内務省
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第二次世界大戦まえ、日本の内政を一手にひきうけていた内務省。
警察をつかって国民を統制していたというマイナスの評価がほとんどだが、都道府県をつうじて効率のよい行政をおこなっていたとの評価もあるが実態はどうだったのか。 ところで戦前の警視庁は内務省の外局で良いのでしょうか?
後、戦前の警視庁と道庁・府県警察部と
現在の警視庁と道府県警察本部の格の違いを比較すると
戦前の方が差が大きかったと思うんですが、いかがでしょうか? >122
>現在の警視庁と道府県警察本部の格の違いを比較すると
>戦前の方が差が大きかったと思うんですが、いかがでしょうか?
制度的にどうなっていたのかまでは知りませんが、当時の警視庁は
現在の姿とはその在り方が大きく異なっていたようです。
当時の他府県の警察組織が、各府県知事の下部組織であるのに対して、
警視庁は内務省直轄の組織です。
これも私が勉強している大正期から昭和期のみの話かもしれませんが、
内務大臣が直接指揮する(直接の補佐を受ける)役職のうちの一つとして、
警視庁のトップの警視総監は内務次官・警保局長と並べられており、
この三つの役職は「内務三役」と呼ばれて、内務官僚にとって
出世スゴロクの到達点のような位置にあったようです。 >>121
お答えありがとうございます。
なるほど、大正から昭和にかけてが専門なのですね。
>>114で簡単に述べた通り、私の関心は、
官界における戦前と戦後とでの警察組織の位置についてなのですが、
>>120でも言及したように、単純な比較というのは難しいと思います。
戦前では、内閣総理大臣>内務大臣>警視総監、という図式でしたが、
戦後は、内閣総理大臣>国家公安委員長>警察庁長官>警視総監、という図式です。
特に異なる点は、警察行政を管掌する警保局長が、警視総監の上司ではないという点です。
>>123
内務三役は、何れも内務大臣の下僚であって、協力関係であっても上下関係ではありません。
この関係は、海軍三長官と関係に似ているかもしれませんね。
内務三役とは異なり、軍令部総長と聯合艦隊司令長官を、海軍大臣と並べているのは大きく違いますが、
警視総監とGF長官との共通点は、
国内最大の実働部署の長であること、(指揮下にない部署も多いこと、)
直属の上司ではないものの、警保局長、軍令部総長の強い影響下にあること、
一般的には、大衆からも属吏からも人気の高い官職であったこと、でしょうか。 >>124
>大正から昭和にかけてが専門
ありていに言うと、明治期までの官僚組織は薩長藩閥の影響力があまりにも強く、
その藩閥の中核であった陸海軍の存在が圧倒的で、内政を管掌する内務省は
権力ゲームのプレイヤーにとっては重要な存在ではなかったんですよね。
山縣・桂・寺内と続いた陸軍閥と、山本・加藤らの海軍閥の存在はやはり大きい。
>戦前では、内閣総理大臣>内務大臣>警視総監、という図式でしたが、
>戦後は、内閣総理大臣>国家公安委員長>警察庁長官>警視総監、という図式です。
これについて、法制度的な問題とは別にして、運用的な側面や実態に関する
理解も重要なのではないかと思います。
戦前の組織としては内務大臣の法的な地位は、原則として明治憲法体制のもとに
一貫して変化してませんが、大正デモクラシーによる揺り返しによって選挙結果を
受けた「民意」というものが重視されるようになってから、選挙を管掌する内務省の
存在がそれまでよりも重視されるようになったという経緯があります。
政府が予算を執行する上で、議会の賛同を得なければならないために衆議院における
政党への対応が重視されるようになり、その「議会の賛同を得る」という必要上から
政党の党首が内閣総理大臣として指名されることが必然視されて行き、政党内閣制が
軌道に乗ってきたという流れがあって、内務大臣が「副総理格」として遇されるように
なってきたものそういった事情が預かってのことです。
また、戦後の警察組織では法制度的には警察庁長官と警視総監では長官の方が
上になっていますが、警察キャリアにとっては両者を「同格」と感じている
人も多くいるようです。
後藤田正晴の回顧録に書いてあったと記憶していますが、警察庁長官と警視総監の
ポストはそれぞれが概ね2年間程度在職し、ある年度の最優秀者が長官になると、
その次の年度の最優秀者は総監になり、またその次の年度の最優秀者が長官に
なるといった具合に割り振られるような慣例があったそうです。
キャリア官僚にとっては入省年次が重要視されるので、昭和50年入省組とか
53年入省組とかの「同期」同士がライバルとしてしのぎを削り、出世争いから
脱落した人間は定年前に退官したり天下ったりして少しづつ減ってゆき、
最後まで生き残った人間が長官または総監というポストを手にする、という形。
その場合どちらのポストに就くかというのはその時どのポストの方が先に空くか
どうかという時の運みたいなものになってしまうので、意識の上ではこの二つは
「同格」みたいな感じになるそうです。
また、組織上は長官の方が格上であったとしても、総監の方が入省年次で上だったり
すると後輩である長官の方が遠慮をする、みたいなこともあったりするそうなので
やはりこの辺からも「どちらが格上」とは一概に言えないように思います。 >>124
>内務三役は、何れも内務大臣の下僚であって、協力関係であっても上下関係では
これについても注意が必要です。
内務三役はそれぞれに内務大臣に直結していて、宮中席次でも同格に近いですが、
制度上は警保局長も警視総監も、内務次官の下になります。
国務大臣としての内務大臣の下に、事務方のトップとして内務次官があり、その下に
組織上は並列の存在として、警保局長・地方局長・土木局長・社会局長などが
存在していました。
警保局長は警察行政系統のトップであって、内務省内では地方局(後の自治省)系統の
勢力もそれなりの存在感を持っていました。
むしろ各県の知事として誰をどこに配置するかに関する決定権を持っていた地方局は
「自分たちの方が内務省の本流だ」という意識を持っていて、警保局系統の内務官僚に
対する対抗心を持っていたとも伝えられています。 >>125-126
ありがとうございます。
現代の、系統がはっきりしている、警察庁長官と警視総監ですらそういった様子では、
戦前の様子は推して知るべし、といった感じですね。
内務三役についての示唆は、なるほど、と思う反面、疑念があります。
そもそも、次官は局長の上司(ライン)なのでしょうか、大臣の幕僚筆頭(スタッフ)ではないのでしょうか。
おそらく何事につけ、決裁には大臣に加えて次官も必須でしょうが、
明治の官制では、局長は資格任用で、次官は政治任用でした。
省務に熟知していなけらば務まりませんから、
当時から資格任用に準じて専門的知見のある者を登用したとは思いますが、
次官について運用と議論が進んだ結果、大正期に、政務次官と事務次官が分化します。
私はどちらかというと、元来の次官の性格は、むしろ政務次官の方に受け継がれたように思います。
現在でも、次官が局長の上司に当たるのかというのは、些か疑問です。
というのは、内局の筆頭という位置で、大臣官房があり、官房三課長というのが居ます。
殆どの省庁で官房長を置いていますが、これは任意のことで、法制上必須ではなく、
官房長を置かない場合、大臣官房は次官・次長が統率します。
実務上、次官と局長との間で齟齬があってはうまくないので、
省庁内では、次官も全ての事案に関係するでしょうが、
例えば、省庁内の小事であれば大臣に諮らずとも、次官の権限のみで何か指揮・監督できるのでしょうか。 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり >>127
>次官は局長の上司(ライン)なのでしょうか、大臣の幕僚筆頭(スタッフ)ではないのでしょうか。
次官は局長の上司かという点に関しては、これはほとんどの場合
「上司である」といってしまって間違いないと思います。
戦前の場合、陸海軍省のみは現役武官制があるのでトップの大臣までが
資格任用だったため、陸海軍の次官は大臣の補佐役という位置づけでしたが、
それ以外の省の場合は大臣が政治任用で就任するため、着任する省の
こまごました取りきめや慣行についての知識が不足している場合があるので、
事務方のトップである事務次官が実質的なその省のトップとなっていました。
この点は現在の省庁にもそのまま受け継がれているシステムです。
どの省庁でも、事務方トップである事務次官がキャリア官僚にとって出世双六の
「上がり」となっていて、彼らにとってその省の形式上のトップである大臣は
あくまで「飾り物」程度にしか思っていない場面の方が多いと思います。
もっとも、これはあくまで制度上の問題では無く「力関係」「意識上の問題」
なので、例外はいくらでも起こり得ます。
大蔵事務次官経験者の池田隼人が蔵相になるような事例もあった様に、
ある省庁で経験を積んだ官僚が政治家に転身し、大臣になって
その省のトップに座るようなことが起こることもあります。
その場合は、大臣が文字通りその省庁のトップとして行政を切り盛りすることに
なるので、事務次官は「事実上のトップ」ではなくなり、文字通りの下僚に
なる事も有ります。 >>127
>次官について運用と議論が進んだ結果、大正期に、政務次官と事務次官が分化します。
ちょうどこの時期が、明治期の藩閥政府から近代的な官僚制度への整備が進む頃です。
伊藤博文や山縣有朋を中心とした薩長出身者によって構成される藩閥に依拠する
維新官僚が組織する政府は、大隈重信や板垣退助らの主導してきた自由民権運動に
出自を持つ政党政治家が蟠踞する議会への抜きがたい不信感を持っていました。
明治憲法には「予算の成立には議会の賛同を得なければならない」との規定があり、
彼らが望む陸海軍の軍備の拡張(艦艇や装備の更新など)や、外交の専門化や
高度化への対応(大使館や公使館の設置を要する国の増加)、殖産興業化を進める
ための内政の充実(港湾整備、道路拡幅、鉄道延伸など)といった明治国家の建設に
とって重要な施策は、どれも新たな予算案を起案して対応しなければならないのですが、
国民の代表として選出されてきた議会は「税金を安くしろ(予算を減らせ)」という
要求しか出さないので、予算案を作成する政府とは常に対立していました。
そうした対立の中で、予算案を否決された政府による議会の懲罰解散が行われたり、
激しい選挙戦を経てそのたびに政党の伸長が起こるという結果を受け、双方が
歩み寄りの姿勢を見せていくことになります。
政府は、政党員に行政の実務に携わらせて予算がなぜ必要なのかを理解させることで
国家運営を行う上での現実を突きつけることを目的として「政務次官」という制度を
導入します。
政党の側からしてみれば、要求の一つでもある「国政への参加」「行政上の権限の
獲得」という果実を得られるという旨みもあってこの制度を受け入れますが、
その果実の分配をめぐって政党同士が仲間割れを起こすなんていう事態も起きました。
けれども、総体としてこうした運用の中から政党の中でも政治の実務に関する
知識が積み上げられてゆき、単なる政府への反対勢力にすぎなかった政党による
政権運営というのが現実味を増してゆき、原敬による事実上の政党内閣の
発足へと至るわけです。 続き。
また、この過程で官僚内部でも質的な変化が起こり、それまで薩長出身者によって
占められていた官界の上層部が年齢等による淘汰が起こってきます。
これらの人々は出自による恩恵を得ていたこともあって実務能力や行政手腕には
欠けるところがあり、帝大を卒業して高等文官試験をパスして入省してきた
実務経験豊富な官僚たちが、その穴を埋めるようにして各省の次官や局長ポストを
占めるようになって行きました。
こうした高文組は、それまで自分たちを押さえつけて官界を支配していた薩長藩閥
への敵愾心を抱いていたこともあって、徐々に政党勢力へと接近してゆきます。
やがて「議会対策としての政党操縦」という域を脱して、政党に入ってその中から
政党自体を変革し、官僚として求める国家政策を実現するために、政党の力を
拡大してゆこうという人々が出始めます。
こうした中で、政務次官と事務次官との人的な交流が行われ、局長や事務次官の
経験者が政務次官に就任したり、政党員の政務次官が官僚から実務に関する
知識や経験を吸収したりことで、両者の勢力が徐々に融合して「国家統治機構」が
形作られるということになってゆきました。
こうした流れは清水唯一朗の著書がとても分かりやすいと思います。
『近代日本の官僚―維新官僚から学歴エリートへ』(中公新書)
読みやすいですし、値段も手ごろです。
また同じ著者のこちらの本は、学術書ということもあって読みにくさもありますが、
大臣や次官の関係がどのように変化してきたかを徹底して掘り下げているので、
きっと読みごたえがあると思います。
『政党と官僚の近代 日本における立憲統治構造の相克』 (藤原書店)
目次
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=799
書評
http://www.tkfd.or.jp/research/project/news.php?id=33 >>129-131
いろいろ御教示くださり、ありがとうございました。勉強になりました。
御紹介いただいた書物も、後日読んでみたいと思います。 昔の警察は犯罪者を取り締まる司法警察の側面よりも
営業の許認可等を司る行政警察の面に比重が大きかったから。
色々地位を比べているけど、比較対象の性格が今とは異なるのでは? >>133
実際その通りで、厳密な意味では行政機構そのものが改変・変容してるから
戦前と現在の組織との、単純な比較は基本的には無理があるというのが正確だろうな。
ただまぁ、厳密な意味での比較類推は出来なくとも、大雑把な見取り図みたいなものは
提示し得るだろうし、それに意味が無いってことも内とは思う。
戦前の陸海軍と戦後の自衛隊との違いほどの大きな性格の違いがあるってことでもないしね。 内務省また復活させるんだよねwwwガチで
内務省は戦後70年の悲願だったからここまでくればやるだろ
よく誘導される日本は独裁方のほうが〜とかいうけど、それって内務省のこと
そもそも共産党自体も反発する気があると思えないもん
日本人は心理的に戦後ずっと共産主義、開発独裁、チャイナの共産党の指導される政治を羨んできた
戦後それだけはずっと羨んで北からそれを作るのは国民の悲願だ 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
AX4UT いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
NPJ ( ゚д゚ )
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 ̄ ̄ ̄ 内務省が今もあればやはり「デジタル局」を設置したのかね 川瀬秀治の回想で大久保亡き後伊藤内務卿時代の内務省では、
内務卿室に西郷従道や中井弘が頻繁に出入りしてた挙句、
夕べの話で散々盛り上がったりして全てが奢侈に流れたと嘆く話があったが、
調べてみると登場人物みんな当時三十代後半なんだな
それぐらいの年齢で金と権力あったらそりゃムリもねぇべ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています