内務省
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第二次世界大戦まえ、日本の内政を一手にひきうけていた内務省。
警察をつかって国民を統制していたというマイナスの評価がほとんどだが、都道府県をつうじて効率のよい行政をおこなっていたとの評価もあるが実態はどうだったのか。 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり >>127
>次官は局長の上司(ライン)なのでしょうか、大臣の幕僚筆頭(スタッフ)ではないのでしょうか。
次官は局長の上司かという点に関しては、これはほとんどの場合
「上司である」といってしまって間違いないと思います。
戦前の場合、陸海軍省のみは現役武官制があるのでトップの大臣までが
資格任用だったため、陸海軍の次官は大臣の補佐役という位置づけでしたが、
それ以外の省の場合は大臣が政治任用で就任するため、着任する省の
こまごました取りきめや慣行についての知識が不足している場合があるので、
事務方のトップである事務次官が実質的なその省のトップとなっていました。
この点は現在の省庁にもそのまま受け継がれているシステムです。
どの省庁でも、事務方トップである事務次官がキャリア官僚にとって出世双六の
「上がり」となっていて、彼らにとってその省の形式上のトップである大臣は
あくまで「飾り物」程度にしか思っていない場面の方が多いと思います。
もっとも、これはあくまで制度上の問題では無く「力関係」「意識上の問題」
なので、例外はいくらでも起こり得ます。
大蔵事務次官経験者の池田隼人が蔵相になるような事例もあった様に、
ある省庁で経験を積んだ官僚が政治家に転身し、大臣になって
その省のトップに座るようなことが起こることもあります。
その場合は、大臣が文字通りその省庁のトップとして行政を切り盛りすることに
なるので、事務次官は「事実上のトップ」ではなくなり、文字通りの下僚に
なる事も有ります。 >>127
>次官について運用と議論が進んだ結果、大正期に、政務次官と事務次官が分化します。
ちょうどこの時期が、明治期の藩閥政府から近代的な官僚制度への整備が進む頃です。
伊藤博文や山縣有朋を中心とした薩長出身者によって構成される藩閥に依拠する
維新官僚が組織する政府は、大隈重信や板垣退助らの主導してきた自由民権運動に
出自を持つ政党政治家が蟠踞する議会への抜きがたい不信感を持っていました。
明治憲法には「予算の成立には議会の賛同を得なければならない」との規定があり、
彼らが望む陸海軍の軍備の拡張(艦艇や装備の更新など)や、外交の専門化や
高度化への対応(大使館や公使館の設置を要する国の増加)、殖産興業化を進める
ための内政の充実(港湾整備、道路拡幅、鉄道延伸など)といった明治国家の建設に
とって重要な施策は、どれも新たな予算案を起案して対応しなければならないのですが、
国民の代表として選出されてきた議会は「税金を安くしろ(予算を減らせ)」という
要求しか出さないので、予算案を作成する政府とは常に対立していました。
そうした対立の中で、予算案を否決された政府による議会の懲罰解散が行われたり、
激しい選挙戦を経てそのたびに政党の伸長が起こるという結果を受け、双方が
歩み寄りの姿勢を見せていくことになります。
政府は、政党員に行政の実務に携わらせて予算がなぜ必要なのかを理解させることで
国家運営を行う上での現実を突きつけることを目的として「政務次官」という制度を
導入します。
政党の側からしてみれば、要求の一つでもある「国政への参加」「行政上の権限の
獲得」という果実を得られるという旨みもあってこの制度を受け入れますが、
その果実の分配をめぐって政党同士が仲間割れを起こすなんていう事態も起きました。
けれども、総体としてこうした運用の中から政党の中でも政治の実務に関する
知識が積み上げられてゆき、単なる政府への反対勢力にすぎなかった政党による
政権運営というのが現実味を増してゆき、原敬による事実上の政党内閣の
発足へと至るわけです。 続き。
また、この過程で官僚内部でも質的な変化が起こり、それまで薩長出身者によって
占められていた官界の上層部が年齢等による淘汰が起こってきます。
これらの人々は出自による恩恵を得ていたこともあって実務能力や行政手腕には
欠けるところがあり、帝大を卒業して高等文官試験をパスして入省してきた
実務経験豊富な官僚たちが、その穴を埋めるようにして各省の次官や局長ポストを
占めるようになって行きました。
こうした高文組は、それまで自分たちを押さえつけて官界を支配していた薩長藩閥
への敵愾心を抱いていたこともあって、徐々に政党勢力へと接近してゆきます。
やがて「議会対策としての政党操縦」という域を脱して、政党に入ってその中から
政党自体を変革し、官僚として求める国家政策を実現するために、政党の力を
拡大してゆこうという人々が出始めます。
こうした中で、政務次官と事務次官との人的な交流が行われ、局長や事務次官の
経験者が政務次官に就任したり、政党員の政務次官が官僚から実務に関する
知識や経験を吸収したりことで、両者の勢力が徐々に融合して「国家統治機構」が
形作られるということになってゆきました。
こうした流れは清水唯一朗の著書がとても分かりやすいと思います。
『近代日本の官僚―維新官僚から学歴エリートへ』(中公新書)
読みやすいですし、値段も手ごろです。
また同じ著者のこちらの本は、学術書ということもあって読みにくさもありますが、
大臣や次官の関係がどのように変化してきたかを徹底して掘り下げているので、
きっと読みごたえがあると思います。
『政党と官僚の近代 日本における立憲統治構造の相克』 (藤原書店)
目次
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=799
書評
http://www.tkfd.or.jp/research/project/news.php?id=33 >>129-131
いろいろ御教示くださり、ありがとうございました。勉強になりました。
御紹介いただいた書物も、後日読んでみたいと思います。 昔の警察は犯罪者を取り締まる司法警察の側面よりも
営業の許認可等を司る行政警察の面に比重が大きかったから。
色々地位を比べているけど、比較対象の性格が今とは異なるのでは? >>133
実際その通りで、厳密な意味では行政機構そのものが改変・変容してるから
戦前と現在の組織との、単純な比較は基本的には無理があるというのが正確だろうな。
ただまぁ、厳密な意味での比較類推は出来なくとも、大雑把な見取り図みたいなものは
提示し得るだろうし、それに意味が無いってことも内とは思う。
戦前の陸海軍と戦後の自衛隊との違いほどの大きな性格の違いがあるってことでもないしね。 内務省また復活させるんだよねwwwガチで
内務省は戦後70年の悲願だったからここまでくればやるだろ
よく誘導される日本は独裁方のほうが〜とかいうけど、それって内務省のこと
そもそも共産党自体も反発する気があると思えないもん
日本人は心理的に戦後ずっと共産主義、開発独裁、チャイナの共産党の指導される政治を羨んできた
戦後それだけはずっと羨んで北からそれを作るのは国民の悲願だ 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
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念のためにのせておきます
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NPJ ( ゚д゚ )
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 ̄ ̄ ̄ 内務省が今もあればやはり「デジタル局」を設置したのかね 川瀬秀治の回想で大久保亡き後伊藤内務卿時代の内務省では、
内務卿室に西郷従道や中井弘が頻繁に出入りしてた挙句、
夕べの話で散々盛り上がったりして全てが奢侈に流れたと嘆く話があったが、
調べてみると登場人物みんな当時三十代後半なんだな
それぐらいの年齢で金と権力あったらそりゃムリもねぇべ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています