大鳥圭介って過小評価されてるよね?
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大鳥は函館戦争ではは教え子の黒田清隆と戦うのは複雑だっただろう
2年半投獄され特赦後渡米し伊藤博文と意気投合→工部省へ
宇都宮とか日光とか、見せ場が無いわけじゃないんだがなぁ…… 当時は、旧幕よりの新聞がもて囃したり、錦絵にも描かれたり、
官軍の将たちに大鳥の弟子がたくさんいたりして、有名だったし
評価も高かった。 大鳥は官軍側に知り合いが多くて
戦争していても胸中は複雑だったと思う。
投獄されている時適塾の先輩の大村が暗殺されたことを知り
親しくしていた人の死の悲しみと
日本の為には不幸なことだと号泣した…
大村がすごい人物なことを知っていたし
函館戦争のこともあって決して陸軍に所属することを拒んだ
もともと軍人ではない大鳥は渡米し伊藤博文と意気投合し
工部省へ 実際は明治になって陸軍の参謀局に一度入っているけど、
軍人になるのはやはり嫌だったらしい。
「大に不本意」と知人に手紙でこぼしていた。
戊辰戦争のことも、人に語ることをせず、家族にも話さなかったとのこと。
1994年に亡くなられたんですよね。
親しみ易いキャラで人気がありましたが。 その人は、大鳥圭介を尊敬していて、
芸名もそこからもらったと新聞で言っていたね。 大鳥圭介伝に
「函館で降参した時も榎本は正直だからしきりに切腹したがった(が、)
僕はそう思っていたよ。なに降参したって殺されやしない」
と言ったと言う知人の伝聞があるが、
大鳥は寛典が読めていたのだろうか?その後2年以上も処分保留で入牢したのに
強がりでないとしたら相当先が読めるね 大鳥はもともと学者で
黒田、大山巌、井上馨は教え子…
自宅で食事もしたり奥さんと子供達も3人に紹介したりしているから
戊辰戦争の時は相当複雑な心境だったと思う
同じ適塾の後輩の高松凌雲を通じて黒田は大鳥に
何度も降伏してほしいと交渉していた
1年経って処刑されなければ殺されないだろうと大鳥は言っていたらしい
無事釈放が決まったら大鳥は榎本らとビールで乾杯w
釈放されたらほどなく渡米し伊藤博文と意気投合
大鳥や榎本らは相当優秀な人たちだったので
恩赦された
…土方や近藤のように京都で長州や土佐の志士らと対立したわけでもないし
江藤のように大久保と対立したわけでもない…
大鳥は函館戦争は兄弟げんか
日清戦争の時の方が大変だったと発言している
大村益次郎も「大鳥は今は敵だが、これからの日本の役に立つため生かしておかねばなりません」と評価してたらしいね それにしては長州は厳罰論で困ったらしいじゃん
誰が厳罰論を引っ張ったのさ。木戸?木戸は寛大な処分に回ることが多かったと思うが
ソース西郷隆盛の書簡「薩長寛猛の違い」 >>30
大鳥にはよく、他人に対しては自分をピエロにして強がる言動がある。
同じ大鳥圭介伝で、大鳥が人生で死を覚悟した三度のことの第一に、
降伏の時を挙げている(後の二つは日清戦争と小田原津波)。
「獄に下って以降も確かに極刑を期していた」と大鳥自身の言葉がある。
降伏時「砲は裂け艦は摧け吾が事終る、幡然衆に代わってこの躬を殺す」
と、死を覚悟する漢詩を詠んだ。
「今よりは 世を捨つる身」と獄中でも身の終焉を和歌で詠んだ。
「我々を誅戮して自余の脱走人を寛典に処したまえ」と獄吏に告げた。
「死生の境」では大鳥らは赦免の直前まで死罪か釈放か知らされておらず、
今日首を取られるか明日斬罪になるか「血も枯れる思い」だったとある。
>>33
「薩長寛猛之違」が明治五年一月十二日の西郷→桂四郎書簡のことなら、
「長州人も近来は思ひ當り寛論相立候得共、木戸一人之處置六ヶ敷御座候」
黒田が赦免すべしという寛論を主張し、長州でも寛論が出たが
木戸が一人死刑に処すべしという猛論を主張した、という事。
なお、五稜郭史 (片上楽天、1921年、懐旧館) に、この議論が、
「四年十二月の時、顕官長州出身の木戸孝允は突如最も乱暴極めて
非常識然たる暴論を主張して云ふ、国賊榎本らはまだ壮年、
彼ら身を終る迄飼ひ殺しは頗る厄介。宜しく引摺出して斬首せん
…望みとあらば先ず卿(黒田)を血祭る又可らん」
と、煙草盆が飛び椅子が舞わんばかりの光景だった、とある。
(続き)
しかし実は木戸は、本当は榎本らを救いたかったのだが、
維新の旧幕対薩長という立場上、それはできなかった。
なので、木戸は殊更、極めて突飛な暴論を吐いて、反対論を喚起させようと
試みた。その奇計が見事に的中し、黒田によって特赦説が出されたのである、
と著者は述べている。
まぁ、松平容保を助命しといて今更って感はあるなw
長州藩の恨みとしては、この殿様が一番買ってるだろうし。 函館戦争が終わって降伏会見があったのだが
大鳥が明るい性格でみんなを盛り上げたらしく明るい雰囲気で
山田顕義も驚いたらしい
2年半投獄されている時に号泣したことは
尊敬する適塾の先輩の大村が暗殺されたことを新聞で読んで嘆き
優れた軍政家の大村の死は日本にとって不幸なことだと榎本らに言っていた >>39
>山田顕義も驚いた
できればソースを教えて欲しい。
長州側の史料かな? 獄中でオランダ語や英語で会話してひそかに服役囚の連絡役を務めていた
牢番はどうせ外国語分からないしw 大鳥は結局男爵にしかなれんかったノー
かわいそうだのー 大鳥は敵方として新政府と交戦しているし
政治家ではなく元々学者さんなので
男爵なら妥当でしょう。
学者さんでお互い仲が良かったのが大隈重信 まあ大鳥は維新後に上手く立ち回ったと思うよ。
少なくとも鹿鳴館で乱痴気騒ぎやらかしてた榎本なんかよりはマシだな。
なんで佐賀藩の残りカスの大隈が学者として出てくるのかしらんけど。 地元偉人アニメ化 大鳥圭介没後100年
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001105060001
幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した上郡町出身の大鳥圭介(1832〜1911)の没後100年を記念して、
同町は4日、町生涯学習支援センター大ホールで記念講演とアニメ完成披露会を開いた。町民約400人が集まって郷土が生んだ偉人の生涯に思いをはせた。
大鳥は医師の長男として同町岩木に生まれた。大阪の適塾などで洋学を学び、幕臣旗本として榎本武揚らとともに函館・五稜郭で官軍と戦った。
死罪をまぬがれて明治政府に仕え、殖産興業に尽力した。
大鳥の生家が崩壊寸前になった3年前、地元住民でつくる「生誕地保存会」の活動によって町も注目。町は生家を解体修理して地域交流拠点にする一方、
没後100年記念として波瀾(は・らん)万丈の一生をアニメ化する事業を起こした。
アニメ化は、地元の半沢裕人(はん・ざわ・ひろ・ひと)さん(49)のミニコミ連載漫画を原作として、「銀河鉄道999」などに携わった
同町出身の作画監督藪本陽輔(やぶ・もと・よう・すけ)さん(35)とプロデューサー西沢信孝さん(71)が担当。地元の子どもたちなども声優として参加した。
アニメ「けいすけじゃ」全20話のうち、この日上映されたのは誕生から旗本になる13話までの第1部で1時間10分。年内には第2部も完成し、2時間を超える作品になりそうだ。
同町のほか、姫路市、宍粟市、佐用町、太子町のケーブルテレビで順次放送される予定。原画展は15日まで、町郷土資料館で開かれている。月曜休館。
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001105060001 大鳥圭介の伝記アニメ「けいすけじゃ」について誰か詳しく。 常敗無勝。戊辰戦争では指揮により人を遣わすと勝つが、自身が戦うと連戦連敗。
しかし、「またも負けたか」と笑い飛ばし、人望があって五稜郭まで戦い抜いた。 >>49
少なくとも、小山、武井村、藤原、峠下、木古内、七重村とそれぞれ勝っているが。
常敗無勝や連戦敗が大嘘であることは、記録を見ればすぐに分かる。 大鳥と薩摩藩の関係性が気になる
薩摩藩とはどの程度の関わりがあったのか
同時期に蘭書の翻訳、化学的研究・開発に携わっていた人物との関係性を知りたい 適塾に居たんだから当然薩摩の蘭学者とのつきあいはあっただろうな。 大鳥圭介
幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者
星亮一 著
大鳥圭介は稀有な幕臣である。播磨に生まれ、蘭学を学び、幕府歩兵奉行として陸軍の指揮を任されるに至る。
戊辰戦争では連戦連敗するが、「またも負けたか」と笑い飛ばし、五稜郭まで戦い抜いた。
二年にわたって牢に繋がれたのちは工部大学校校長や清国公使などを歴任、富国強兵策を実行した。
「最初からよい地位に恵まれることなどない」「屈するは後に大いに伸びる基」と言い、不撓の精神で逆境を乗り越えた人物の生涯。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2011/04/102108.html ☆さんなので読む気すらおこらないw
大鳥圭介伝が優れもの過ぎる。
それ以外にオススメがあれば教えて下さい 星亮一、期待した以上のテキトーな本だった。
いつもの会津関係の記述に
とりあえず、没後百年だし大鳥書いとけ、程度の。
>>48
漫画ならとある大鳥のサイトにうPされてます
伝承の類を引用しすぎかと
漫画としては充分おもしろい ★亮一
過去の著作で、大鳥をさんざん「所詮会津藩士ではないから、会津をあっさり見捨てた」とさんざんボロカスにしていた。
その著者が、大鳥を評価しまくった本でしょw。
相変わらず、評価の基準が定まらない人。
似たような扱いの勝海舟w。著作ではボロッカスに書いているのに、講演とかだとベタ褒めする★w。
いつもdat落ち寸前でageてくれる人ありがとうww
遅ればせながら件の☆本読んでみた。
以下感想。
☆さんよりもその辺の資料読む歴女の方がマトモ。
胡麻擂りでズル賢いとか、何の資料みたんだよ老害。
間違った解釈で落として、特筆しなくて良いところで無理矢理あげてるから訳が分からない本に仕上がってる。
あと会津関連に頁割きすぎ。
やはり読む必要のない本でした。
私としては維新より前の大鳥に惹かれるので、その辺誰か詳しく書いてくれないかなぁ。
大鳥と言えば講武所〜脱走軍>>>>明治以降>>>>>>>>>>>>>>維新以前だから難しいか。 >>60
大鳥サイトのブログで坪井塾について詳しくあげられていたよ
大鳥ファンはしっかり調べている人多いね 大鳥を主人公にしたアニメってソフト化予定は無いのかなあ
これ見るだけの為に地元のケーブルTV契約しなおすのはしんどいが、一度見てみたい 大鳥の連戦連敗だとか土方との対立説なんて誰が言い出したんかね。
野口武彦あたりも「幕府歩兵隊」で土方と比べて大鳥をくさしてる
だったら大村の大鳥評は何だっつの。母成峠の件も会津藩首脳がのんびりしてたのが大きい
結局外人部隊は最後は悪評押し付けられるんだよ
函館戦争に興味があるけど、大鳥に関しては特に対朝鮮・清外交での外交官としての活躍も見逃せないところ
榎本は比較的穏健無難な解決を望む傾向があったが、大鳥は仕掛ける所では仕掛けるタイプだった >>61
ありしゃす
色々みてみたんだけど、上でもあげたんだけど薩摩の学者との関わりを知りたくて
本人が残していない以上わからないよね
大鳥以外から攻めていくことにしますw
>>63
個人的にはやっぱり司馬大先生()が問題かなーと。
燃えよ剣での書かれ方が余りにひどいと聞いた
だから読んでないけどw
あと地元も最近まで赤穂浪士のひとりを推してて大鳥なんか空気扱いだったみたいだし、それに関しては元が医者の息子って言うのがネックなのかと思ってる。
政治家の地盤じゃないけど、元々が武士の家系ってどんなに落ちぶれても過去の栄光を語り継ぐような所があると思う。
でも、大鳥はそんなの気にしなそうだなーw 大鳥は成彬公に乞われ
藩士たちに英語や砲学を講義している
だから西郷とは交流はあったと思われる
江川太郎左衛門の塾で塾頭だった時の教え子が
黒田 大山
貧乏書生の頃に、薩摩藩邸に拾われて翻訳バイト開始、
それから薩摩藩のために台場の設計したり、蒸気船の模型作ったり、
写真の撮り方を教えたり。
名前が売れてきたのは江川塾の講師のころからだが。
その前の無名の頃から薩摩との関わりは深かった。
後ろ盾もコネも全くない平民が、才覚だけで伸し上がったのは凄い。 幕藩システムってのはどうしようもない身分制だけど
そういう才人を丁寧に拾っていく枠組みみたいなのがあったんかね。 うんうん、私は坪井塾に移ったのが転機だと思ってる。
元々知り合いだった何とか(名前失念)の親が薩摩藩邸の留守居役で、その縁で研究・翻訳を重ねていたようだけど、斉彬との御目見得はなかった。
坪井のその後を見れば、坪井の後押しがあって当然かと思うんだけど、まだ坪井サイドを調べてないw
英語を教えてたって資料もみたことないな。
斉彬の死後ならあるけど。
薩摩にはジョン万もいたし、大鳥自身はジョン万から習った英語では満足できてなかったようだし…
例えば同時期にガス灯を発明した人等との繋がりはあったのか知りたい。
大鳥側からは確認できなかったよ〜 >>70
ガス灯の発明者マードックは1754-1839没、没年で大鳥6〜7歳。
まず繋がりは無いかと思われる。
大鳥は、米国の炭田か油田由来のガス灯の描写を石炭編か石油編で行っていたから、
その二つを見れば何かわかるのでは。
薩摩については、大鳥が設計に関与した品川台場を阿部伊勢守に案内した際、
大鳥は斉彬候と顔合わせはしている。 あげ
>>71
おおすまん
書き方が悪かったです。
マードックでなく、八木玄悦です。
他にも集成館事業に携わっていた人達、と書けばよかった。
ごめんなさい
石炭編、石油編漁ってみます〜
ありがとう
でもでも、お目見得と顔合わせは違うと思う。
その台場建設の説明の時も、終わってから阿部・斉彬らは会食を楽しんだけど大鳥は呼ばれてない。
その後の繋がりも全く確認できてない。
写真の件も間に人が入っているし、御目見得がない以上、斉彬に乞われてっていうのは成り立たないと思う。
揚げ足を取りたいわけではないんだけど、斉彬から何らかの力が加わると全く違ってくると思うから。
しつこくてすみません。 >>73
IDすげぇww
伊藤と荒井のなくなった年だねww
縁があるねww 荒井って海軍→陸軍伝習所→海軍と両刀なんだな。
さすがの大鳥も榎本が逝去した時は「これで荒井と俺しか函館以来の奴はいなくなった」
と言ったみたいだから、荒井の翌年の逝去はショックだっただろうね。
幕臣はとにかく数が多いんで…幕臣が網羅できるような研究書ないかな… >>75
榎本死没時の大鳥の懐旧談は涙を誘うね。
樋口武彦氏の著作が、さまざまな人物の調査が深くお勧め。
明治の文章が苦にならないなら、「旧幕府」「同方会誌」あたりを。
大鳥は適塾の優秀な先輩の大村益次郎を尊敬していた
2年半投獄されている時に大村の暗殺を知り
この事態は個人の悲しみとともにこれはまさに国家にとって大損失と語って号泣した
榎本は伊藤の暗殺を知らずに亡くなったのはよかったような
榎本が亡くなったのは伊藤が暗殺される前年のこと…
伊藤の暗殺は誰もが唖然としたわけで…
井上馨は高杉と伊藤に先立たれ号泣した >>77
大村も、大鳥は役に立つから助命してくれ、と減刑するよう働きかけたらしいね。
榎本と伊藤の命日が同じ日なのは知らなかったわ >>79
お互い得意分野が違うのだから、比べるのは無粋だと思うが。 荒井郁之助は大鳥、榎本、勝海舟らが長く明治政府にいるよう説得したけど
駄目だったみたいだね
函館戦争で戦って降参して牢獄した後政府に出仕して
長く活躍したのは榎本 大鳥 沢太郎左衛門の3人
星亮一さんが大鳥の書籍を去年刊行している
政府に出仕して渡米後伊藤と意気投合して才能を認められ
工業の技術者としてトップに任命したのが伊藤(薩長閥の枠を超えて)
榎本がすごい出世で元の幕臣たちもみんな驚いてていたとか…
age
>>81
☆本は・・・・
大鳥に限っては薩長閥とか関係ない気がしますが。 大河ドラマ級だよな?
松陰の妹(久坂の嫁)で松下村塾やるなら
適塾の戦前戦後の群像劇をやった方が面白くね? 三谷さんが適塾のメンバーのい生涯を大河で製作したいらしいけど
生き残った人が大鳥と福沢だけなので 地味すぎて大河化は難しいかもしれない
大鳥は学者さんなので
幕府軍の大将なので 特に薩摩の西郷 黒田 大山 野津らはびっくり仰天だった
大鳥先生は戦をする人ではないので早く降参してくれとずっと説得 交渉していた
函館戦争で徹底抗戦せず榎本らを降参させたのは大鳥の功績…
明治政府に出仕後は 本来の学者さんで西郷 黒田 井上薫も安堵したらしい
実際は敵方のトップの榎本だけ最初はみんな警戒していたけどすごく優秀な人なので
明治政府の中心人物になった >>88
三谷って佐幕派だよな
倒幕派は嫌いっぽい
でも三谷が書いたら面白くなりそうなのは絶対長州藩だと思う
あのドタバタはある意味喜劇だから 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり http://www.sankei.com/west/news/170407/wst1704070033-n1.html
【訃報】
京唄子さん死去、89歳 漫才コンビ「唄子・啓助」女優や司会者でも活躍
漫才コンビ「唄子・啓助」で一世を風靡し、女優や司会者としても幅広く活躍した京唄子(きょう・うたこ、本名・鵜島ウタ子=うじま・うたこ)さんが、6日、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。89歳。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は長女、節子(せつこ)さん。
京都市出身。簡易保険局で働いていたが、戦後「京町歌子」の芸名で舞台女優に転身。同じ劇団に所属していた鳳啓助と結婚。芸名を「京唄子」に改め、漫才コンビ「唄子・啓助」を結成。男勝りの唄子の突っ込みを、啓助がけむにまく芸風で人気となる。
昭和40(1965)年に離婚したが、コンビでの活動は継続。44年に始まったテレビのトーク番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」は60(1985)年まで続く名物番組となった。
一方で、昭和45(1970)年に「唄啓劇団」を立ち上げると、活動の中心は漫才から舞台へ。62年の解散後も「京唄子劇団」を主宰。テレビでも人気ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」のレギュラーを長年務めた。
昭和42年に上方漫才大賞奨励賞。著書に「花も嵐も踏みこえて」などがある。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ この人の過小評価はほとんど司馬遼太郎のせい
人物像や性格が、「燃えよ剣」と史実では全く逆なんだもん 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
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XII3J いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
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J1Q >>81
> 沢太郎左衛門
地味だが有能だったみたいだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています