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徳川慶喜を語ろう
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2010/11/19(金) 02:50:09ID:6cYX6mCU0
まともに語れる場が欲しかったので立てました。
徳川と皇室ともにトップクラスの血を引き、強烈父上への世間の憧れ憎悪をそのまま引き継いでしまい、
思考過程を一切口に出さないままいきなり行動にでてしまう徳川最後の将軍について語りましょう。
周辺人物の話題もOK。
ヘタレ臆病者等々の罵詈雑言には適当にお相手を。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/07(月) 15:15:31ID:V4FBse+S0
最後の将軍に亀之助を推す声もあったわけだが、
実現してたら江戸城も江戸の街も燃えていたかも。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/07(月) 15:40:41ID:m+l3T37+0
亀之助が15代将軍になっていた場合は、一会桑は尊王攘夷を掲げて幕府と対立しただろう。
(実際は家茂の死後慶喜が将軍になったので、幕府の政策に一会桑が擦り寄り朝廷の怒りを買い、
尊王攘夷派は薩摩を中心にまとまってしまった。)

立場が正反対のところを自陣営に取り込むと、それまでの味方が敵になる場合もある。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/09(水) 09:14:56ID:qUsWIwk20
「家康の再来」とは買いかぶりも甚だしい。
泉下の家康も苦笑しているであろう。
慶喜が優れているのは保身術だけ。
現代の官僚やサラリーマンと同じ。
0107名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/09(水) 09:54:34ID:wB76d3A+0
「家康の再来」と言ったのは誰でしょう?
自称したわけじゃないし、批判が的外れ。
保身術だけの男にしかみえない程度の知識しかないんだね。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/09(水) 22:39:28ID:PcFqDN0/O
将軍職を固辞し続け、大政奉還をしたあとも、敵視される
後にできたのは薩長の独裁政権
悲しいねえ
0110名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/10(木) 01:05:27ID:vjNJV6o90
慶喜公の感慨…慶喜公はこのような事態を嘆き、こう聞かれた…
公「幕府に西クや大久保に匹敵する人材は居るか?」
板倉「誰一人もおりません!」
公「このような状態で勝てると思うか?」
板倉「思いません!」

慶喜の恭順は、人材無き幕府側にとって、まさに当を得た行為であったろう。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/10(木) 10:01:27ID:TXCO2P1H0
>>91
古色蒼然とした先鋒の井伊勢、榊原勢が半日も持たずに
敗走しただけで、色を失う。
小笠原壱岐守同様、とても武人と呼べるような代物ではない。
0112名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/11(金) 21:23:48ID:cqiPEfRg0
>>>111
慶喜は武人じゃないだろw
どちらかと言えば政治家

武人に政治をやらせるとロクな事にはならんよ
太平洋戦争時、軍人が政治を握ったが、原爆落とされるまで負けを認めなかった。
あれが武人の素晴らしい姿かねw?
負けを負けと悟り、早期に講和に持ち込む。
最悪の負け方をするのが素晴らしいとは思わんね。
慶喜は最良の負け方をした人さ。
0114名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/12(土) 20:58:26ID:xXgLH+Kq0
戦わずに負けを認め降伏した人;慶喜→江戸は戦火から救われ英雄と庶民から感謝されている。
戦っても負けを認めず意地を通した人;会津藩主松平容保→会津はおろか全奥州を戦火に巻き込み、庶民は家や家財を失う。
戦後、会津藩主が江戸へ送られる際、農民や庶民達は仰ぎ見る事も無く、無視して畑仕事をしていたとイギリス人の記録にある。

会津藩の徹底抗戦の讃美が始まったのは、太平洋戦争時の「国民皆兵・国民総特攻」などと民衆を戦争へ駆り立てる為の大衆扇動の為、
陸軍など軍部の政略によって始められた。戦後は、会津観光の目玉として、つまり”金儲け”の為に讃美されている。いわゆる観光史学という奴だね。

0115名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/12(土) 23:51:19ID:akGE9DNH0
 
0116名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/12(土) 23:59:18ID:gcnDmoTO0
>>112
たしかに慶喜公は良い負け方をされたのかもしれない。
あれ以上ごたごたしていたら、列強の植民地確実。

大東亜戦争の敗戦は、薩長終了という国内問題だったの
かもしれませんね。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/13(日) 09:20:19ID:fW5BWwVX0
>>116
薩長閥は、バーテンバーテン密約によって東北系軍人によって打倒消滅してますよw
山県有朋が作った長州陸軍閥の硬直化を打倒したまでは良かったのですが、
その後、どう陸軍を改革するのか?政治家との折り合いが上手く行かず、軍閥化して行く結果になった。
太平洋戦争時は、東北系軍人が薩長閥の後に作ったこの軍閥が実権を握っていました。
それ故に、会津武士道の讃美や美化を何の抵抗もなく国策として広める事ができたのですよ。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/13(日) 09:33:14ID:fW5BWwVX0
さらに補足すると、この陸軍軍閥という奴は複数あって、中国に駐屯する日本陸軍閥が2〜3個、
日本国内に陸軍中枢を握る軍閥がいくつかあります。
彼らの協調性が良けれまだしも、協調性がまるで無く、結果中国大陸で日本の為ではなく自己の出世と権力拡大
の為に満州事変といった事件を起こし、日本の議会や政治家を無視して戦争に持っていきます。
戦争が起これば、軍事費が増え、自分の軍隊も増強されるからです。それは軍閥のリーダー達の権威権力と戦力の増強につながりますから。
戦時という事で、政治家よりも軍人の発言力が高まり、日本の議会はこれを抑える事ができませんでした。
その結果として、日中戦争という大戦争に発展していきます。
これを目視しなかったのが米国ですね。
米国は、日本に手を引けと要求しますが、日本から離れた大陸にいる軍閥たちを、日本国内にいる政治家たちはどうする事もできません。
そして、最後には”どうせ止められないならば、むしろ進んで戦争を起こす”という方向に突き進みます。
その時の総理大臣が東条英機。陸軍閥の大ボスだったのです。政治家達は、陸軍に政治の大権を渡し、
”陸軍の起こした結果に対し、陸軍が責任を取れ”という方針で、政治を放り出したのです。
その結果はご覧の通り、日本史上最悪の負け方をしてくれたという訳です。
0120名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/13(日) 11:43:33ID:yQv4/hwZ0
>>117
あっただろ。勉強しろ。
0121名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/13(日) 12:02:17ID:fW5BWwVX0
>>120
ねぇよ。残骸が残ってただけだろw。勉強しろ
0122名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/13(日) 12:59:11ID:yQv4/hwZ0
>>121
残骸あったじゃねーか。勉強しろ。
0123名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/13(日) 17:59:02ID:nrftHR/c0
最良の負け方でも鳥羽伏見の軍事衝突が無ければ
新政府に迎えられその中心として牛耳れただけに本人は悔しくて仕方
なかっただろうな
0124名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 03:33:28ID:Dxq9iOdH0
だけど慶喜が会桑の軍事力をたのみにしてた節があるのも事実だからね・・
慶喜に固有の軍事力があったら、と考えることがある。あったとしてもあの状況下で上手く統率できたかどうか分からないけど、独自資源が水戸本国時党だけ、というのはどうあっても心細い。
渋沢たち一橋家家臣たちが憂い、朝廷に主君に領地を与えてくれるよう嘆願するも、幕府の猜疑のために×。
慶喜直属の一橋家家臣たちは、幕末の京都をどのような思いで過ごしてたんだろう。
主君慶喜へのいわれのない、憎悪に満ちた非難中傷は日常茶飯事。殺された仲間達も複数。

>>110
「昔夢会筆記」からだね。このとき風邪ひいてた。
実際には人材はいつの世でもいる。幕府は人材登用がうまくできなかった。
家柄・序列の壁がどうしょうもなく錆び付いてたんだよ。最早修復すればどうにかなる、という段階を超えて、ね。

>>100
息子に似てる・・・ いや、慶喜が父親に似てるのか。
全く似てない部分が多いが、似てる部分もやはりある。親子だなーー
0125名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 04:10:23ID:bvybJyZPO
軍事衝突がなければって、無理な辞官納地を迫り、暴力的な挑発を繰り返してきた相手たぞ
薩摩に国なんて視点はないね。奪権のみ。錦の旗も汚す
0126名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 09:33:35ID:23mVXyvc0
焼かれた
0127名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 09:40:59ID:23mVXyvc0
連投しすぎで焼かれたのでサヨナラだノシ
0128名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 14:23:59ID:csK9IZY70
>>125
まぁ慶喜も、そんな感じで迫られたんだろうけどw
しかしあそこで堪えていれば、新政府での中枢を占められる可能性のが大きかった訳で。
威信云々で言っても、薩摩の江戸藩邸はもう焼いてんだから、あとは使者出して詰問で十分だった。
あそこで押さえてれば、小御所会議で負け確の西郷、大久保はかなり苦しかったと思うぜ。
薩摩の視点についてはよく知らんがw

まぁ勝ってれば万事OKだったのかもしれんが、少数の兵に負けた挙句
津や淀すら裏切る有様じゃ、慶喜だって篭城なんかできん罠。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 20:37:06ID:YPBE8N+XO
>>63

>>51
> そうなんだよな、孝明天皇の慶喜への信頼はたいしたものなのに、容保への信頼の方がクローズアップされがち。
> 会津贔屓のせいだろう。
> そういや孝明天皇の孫にあたる大正天皇(皇太子時代)からもえらい好かれてたな。息子以上に年が離れてるのに普通に友達だ。
>>49
> ケーキちゃんにわろた。幕府と朝廷の間にいっっっっっつも板ばさみな慶喜。
> そら昔夢会で「困った」「むずかしかった」が常套句になるわけだw
>>54
> メロメロにしとるわな。もうメロメロだ。あの東洋人に対しては高圧的態度で臨むパークスでさえ。
> 慶喜のために漢字で書を書いてあげてなかったっけ?
> あの容姿で、少し微笑み「優しく快い声」で語りかければ、外国人でなくともたいていの人間は魅力に引きずり込まれると思う。
> 慶喜って人にあんまり会わないんだよ。で、実際に面と向かって会った人からはたいてい好感持たれてる。
0130名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 21:29:49ID:kMsCSucZ0
>>121
馬鹿か?
薩長閥の残骸に何ができるんだよw
奴らは軍閥の下でこき使われてただけで、もはや軍閥の一員で薩長閥などと言えんだろ。
ちなみに、山県や太山といった薩長閥の子孫や子飼いの連中は、陸軍で出世できないように左遷されてるよw
0131130
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2011/02/14(月) 21:31:13ID:kMsCSucZ0
誤爆した
>>121じゃなくて>>122
0132名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 22:24:55ID:mVPYWcujO
会津好きの人は
容保達が鳥羽伏見で負けた事を慶喜に超怒られた件についてはスルーするよね。
負けた癖にこれ以上どないせいちゅうのよ。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/14(月) 23:54:48ID:HLsou2GN0
大坂城に籠城すればいいやんってのもたまに見るが、古来城が落ちる一番の原因は内応だった訳で。
一応信用できると思われる幕府歩兵隊や会津桑名は鳥羽伏見で装備を失い数減らしてるし、
残してた後備の歩兵隊は、1/3だか2/3だかは役に立たないと言われた旗本隊。
大阪城は堅城とはいえだだっ広いから兵力は欲しいが、その他烏合の衆を残して淀藩や藤堂藩みたいなことを
やられちゃったらマジで逃げ場もなく終了する。
そいつら追い出したら追い出したで、下手すりゃ新政府軍が増えるだけ。
しかも籠城ってのは、確実に援軍が来る事が期待できなければただの自殺行為。
でも一番その希望が持てる幕府歩兵隊の最精鋭が鳥羽伏見で敗れてる。
ぶっちゃけ江戸に残してきた歩兵隊が大坂に到着できるかという点ですら確証は持てない。
関東から奥州諸藩を集めるなら更に時間が掛かる。しかも仙台はよく分からんし。
時とともに希望が薄れれば、城内の結束は必ず乱れる。難攻不落で鳴らした小田原城がそうだったように。

まぁあの時点で大阪に留まるなんて無謀だわな。
そして帰ってみれば関東は動員どころか一揆の嵐で、所によっては藩主が逃げ出すぐらい乱れまくり。
慶喜でもどうしようもないわな。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/15(火) 01:20:48ID:gNP/PIbmO
いや、江戸の様に絶対イチャモンつけて何かやらかして来たと思う。
上が堪えても、末端から火を点けるだけで対処は困難。
使者を出すだけで十分というが、慶喜にも幕府や会桑の不満を抑える必要があったんだろう。
俺はむしろ、慶喜は内の不満を抑えつつ、軍事力を背景に理性的に交渉したかったんじゃないかと思う。滝川とかいきなり戦やろうって雰囲気じゃない。
内乱になるって考えたら、辞官納地とか江戸の横暴とか暴走しすぎな空気も少しは冷え、薩摩からも春嶽みたいな動きはでてくるはず、と慶喜は考えたんじゃないだろうか。
慶喜が徹底恭順しても、東北の様な反乱が起きたわけで、関東一円で徹底抗戦されたらただ事ではすまない、ってぐらいの計算はすると思うんだが。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/15(火) 04:17:14ID:alFb15Zr0
>>112
恐怖心に支配され、信義にもとる行いをして
維新後、誰からも相手にされなくなるのと
冷静に彼我の国力を分析して、自らの命の危険
を省みず日米開戦に反対するのは全くの別物。
慶喜に私の精神はあったが公の精神はなかった。
公の精神の無い者に国の舵取りを任す事はできない。
0136名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/15(火) 08:50:49ID:gNP/PIbmO
大政奉還も絶対恭順も、その後表舞台から完全に姿を消したことも、それら全てが公に基づいた行動と言える。
幕末において、幕府や藩に拘りすぎていたものが幾人いたか
0137名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/15(火) 09:42:05ID:Um5S50lp0
ここ面白いな。色んな考えがあって勉強になる。
0138名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/15(火) 11:51:51ID:mZWLiR7k0
>>134
いやいや、確かに薩摩は色々画策するだろうが、とりあえずあの時点では他に手はなかった訳で。
あのまま話が進んでいれば、薩摩が変な動きしないよう土佐が面子にかけて目を光らせるだろうから、
京で慶喜を加えた政治的な第2ラウンドが始まったであろうことはまず間違いない。
軍事的な圧力は既に大坂城に大軍が入ってる時点で十二分なわけで、んだから薩摩も率兵上洛だけでも
何とか阻止しようと躍起になってる。

そもそもの慶喜の不幸は、幕内の不満を押さえ込むために最もリスキーな手を取らざるを得なくなってしまったこと。
徹底恭順とは言っても、辞官納地なんかは容堂や春嶽が頑張って有耶無耶になってた訳で。
それがあの進軍で全て台無しになった上に、その後の敗北で公議政体派も薩摩に抗う事が出来なくなってしまった。
その進軍にしても、この大軍で寡兵に負ける筈がない=薩長が抗う筈が無いという甘い目算が随所に見える杜撰なもので、
結局は>>110にあるように、幕府全体では兎も角、幕府中枢においては薩長の中枢に比肩できるような有事を担える人材がいなかった事と
最後まで意志の統一を図れなかったことが、政治的にも軍事的にも敗れた原因だろうと思う。

内乱自体は、特に恐れてなかった様にみえるな、薩摩の行動は。
おそらく、近代化に成功してない藩の軍がどの程度のレベルか、第2次長州征伐の時に見切ったのではないかと。
日本海側-下関-大坂-江戸の物流が止まったら、1866年のように一揆祭りになる危険もある。
野島崎廻りの航路はまだ危険な時代だから。
0139名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/15(火) 17:39:08ID:iEGifcc40
慶喜が徹底恭順してなかったら江戸も大坂も京都も火の海になった
世界一の大都市になった東京や優秀な企業を育てた商都大阪もなくなることになる
どの道腐り果てた幕府が新政府に滅ぼされたあとは天皇は薩長か広島にでもおかれてみすぼらしい近代日本の首都を形成しただろうな

江戸っ子が慶喜に感謝はすれど恨みはしなかったわけだ
0140名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/17(木) 09:18:24ID:p86ppuuj0
江戸や大阪の市民なんかは戦は死活問題だろうけど、日本の殆どの市民は幕府が崩壊しようがしなかろうが知ったこっちゃなかったんじゃないか?
0141名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/17(木) 11:18:51ID:uueORRFH0
慶喜は損切りが早いんだよね。
長州戦争でも、鳥羽伏見でも、責任者としてはかなり早い段階で損切りしている。
ただ、損切りを独断で決めてしまうから後でいろいろ言われるんだろうけど、
少なくともその段階では慶喜の決断が正しかったのは間違いない。

間違いないんだが…
色々文句を言いたくなる気持ちは正直分からないでもないw
0142名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/17(木) 13:41:55ID:a0tIUnjO0
相談相手がいなかったんだよ。
老中の淀藩は裏切るし、御三家も当てにならない。
旗本たちも弱すぎだ。
0143名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/17(木) 15:59:01ID:HOJMcIOs0
幕府にしたって味方とは言い切れないしな。

長州戦争の小倉口軍壊滅は本当にショックだったろうなと思う。
原因の5割ぐらいは幕府指揮官の無能による自壊だしw
0144名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/17(木) 18:47:24ID:4oND900r0
原・平岡・中根みたいな数少ない側近を暗殺されたからな
彼らは西郷や大久保に匹敵する頭脳を持ってたのに失ったから無能な老中やら幕臣に足を引っ張られ続けることに
0145名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/19(土) 01:39:57ID:u3ejmDXQ0
え〜い面倒くさい遊びをしおって〜
と兄の五郎丸が遊んでたひな人形をブチ壊した慶喜。
なんとなくこの頃から将来の片鱗があるなw
0146名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/02/19(土) 09:48:49ID:lDOiMtIH0
まさか戦闘が勃発したり、負けるとは思わなかったのもあるだろうね。
大坂を敵に抑えられたら一発で勝負あったになるわけだから、
もし戦闘を本気で決意していたら、緒戦では用心の上にも用心を重ねて作戦を立てるはず。

もっとも上京の趣旨からして、静穏に上京するわけだから、難しいか。
0148名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/02/21(月) 03:26:13.27ID:+x6Xd1x20
慶喜はすごく慎重だからなあ。まったく鳥羽伏見というのは・・・
慶喜の後半生ががらりと変わってしまった分岐点だ、取り返しのつかない。
「新政府」で春嶽や容堂、木戸(仲良くなれそうだから)らと仕事をする慶喜の姿、見たかった気がする。
歴史にIFは無いけれども。

>>145
五郎麿というのは父斉昭に養子向きだと言われた子だね。どこに養子に行ったんだっけ。
あと、斉昭のお母さんに説教されて、しょげて反省するどころかついと立ち上がって「この坊主め!」と
頭殴った話(剃髪してた)。吹いた。おいおいって感じで。
でも斉昭のお母さん、元気の良い子だとその後ますます七郎麿を可愛がったそうだw
慶喜はなー、体育会系と頭脳系が入り混じっとるわな。

>>144
中根はどうかと思うが(昔夢会でも中根に政治向きの相談はあまりしなかった、と証言してる)、
原・平岡が西郷や大久保に比肩しうる人材ってのは納得できる。とくに原。
本格評伝が出ないものかと思ってる。知れば知るほどこの人幕末史において重要だっっと思う。
どのあたりで攘夷から開国に考えが変わったのか、とか、生い立ち人柄とか、もっと。
歴史というのはこういう眠った、一般には知られていない大物がいるから面白い。
一般には知られていない、といっても、維新後数十年は、どうやら原は「最後の将軍慶喜の謀臣」として
かなり知名度があったようだが。時代によって人の知名度は移り変わっていく。
維新後はかけらほどの知名度だった坂本龍馬が今は・・・
そういや、平岡の写真は残っていないのだろうか。どういう様子の人だったか、渋沢あたりが証言してないかな。
0149名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/03(木) 02:28:06.33ID:qruNP9TC0
何日か前に覗いてみたら、日本近代史板自体が無くなってて超慌てた。
復旧してよかったよかったw しかしなんだったんだろ一体。
0150名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/07(月) 14:50:19.60ID:UnkJZpOC0
>「新政府」で春嶽や容堂、木戸(仲良くなれそうだから)らと仕事をする慶喜の姿、見たかった気がする。

同意
大河でのエピだが西周に三権分立とか教わって理解してるの見て
一歩間違えば木戸とかと気が合いそうじゃんwと思った
0151名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/07(月) 15:36:04.97ID:wUiQi39p0
敢えて政治から無縁の生活に専念したんでしょ。
家達の邪魔にならないようすることにかなり気を遣ったらしい。
0152名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/08(火) 03:00:34.35ID:RPEpEDrY0
木戸はなあ・・・世話焼きだからなあ。
慶喜みたいに複雑な性格の持ち主への理解度が半端ない気がするし。
慶喜の周囲の集まる人って、平岡にしろ、原にしろ、渋沢にしろ、感情表現が豊かでお節介な
人らが多い気がする。平岡と原の手紙というのは誇張があるのがあるようだし。
主君が「無駄なことはしゃべらん」性格だと、家臣たちは主君をかばう意味もあって
しゃべり倒す面もあるのかな、と思う。
0153名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/08(火) 07:24:13.12ID:3ZnrrMrBO
木戸は慶喜を外務大輔にすればいいんじゃね、と提案してたな。
まあ実際に打診されても断ってたろうけど実現したら活躍したろうな、
外人ウケすごく良いし。
0154名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/08(火) 09:30:25.23ID:uzcrSikv0
陰謀によって自分を朝敵にしたようなやつらに協力したくないだろう。
榎本みたな下っ端とは違う、前政権のトップだ。
0155名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/08(火) 17:16:22.71ID:p11ocICY0
慶喜はそんなつまらない感情論で判断したりはしないだろうけどな
単純に自分がいたら紛争の元になるだけだと思ったのでは
0156名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 01:17:16.55ID:BmWL2O560
>>153
パークスとロッシュという経験豊富な当時の二大大国の大使から最大級の賞賛受けてるからな
外交問題にも妙手搦め手強攻策で乗り切ったし
陸軍はフランスで海軍はイギリス式というのも慶喜時代に決まってたのを採用した
慶喜が征韓論とか列強との関係をどう考えてたのか明治以降何も語らなかったからこそ気になるな
0157名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 07:16:26.63ID:4oX27Ah10
木戸と慶喜が面識ないのは惜しかったな。
木戸は、わりと知性や才能に惚れちゃうタイプだと思うんだよね。
慶喜が幕府と徳川家から身を引いたことでこだわりなくなっちゃってるし。
たしか、どっかで弟の昭武に会ったときも、有望な若者だ〜!とか誉めてんだよあの男。
もっと木戸が長生きしていれば、慶喜と何らかの形で道が交わってた気がするけど。
写真撮られるのも好きだしなw
0159名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/03/09(水) 17:36:40.61ID:NMuuLedC0
元々慶喜の養父に当たる14代将軍家茂に嫁いだのが孝明天皇の妹である和宮
その和宮は元々は有栖川宮熾仁親王と婚約していた

東征大総督となり慶喜を討伐するための官軍の総大将になった熾仁に慶喜の妹である徳川貞子が嫁いだが子供はなく
有栖川宮を継いだ威仁は慶喜の明治天皇との拝謁を仲介したり渋沢や勝と共に尽力してくれたがこの人の代で有栖川宮は断絶
威仁の娘の實枝子と徳川慶喜公爵家を継いだ慶久の娘が高松宮妃喜久子で断絶した有栖川宮の祭祀を継いだのが高松宮
慶喜の子孫の高松宮妃喜久子が死去したことにより高松宮=有栖川宮の系統は完全に終了した

ちなみに後陽成天皇の息子であり初代高松宮=有栖川宮となった好仁が生まれたのが1603年
これは徳川幕府が誕生した年でもある
だから高松宮=有栖川宮はある意味で徳川幕府と共に生まれ徳川幕府と共に滅びたといえる
数奇な運命だね
0161名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/10(木) 17:18:36.24ID:g0eKPPfV0
>>160
山内昌之がイスラム学者でただの幕末好きな素人のオッサンということは知ってるよね?
産経に相応しい知能の人ではあるけどさ
0164名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/13(日) 22:30:42.47ID:1eMomnSW0
七郎麻呂は諱じゃなく幼名では。
七郎麻呂が元服して松平昭致になり、一橋に養子にいって諱が慶喜になったんじゃね?
0166名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/15(火) 03:00:58.67ID:VqgOHgFV0
>>159
そうか、そういう流れになってるのか。
慶喜と有栖川宮威仁親王との親密な交流のことは知っていたけど、幕府とともに生まれ
幕府とともに滅びる、か・・・
それにしても宮家というのはいまいち分からない。いっぱいあるよな。
幕末慶喜と因縁の深い中川宮朝彦親王はひとりでえらいたくさん宮家を名乗ってた。
良く改名する人だったという意味だけど。
青蓮院宮、賀陽宮、インノ宮(漢字出なかった)。他にもあるか?
「中川宮日記」が残ってるが、幕末史には重要な史料だ。
幕末の朝廷といえば、孝明天皇を別格にすれば、「勝ち組」になるため岩倉具視が
どうしても注目を浴びるけど、中川宮も負けず劣らず重要と思う。
慶喜政権を支えた朝廷の有力者。孝明天皇の信任も厚かった。

>>157
木戸と昭武って面識あったのか。
慶喜は明治天皇に謁見を果たし朝敵の汚名を完全に晴らしてから、
旧幕臣や明治政府の有力者達からの面会申し込みを完全に拒まなくなるね。来るものは拒まず。
青木周蔵、前島密、榎本武揚。山縣も訪ねていってるが会えなかったらしい。
すれ違いになったのか(当日慶喜外出中)、はたまた慶喜が山縣を嫌ったのか。
0167名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/15(火) 08:49:50.38ID:aO99czE/0
元服して斉昭の偏諱で松平昭致だから、まだ水戸家にいたころのはず。
一橋家を継いだそのときはまだ将軍から偏諱を受けてないので、徳川昭致?
数ヵ月後に慶喜になっている。
0168名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/15(火) 15:15:59.55ID:1Us1kcBp0
慶喜って名前自体やんごとなきところの拝領系だから刑部卿任官という時点で慶喜なんだと思う。つまり一橋家に入った時点で拝領したのでは?
 水戸は兄貴が継いでるから普通は部屋住みの日陰者だけど御三家オヤジがどうにかしたんだろうとしか思えない。
七郎麻呂の幼名の通りオヤジのヨシアキラは八方の絶倫で子供世継ぎには事欠かない。
よって慶喜は水戸の悪竜のセガレといって大奥から若年より忌まれることになる。

 まあ、数ヶ月後というのがキモなんですよ。
当時は発布つうか今のメディアみたいにスグ宣言してすぐなれるわけじゃねえぇ。
大阪から逃げて江戸で待機してたのも幕藩律令を十分に踏まえた慶喜特有の達観の経緯だと思います。

ちなみに「慶」も「喜」の字も侍ではなく、カシコキアタリから頂く忌み名でありますよ。
0169名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/15(火) 15:26:00.21ID:iCVNISDs0
将軍家慶の正室と水戸斉昭の正室が実の姉妹。
将軍家のほうから七郎麿の一橋家相続を持ちかける。
斉昭は七郎麿にかぎるのかほかの男子でもいいか照会。
七郎麿に限るとの返答。母親の縁であろうことは明白。

一橋家相続時、当人は何才であったか。
自分の考えで諱を選べると考えるは不自然。
0170名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/15(火) 15:46:02.58ID:1Us1kcBp0
 そらカシコキアタリは深夜までつうか朝寝して下肢さんざん考えんだろうが、多分七歳ぐらいだろうなとも。
違うかもな。
オカンも有栖宮だしな、天下の副将軍(ツウ役職はは一切ないが)のオウチならいいかなミタイナ。
福地源一郎翁の著作をあたればそこはかとなく幕府の能吏秀才体質は知れるのでコレを頼みにしようとしても間違いではないと思いますよ。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/17(木) 02:23:31.01ID:QO79+1nnO
家を継ぐ、家職を継ぐ、名を継ぐ

これはセットだからな
どれかだけを継ぐ奴が現れると後継者問題が発生し政変になって幕閣も大改造。

あぁややこしいやぁ
0172名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/22(火) 01:56:36.44ID:Ifw8JGkm0
家慶は若き慶喜を大層かってたからな
因習や血筋に縛られることがなければ日本国の歴史も大いに変わってただろう
歴史のifを語るのは詮無きことだけど13代が慶喜だったら・・・14代が慶喜だったら・・・と渋沢や勝も考えただろう
0173名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/24(木) 12:34:08.09ID:oKiadDx70
吉田松陰>勝海舟>佐久間象山>高杉晋作>桂小五郎>徳川慶喜>後藤象二郎
0174名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/24(木) 16:34:16.19ID:0yT7JOxp0
キチガイランクか
0175名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/26(土) 07:30:02.95ID:82R5LN7x0
【リビア】地上戦、カダフィ大佐の優勢揺るがず 元英陸軍准将が指摘[03/25]
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1301052041/

1 :歩いていこうφ ★:2011/03/25(金) 20:20:41.92 ID:???
 英シンクタンク、国際戦略研究所(IISS)のベンジャミン・バリー氏が産経新聞のインタビューに
応じ、多国籍軍による空爆開始から1週間が経過するリビア情勢をめぐり「反体制派の秩序は乱れている。
重火器を運搬できず、戦車や大砲、武装車両を使いこなす能力があるように見えない」と指摘し、地上戦
では最高指導者カダフィ大佐側の優勢は揺るがないとの見方を示した。

 昨年10月まで英陸軍准将としてイラク戦争とその後の教訓を分析したバリー氏は、「反体制派の本拠地の
北東部ベンガジでは戦車や武装歩兵隊、砲兵隊で構成された大佐側戦闘部隊の攻撃が多国籍軍の空爆で
阻止されたが、北東部アジュダービヤには小規模部隊がとどまっている。対抗する反体制派は戦闘部隊と
しては極めて劣悪だ」と指摘する。

 実際、多国籍軍の空爆が始まる前の19日朝には、ベンガジで反体制派の旧ソ連製戦闘機ミグ23が友軍
に撃墜され、反体制派の指揮系統や通信網の乱れが浮き彫りとなっている。

 バリー氏によると、反体制派は兵器の輸送を軽トラックに頼り、大佐派から奪った戦車や大砲、武装車両
を展開する能力に乏しい。大佐側から寝返った軍人が戦況を変えている証拠も少ない。「反体制派に最先端兵
器を与えても、反体制派の無秩序ぶりを考慮するとどれだけ違いが出るのか読み切れない」という。

 反体制派が地上戦で優勢に転ずる可能性は「大佐側が多国籍軍機を攻撃して国際社会を挑発するか、前線か
ら後退しない限り、困難だ」と語る。ただ、武力行使を容認した国連安全保障理事会決議が大佐殺害を認めて
いるか否かについては、「大佐側が一般市民への攻撃を増した場合は選択肢として残されている」という見解
を示した。

 北大西洋条約機構(NATO)が指揮権を米軍から引き継ぐ飛行禁止区域の実施については、「ボスニアで
は内戦が終わるまで3年、イラクでは開戦でフセイン政権が倒れるまで12年続いた」とし、長期化する可能
性を示唆した。
ソース:MSN http://sankei.jp.msn.com/world/news/110325/mds11032519360007-n1.htm

26 :七つの海の名無しさん:2011/03/26(土) 05:10:39.58 ID:nRFuxESU

徳川慶喜も、このくらい粘ればよかったのに…
鳥羽伏見で負けたからって、逃げ出す必要は無いんだよw
0177名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/28(月) 10:24:44.73ID:XgWyXBCg0
リビア反体制派ズルくね?
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1301235784/

1 :Ψ:2011/03/27(日) 23:23:04.08 ID:ubdxShzz0
米英仏軍の援護射撃使うとかチートだろ
インチキしてまで攻城戦勝ちたいのかよ
ネットゲーマーの風上にもおけない
0178名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/29(火) 03:54:25.40ID:rzfjR19e0
>>172
家慶が慶喜を気に入ってたのは、慶喜が美少年だったことが大きかったんじゃないか?
・・・あまり大きな声では言えんけどな。
初対面で可愛い、美しいと思い、やがて利発だと知り、ますます寵愛は深くなっていった。
手取り足取り弓を教えたり、慶喜に歌わせ自分は舞い、自分が歌って慶喜に舞わせたり。
家祥(のちの家定)はどんな心境だったんだろうか。
0179名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/03/30(水) 10:22:04.06ID:rlPSpqWj0
鷹狩の件とかな。
家慶が慶喜好きすぎて笑う。
0181名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/03(日) 01:58:31.21ID:pTq9axFr0
天狗党を捕縛粛清し、五代友厚とはフランス万国博で激突した人だから。
帰ってみたら既に明治でしたけどね。
0183名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/05(火) 02:19:18.33ID:XqtFU1cT0
いや、渋沢うんぬん言う前に、本国寺党のシンボル的存在として水戸からまだ10代前半の昭武を
連れて来てたから。
181の言うように、天狗党上洛による捕縛戦にも昭武を同行してるな。
・・・五代友厚と万国博で激突してたのか?知らなかったが。
渋沢は幕末ではまだまだ慶喜とは距離あるだろ。すでに崇拝感情は芽生えてるにせよ、
幕末の慶喜の傍にいたのは、やっぱり平岡だったり原だったり、だから。
ほんと、なんであんなに仲良いんだろうな。そもそも昭武がどういう人柄なのかあまり知らん。
0184名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/05(火) 10:10:19.64ID:Nn3KWDLD0
昭武がどういう人柄なのか俺も知らないから、知りたいな。
やっぱり慶喜とかに比べると史料が少ないからなー
0186名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/06(水) 04:51:48.74ID:qnFSSA0GO
>>184
パリに同行した人の感想で素直で聡明だったというような話があったかと。
主君だからいくらか太鼓叩いたとしても、まあエエとこのエエ坊っちゃんタイプであれこれ画策する人物ではなさそう。
0187名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/06(水) 07:13:57.07ID:G2rLIJdg0
坊ちゃんでは五代友厚・モンブラン伯爵の手玉に取られるだけだった、と
薩摩琉球国勲章は向こうのアイデア勝ちでした
0188名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/11(月) 10:33:48.90ID:AlgOkb8Y0
>>186
そうなのか。
なんかの本で慶喜に似て聡明って読んだことはあったけど、慶喜と性格が似てるって訳じゃないのな
0189名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/11(月) 13:33:23.63ID:Ck2n4cqA0
慶喜と性格が似てるのは大久保とかそっちだな
どっちも近代日本の生みの親なのに嫌われてるのは勝西郷みたいにわかりやすい性格じゃないから
0190名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/11(月) 14:11:49.34ID:ft3K//gAO
慶喜と大久保似てるかなあ、慶喜はあんな粘りというかしつこくないだろう
明治政府なら井上馨が慶喜に近そうなイメージ。
まあ、旧幕臣いわく井上は小栗に似てるそうだからちょっと違うかもしれないけど。
0192名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/12(火) 04:04:42.16ID:Em+Bx14/0
>>189
いやいや、勝西郷はかなーり複雑な性格だと思うよ。
反対に自分は大久保のほうが理解しやすい、と感じてる。少なくとも三傑のなかでは一番理解しやすいんじゃないかと。
>>190
うえええ、井上!? いや井上好きなんだけど。
慶喜と大久保似てない、ってのには同意。
なんつか、権力欲、権力を欲する過程で生ずる異様な執念・執着が決定的に違うかと。
あと、大久保は冷静沈着な表に、内には燃えたぎる情熱・信念が感じられるんだが、
慶喜は・・・  良く調べてみても、「昔夢会筆記」読んで肉声(の筆記)を聞いても、
「熱」があるのかどうなのかよく分からんのだ。ほんと掴みづらい。

昭武は慶喜より喜怒哀楽を素直におもてに出すイメージがある。
0193名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/12(火) 05:30:16.97ID:/D4R2I/y0
>>190
渋沢栄一を重用したあたりは、井上と慶喜は近いけど、あとはあんまり近い感じしない。
井上は輔弼の能力はかなりあったと思われる。あと、世間の動きを見る能力。
本来ならば保守派に属する家柄の生まれにも関らず、志道家に養継嗣に出て、
安政年間に早くも高杉たち過激グループと交わり、その一方で長井・周布とも
仲良くしていて、長井失脚後は品川御殿場英国公使館焼き討ちにも参加。
海外留学にも率先して割り込んで、上海で早くも攘夷はやめたと公言。
帰国後は攘夷戦争やめさせるために藩主親子のまえで大激論して切腹までやろうとする。
テロにあっても考えは曲げず、絵堂太田戦争後は鴻城軍指揮官、藩政府の外交官、
幕府の勝との講和交渉役。明治後の政府の財政建て直しを具体的に計画したのは彼だし。
生まれも育ちもそこそこいいのに経済の仕組みが理解できていた不思議な人物。
まあ山岡鉄太郎から罵倒されても、江藤からコケにされても、西郷から揶揄されても、
テコでも動かないところがあったのは自分自身の考えに自信があったからだと思う。
鹿鳴館の舞踏会の主催。朝鮮国母暗殺後の騒乱鎮定のための渡鮮。
伊藤にも山縣にも言いたいことが言えた貴重な人物だし、汚職ばかり取り沙汰されて、
田中角栄なみにその能力を過小評価されてしまってる。
慶喜とは関係ないけど、後世、的確にその業績が認められてない人物の一人ではある。
0194名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/12(火) 15:21:22.42ID:YRaPQSx20
>>191
政治的な手腕というか、姿勢って意味だろう。
なんか突然政治権力をぽーんと投げ出して未練も見せない辺りとか?w

つか、井上と小栗が似てるって証言が凄い気になるんだがw
0195名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/12(火) 16:26:30.22ID:nluqnNAy0
似ているとしたら、金勘定が役職のはずなのに
やりたいことに散財して国の財政を空にするあたり?
0196名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/12(火) 17:29:47.02ID:YRaPQSx20
井上はむしろそんな金どこにもねーよってブチ切れて
渋沢と一緒に辞職したようなw

>>188
まぁパリに行った頃はまだ若いし。
0197名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/13(水) 10:58:49.31ID:Rn1+oRkx0
>>194
水野忠徳が大久保に、小栗忠順が井上に似てると杉浦が言ってたけど適評だ、
と福地が書いてた
幕末政治家の水野の項にて。近デジで読めるよ
0198名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/18(月) 16:09:29.93ID:REeEOHB00
井上馨は長井雅楽の切腹どう思っていたのかね。
攘夷を捨てた後に。
基本的に攘夷派は人として信用できない。
0199名無しさん@お腹いっぱい。
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2011/04/19(火) 11:43:11.58ID:Yv3o6gh30
慶喜は勝と似てるような気がする。
全てが似てるっていうんじゃなくて、どことなく偏屈っぽいところとか。
勝と慶喜は同属嫌悪っぽい。
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