳であること
・以上のことから、3世半ば〜末には、畿内九州間を結ぶルート、すなわち九州東岸をヤマト王権の有力者が統治していたと見做せること
0740日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:36:51.34
裴世清が来てるのに誤魔化せるかね?
阿毎多利思比孤と会ってるだろう
0741日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:44:47.89
交易の窓口になってたのが壱岐と出雲じゃないか?
窓口というより交通の要衝だから
0742日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:49:47.29
日本海ルートは有力である
おそらく、卑弥呼以前は日本海ルートが活発だったに違いない
が、畿内邪馬台国の力が増し始めた卑弥呼時代には、日本海ルートは廃れ、間違いなく宇佐→畿内邪馬台国の瀬戸内海ルートが活発になったろう
0743日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:56:46.85
卑弥呼が共立され、奴国において筑前型庄内甕が成立し、畿内〜中国地方〜四国〜北部九州の連合が成立した時、もはや瀬戸内海の海賊は恐るるに足らず、瀬戸内海ルートが有力になったと言えよう
0744日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 21:57:53.87
残念ながら(南→東)に読み替えても畿内説は成立せんのよw

不弥国(奴国から百里7.5qなら宗像、もしくは直方平野=遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない。

@日本海ルート(出雲投馬国)
A瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
B豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海【千里】複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在【其】南 去女王【四千里】」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使が直接見たわけだから「倭人不知里数但以計日数」、四国を見るルートはA瀬戸内海ルート(吉備投馬国)かB豊後水道ルート(日向投馬国)のどちらかで、@日本海ルート(出雲投馬国)は消えることだ⇩
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg

次にA瀬戸内海ルートだが、ご存じ山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要がなく、さらに水行十日で大阪へ向かうとすると、同様に直線的かつ平坦で道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで「倭人不知里数但計以日」、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判る。

仮に大阪から陸行一月(20q×30日=600q)すると、邪馬台国女王之所都は横浜(486q)東京(498q)大宮(520q)から水戸(620q)となり、其南有狗奴国は北(蝦夷)になってしまう。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 22:12:33.51
三角縁神獣鏡は実に奥が深い
現在、三角縁神獣鏡にカウントされているものには、三角縁盤龍鏡、三角縁方格規矩鏡などもあるようである
三角であれば三角縁神獣鏡にカウントするものはいかがなものか?

他方、中国の山東省の墓からは「境界枠付三角縁神獣鏡」なる銅鏡が出ているが、これはかの有名な岡村編年の岡村秀典氏によれば、日本の三角縁神獣鏡とは規格が違うので、
岡村秀典氏はこれを「重列神獣鏡」と呼ぶらしい。

スレ主ももっと勉強して、どんどんテンプレを訂正、追加して頂きたい。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 22:14:09.37
侏儒国を四国とするのはあり得ない
古今華夷區域總要圖、四海華夷總圖には四国はない
0747日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 22:14:34.82
>>744
残るB豊後水道ルートだが、山が海岸線に迫り道が狭く紆余曲折しアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。

さらにB豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫邪馬台国7万戸女王卑弥呼は、合計12万戸で狗奴国(8〜9万戸か)を挟み撃ちしようとしたため、(有明)海にしか逃げ場がなくなり絶体絶命となった卑弥弓呼と狗古智卑狗(鞠智彦)は「窮鼠猫を噛む」で卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かったという政治的な軍事情勢も判明し、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
0748日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 22:16:34.76
>>746
侏儒(小人)国 人長三四尺とは 出雲大国主命の掌の上に乗って、国造りを手伝った少彦名命ではないか?
0749 警備員[Lv.19(前25)][苗]
垢版 |
2024/05/02(木) 22:27:26.36
>>717
画期的新説とは、↓こういうこと

発音や行程からではなく
字義から読み取った邪馬台国の位置

奴 
佳 素晴らしい
鞮 通訳者

570 警備員[Lv.11(前25)][苗] sage 2024/04/22(月) 12:45:49.49
邪馬台国の官を見ても
半島南部から畿内まで広域連合だったと読み取れる

◆邪馬台国の官
・伊支馬 イキマ 垂仁天皇

・彌馬升 ミマショウ(御間(崇神)の叔) ヒコイマス

・彌馬獲支 ミマカンキ(御間(崇神)の名を獲た干岐) ツヌガアラシト(うしきありしちかんき)

・奴佳鞮 ヌカテイ 垂仁朝の中臣連祖(クニナズノオオカシマ等)
0750日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 22:28:17.58
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0751日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 22:36:19.98
京都からは、三角縁仏像鏡なるものも出土している
これは三角縁神獣鏡にカウントしているのかは分からない。
が、王仲殊が三角縁神獣鏡と呼んだ、「広峰15号・景初4年斜縁盤龍鏡」や、
山東省の墳墓から出土した「境界枠付三角縁神獣鏡」(岡村秀典は三角縁と認定せず)を考えれば、
もはや国産説と魏鏡説の論争は邪馬台国論争には全く影響しないと言えよう。

すなわち、ほとんど同種である、または日本人のプロでないと区別さえつかない(中国人のプロは区別できてない)のが三角縁神獣鏡なのであるから、卑弥呼のもらった銅鏡100枚はこれと全く同じか極めて同種であろうことは疑いようもない事実であろう
0752日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 22:44:38.88
>>723
クズタケの言う事ってなぜか全然反響ないね…
0754日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:05:55.05
>>680
>(纏向には)女王之所都、つまり王宮がある
👆
こいつ馬鹿じゃねーの
女王(卑弥呼)の所都についての倭人伝記述と
合致する遺物を纏向で列記しろよ
王宮についての倭人伝記述と合致する遺物を列記しろよ
大きな建物とかカエル?桃?水路?花粉?土器、、そんなの記述されてねーよ
邪推はいいからさ倭人伝記述の物証を纏向で列記しろよな
0755日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:26:32.39
次から次に主語をデカくしていって何でもかんでも畿内に関係があるように見せかける
まるで錬金術のようだ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:27:42.62
九州説の安本美典やハルキーはこう言ってる。
「紀年銘鏡は、後のヤマト王権が邪馬台国を僭称する為に作ったんだ」と。
しかし、そこには致命的欠陥がある。
紀年銘鏡は鏡種では三角縁(さんかくぶち)が多いが、斜縁(ななめぶち)と平縁(ひらぶち)を合わせると、三角縁(さんかくぶち)は少なくなる。
さらに、銘文の「銅出徐州師出洛陽」も捏造、陳是の長安郊外出身も捏造という主張になるのではないか?

三角縁神獣鏡は東晋の時代に鏡師が日本に来て、邪馬台国は九州だったのに、畿内に邪馬台国を盗まれたんだと。
無茶苦茶じゃあありませんか?
0757日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:32:35.49
>>755
>次から次に主語をデカくしていって何でもかんでも畿内に関係があるように見せかける

お前が詐欺師
畿内全体が邪馬台国だというのは100年前から畿内説の主流

「次から次に主語をデカくして」って連呼してるのが真っ赤なウソ


 
0758日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:35:15.45
>>754
>女王(卑弥呼)の所都についての倭人伝記述と
>合致する遺物を纏向で列記しろよ

なんの必要があって?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:41:55.98
>>757
> 畿内全体が邪馬台国だというのは100年前から畿内説の主流
100年前から錬金術師だったのか
傍国が消滅してしまうけどそんなのキニシナイ!ってな
0760日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:42:55.09
畿内全体が邪馬臺国って具体的な範囲はどこからどこまでなんだ?
0761日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:56:00.75
>>760
総計7万戸になるまで拡大すればいい
0762日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:57:09.64
>>760
畿内第V様式圏が邪馬台国が通説である。
が、筑前型庄内甕の成立や、北部九州型布留甕の成立による在地甕の滅亡、
さらには九州東岸を福岡県石塚山古墳、宇佐市・免ヶ平古墳、赤塚古墳などのヤマト王権が支配したと見られる3世紀には、「邪馬台国」という明確な領域があったとも思えない部分がある。
いずれにしても、投馬国と邪馬台国を九州内に置くことは不可能であり、備前車塚古墳(投馬国であろう)や畿内の前方後円墳を見る限り、邪馬台国の首都が纒向であることは明白である。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:57:40.23
つまり畿内説は邪馬台国なりすましの歴史泥棒
0764日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/02(木) 23:58:23.48
>>761
七万戸が存在する範囲とは具体的どのくらいの範囲だろうか
0765日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:12:16.66
島根は景初3年の三角縁神獣鏡以外は
目ぼしい遺物は無い感じだねえ
岡山には車塚古墳からオンリーワンの画文帯神獣鏡
首都参詣のルートがどうであれ
纏向の連合参加者は阿波とともに備前になるな
0766日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:13:36.46
>>759
傍国に何
0767日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:14:11.06
>>766
傍国て何
0768日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:15:13.26
>>759
>100年前から錬金術師だったのか

「次から次に主語をデカくして」って連呼してる九州説が真っ赤なウソ

九州説とはウソ
0769日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:17:28.33
>>762
奴隷が作る土器なんて意味無いだろw

だったら祭祀型銅矛の範囲が邪馬台国のほうがよっぽど信憑性がある。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:23:10.34
>>769
祭祀形態は北部九州では、残念ながら畿内化されている
おそらく、九州の権力主体は伊都国・奴国・あるいは吉野ヶ里佐賀であったろう
ところが、卑弥呼時代から明らかに九州東岸の石塚山古墳、宇佐市・免ヶ平古墳、同じく宇佐市赤塚古墳に移る
0771日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:25:44.76
宇佐市長は、卑弥呼の時代などと言っていた佐賀県知事とは大違いで冷静だ


市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)
県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。
このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。
三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。
なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。
魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。
赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。
ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:26:31.31
>>768
> 「次から次に主語をデカくして」って連呼してる九州説が真っ赤なウソ
正直すまんかった
俺の認識不足だった
畿内説は100年前からずっと主語デカ錬金術師だったんだな
0773日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:28:03.99
> 三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており
それにしちゃあんまり大切にされてない感じのする鏡だよね
0774日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:33:00.23
>>773
頭部には置かれないよな
今回の富雄丸山も足元だった
0775日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:37:41.82
>>772
>俺の認識不足だった
>畿内説は100年前からずっと主語デカ錬金術師だったんだな

認識不足じゃなくて、ただのウソ

「次から次に主語をデカくして」ってのがウソだったのだから
「主語デカ錬金術」というのも当然ウソ
0776日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:37:56.30
三角縁神獣鏡は舶来品と和鏡と両方あるんだろうね
鏡作部に作らせて国内配布の標準品に選ばれていた
けどそれはそれ
SSR扱いはあくまで画文帯神獣鏡
0777日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:42:39.83
>>775
100年前からずっと大和国以外も邪馬臺国という主張だったんでしょう?
すげえ主語デカだったんだね!100年前からずっとw
0778日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:45:16.06
>>777
そら九州以外の西日本は邪馬台国か投馬国だからな
0779日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:52:04.23
>>777
>すげえ主語デカだったんだね!100年前からずっと

ウソがバレて必死に誤魔化す九州説


九州説とは、ウソつくことと見つけたり
0780日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 00:56:12.98
>>778
まあそうなるやろな
九州から東は投馬国と邪馬臺国しかなくてさらにその先は狗奴国しかない世界線なのかもしれん
0781日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:17:47.41
案外正確でしょ
0782日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:27:13.59
奴国、投馬国、邪馬台国の戸数密度出したよ

奴国ニ万戸=旧那珂郡 約430km2
46.5戸/km2

投馬国五万戸=中国地方 31,920km2
1.6戸/km2

邪馬台国七万戸=近畿地方 33,110km2
2.1戸/km2

投馬国、邪馬台国はただの辺境だね
0783日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:28:51.10
>>782
同じ広域なら奴国も北部九州に揃えるべき
0784日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:31:18.42
>>783
それは無理だ
同じ北部九州の国、伊都国と不弥国に挟まれているから、奴国を北部九州全体に比定することはできない
0785日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:36:04.81
別に奴国は那珂郡に限定されて無いけど
0786日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:38:35.93
少々奴国の範囲が広がったところでこの戸数密度の格差はいかんともしがたいわな
0787日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:39:33.17
だけど地域の国力のバランスとしては自然だ
0788日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:42:59.34
今は福岡5百万人・中国地方7百万人・近畿2千万人で比率たいして変わってない
0789日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:43:45.56
>>754
それが無かったら話しにならんだろ?
記述通りのものがあるか以前の問題
0790日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:49:42.86
九州説は奴国(福岡市)と狗奴国(熊本県菊池市以南)の間に、投馬国と邪馬台国と「遠くて戸数・距離がわららない国々」を詰め込まないと成立しないというデタラメ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:50:54.94
目立った祭祀施設も無いようなところに王が居るか?
0792日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:53:23.90
天の安河、伊勢遺跡がある
大倭王の本拠は別だろうけど
0793日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 01:53:37.25
纏向には記述通りのものが無い
だから何も無いけど九州ねとはならんのよ
0794日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 02:02:14.67
要人を招けば式典だって有るんだよ
それ何処でやるの?
0795日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 06:43:13.05
>>762
>邪馬台国の首都が纒向であることは明白である。

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い纏向がか?   @阿波
0796日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 06:45:53.59
>>765
>纏向の連合参加者は阿波とともに備前になるな

連合はどうであれ、倭人(阿波勢力)の痕跡だ。   @阿波
0798日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 06:49:03.94
>>793
>だから何も無いけど九州ねとはならんのよ

だから、四国の「阿波」 だと、何度言えばww   @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 07:48:30.59
未だに三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡とか言ってやがるのか畿内説はwww
0800日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 07:51:52.92
科学じゃないからな
Spring8とか洛陽出土とか笑わせてくれたエンターテイナーだぜw
0802日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 07:56:23.16
青龍三年鏡が出土した事で、
方格規矩四神鏡に魏鏡がある事が確定しており、
方格規矩四神鏡の時代編年を、
魏鏡がある事を前提に編成し直さなければいけなくなっている。
実際に方格規矩四神鏡の銘文も、
漢から魏に切り替わったことを示す銘文が多数あり、
方格規矩四神鏡に魏鏡がある事は明白である。
また、平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
同一工房内で、徐州の銅が不足して、
魏の領内の銅を使用して作成した
特異な銅鏡であることが
鉛同位体比の分析により分かっており、
平原遺跡の方格規矩四神鏡が魏から卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡であることは決定的な状況だ。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:02:21.17
>>232
霊能力なんてものはこの世の中に存在しない
ただ卑弥呼はそれに匹敵する能力を持っていた
それは何故か?

それは卑弥呼が現代人だったから
あるきっかけで古代へとタイムスリップした女子高生のひみこ
現代の知識を駆使することでいつの間にか現世神と崇められるようになっていった

「JKが古代にタイムスリップして卑弥呼になった件」弊社より発売中
0804日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:02:37.63
平原遺跡は甕棺墓最終期の日佐原kfv期の甕棺墓が出土しており、
コレが卑弥呼の死亡時期に一致しており、
平原遺跡が卑弥呼の死亡時期に作られた遺跡である事は明白で、
平原遺跡から出度した多数の舶載鏡が、
卑弥呼の死亡時期に大陸から贈られた多数の鏡となり、
伊都国で大陸からの贈り物を管理したと明記してある魏志倭人伝の記述と一致する。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:05:48.87
また、平原遺跡からは、
巫女の殉死の遺体が16体出土しており、
卑弥呼の死亡時期に巫女の殉死があった事が明らかになっており、
コレもまた
魏志倭人伝の殉葬者奴卑百余人に一致する遺構となっている。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:08:54.31
>>803
本当に無いならとっくの昔にそんな言葉は無くなってる
エーテル理論みたいにね
0807日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:10:08.17
平原遺跡は卑弥呼の死亡時期に作られた遺跡である事は
考古学的に確定しており動かし難い事実となっている。
卑弥呼の死亡時期に大陸からの贈り物を管理したと明記されている伊都国の、
多数の舶載鏡が出土した平原遺跡の銅鏡の中に、
三角縁神獣鏡が一枚も存在しない事で、
三角縁神獣鏡が卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡でないことは考古学的に確定しており動かし難い事実となっている。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:13:16.48
また、邪馬台国の超重要拠点たる伊都国の、
卑弥呼の死亡時期に作られた、
多数の舶載鏡の出土する平原遺跡が、
前方後円墳ではない事で、
邪馬台国は初期の纒向型前方後円墳の築造を権威の象徴とする政権なる畿内説は、
跡形も無く完全崩壊しており見る影もない。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:18:47.19
畿内から多数出土する三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡は、
鉛同位体比の分析の結果、
徐州の銅が使われている事が分かっており、
徐州の銅が安定的に入手出来る時代=西晋時代に作られた銅鏡である事が確定している。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:22:18.92
また、箸墓古墳の築造間もない堀の堆積物から、
四世紀の馬具が出土しており、
箸墓古墳は四世紀に作られた古墳であることが確定している。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:40:54.40
また晋書武帝紀に、泰始2年11月5日に"倭人来たりて方物(特産物)を献ず。倭の女王重譯して貢献すると明記されており、
この時、司馬炎が円丘と方丘を南北郊に併せ、二至(冬至と夏至)の祀りを二郊に合わせた祭り事を行ったと明記されており、
コレを見た臺與の使者が日本で真似て作った円丘と方丘を併せた祭壇が
最も初期の前方後円墳と考えられ、
前方後円墳は西晋時代以降の遺跡と考えられるのである。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:42:21.54
妄想
0813日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:53:52.17
>>810
>また、箸墓古墳の築造間もない堀の堆積物から、

これもニセ情報
「築造間もない」が出典のない捏造部分
0814日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 08:57:12.43
>>809
>徐州の銅が安定的に入手出来る時代=西晋時代に作られた銅鏡である事が確定している。

これもニセ情報
徐州の銅鉱山はずっと魏領なのでウソバレバレ
0815日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:00:25.96
魏では銅不足のために貨幣改鋳ができず、布がお金の代わりになったそうな……
0816日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:02:14.72
>>808
>卑弥呼の死亡時期に作られた、
>多数の舶載鏡の出土する平原遺跡が、

これもニセ情報ウソバレバレ
大昔の舶載鏡ばかりな平原1号墓は3世紀初頭
何も出ない2〜4号墓は古墳時代なので伊都国没落のあらわれ

 
0817日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:04:35.36
>>807
>平原遺跡は卑弥呼の死亡時期に作られた遺跡である事は
>考古学的に確定しており動かし難い事実となっている。

これもニセ情報
そんな学説はない
0818日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:06:22.36
>>805
>また、平原遺跡からは、
>巫女の殉死の遺体が16体出土しており、

これもニセ情報
そんな調査報告は無い
0819日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:09:20.58
>>804
>平原遺跡は甕棺墓最終期の日佐原kfv期の甕棺墓が出土しており、

そんな出土は無いのでニセ情報
恥を知らない九州説毎日ウソバレバレ


w
0820日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:11:48.80
>>802
>また、平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
>同一工房内で、徐州の銅が不足して、
>魏の領内の銅を使用して作成した
>特異な銅鏡であることが
>鉛同位体比の分析により分かっており、

そんな学術研究は無いのでニセ情報
厚顔無恥九州説毎日ウソバレバレ


w
0821日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:13:58.72
>>800
>Spring8とか洛陽出土とか笑わせてくれたエンターテイナーだぜw

反論できず悪口言うだけの九州説
毎日赤恥のひと


w
0822日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:19:11.07
オワコンがいじってもらえてうれしそうだな
0823日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:19:18.68
ウソをついたら終わりだよ九州説
0825日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:31:25.85
つまり畿内説は状況証拠の積み重ねで死刑判決(冤罪)
0827ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/03(金) 09:42:26.68
伊都国には日時計の超複雑系なものがあって、日の出が東の山のどの位置から始まったかによって、かなり正確な暦を割り出す事が出来ていた
中国の暦とは一〜二日ほどずれることもあったようだが、農業で用いるには誤差の範囲内だろう
どうやらこの伊都国の暦が北九州各国で使われていたようである
つまりこの伊都国に「ひじり=日知り=聖」つまり天の道を知っている人がいたわけだ

そしてこれと同じものが纏向に存在していた
つまり纏向にも「ひじり=日知り=聖」がいたわけだ
倭国の大王はひじりでなくてはいけなかった

ちなみに唐子鍵には、ここまで凄いものはなかった
つまり伊都国からひじりが纏向にやってきたのだ
伊都国は「ひむかし=日向かし=東向き」で正確な暦を作れる稀有な場所つまり聖地ヒムカで、それが纏向で再現されていたわけだ

ヤマトの大王家がヒムカからやってきてヤマト王権を建てたという伝承は伊都国王家が纏向王権を建てたという歴史的事実の神話化であろうと考えられよう
0828日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:45:02.69
カエルは食わないよ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:48:15.26
ここで考古学から確実に判ることを総復讐しようではないか!w
箸墓より前の纏向型前方後円墳の被葬者は吉備特殊壺(殉葬の代用)から、(唐古鍵王を征服した外来の、記紀に消された)吉備(楯築後継)王権以外にない。
さらにそれを征服したのが吉備楯築(双方中円墳)に四隅突出墓(葺石)を追加した出雲大国(倭大物・ニギハヤヒ)主王権とする以外にない。
以上を簡単にまとめると、

<ヤマト王権・盟主の変遷>
唐古鍵→吉備(楯築後継)王権→出雲大国主(倭大物主・ニギハヤヒ)王権→神武東征
0830日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:48:24.13
>>826
>徐州の銅鉱山は三国時代は呉領

そんな史料ないのでニセ情報
厚顔無恥九州説毎日ウソバレバレ


 
w
0831日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:55:19.42
>>829
(邪馬台国論争の陰に隠れている)前方後方墳□□は、四隅突出墓□出雲勢力が東海に進出した(出雲大国主の国造りの)痕跡ではないか?
0832ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/03(金) 09:57:02.10
伊都国には日時計の超複雑系なものがあって、日の出が東の山のどの位置から始まったかによって、かなり正確な暦を割り出す事が出来ていた
中国の暦とは一〜二日ほどずれることもあったようだが、農業で用いるには誤差の範囲内だろう
どうやらこの伊都国の暦が北九州各国で使われていたようである
つまりこの伊都国に「ひじり=日知り=聖」つまり天の道を知っている人がいたわけだ

そしてこれと同じものが纏向に存在していた
つまり纏向にも「ひじり=日知り=聖」がいたわけだ
倭国の大王はひじりでなくてはいけなかった

ちなみに唐子鍵には、ここまで凄いものはなかった
つまり伊都国からひじりが纏向にやってきたのだ
伊都国は「ひむかし=日向かし=東向き」で正確な暦を作れる稀有な場所つまり聖地ヒムカで、それが纏向で再現されていたわけだ

ヤマトの大王家がヒムカからやってきてヤマト王権を建てたという伝承は伊都国王家が纏向王権を建てたという歴史的事実が神話化したものと考えられよう
0833日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 09:59:26.84
>>824
ソースを示さずにひたすら言い張る
それが九州説


いつもダブスタで腐った九州説の心
0834日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:01:11.67
>>830
横だが、
徐州の銅鉱山は三国時代は呉領ってのは常識じゃないのか?

ちがうという文献根拠は?
0835日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:01:33.37
>>99
年代遡上作業や状況証拠を積み重ねた冤罪(箸墓の築造時期)以外何一つとして魏志倭人伝に一致しない「畿内(律令制8世紀の概念)」説に対し、
>>254
「径百尺(25m)→百歩(140m)と陳寿が盛った」とするだけで、魏志倭人伝と完全に合致する筑紫説には余計な小細工(印象操作)する必要が一切ない。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:03:00.96
>>829
>箸墓より前の纏向型前方後円墳の被葬者は吉備特殊壺(殉葬の代用)から、

そんなもん無いけど
0838日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:04:12.08
>>834
西晋は洛陽、東晋は建業(呉の帝都)に疎開したねw
0839日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:05:58.09
>>836
つまり、ソースを示さずにひたすら言い張るのが九州説
0840日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:06:32.08
「吉備」特殊器台の箸墓に殉葬なし
0841日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:07:54.41
>>834
>徐州の銅鉱山は三国時代は呉領ってのは常識じゃないのか?

そんな常識ないけど?

徐州はほぼ魏領だし
0843日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:08:28.83
>>836
平原王墓(三種の神器)から、(伊都国)東遷説が生まれて、そして消えたたね
0844日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:09:51.62
>>840
>「吉備」特殊器台の箸墓に殉葬なし

根拠のないスローガンだけを叫ぶ
それが九州説
0846日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:10:19.93
トナカイと、短絡的に卑弥呼=称号(3人平原・石塚・勝山)説を出してしまったクズタケの論争が見たいな
0847日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:11:06.15
纏向大型建物に楼観なし、厳設城柵なし
0848日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:14:04.30
卑弥呼が3人いた?池沼レベルだなw
0849日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:19:06.10
https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2015-03-23-1
コメント欄の鏡の彩色も含めてもう一度調べなおした方が良いよ
と言っても既に破壊されてるから限られるのかも知れんが
重要な古墳の可能性を秘めてるにもかかわらずウイキペディアの記述が極端に少ないのよね
確かな情報が少なく書く事があまりないんだろうけど
0850ネトウヨ撲滅隊!
垢版 |
2024/05/03(金) 10:22:02.37
伊都国の王家が畿内の纏向に第二のヒムカを作った
これがヤマト王権すなわち邪馬臺國であり、倭の諸国の盟主として後の日本国に発展していったのだろう

糸島と纏向以外で正確な暦を作れるような装置は見つかっていないからな
東に幾つもの山を備えていて、そして西のある一点からそれらの山々を見ると尾根や峠の位置から正確に冬至や春分などが把握出来るという奇跡的な地理条件の土地はそうはあるまい

このような地理的条件を備えた国は伊都国とヤマト王権の纏向しかないのだ
九州に倭王がいたのなら伊都国だったはずであり、伊都国以外が邪馬臺國ならば、それは纏向しかないのである
0851日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:22:10.88
>>849
九州説はこんなのばかり読んでいるんだな
0853日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:26:54.89
>>851
平原は疑わしいと書いてあるんだよ
弥生後期前半と終末期の土器片の2種類が出てて古い方は無視されてる
0854日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:29:12.47
>>846                 
ヒーロー気取りで畿内説に阿る香具師は自滅していく…これ法則なw
0855日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:47:31.92
なんで九州説は証拠を出さないのか





ウソだからさ
0856日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 10:55:15.22
「中国の主な銅鉱は,すべて南方の長江流域にあった。三国時代に南北が分裂して,魏の領域内の鋼材が不足したことで,銅鏡鋳造業は少なからぬ影響を受けた。こうして魏の領域内の鋼材が不振となると,鉄鏡の製造が興ってきた。 ・・・ J

「三国鼎立により錫鉱床が存在しない説では,錫材不足が生じたと考えれば説明がつく。漢鏡と同じような良質の鏡を作るには銅ではなくて錫が足りなかったのである。」

漢式鏡に含まれる錫の産地について(馬淵久夫)
http://www.jssscp.org/files/backnumbers/AandS68_4.pdf
0857日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:00:37.97
徐州のほとんどは魏領
これは歴史的事実
0858日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:01:22.51
>>856
だから、銅は「高越銅山」で採っていた と、何度言えばww   @阿波
0859日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:04:19.38
>>856
銅鐸が作られなくなった理由はそれじゃないのかね?
単純に銅が手に入らないから銅鐸祭祀をやめて転用した
0860日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:07:22.90
だったら銅鐸を大量廃棄せずに溶かすだろ
0862日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:09:28.60
>>860
>だったら銅鐸を大量廃棄せずに溶かすだろ

埋納したのは、一部だけ。   @阿波
0863日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:11:22.98
>>860
だから破片が出てるし溶かしてるよ
本当はもっと大量の銅鐸があったんでしょう
0864日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:18:05.40
>>859,862,863
なるへそ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:19:29.73
つーことは、平原遺跡のが銅鏡百枚なのね
0866日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:19:34.08
纏向から銅鐸の破片が出てるけど何処かの集落がばらして市で売ったんでしょう
伊勢遺跡周辺からも出てるけどこれも同様
0867日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:29:13.84
ひょっとして銅鐸よこせで北部九州銅鏡勢に攻め込まれたとかw
0868日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:34:58.39
>>844
特殊器台が後の埴輪になるからだろう
埴輪は殉葬の代わりとされてるから
特殊器台があるなら殉葬も必要がない
0869日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:39:48.10
>>868
元々日本に殉葬なんて無いのかもしれない
だから特殊器台が殉葬の代わりかわからん
0870日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:41:48.69
>>820
そんなもんはググれば秒で見つかるんだが??
そういう能力がない幼稚な人間が、畿内説をとなっている事をさらけ出してしまっている。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:43:45.48
もう考古学者は平原相手すんなよw
隙間産業みたいに何か読み込もうとする人いるけど
0872日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:49:28.35
>>868
>埴輪は殉葬の代わりとされてるから

されてませんが?


九州説ってデマ以外に何があるの?
0873日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:51:38.27
>>870
>そんなもんはググれば秒で見つかるんだが??

ひたすらウソをつきまくる
証拠は、このように頑として出さない

それが九州説
一種の犯罪者ですかな
0874日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 11:55:49.59
>>842
>ソース示されてそれは流石に知的障害過ぎる

これもまたウソ
ソースなど示した事実がない

ひたすらウソをつきまくる
それが九州説の異常性だ
0875日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:01:53.04
>>872
垂仁28年に天皇の同母弟である倭彦命が亡くなったときに近習の者を殉葬したが、
その状況に心を痛め、今後は殉葬をやめるように指示をした。
そして垂仁32年、皇后の日葉酢媛が亡くなった。殉葬をやめることにしたが后の葬(もがり)をどうするかを臣下に問うたところ、
野見宿禰が自分に考えさせてくれと申し出た。
野見宿禰は出雲から百人の土部(はじべ)を呼び寄せて、
埴土(粘土)で人や馬など、いろいろな物の形を造って、
これからは生きた人間に替えてこれらを墓に立てることにしてはどうかと天皇に奏上した。
埴輪の起源である

https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/daf8fc1de85d368d8693142cf44fae0c
0877日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:10:29.72
>>875
その話自体が疑わしい
0878日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:11:04.32
>>876
公務員クズタケ信者だろ
0879日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:13:00.58
殉葬は魏志でも中国、扶余にあったと書いてあるので、その系統のやつらが列島の
トップになったということ
0880日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:14:51.04
殉葬があった事は魏志倭人伝を読んで日本人は知った
でもそんな痕跡はない
0881日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:16:03.56
>>799
ある意味ほぼ間違いない
0882日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:49:50.63
>>880
とすると魏使が100人規模(あるいはただ単に沢山の意)の殉葬と勘違いするような何か光景を見た可能性があるな
0883日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 12:55:03.15
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!
0885日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:04:41.58
>>800
洛陽から三角縁神獣鏡が出土したのは確か
京都大名誉教授の樋口隆康は、「三角縁神獣鏡」としたが、岡村秀典と福永伸哉は「三角」であることは認めたが、文様の違いから三角縁神獣鏡とは認めなかった

が、もはやほとんど三角縁神獣鏡とは見分けがつかない銅鏡は中国から多数出ているのであって、卑弥呼がもらった銅鏡100枚が国産か否かで、畿内説を否定する学者は存在しない
0886日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:05:32.69
畿内が倭国だった証拠が無い
0887日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:08:15.80
>>886
倭人在帶方東南大海之中
0888日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:08:33.40
櫻井茶臼山は台与なんかねえ
0891日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:18:58.89
>>887
東南にあるのは九州
0892日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:19:00.47
埴輪は殉葬の代わりじゃない
埴輪の種類は極めて豊富
船の埴輪を人身御供と理解するのはおかしいでしょう
0893日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:21:40.40
定説畿内説だが、日本は帯方郡からすれば東北などを除き全て東南であり、これを畿内だ九州だと論じるのは馬鹿げている
ヤマト王権が確立した後も倭が東南と書かれているだろ
0894日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:21:46.80
まんぐりが足りませんでしたって何
0895日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:24:24.59
都合の悪い部分は間違いとするチェリーピッキングの畿内説
0896日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:27:46.58
>>895
現実と照合することは正常な人間なら誰でもすることだ
0897日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:30:02.22
絶対王者畿内確定論を打ち負かすには罵詈雑言ではなく、具体的論理的な反論が必要
0898日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:32:13.27
>>893
昔から東南と言ってるから東南じゃないの。
郡から日本は見えない、歴韓国乍南乍東、で東南なのだろう。
現在の地図だと日本は東になる。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:33:24.88
>>876
>畿内説はソースも示さずに否定するだけ

あんた、ばか?
九州説がソースも示さずに主張してる馬鹿話を否定するにはソースなど要らない
九州説がソースを出せないって事実を晒してやるだけでいい
0900日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:34:29.33
>>898
帯方郡から東は青森県とかになりますけど?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:36:02.11
>>892
たしかに。
殉葬の代わりがルーツなら、最初は人物埴輪だけずらっと並んだ古墳があるはずですな。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:37:20.41
>>900
帯方郡から南は海、そして沖縄だよ。

倭人伝は8方向しかないから、
九州もまた帯方郡から見て東南。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:38:18.79
>>902
四国も中国地方も畿内も東南ですけど?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:42:22.32
>>898
ず~っと東南、くどいほど東南、新羅からも東南
0905日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:46:01.27
纒向邪馬台国を語る時に、「倭人は帯方から東南」を九州じゃなく畿内だと言ってる「まだ畿内説レベル」のスーパー素人畿内説は、はっきり言って馬鹿だと思う
纒向邪馬台国は九州伊都国に一大率を置き、かつ同じ民族なのであるから、纒向邪馬台国の玄関口である九州は「倭」じゃないというのは無理がある
0906日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:47:07.08
>>875
>埴土(粘土)で人や馬など、いろいろな物の形を造って、
>これからは生きた人間に替えてこれらを墓に立てることにしてはどうかと天皇に奏上した。
>埴輪の起源である

ほんと九州説信者って脳が3グラム未満だよな

特殊器台は人物埴輪よりずっと古い祖先なのだから
その付会説をまるっと信じる無脳でも
「特殊器台があるなら殉葬も必要がない」
なんて思わない
知能が多少あるならば
「特殊器台がある時代だからまだ殉葬が必要だった」
と言うだろう

九州説脳は論理を扱えないという事実を示す証拠だな
0907日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:49:00.27
>>896
算数も出来ず更に南を東に間違えるのは正常な人間では無い
0908日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:50:23.52
>>905
>纒向邪馬台国は九州伊都国に一大率を置き、かつ同じ民族なのであるから、纒向邪馬台国の玄関口である九州は「倭」じゃないというのは無理がある

で?
九州は「倭」じゃないって言ってるのは誰?
0909日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:50:37.78
畿内説は宝探しの出来ないアホの子
0910日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:52:05.96
>>907 
>算数も出来ず更に南を東に間違えるのは正常な人間では無い

それは誰?
畿内説じゃないよね
0912日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:54:46.05
>>910
1の事だよ
0913日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 13:58:54.97
現代の韓国人にフェリーで旅をさせて、九州をバスで通って、大分から瀬戸内海もフェリーで通って関西まで行かせたら、間違いなく、九州のことをたくさん書くと思う
それは自国と明らかに違うからだ

逆に、瀬戸内海については書く人は激減するだろう
変わり映えがしなくて若干飽きてくるから

すなわち、倭人は帯方から東南とは、畿内ではなく、纒向邪馬台国の入り口である九州のことを言っているのであって、畿内限定と見るべきでない
0914日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:00:07.36
倭人在帶方東南大海之中
0915日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:04:10.37
>>909
すごく面白い宝が日本人限定だったというw
0916日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:05:25.21
>>914
翰海、対馬海峡の事だろう。
対馬 壱岐 九州の事
0917日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:05:27.45
>>908
スーパー素人の畿内説
絶対にあり得ない九州説なるものの信奉者とほとんど変わらないレベルの畿内説
0918日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:07:52.54
纒向邪馬台国は、九州〜中国地方〜四国〜畿内に至る広域の連合国であるから、
「倭人は帯方から東南というのは九州に限定されるべきである」というのは全く無意味
0919日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:09:22.59
>>918
3世紀にもなって鉄器ゼロの地域は広域連合には入れません
0920日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:09:23.02
朝鮮では日本海の事を東海と言う、
東南大海は日本海より南の事だな
0921日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:10:52.98
>>919
鉄器ゼロの地域なんてない
2000年前の沖縄からも鉄器は出る
0922日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:12:35.42
>>921
沖縄からも400年遅れってヤバくね?w
0923日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:13:16.12
>>922
まさに九州説は無知である
0925日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:30:21.08
弥生後期か。畿内の進出で鉄の作り方も教わったな
0926日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:38:56.07
>>914
方角もさることながら大海の中ってのもミソなんだよ
当時、本州が島か半島か分かってなかった
大海の中の山島により成っている倭は九州を表す表現としてピッタリだ
0927日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:39:18.45
>>906
で?
特殊器台の古墳に殉葬後はあったの?
無かったなら卑弥呼とは無関係な証拠だね
0928日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:39:41.59
>>905
ヤマトかどうかわからんだけで倭だよ
0929日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:41:11.89
>>926
なるほどね。
後漢書の時点で倭奴国王が九州の南界まで極めてるから、
島だとわかってたわけだね。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:41:42.57
>>913
倭は日本列島でしょう
当然倭奴国も日本列島
0931日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:43:28.91
>>926
大海の中に浮かぶ島だって事はわかってるよ
0932日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:43:57.27
熊本では紀元前3世紀の鉄器も出ているがな
0933日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:45:12.55
>>932
それがどうかしたのか?
鉄も青銅器も同時期に入ってきてる
0934日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:45:34.90
>>931
本州を全周回らないと島かどうかはわからないが、
わかっていた、という証拠は?
0935日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:47:15.13
どうして九州ではウッキウキで鉄器を作ったのか
青銅器よりも容易に手に入ったのだろうか
0936日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:47:17.88
>>934
倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑
大海の中にあるんだよ
0937日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:48:23.42
>>935
作っとらんが
当初は完成品の輸入品
0938日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:49:04.81
>>933

>>925が言うように畿内から教わったと考えるのは間違いだと言う事
0939日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:49:18.17
>>936
その山島が九州か日本列島か決めるための証拠を求めたのに、

誤魔化した時点で、

いつものごとく畿内説が敗北
0940日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:49:30.86
>>937
oh…
0941日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:50:28.26
常に負けるから畿内説とは論争しない九州説
実在しないキナイセツを捏造して論破するフリをする
悲惨すぎる
0942日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:50:37.57
>>926
ピッタリ
九州は纒向邪馬台国の玄関口ですからね
0943日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:50:47.23
>>938
鉄器を自由に自作出来ないから浸透しなかったと思ってる
0944日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:51:06.08
>>937
ちゃうちゃう
当時は半島も勢力圏におさめてたから、あっちの木材を燃やして作ってから、
こっちに運んだの。

今の日系企業が海外工場で作った製品を日本に運んで売ってるのと同じw
0945日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:51:44.56
>>939
東南大海之中 
おまえにはこれが見えないのか?
0946日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:53:20.42
>>944
鉄鉱石を掘ってたのは半島の倭人で日本人に鉄の精製なんかできねえよ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:56:22.78
>>939
九州も纒向邪馬台国の一部なので全く齟齬がない
倭人は帯方から東南とは九州のことであろう
すなわち、倭の最初の入り口である末盧国は帯方郡から東南であるということ
これはよしんば東京が邪馬台国だとしても同じ表現になるだろう
四国でも変わらない

が、東北ならこの表現は変わるかもしれない
0948日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:56:29.44
中国は半島の倭人も倭だと認識してた
でも日本人がどう思ってたかはわからない
0949日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:57:16.65
>>945
九州島じゃん

東大海之中→東北、北海道
南大海之中→沖縄

倭人伝の方角は8方向しかないから、
東南大海之中の島→九州

本州は島か半島かまだ不明
0950日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:58:03.01
畿内は東の倭種の人たちですよ
0951日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 14:58:35.56
>>949
新羅からでも東南だから
0952日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:00:35.27
中国からそのまま完成品が輸入したと見られるのは、椿井大塚山古墳だろう
五尺刀あるいはその他と思われる鉄剣、鉄刀、鉄矛が多数見られるのはこの古墳

これは魏帝からの下賜品と思われる
0953日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:01:14.98
>>945
帯方郡は日本海には面していない
0954日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:02:27.84
>>951
新羅から東南にあるからこそ邪馬台国じゃないってことだねぇ。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:02:35.71
>>950
おそらく、その竹簡が書かれた時代はそうだったに違いない
しかし、卑弥呼時代には直接ヤマト王権が北部九州の支配に乗り出したことが明らかである
0957日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:03:49.02
>>955
で、その軍勢の兵たちが暮らした住居ってどの遺跡から見つかってるの?
0958日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:03:55.80
>>953
それがどうかしたのか?
0959日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:04:30.23
>>954
わけわかんねえ
倭は中国語
0960日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:05:45.08
>>958
東南大海は日本海では無いと言う事だ
0961日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:06:10.35
>>956
なぜそれをアンカーするのか分からない
椿井大塚山は鉄剣、鉄刀、鉄矛などの武器の多さが他の古墳とは比較にならないので、これは魏帝が卑弥呼に下賜した五尺刀を始めとする鉄器と思われる
0962日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:07:39.52
>>957
大福遺跡、矢部遺跡、藤原宮下下層醍醐遺跡、院上遺跡、鎌田遺跡、太田遺跡、保津宮古遺跡、柳本遺跡、布留遺跡、平等坊岩室遺跡、田中垣内遺跡、東安堵遺跡、和爾森本遺跡、発志院遺跡、佐紀遺跡、西大路遺跡、府中遺跡、古池北遺跡など
0963日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:08:02.88
>>960
何言ってるのか全然わかんねえ
帯方郡から東南の方向にあると書いてあるだけだから
0964日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:08:24.80
倭人伝に出てくる海の名前は翰海
0965日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:10:15.77
>>961
日本に鍛造という技術が入ってきて初めて鉄がまともに使えるようになったんでしょう
0966日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:10:24.33
>>963
日本海は東海、つまり東南大海は日本海よりも南だと言う事
0967日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:11:11.75
阿波は完全に珍説だが、参考になることもある
対海国は後に、対馬国になったと
つまり、馬韓に対抗する島だと
面白い
0968日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:12:45.39
>>966
当時日本海なんて名称無いし広さもわからんだろうし何いってるか全くわからん
0969日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:14:22.12
>>966
なんで?
理由がわからない
0970日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:17:28.56
日本海とか太平洋じゃなくて海の中に浮かぶ島だよ
それが帯方郡から東南方向にあるんだよ
0971日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:23:57.66
滋賀県雪野山古墳と福岡県石塚山古墳古墳からは、小札革綴冑が出ていて、これはまず魏帝からの下賜品と見て良い
日本人はこんなものを使用しない
纒向邪馬台国の高位高官の者たちは日本列島各地に散らばっていたことは、鏡以外のことからも優に推認できる
0972日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:26:26.04
300年読み込んでる魏志倭人伝をいまだに議論しようと試みるスーパー初心者たち
0974日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:31:06.63
>>971
魏帝の下賜品目録に無いから間違い
0975日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:40:38.88
313年に楽浪帯方郡が滅亡したときに漢人の難民が持ち込んだ遺物相当ありそうだな
0976日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 15:57:50.72
鉄製の武器は弥生時代からも出るが、鉄製防具は小札革綴冑は我が国最初の出土である
この小札革綴冑は、椿井大塚山、黒塚、西求女塚、福岡石塚山、滋賀雪野山古墳などから出土しており、かつ必ず画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡と共伴する

したがって、畿内邪馬台国は間違いなく中国と深い交流を持っていたわけである
また、小札革綴冑の存在から三角縁神獣鏡あるいはその同種が中国からもたらされたことも確実である
0977日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:00:58.34
>また、小札革綴冑の存在から三角縁神獣鏡あるいはその同種が中国からもたらされたことも確実である

なんで?

だったら、漢鏡の存在から銅鐸が中国からもたらされたことも確実である、
とかなんでも言えるじゃん

馬鹿なの?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:01:03.78
>>976
>鉄製の武器

このアホはいまだに製鉄製鉄言うとるのか! ドアホが!   @阿波
0980日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:02:11.01
畿内が倭国だった証拠は無い
0981日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:03:02.59
>>976
遼東、楽浪、帯方あたりが戦乱に巻き込まれて難民が渡来してくるようになってからかもしらんな
0982日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:03:46.33
>>977
三角縁神獣鏡は魏鏡である根拠になる
0983日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:04:20.81
>>981
ならば、九州からその多くが出るべきである
0984日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:07:16.19
>>983
古代中国には東南大海の中にあるという楽園の伝説があるから
九州に渡ってきた漢人は伝説の国をめざして東に東に海を渡っていく
0985日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:08:39.27
>>984
全く意味不明で非論理的である
0986日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:09:37.79
戦乱から逃れて九州に渡ってきた漢人は九州の東にコロニーつくって秦王国みたいな集団になり
瀬戸内海を渡ると河内あたりにコロニーつくったかもしらんな
0987日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:10:07.72
>>982
全く意味不明で非論理的である
0988日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:11:09.34
>>985
いや普通に楽園の伝説あるから
徐福みたいなのを派遣しようと思い立つ皇帝がでてくるくらいには
0989日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:11:22.36
畿内の邪馬台国は過疎地域

奴国ニ万戸=旧那珂郡 約430km2
→46.5戸/km2

投馬国五万戸=中国地方 31,920km2
→1.6戸/km2

邪馬台国七万戸=近畿地方 33,110km2
→2.1戸/km2
0990日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:11:34.85
>>986
九州は縄文人が金印強国である倭国を形成してたからね。

難民は東へ追いやられ、それがDNA渡来系割合にも反映されているのだね。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:13:19.38
>>990
四国がなぜか渡来系の遺伝子濃いのもなにかあるかもな
0992日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:13:24.53
>>987
中国から下賜されたことが確実な小札革綴冑が必ず画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡と出土することから、三角縁神獣鏡は共にもたらされたと見るべきである
0993日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:14:32.38
>>991
だから、飛鳥時代に朝鮮半島からの避難民を大勢受け入れた と、何度言えばww   @阿波
0994日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 16:15:33.02
>>989
人口密度が大国の証なら、東京はアメリカを上回る超大国である
0995日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:16:19.30
そういや呉の孫権もなんか東の国に派遣しようとして失敗したんだっけな
0996日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:17:25.76
>>988
それがなぜ畿内でストップするのか全く理解できない
東が大好きなら関東まで中国のお宝を持って行くべきである
0997日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 16:17:58.16
>>996
過疎地だからあたらしくコロニー作るのに適してたんじゃね
0998日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/03(金) 16:18:38.29
>>995
孫権は台湾に派兵したが失敗している
0999日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 16:19:05.55
>>997
過疎地であって欲しいという願望
1000日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 16:19:08.03
>>998
夷州、亶州めざしてたそうな
10011001
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