明治から戦前までの文化
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昭和初期のエログロナンセンスに興味がある。
現代と微妙に違うけど共通点も多いまるでパラレルワールドって感じ。 着物にブーツって好きだな。
あの頃の、着物に洋装のエッセンスを加えたような服装っていいよね。 やはり国民服が最高だな
女のもんぺ姿も溜まらん
防空頭巾なんか神だよね >>5
昭和初期には普通にあったみたいだけど
今でも稀に卒業式でその格好してる人は、いないことはない。 今はコスプレとしてだから、純粋な風俗として見るには無理がある。 だな。
懐古趣味で着ているのと今風のファッションとして受け入れるのでは意味が違う。
ただ、>>7は「稀に卒業式で」と限定しているから問題なし。
むしろそういう情報もどんどん知りたい。 昔のガラスは耐久性がなかったから
細かい格子の鉄枠等で支えてたって聞いた事あるけど、
ステンドグラスみたいになってて良いよね。
今みたいにまっすぐなガラスじゃなくて
牛乳瓶底みたいな歪み方をするから
景色は少し見辛いけど、それもまたおもしろい。
文化っていうより技術かな。 モダンとかなんとか言ってたのは都市部だけ
地方じゃ娘を売って生活費の足しにしていたのに文化もへったくれもない
戦前は国民の八割が貧困層。
都市部でもスラムが広がり残飯屋が運んでくる食事でやっと飯にありつける有様だった。 一口に戦前でも期間が長すぎるわけだが。敗戦直後とバブル期を
「戦後」で一括り(経済面で)するのは意味を成さないのと同様だ。
昭和10年初頭(敗戦前での経済MAX)の都市部の
公立小学校の朝礼風景の写真みると、女子児童は柄物のワンピースを
着て小奇麗な格好してるよ。都市部においては市民階級が根付いていた
のがこれでも分る。一方、農村部は貧しいままだったろうな。 東北の不作が続いたのが昭和7〜あたりだから
そこら辺からはかなり深刻なダメージを受けてたはず。
都市部は豊かだったけど、それでも農村を救え、不景気云々と
壮士が色々演説ぶったり、活動家がビラ蒔いたりしてる。
それで戦争起こして土地を拡大すれば良いという流れになって行くわけで。 なんとなくここ見てたら浅草の仁丹党を思い出したけど昭和61年に無くなっちゃったんだね。
秋葉原かなぁ、銀座かなぁ・・・チンチン電車が走ってて、道路の上に沢山の
電線が張り巡らされていたのをうっすら覚えてる。
HNKの朝の連ドラ見てて、着物が減って洋服がじわじわ増えて、ラジオとか電気扇とか、
電話とか、このくらいからこういうのがあったのかと興味深く見てるよ。 >>15
豊かというのは農村に比べたらといった気休めレベル程度で実際は大卒でも就職口に難渋していた
そもそも欧米に旅行や留学出来る人間なんて洋館に住んでるような金持ちくらい
その市民が国力は見かけ倒し、民主主義は刹那主義、文化は退廃的で道徳観に欠け
米英恐るに足らずと軍やマスコミを後押ししていた 白い鼻緒の朴歯の高下駄、少し色が褪せた金釦の詰襟に、腰には豆絞りの手拭い、
校章が燦然と輝く角帽を被り、トンビを羽織って岩波文庫片手に喫茶店で激論を
交わしているバンカラ大学生。街頭では「♪その名ぞ吾等が母校〜♪」校歌を歌う
学生達。どうやら六大学野球リーグ戦の戦勝祝いだろうか、街には【祝勝・○×大学】
の提灯や、紅白の餅を配る商店街の小父さん、小母さんたち。少し暮れかかってきた
夕空の赤い色が川面を照らしている…。私の祖父の学生時代、セピア色の写真を見て
大正浪漫、昭和レトロの良さを改めて感じます。 仁丹塔って凌雲閣に似てるなと思ったけど模していたんだね 古きよき時代。
今の世もそう言われる時が来るんだろうか? 人は過去にしがみつく生き物。
こんなくだらん現代でもよき時代と懐かしむ時はくるんだろな 今後、貧困層が増えていくんだから
当然あの頃はよかったってなるだろう これまでは階級間移動がある程度自由にできた「素晴らしい時代」だったからね。
今のワープアの子供は一生労働者階級から抜け出せないと思う。
アインシュタインが来日して講演会をした時、
素人ながら目を輝かせて原子物理学の話に聴き入っていたような
知識層は、既に育っていた。石原純や寺田寅彦の著作も人気があった。
芥川龍之介の後期のものを読むと、確かに極限まで追い詰められた、あまりにも凄惨な
話ではあるが、そこに描かれた生活文化を見れば「閉店後のレストランの中に見える
バナナの束」とか「ウィスキーの『ブラック・アンド・ホワイト』をソーダで割る」
という表現がたくさん出て来る。
その直後、戦争という大変な経験をしたことは確かだが、基層には現代へと続く隠れた道が既に出来つつあったのだ。 俺の親父(内地勤務の陸軍中尉)は48時間休暇のたびに
家の蓄音機でウィーン・フィルのSPを聴いていたそうな。 戦中でもドイツ・オーストリアはもちろんOK。ハンガリー、フィンランドも枢軸側。
ヴィシー政権だからフランス語の歌も問題なし。
8月上旬まではロシアも五族協和の範囲内。
フランコのスペインもサラザールのポルトガルもお咎めなし。
英語でさえ中央では「比島の統治に使う」と言えばノーチェック。
田舎では横文字=敵性語=勉強しなくていいい(ラクだ!)=攘夷!
だったようだが… >>32
五族協和にロシアは入らんだろw
「き〜たのロシアに降ればよい♪」(満洲娘の一節)は満洲生まれの親爺が
よく歌っていたわ 食文化とか面白そう。
海軍では戦艦勤務の士官はフレンチのコースみたいなのを食べてたんだよね?
一般でも都会のホテルや洋食屋ではコースやらカレーやらが美食として楽しまれてたのかな? まず外交上の必要から洋装がデフォルトとなり、宮中の晩餐がフランス料理に決定した。
(そのため、BGM担当宮内省楽部もあわてて西洋音楽を兼修した。)
そこから陸海軍の正餐も洋食となり、やがて末端の兵卒レベルまで
日本化された洋食(豚カツ、コロッケ、ライスカレーなど)が広まって行った。
除隊になった軍のコックや、ホテルや外国船のコックから独立した人たちが
故郷に帰って町に洋食屋を開いた。
兵隊に行って洋風の味を覚えた人達がやはり故郷に戻って、その常連客になったり
家でも洋風の献立を作ってみるようになった。
そうした人たちの曾孫たちが今、「食べログ」のイタリアンにコメントを書いている…… >>35 シナはまだ自由民権運動も弾圧する明治初期段階にしかならんのだが。
山本五十六は言ってるじゃないですか、一年ぐらいはもつって、勝った勝ったでいくだろうと。
だけど後はもう知らんて、そしたら天皇はそれでもいいからやれちゅーわけですよ。
やらないと自分の身が危ないと。スキャンダルをみなばらされて全部失うと、スイスに貯めた金も失うと。
なぜ石油があったか考えてみたことありますか、これはですね戦争のときに、
アメリカは日本には石油を売らないと、ところがパナマ国籍の船ならば、
石油を積んでいって日本に売っても、自分達は攻撃できないというような理屈で、
日本に石油を間接的に売るわけです、本当の話です、でこれに三菱が作った昭和通商という会社が、
それを引き受けるわけです、で昭和通商と三菱は同じですけど、そこでまずいので、
日本水産という会社が代行するわけです、魚を運ぶということではなくて、
魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって、持って帰るので戦争は長引くわけです。
太平洋でいっぱい戦争しました、あれはアメリカの石油をもらって、
アメリカの石油を使った軍隊と戦争ゴッコをやったっちゅーことですよ。
そしてある時になってもう石油をやらないという時に、天皇は気がつく、ああ遂に終わりがきたかと。
これが真相なんですよ。http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes
中曽根が自分の『天地有情』の中にも『回顧録』の中にも書いてます。
俺はCIAのテストを受けた、英語もあった、論文も書いた、パスした。
自分から進んでCIAのテストを受けたちゅーことですね。
それで彼はアメリカに派遣されます、で中曽根は自分で自慢げに書いてますけど、
色んな原子力発電所の法律は俺がみんな作ったってね、野党改進党です。
自民党、自由党時代で、その野党の若造が作れるはずがない。
そこの背後にCIAがみんな絡んでます。http://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4 1935年の東京カラー映像
ttp://www.youtube.com/watch?v=RTfdd68OkZ4 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています