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坂本龍馬と薩長
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/09/10(金) 22:13:01ID:ErbQimTd0
思う所、語ってみませんか??
0413坂本弁証人・でん次郎
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2010/11/24(水) 21:54:24ID:jBWdPCsE0
安政4年(1857年)土佐藩士広井大六は同じく土佐藩士の棚橋三郎に斬り殺された
文久3年(1863年)大六の子の広井磐之助は江戸で勝海舟や坂本龍馬の尽力で仇討ち免許状を与えられ
父の仇の棚橋三郎が紀州に逃げ込んでいることを突き止め
文久3年(1863年)6月2日紀州と和泉の境で仇討ちをした
仇討ちには公的な認可が必要だが広井磐之助は勝海舟の門下に入り
江戸にいる勝海舟と坂本龍馬の尽力で仇討ち免許状を得ることができた
これは龍馬にとって中川宮に対する収二郎と加尾の仇討ちへの始まりとなる
仇討ちには女敵討というものがある
これは妻帯者が妻を寝取られたときその相手を即座に無礼討ちできるというものだが
その代償として妻も斬らねばならない
坂本龍馬は元治元年(1864年)8月1日中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺でお龍と内祝言を挙げるが
これにより中川宮が龍馬の居ない隙にお龍を寝取れば即座に無礼討ちができる
中川宮の勢力圏で態々挙げるのだから知らなかったでは済まされない
その場合お龍を代償として斬らねばならないがお龍もその母の貞も将作の仇を討つ決心を決め
女敵討による中川宮殲滅作戦を了承した
光枝の女郎屋からの救出を手助けし起美の嶋原遊郭からの救出を自腹で談判した龍馬に
お龍は命を捧げると覚悟した
尚且つ青蓮院塔頭金蔵寺に人質にされている弟太一郎も救出できれば悔いはない
元治元年8月からお龍はお登勢の居る寺田屋に囮として入り龍馬は別室に待機した
維新後もし坂本龍馬が暗殺されていなければ最後の仇討ちは
勤王家楢崎将作の仇で婦女陵辱魔の中川宮朝彦に対する最後の天誅だったのだ
0414坂本弁証人・でん次郎
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2010/11/25(木) 21:54:25ID:zjjF9z530
陸奥宗光は紀州藩の攘夷派志士で南紀派の中枢で異端になり脱藩する
陸奥にとって水戸思想の岡田星之助を斬殺した坂本龍馬は敵と映ったに違いない
岡田星之助の軽率な行動は剣術の師である千葉重太郎を侮辱し裏切るもので士道に反するものである
佐那は岡田に犯されず貞操を守っているので龍馬の婚約者の佐那を襲った件では不問にできるが
剣術の師を欺き侮辱しその妹を陵辱しようとしたことは慙死に値し本来岡田は切腹すべきである
よって鳥取藩に於いては桶町道場師範代の重太郎が岡田の遺族による龍馬に対する仇討ちを制御した
文久3年(1863年)6月上旬剣術を不得手とする陸奥は水戸浪士の兜惣助及び大和の乾十郎と謀り
乾十郎を生贄にして龍馬を誘き寄せ決闘で龍馬の殺害を目論む
千葉周作は水戸藩士であるため兜は玄武館の水戸藩士らと交友があったのだろう
もし龍馬が兜を斬れば清河八郎の浪士組から離脱した壬生浪士組を敵に回しかねない
また兜と行動を共にしていたのが神道無念流免許皆伝で浪士組局長の新見錦とも云われ
近藤勇と芹沢鴨も大坂に急行していたがこれを察知した沢村惣之丞は
大坂西町奉行の内山彦次郎に知らせ途中で力士に足止めさせ大坂角刀事件が起きる
沢村はその間に勝海舟に知らせ小笠原長行の調停で兜らと和解した
それは士道に反して切腹せずに逃亡した星之助に一分の望みを与え龍馬に僅かでも非があるかを
検証するために龍馬は星之助と一対一の真剣勝負の決闘に臨んだのであり
この真剣勝負には星之助と同郷の黒木小太郎が立会い正々堂々と行われた
もしこの検証が間違っているというなら北辰一刀流を侮辱するものとなり水戸思想に禍根を残す
そして先の天誅に於いて元凶の公武合体派の悪党から娘達を救った好漢こそ龍馬であり
悪党中川宮に女心を弄ばれながらも平井加尾が心を寄せ愛した男が龍馬だからだ
もし龍馬を殺害すれば水戸思想に泥を塗り京の攘夷派は水戸浪士に天誅の矛先を向けるが
それよりも真の敵は公武合体派の中心で不浄な交尾合体で国を惑わす妖狐の姦臣だと諭したのだ
この調停の後で小笠原は水戸思想派から糾弾され同年6月老中職を罷免された
新見はこの後局長から副長に降格され後に切腹させられ芹沢は近藤の意を受けた者に暗殺される
生粋の水戸思想の芹沢鴨にとって中川宮の様な者こそ汚らわしい存在だと映ったに違いない
翌年の池田屋事件では中川宮を幽閉することを画策中に中川宮の意を受けた新撰組に襲撃される
0418坂本弁証人・でん次郎
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2010/11/26(金) 21:54:34ID:+EqmRzje0
陸奥宗光の策による兜惣助らによる乾十郎を囮にした坂本龍馬殺害計画は失敗した
新撰組の人気取りや裏切りの粛清等は士道に反しながら切腹せずに逃げた岡田星之助を
1対1の真剣勝負で斬り佐那の心を守ったなかなか隅に置けない色男の龍馬を模倣したものである
近藤ら新撰組は坂本龍馬を斬ることによって水戸思想に禍根を残すことに躊躇した
兜の事件以後新撰組が直接龍馬と対峙する事は無く間接的折衝に終始する
後に伊東甲子太郎も同門の好で龍馬と交友する
陸奥はその後龍馬に兄事するがどうやら最大の関心事はあっちの方だったようだ
陸奥は兄事する龍馬の妻としてお龍を認めていない
陸奥は外交術では勝海舟に及ばないが陸奥の思想は恐らく古代中国の縦横家蘇秦を理想とするものだ
龍馬が薩長同盟を導いたのはこの時の弱者の陸奥の立ち回りが起因している
また佐幕交尾合体派の奥羽列藩同盟もまた陸奥の縦横を無意味に真似たものだ
桂の女好きは別として高杉晋作の芸妓遊びに影響を与えたのも龍馬である
乾十郎は天誅組の挙兵に加わり敗れて処刑され兜惣助は天狗党の乱で処刑された
近藤らを力士に足止めさせた内山彦次郎は元治元年(1864年)5月20日芹沢鴨粛清後の新撰組若しくは
前年同日に姉小路公知宇を暗殺した桐野利秋と中川宮の家臣団に暗殺された
その半月後に攘夷派志士が中川宮幽閉を画策中に池田屋事件が起きる
龍馬は岡田星之助の仇討ちにはいつでも応じるつもりでいたようだ
高杉が龍馬に贈ったピストルやブーツは龍馬の身を案じたものである
仇討ちには免許が必要で許可無く実行すれば処罰される
もし岡田星之助の仇討ちをする場合正々堂々とやらねば恥の上塗りとなり水戸思想に泥を塗る
よって鳥取藩士及び攘夷派志士による坂本龍馬暗殺説を否定する
結果的に公武合体派で素行の悪い佐久間象山は勝海舟に売られた形で後に鳥取藩士に暗殺された
沢村惣之丞は龍馬が暗殺された翌年の慶応4年1月14日長崎を警備中に薩摩藩士を誤射してしまい
同年1月25日志の高い海援隊士として士道に反する行為を嫌い切腹した
後に龍馬とお龍が夫婦だった時期に龍馬にお元という芸妓の女がいたと証言したのは後藤象二郎だが
後藤は一体誰を庇おうとしていたのか
0419坂本弁証人・でん次郎
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2010/11/29(月) 21:54:24ID:LVu394VV0
文久4年(1864年)2月勝海舟は四国艦隊との調停のために坂本龍馬を連立って長崎へ赴く
横井小楠は文久2年12月19日肥後藩江戸留守居役吉田吉之助の別邸での宴会中に
肥後勤王党の堤松左衛門と黒瀬市郎助と安田喜助の3人に襲撃された
横井は大小を差しておらずその場から逃走し吉田は死んだ
肥後藩は横井を士道忘却として士籍剥奪及び知行召し上げの処分を下し
横井は熊本郊外の沼山津村の四時軒に蟄居していた
勝は厳しい処分によって生活に困窮していた横井のもとへ龍馬に金品を持たせ時勢を伝えさせた
横井小楠の理想は佐幕でも攘夷でもなく共和制である
だがどういう過程で日本が共和制になるのかは不可思議だ
恐らくは禅譲なのだろう
その禅譲において龍馬のような純真な志士はなくてはならないと横井は考えた
当時の世襲親王家は桂宮に男系はなく閑院宮は当主を欠き伏見宮は御落胤であるため
天皇家以外に真に正当な世襲親王家といえるのは有栖川宮だけである
もし有栖川宮が禅譲を容認した後で坂本龍馬が生きていたら
好漢龍馬は日本国大統領になっていたかもしれない
禅譲によって日本をアメリカのように共和制にし
初代日本国大統領に徳川慶喜を就任させるのが横井小楠の本当の狙いである
当時かなり斬新なこの思想は急進的尊皇攘夷派の理解を得られず
結局横井は維新後に十津川郷士によって暗殺されてしまう
勝海舟もこの世で最も恐ろしい人物は横井小楠と西郷隆盛だとしている
勝自身も横井の思いが叶ったら慶喜の次の座を狙っていた筈だ
大日本帝国は百年にも満たない邪道である
大政奉還=帝政ではない
坂本龍馬の船中八策に有名無実の貴族の専制などという考えは微塵もない
西欧列強に対抗する為に国体を勝手に帝政に変え不浄な排泄公卿の専制にした岩倉使節の俗臭に
勤労を奨励し近親相姦や乱暴狼藉を嫌悪して否定したアマテラスは嘆いただろう
徳川に於いて家康を入り口として考えると紀州藩が交尾合体のシンボルなら
水戸思想を受け継ぐ慶喜は徳川家に於ける「コウモン様」である
慶喜は幕府の終焉と同時に不浄な公卿の粛清を実行する為のきっかけになる筈だった
当然伏見宮系は反対するが異様な悪臭を放つ排泄公卿は奸臣として全て粛清されただろう
つまり大政奉還後の慶喜の復権は肥溜めシンボルの浄化の後の予定であったのだ
龍馬が暗殺される前に京都土佐藩邸にも京都福井藩邸にも入れなかったのは
慶喜の待遇が決まっていなかったからだが龍馬の死は結果的に慶喜を不利にさせた
第2次長州征伐に於いて幕府軍唯一の優勢であった赤坂の戦いでは
肥後藩が近代装備で奮闘し長州軍を圧倒していたが小笠原長行と不調になり突然撤退した
小笠原長行といえば龍馬が壬生浪士組に狙われた時に調停した人物である
龍馬の海援隊が参加していることを知った横井小楠が小笠原長行と計らい撤退させたのだ
0422名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/11/30(火) 11:46:24ID:ZpDUheyU0
坂本信者って坂本が特別だと思わせたいがため
坂本と薩長を殊更対立関係にあったように思わせたがるよね。
0423名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/11/30(火) 13:46:49ID:3sQ55qSF0
暗殺時期の龍馬の行動は大胆過ぎる
お登勢には「松平容保にも会ったから心配するな」
永井に危ないから昼に来るなと言われるまでは
白昼堂々と佐々木や見廻組の住む地域に現れ
近江屋に尋ねてきた土佐の仲間に2階から「上がってこいや」と
声高々に叫んだり自分が幕府側の人間から狙われているという自覚ゼロな行動
会津と桑名は大政奉還反対派で、事実手代木の残した手記見る限り
危険人物と見なしていたのにそこまで考えられなかったのか…
0424坂本弁証人・でん次郎
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2010/11/30(火) 21:54:25ID:2ctDydhu0
勝海舟はお龍のもとへ奸物中川宮を誘き寄せ女敵討として無礼討ちする策を龍馬に伝授した
文久2年(1862年)6月20日大坂で希望を見出せない龍馬はお龍の大立ち回りの場に出くわし事を収めた
そのお龍を龍馬と結びつけたのは勝と中岡慎太郎だろう
中川宮に狙われた勤王家楢崎家の惨状を憂う龍馬が長州藩士を動かし中岡も加わった
直心影流免許皆伝の勝は自身が奸物中川宮に狙われることが分かっていてもそれを恐れず
龍馬や中岡達に思うようにやらせた
奸臣池内大学の教示で合体に邪心を持つ中川宮は悪党を招集しお龍一家を狙わせた
中川宮の性欲の執拗さは尋常ではない
奸臣池内大学を殺害され薩摩藩を懐柔する為の自信の糧を失った中川宮は
会津藩を実質的支配下に置き勢力の拡大を図り
八月十八日の政変で京から攘夷派を一掃する
異常な勢いで勢力を拡大する奸物中川宮に対抗するには急所を攻めるしかない
勝は素行の悪い三条公恭に対し詰腹の代わりにシンボルを詰割ると脅して片を付けた話を
龍馬から聞いていた
勝自身も幼少の頃に狂犬に睾丸を噛まれ生死を彷徨っていると龍馬に話す
この件に関して龍馬はかなり得意になってエヘン顔の手紙を乙女に送っている
平井収二郎が合体狂の中川宮の奸計で十文字の切腹で命を落としたことも知っている
その中川宮が執拗にお龍を狙っていることも龍馬から聞いて知っていた
現状で公武合体派の中枢中川宮を追い落とすには正攻法では無理だ
だが父将作を手に掛けた中川宮を仇としその異常性欲に狙われるお龍と
素行の悪い三条公恭をシンボルの詰割り強襲で片を付けた龍馬が手を携えて事に当たれば
必ず希代の姦淫坊主を打ち滅ぼせると勝海舟は確信した
たとえ龍馬の身に危険が及び自分の現在の地位が脅かされても
旗本としての勝が奸物に脅かされることはない
勝海舟にとって龍馬は君側の奸を静粛するための駒の一つに過ぎない
親身に龍馬を心配していたのは実家と千葉道場以外では横井小楠だけだ
0425坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/01(水) 21:54:25ID:anNlnyWl0
元治元年(1864年)4月6日熊本の四時軒で蟄居する横井小楠は
加尾を弄ばれ収二郎を切腹に追い込んだ中川宮を仇として討ちたいと相談しに来た龍馬に
「乱臣賊子となるなかれ」と警告する
お龍という勤王家の娘が中川宮に執拗に狙われている為その女と龍馬が中川宮の勢力圏で
形式上の夫婦となりお龍が一人になっている処へ中川宮を誘き寄せ
女敵討として中川宮を誰からも文句を言わせずに始末するというものである
龍馬は以前に岡田星之助を婚約者佐那を犯した罪で斬殺している
だが勝によるお龍の元へ中川宮を誘き寄せる桶狭間のようなやり方は危険性が大きい
もし失敗すれば奸物側にとっては賊子と映り
やり方次第でその奸物と変わらないことになってしまう
女敵討は仇討ちとしては品が無く尚且つ代わりに妻を斬らねばならない
奸物といえども長きに渉って日本で泡銭を貪ってきた連中だ
そう簡単に引き下がる輩ではなく乱臣にされては元も子もない
土佐勤王党武市瑞山もすでに逮捕されている
まして龍馬はすでに千葉佐那と婚約している
そもそも横井と龍馬を結びつけた縁は千葉道場である
横井は勝に対する見張りとして甥の左平太と大平の2人と門弟の岩男内蔵允を同行させる
もしかしたら「筑前の大藤太郎」はこの3人の内の誰かかもしれない
この3人は神戸海軍操練所で修行し操練所の閉鎖で熊本へ帰り
左平太と大平は慶応2年(1866年)4月にアメリカに留学する
その後の海援隊には福井藩陪臣山本龍二以下6名の福井藩出身者がいて
操練所廃止以後もお龍を妻として勝の策略で動く龍馬を佐那の元へ戻すべく従っていた
横井としては龍馬は千葉佐那と結ばれるべきだと考えていた
「お前さんを失いたくはない。呉々も奸物には用心しろよ。」という意味で龍馬に促した
横井小楠にとっては坂本龍馬を危険に晒す勝海舟も奸物であったかもしれない
0426坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/02(木) 21:54:23ID:9ieVynHo0
池田屋事件の直前の元治元年(1864年)6月2日龍馬は黒龍丸で江戸に向かう
千葉重太郎は龍馬の行く末を危惧する横井小楠から
龍馬が勝海舟に誑かされ奸物との危険な戦いに手を染めようとしている事を知らされていた
そして龍馬から奸物中川宮に執拗に狙われているお龍という女に罠を張り
開国後の国政から公武合体派の奸臣を一掃し退けるという考えを聞かされる
その罠の任に素行の悪い公恭をシンボルの詰割り強襲で震え上がらせた龍馬自らが当たり
龍馬が青蓮院でそのお龍とやらと内祝言を挙げて中川宮を誘き寄せると聞かされ重太郎は憤慨した
これは勝海舟にとって自分を斬りに来た千葉重太郎との鍔迫り合いみたいなものだろう
重太郎は美人だけが取柄の楢崎龍と危険な道を歩むより
才色兼備の妹佐那が好漢坂本龍馬の嫁であるべきだと考えた
だが龍馬は加尾の兄収二郎の弔いと勤王家楢崎家の不幸を繰り返させない為に勝の策に従った
龍馬は佐那が自決を覚悟してでも龍馬への思いを貫いた事は受け止めたが
幼い頃から好きだった加尾を異常性欲を満たす為だけに弄んだ挙句に
仲の良かった収二郎を切腹に陥れた中川宮朝彦を討たねばならなかった
龍馬は中川宮朝彦を殲滅し平井家の無念を晴らさない限り
佐那との幸せな結婚生活に甘んじる事は考えられなかった
その頃京の池田屋では攘夷派志士が奸物中川宮を襲撃するために会合していた
龍馬は奸物中川宮との直接対決に挑もうとしていた
0427坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/03(金) 21:54:23ID:FpIiqN5g0
龍馬は文久3年(1863年)8月の1ヶ月と文久3年11月から12月までの2ヶ月を江戸で過ごす
龍馬は江戸で千葉重太郎を頼ったが鳥取藩士が在籍する桶町千葉道場で汗を流すことは無かった
文久3年8月14日の乙女への手紙で佐那を褒めちぎり「今の平井、平井」と記し
「以前から好きだった加尾と同じくらい今は佐那のことを好いている」としている
「今」でない「平井」が龍馬にとって何かはこの手紙だけでは分からない
加尾と親交のある乙女への脱藩して最初の手紙ではある者を「詰腹」の代わりに男性器を詰割りさせた
「つめわり」は岡田星之助ではないが詰腹を決闘に変更して死んだのは星之助である
男性器の詰割りの対象は武士でなく商人農民でもなく公家である
加尾を幼い頃から好きだったのかそれともそれ以上の関係か
男装指示の手紙を開示した加尾の心情を推察する以外にない
だがこの時期婚約していた龍馬と佐那の二人の間に男女の関係があったとしても不思議ではなく
龍馬の女はお龍だけで佐那とは男女関係は無いとする研究学会は明らかにおかしい
文久3年2月5日道場に一人残る佐那を強引に犯そうとした岡田星之助を見つけ出し
重太郎の指示で決闘で斬殺した龍馬は同年2月25日勝海舟や重太郎の働き掛けで脱藩罪を赦免される
同年3月7日勝海舟の護衛を岡田以蔵に任せ約1ヶ月江戸に滞在した
脱藩して佐那に合わせる顔が無かった龍馬は
舌を切り自決する覚悟で岡田星之助を拒んだ佐那の思いに気付き二人は愛し合った
文久4年(1864年)の正月元旦の龍馬は千葉家が仕立てた紋付を着て
佐那と仲睦まじく新年を迎えるつもりだったが龍馬は土佐帰国命令を拒絶し再度脱藩する
元治元年(1864年)6月8日の平井収二郎の一周忌に龍馬は中川宮との対決を決心する
龍馬は奸物と戦い幽霊となる覚悟で紋付の片袖を佐那に渡した
着物の袖は破かずとも糸を解けばきれいに外れるので家門の付いた片袖を佐那が預かり
片袖を外した紋付は龍馬がお龍に分からないように仕舞った筈だ
無事平井の弔い合戦が終わった後で分かれた紋付を元に戻し
龍馬と佐那は正式に夫婦になる筈だった
この弔い合戦は楢崎将作の弔い及びお龍とその家族への仕打ちに対する復讐でもあるので
たとえその後に自分と別れる事になっても本懐を遂げたお龍は満足に違いないと龍馬は考えた
龍馬は6月8日にすぐに江戸を出るつもりだったが龍馬が下田に着いたのは6月17日になってしまった
佐那は龍馬を離そうとはしなかった
0428坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/06(月) 22:27:51ID:SS3cmOIj0
龍馬の乙女宛の元治元年(1864年)6月28日の手紙

かの小野小町が名歌読みても、
 (妻の小千葉小町の月の日を推察し)
よく日照りの順の良き時は請け合い、
 (佐那の機嫌のいい日は愛し合い)
雨が降り不申。
 (佐那の機嫌が悪く生理の日は何もしない)
亜れは北の山が曇りてきた所を、内々よく知りて読みたりし也。
 (佐那とのアレは妻の小町の体を気遣っての事である)
にったただつねの太刀収めて潮の引きしも、
 (新田義貞?仁田忠常?=拙者、只管日常的にシンボルを佐那の中に収めて愛し合う時も)
潮時を知りての事なり。
 (好機を見計らっての情事である)
天下に事を成す者はねぶともよくよくはれずては、
 (大願成就を成すためには母体もがんばって妊娠してくれなくては)
針へはうみをつけてもふさず候。
 (龍馬のあれは生ませようとしても羽化させることは出来ない)
おやべ殿は早、子ができたなどと申人あり、
 (おやべちゃんがせっかちに「龍馬さんに子ができた」などと申す人がいる)
いかが私しがいいよるというておやり、かしこ。
 (どうだ私がこの手紙で宣言しているぞと言っておやりなさい、かしこ)
おとめさまへ
此手がみ人にはけして々見せられんぞよ、かしこ。
 (この手紙は人には決して決して見せられないぞ、かしこ)
0429坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/06(月) 22:31:28ID:SS3cmOIj0
龍馬の乙女宛の元治元年(1864年)6月28日の手紙

かの小野小町が名歌読みても、
 (妻の小千葉小町の月の日を推察し)
よく日照りの順の良き時は請け合い、
 (佐那の機嫌のいい日は愛し合い)
雨が降り不申。
 (佐那の機嫌が悪く生理の日は何もしない)
あれは北の山が曇りてきた所を、内々よく知りて読みたりし也。
 (佐那とのアレは妻の小町の体を気遣っての事である)
にったただつねの太刀収めて潮の引きしも、
 (新田義貞?仁田忠常?=拙者、只管日常的にシンボルを佐那の中に収めて愛し合う時も)
潮時を知りての事なり。
 (好機を見計らっての情事である)
天下に事を成す者はねぶともよくよくはれずては、
 (大願成就を成すためには母体もがんばって妊娠してくれなくては)
針へはうみをつけてもふさず候。
 (龍馬のあれは生ませようとしても羽化させることは出来ない)
おやべ殿は早、子ができたなどと申人あり、
 (おやべちゃんがせっかちに「龍馬さんに子ができた」などと申す人がいる)
いかが私しがいいよるというておやり、かしこ。
 (どうだ私がこの手紙で宣言しているぞと言っておやりなさい、かしこ)
おとめさまへ
此手がみ人にはけして々見せられんぞよ、かしこ。
 (この手紙は人には決して決して見せられないぞ、かしこ)

に訂正
0430坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/07(火) 21:54:31ID:/o70qRQL0
6月28日の手紙は元治元年(1864年)6月8日の中川宮に陥れられ切腹した平井収二郎の一周忌に
坂本家の家門の付いた片袖を佐那に残して収二郎の弔いを決意した後に
千葉家での心遣いを想い龍馬が佐那との愛の情事の証を乙女に告げた手紙であって
文久3年(1863年)6月29日の手紙の前日では龍馬がここまで赤裸々に乙女に報告する意味が無い
そもそも同年8月14日の手紙が最初の佐那の紹介なのだからそれ以前の赤裸々な手紙はありえない
文久3年の収二郎が切腹した直後にこんな手紙を出したら故郷の坂本家は佐那を白眼視してしまう
だが実際に坂本家で白眼視されたのはお龍であって
その事実もこの手紙が元治元年6月28日のものである証拠である
文久3年(1863年)8月14日の手紙については暗示であり千葉家との両家の証にはなっていない
恐らく龍馬の初恋の女性は佐那の姉の里幾だったのだろう
里幾は優しく亡き母の様に一人江戸で剣術修行する龍馬を支えていたはずだ
土佐の実家には里幾の話ばかりしていて自分より剣術に優れた佐那に臆するところがあった
だが龍馬が江戸を離れた半年後に初恋の女性里幾は労咳でこの世を去った
加尾は幼馴染で龍馬にとって妹のような存在で龍馬の初恋というより加尾の初恋である
加尾の為に脱藩し大坂を出て江戸の千葉家を頼ると龍馬は佐那にどう接していいか分からなかった
だが佐那は姉の里幾が他界すると自分が龍馬の妻になると決心し
岡田星之助の悪意の有る強引な求愛を舌を噛み切る覚悟で拒んだ
文久3年(1863年)2月5日龍馬が星之助との真剣勝負の決闘に勝つと江戸で二人は結ばれた
だが平井収二郎が土佐に送還されると雲行きが怪しくなり
即正式結婚即土佐へ帰藩という訳にはいかなかったと思われる
文久3年(1863年)3月から文久4年(1864年)6月まで龍馬が江戸にいる時は二人は愛し合った
だが残念ながら佐那との間に子は出来なかった
龍馬としては道場に鳥取藩士がいて重太郎も鳥取藩に仕えている状況で心が休まる事は無かった
佐那は物静かな女で龍馬に抱かれるときも受身だったのだろう
男性経験の乏しい佐那はそれでいいのだと思っていた
だが龍馬は一方的な愛し方よりもっと女性に癒されながら相互に愛し合う方を望んだ
元治元年(1864年)6月28日の手紙には男にしか分からない性に対する切実な欲求が感じられる
二人の間には時間と精神的余裕が足りなかった
見事奸物中川宮を討ち果たせれば二人は幸せに暮らせただろう
6月28日の手紙は「ねぶと論」などではなく真実は「妻の小町の手紙」である
維新後佐那が針灸を営んだのはもっと龍馬を癒してあげればよかったという想いがあったのだろう
千葉佐那の墓石には坂本龍馬室と刻まれている
0431名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2010/12/09(木) 18:13:08ID:pg21mH3C0
 龍馬を考えるとき、いつも複雑な思いに駆られるのは、龍馬暗殺である。
 京都見廻組の幹部だった今井信郎の証言で、長い間、同じ見廻組の佐々木只三郎が実行犯にされてきた。
佐々木は会津藩重臣の手代木直右衛門(勝任)の実弟である。
 会津悪人説が出てくるゆえんである。
『佐々木只三郎』(史伝研究所)に、
「実兄の手代木が息を引き取る数日前に、坂本龍馬を殺したものは実弟只三郎であり、それは某諸侯の命に
よるものであることをはじめて語ったという。某諸侯というのは、のちに見廻組が属した京都守護職松平容保
すなわち手代木の藩主を指すのであるが、この事実を公にすると、累を藩主に及ぼす恐れがあるので、
直右衛門はずっと後代まで沈黙を守っていたのである」
 とある。
 しかし、これには首をかしげる部分が多い。会津藩の重臣たるものが、主君である松平容保にとって不利な
証言をするだろうか。しかも手代木の証言の時期が死ぬ数日前というのも、作り話の印象がある。容保の実弟、
京都所司代であり桑名藩主でもあった松平定敬の指示という文書もある。
 この時期、龍馬は幕府若年寄の永井尚志と再三、会っており、ハト派の政策を進めていた。戦争ではなく平和裏に、
新生日本を作ろうということだった。
 その人物を、幕閣の松平容保や定敬が暗殺せよと言うはずはない。つじつまが合わない。
しかも手代木自身にも不可思議なことがあった。
戦犯として幽閉されていた手代木は明治五年、明治政府から特赦を受けた。戊辰戦争で敗れた会津藩の同僚が
青森県に流され、塗炭の苦しみにあえいでいたときのことである。手代木は明治政府に出仕し、香川、高知の
権参事(副知事)を経て、岡山県下の各郡長、区長を務め、正六位勲六等に叙せられた。
 明治政府の要人のだれかが龍馬暗殺の犯人として、只三郎を作り上げ、只三郎が無実であることを知っていた
兄の手代木を処遇し、口封じをはかったのではないかとも考えられる。
 何かが隠されている。そんな気がしてならない。
 土佐では薩摩黒幕説、あるいは土佐藩内部の抗争説、さまざまな説が語られていた。
 天衣無縫に生きた龍馬の輝ける生涯のなかで、最期の部分は依然、闇の中である。

                                   星 亮一
0432名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/12/09(木) 19:09:56ID:TVL7GqOe0
「生前に恩恵を与えて懐柔したのではないか」
「死ぬ数日前の告白というのが奇妙だ」
「坂本龍馬の大政奉還は、戦争ではなく平和裏に新生日本を作ろうということだった」
「その人物を、幕閣の松平容保や定敬が暗殺せよと言うはずはない。つじつまが合わない。」

星亮一の文章は間違いだらけで溜息が出ます。

明治政府出仕者のなかで手代木の処遇は厚遇というほどでもありません。
元旗本でも遥かに出世した場合があります。

坂本龍馬の大政奉還に対する意図は、土佐藩の記述によると
幕府を政権の座から引き摺り下ろし、薩摩への手土産とする、です。彼は討幕派ですね。

また、松平容保や松平定敬は大政奉還に強硬に反対し、政権の再委任を要求したという記述が
各種史料に存在しています。両人は大政奉還に敵対していました。
0433坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/17(金) 21:54:26ID:Ad/d0pd/0
文久2年(1862年)京の加尾の元を離れ
元治元年(1864年)6月8日の収二郎一周忌に於ける片袖の決意まで龍馬の女は佐那一人だ
佐那が預かった坂本家の紋付はこの時はまだ片袖ではなく
文久3年(1863年)2月5日悪意で佐那を犯そうとした岡田星之助を真剣勝負の決闘で斬った龍馬が
同年2月25日京都土佐藩邸で脱藩罪を赦免され佐那と結婚する意志を固め
婚礼用に新調してもらうために坂本家の家紋の付いた古着を見本として千葉重太郎に渡したものだ
千葉重太郎は同日京都福井藩邸で福井藩重臣村田巳三郎を訪れている
六角獄舎の近くにある武信稲荷の榎木に彫ったとされる龍の字はお龍の龍であり
龍馬が木に登ったとされるのは龍馬が起美を嶋原遊郭から救出した後で楢崎家の苦境を憂い
獄舎に投獄されている攘夷派志士から楢崎将作を知る勤王家を探す為とも推測できるが
まだこの時点で龍馬とお龍に恋愛感情は無い
お龍の父楢崎将作は女狂いの中川宮が異常性欲を抑えられずにお龍を陵辱しようとした時に
身を犠牲にしてお龍を守り姦物中川宮に嬲り殺しにされた
龍馬の慶応2年12月4日(1867年1月9日)の乙女への手紙には女狂い中川宮の姦謀を怒りお龍を助け
異常性欲の中川宮を刺し殺さんとしたのが宮中に奉公の経歴がある学識のある中路某の老母とある
梁川星厳の妻の紅蘭のことか
坂本龍馬は慶応2年12月4日の乙女への手紙で因縁の宿敵が中川宮だと認めている
これは紛れも無いdying messageである
勤王家の侍医楢崎将作を嬲り殺しにした中川宮に一橋派から公武合体派への転換を教示したのは
中川宮の侍講である池内大学であり池内は中川宮の侍医でもある
慶応元年(1865年)9月9日に龍馬が乙女に宛てたお龍を紹介する手紙には
頼三樹三郎・梅田源二郎(雲浜)・梁川星厳・春日(潜庵)を名の聞こえし諸生太夫としているが
池内大学の名は朝廷に蔓延る奸臣であるから書かれていない
その池内大学の孫の池内宏は東京大学文学部東洋史専攻の名誉教授である
現在の坂本龍馬暗殺を間違った方向に誘導しているのは天下の東京大学と池内家ということだ
「万国万世に亙りて愧じ有名無実の赤門は潰さんといかんき!
 然もなくば何時迄待っちょってもニッポンの夜明けは来んがぜよ!」
現代に龍馬がいればそう申すだろう
0436坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/20(月) 21:55:15ID:T03+Rq850
楢崎家長男の太一郎は安政4年(1857年)に生まれた
文久2年(1862年)1月20日中川宮の侍医の将作が悪者中川宮に嬲り殺しにされ
その後奸臣池内大学の教示で悪者中川宮は公武合体派となり
その勢力下の青蓮院に置かれた太一郎は楢崎家及び勤王家に対する人質となっていた
悪者中川宮は大獄による隠居前の名を青蓮院宮といい粟田宮ともいう
慶応元年(1865年)9月9日の龍馬の手紙には文久3年(1863年)に数えで7歳になる太一郎の記述が無く
慶応2年12月4日(1867年1月9日)の乙女宛ての手紙では起美を12歳と基点にし「男の子一人」としている
龍馬の手紙によって起美が数えで12歳の文久3年(1863年)は
太一郎が楢崎家の親権の及ばない場所に拉致されていたことが判る
慶応元年(1865年)9月9日の乙女への手紙に
「五歳の男子ハ粟田口の寺へつかハせしなり。」とあるが「つかハせた」のは
光枝と起美を勾引させた「悪者」中川宮である
この「五歳の男子」は同じ手紙での
「此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引きとりて人にあづけおきすくい候。」
の「五歳になる男子」の事で
慶応2年12月4日の乙女への手紙での
「十二歳の妹名きみへ、男子太一郎ハ摂州神戸海軍所の勝安房に頼ミたり。」の太一郎のことである
太一郎が数えで5歳の時の文久元年(1861年)の末に美人のお龍の精神的介護に悶々とする中川宮が
お龍を陵辱するために将作を唆して勤王家に対する人質として勢力圏に置いたのだ
文久3年の龍馬にとっての最大の出来事は悪意で佐那を襲った岡田星之助との真剣勝負の決闘であり
姦謀で次々と若い女達を陥れる中川宮との対決を決意していることを示している
龍馬は元治元年(1864年)8月に中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺でのお龍との内祝言において
平井収二郎の仇である異常性欲奸臣中川宮に対する宣戦布告をして
神戸海軍塾の仲間を引き連れ悪者中川宮の勢力圏から太一郎を奪還した
だが奪還した太一郎は少々普通の子とは違っていた
美人の姉達に似て美形の太一郎は悪者中川宮の勢力圏の青蓮院で人質にされ
2年半もの長期に亘って天台宗青蓮院の男色坊主達に散散おもちゃにされていた
地獄を見た幼い太一郎は救出されたとき最早この世に絶望していた
太一郎は勝海舟の許で再教育し姉の起美の助力でなんとか立ち直っただろう
お龍は「反魂香」で男色坊主達に「さしきれ」にさせられた楢崎家長男太一郎を次男扱いにしている
0437坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/21(火) 21:54:25ID:Fk41r7+w0
姉小路公知の暗殺で三条実美は震撼し同年6月8日に平井収二郎を介錯無しで十文字の切腹をさせる
美人のお龍を陵辱しようとした異常性欲の中川宮を制止したお龍の父の勤王家楢崎将作を嬲り殺して
それを寺社奉行管轄の病死扱いにして中川宮を公武合体派への転向を教示したのは奸臣池内大学で
加尾の陵辱を目論み三条公恭の素行を悪くさせ攘夷派公卿三条家の失墜を謀ったのは九条尚忠だが
武家の未婚の美女を陵辱するために飼い犬の4人の屈強な与力に襲わせて悲壮感を楽しみ
言い成りで無抵抗にされた武家の未婚の美女を商人出の男に犯させ眺めて楽しみ
武家の娘にその商人出の男の子供を妊娠させて屈辱感を味合わせて優越感に浸り
楢崎家の幼い娘達を親元から引き離してその恐怖心を弄び
楢崎太一郎を勢力圏の天台宗男色坊主に弄ばせて喜び
お龍のいる寺田屋に近藤勇と桐野利秋の猛者を送り込んで力攻めでお龍の服従を迫る
これらは全て他人がやった事として責任逃れをして己の異常性欲を隠す点で共通している
この思考は当時でも特異であり他に類を見ず尚且つ
これら全てに関与し指示できる異常性欲のド変態御落胤は中川宮朝彦1人だけだ
余談だが九条尚忠は昭和天皇の母親の祖父であり昭和天皇の妻の香淳は中川宮の孫である
昭和天皇の母方の祖父は女癖の悪い交尾合体の重鎮で(所詮交尾の狐)
昭和天皇を太平洋戦争に導いた妻香淳は女狂いのド変態御落胤の孫である(所詮伏見宮系は御落胤)
また奸臣池内大学の孫の池内宏は東京大学文学部東洋史専攻の名誉教授である
つまりド変態ファシストの国史歪曲プロパガンダの長が東京大学だということだ
姉小路公知暗殺団指揮官はド変態中川宮朝彦に命令された側近の伊勢新刀流師範の有馬範顕である
そしてこの有馬範顕が中川宮朝彦の坂本龍馬暗殺団を統括し
暗殺後桐野利秋を懐柔し薩摩藩を追従させる為に桐野の真似をして態とらしい遺留物を残した
「官武通紀」は女狂いの中川宮を擁護する為の虚構である
中川宮は御落胤兄弟の北白川宮を手懐け異常性欲を満喫する為にニセ天皇になり
御落胤ハーレムを築こうとした
明治6年西郷らが征韓論敗北で下野し国政が岩倉らによって公家の専制になると
中川宮家臣で坂本龍馬暗殺団の一人である山田時章も明治政府で要職に就いた
西南戦争で田中新兵衛の遺志を果たせずに戦死した桐野は無念だっただろう
東武天皇の構想は後に関東軍を従えた満州での御落胤帝國へと引き継がれる
満州黒龍江省には太平洋戦争終結の後に発見された中国最大の油田があるが
関東軍は戦前からその地に油田があることを某中国人(某台湾人)から聞いていた
つまり大日本帝国の太平洋戦争開戦の目的は資源枯渇によるものではなく
天皇と日本国民の玉砕を礎とした満州に於ける御落胤ハーレム帝國の建国である
1941年4月成立(期限5年)の日ソ中立条約は御落胤穴熊帝國の為の囲いである
つまり御落胤宮家は日本を1946年4月までに玉砕させるつもりだったということだ
これが太平洋戦争に於ける伏見宮一族の真実である
0438坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/22(水) 21:54:23ID:Fjhlo38V0
元治元年(1864年)8月1日京に戻った龍馬はお龍を寺田屋に待避させ
中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言をあげ青蓮院姦淫坊主朝彦に宣戦布告する
これに憤慨した中川宮朝彦はまず龍馬の師である勝に狙いを定め
元治元年(1864年)9月神戸海軍操練所に対して過激派の巣窟という嫌疑を掛けさせ
同年11月軍艦奉行を罷免された勝は塾頭龍馬に薩摩を頼るよう指示する
勝は君側の奸の中川宮と真っ向から対決する以上すでに覚悟は出来ていた
「坂本龍馬の空白の4ヶ月」は君側の奸中川宮粛清のための薩摩との共同作戦である
龍馬は中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺での内祝言で朝彦を誘き寄せ朝彦を斬るつもりだった
奸物中川宮は勝の罷免の直後の11月及び12月に
奸物らしき近藤勇と奸物の守衛として就いている桐野利秋をお龍の元に差し向けた
北辰一刀流の龍馬は朝彦自身が痺れを切らしてお龍のもとへ乗り込んでくるのを待ち構えたが
中川宮が公武合体における君側の奸である確証は得ることができた
第一次長州征伐で西郷が穏便に収拾したのは日本の真の憂いは君側の奸にあると勝が諭したからだ
八月十八日の政変から孝明天皇崩御まで君側の奸として朝廷で君臨していたのが中川宮朝彦であり
この間朝彦は保身の為及び異常性欲を満たす為に佐幕派を意のままに動かすことができた
だが五卿の処分は西郷に従い中岡慎太郎の奔走で福岡預かりとなり長州征伐は決着する
龍馬は三条家でシンボルの詰割り強襲で脅した時と同じように
お龍に忍び寄る中川宮を斬るために寺田屋の片隅に潜んでいた
お龍の話では寺田屋には家内の者でも知らない秘密の部屋や階段があったそうだ
その間に新撰組が寺田屋を新撰組の定宿したいと言ってきたがお登勢は従わず
お登勢が新撰組に縛れれていた時も龍馬は隠し部屋に潜み寺田屋は新撰組に休息だけ了承し
龍馬が潜む寺田屋に新撰組がウロウロする状況が続いた
だが公恭からシンボルの詰割りの話を聞いていた朝彦は結局龍馬を恐れ自ら忍び寄ることは無く
佐幕派を動かし元治2年(1865年)3月18日勝の神戸海軍操練所を廃止させる
慶応元年(1865年)4月22日龍馬は西郷とともに薩摩へ向かう

続きは>74
0439坂本弁証人・でん次郎
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2010/12/23(木) 22:15:19ID:xLscci7o0
お龍と加尾が美人でなかったなら明治維新は成す事が出来なかったといえる
文久3年(1863年)6月29日の龍馬の乙女へのせんたくの手紙に於いて
「美人を連れて行ってはいけない」と忠告している
これは素行の悪い奸物の中に加尾のような若くて美人の女を行かせなければ
加尾が酷い目に遭わず平井収二郎が無駄に命を落とすことは無かったという意味だ
もし加尾の代わりに強情で強い婆さんが三条家に行っていたら
公恭の素行が悪くなってもそれを窘め姦淫坊主中川宮に対し付け入る隙を与えなかった
そして龍馬は顔かたちは加尾より上という千葉佐那と普通に夫婦になり
平井収二郎は美人の妹加尾の嫁ぎ先探しに懸命だっただろう
だが武市瑞山率いる土佐勤王党を以ってしても奸物共を打ち破ることは出来ない
長州は久坂も高杉も桂も幕府との戦いで憤死し
薩摩は幕府による圧制のなか孤立し西郷は篤姫奪還を試みるが失敗し小松は無念のうちに息絶え
大久保は君側の奸の御用聞きとなり唐行き達を海外に売り飛ばす手筈で身を削る
姦淫坊主中川宮朝彦は朝廷と佐幕派を牛耳り性欲発散人生を満喫する
美人のお龍は中川宮に強引に陵辱され亡父の跡を追う
国体は「いぬ」に占有され神話とは完全に「別物」になり日本人は誇りを全て失い
志を立てる者はいなくなると以蔵は言う
天台宗青蓮院を勢力下に置く奸物の殲滅は一人ではできない
「一人でやればそれはそれは恐ろしい目を見るぞよ。
 これをやろうと思えばよく人の心を見定めなくてはいかん。」
奸物共は今でも節操のないシンボルの矛先を獲物に向けようとしている
あなたは奸物のシンボルを信じますか
それとも英雄たちの志を信じますか
0443名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/08(火) 06:10:18ID:ppgqskW10
坂本龍馬と薩長同盟真実
1864年10月頃、福岡藩の早川養敬と月形洗蔵によって立案される
同年11月、早川中岡慎太郎と面会、同盟の重要性を説く
同年12月、早川月形の斡旋で西郷隆盛、高杉晋作の会談が実現
その後、早川月形は藩政が急転し失脚し脱落、活動は中岡土方へ受け継がれる
1865年1月、中岡は高杉山縣と会談、二月、中岡は長州藩勇士に対する薩長和解の必要性を説き
京の薩摩藩邸に出入り、4月下関大村益次郎・伊藤博文、桂小五郎らと面談しさらに強く薩長和解の必要性を説いた
同時に土方に坂本龍馬を説得し協力させる
龍馬参戦は1865年の3月辺りに桂小五郎と会談、亀山社中発足と同時進行
5月、西郷に下関で桂と会談することを了解させる
以下、ドラマ小説への世界へ
翌年1866年一月に薩長同盟成立  
結論、中岡土方のおかげでした

0444名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/08(火) 23:41:11ID:yuurn5GT0
薩長同盟を成立させるためには、薩摩から長州に武器を輸送する
ことが必要条件だった。結局それを実行できたのが竜馬だったんだよ。
薩長両方に顔が利き、船を操れる人間が不可欠だった。
理論ができても実行できなければ絵に描いた餅になってしまう。
0445名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/09(水) 10:34:01ID:skqNt1GC0
長州はグラバーと関係を持っていたので
わざわざボッタクリ価格で薩摩から買わずとも
自力でも調達できたんじゃね?
0447名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/10(木) 16:12:55ID:kBcTVcyYO
何たる知識の低さよ。
長崎での正規の武器貿易は幕府の長崎奉行を経由することが条約で定められている。
長州藩には絶対無理だ。
つまり薩摩藩が横流しするしかない。

密貿易をするにも過去に異国船に無差別砲撃をしたので長州の港に来る異国船は少ない。
黒船で直接上海辺りまで出向いて購入しようにも、黒船の購入自体薩摩の横流し頼みだし
結局この時期の長州藩は薩摩藩に依存していた。
0448名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/10(木) 17:23:00ID:mkGAniM6O
>>447が正解

貿易は幕府が独占していた為に幕府の許可無く仕入れるのは不可能
この時点で負け組は長州だから異国が長州に加担するメリットは無い
0449名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/10(木) 23:16:23ID:zKnLt1lG0
>>434
暗殺したのは今井信郎じゃないの? 違うの??
0450名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/11(金) 08:28:49ID:AkZqgnMf0
長州藩は薩摩や坂本の仲介を得る以前から、単独で兵器購入に動いてた筈だが……
梅屋七兵衛とか。
ただ出向いてみたら偽情報だったとかもあったりして、
薩摩の仲介を得ることにより大量の兵器調達が可能になった。
0452名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/12(土) 20:45:26ID:WJmRFzZLP
利益っうたって、借用書を全部商人どもの前で燃やしちゃってるのよ
0455sage
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2011/03/27(日) 21:54:18.49ID:DeinHuja0
難しい話ばかりだなぁ
0456名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/29(火) 21:12:36.94ID:5YsLWeWC0
龍馬は、浪人という立場を一番活かしたポジションで
数々の仕事をしたことには異論はないよね?
0458 【東電 64.5 %】
垢版 |
2011/04/10(日) 15:34:51.69ID:cXeGXjxM0
>>456
武器の運び屋とブローカー業くらいかな
0459名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/11(月) 21:02:23.04ID:aKUiLRkJ0
>>458
>武器の運び屋とブローカー業くらいかな

では、薩長盟約を周旋したことは、浪人のポジションでないと
出来なかったという研究者のほぼ定説は無視なわけね。
0460名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/12(火) 15:04:39.63ID:KtN9W44dO
>>443
おーい竜馬はそんな感じじゃね?
0461名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/17(日) 13:17:23.31ID:YJlFkS8fO
盟約締結に関しての龍馬は潤滑剤的効果であり、それ以上ではないと思うが
居た方がベターではあるがメインではない
龍馬って狂言回しとしては面白いけど、主役として話を作るのは無茶だと龍馬伝で判った
0463名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/17(日) 18:39:48.85ID:GNwRz7iw0
たいした働きもないのに、過大評価され過ぎ
0464名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/17(日) 20:49:56.28ID:Apk3iks50
龍馬暗殺は皆語るが中岡暗殺は語らないのな。犯人は坂本、中岡の両名
の隙をうかがっていたのだ。両者の動向を絶えず把握し両名が2人きりに
なるときを狙った。それがもっとも容易なのは身内の土佐だ。
俺は土佐説を採る。
0465名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/17(日) 21:10:48.33ID:0lgveIkgP
なんで中岡なんか殺す必要あるん?
0467名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/19(火) 21:18:21.08ID:IjQg/JWK0
>>461
>盟約締結に関しての龍馬は潤滑剤的効果であり、それ以上ではないと思う

あのさ、当時藩という自らの所属を捨てた草莽は潤滑剤的効果などという
ものではなく、長州・薩摩藩を周旋する重要なポジションを担う存在で
あったのではないの?

>居た方がベターではあるがメインではない

それだから、↑のようなことになるんじゃないの?
つまり、メインでない存在であるから重要な役割を果たしたという。
0468名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/23(土) 15:10:34.85ID:Hy/0/+OCO
>>467
うーん、言い方が悪かったかな
薩長は龍馬がいなくても、遅かれ早かれ提携してたろうと思ったからそう言ったんだけど
龍馬という存在がいることによって、スムーズに進んだのは確かだと
周旋の役割を担う草奔の役割の重要性は認識してるつもりだよ
まあ確かに自分は薩長側の視点に偏ってる部分はあると思うw
0469名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/24(日) 21:22:51.30ID:ihfABrQP0
>>468
龍馬、英雄史観はもたないというかもてないことは
この20年の幕末史の研究が進み常識になっているけど
薩長盟約までは、間違いなく所属がない浪人のエージェントしての
位置づけが、薩摩にも長州にも利用価値があったわけで、
それから先は歴史を読めば、両藩にとって用無しとまでは
いわないが、龍馬抜きで歴史は進んでいる。
0470名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/29(金) 09:45:06.10ID:0dUpPhqT0
薩長のパシリを難なくこなした龍馬。
0471名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/06(金) 17:47:34.44ID:RmGnS369O
>>468

> 薩長は龍馬がいなくても、遅かれ早かれ提携してたろうと思ったからそう言ったんだけど

第2次長州征伐直前のタイミングしかあり得ないから
『遅かれ』なんて戯言はアホとしか言えない
0472名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/07(土) 19:17:16.30ID:aVdYtoXO0
>>471
>第2次長州征伐直前のタイミングしかあり得ないから
『遅かれ』なんて戯言はアホとしか言えない

それは誤り。佐々木先生の薩摩研究文献と高橋先生の文献を読めば
それは、アホなのはあなたであることは明白。
0473名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/07(土) 19:25:08.62ID:aVdYtoXO0
>>471
追伸です、>>472で書いた佐々木・高橋さんの文献は以下の通り

佐々木克先生の文献は、
「幕末政治と薩摩藩」
吉川弘文館 2004/10

高橋秀直先生の文献は
「幕末維新の政治と天皇」
吉川弘文館 2007/01

読んでからレスして下さい。
0474名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/14(土) 12:43:37.45ID:LMR5sRRZO
>>473

読むのは面倒くさいから
薩長連合無しに第2次長州征伐に長州が勝つ見込みは皆無
薩長連合あっても勝ったのは奇跡なんだから
0475名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/14(土) 16:56:01.77ID:XhVClXBS0
>>474
そんな簡単な解釈はできないように思うよ。
最近の幕末史の研究は、悪く言えば重箱の隅をつっいているのかも
しれないが、単純な先進の薩長史観と旧弊な公儀史観でない歴史を
実証している。とても細かい上にそれを理解するための先行研究も
読まないといけないから、めんどくさいのは違いない。
0477名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/14(土) 18:46:03.45ID:XhVClXBS0
>>476
だから、
佐々木克先生の文献は、
「幕末政治と薩摩藩」
吉川弘文館 2004/10

高橋秀直先生の文献は
「幕末維新の政治と天皇」
吉川弘文館 2007/01

それと、原口清
「王政復古への道」
岩田書店 2007/9

を、読んで下さい。
0480名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/14(土) 20:37:13.39ID:kRP06OWmO
・・虚し
0482名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/16(月) 19:12:37.13ID:DghG0El2O
本の宣伝だったりしてw
0483名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/16(月) 19:25:29.04ID:4piqhP950
>>477
>自分の言葉で語れないなら論外だよ

あのね、自分の言葉って何?
知識がないようだから、最新の研究を紹介した。
ためしに、あなたが自分の言葉とやらで、幕末維新史を書いてみなよ。

>君はテストでも『教科書読め』って解答するのかな?

2chがいつからテストになったんですか?史学で教科書に解答が
あるというのなら、厨房のレベルの話でしょうね。

>>482
はっきりいえば、あなたのような方が読んでも面白くない文献だと
思います。
0484名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/16(月) 19:53:42.28ID:DghG0El2O
>>483
お前、まわりから嫌な奴って言われてると思うぞ、陰でなw
0485名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/16(月) 19:56:52.25ID:4piqhP950
>>484
だからね、あなたが日本史の学術論文をまとめた本を
読んだ経験がほとんどないことは分かったから、まわり云々はイラネ。
0486名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/17(火) 18:39:26.72ID:Xe5y2fMBO
>>483

屁理屈ばかりだね
テスト云々は例えだから
まぁ〜知識自慢したいだけのアンポンタンなのは解ったよ
ただ人の意見に反論レス付ける場合『〇〇〇を読め』で片付けるのが知識人なの?
0487名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/17(火) 22:04:14.14ID:JjEzuB2C0
>>486
>まぁ〜知識自慢したいだけのアンポンタンなのは解ったよ

まぁ〜知識0なのを平気でいるアンポンタンなのは、よ〜く解ったよ
ものすごく複雑な歴史を語るために、必要な文献を紹介し、その上で
議論をする方が間違いなく、歴史の理解が深まる。
あなたのような読みもしないで、屁理屈ばかりなんていうアンポンタンに、
ああだこうだ云われる筋合いはない。
0488名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/17(火) 23:36:58.70ID:RP3kxsbfO
>>487
馬鹿はほっとこうぜ、こういう議論は前提となる知識が必要不可欠で
異論があるならその上で論理を展開しなくちゃってのも解らないクレクレ厨のアンポンタン野郎は構うだけ無駄だよ…
親切なのが裏目に出たな
0489名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/17(火) 23:48:03.14ID:QzgvJ+Hh0
 福島の悲劇は私に戊辰戦争の会津の悲劇を想い起こさせる。会津を含む東北の悲劇と言ってもいい。
 現首相の菅直人は自らを長州人としている。高杉晋作が好きというのも同郷だからという要素が大きい。
小泉純一郎は父親が薩摩の出身であり、やはり長州人を自負する安倍晋三を加えれば、
薩長がいまだにこの国の政治を動かしているとも言える。
 福島を含む東北は「白河以北一山百文」として、その政治から切り捨てられてきたのである。
「薩長軍は官軍にあらず、官賊だ」とする会津の人たちがいまも薩長に怨みを深くしているのは、
彼らが戦いで死んだ者の埋葬を許さなかったからである。
 賊軍すなわち犯罪者という理由で、官軍は会津藩士の遺体の埋葬を禁じた。そのため、
放置された遺体は狐や狸や野犬に食いちぎられ、烏につつかれたりして惨憺たる有様となった。
一部は白骨化し、一帯は死臭ただよう地獄と化したという。そこを通る者は鼻をふさがなければ歩けなかったといわれる。
 かの白虎隊士の遺体も同じだった。
 ある村の肝煎があまりにかわいそうだと哀れんで、ひそかに埋葬したが、密告によって肝煎は捕えられただけでなく、
遺体は掘り起こされて、ふたたび放置されてしまった。
 一方、官軍という名の薩長軍は会津城下の寺に墓地を設けて埋葬している。
 あるいは、こじつけと言われるかもしれないが、震災に対する復興援助の遅れや、
原発に対する信じ難い無為無策を見ていると、第二の東北処分ではないかとさえ思われる。
東北出身の私としては、てめぇら、本気で助ける気があるのかと怒鳴りつけたくさえなるのである。
(佐高 信)
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1937
0496名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/20(金) 21:50:31.88ID:JMEP/Rk/O
知識人さまはアホなど相手にしないのがいいね
話のわかる親密なお友達とだけ語ってたらいいんじゃないかな
0497名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/26(木) 19:19:22.84ID:2VRO/A2T0
どのスレも会津を持ち上げ長州を下げてるが
会津観光史学洗脳者は会津観光史学を肯定出来ないし
アンチ会津は史料で会津観光史学を叩いてるから
会津が下がるのは当たり前。会津のコリアン気質も明るみになったしな。
0498名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/27(金) 00:24:46.02ID:tP/n/EHzO
はいはい
0499名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/01(水) 08:28:30.17ID:jKrbUYOp0
まだ同じような妄言をねちねち繰り返しているのかな?さすが二枚舌の会津人だね
会津武士道とは、女々しくて残尿感の残る恥ずかしいものだとわかったよ
日本人を洗脳して玉砕させたわけだ
同じ悲劇を繰り返さないようアジアの皆さんやユダヤの人々に全体主義の鏡だったことを知ってもれえば?

戦後の教育改革で、欧米諸国は黒船来航(植民地政策)が明治維新のきっかけになったことに不快感をもっていたようだね
会津観光史学は、御用学者に便乗してプロパガンダ活動か?
俺は、ノンポリで政治的ことには一切関わりたくないからバイバイ
会津人よパンパースをきちんとはけよ。漏れているぞwww
0500名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/01(水) 12:48:31.27ID:4CrQLjfmO
へー
0502名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/08(水) 15:41:59.54ID:ZE8r73QZ0
「竜馬がゆく」がよくもわるくも長く日本人の竜馬観ひいては幕末観
に影響与えてきたからな。
志をもった青年達が革命を起こしました、みたいな。
いやいや、脱藩浪士にあれだけの活躍ができるわけなくて。
奇跡でも魔法でもない。種や仕掛けがあるんだ。
坂本の海援隊が土佐商会の外郭団体だったのはなぜか?
後藤と坂本が仇怨を越えて提携した?ないない。
0503名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/08(水) 21:56:31.91ID:ZMF5iC+I0
>>502
>いやいや、脱藩浪士にあれだけの活躍ができるわけなくて。
奇跡でも魔法でもない。種や仕掛けがあるんだ。

ああそうかね、じゃあ種や仕掛けは何だったんだ?
0504名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/23(木) 10:55:49.10ID:WimzZ16o0
種や仕掛けは亀山社中だったり海援隊だったり三菱だったりだろうね。

ただ、薩長同盟の言いだしっぺは龍馬でなく饅頭屋長次郎だろうな。
長崎で伊藤と井上を小松帯刀に紹介して匿ってるし、
グラバーら外国人商人から船や銃器を薩摩名義で代理購入したあと
長州の窮状を井上の口から薩摩でしゃべらせる段取りなどは全部この大泉洋がやってる。
毛利親子は島津親子に饅頭屋のおかげで助かった、使える奴だと手紙で褒めてるくらい。
薩長同盟に必要だった潤滑剤というかクッションは商利・商業主義で
商人出身の大泉洋がこの能力に長けてて、才谷屋の端くれがそれを理解したんだろ。
まあ小松帯刀あっての饅頭屋と才谷屋、長州の総和が薩長同盟だと思うが。
0505名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/24(金) 23:05:02.76ID:cqWrazK20
NHK、2013年の大河は福島が舞台 新島襄の妻が主人公
0506名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/26(日) 11:46:29.42ID:bkwQ3QYx0
>>504
こういうことを平気で書く人がいるのが幕末史の特徴。
中身については、種や仕掛けについて答えになってない。
けど、本人は分からない。はぁーあ…
0507名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/26(日) 13:21:14.87ID:p4wLkwRDO
×幕末史の特徴
○2chの特徴
0508名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/27(月) 03:30:37.53ID:Up4nWIYI0
反証や反論なしに
てめーの思い込みだけで「答えになってない」って書いて捨てるのも
2chの特徴だわなwww
0511名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/27(月) 09:30:02.10ID:QDgcR/H60
>> あるいは、こじつけと言われるかもしれないが、震災に対する復興援助の遅れや、
原発に対する信じ難い無為無策を見ていると、第二の東北処分ではないかとさえ思われる。
東北出身の私としては、てめぇら、本気で助ける気があるのかと怒鳴りつけたくさえなるのである。
(佐高 信)

・・・このオッサンの芸風も変わらんな。
0512名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/06/27(月) 10:38:45.90ID:do9D8gMGO
このおっさん著述家、評論家だろ
芸風って何だよw
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