邪馬台国畿内説 Part1021
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1714955734/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
(本項続く) (続き)
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く) ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。 ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし >>1
稲荷山古墳鉄剣の銘から大彦がいたのだから、
崇神天皇は実在したとされているが、
はてさて纏向宮が卑弥呼邪馬台国のものであれば
どこにいらしたのだろうか? 1が天皇制と言う言葉を使っているがそれは国賊が使う言葉 「天皇制」は昭和初期にマルクス主義用語として登場し、本来打倒すべき対象として造られた単語であり反政府用語である。
宮内庁は現在でも「皇室制」と呼称している。 古事記などでは大倭と書いてオホヤマトと読ませている
即ち倭=ヤマトというのが当時の日本の朝廷の公式見解なのである
ネトウヨには倭とヤマトを別物にしたいものがいるらしい
ヤマト王権と倭国を別にするための詭弁に使うつもりなのだろう
倭はヤマトではないというのからジャップとでも訓じるのが正しいのだろうか
それならオレも意義はない >>82
>即ち倭=ヤマトというのが当時の日本の朝廷の公式見解なのである
大和朝廷が認めざるを得ない日本唯一「倭大国魂神大国敷神社 二座」 @阿波 朝鮮半島からの脱出避難文化人が来るまで、日本人には倭国とか日本国とかの国号という概念がなかった。
日本国名や国名の必要性に思い至ったのは、7世紀以降。
倭国(阿波)王権の役人が、自国の事象を文字で記録するようになったからなんだろう。 @阿波 朝鮮半島からの脱出避難文化人が来るまで、日本人には倭国とか日本国とかの国号という概念がなかった。
日本国名や国号の必要性に思い至ったのは、7世紀以降。
倭国(阿波)王権の役人が、自国の事象を文字で記録するようになって、国号の必要性に迫られたんだろう。 @阿波 中國人は邪馬臺が王宮のある場所だと勘違いしていて国名は倭(ワ)だと思っていた
でも倭(ワ)は中国語であって日本人はヤマトの王だと言っていた
これが邪馬臺 日本人がワと言ってたのであれば倭はそのままワと読むはず
ヤマトにする理由が無い ネトウヨが北海道の先住民は和人であるとデマを広げている
また任那日本府は実在したなどといるトンデモを語る者もいる
今や古代史は現代政治の重要な舞台となりつつあるのだ
邪馬台国九州説は歴史修正を目論むネトウヨの屁理屈に成り果てた
北海道の擦文文化人は和人ではなく古代アイヌ人である
阿倍比羅夫の遠征と後志羊蹄の群領設置は恐らく本当にあっただろう
しかし五畿七道に含まれていないことで分かるように、これは国の直轄地ではなく現地人に対して宗主権を認めさせただけである
ネトウヨどものアイヌ否定論は論外の主張であり、これを看過することは許されない やはり皇室初代から十代を(擬)兄弟相続に組み替え
年代を計算して神武から崇神まで五世代
(cf.江戸開府1603年、第五代綱吉補任1680年)
伊都か南九州かは分からないがコレが東進して
倭国大乱を引き起こし自分の娘か何かを女王にした
あれこれ改革をした挙句やはり出雲系である
東国と対立(前方後方墳は物部の墓制とも)、
九州系女王が崩御しても国は治らず
やむなく再び九州系宗女を立てる。その後の消息は
不明ながら大方の想像通りイニエ(崇神)が
その地位を奪い御肇国天皇とたたえられ
以後の万世一系を宣言する 任那日本府説についても弁韓諸国の王たちはヤマトから派遣させてきた役人の主張を受け入れずに支配されるどころか逆にこれ振り回していた
日本書紀が勝手に日本府などと言っているだけで、実態はヤマトが勝手に宗主権を主張していただけで、実態は弁韓内の連合諸国のまとめ役や政策決定の議長役を勤めていただけである
北海道の後志羊蹄の政所なるものもかくの如くで、擦文人やオホーツク人の現地首長たちと交渉して、本州の文物と北海道の産物の交易業務を担っていたのだろう
そして朝廷の力が衰退すると道南和人の貿易拠点に変化して、中世の余市場所のようなものになっていったと考えられる
ネトウヨの主張は悪意に満ちているのである >>90
そんなとこでしょう
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国も
安東大将軍の役職を貰うためにこんなに凄いんだよと訴えてただけで
完全に掌握してたんじゃないんでしょう 邪馬臺の臺の文字が良くなかったと思うな
中国人がこの文字をあてたとは言えこれの為にその後もずっと
王宮のある場所だと勘違いしてしまった >>92
でも、あるけど
そこ「女王之所都」だもの >>93
だから日本人はヤマトの王だと言ってるのに中国人は倭の邪馬臺に居る王だと勘違いした
でも倭は中国語だからな 次から次から理由もなく史料が間違ってることにしないと成り立たない説が
メジャーになることは決して無い つまり畿内説は記録文献と全く無関係な遺跡や出土品を使って印象操作してるオレオレ詐欺グループでしたと 証拠もなく中傷ばかりする説が
メジャーになることは決して無い >>87
だから、7世紀になって漢字を読み書き出来るようになった倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「邪馬堆」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。 @阿波 「時代が同じであることを明らかにすれば、それすなわち邪馬臺国である」
この命題が真か偽か
ここからして畿内説を受け入れるのは難しい 必要条件と十分条件
2~3世紀の大規模集落の存在は邪馬台国として比定する必要条件ではあるけど
それだけでは十分ではない
何故なら魏志倭人伝には他にも邪馬台国を特定するための情報がいくつもあるから
例えば絹
例えば鉄の矢じりを使う
卑弥呼が擁立される前には倭国大乱があったとされるから
それを裏付けるような形跡
中国鏡
帯方郡からの道里も書いてあるからそれとの整合性
女王国連合に名を連ねる奴国が漢委奴国王印を貰った奴国のことなら
紀元前から大陸との交流があったことになるからそれを示す遺物が無ければならない
それらが揃ってはじめて十分条件を満たしたと言えるのではないだろうか? >>99
他人の言っていないことを捏造して
なんか反論した気分に浸っているひとたちって
あきらかに知能低いよね
九州説のことだけど >>98
その「阿波が」以外はあながち間違いじゃないと思うよ >>101
「其山有丹」や「橘」、「倭地温暖」が無いぞ! @阿波 >>102
纒向遺跡が時期と規模以外で邪馬壹国であるとする根拠は何? >>101
一つだけ
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也
倭国者古倭奴国也
これで何故倭の奴国などと言えるのか? >>103
7世紀中頃に文字を習っていたのは「阿波」だけなんだから、仕方がないのよ。 @阿波 多くの倭人が史書を読めるようになった頃、邪馬壹の「壹」を「ト」と誤読して世に広まったのが「ヤマト」だろうね
「昔はヤマトと呼ばれてたらしい」という話が全国に広まってさ
でも具体的に何処の事かは分からず日本=ヤマトのように解釈しているのが万葉集からも読み取れる >>104
其山有丹の其は倭地であり邪馬台国になくても良い
倭地温暖もしかり、倭地の全体感を言っている
問題は行程しかり邪馬台国や卑弥呼、王宮に言及した部分に合致するかどうかで邪馬台国が決まる。 纏向の桃が三世紀だと決定
👆
それがどうした、3世紀に桃が存在したんだろし、桃で祭祀なんて風習が3世紀の日本にあったかも不明。倭人伝にも桃なんて出てこないし。 >>108
>多くの倭人が史書を読めるようになった頃、邪馬壹の「壹」を「ト」と誤読して
倭国(阿波)の役人は、「臺」の誤字だと知っていたから、「ト」と読んだ。 @阿波 >>109
>其山有丹の其は倭地であり邪馬台国になくても良い
もちろん、倭地の話だ。 @阿波 >>107
阿波は畿内邪馬台国が鉄を作らせてた場所だと何度言ったらわかるんだ。
畿内邪馬台国の植民地みたいなもん。 >>109
「魏志倭人伝」は、「邪馬臺国」は補足。 倭地や女王国を書いている。 @阿波 >>108
日本語だとヤマタイと4文字で臺は2文字
でも中国語だと口語1文字だから日本語にどの1文字をあてるのが適当か分からない
日本語のタイに相当するのは中国語で1文字だけ >>113
寝言は寝てから言え と、何度言えばww @阿波 ア行は原則として頭音にくること。
つまり(単音節単語を除き語末の)二重母音は回避されること。
つまりヤマタイにもヤマイにもならない >>110
>それがどうした、3世紀に桃が存在したんだろし、桃で祭祀なんて風習が3世紀の日本にあったかも不明。倭人伝にも桃なんて出てこないし。
古墳時代は4世紀だーと言い張っている九州説が死にました
ふむ、時期と規模以外には纒向遺跡が邪馬壹国である根拠はないらしい 畿内説は中国の記録文献と全く無関係な出土品しかありません
【お知らせ】発掘調査結果報告(2024年4月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・ゴキブリの羽のかけら 編年を認めた上で邪馬台国との関係を切断してやればいい
九州説とその他の有象無象が出来ることはそれだけ
在野が編年に無益な戦いを挑んでも勝ち目は無いのに
そこでレスバをするから畿内説に鼻で笑われる >>119
時期も合わないよ
年代測定した桃の種は纒向の建物とは異なる遺構から発見された物 これさ>>1=奥山の妄想じゃないか
3世紀にカエルが日本でこのように扱われてたと言う証拠何もないよ、、
蛙はカエル 妄想広げてるだけじゃん
☟
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。 >>123
その通りだね。当時、中国の風習と日本の風習が一緒だと言う証拠が必要だし。他の遺跡でも立証する必要があるね。
公金チュウチュウ畿内説のデマでしょうね。 >>122
>時期も合わないよ
>年代測定した桃の種は纒向の建物とは異なる遺構から発見された物
はい、ニセ情報乙 >>123
畿内説の学者は平気でそういう作り話をするんだよ
それを鵜呑みにする馬鹿が>>1 >>101
>例えば絹
・・・
>それらが揃ってはじめて十分条件を満たしたと言えるのではないだろうか?
はい、九州失格 纒向の首都建設に魏人の関与があったと言いながら
遺構から(後)楽浪土器ひとつ出ないのは変ではないか
とかそういうこと言えねえかな
纒向が銅鐸を捨てているのは確かなんだぜ
その理由が外圧じゃないつーなら東遷説でいい
東で九州勢があれだけ巨大な都を建設しながら
卑弥呼は九州にまだいて魏に遣使するのは不自然
だから懸命に纒向建設の時期を遅らせるべく
纒向の時代は卑弥呼と台与の後とすべく
勝ち目のない編年レスバをするしかない 纒向遺跡の状況
①桃の種が発見された土坑はずっと昔に掘られたもの
②たまたまその土地に地表を削り、均してから建物を建てた
③だから桃の種が発見された遺構に柱穴が干渉している
しかし畿内説ありきの学者どもは何の根拠も示さず、建物を取り壊した後に土坑を掘って桃を埋めたなどと吐かしやがった ちなみに纒向の「大型建物」などと大袈裟に表現してるが柱の細い貧弱な平屋だぞ?
何が大型なのか?と尋ねたら建坪だってさw
纒向想像図には蔵のようなものが描かれているが縮尺からすると家庭用物置ぐらいの大きさだ 桃の種が適当か不適当かなんてわかんねえよ
桃の種の測定結果がどう出るかもわかんねえし
なぜ桃の種が選ばれたのかもわからん >>132
桃の種と言えば吉備
その吉備の影響を受けたと言いつつ吉備は4-5世紀、纒向は3世紀ニダ!とかほざいとる 畿内説によると纏向は倭国大乱より前に作られたそうだから
各国の共立によって立てられた初代大倭王卑弥呼の都説は崩壊しました 実際纒向型前方後円墳から出る弧文円盤は
吉備の様式なのに吉備のものより古いらしい
これが吉備の特殊器台に転写されて
箸墓に戻ってくるという具合のようだ 実際のところ
仮にもし東遷のようなものがあったとしたら倭国大乱(2世紀末)よりも前のことだし
東遷のようなものが無いのだとしたら纏向は卑弥呼とは関係ない東の倭種ということになるな >>133
吉備は4-5世紀ってどういう事だ?
弧帯文で吉備から影響を受けてるよ 投馬国と水行十日陸行一月がどう転んでも説明できない九州説 >>140
>投馬国と水行十日陸行一月がどう転んでも説明できない九州説
だから説明できるのは、「阿波」だけ と、何度言えばww @阿波 やはり阿波は女王共立つまり擬・神武東征の
吉備(高島宮)とともにある立役者だな
同時に銅鐸文化圏にある両者が自ら進んで
それを放棄することも考えられない
だから九州主体の東遷 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! 纒向石塚は吉備人、ホケノ山は阿波人
黒塚古墳は卑弥呼
箸墓は吉備人の誰かわからん人
>>146
九州人が強すぎて石鏃(高地性集落で出るのはこっち)
では間に合わなくなったか >>126
作り話とか存在しないけど
九州説以外は あまり参考にならない三国史記の新羅本記では
このようになっている
173年 - 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。
コレは即位まもなくか
193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ押し寄せた。
倭国大乱のそもそもそ原因である気候変動の
影響がまだ残っている。
ちなみに神武の兄が東征の時代に新羅に渡り
朴氏王統の祖先となっている
以下の話は日本書紀を参照し
神功皇后紀の出来事と同期させている疑いがある。
208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。
232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。
新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。
新羅は軽騎兵を派遣して追撃、
倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、
一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。
倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。 https://enkieden.exblog.jp/19525104/
近畿が吉備出雲の影響を受けてる事は否定できない
だからこの辺りから関東新潟辺りまでがヤマトの勢力圏じゃないかと思ってるんだが 上東遺跡からは纒向遺跡の数倍の桃の種が出ている
もし桃の種が邪馬台国の根拠になるなら、邪馬台国は大和ではなく吉備ということになる
しかしもちろん実際には桃の種など魏志倭人伝には一言も書かれてないから、邪馬台国の根拠には理論的になりようがない
単に纒向を作った外来征服勢力の中に吉備勢力がいたことを示すに過ぎない
こんなものを邪馬台国の根拠と言い張らざるを得ないほど畿内説は合理的根拠に乏しいということだ
魏志倭人伝との整合性が微塵もなく、関西考古学界による独りよがりの妄想に過ぎない土器編年根拠然り
魏志倭人伝との整合性が微塵もなく、関西考古学界による独りよがりの妄想に過ぎない前方後円墳根拠然り 勿論一方的じゃなく銅鐸、銅鏡、前方後円墳、神明造等近畿から外にも発信してる 魏志倭人伝の行程を見てわかってる人も居るだろうけど、南や東の国については紹介されているが、西に国が存在する記述は一切無い
これは女王国が倭の一番西の地域に位置している事を意味しているわけよ
よって畿内は東の倭種の国確定 纒向型前方後円墳は纒向だけにあるのではない
纒向が自生ではない以上、以下のメンツは
連合参加国(≠征服国)もしくは
長続きしたかは別として畿内人入植地
千葉県市原市
岡山県総社市
兵庫県姫路市
徳島県鳴門市
佐賀県武雄市
奈良県天理市
福岡県筑紫野市
福岡市博多区
鹿児島県薩摩川内市
福岡県糸島市
神奈川県海老名市
千葉県市原市
静岡県磐田市
石川県加賀市
岡山県岡山市
福岡市東区
佐賀県唐津市
宮崎県新富町
大分県国東市
他、長門丹後伊勢信濃出羽
※箸墓までの時代(布留0式)です 勢力圏と言うと支配してるみたいだけどそうじゃなくて
卑弥呼を共立した豪族たちが居た場所
邪馬台国連合の一員だな >>129
纒向の建設が始まったのは
後漢の遼東太守公孫度が半独立政権の時代 ちなみに箸墓古墳と同型の古墳が京都府向日市に存在しており、そちらは3世紀末〜4世紀と言われている
箸墓古墳の方を古く編年する理由は無い
つまり箸墓古墳の編年はウソ ちなみに前方後円墳より100年早くから前方後方墳が東日本で定型化されている
前方後円墳は前方後方墳の後継と考えられる >>154
前方後円墳というか古墳が流行しただけだよ
政治的意味はあまりない
同じ勢力の古墳密集地に前方後円墳含むいろんな形の古墳が混ざっていること、前方後円墳と前方後方墳の副葬品の比較で有意な違いが全く見られないこと、などから古墳の意匠は基本的に被葬者のデザイン選択に過ぎないことを松木武彦が書いている(「古墳とはなにか」) 静岡県の高尾山古墳(前方後方墳)は箸墓古墳より古い時代の建造である >>159
俺もそう思うわ
いろんな古墳が混ざってて前方後円墳に集約されて行った
別に強制されたもんじゃないでしょう >>159
このように編年に異議を唱えるばかりではなく
こうした主張をなすことも可能である 西日本では同時期同地域に
前方後円墳より大型の他の形の古墳はない >>159
松木は本当に権力を持った者の墓は方形周濠墓だ
とも言ってた
それは奈良盆地で言えば西に偏ってるとも言ってた
纒向なんか全くの圏外だよ >>150
だから、倭人(阿波勢力)の進出した所 だと、何度言えばww @阿波 弥生墓が基本的に四角い
デカくて丸いのを初めて作ったのはやはり吉備
楯築墳丘墓(双方中円墳) >>163
勿論大きさは権力の象徴ではあると思うけどね >>154
それら全部、倭人(阿波勢力)の進出地。 @阿波 >>159
>政治的意味はあまりない
その通り。 倭人(阿波勢力)の有力豪族が全国で好き勝手に造っただけ。 @阿波 松木が言ったのは、
前方後円墳が造られずに方形周濠墓を造っているところは
前方後円墳勢力に参加しないだけの力があったという意味で
前方後円墳よりも方形周濠墓の方が権力があるということではない >>166
楯築墳丘墓(双方中円墳)も倭人(阿波勢力)のお墓。 大量の水銀朱で一目瞭然。 @阿波 >>170
一緒だろ馬鹿w
つまり方形周濠墓が女王国勢力で前方後円墳が東の倭種の国とも考えられるわけだ 古墳時代後期は狭い地域に密集した小型の群集墳が造られるので
時期的に分けて分布を見ないといけない >>172
>強制じゃないと思うけどな 政治的意味はあまりない
その通り。 倭人(阿波勢力)の有力豪族が全国で好き勝手に造っただけ。 @阿波 >>171
千葉が一番多いのか
意外だわ
確かユダヤ人そっくりの埴輪は千葉県の古墳から出土したんだよな >>175
3世紀前半九州最大の都市博多には
大型の那珂八幡古墳が造られその南側に方形周溝墓が造られる >>179
同時期に前方後方墳も造られてるだろ
つまり前方後円墳体制なんて虚言なんだよ ちなみに纒向のメクリ1号墳も前方後方墳だな
福岡の焼ノ峠より後に造られた事になる
東日本勢力が福岡を制圧して次に纒向を制圧したって事か?
アタオカ畿内説さん 丸い墓は特に最初期は首長層のみに許されたとは思うけどね
各地が連合に参加する動機としては
紛争にあたって隣国との直接衝突を防げること
流通網を頼り不足物資が安定的に確保できること
これらすべて倭国大乱の教訓だったろう
でなければ参加しようとはならない >>181
強制したんじゃないと思うが
文化の発信みたいなもんかな? 古墳時代に古墳が日本列島で大流行した
その中でも前方後円墳を特に好んだのは房総や常陸で、やたらでかい前方後円墳を作りたがったのが初期の崇神朝と初期の応神朝だ
確実に言えるのはそういうことだな 円墳、方墳の頃は上へ昇るスロープだったのが、ひとつになり高さも高くなり、近寄りがたくなった。
見解もある。 >>140
放射説で説明できる。
松浦国は唐津、唐津から南東500里(40km)で伊都国(吉野ヶ里)、ここから放射説で伊都国から東に100里(8km)で不弥国(鳥栖)、伊都国から南東に100里(8km)で奴(那)国(福岡県=筑紫国)、伊都国から南に出航して水行20日で投馬国(都萬国=西都)、伊都国から南に出航して水行10日または陸行一月で邪馬台国(薩摩川内から宮崎市の領域(天皇家の陵が残ている地域)。 そもそも宮崎に天皇陵に相応しい古墳なんて当時無いだろ? >>184
>文化の発信みたいなもんかな?
だから、倭人(阿波勢力)の進出 だと、何度言えばww @阿波 狗奴国那覇説爆誕と思ったら
その南に本州があり(古代地図上)
狗奴国が皇室の祖先だということだななるほど
しかし登美の里をヤマトと名付けたのは饒速日だな
東遷説をとった場合でもヤマトはヤマトだと思うね 都出比呂志や広瀬和雄らの唱えた「前方後円墳体制」なる幻想もすっかり剥げ落ちたな
自然科学の分野でフロギストン説やエーテル説が科学の進歩のプロセスでは大きな役割を果たしつつもその説自体はとっくに否定されたように、前方後円墳体制説もそうなりつつある サイトバラ古墳って場所的に日本書記にも出てくるもんな >>193
30年前の畿内説(畿内自生説)を盲信する人間の精一杯の捨てゼリフありがとう 伊都国のみに到の字がある
だから張政かあるいは一般の使節の旅はここで終わり
そこから二つの福岡平野の国だけ挙げてる
水行の基点は正直どこか分からんよ
まず本州目指すなら九州に寄る必要がないが
水行の話は旅の目的地でなく一般論として
邪馬台国の位置を示す目的であったなら
記述上伊都国からの方位とみるのは自然
伊都国の南は山だよ?
ご安心ください。
水行を要するのは先刻承知、伊都の外港である
那津を出て陸地を回り込み南へ進むと思っていたのだ
我々の常識ではその航路を取れば宮崎県に着く
だが魏志の記述意図は日本海沿岸ないし
瀬戸内海を水行することにある
もうこのほかに理解する方法がない
>>195
陸行一月を示す内陸の赤いマーク >>199
30年前はね
ちなみに久住猛雄のXポストによると2000年頃に畿内自生説は力を失ったそうだ >>200
その陰に「阿波」がありそうだな。 @阿波 定義が違うだけだろ
寺澤の言う
「わずか30年ほどの間に纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された」
って
これ畿内自生説そのものだから >>203
反論できない
罵るだけ
子供騙しって、そういうことを言います >>202
そう、寺澤は在地弥生勢力からヤマト王権への連続的発展とする畿内自生説的な考え方を「第一の道」と称して否定する一方で(彼自身は外来勢力を想定する「第二の道」を提唱)、土器や前方後円墳に政治的意味を持たせる部分では畿内自生説的な考えも残している
もっと下の世代の北條芳隆や松木武彦や久住猛雄ほどアンチ畿内自生説が徹底していない中間的な感じだな 大己貴命が素戔嗚の娘を娶ることで
大国主になった。(素戔嗚の息子とする所伝もある。
婿相続かどうかはあまり大きな問題にならなかった可能性もあり)
倭面土王帥升を素戔嗚と取り
かつその場所をヤマトと解するなら
こうして大己貴命つまり物部出雲系はヤマトの主となった
物部同族の出雲国造、関東系国造が祀るのは
天穂日でも饒速日でもなく大己貴命である。
饒速日・火明系列は天照御魂として鏡作連の神であるため
銅鐸祭祀と無縁だが廃止させた様子はない
そもそもの素戔嗚も韓神である
その一方東国へ去った出雲系が銅鐸の生産を
継続していることには留意すべきである
大己貴命つまり饒速日本人か或いはその祖先は
九州のどこかから宇佐を経てヤマトに来ている
その場所や背景は後からやって来て
倭国大乱を引き起こした擬神武と変わらないだろう
饒速日は伊都で擬神武は南九州かもしれない
この点は記紀で火明火遠理火照をすべて
同族とすることで解決された >>206
いずれにせよ、畿内説を唱える学者もどきは、碌に鉄器さえも作れない畿内をどう評価するのか。 @阿波 >>208
そんな大層なもんじゃないから
多少イノシシの皮膚にもよく刺さるって程度で >>195
とっくの昔に論破されてるくせにw
その原図はモンゴル帝国が作成した物であり日本は制圧出来なかったので記載されていません
その地図は日本が持ち込んだ日本地図を追加して李氏朝鮮が作成した図であり、当時の日本地図が西を上に縦書きされた物だったとわかる
そしてその縦書きの日本地図が発見された
縦書きの日本地図には方角が記載されていた
つまり李氏朝鮮は馬鹿だから方角を考えずに縦書きの日本地図をそのまま追記してしまいましたと
ちなみに長崎県島原市の寺で日本地図が正確に記載された地図が発見されている >>195
行基図が南が上になっている事を知らずに朝鮮人が作った地図を悪用する畿内説 畿内説は
本当は何処に邪馬壹国があったかなんて興味ないんだよ
邪馬台国は畿内にあったということにしたいだけ
その為なら現実をねじ曲げても構わない インタビュアー
「あなたの書いた邪馬台国は、
九州島内にあったのですか」
陳寿「いいえ。」 スサノウは銅鐸を出雲にもたらした荒神谷遺跡の主であり、
元々は吉野ケ里遺跡の住人で、
ソレは最も初期の福田型銅鐸とその型が、
吉野ケ里遺跡とその周辺で出土していることで確定している。
コレは紀元前3世紀の話しで、
コレを107年に朝貢した帥升に当てはめるのは大きな間違いだ。 >>211
>とっくの昔に論破されてるくせにw
いつ、誰に? これと前後して、
大国主が因幡の白兎を助けたが、
コレが青谷上地遺跡のサメの線画の土器や武器や、
虐殺された童子の遺体として残っており、
歴史の事実である事が確定している。
また青谷上地遺跡と同一民族とされる
土井ヶ浜遺跡の人骨を分析した結果、
山東省臨淄の人骨の形態と一致する事が分かっており、
実際にDNA分析の結果、
斉国臨淄の人骨のDNAと、
土井ヶ浜遺跡の人骨のDNAが一致する事が判明し、
土井ヶ浜遺跡の人骨と青谷上寺地遺跡の人骨のDNAが一致する事も判明し、
因幡の白兎として虐殺された童子は、
紀元前3世紀に斉国臨淄から渡来した童子ということになり、
紀元前3世紀に斉国臨淄から渡来した童子=徐福が連れて来た百工と三千人の童子が、
因幡の白兎伝説ということが確定した。
コレがBC210年直後の出来事として年代決定が可能になったのである。 >>180
3世紀前半九州最大の都市博多には前方後方墳はない >>206
いずれにせよ、畿内説を唱える学者もどきは、碌に鉄器さえも作れない畿内をどう評価するのか。
そんな文化の遅れた寒村にヤマト王権などと、畿内説を唱える学者もどきはアホとしかww @阿波 >>181
3世紀前半の那珂八幡古墳の半分以下の規模の焼ノ峠古墳は3世紀後半 3世紀中ごろの最初の定型化巨大前方後円墳箸墓古墳の後
暴れ川洪水地帯を除く九州各地に前方後円墳が造られる 卑弥呼時代に飢饉が発生して半島に難民が来たと記録されてるな
つまり畿内説はオレオレ詐欺 >>226
>卑弥呼時代に飢饉が発生して半島に難民が来たと記録されてるな
倭人(阿波勢力)は、すでに前漢武帝頃から行っている。 @阿波 >>226
それは大阪に働きに来た人たちの国の12世紀の本 >>229
それお前の感想ですよね?
卑弥呼時代の記録を記載した「史書」とお前の「感想」とどっちが重みあると? >>230
感想ではなくて、
三国史記は大阪に働きに来た人たちの国の12世紀の本 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww .>>233
「舊百餘國 漢時 有朝見者今使譯所通三十國」
>昔は百余りの国があって、漢の時代に朝貢する国があったが、現在、我が国に使役を送ってくるのは三十ヵ国である。
弥生時代中期後半(前漢)には、鉄器を作っていた鉄器王国「阿波」。
その前漢武帝(紀元前108年)時代に朝貢していた国とは、
鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交手段。 @阿波 >>231
>大阪に働きに来た人
ってそれお前達だろ 百とか三十とか半島の国かもしれんしわかんないな
歳時を以って来り献見すと云うもそんなにしょっちゅう日本からいけねえし半島の倭人の国かもね >>206
「纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された」
という畿内自生説に
誰も反論できないでしょ? >>238
>百とか三十とか半島の国かもしれんしわかんないな
魏志韓伝(『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝)じゃないぞ! ボンクラ。 @阿波 >>238
>百とか三十とか半島の国かもしれんしわかんないな
現に、弥生時代中期後半(前漢)には、鉄器を作っていた鉄器王国「阿波」。 @阿波 >>240
バンバン反論されてるよ
最近の論文や本読んでないの?
従来の主流派が言ってたような政治的意味はあんまりないよね、各地が自律性・主体性を持って文化的に受け容れつつそれぞれ独自性を発揮してるよね、がむしろ今の考古学界のスタンダード >>236
>>226は、日本の学者の通説畿内説は詐欺で、
大阪に働きに来た人たちの国の12世紀の三国史記は
正しい歴史だと言っている >>244
いずれにせよ、畿内説を唱える学者もどきは、碌に鉄器さえも作れない畿内をどう評価するのか。
そんな文化の遅れた寒村にヤマト王権などと、畿内説を唱える学者もどきはアホとしかww @阿波 >>243
>バンバン反論されてるよ
>最近の論文や本読んでないの?
どう反論されてるか、ひとことも言えないってことは
あなた最近の論文や本読んでないのね
お笑い
>>246
いずれにせよ、畿内説を唱える学者もどきは、碌に鉄器さえも作れない畿内をどう評価するのか。
そんな文化の遅れた寒村にヤマト王権などと、畿内説を唱える学者もどきはアホとしかww @阿波 >>248
ほら、ひとことも反論できいない
あなた最近の論文や本読んでないのね
なさけない人で、超お笑い >>243
それ>>240への反論になっていない
地方の首長が葬制文化を受け容れてるなら
畿内が発信した祭祀文化の影響を受けている
つまり政治的意味はあんまりないということはない つまり畿内説は無意識に朝鮮式ウリナラ起源説を主張してしまう先天性の病気ですよと >>250
>地方の首長が葬制文化を受け容れてるなら
受け入れていない。 @阿波 >>249
そういう小学生みたいなやり取りしか出来んのか? >>250
いや、各地の研究が進んで、各地が独自のやり方で受容している、畿内のやり方を模倣している訳ではない、というのが明らかになってきているのだ
かつての考古学界にあった近畿至上主義、大和中心主義が実証的に否定されてきたのだ
本当に30年前の畿内自生説を盲信している連中は数少ない残党の岸本直文以外の論文を読んでないんじゃないの? >>254
前方後円墳という壺形の墓は
非常に特異な形なので
模倣している訳ではないというのは無理がある
九州各地で前方後円墳よりも大型の他の形の墓というのはない
ただ暴れ川洪水地帯は前方後円墳が造られるのが九州でもっとも遅いので
ヤマト王権の政治連合の外だと言ってもいい つまり鏡や三種の神器を受け入れた地域は九州の政治的影響下にあるということでよろしいか? 鏡は中国のものなので特異なものではない
平原1号のサビ色塗装鏡は特異中の特異だけども
日本では、もちろん中国でも受け入れているところはない なるほどじゃあ「中国製の三角縁神獣鏡」にもなんの意味もないな >>255
>模倣している訳ではないというのは無理がある
「阿波」の墓制を倭人(阿波勢力)が全国へ広めただけのこと。 @阿波 >>255
前方後円墳の形成自体に各地の有力者が関与しているという見方だ
例えば松木武彦などは、纒向にある初期の古墳はそれぞれ各地の有力者がサミットの場所である纒向に古墳を作ったと見ている
場所は纒向だが被葬者は各地の有力者ということだ
纒向勢力のリーダーはホスト役ではあるが支配者ではないということになる >>254
それが
「纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された」
という畿内説に対する反論?
九州説って何も反論しないし
何も立証しないの?
なさけないね >>261
岸本直文以外の最近の論文を君は読んだ方がいい
あまりにも今の考古学とズレていてかわいそうだ >>256
>つまり鏡や三種の神器を受け入れた地域は九州の政治的影響下にあるということでよろしいか?
どうして鏡や三種の神器を受け入れると九州の政治的影響下になるの? >>263
どうしてあなたは、ひとことも反論できないの? >>260
>前方後円墳の形成自体に各地の有力者が関与しているという見方だ
各地じゃなくて、「阿波」の有力豪族の関与。 @阿波 >>265
あなたのレスと粒度は変わらんよ
何で相手だけに詳細さを求めるの? >>240
まず根本的に前方後円墳自体が
中国地方の吉備の勢力が発展させたもので、
畿内の自生説自体が存在しない。 >>269
>中国地方の吉備の勢力が発展させたもので、
楯築墳丘墓(双方中円墳)も倭人(阿波勢力)のお墓。 大量の水銀朱で一目瞭然。 @阿波 また、纒向型前方後円墳の全国への波及が、
邪馬台国が倭国統一の証拠なる畿内説は、
卑弥呼の死亡時期に造られた、
伊都国の平原遺跡が方形周溝墓である事で
完全否定されている。 >>269
最初の前方後円墳は纒向石塚である
吉備の楯築墓を前方後円墳の祖型と見る向きもあるが、不合理であろう >>274
勿論、その可能性は否定できないが、
今後の研究の進展を待つ必要があるだろう。 >>274
>最初の前方後円墳は纒向石塚である
なんの助走もなく、いきなり「前方後円墳」?? 推して知るべし! @阿波 松木は出雲のシンポジウムで「吉備はヤマトに追随して情け無い」、「出雲は前方後円墳を受け入れず孤独に独立を保った」などと発言している
すなわち、松木は前方後円墳にかなりの政治性を認めているということになる 臺與の墓は恐らく赤坂今井墳墓で、
畿内説は捨てて、
丹後説にシフトしたほうがいい。 >>243
単なる言葉遊びに近いものがあると見るべき
各地が自律性なるものを持っているということの解釈がそもそも不明である
しかも、松木に関しては出雲のシンポジウムで、「吉備はヤマト王権に追随して情け無い」などと発言している
が、吉備でシンポジウムをしたら「ヤマト王権に追随」などという言葉を使わないだろう >>272
伊都国は単に独自性を保ったというべきである
それは出雲では100年間前方後円墳が作られなかったことと同じである
しかし、そんな伊都国も4世紀後半に一貴山銚子塚古墳なる100mを超える前方後円墳を作り、8面の三角縁神獣鏡を副葬した 赤坂今井墳墓から女王の装飾を示す遺品が多数見つかった時、
畿内説が崩壊する可能性を恐れて、
埋め戻してしまった事が分かっている。
もうソレが隠し通せる時代ではなくなってきているので、
素直に、赤坂今井墳墓を臺與の墓として認め、
丹後王国こそが邪馬台国の継承者として、
日本の弥生時代を解き明かしていかなければいけない時代になった。 >>279
旧来型畿内説(畿内自生説)が言うように西日本各地が大和に政治的に服属していたのであれば、特に吉備だけを取り上げて大和に追随して情けないなどとは言わないだろう >>280
残念だが大陸からの贈り物を管理したと魏志倭人伝に明記してある伊都国の、
卑弥呼の死亡時期に作られた平原遺跡から出土した
多数の舶載鏡の中に、
三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も1枚も無い事で、
魏から贈られた100枚の銅鏡は
三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡なる
畿内説は跡形もなく完全崩壊している。
最早見る影もない。
今後この説が日の目を見る事は一切無いと断言できる状態だ。 >>258
意味があったから全国の大型古墳で墓に入れられた >>272
馬韓の祭祀文化がある平原1号はTA期(200年頃) >>263
理化学的年代測定法の結果から、寺澤は焦っていると考える
例えば、纒向石塚のヒノキは年輪年代法で177年と出てしまった
纒向の桃核12個の14Cでは3世紀が最も厚かったが、2世紀にも大きな山がある
中塚氏の酸素同位体比年輪年代法でも箸墓は250年前後と出てしまった >>282
ところが、松木は「孤高の出雲」と称賛する一方、「吉備はヤマト王権に追随して情け無い」と言っていることは事実
そもそも考古学者の発言としてあまり適切ではない
中央に反することが素晴らしいというイデオロギーが丸出し >>287
そういってるのは朝鮮投馬国説の伊都国王都説だけ >>283
平原が卑弥呼の死亡時期に作られた?
九州説って、根本から破綻してない? >>286
久住猛雄のXポスト
理化学的年代測定や酸素同位体比年代測定をよく考えもせず安易に錦の御旗の如く捉える風潮に警鐘
「ただしその年代イコール遺構年代とか廃棄年代とは限らないことに注意というのは @gijyou さんが指摘した通り
AMSについては、較正曲線が更新されると推定年代が動きます。実際、2014年の曲線では庄内式開始が2世紀前半とかなったが、おかしいと私が論文で交差年代法で批判し、その後」
「2020年の曲線では年代が下降。そうすると2014年曲線根拠の庄内式や廻間Ⅰ式開始が2世紀前半という説はそもそも根拠喪失してます。「交差年代法」を軽視してたから。」
「酸素同位体比も、遺構出土木材の伐採年代は出ますが、遺構出土土器群の廃棄年代とは必ずしも一緒とは限らず、木材(木製品)によっては再利用とか保管とかありうるので、性急な結論はNG。年輪年代も一緒。また列島の地域によっては酸素同位体比変動が違う可能性があって、中塚先生も各地資料を」
「集めて修正しようとしてるところです。実際、近畿か伊勢湾岸はほぼ同じということですが、東北あるいは屋久島の酸素同位体比変動は違うというのが分かってます。
これ、年代論だけでなく、「広域」の「気候変動」を社会変化の原因とする説は慎重になってほしいところでもあります」 >>292
もちろん知っている
九州説など学者に存在しない >>268
>あなたのレスと粒度は変わらんよ
>何で相手だけに詳細さを求めるの?
ほら、九州説はひとことも反論出来ない
敗北者だからだね >>295
そういうレスをして勝った気になれるのかい?
おめでたいね >>283
「卑弥呼の死亡時期に作られた平原遺跡」
という説が日の目を見る事は一切無い >>296
反論出来なきゃ負けだから
相手の勝ちだよ
普通 弥生末期の集落の解体及び纒向の建設を「非連続」とする寺澤の説は支持できない
「纒向は突如として現れた」と主張するが、突如現れる方が不自然である
纒向は弥生集落の解体と連続して建設されたと考える方が合理的である >>286
久住猛雄のXポスト
理化学的年代測定や酸素同位体比年代測定をよく考えもせず安易に錦の御旗の如く捉える風潮に警鐘
久住は理化学的年代を踏まえて庄内は170年代以降、古留0は三世紀中頃って結論なんだけど >>299
>纒向は弥生集落の解体と連続して建設されたと考える方が合理的である
非合理である。
異常な気候変動による大洪水で弥生集落が埋没し、人が住まなくなった荒地に、「古墳造営前線基地」を設け、巨大墓地となっていった。 @阿波 >>293
理化学的年代測定法によって、自身の説(アンチ畿内自生説)が覆される恐れがあるから理化学的年代測定法に否定的であるようにしか見えない >>300
反論に答えられない反論出来ない九州説が負けだよ
通説の勝ち >>301
庄内0を170年とする久住を支持できない >>302
大洪水で集落が解体されたという証拠などない >>308
お前が知らないだけ。 大概が土砂で埋まっている。 @阿波 平原遺跡が卑弥呼の死亡時期に作られた墓であることは、
方格規矩四神鏡が同一工房内において、
徐州の銅が枯渇し、
魏の領内の銅を混ぜて作らざるを得なかった
鉛同位体比の分析結果から決定しており、
ソレは即ち平原遺跡の方格規矩四神鏡が、
魏から贈られた100枚の銅鏡という事になるのだ。
これはもう覆す事が不可能なレベルで、
青龍三年鏡の方格規矩四神鏡の存在からも、
方格規矩四神鏡が魏鏡があることを前提に、
時代編年を見直さざるを得ないことを持って、
従来、方格規矩四神鏡が漢鏡だから、
方格規矩四神鏡の出土した平原遺跡は漢時代の遺跡なる説は
最早時代遅れも甚だしい過去の遺物となっている。 >>314
>平原遺跡が卑弥呼の死亡時期に作られた墓であることは、
>方格規矩四神鏡が同一工房内において、
>徐州の銅が枯渇し、
>魏の領内の銅を混ぜて作らざるを得なかった
>鉛同位体比の分析結果から決定しており、
だれが決定したの? 安心して、平原遺跡は卑弥呼の死亡時期に作られた墓で、
方格規矩四神鏡が魏から卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡と、
今後は言い切って下さい。
コレは考古学的に覆す事が不可能な確定事項。 >>313
一例
「弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流」 @阿波
弥生時代前期末から中期初頭(2400年~2300年ほど前)にかけて、
西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅である。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、
京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、
アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。
徳島大学大学院 准教授(当時) 中村 豊氏 漢鏡5期(1世紀後半)平原が銅鏡100枚ならば、150年以上伝世しなければならない
そして、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡も150年新しくする必要が出てくる
全く成立の余地がない珍説と言わざるを得ない >>321
弥生時代中期でかつ「初頭」
つまり、紀元前の話
魏志倭人伝とは全く無関係 小山 満
所属
創価大学 教育学部 児童教育学科 創価大学 教育学部 児童教育学科 教授
学位
博士(文学)(早稲田大学)
研究分野
人文・社会 / 美術史 /
人文・社会 / 美学、芸術論 / >>320
そんな珍説
どうやって確定したの?
認めてる人いないでしょ? >>304
君何一つ根拠出してないじゃん
ただ否定するだけでこのスレROMってる人が
成る程九州説は間違いなのか
なんて思うわけ無いだろw >>325
つまり鉛同位体の分析とか
やったこと無いひと >>321
確かに埋まってるけどそれって肥沃な大地の為に必要で同じ場所で稲作やってるよ
てか大規模集落のかなり以前の話しで卑弥呼の時代の500年前じゃん これか
「4. 平原遺跡の鏡
平原出土の方格規矩四神鏡の銘文は・・・これまで左右中尚方などと記さず単に尚方作と記す鏡は魏晋代ではないと理解されていたわけである。
しかし、調べてみたところ『三国志』魏書の中に、「減乗輿服御、後宮用度、及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物」とある。これは『三国志』魏書少帝紀、嘉平 6(254)年 10 月の改元にあたり述べている内容であるが、魏朝において尚方の呼称を用いていたことを示している。したがって、これまで魏鏡は右尚方の鏡のみとされ、尚方作とする鏡は魏晋代ではないとしてきたことに対して、このように『三国志』魏書に尚方と記載していることで、魏の時代に尚方作と記す鏡もあった可能性を示している。」 >>327
九州説って何一つ根拠出してないじゃん
結論言い張るだけで
根拠きかれたら逃亡って
繰り返してたら
成る程九州説は間違いなのか
って誰でも思う >>331
つまり、あったとしても単なる復古鏡があったというだけで、漢鏡6期、7期が全く出てこない平原を、卑弥呼の時代にすることは絶対に不可能ということ 桜馬場出土鏡
唐津桜馬場遺跡から出土した鏡(2 面のうち 1 面)も平原出土鏡と類似の方格規矩四神鏡であ
る。ここにやはり「尚方作鏡…飢食棗」と記している。これも魏の鏡の可能性が高いのではないか
と思われる。銘文は次のようにある。(図 13)
図 12 平原 1 号鏡 23.4 ㎝ 図 13 桜馬場(1) 佐賀県博 23.2cm
「尚方作鏡真大好 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗 浮遊天下敖四三 徘徊名山採芝草 壽如
金石之國保兮」
文中敖四海が敖四三となっている。これを(1)とする。もう 1 面には次のようにある。
「上大山 見神人 食玉英 飲澧泉 駕文龍 乗浮雲 長宜官」
一見して桜馬場(1)の鏡の画像および銘文が平原出土鏡と類似性をもつことがわかる。銘文は
とくに平原の№2,3 号鏡がほぼ同一の文章で、字形においても平原の 28 枚の尚方作鏡と比較して
みると、それぞれ字形の類似性が高い。であれば桜馬場出土鏡と平原出土鏡は、源となる製作工房
を一つに絞っていいのではないかとさえ思われる。
この二枚の鏡の入っていた桜馬場の甕棺は、遅い時期の桜馬場 3 式、原ノ辻上層式で、これま
で弥生後期前半とされていた54。しかし、新たな見解が高橋徹氏により出されている55。氏は桜馬
場遺跡出土の甕棺の胴部突帯が胴部の下方に位置していることに注目して(これが弥生後期中ご
ろ)、同遺跡出土の巴形銅器(後期後半か終末)と有鉤銅釧(後期前半から中期)の共伴を通し
て、遺跡を通説の‘中期末から後期前半’をさらに下げて考えるべきことを提案した。 そしてつぎに井原鑓溝出土の巴形銅器について検討し、これが後期後半から終末にあたるとし、
遺跡は桜馬場の次に井原鑓溝、そして平原の順であることを確認して、この両遺跡から出土した鏡
と平原遺跡出土鏡との関係に及んでいる。
高橋氏は三遺跡いずれからも出土の方格規矩四神鏡について、これを A~D に分類し、それぞれ
1~3,4 式に定めて、その結果方格規矩四神鏡は弥生後期中ごろから後半にあたるとした。ただ氏
は鏡について製作時期と出土時期の間の大きな差に対して現地中国での長期間の伝世、あるいは
復古鏡、踏み返し鏡の存在によるとし、これらは製作地、製作時、出土時期が近接しているときに
生じやすい現象とみて、平原遺跡出土鏡のほとんどがほぼ同一時期の製作であるとも考えている56。
また方格規矩四神鏡が内行花文鏡等と共伴する現象は前期古墳に顕著であることから、平原をそ
の先例として位置づけている。その結果、平原遺跡は‘弥生終末期か遡っても弥生後期後半’であ
るとした。
以上が高橋氏の論考の概略である。ここから我々は方格規矩四神鏡の出土した桜馬場、井原鑓
溝、そして平原の三遺跡の時代がいずれも通説より下ることを理解することができる。 >>320
「卑弥呼」の時代まで、その影響が続いて、灌漑稲作ができていない。 だから、雑穀が主体となっている。 @阿波 >>334
すなわち、単に復古鏡がある可能性を示しただけで、平原からは漢鏡6〜7期が出てないのであるから、平原卑弥呼の墓説は全く成立の余地がない >>330
>同じ場所で稲作やってるよ
やっていない。
「卑弥呼」の時代まで、その大洪水の影響が続いて、灌漑稲作ができていない(レプリカ法)。 だから、雑穀が主体となっている。 @阿波 >>338
全く意味不明。
平原遺跡の方格規矩四神鏡は魏鏡は確定的で、
同一工房内で作られ、
徐州の銅が枯渇する状況で、
魏の領内の銅が使われる状況が発生した、
即ち、魏が緊急的に作成し卑弥呼に贈った百枚の銅鏡は決定的である。 平原を200年ごろとする久住を支持できない
漢鏡5期鏡を100年以上も伝世したならば、画文帯神獣鏡や斜縁神獣鏡もほぼ同じ年代に出るべきであるからである。
ところが、北部九州で斜縁神獣鏡が出てくるのは4世紀の博多五島山古墳からであり、数としても畿内に全く及ばない。
平原は2世紀前半と考えるべきであろう >>340
魏で銘文が同じ方格規矩鏡が復古されたというだけの話
理解できますか? 九州説さんがそんなに銘文を大事にしているなら、景初3年、景初4年、正始元年紀年銘鏡や、
銅出徐州師出洛陽という銘文や、陳是作銅鏡も信じてもらいたいものですね 今後、平原遺跡が卑弥呼の死亡時期に作られた墓で、
方格規矩四神鏡が卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡という事が
覆ることは一切無いんで。
そこの所を間違えない議論を
今後はするようにしなさい。 >>340
>全く意味不明。
>平原遺跡の方格規矩四神鏡は魏鏡は確定的で、
理由は? 平原遺跡って捏造じゃん
卑弥呼の時代の土器って後から埋めた土嚢墓の時代でしょ?
それ以前の遺物は何なのよ?
しかももし王墓なら僅か100年後に敷地内に庶民の墓造ります? >>344
アホ??
中国河北省で出土した魏鏡と一致するということだぞ??
三角縁神獣鏡は中国で出土すらしていないし、
似た銘文も無い。
畿内説のアホはコレだから。。。 >>336
>散々出てるよ
いつ、どこで何が?
九州説は内容がない >>348
平原は紛れもなく王墓である
それを否定することは全く不可能である
しかし、平原王墓は卑弥呼とは時代が全く違い、九州説不成立の大きな要因を占めていることは知っておく必要があろう
>>349
魏鏡と同じ銘文が出てる銅鏡なら畿内にたくさんありますけど?
もっと論文を読んだ方がよろしいのでは? >>345
>今後、平原遺跡が卑弥呼の死亡時期に作られた墓で、
>方格規矩四神鏡が卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡という事が
>覆ることは一切無いんで。
理由は? >>339
そこへ行くと2000年前からずーっと稲作が継続してるんですよ房総では これはもう決まりですね >>340
>徐州の銅が枯渇する状況で、
>魏の領内の銅が使われる状況が発生した、
徐州は魏ですが >>354
良かったな、異常気象が無くて。 関東忌部よ。 @阿波 確定畿内説を採る私にとって、平原王墓は極めて重要であら
これを「平原のくびき」と呼んでも良い
平原があるからこそ、九州説とかいうのが全く成立しない >>357
畿内の纏向もな。 纏向があるからこそ、畿内説とかいうのが全く成立しない。 @阿波 もう平原遺跡の方格規矩四神鏡を
漢鏡6期に分類する事は不可能になっているので、
そこの所を間違えるなよ。 >>355
先ず同一工房内で徐州の銅が枯渇して、
魏の領内の銅を使わざるを得ない状況で作られた鏡という事実がそこにある事を理解しなさい。 魏代にも漢式鏡が評判でどんどん造られていたんでしょ(柳田説) >>357
この方は脳が破壊されていることを自白しています。 >>360
>先ず同一工房内で徐州の銅が枯渇して、
>魏の領内の銅を使わざるを得ない状況で作られた鏡という事実がそこにある事を理解しなさい。
そんな事実があるって証拠は? こんだけ書いてあるのにどうして読まないの??
同じことを何度も書かせるなよ。
畿内説のアンポンタンがどう抗おうとも、
平原遺跡は卑弥呼の死亡時期に作られた墓で、
平原遺跡の方格規矩四神鏡は
魏の時代に同一工房内で、
徐州の銅が枯渇する中で、
魏の領内の銅を混ぜて作られた魏鏡という
考古学上の事実が、
今後覆ることは今後一切無いので、
ソレを踏まえた議論を我々はするしか無いのが
今後の邪馬台国論争になる。 >>358
纒向が邪馬台国大和説をかなり補強したのは事実としか言いようがない なぜ書いてあることを読まないのか??
まあ、畿内説はキチンと議論する気がないという判断になります。 >>368
邪馬台国や投馬国を九州に設定することは不可能 平原遺跡って捏造じゃん
土壙墓の存在を無視してるし
最近になって新たに造った墓でしょ? >>365
>かいてあるだろ読めよ。
どこになんと? >>366
>鉛同位体比の分析の結果だ。
誰がどんな分析をして
どこに発表したの? >>366
>鉛同位体比の分析の結果だ。
誰がどんな分析をして
どこに発表したの? 先ず方格規矩四神鏡の青龍三年鏡が出土した事で、
方格規矩四神鏡に魏鏡がある事は確定している。
もちろん、中国でも魏の時代の遺跡から方格規矩四神鏡は多数出土している。
したがって、従来の方格規矩四神鏡→漢鏡5期とオートマティックに時代を決定した過去の議論は不可能になっているのだ。
方格規矩四神鏡に魏鏡がある事を前提に日本の方格規矩四神鏡を見直した結果、
平原遺跡の方格規矩四神鏡がソレである事が確定した。
銅鏡の時代編年として先ず平原遺跡の方格規矩四神鏡が魏鏡であると。
ソレを前提にして次の議論がある。 >>369
と、無理にでも言わなきゃ終わってしまうからな。 その気持ちは理解できる。 @阿波 >>370
>なぜ書いてあることを読まないのか??
どこになんと書いてあるの? >>376
残念ながら魏鏡でない
平原の銅鏡は漢鏡である >>366
>方格規矩四神鏡に魏鏡がある事を前提に日本の方格規矩四神鏡を見直した結果、
>平原遺跡の方格規矩四神鏡がソレである事が確定した。
誰がどんな理由で、どうやって確定したの? 平原遺跡の出土の数多くの銅鏡を分析した結果、
先ずこれらが同一工房内で作られた銅鏡である事が明らかになっている事だ、
その次に鉛同位体比を分析した結果、
徐州の銅に魏の領内の銅を混ぜられて作られた銅鏡がある事が判明した。
もちろん、その中に方格規矩四神鏡があり、
時代編年としてソレが魏鏡であるから、
魏鏡である方格規矩四神鏡が、
同一工房内において、
徐州の銅が枯渇して
魏の領内の銅を混ぜられて作られる状況が発生した
ということが明らかになったのである。
従って、魏の時代に徐州が魏の領土なる反論は全く意味を為さないのであって、
我々は、
魏の時代に作られた方格規矩四神鏡が、
同一工房内において、徐州の銅が枯渇して、
魏の領内の銅が混ぜられて作られる状況が発生したのだなと
飲み込むしか無い状況が今だ。 >>382
>徐州の銅が枯渇して
>魏の領内の銅を混ぜられて作られる状況が発生した
>ということが明らかになったのである。
誰が明らかにしたの?
どこに?
どうやって? .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
. >>383
馬渕氏が鉛同位体比の分析によって明らかにした。 突如現れる集落は妻木晩田遺跡もそのタイプだな
様々な地域の竪穴式住居の集落跡
各地から集められた兵たちが役目を終え定住したんじゃないか
纏向遺跡も同じようになるところだが巨大スラム化手前で、ヤマト政権がうまく処理したようだ
崇神天皇の業績は偉大 論理的に反論できなくなって「どこに?」「だれが?」などと小学生並みの反問で必死に逃げる奴輩がいるな。
時間稼ぎをしながら鮫レベルの脳味噌でトンデモ反論を捻くり出そうとでもいうのか。
実に見苦しい。 明治天皇が詠まれたヤマトタケルの歌
日本武尊
まつろはぬ熊襲たけるのたけきをもうち平げしいさを雄々しも
熊襲タケルを打ち取り、イサオが熊襲の頭になったのだろう
播磨風土記によれば、神々は神功皇后に新羅を討てとしか神託していない
熊襲の頭になったイサオを酔わせて殺し熊襲を討ったのは誰か?
壱岐国ふどきいつぶんにはイサが鰐に追われていた話がある
竹内宿禰と日向牛諸井、九州東岸の円墳の勢力がイサオを討ったのか?
奈良時代に書かれた肥前国ふどきには肥前の海に棲む鰐の話がある >>371
良いこと言うね その通り! 投馬国は多摩!! 縄文時代から貝の道で沖縄と交易していたのは誰か?
イルカやクジラなど海の哺乳類の漁をしていたのは誰か? 畿内が倭国だった証拠は無い。
つまり畿内が邪馬台国だった証拠も無い そもそも機内に邪馬台国って誰がいい出したの
根拠は?
って話になる。 行程問題は解決してしまったし
九州に遺跡無いから… >>350
君以外の人には見えてるから大丈夫
馬鹿には見えないんだよw >>387
>馬渕氏が鉛同位体比の分析によって明らかにした。
論文名は? 太平御覧「魏志倭人伝」
◆又東南至奴国百里、置官曰先馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸
◆又東行百里至不彌国、戸千余、置官曰多模、副曰卑奴母離
◆又南水行二十曰至於投馬国、戸五万、置官曰彌彌、副曰彌彌那利
◆又南水行十日、陸行一月至耶馬臺国、戸七万、女王之所都、其置官曰伊支馬、次曰彌馬叔、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、其属小国有二十一、皆統之
◆女王之南又有狗奴国、男子為王 其官曰拘右智卑狗者 不属女王也
・文頭に「又」があるため放射読み出来ない
・投馬国が於投馬(イォドゥマ)国と表記(イヅモと読める)
・狗奴国の官名が拘右智卑狗と表記(菊池彦と読めない) 其餘 旁國遠絶 不可得詳。
次有斯馬(志摩)國 次有已百支(伊吹)國 次有伊邪(伊賀・伊勢)國、
次有都支(土岐)國、次有彌奴(美濃)國、次有好古都國、次有不呼國、
次有姐奴(信濃)國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼(甲斐)國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、
次有躬臣(高志・越)國、次有巴利國、次有支惟國、次有鳥奴(魚沼)國、次有奴(伊那)國、
此女王境界所盡 狗奴国系の地名がある場所
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村。現在は静岡市駿河区の一部。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名(くのう)。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名(くのう)。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名(くの)。 地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。
『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。
また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。 >>406
昔の中国人の地理感が間違ってたって動かぬ証拠じゃん
情報を客観視できない九州説痛々しい 九州説とは
邪馬台国を山門にコジツケ(甲類・乙類無視)
於投馬国を都萬・妻にコジツケ
官命の彌彌を地名にコジツケ
狗奴国をクマにコジツケ
拘右智卑狗を菊池にコジツケ
「遠くて詳細が分からない21ヵ国」が、すぐ近くになるためガン無視 >>407
合成した朝鮮人が間違っただけの地図を、当時の世界観と言い張るアホの畿内説。 漢鏡4、5の平原を那珂八幡と同じ年代に持ってくることは不可能 鏡や古墳でしか語れる物がないトンデモども。 @阿波 阿波は日本の歴史の中で一度も中心になった事のない可哀想な子 松木武彦が楯築墓を150年頃とし、被葬者を帥升としているのは意外だ
この場合、平原をそれ以前に置いているのか? >>391
>論理的に反論できなくなって「どこに?」「だれが?」などと小学生並みの反問で必死に逃げる奴輩がいるな。
>時間稼ぎをしながら鮫レベルの脳味噌でトンデモ反論を捻くり出そうとでもいうのか。
>実に見苦しい。
情報源の信憑性を問うのは常識だし、論理的反論なんだが
それに答えずに「トンデモ反論」とか罵って誤魔化すのは異常
ソースを隠匿していては結論は信憑性なし
「なぜ隠すのか?」と言う問いに誤魔化しでしか答えないと
世間のひとは「また九州説のニセ情報かよ、詐欺師かよ」としか
思わないよ >>413
つまり、「阿波」の水銀朱をたっぷり使った楯築墳丘墓(双方中円墳)の被葬者「帥升」は倭人(阿波勢力)ってことか? @阿波 ヤマトの「ト」の甲類・乙類に拘る人間がいるが、これはナンセンスだ
そもそも卑弥呼の時代の倭人の言語にそのような区別があったかどうかも不明であるが、仮にあったとしても、これが邪馬台国の元の言葉(例えば大和か山門か)を決める根拠にはならない
あくまでもそれは倭人の言語における発音の話であって、中国人がそれを聞き分け、かつ漢字で的確に書き分けることが出来たとは考えにくいからだ
例えば現代日本で使われる「カレーライス」という英語由来の外来語
ここで使われる「レ」と「ラ」は英語のRとは違いLと同じだ、だからカレーライスの元の英単語の「レ」と「ラ」の綴りはLのはずだ!という主張は間違いだ
日本語にはRの発音がないのだから、上記のロジックはそもそも成り立たないのだ
甲類・乙類の区別のない中国人が日本人の発音を聞いて当て字で書き留めたものから日本語の正確な発音が復元出来るという前提が間違っている
別の例で言えば、サンスクリット語のクマラジーヴァという中国で仏教を広めた人物を中国語で鳩摩羅什と書く
これは中国人が外国語の発音を漢字に当て嵌めたものだが、予備知識のない状態でこの「什」の文字から元の「ジーヴァ」を復元するのは困難だ
仮に日本人が甲類と乙類を使い分けていたとしても、当て字の中国語から元の正確な発音を復元できると思うのはナンセンスということだ 直ぐに規制する奴おるだろ
堂々と闘えな。
無駄だよ。九州には朝鮮の痕跡しか無い。 「夜麻登(やまと)は国のまほろば~」とあるように、万葉仮名における当て字は夜麻登とも表記され、
『古事記』における「ヤマトトトヒモモソヒメ」の漢字表記も、この夜麻登の方である。
一方、『日本書紀』では倭の一字でヤマトと読ませている。
この他、『古事記』では、山跡とも表記される。『日本書紀』では、野麻登、椰麼等、夜麻苔などとも表記され、
『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。 @阿波 弥生時代の三種の神器(剣、鏡、勾玉)
が同じ墓からセットで出土した遺跡
年代順 遺跡名 所在地
1. 吉武高木 福岡市西区・・・弥生初期
2. 三雲井原 福岡県糸島市
3. 須玖岡本 福岡県春日市
4. 原ノ辻 長崎県壱岐市
5. 七ケ瀬 佐賀市大和町・・・弥生末期
6. 平原 福岡県糸島市・・・弥生末期 5ちゃんのいい加減な邪馬台国論争を読むよりも YouTubeの邪馬台国
関連の動画を見た方が正しい判断が出来る >>408
九州説
弥生時代の絹は福岡、佐賀、長崎からしか出ていない。
邪馬台国は九州にあったのでは?
Q:なぜ絹が出土すると邪馬台国になるの?
A:魏志倭人伝に邪馬台国は養蚕して絹を紡いでるとあるから。
畿内説
纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。
邪馬台国は畿内にあったのでは?
Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?
A:・・・・ >>408
畿内説でいうところの
伊勢湾を渡ったところにある(纏向主要勢力の)狗奴国の
河内彦ってなんなんだ?
こういうのをまさにこじつけという 纒向遺跡からゴキブリの羽の化石が出た
邪馬台国に違いない!
これが畿内説 >>425
卑弥呼の時代の絹って、どこから出てるの?
九州じゃないよね? >>428
吉野ヶ里の日吉神社下から発見された甕棺墓から絹を纏った巫女の遺骨と漢鏡、ゴボウラ貝の腕輪が出てるよ >>429
平安時代のだろ
他にも器か何か出てたぞ ある時はコンタミ扱いの鎧
ある時はコンタミ扱いしない絹玉袋
ダブルスタンダードの畿内説。 >>428
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 今日も朝から快晴だったから福岡市南区から西区の吉武高木遺跡まで
サイクリングをしてきた。吉武高木遺跡は弥生初頭の遺跡で三種の神器
が出土した、広大な遺跡で犬の散歩をさせている人が多かった 邪馬台国が奈良にあったとすれば魏使は九州北部を歩き回らずに
そのまま船に乗って大阪まで行く >>434
「阿波」からまだ絹が出ていないが、
「糸玉」 徳島市南蔵本遺跡 令和4年 7月5日(火) 徳島新聞朝刊
「弥生時代の遺跡から初出土」
徳島市の県立中央病院ER棟の建設に伴って行われた南蔵本遺跡の調査では、
全国5例目となる弥生時代前期の畑が発見され、注目を集めた。
その畑の下層からは弥生時代初頭(約2600年前)の生活の跡も確認された。
人工的な穴から「糸玉」という珍しい遺物が見つかった。
弥生時代の遺跡から出土したのは初めてだ。
縄文時代の遺跡を見ると、北海道から関西までのエリアで十数例出土している。
糸玉は、麻の茎から採った繊維をより合わせ、水銀朱を混ぜた漆をかけて糸を作り、
30本ほど束ねて結んでいる。小さな毛糸玉のような形だ。
また、人々の墓も見つかった。
石棺墓はひときわ目を引く。
楕円形の穴(長さ2.2m、幅1.4m)を掘り、4辺に結晶片岩を立てて棺にしている。
長い側面は、結晶片岩を3枚使っている。
墓の中に副葬品はないが、被葬者の頭胸部に水銀朱を振りかけた痕跡があった。
石棺や水銀朱の使用は、弥生時代に朝鮮半島から北部九州に伝わった葬法で、
驚いたことに縄文土器の突帯文土器が石材の隙間を補うため置かれていた。
時代の流れは、歴史年表のように線を真っすぐには引けない。
伝統的文化と新興的な文化は交じり合いながら新しい生活スタイルを生み出す。
今回、縄文時代から弥生時代へ、時代が移りゆく姿を明らかにできた。
(県埋葬文化財センター主任研究員 西本和哉) @阿波 帯方郡使の目的地が大和なら上陸地は浪速や丹後のはずで、その途中は補給地程度でしかないはず
然るに魏志倭人伝には浪速や丹後も含めて本州の地名はどこにもなく、北部九州の地名しかない
卑弥呼が大和にいたなら卑弥呼宛の物を検める場所も浪速や丹後でなければ変だ
魏志倭人伝を読む限り、卑弥呼が大和にいたなどという前提自体が違和感しかない >>434
「阿波」からまだ絹が出ていないが、
糸を紡ぐために使う土製・石製紡錘車
「加茂宮ノ前遺跡」「庄・蔵本遺跡」「南庄遺跡」「土井遺跡(東みよし町)」 @阿波 奈良には>>430のような卑弥呼の先輩が居た形跡が無い >>440
しかし、>>430のような卑弥呼の先輩は、吉野ケ里遺跡の水銀朱や蛇紋岩製鋳型により、
倭人(阿波勢力)であることが分かる。 @阿波 >>433
>ある時はコンタミ扱いの鎧
>ある時はコンタミ扱いしない絹玉袋
>ダブルスタンダードの畿内説。
布留1の鎧
布留0の絹玉袋
気が狂ってる九州説。 >>433
>ある時はコンタミ扱いの鎧
>ある時はコンタミ扱いしない絹玉袋
>ダブルスタンダードの畿内説。
布留1の鎧
布留0の絹玉袋
気が狂ってる九州説。 >>436
>邪馬台国が奈良にあったとすれば魏使は九州北部を歩き回らずに
>そのまま船に乗って大阪まで行く
魏使が九州北部を歩き回ったとか倭人伝に書いてない >>438
(於)投馬国(出雲)から水行十日で丹後半島上陸、陸行一月で大和でドンピシャやんけ 帯方郡使が本州に行ったとは魏志倭人伝には一言も書いてない
本州の地名も一つも出て来ない
魏志倭人伝に限らず漢書地理志然り、後漢書東夷伝然りだ
この時代の中国側が指す「倭」「倭国」に本州が含まれていたとする根拠は実は何もない >>436
郡吏は伊都国に滞在する場所があるって書いてあるだろ
それに邪馬台国時代は関門海峡は陸続きで、瀬戸内海は危険で開通してない >>446
女王国の統治下だが、遠くて詳細が分からない国々
次有斯馬(志摩)國 次有已百支(伊吹)國 次有伊邪(伊賀・伊勢)國、
次有都支(土岐)國、次有彌奴(美濃)國、次有好古都國、次有不呼國、
次有姐奴(信濃)國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼(甲斐)國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、
次有躬臣(高志・越)國、次有巴利國、次有支惟國、次有鳥奴(魚沼)國、次有奴(伊那)國 狗奴国系の地名がある場所
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村。現在は静岡市駿河区の一部。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名(くのう)。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名(くのう)。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名(くの)。 九州には邪馬台、於投馬、狗奴に当てはまる国名など無い >>440
しかし、>>430のような卑弥呼の先輩は、吉野ケ里遺跡の水銀朱や蛇紋岩製鋳型により、
倭人(阿波勢力)であることが分かる。 @阿波 大和に行くのに九州をほっつき回る
女王国本体は超広域圏でしか紹介せず、女王国から一大率で支配される九州は郡レベルで詳細に紹介される
魏使は変わり者だったんだな >>435
細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈、銅鏡(多鈕細文鏡)、勾玉、管玉
だから三種でもないし日本神話の神器でもない >>453
筑前で入国管理するのはその後の時代もずっと同じ >>450
於投馬は上古音ではアドマだな
中古音で発音するのはNG .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
. >>448
其の南に有り、狗奴国、不属女王。
男王で名は卑弥弓呼
女王諸国とは不仲で後に戦況は悪化する。
文が繋がるか?
其の、は何を指す。
日本列島が二つ必要かと? >>448
その「遠くてわからない」は具体的にどこから遠くてわからないのか、が問題
邪馬台国や伊都国から遠くてわからないと解釈する人間がいるが、それは考えにくいだろう
傍国は倭人側から出てきた国名であろうし、おそらく女王を共立した国々で邪馬台国や伊都国は付き合いがあるはずだからだ
遠くて詳らかでないのは、倭人から国名情報しか出てきてないからそれ以上の詳細は(洛陽の自分から見て)遠くてわからないという陳寿視点だろう
洛陽にいる私(陳寿)から見て遠くてわからんというだけの話なので、傍国21国が邪馬台国や伊都国の近隣にあっても問題なかろう >>424
それはある
あいつらは再生数の事もあるし分かり易く説明はしているしわからん事はわからんと言う
ただ迎合しすぎてる面はある >>459
つまりなんとかして小っちゃい倭国にしたい >>454
でも、「阿波」の専売特許品だから、それでよい。 @阿波 つまり畿内説は誇大妄想を歴史と呼ぶ韓国式霊感商法詐欺ですよと >>463
>つまりなんとかして小っちゃい倭国にしたい
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭国は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度だろう。 @阿波 >>460
其の南は、此れ境界尽きる所の南?
あ、南は東をどうするか?
で、此れは、何を指すのか?
奴国だと伊那?
普通、九州で伊都の南東百里
で、九州北部だけど?
文法的には
其の南(東)には邪馬台国が有る。
倭人伝は、敵対する狗奴国が
存在可能な文章になるか? >>437
興味深い記事では有るが、最後の「埋葬文化財センター」はひどい間違いですなぁ。
原文から間違ってるんだと思うけど、こういう残念なミスが記事の信憑性を損なうので注意されたい。
正しくは「徳島県埋蔵文化財センター」のTypeミスであろう。 >>459
九州説は奴国(福岡市)と狗奴国(熊本県菊池市以南)の間に、
投馬国と邪馬台国と
「遠くて戸数・距離がわららない国々」を狭い範囲に詰め込まないと成立しない
しかも「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、
それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」(魏志倭人伝)
というのもおかしい
九州説では北の国々を回って南下して邪馬台国に入ったはずで
あたかも、「北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが」と北には入っていない口ぶり
「それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」
これも、九州説ではさらに北の朝鮮半島から来たはずなのに
「辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」などとという >>463
どうしたいという意図はない
ただ、魏志倭人伝には北部九州のことしか書いていないので当時の倭国は北部九州にあったとしか考えにくい >>437
>麻の茎から採った繊維をより合わせ、水銀朱を混ぜた漆をかけて糸を作り
硬い、ゴワゴワした感じがするけど何に使ったんでしょうね? >>472
北部九州は、当時使われていた魏里(435m)ではなく
倭人伝と韓出伝だけは、短理(72m)が使われているという
短理説を使わないと成立しない 例えば中国から来た知人に新宿から渋谷までの山手線各駅周辺を案内したとしよう
新宿、代々木、原宿、渋谷は駅周辺を色々教えてその知人はメモを取った
彼が帰国して書いた旅行記にはその4駅の周辺のことはいろいろ書いてある
しかし彼は案内してもらっていない千駄ヶ谷や中目黒のことは地名だけ聞いてメモったものの、それ以上のことを聞かれても遠絶にして詳らかではないので説明できない訳だ
千駄ヶ谷は代々木や原宿から近いし、中目黒は恵比寿から近いにも関わらず、だ
私は傍国21国をこのようなイメージで捉えている >>476
屁理屈もいいところだ
それなら、「北は、その戸数や道里は・・・」と北に限定せず
日本の全てが俺にはわからないはずだろう >>476
対馬〜壱岐〜松浦〜伊都〜筑紫平野の奴国と案内されたが、長崎側、大分側の傍国21国は国名を聞いただけ >>477
邪馬台国より北はわかるがそれ以外はわからんと言ってるのだ
渋谷を邪馬台国とすれば、渋谷より北の新宿や代々木や原宿は行ったのでわかるが、それ以外の初台や千駄ヶ谷や表参道や代官山や中目黒は行ってないので詳細がわからんと言ってるのだ
難しい話でもあるまい 帯方郡から水行二十日で対馬→水行十日で出雲→陸行ひと月で伊勢遺跡 >>479
だから九州説なら北の国々を回って南下したはずなのに
どうしてわからないのか
それ以外はどうしてわかるのか
さらに「それ以外の「それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」
それ以外はわからんといっているが
九州説ではさらに北の朝鮮半島から来たはずなのに
「辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」などとという
どうして朝鮮半島が、わからない辺傍の国で遠く隔たっているのか?
そこから来たのに? >>479
>邪馬台国より北はわかるがそれ以外はわからんと言ってるのだ
違う。
女王国より北(共立した国々=邪馬台国のこと)はわかるがそれ以外はわからんと言ってるのだ。 @阿波 >>478
傍国21国は邪馬台国と狗奴国の間にあるんだけど
しかも「遠くて」詳細が分からないんだけど >>471
つまり、
女王国では遠絶する余傍国
東の倭種の国々の事は、
何も知らないと言っていた。
普通それを、倭王とは言わない。
倭に有った、一国の女王なのである。
大倭王の処都ヤマトはどこか?
で、邪馬台国論争が
倭人伝と無関係な方向にある。
次有り列記21国は女王所属国で
九州島の上、周旋可五千里
の範囲内に有る。
240年帯方郡から
金印を持って出発した魏船の
南至投馬国が半島南岸でなければ
倭人伝は、読めない。 >>483
>傍国21国は邪馬台国と狗奴国の間にあるんだけど
違う!
共立した国々=邪馬台国のことだ。 @阿波 >>484
>次有り列記21国は女王所属国で
と言うより、共立した国々=邪馬台国のことだ。 @阿波 いつの時代の国かもわからんし不可得詳だしどうでもいいじゃん 九州に2万戸5万戸7万戸の巨大都市があって、その南にそれに対抗する規模の狗奴国があって、その間に更に21ヵ国あるのが九州説 俺は斯馬國は対馬国で巳百支國が一支国だと思うな
いろんな時代の資料が入り混じってる 明日も晴れのようだから、南区大橋から出発して春日市→宇美八幡宮→
都府楼跡→南区をサイクリングしてこよう、古代史跡を
走り回る日帰りツアーだ、福岡空港も掘り返せばたくさんの出土物が
出るはずだが、実際片隅から出土してショボい遺跡がある ヤマトとは山門の事であり南北方向の山脈と東西方向の山脈が
交差した地域の風景が山が門を開いたように見える事から
名付けられた、具体的には福岡市西区の山門地区が最初のヤマトで
纏向付近も同じような地形をしているから倭国が大きな倭国に
なったので大倭→大和と変化した >>491
水門(港)は何処にでもある
山門も何処にでもあったはず 三種の神器とは剣、鏡、勾玉の事を指しこれ以外の副葬品があっても
この三種があれば上等だ、奈良からは三種の神器は出ずに大量の
桃の種が出土した、奈良のヒミコはこれを占いに使っていたらしいwww 福岡市西区にも山門地区ってあるんだな
地図で見ると伊都国と奴国の間みたいな場所
この地名がいつからあるか興味深い 何故福岡市西区の山門が最初のヤマトになるのか?
西区の山門から南にほんの2Kmほどの所にある吉武高木遺跡の
甕棺墓から最古の三種神器が出土している、詳しくはWikipediaで
吉武高木遺跡を検索すれば良い ヤマトもミナトも縄文時代からあるような古い言葉じゃないか?
もう山の入り口をヤマトとは言わないけど >>488
九州2万、中国5万、畿内7万となって
傍国が消滅するのが畿内説 奈良には大和と言う国名はあったが山門、山都、大和と言う
地名は無い。普通国名は地名が先にあったから国名として使うが
奈良の大和の地名は奈良には無いが佐賀にはある、吉野ケ里の
隣町で三種の神器の出土地だ、要するに佐賀にあった大和から
奈良に移住した住民が大和と言う国名を付けた >>493
「三種の神器」は、
律令国家として王統継承を合法化するための証として
「阿波」の特産品である「三種の神器」を飛鳥時代に創設制定したものである。 @阿波 律令国家の王統継承の証として「三種の神器」を創設制定したのは、天武・持統辺りだろう。 @阿波 >>498
中国に五万戸に相当する集落の痕跡は無い 間違い探し
喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜臺喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜喜 >>502
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う 伊勢神宮も、8世紀奈良遷都後に倭国(阿波)から遷宮された。 @阿波 「天照坐皇大御神」
天照が「阿波」からいらっしゃった皇大御神を祀る内宮。 @阿波 神武伝説は天武天皇の自叙伝(フィクション)なんだよな >>498
其餘 旁國遠絶 不可得詳。
次有斯馬(志摩)國 次有已百支(伊吹)國 次有伊邪(伊賀)國、
次有都支(土岐)國、次有彌奴(美濃)國、次有好古都國、次有不呼國、
次有姐奴(信濃)國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼(甲斐)國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、
次有躬臣(高志・越)國、次有巴利國、次有支惟國、次有鳥奴(魚沼)國、次有奴(伊那)國、
此女王境界所盡 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>498
>九州2万、中国5万、畿内7万となって
>傍国が消滅するのが畿内説
そうやってニセのキナイセツを創作しないと反論ができない惨めな九州説 >>472
小っちゃな隷属国伊都国までは女王を共立していない国
里数の合計萬二千餘里で至る奴国(2万戸)、不弥国(千戸)が北部九州の女王国
投馬国(5万戸)、邪馬台国(7万戸)と旁国21ヶ国(およそ2万戸)が本州の女王国 ところが五万戸の国も七万戸の国もありはしないのだった ここの一人一説雑多九州小説は、
小っちゃな倭国、朝敵暴れ川洪水地帯邪馬台国説なので
畿内と密接な九州最大の都市博多を中心とした福岡平野を奴国に比定することはできない
そうなると糸島も伊都国に比定することはできないので
唐津から佐賀平野に向かうルートのコマヒトだけの小っちゃな倭国を領域としなければならない 2万戸、5万戸、7万戸、いずれも数えていない。
サイコロを転がして決めた可能性がある。 5万戸は半島の倭人、7万戸は列島の倭人
伊都国、奴国、不弥国は何処の地域を指してるかわからん >>520
>5万戸は半島の倭人、
半島にそんな倭人いません
考古学的に明らか >>525
どの位居たかはわからんがとにかくそれが倭人だと中国人は認識していた 博多には韓人が住んでいたけどて博多は韓国じゃない
釜山や咸安には和人が住んでたけど倭国じゃない
倭人の国は半島にはありません 後漢書韓伝にも倭と接すると書いてあるけど
魏志同様東南大海の中とも書いてるしこれらは矛盾する
入れ墨や鉄とか詳しく書いてるし半島に倭人が居たんだろうと俺は思うけど >>529
まぁ、鉄器王国「阿波」の倭人(阿波勢力)だがな。 @阿波 >>530
俺はある程度数えてるんじゃないかと思ってる
中国人がじゃなく倭人がだけど
集落単位なら人口は把握してるでしょう ちなみに中国は魏400万人・呉230万人・蜀94万人 漢学仏教以前の倭精神を理想とするアホ国学から生まれたのが捏造の九州説だからな。
漢化によって日本文化が形成されたことを知らず、放棄した黥面文身こそが純粋な倭の文化だと気づいてないw 狗邪韓国は、方可四千里の韓を七千餘里で到るので広域の地域
後に伽耶諸国と呼ばれる地域
倭国ではない >>529
伊勢遺跡説は、日本列島7万戸で
朝鮮半島に投馬国5万戸+三韓で約20万戸
日本の3倍近い人口だという主張 >>537訂正
朝鮮半島の南側の現韓国の面積に投馬国5万戸+三韓で約20万戸 勉強→テンプレを読み返す→勉強→テンプレを読み返す→勉強
を続けてテンプレを読み返すと本当に見事としかいいようがない。
いわゆる、畿内自生説系であることは「明白」であるが、本当によくできているテンプレだ。 >>537
まあ俺なんだけど中国人がどう認識してたかはっきりしないのよ
半島南端の狭い地域にも思えるけどよくわからん テンプレの全てに同意するものではないが、我々素人畿内説でも勉強できるように、テンプレにそって九州説その他を撃破してみたいと思います >>541
>テンプレにそって九州説その他を撃破してみたいと思います
まず、「阿波」からやってくれ。 @阿波 日本から半島に渡った人たちとは思ってないよ
逆に中国から半島に流れ込んでた倭人 >>544
どうぞじゃないだろ? お前が撃破するんだろうがよ。 @阿波 >>545
阿波説は学者に存在しないので何かを言ってくれなければ困ります >>546
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内に、ヤマト王権など興る訳がない! @阿波 >>20に五斗長垣内と舟木遺跡を入れない理由は何ですか?
それとも次のスレッドからは入りますか? 「碌な」とかいう曖昧かつ恣意的な基準では建設的な議論は無理です。 >>539
あほちゃうか
ヤラセかいな
ワハハ
阿保らしくて誰も読まなくなったテンプレの呼び込みかWww >>549
>>>20が完全な反論になってる
全くなっていない。 そこは、畿内ではない! 畿内説を返上せよ。 @阿波 >>552
纏向以前は何処になるんだって話しになるんでしょ?
伊勢遺跡だよ >>551俺とトナカイ意外は確かに読んでないだろう >>555
読んだ。 纏向遺跡に「鍛冶炉遺構」はない!
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内に、ヤマト王権など興る訳がない! @阿波 >>528
>でもまあ狗邪韓国は倭国だからね仕方ないね
狗邪韓国は韓国
常識 >>558
私見を振りまわされてもなあー
奥山がマスでもかいとけばよい >>555
読んだ。 纏向遺跡に「鍛冶炉遺構」はない!
碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内に、ヤマト王権など興る訳がない! @阿波 古今東西、海や大河のほとりに一大文明が興り、王権が樹立する。
海の恵みを一切得られない山奥の寒村奈良湿地に、ヤマト王権など興る訳がない! @阿波 >>558
伊勢遺跡の時代は基本方形周溝墓だから
それと豊かさで言えば青銅器だと思うがな
伊勢遺跡は各地から物が集まる場所だと思ってる >>541
>テンプレにそって九州説その他を撃破してみたいと思います
はや、撃沈か? わははははは @阿波 >>566
撃沈したと思ってるのは阿波さんだけです >>567
だって、>>561-562を撃破できないからなぁww 撃破できずに、撃沈されたのでは? わははははは @阿波 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww 阿波を選んだのが間違いだった
テンプレ通りに書き込むわ 近畿説ってファンタジーでしょ
記紀の真実性がほとんど否定された現代となっては皇国史観の残滓でしか無いよね >>576
遺跡が頼り
三内丸山遺跡に誰が住んでたかなんてわからんけど
どういう暮らしをしてたかはわかる マジでテンプレを一度10時間くらいかけて読めよお前ら 令和書籍の教科書には卑弥呼はどのように記されているのだろうか? >>576
天皇が中国の手下だったわけがないという皇国史観から生まれたのが九州説で皇国史観の脱却から生まれたのが畿内説なんだが? >>576
津田左右吉を援用したりするから右とか左とかじゃなく、ただの関西ローカリズムなんだよな 歴史史観における右翼左翼の区分けは相対的なものである故に時代によって評価はかわる
津田は当時は左派であったろうが現代人がみたら右派だろう
邪馬台国九州説も然りであり、現代ではこれがネトウヨのオモチャと化している
アイヌ否定論や任那日本府実在論や在日韓人へのヘイトを行う屑野郎がすがる歴史修正主義が邪馬台国九州説になっている >>584
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う
だからこれでいいだろ?
反論の余地も無い >>555
テンプレ21の以下の部分
「事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。」
無学な君は騙されてるんだろうが、ここには誤魔化しがある
これを読むと、纒向のある奈良盆地は(鉄が腐食しやすい)海成粘土層だと思うだろう?
しかし少し前に海だった大阪平野はたしかに海成粘土層だが、少し前に湖だった奈良盆地は(鉄が腐食しやすい訳ではない)淡水性粘土層なのだ
大和/奈良盆地/纒向に当て嵌まらず大阪など周辺地域に当て嵌まることについては、彼は「畿内」という言葉にすり替えてまるで大和/奈良盆地/纒向がそうであるかのような印象操作をするのだ
別の例で言えば、大和ではなく河内や播磨が各地に広めた庄内甕に関しても、奴は庄内甕受容地域を「畿内の支配下に入った」というような表現でまるで大和勢力が庄内甕を広げて各地を傘下に入れたような印象操作をする
実際は奈良盆地東南部は河内から庄内甕を受容した側であるにも関わらず、だ
こういうテンプレに散りばめられた誤魔化しに気付くには自分で論文や書籍を読むしかない 鉄工房がいくつもあるんだから鉄器はあったと思うよ
あったというか手に入れる事は出来た
ただ当時の技術力の鉄器がそれ程必要だったのかどうか? 鉄(鋼)と銅では武器としても農具としても機能が別次元。 >>591
鏃くらいしか作れないでしょ?
大型の鉄器は九州も完成品を輸入してるんだし >>587
>しかし少し前に海だった大阪平野はたしかに海成粘土層だが、少し前に湖だった奈良盆地は(鉄が腐食しやすい訳ではない)淡水性粘土層なのだ
奈良盆地の深層は大阪層なのでテンプレが正しい 箸墓が卑弥呼の墓であり纏向が卑弥呼の臺、道観。
これで間違いないのだよ終わった話。
吾輩は記紀は否定していない三韓の史書としてキチンと成立しているからな。
八角墳墓の聖地は慶州羅井
これも覆せない、そう現在の天皇制(ウヨの皇室制とやら)でもそう表現されている(ここでは細かに説明しない)
無駄だよ。
因みに朝貢を認めないのは八紘一宇という理念からと考えるね。 邪馬台国が奈良にあるなら魏使は末盧国で下船せずに大阪まで船で行き
近畿の国を視察しながら奈良に行くはずだが、実際は北部九州の国々を
視察している邪馬台国からの帰途の途中に北部九州の国々を視察するなら
奈良説も在りうるが倭人伝を素直に読むと北部九州にあったと考えるのが
正解 邪馬台国国が九州内にあるなら、不弥国以降投馬国、さらに遠い邪馬台国は一体どこになるのか不明である。
九州説は論文を持ってきて欲しい。 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
答え出てるじゃん。伊都国の南に女王国だよ >>503
韓伝の五万戸は弁辰韓。
倭人伝の投馬国は、
国体の有る国家ではなく
単に240年の半島南岸の意味であって
246年の魏の韓王朝制圧戦で判明した
帯方郡以南の韓の実態ではなく
240年に半島を通過した
郡使の報告書の引用で
陳寿が補足した、
弁辰韓の戸数であって
東夷国概念の間違いである。 考古学的物的証拠を除き、
魏志倭人伝の道程だけを追ってみれば
畿内説は、距離、方角、道程、比定地、すべてが食い違うばかりで
ありえないことがわかる
そうすると消極法で九州説がいつまでも残り続ける
九州説だってかなり怪しいけれど >>598
九州陸行後の
南至水行20日に船は無い。
直列不可能な行程である。
帯方郡起点の朝鮮投馬国www
以外に倭人伝行程の解決は無い。
南は東の書き間違いって、
古典史書の版本見て言うか?
文章として確定的に九州なのに
何の目的で学問がミスリードしてる?
学問は政治ではなく
真実に向かうべきで
昭和の朝鮮忖度と記紀皇室忖度
つまり、学会の嘘の塗り重ね以外に
拘泥の意味が判らない。 魏志倭人伝通りに進むと太平洋に突撃するから、どう間違ってるかって話なんだが >>602
190年から247年の九州を紹介した
倭人伝が妄想なら
邪馬台国論争に意味はない。
つまり、妄想としての畿内説を
存続させる為だけの声闘。
文章読み違えるだけの反学問的行為の
なにが、古代史の謎だよ?
投馬国は240年に存在した
半島南岸の倭人地域である。 >>606
帯方郡の南、韓方可4000里
の50歩一里の尺度だと
洛陽~長安が、
周礼九服の5000里だが
その日本は、倭人伝の九州北部
周旋可5000里に合わせたのかな?
2300年前の周礼九服の図が
参照出来てる地図でも無さそうだが。 >>607
紀元前12000年には栫ノ原遺跡で丸木舟を大量生産していた縄文人が、
紀元前8000年までには進出しているからね。
もともと考古学的に縄文時代から進出していたことがわかってて、
最近の遺伝子考古学で裏付けが取れていってる。
支石墓なんて、日本側では弥生開始直前に現れて菜畑遺跡の頃には消えてるんだけど、
元々日本の弥生開始が前300年だったから、
前500年からの大量の朝鮮半島支石墓を意気揚々と世界遺産登録して、
朝鮮半島支石墓が先で、支石墓勢力が日本に稲作を教えてやったんだと
世界的に確定させたつもりでいた。
それが炭素年代測定で日本の稲作開始が前1000〜800年に大幅に繰り上がったものだから、
起源がどちらなのか完全にひっくり返ってしまい、
さらに浙南石棚墓の発見や、稲DNA解析にて日本主系統が朝鮮半島には存在しないことがわかったりで、
まあここも結論が出てしまった。
発狂した勢力が必死に立ててるのが、このスレや、
百済の南遷スレや、D1a2aは渡来系スレやら。
Y染色体ハプロスレでも狂った工作員が都合悪い科学データは全部間違いだと大暴れしてるし。 投馬国は朝鮮とか畿内は倭国じゃないとか小学生でも言わないぞ 九州だけどw
女王去る4000里に海があって
そこから、南東の船行一年=2400里に
小笠原があって、そこも倭。
会稽の東に倭があって
沿海州で東臨大海の日出る処にも
人が住んでて、多分倭人。
というのが、
当時の中国人の倭の概念。 末魯国から伊都国に行く時に南行との記載があり、以前問題視した事が
あったが、謎が解けた。伊都国に行くには糸島市の西側の海岸は岩の
絶壁だから南の山側を進むしか道が無い。松浦川の河口は広いので
南下して川幅の狭い上流で川を渡りそのまま山際を伊都国まで歩いた
と言う事だ >>614
倭人伝論争してる学者に
脳味噌はない。
まで、読んだ。 >>614
投馬国が半島南岸だということは
漢文が読めれば中学生でも判るが
日本の学者は、文盲なのか? >>620
そりゃ怒るだろ。
崇神天皇がいまのところ実在が確実視される最古の天皇ってことになってるのに、
纒向宮が記紀に無視された卑弥呼政権の首都だなんてことになったら、
ヤマト政権を完全否定してるのと同じ。 天皇家は朝鮮半島から来た騎馬民族だけどな
竹田もモロに朝鮮顔 邪馬台国の連合国家があった北部九州の三十余国が東征して
大和朝廷を樹立した訳だから邪馬台国と大和朝廷は親子の
関係、先祖は卑弥呼=比売大神=天照大神となる >>575
>阿波を選んだのが間違いだった
お前が相手にできるのは、トンデモの九州説だけだ。
「阿波」を見くびるから、こんな結果になる。 「阿波」を知れ! @阿波 テンプレを3回呼んでないのは畿内説でもダメだ
大体のことかテンプレに書いてある >>596.典型的な日本を理解していないウヨ。
知能指数が100に程遠い
読書はするのであろうが解釈に間違いが生じる
100以下の解釈というのが理解できていない種 >>630
>大体のことかテンプレに書いてある
大体のことがテンプレに書いてあるが、中身は恣意的決めつけしか無い。 @阿波 「天皇制」なる呼称は、天皇制否定、天皇制廃止、天皇制打倒、という風に、皇室に敵対する表現であることをご存知だろうか。あるいは、その事情を知らないばかりに、皇室を敬愛していながら、この呼称を何の気なしに使っておられる方が少なくないのではないか。
いうまでもなく、皇室は、制度でもなければ機構でもない。日本国民としては、伝統に則して「皇室」と呼ぶのが正しい。
「天皇制」という敵対語法を初めてつくったのは、ソ連共産党が指導する国際組織のコミンテルンである。それがわが国に持ち込まれたのは大正12年3月であった。開闢以来、「天皇制」などという不敬な呼び方は日本語になかったにもかかわらず、今日では新聞はおろか、国語辞典、百科事典においても、平気で使われている。 高島忠平の動画を真剣にみようと思ったが、何を言ってるのか不明
とりま、筑紫平野を掘れといってるだけのことは分かった >>1
崇神時代付近の纏向宮に卑弥呼が居たと主張する外国工作員 >>599
当時は西をキタと言っていたので畿内の女王国の西に伊都国があった >>593
鉄器の腐食に深層は関係ない
そんな地層に弥生時代の遺物はないからだ
奈良盆地の鉄器の腐食に関係する部分は淡水性粘土層だ
だから奈良盆地で鉄器が腐食しやすいという理屈は通らない
北部九州・吉備勢力に征服される前の奈良盆地は鉄が殆どない圧倒的地域だったというのが考古学的事実だ
30年前に主流だった古い畿内自生説信者信者は受け入れたくない不都合な真実だろうが >>632
「か」って何?
分裂工作したいのはわかるけど、
日本語もっと勉強して「から」ね
沖縄こそがD1a2a海人族の古くからの領地だぞ
縄文時代から丸木舟で闊歩していた 九州では鉄器で農耕の時代に奈良では石器で農耕。そりゃ滅ぼされるだろ 騎馬民族はO1b2だよ
大国主も藤原鎌足も馬に乗ってるだろ
D1a2は縄文古来の海人族 >>638
>稲作は九州から。それが答え
温暖を好む稲が九州からなど、有り得ない。
日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。
根拠:弥生時代前期「国内最古級の畝跡」「庄・蔵本遺跡」・「南蔵本遺跡」の灌漑稲作跡遺跡。
日本のイネは、日本固有種。
倭国(阿波)→菜畑→朝鮮南部だね。 朝鮮南部でハプロbが出てる筈。 @阿波 長江流域でアワとかヒエとか米が原産する環境があるなら、「阿波」でも原産する環境がある。
日本のアワとかヒエとか米は、「阿波」が原産地だと言って誰が否定できるというのか。
なぜなら「阿波」は、米の二期作が出来る所なのである。 @阿波 北部九州で鉄器が普及していた卑弥呼の時代(またはそのすぐ後の時代でも)、奈良ではまだ農具も土木具も木製だった
木製土木具で古墳を作り、レアな鉄器を権力の象徴として古墳に副葬していたのが3~4世紀の奈良だ >>647
そういやそういうことにするのがその情報の目的だったな>家康の家系図と同じ >>648
しかもそれまでの銅鐸&方形周溝墓が消えて、
銅鏡副葬&巨大前方後円墳に塗り替えられてる >>1
実在が確実と言われる崇神天皇は、
纒向宮を卑弥呼長期政権に譲って、どこにいらっしゃったのですか? >>651
>奈良の産業革命をもたらしたのは九州勢力
調子に乗るな! @阿波 >>650
そう
奈良盆地が外来勢力に征服されたのは考古学的に明らか
老人世代に近畿至上主義イデオロギーが残っている閉鎖的な考古学界ではまだ声高には主張しにくい事実だが、我々アマチュアは遠慮なく主張できる >>654
>奈良盆地が外来勢力に征服されたのは考古学的に明らか
征服なんかせんよ。 倭人(阿波勢力)が進出しただけ。
そもそも、征服しなければならない相手がいない。 相手にならない。 @阿波 >>1=奥山=キナイコシ
テンプレそんなに読んで欲しいのかいなWw
皆 支離滅裂で一度目を通したら、あきれて読みもしないよ
嘆くのはお前の頭 ワハハ これどう思う?
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。 >>662
多くの学者が無視してるやつですね
ある考古学者に聞いたら、「前漢の資料についてや今の錯誤が混在していて完全に無視している」という回答だったよ 阿波に聞きたいんだが、奥山さんとは橿考研の奥山さん? 末盧国(唐津市菜畑)から伊都国に行くには松浦川河口hの幅は470m
もあるから西岸を6km南下して川幅の狭いところから渡り七山村を通って
伊都国(糸島市曽根)に到達した まず結論を固定しておいてから
それに合うものは採用し、合わないものは無視又は間違いと決めつける
これは不味いよ流石に >>654
>奈良盆地が外来勢力に征服されたのは考古学的に明らか
そんなこと言ってる考古学者いませんけど >>667
寺澤は閉鎖的な考古学界に忖度して「征服ではなく外来勢力との話し合い」というようなよくわからない結論てはあるものの。在地弥生勢力とは断絶された突発的な纒向の出現という考古学的事実を実に詳細に実証的に提示した
寺澤が遠慮して言えなかった真の結論は紛れもなく「征服」だ >>660
君が適任だ
纏向で倭人伝記述に合致する遺物を列記してくれないかな?
三世紀に纏向に人は居たことは認めるよ。纏向に限らず全国に人は居たんだろうから。 以下、「纏向学研究第4号」に掲載された寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」の論文要旨より
畿内自生説的な論理を引き合いに出し、これを破綻していると断ずる
「本論の二つ目の主旨は、ヤマト王権成立前史としての大和弥生社会の政治的評価である。第Ⅵ様式までの集落と庄内式との間にはその出現と消長をめぐって大きな断絶があり、とくに拠点的母集落の解体は単線的内的発展の延長とは考え難く、外的なイベントの存在が想起される。その象徴こそが王権最初の都宮と目される纒向遺跡の突然の出現であるが、王権のシンボルたる前方後円墳の系譜が畿内・大和に辿れないこと、奈良盆地の「クニ」や「国」の形成メカニズムが政治権力による重層化になかったこと等々から、大和(畿内)弥生社会の政治的権力の結集がヤマト王権の誕生に直結したという論理は破綻すると考える。この点は、私の一連のヤマト王権成立史研究の前提的、基礎的研究の一つであり、主要主旨の多くは註に掲げた関連論文にあるので参照いただければ幸いである。」 寺澤薫は纒向遺跡の突然の出現とともに、それまでの拠点的母集落(いわばムラ)が悉く衰退し、そして新たな拠点的母集落が続々と現れるなど地域における不連続的な変化を詳細に説明した上で、突発的に出現する前方後円墳についてもそれまでの在地弥生文化との不連続性を以下のように説明する
なお、文中で「第一の道論」と書いているのは、いわゆる「畿内自生説」のことだ
(纏向学研究第4号の寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」より)
「前方後円墳は王権の主要勢力であった旧イト倭国勢力、吉備などの瀬戸内海沿岸勢力、イヅモなどの日本海沿岸勢力の前段階の王墓の祭祀的(本質的)、階級構造的、形態・技術的諸要素を基軸として、列島各地の祭祀の統合・融合によって設計され、計画的に築造されたものであって、それがわずか30年ほどの間に纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された。
にもかかわらず、奈良盆地はおろか畿内において前段階(第Ⅵ–2以前)に前方後円墳築造に直接繋がる要素はほとんどない。このことはヤマト王権の権力母体が大和(とりわけ「ヤマト国」)ないしは畿内から直接引き継がれたとする第一の道論にとっては決定的な弱点となる。
つまり、畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。首長層の権力の動向が如実に墓制に反映される社会であるからこそ、大和弥生社会と纒向遺跡の前方後円墳の出現にみる権力者(集団)の断絶と異質性は重要な意味を持つのである。」 >>664
橿考の奥山って知らんし、橿考自体あまり優秀な人いないよ。
関西の私学出身が多いんじゃねーの。偏差値50前後の大学出身者だろ。 シンプルに九州には邪馬台、於投馬、狗奴に対応する国名が無い シンプルに九州には邪馬台(大和)於投馬(出雲)狗奴(毛野)に対応する国名が無い つまり畿内説は根拠不明な作り話を積み上げ過ぎた九龍城ですよと 寺澤主張は極めて不合理としか思われない
集落の解体は自発的、内政的に起こったと見るべきである
高塚化は明確にオウ墓を守ったと見られ、単に威厳を示したとも見るべきでない。 >>664
ひげ面の奥山、そうなんだろう。 @阿波 >>676
寺澤の論文をちゃんと読め
君の知識と知能では反証不能だ >>676
>集落の解体は自発的、内政的に起こったと見るべきである
というより、異常な気候変動による放棄だ。 @阿波 >>678
自分じゃひとことも反論できないの?
なさけない九州説だねぇ >>680
私の持論は常日頃大量に書いているよ
考古学者云々を言い出したのは君だろう 畿内が倭国だった証拠が無い。
つまり畿内が邪馬台国だった証拠が無い >>664
富雄丸山古墳「蛇行剣」の調査してたな。 @阿波 邪馬台国九州説論者は新宗教つまり日本会議系統の者が多いと推測される
なぜならば彼らは縄文文明や神代文字などを主張しており、そこからアイヌ否定論やクルド人排斥運動や日本第一主義などのエスノセントリズムに肯定的で、更に許せないことに自民党のアベを神格化したりリベラル政治家を攻撃したり在日韓人にヘイトを向けているからである
ネトウヨは邪馬台国を九州という事にして天皇が中国の皇帝に臣下の礼をとった歴史を隠したいのである
北海道の擦文人を倭人でアイヌではないなど、当人も嘘と違うと分かっていてネットで風説を流している卑怯な態度がネトウヨの本性である
彼らが支持する九州説もアイヌ否定論と同じレベルの詭弁なのである >>684
>なぜならば彼らは縄文文明や神代文字などを主張しており
神代文字=阿波文字・忌部文字な。 @阿波 神代文字に色々な種類があるのは、古墳の墳形と同じで倭人(阿波勢力)に、いろんな一派があるから。 @阿波 九州には5万戸7万戸住める場所も無いし、水行一月陸行一月する場所も無い 二世期後期後半に畿内は外来勢力に征服されている
考古学会では戦乱の跡が見られないというが、これはイングランドのノルマンコンクエストと同じで、バイキングのような海賊的勢力が少数で征服に成功した事件だったからだろう
インカ帝国やアステカ帝国のような大帝国も少数の人間によって征服されている。
これは天然痘の流行と飢饉で両帝国とも国がボロボロになっていたため、船に乗ってやってきたスペイン人はたった数百人でこれを制圧できたのである。
恐らくヤマト王権を建てた人たちは西暦180年頃に九州や吉備から飢饉や疫病で弱っていた畿内に船に乗ってやってきた。
彼らは畿内の原住民から見るとかなりの少数派だったろう
もしかしたらヤマト王権の先祖は移民のつもりで畿内にやってきたら現地人と戦争になって、遂にこれを征服してしまったという事なのかもしれない
オレは記紀にある神武東征とは銅鏡文化人による畿内征服劇が神話化したものと推測するのである 隋書には東西五月行南北三月行と書かれてるから
九州内で二ヶ月はあり得るのかもな 九州には邪馬台(大和)於投馬(出雲)狗奴(毛野)に対応する国名が無い 一方、旁国を取り込んで消滅させてしまった畿内七万戸説 「遠くて詳細が分からない国々」が投馬国より近くに来る九州説 「遠くて詳細が分からない国々」が実は七万戸の中にあった畿内説 畿内説はトンチンカンなので
纏向で仲良く古墳作ってた東海勢力を狗奴国にして河内彦がいたことにしました >>696
7万戸に入れて無いけど
其餘 旁國遠絶 不可得詳。
次有斯馬(志摩)國 次有已百支(伊吹)國 次有伊邪(伊賀・伊勢)國、
次有都支(土岐)國、次有彌奴(美濃)國、次有好古都國、次有不呼國、
次有姐奴(信濃)國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼(甲斐)國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、
次有躬臣(高志・越)國、次有巴利國、次有支惟國、次有鳥奴(魚沼)國、次有奴(伊那)國、
此女王境界所盡 >>617
そもそもなんで松浦に行く必要があるんだ? >>697
ちなみに俺は「河内彦」など一度も言ったこと無い
官名と地名は関係ない >>693
馬韓54国、弁辰韓24国、
邪馬台国21国の書式は
魏時に明らかになった東夷国の詳細
の説明に関する定形書式だ。
余傍国は女王国所属の21国以外の
東渡海の倭種などで
倭音名すら参問していない。
次有り列記21国は
女王国の詳細を参問して
漢字を当てて記録したもの。 そもそも九州説は邪馬台国も於投馬国も狗奴国も比定できてない そもそも戸数に拘ってるやつは短里があったと言ってるやつと同レベルの思考回路してるという致命的な問題がある 於投馬国は上古音ならアドマだね
これを中古音で発音させようとするのはなぜだろうか 「於投馬」の発音は魏晋代、次のようになる。
於投馬 ia du mæ イアドゥマ
これであれば、語頭に濁音が来ないので倭人語として成立する。だから発音から見ると「於投馬国」という表記が正しいことになる。 私の説は「南に水行」は博多湾側から御笠川→宝満川→筑後川のルートであり、邪馬台国=筑後山門、投馬国=筑後妻(上妻・下妻・三潴)だから投馬国は邪馬台国までの途上にある
また例えば、中国人が山手線に沿って新宿→代々木→原宿→渋谷と順番に現地の日本人から案内を受けた場合、そのルートから少し外れた代々木上原や表参道や代官山については(中国から見て)遠絶だし案内を受けていないので詳細はわからない
同じように傍国21国は伊都国や不弥国から邪馬台国までの南北のルートから東西に外れていたから、帯方郡使や陳寿には倭人から聞いた国名以外の詳細がわからなかったのだろう
当時のクニのサイズは500年後に出来た国郡里制の郡・里程度のサイズなので、30カ国ぐらいは北部九州に十分に収まる
200年ほど後の倭王武の上表文記載の国数(西国66カ国)とも矛盾しない数字だろう 投馬だと語頭に濁音が来るので、妻などにコジツケしてもアウトです >>701
99国か
渡平海北九十五国だしそんなもんだな >>713
仮に当て字の中国語に濁音があったとしても元の日本語に濁音があった証拠にはならない 意味不明すぎる
日本人が清音で発音してたのならなんで濁音で当て字したんだよ 比売大神を祀った神社は宇佐神宮、天照大神を祀った神社は伊勢神宮
奈良時代までは宇佐神宮>>伊勢神宮の関係だった、だから道鏡事件が
起きた時には和気清麻呂は伊勢神宮には行かずに宇佐神宮にお伺いに
行っている、お前らには何の事か分からんだろうな ヤマトの「ト」の甲類・乙類などに拘る人間がいるが、これはナンセンスだ
そもそも卑弥呼の時代の倭人の言語にそのような区別があったかどうかも不明であるが、仮にあったとしても、これが邪馬台国の元の言葉(例えば大和か山門か)を決める根拠にはならない
あくまでもそれは倭人の言語における発音の話であって、中国人がそれを聞き分け、かつ漢字で的確に書き分けることが出来たとは考えにくいからだ
例えば現代日本で使われる「カレーライス」という英語由来の外来語
ここで使われる「レ」と「ラ」は英語のRとは違いLと同じだ、だからカレーライスの元の英単語の「レ」と「ラ」の綴りはLのはずだ!という主張は間違いだ
日本語にはRの発音がないのだから、上記のロジックはそもそも成り立たないのだ
甲類・乙類の区別のない中国人が日本人の発音を聞いて当て字で書き留めたものから日本語の正確な発音が復元出来るという前提が間違っている
別の例で言えば、サンスクリット語のクマラジーヴァという中国で仏教を広めた人物を中国語で鳩摩羅什と書く
これは中国人が外国語の発音を漢字に当て嵌めたものだが、予備知識のない状態でこの「什」の文字から元の「ジーヴァ」を復元するのは困難だ
仮に日本人が甲類と乙類を使い分けていたとしても、当て字の中国語から元の正確な発音を復元できると思うのはナンセンスということだ 当て字の中国側の発音と元の外国語の発音が細かく一致している保証はまったくない
韃靼の「靼」が表す元の発音は「タール」だ
これくらいの違いは当たり前にあるのだ >>681
>私の持論は常日頃大量に書いているよ
でも、畿内説に反論できないでしょ?
なさけない九州説 >>681
>私の持論は常日頃大量に書いているよ
でも、畿内説に反論できないでしょ?
なさけない九州説 斯馬國=投馬國=対馬国でしょう
聞いた人に依って違うし時代も違う で、卑弥呼の邪馬台国が七万戸なら畿内ほぼ全域
じゃあ日本国=皇室はどこでなにしていたんですか? そんな古代中国人が確実に倭人発音を捉えて正確に文字に起こしたというなら
隋書に書かれたワミェツァイ国も認めてやれよ
奈良にあったのはヤマト国ではなくてヤマタイ国でした
ちなみに魏志にあるのはヤマダ国です >>721
しまくってるよ
そういう事実と違う言いがかりを受けるんならコテハンにしようかな >>718
>和気清麻呂は伊勢神宮には行かずに宇佐神宮にお伺いに行っている
大分なんぞに行く訳がない。
阿波國神山町宇狭に鎮座する「宇狭の宮」 @阿波 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>731
それ以前は今のところわからんな
以後は纏向に移転した >>720
いや、元の音が清音なのに当て字で濁音になった例を出せよ >>732
だから卑弥呼治世には伊勢遺跡なんてないんだから、
皇室はどこにいたんだよ? 当時は本当にダーマと言っていたかもしれんな
後世にタマに変わっただけかもしれんし 残ってる資料をかき集めて書いてるからいろんな時代の記録で
その時聞いた人が書いた国名で被ってる 当て字の発音の一致にこだわる人間は地頭が悪いというのが私の中の結論だが、典型的なその種の人間が現れた >>740
じゃあ卑弥呼は纏向にはいなかったのだな? ネトウヨは擦文人は和人と言い張る連中だからな
彼らは邪馬台国は九州だったと見せかける目的で、まともな自説を持たず一人で屁理屈を「何種類も並べて」沢山書き込みをしているだけ
あいつらはアイヌ民族否定論でも同じ工作をしている
Youtubeのネトウヨ歴史動画を見ると必ず邪馬台国九州説を主張しているし、アイヌ民族否定論や縄文文明論を語って反韓言動でヘイトを煽っている
邪馬台国九州説とは今やネトウヨの玩具のなってしまったのである 伊勢遺跡には王はいませんよ。
方形周溝墓のメッカであり、前方後円墳も関係ありません。 >>741
何言ってるのかわからん
卑弥呼と現皇族の血がつながってるかなんてわかるわけがない >>744
そちらのほうが意味わからん。
三国志に書かれているのは、一世紀から男王が支配している邪馬台国の、
女王卑弥呼。
記紀にそんな国は記載されていない。
記紀に書かれているのは、代々男王が支配している日本国の、
皇室男系天皇。
三国志にそんな国は記載されていない。
纒向に同時に同居はできないので、そのカラクリを説明してくれと言っている。 >>747
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う
めんどくせいなまったく まあ畿内説自体が妄想だから、つきつめていけば妄想にいきつく >>749
妄想じゃない
書いてる事が理解できないのか? 伊都の外港として那津を使用しない以上
一旦上陸させて五百里を歩かせる手間を手間と考えない以上
伊都に「到」着してなお本州を目指すにあたって
不弥国まで再び二百里歩かせることは不合理ではない
と一旦理解するほかないな
これを関門海峡の回避と思料しその航路は瀬戸内となる
大阪港から櫻井まで50km
徒歩で11時間33分 で、纒向に卑弥呼政権がいた間、
皇室=日本国はどこにいたのかね?
そちらの説明を読むと、
・伊勢遺跡に卑弥呼政権の元があった←後漢書と矛盾
・それが纏向に移動してきて卑弥呼政権
・卑弥呼政権と皇室の関係はわからん←皇室の説明放棄
ということらしいが。 >>751
で、纒向に卑弥呼政権がいた間、
皇室=日本国はどこにいたのかね?
そちらの説明を読むと、
・伊勢遺跡に卑弥呼政権の元があった←後漢書と矛盾
・それが纏向に移動してきて卑弥呼政権
・卑弥呼政権と皇室の関係はわからん←皇室の説明放棄
・皇室は7世紀に九州から東征してきた
と、いうことかね? >>753
皇室と書くからおかしいのよ
そんなもん居ないし居たのは大倭王 >>754
・皇室は7世紀に九州から東征してきた
神武は居ないと言ってるんだから記紀なんて出鱈目って事だよ 7世紀に東征はあたおか
崇神いないオジサンがこの程度とわ >>736
そんな遥か後年じゃなくて三国志の時代で頼む >>755
つまり畿内説では、
纒向にいた卑弥呼や大倭王は、
皇室ではない別系統の王権と広域政権であり、
記紀に記された神武〜崇神〜皇極天皇は存在しておらず、
天智天皇くらいから実在だろう、ということだね? >>759
卑弥呼と現皇族の血がつながってるかなんてわかるわけがない 南至於 でググるだけでこんな文が出てきたよ
东至于泰远,西至于邠国,南至于濮铅,
北至于祝栗,谓之四极,觚竹,北户,西王母,
日下,谓之四荒。九夷,八狄,七戎,六蛮,谓之四海
於は国名に入っていないことも考慮しないとな 記紀に記された神武~崇神~皇極天皇は存在しておらず、
天智天皇くらいから実在だろう、ということだね?
これはその通りだな
ただし遺跡がある以上何かが居た >>762
なんでそんな超重要事項をテンプレに書いてないの? >>763
俺は伊勢遺跡説だからスレ主とは関係ない >>765
そらそうだろ
スレ主に出ていけと言われたことがある テンプレだって別に畿内説の共通見解でもなんでもなく荒らしが大量にコピペ貼ってるだけだしな >>768
反論できないから中傷する九州説のいやらしさ 昔は斎王(卑弥呼)の方が権力が上、天皇の地位保証に三種の神器の権威が残っている。
最強の卑弥呼は仲哀天皇を神託で殺した神功皇后w 卑弥呼より前は男王の時代だけどね
石棒信仰の地域の石津神、天津神の三都のまぐわいは婚姻のことという大和国ふどきいつぶんの記述にいくんじゃないの
天津の女神も石津神がいないと輝くことはないと
マスラ神の子かどうかが大切だったんだろう
マスラオ >>762
畿内説における皇室=日本国の扱いは「何かがいた」
テンプレでも「無視」
そりゃ竹田先生も怒るでしょうて 天の安河、伊勢遺跡すなわち高天原の主宰者は大倭王だけど
その本拠地は奈良盆地だろうし
纒向以前も纒向以後も奈良盆地自体が基本的に
東国(尾張以東)指向で西(キタ)に興味を示してこなかったし
王者に厚葬をもって送る発想も無い
これが王者はいたのに王墓無しという他説の
攻撃材料になっている >>774
その人は考古学オンチではあるけど
荒らしまでするかな。コピペは多い人だが 卑弥呼以前の帥升や漢倭奴国王だって同じ王朝だと思ってるでしょ?
だったらそれは何処に居たんだ?
てか紀元前108年には倭王は居たんだよ 分からん。帥升は卑弥呼以前の男王朝の創始者にある
漢倭奴国王は明確に北部九州なのでな
いずれにしても卑弥呼が九州系女王なら
帥升とは系譜が切れている
崇神がその男系孫である可能性は残る 大倭王の歴史が書いてある後漢書は都合が悪いので偽書ということにします >>781
結局それな。
畿内説は皇室も中国史書も無視した妄想理論。 >>762
畿内説における皇室=日本国の扱いは「何かがいた」
テンプレでも「無視」
そりゃ竹田先生も怒るでしょうて 近畿に鉄工房が出来て関東に鉄器が出回るまで直ぐだから密接な交易があった
稲作もおそらくそんな感じなんでしょう
近畿が全国に向けて発信している >>782
何言ってんだ?
>>779は伊勢遺跡説の俺の書き込みだぞ 交易とか首長のネットワークとかぬるいんだよ
倭奴国王時点で西日本は倭王の配下にあったと見るべき
そうであればこそ倭王の本拠である九州は極南海と言えるのだし、その程度を治めてなくて魏より大きな漢から金印もらうかよ 多賀の地で伊弉諾伊奘冉をまつる
五斗長垣内の鍛治鉄(≠製錬)集団が近江や丹波に
移転してコレ(帥升)が纒向以前の奈良王権を担ったかもしれない
伊勢遺跡自体は日本海系であり、分かれていた
鍛治鉄集団がここで合流した可能性がある
近江にも多賀大社がある。やがてこれは
伊勢湾にも入っただろう
周りを銅鐸集団が取り囲んでいるから
強力な王権ではなく連合国家の体制をとった
あるいは帥升は銅鐸王であり
鍛治鉄集団が饒速日や神武に擬されるかもしれない
素戔嗚が伊弉諾伊奘冉の愛する子とまで呼ばれるから
鍛治鉄集団との関係を考慮したまで
これをもってやっと九州を越えたんだろう
九州がこの動きをどう把握していたかは知らん >>787
>あるいは帥升は銅鐸王であり
あのね、卑弥呼ってのは、師升とおんなじ倭国王なのよ。 >>788
王統①漢倭奴国王
王統②倭面土王帥升
卑弥呼はどちらなのかは判断できまてん
両王統を別とした上で、私見では①
では倭国の範囲つまり王統①と②はどこの王なのか
①は間違いなく北部九州
②は不明。しかし九州説が奴国王の裔と取るのは自由
私はそう思わないだけ 畿内の原住民の銅鐸祭祀は、九州や吉備からやってきた人たちの銅鏡祭祀に上書きされて消えた
この九州や吉備からやってきた征服者が邪馬台国=ヤマト王権を建て、彼らの銅鏡祭祀が今に続く神社神道として続くことになる
だから神社の祭壇には銅鏡が祀られている。銅鐸が置いてある神社は存在しない
ヤマトの王家すなわち天皇家の祭祀は銅鏡文化であり、卑弥呼もまた銅鏡祭祀文化だった
両者は同じ王家であり、邪馬台国はヤマト王権だったのである >>789
①倭国者古倭奴国也
②倭面土王帥升=ヤマト王帥升 >>790
邪馬台国の定義は人によって違うから、違う人が読めばデタラメでしかない 漢書の注釈(魏の如淳)
墨の如く委面(入墨した顔)して、帯方東南万里に在り
魏志東夷伝序文
長老説くに、異面の人有り、日の出ずる所に近し
後漢書
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀・・
安帝永初元年倭國王帥升・・
翰苑
倭面上国王帥升
通典・北宋版
倭面土国王帥升
倭面土国は倭奴国と委面=異面の合成語だね
ヤマト関係ない >>791
魏志では倭国の語は頻出せず
女王国を連呼するが、コレと対応するのか
卑弥呼が封じられたのは親魏倭王であって
親魏倭国王ではない
卑弥呼の血統はともかく、中華人にとり
倭国とはやはり九州がイメージされて
それが卑弥呼の称号にも反映されたのだろうか
倭国すなわちこれ九州(倭奴国)というのは
九州説を補強するし反してもいるといえる >>793
それが正しいのかもな
だったら倭面土は中国語だな >>794
倭国は倭人居住地全てだよ
その中の極南界にあるのが倭奴国 すまん。伊勢湾に言及したのは
三重の笛吹連(鍛治鉄の人らの一つ)が
多度大社(天目一神だが、これは野洲の三上山に
降臨した天御影神、天津彦根の顔の一つ)を
形成していることを述べたまで。
伊勢神宮がその先に存するのは確かだが時代が違い過ぎる 漢の時代は倭奴国王で卑弥呼は倭王だから格上げされたか半島権益を失った >>786
仰る通り
首長のネットワークなるものではなく、単に上下関係が発生していたと見るべきであろう >>803
俺は本気でやれば地方豪族の方が軍隊を持ってて強いと思うけどな >>804
どれだけメシを食わせられるかの問題
纒向王権は畑は外注であるから、相当の余力があったと見るべきでしょう >>640
奈良盆地には中部礫層とも呼ばれる陸成の砂礫層からなる最下部層、
海成粘土層(Ma0〜Ma2)を挟む下部層が見られ、
上部層は欠如している。
最下部層と下部層は交野ー宇治を結んだ線より以南に分布している。
(奈良盆地の地形学的研究) >>805
豊かではあると思うけど地方を従わせる程の財力があったかどうか?
ピラミッド型の市が開かれてたと俺は思ってる
全国規模の頂点にあるのが纏向でその他地方ごとに市があった
関東地区中部地区北陸地区山陰地区といった具合でこれを仕切ってたのが一大率 古墳作りの労働力が徴兵力だと思うが
豪族を従える大王には、
普請という形も有る。
ただし、日本では戦国時代でも
軍事統一は信長まで無いけどネ? 大量の奴隷を連れた豪族が居た痕跡は北陸から東海にかけて確認されているが、畿内は何も無い だから一大率は中央からの派遣じゃなくそれぞれ豪族の王だ 市を取りまとめたのは大倭であって
一大卒は伊都に駐して西(キタ)の国々を検察していた
人か機関の名だよ つまり卑弥呼の時代は旧来の大倭(王)は
磯城の地(大市)で市の管理者としてコキ使われていた >>811
大倭を偉い倭人と解釈すれば一大率でおかしくない
てかもっと小規模の市もあっただろうしそれ全部含めて大倭だな 350年には魏晋を追った高句麗と
半島で戦争して、高句麗牧童を使った
御牧の経営を甲斐信濃で成功している。
相当数の兵力が有ったはずだが、
300年で軍事の経済背景は謎。
まあ、古墳労働が有ったことは・・・ 大倭、タワ、俵、戯れ
戯れは大和国ふどきいつぶんによると石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のことを指すらしい 壱支 → 伊都の支
一大率 → 伊都の大率
※大率(前漢時代発音:ダーサイ)(後漢時代発音:ダースツ) → 大宰帥か? >>813
そんな珍妙奇天烈な説は其方以外から聞いたことがない
其方は誰よりも早く大倭と大倭王の関係を疑い
それを九州説として解決すべく案を出したのだろう ヤマト王権の力の根源は水銀朱だろう
長髄彦がいたとされる生駒山の麓のトミの地は丹砂の一大産地
神武東征伝説ではイワレヒコは最初に生駒超えをしようとして敗北し、東から回り込んで水銀鉱山のあった兄猾弟猾の宇陀を抑えている。そして最後に水銀産地を支配するトミの長髄彦を破っている
弥生末期の倭人は金銀の価値を知らず専ら丹を尊んだ
現代の日本では朱色に塗るのは日の丸盆と神社の鳥居くらいだが、上古では大王や巫女が顔を朱色に塗ったり祭祀道具を朱色にしたりと魔除けに丹は必須だったのである
ヤマトの富の根源は金銀ならぬ丹の供給を支配していたことからきていたのだろう
神武東征伝説に出てくる土地には何故か水銀産地が含まれている
饒速日なる人物が長髄彦と共にトミにいたのも水銀関連の何かだったのではないかと思う
オレが神武東征伝説に幾分かの真実性を感じるのは水銀との関わりが見えるからである >>817
おまえ何言ってるのかわかんねえわ
何が九州説なんだ? 北がニシということであれば南はフェーだし、西はイリだし、東はアガリになってしまうな >>817
偉い人が監視してたでおかしくないじゃん
それが王クラスでも村長クラスでもそこで偉い人に変わりはない >>822
ほで、大倭も一大卒も伊都のみならず
倭国各地にいたと言うのかな >>823
勿論そうだよ
旧唐書 四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之 >>824
あんたは旧唐書持ってくるし
崇神おじさんは新唐書に依拠して筑紫城言い出すし
正直旧新唐書は特級呪物だと思ってる 旧唐書が倭人の素のコメント拾ってるのに対して
新唐書は記紀に合わせて改竄してるように見える >>825
何故?
四面小島なんて日本の事をよくわかってんじゃん
公式に行き来してるんだし当たり前だけど >>828
まあ崇神おぢさん共々
仲良く九州王朝説の箱に入れさせてもらいまふ https://i.imgur.com/w2Uqv1C.jpeg
もしかしたら邪馬臺国と狗奴国は
朱の採取をめぐって利権争いをしていたのかもしれない >>826
そうだけど唐代には一大率が居て諸国を検察してたしそういう役割なんだよ
じゃあ魏代はどうだったんだろう? >>831
不弥国から投馬国、そして邪馬台国へ陸を船で進む九州説 現代とは海岸線が違うんだという畿内説の主張のおかげで
不弥国から南に水行できるようになってしまったの草 >>836
5万戸7万戸住む場所も無くなってしまったな >>838
古代日本列島て12万戸も住めなかったの 関西全域で鉄の出土量は北部九州と比較すると幼児VS巨人の
差があるが、特に奈良県からは全く出土が無い、こんなみすぼらしい
所が大国の魏と交流があったとか笑止千万、ふざけるのは顔だけで良い 音写の邪馬臺=邪摩堆=夜摩苔がヤマトで正解。
大倭、倭面土は表意文字だから。 弥生時代後期は龍の絵画土器と東は東京から南は薩摩半島、西は五島列島まで一斉に広がる時代だ
東京、奈良、大阪、吉備、瀬戸内海沿岸部、壱岐、五島列島は特に集中している場所
龍の絵の変遷を見るとオリジナルは池上曽根遺跡か柏原の船橋遺跡だ
ちょうど倭国王帥升の時代
九州一円は龍の絵画土器の地だ、吉備も徳島も同じ >>848
ヤマトが7万戸でしょ?
ヤマトって何処よって話し 弥生時代の遺跡数は福岡県がダントツ
佐賀県でも奈良県の2倍はあるhttps://i.imgur.com/wWIZZIs.jpeg 同じく弥生時代後期鳥形が一世風靡するが分布は龍の絵画土器と重なるが範囲はより狭い
島根東部から加賀、兵庫大阪奈良京都滋賀、愛知静岡
よりコアになる地域なのかもな 3世紀九州最大の都市博多を中心とした福岡平野は
葬制を共有する畿内との政治連合 弥生時代後期は銅鐸が近畿や東海で流行するが、近畿と東海の両方の特徴を備えた巨大銅鐸が近くで出土した伊勢遺跡では銅鐸の祭祀ではなく、夜に水の祭祀が行われていた
銅鐸の用途は祭祀ではないんじゃないか >>854
無理だよ。
皇室をさしおいて、西日本をそんな広域に支配した勢力なんて、
日本史書にも中国史書にも記録されていないよ? 中国は倭の人口を知りたいわけで例え九州や東北が不属であっても
そこも含めて知りたいはず
首長は自分の領域の人口はある程度把握してるだろうしそんなには難しくないと思うけど >>856
皇室はまだない
3世紀は女王の共立=政治連合 点数がいくら少なくとも
弥生早期から存続する大遺跡
唐子・鍵を要する奈良盆地を軽視するのは不可能 >>861
唐古鍵遺跡の人口は900人
吉野ヶ里は5000人 太陽の表面で起きる爆発現象「太陽フレア」が観測されてるそうだ。 >>1
卑弥呼もそうだが、
台与などはそろそろ
崇神天皇の在位期間と重なってくる。
ここは日本史板
皇室=日本国の歴史についての板にスレを立てているのなら、
コメントが必要なのでは? 一人一説雑多九州小説は
畿内と密接な関係の博多を中心とした福岡平野を
北部九州の小っちゃな邪馬台国の連合である奴国に比定することはできない >>867
唐子・鍵の発掘範囲30万m2
空の墓・吉野ヶ里の規模117万m2
その史跡指定面積は22万m2 日本の中の古代韓国吉野ヶ里は売り払う予定の土地だったからな
バブル時に日本の税金で観光アトラクションを造った >>867
唐子鍵遺跡の環濠内の人口は少ないらしいけどどの位領土があったかわからん >>862
倭国の東(日の上がる方)にある国だったのかな 王宮や祭祀施設がないデカい集落跡があるけど
これって役割分担してただけだと思うけどな だから九州も吉野ケ里遺跡の王と原の辻遺跡の王が領土を接してにらみ合ってたんじゃないか? >>874
寺澤薫は磯城でせいぜい4000人とゆうてる >>871
伊勢遺跡説くんは皇室はいなかったとさ。
で、
纒向宮に卑弥呼がいたとする纏向説では、
皇室はどこでなにをしていたのかね? >>883
つまり邪馬台国纏向説というのは、
万世一系を否定するのかね? >>885
崇神天皇が少なくとも台与の頃には実在していないと、
万世一系の歴代天皇が実在するための期間が足りなくなるのだが。 >>886
畿内説者が主張している、
万世一系をみんなが否定している、の証拠は? 日本に最初に住み始めた1000人の縄文人の中に皇室の先祖が男女の2人いる >>884
弥生時代の日本人にそんな思想ない。万世一系に失敗した漢王朝滅亡以降に流れてきた思想だし。 崇神天皇の9代前の神武天皇が九州から大和に東征したのなら
九州に中国と交流するような国家はない >>890
>日本に最初に住み始めた1000人の縄文人
日本に最初に住み始めたのは、旧石器人。 @阿波 >>892
九州の実家がしばらくがんばっていたのが邪馬台国で、
畿内で成功した景行に合流したんじゃないの? 卑弥呼と現皇族の血がつながってるかなんて知らないよ
もしかするとつながってるかも知れないね
でもそれを考える事になんの意味があるのか? >>881
敵対してたとは言ってないから
交易はするよ 九州で王墓らしきものが連続するのは
平原1号→2号→3,4号
が最初で最後 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
. 吉武高木遺跡もあれ墓域だよね
集落も有るけど複合遺跡なのにまとめて書いてるから規模がわかんないんだよね コバンザメ寺澤
カメレオン寺澤
こいつは学者じゃなくペテン師なんだよ
頭も相当弱いし 伊勢遺跡の傍に服部遺跡ってのがあってここは広大な方形周溝墓と広大な田んぼ、
それに集落では玉類の生産もしてた
でも王宮に相応しい建物がないんだよね
それで直ぐ近くに下之郷遺跡という環濠集落があってここにはデカい建物がたくさんあって
明らかに祭祀施設って感じの造りになってる 崇神は行燈山古墳の主でよい
近年の研究では行燈山→宝来山→ 渋谷向山で正しいとされているから、記紀を元にした今の治定どおり行燈山を崇神陵として、崇神崩年を古事記の伝える316年頃とするのが良いだろう
問題は崇神の前で、開化が実在なら行燈山の一つ前の大王墓であるメスリ山、孝元が実在なら陵墓はその一つ前の桜井茶臼山、そして百襲姫の兄弟の孝霊が実在なら陵墓はさらにその一つ前の西殿塚になる
箸墓の一つ後の大王墓が西殿塚だから、やはり箸墓は百襲姫の陵墓に比定して良いだろう
ここから卑弥呼と百襲姫も同時代の人と考えられるので、百襲姫=卑弥呼で矛盾はない 百襲姫の事績は古事記には出てこないのでフィクション確定 >>901
>吉武高木遺跡は弥生終末期には一度断絶している
大洪水だ埋まった。 @阿波 >>905
>伊勢遺跡の傍に服部遺跡ってのがあってここは広大な方形周溝墓と広大な田んぼ、
>それに集落では玉類の生産もしてた
滋賀に進出した倭人(阿波勢力)がな。 @阿波 >>907
百襲が架空の人物になったら箸墓が宙ぶらりんになっちゃう 失礼。百襲姫は孝霊の父親であるが、ついオレの実は兄弟ではないかという仮説の方を書いてしまった
百襲姫は長生きしすぎているから、本当は数人の巫女の集合体かもしれない
だから卑弥呼と台与も百襲姫として合体しているかもしれない 兄弟相続の可能性があるのは欠史に限らんからな
まあそれでもそれなりに歳は離れているはずだが >>901
>吉武高木遺跡は弥生終末期には一度断絶している
大洪水で埋まった。 @阿波 モモソヒメの実在を疑う寺澤薫
「実在性の不確かな崇神紀の倭迹迹日百襲姫像が、実在性の確かな『魏志』倭人伝の卑弥呼像と重ね合わされていった。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著 >>905
>伊勢遺跡の傍に服部遺跡ってのがあってここは広大な方形周溝墓と広大な田んぼ、
>それに集落では玉類の生産もしてた
滋賀に進出した倭人(阿波勢力)がな。 @阿波 遺跡発掘後進県だからな。 それにもかかわらず、「鍛冶炉遺構」王国とはww @阿波 倭の五王は兄弟継承だが?
仁徳は370年の七支刀で
履中、反正、允恭が子
孫の安康、雄略で五王
中一人有るか無しで
503年は人物画像鏡で継体。
倭王讃の祖父は313年以降
95国制覇の半島進出可能だった応神。
実在すべきだが、母がもう神だなw
神話との接点が倭人伝だろ?
九州北部に魏と外交した
女王の卑弥呼が居た。
対魏防衛で、九州の一大率受け入れは
古代史の転換点なんだが?
邪馬台国論争が隠蔽するのは何故? >>922
>卑弥呼時代の鉄器出土は越前が最多919
その鉄器を作ったのが、、「鍛冶炉遺構」王国「阿波」。
その鉄器を運んだのが、倭人(阿波勢力)。 @阿波 >>920
>仁徳は370年の七支刀で
>履中、反正、允恭が子
>孫の安康、雄略で五王
ご説ごもっともだが、
であれば、同じ倭国王である卑弥呼や台与とはいったいなんぞや? >>916 >>919
何だ やっぱり遺跡も鉄も房総と武蔵國だな! 邪馬台国は安房!! 投馬国が出雲なら投模国とか投母国とかになるはずだろ
投馬国は出雲じゃないよ 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
隋代に裴世清が来たルートで瀬戸内海を通って大阪に来たとみんな思ってるけど
必ずしもそれが正しいとは限らないし魏志と見比べるのも面白い >>933
「裴世清」
『隋書』によれば、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、そして東に進み、秦王国(辰王国?)に着いたという。(Wikipedia)
竹斯国(筑紫)から東に進んだのは瀬戸内海。
その「秦王国」とは、東四国のさぬき市難波郷津田。 @阿波 「裴世清」
『日本書紀』によれば、6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
この難波津とは、さぬき市難波郷津田の津。
この京とは、「阿波」の推古天皇豊浦宮。
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。 @阿波 阿波時代は、遅くとも縄文時代晩期末から飛鳥時代まで。 @阿波 >>937
さぬき市「難波津」の新館でゆっくり休養をとってから「阿波」の京都に入った。 @阿波 >>928
投馬国は国譲りで出雲国に名前を変えたから発音なんか関係ない >>941
出雲国はむかし東北にあった 出雲訛りが証拠だ >>937
筑紫から難波まで約500㎞、水行約二ヶ月
250㎞地点(水行1月地点)は広島の呉あたり 大阪が瀬戸内海の突き当りってのは今ならわかるけど
当時中国の使者にそんな事わからない
何処の港であろうと同じ >>943
おいといちゃダメだろ 今や邪馬台国は安房か阿波かに絞られた 東京と大阪は、大阪と福岡より近いからね
山陽道も瀬戸内海も思ったより長い >>946
黒潮の沿岸は文化の類似性が指摘されてるね
邪馬台国はともかくとして 阿波が栄えたのは、遅くとも縄文時代晩期末から飛鳥時代まで。 @阿波 >>950
栄え得る素地があるのは、温暖多雨の地。 @阿波 >>950
栄え得る素地があるのは、黒潮沿岸の温暖多雨の地。 @阿波 日本神話は印欧神話と偶然とはいえないレベルの類似点を示すことが分かっている
これが意味するところは日琉民族の神々の起源が大陸にあったという事である
ネトウヨは縄文文明などというが、実は日本人の神概念は縄文由来ではなく印欧系民族やウラル系民族との接触で培われたものなのである
そしてそれらのユーラシア横断的文化の大元はシュメルなどのメソポタミアの文化なのであった
日琉のアイデンティティは遼河文明の偏堡文化人→韓半島の無文土器文化人→日本列島の弥生人→ヤマト王権の倭人→現代の日琉人という流れで繋がっているのである
日本人は縄文の精神文化を受け継いでいるのはアイヌの方々であると素直に認めなければならない
ネトウヨはアイヌ民族の文化を剽窃しようとしているのである まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>955
ぶはははは そうですよね 黒潮沿岸の温暖多雨の地! 3世紀半ば、静岡東部に琵琶湖北部や日本海側の土器が流入し前方後方墳が作られ日本海側の墓制である舟形木棺が出現する
弥生時代末期から古墳時代前期にかけて、静岡東部の土器は東国の太平洋側、関東に広がる
息長鳥は猪名や安房の枕詞
にほ鳥は牛留鳥とも書き、息長や葛飾の枕詞である 安房と関係が深い高橋氏や膳氏
宮中の大膳職坐神三座のうちに「御食津神社」があり膳神が祀られ安房地方の女性が上京してこの神を祀ったという
奈良の桜井の穴師には兵主神(御食津神)と大兵主神が祀られている
アナ、御食津神と大兵主神の組み合わせは興味深い
高橋は大阪の民話に登場する
なにわの軽業師の寅吉、高橋の薬使いの医者、高間寺の山伏の仲良し3人組の話
酒は薬である
桜井の大神神社の荒魂は酒と薬の神さま
スクナヒコナも薬の神さまで、伯耆国ふどきにスクナヒコナの話がある
相見郡
群家の西北には餘戸里と粟嶋(あはしま)がある。
少日子命(スクナヒコ)が粟を蒔いたので、莠(はぐさ?)がよく実って垂れた。そこで粟に乗ると弾かれて常世国に渡った。故に粟島という。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715434145/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 鶏肉はカシワ
古墳時代前期の河内には鶏塚古墳という前方後方墳がある >>962
静岡東部は狗奴国の都だった足高尾上遺跡群のある狗奴国の中心部だからな
ものの見事に邪馬台国のテリトリー以外のところと交流してるね 山陰の西川津遺跡、青谷上寺地遺跡からは大阪の池上曽根遺跡や雁屋遺跡と同じ形の鳥形が出土
琵琶湖には前方後方墳があるが、琵琶湖北部から若狭の集落からは弥生時代後期河内の集落と同じ形の鳥形が見つかっている 古代の阿波はならず者の流刑地だったし朝鮮半島の難民も収容したので
徳島県人はホントの日本人とは言えん、ほぼ朝鮮人と言って良い 安房は普通に読んだらアボウかアオだな
阿保親王の祖父は桓武天皇で、父は平城天皇
平城天皇の諱は小殿、安殿で和風諡号は日本根子天推国高彦天皇
高がつくのは興味深い
松原では阿保をアオと読む
松原ではアオ親王の墓だと伝わる6世紀後半の河内大塚山古墳は全国5位の大きさだ
2つの牛石の伝承が残る
牛石に触れると血チが流れるという
堺の山奥にも牛石古墳があり、牛石を切ると血が出るという伝承がある
牛鬼伝承が残る吉備は穴の海の地である
牛と穴と安は関係するんじゃないか? >>969
近年まで入れ墨してた琉球人(倭人=熊襲の末裔)とアイヌ(狗奴国人=毛人・蝦夷の末裔)以外は半島渡来人だから @阿波を見ていると普通の日本人じゃ無いだろうとは思う 岡山の牛飼いの話は泉州にもある
有名な七夕伝説だな
岡山の牛飼いと開拓民に釜で湯を沸かし振る舞い軽い衣を織る姫の恋物語
岡山の牛飼いは胡瓜の種を持っていたという
河童の大好物は胡瓜で、河童が狙うのは尻子玉だ
毛は穀物のこと
スサノオの尻の毛から生えてきたのが真木、槙で用途は棺、ヒツギ、日嗣?
牛さんは真木や日嗣に関係するのだろうか? そういや堺の難読地名に毛穴というのがあったな
全く関係ないかもだが
最後の日は天万豊日の孝徳天皇だな
万は卍で和を意味する
天と和した豊日
孝徳天皇の父は茅渟王、【チ】ヌ
茅渟王の墓は片岡にある
聖徳太子の有名な片岡の聖伝説の歌の地だな
聖、ひじり、日尻
片やにほの海にかかる枕詞はシナ照る ちょっと退屈だから市を監視してた大倭の話しをしたいんだが
もし日本の役職であれば口語のダイワとかに文字をあてた事になるし
中国の役職であれば大倭で役職だとわかるのか? 「其大倭王居邪馬臺國」(後漢書)
「國國有市交易有無 使大倭監之」(倭人伝)
魏は倭国の王を女王卑弥呼と認めたので
女王が大倭に交易を監督させている=邪馬臺國の大倭王(倭の中心的な王)が
倭国の交易を監督して税を徴収している
卑弥呼の弟が統治を佐けているということは
卑弥呼は大倭王の一族 つまり、
邪馬臺國の大倭王は倭国を統治する力はなかったが
祭祀女王を擁立することで各地の首長の政治連合(共立)が成立した
交易ネットワーク=女王を共立する政治連合 この交易ネットワークの政治連合に参加しなかったのが狗奴国 >>976
国々に市があるのに全部大倭王が監視してるのかよ?
しかも大倭王じゃなく大倭だし >>979
魏が倭の王と認めたのは共立された女王卑弥呼だけだから
大倭王は大倭
卑弥呼の弟が統治を佐けているのだから
女王が共立している国々の交易を大倭に監督させているというのは
共立(政治連合)の国々の市から大倭が税を集金してまわっているということではなかろう このスレの一人一説雑多九州小説は、
畿内と密接な九州最大の都市博多を中心とした福岡平野の説なので
何も心配しなくても女王を共立した国々の外から
税(安全な交易ネットワークの確立に必要な)を徴収することはない >>981訂正
このスレの一人一説雑多九州小説は、
畿内と密接な九州最大の都市博多を中心とした福岡平野の【外】の説なので
何も心配しなくても女王を共立した国々の外から
税(安全な交易ネットワークの確立に必要な)を徴収することはない わざわざ訊いたんだと思うわ
「邪馬台にはもともと大倭王がいたはずだけど
今何してるの」ってな
倭側からこのことを自ら説明したと思えん
従来男弟を崇神とみる見方はあるけど
この大倭が崇神なんだと思う テンプレ読みました。
畿内に国があったと言うことしかわかりませんでした。
倭人伝記述との整合性を言及すべきでしょう。 九州説が事実なら女王国は九州の一部しか統治してないよね >>964
>山陰に因幡、関東に印旛
どっちも、忌部が語源。 @阿波 >>968
当り前。 倭人(阿波勢力)が居た痕跡。 @阿波 >>984
そんな難しいことを畿内説の人が理解できるわけ無いだろ >>993
まぁ、なんやかんや言っても、全国へ進出した事績を語られる氏族は、後にも先にも忌部(物部)だけ。
つまり、「阿波」を中心として古代は動いていたってこと。 @阿波 九州説がまだ存在してるのは高齢で知能低下した人々がまだ医学的に死んでないと言う理由しか無いな 源氏物語の夕顔に息長川が出てくる
夕顔は干瓢になる大きな瓜がなる植物
夕顔では息長川の歌が登場する
有名な万葉集の歌
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
日本書紀、忍熊皇子の件にはにほ鳥が登場する
いざ吾君(あぎ) 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌(くぶつち)の 痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづき)せな このスレッドは1000を超えました。
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