【憲政】立憲政友会vs立憲民政党 part3【翼賛】
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文部大臣が鳩山で滝川事件と政府・議会ともに色々狂い始めた時期だねー>斎藤内閣 >>209
明治時代なら第三議会で
自由党の長谷川泰が「矛盾」を「ホコトン」と読んだなんてのが有名だね
もっとも高島俊男だったか
ホコタテならともかく盾をトンと読める人ならギャグに決まってると言ってた
だとすると吉田茂の銭形平次と同じで真に受けたほうがバカってことになる 今の自民と民主の様な政局
と似た様な物だったわけか 確かに、戦後の55年体制が終焉して、現在の民主・自民の政局は戦前の政民両党の時代に戻ったといえる その二党の差がでかすぎる上に憲政の常道のように政権交代が断続的にでも行われていないのが問題なんだけどな。
役人も財界人も民主党にそっぽ向いてる上に細かい分裂繰り返し先細りしている民主党では話にならん。 安達といったら協力内閣構想だけど
小沢は福田政権で大連立構想蹴ったから逆だな 小沢も最初は乗り気だったけど党内で猛反対されてオジャンになった>大連立
そこが似てる
小沢が乗り気じゃなかったというのは小沢周辺が撒いている話
小沢も一方のナベツネ・森元も狸だから事実がどうか決め手はないけど 政権交替した頃やたら三木小沢の比較論が出てたけど
鳩山関係で比較対象するなら森恪でしょ 森がこね三木がこねし天下もち、座りしままに食うは鳩山 >役人も財界人も民主党にそっぽ向いてる上に細かい分裂繰り返し先細りしている民主党では話にならん。
その線で考えると原亡き後の政友会に近似している様にも思える
まぁあの頃は元老の西園寺が加藤高明を嫌って対立党の憲政会に中々政権を渡さず
加藤友山本清浦で政権を回したから憲政会も冷や飯を食い続けた訳だが 原は政治家として色んな面で傑出してるからなぁ。
だからこそ原死後の政友会は低迷した。
じゃあ民主党はどうだったか?
資金工作でそれなりの力を持っていた小沢
若手としては政策プレゼンテーションが上手かった前原
個人資産とそれに群がる人脈は持っていた鳩山兄弟
取り敢えず世間的に知名度は高い菅
バランス感覚と責任感はあるけど他には何もない岡田
誰もが一部秀でた面あるけど、全体をまとめ政権とって何かやれるような人間が1人もいない。 華やカリスマ性は欠片も無いが竹下登が入れば上手く行きそうな感じ 政権交代した事で民主の役割は終わったと言える
今の民主の体制で政権が転がり込んでくる事はもうないだろ 一応議会制民主主義なんだぞ!wと確認するためだけの役割を果たして終わりな民主党つらー 男子の本懐って何で金解禁を正義みたいに書いてるの?
あんなん日本を外国の食い物にする政策以外の何物でもないだろ。 政友会と民政党は明治の自由党・改進党の時代から培ってきた地盤看板カバンがあったけど
自民党と民主党じゃ党の歴史が違いすぎる
日本で自民党並みの政党作るのは難しいだろうな 民主党も旧同盟や旧総評などの地盤看板カバンがあるよ 戦後に大々的な公職追放が無ければ社会党や官僚派が台頭せずに
戦前の政民両党(戦後でいう自由党と進歩党)が拮抗して二大政党制が定着してたかもしらん 米民主党も米労働党も支援母体は労組系だしそこは別にいい
でも意外に民主党ってそこの取り込みも甘いんだよなぁ
まだ社民党が形の上だけでも残ってて支援が分散しているせいもあるかも この30年ぐらいでできた企業では労組そのものがない場合もおおいしな。
60年代ぐらいまでは100人以上所属する企業で労組がないなんてことはまず考えられなかったけど、今では上場している企業で従業員数500人以上いても労組がないなんていうのはザラ。
地方の農家でも40代ぐらいの現役世代はドブ板選挙に駆り出されるの嫌って選挙や政治に絡んだ活動さする人はおらんし。
選ぶ側も50年前に比べると政治と向き会う機会が圧倒的に少ない。
低い投票率はこの影響があるんじゃなかろうか?
民主党の体たらくはそれを言い訳にはできんけどw あの頃の政治家の殺されっぷりは清清しいな。
管や野田、安倍、白川・黒田なんかは
是非にも襲われて欲しいわ。 ↑
危険人物
ただ、戦後はアメリカでは相変わらず暗殺多いけど日本ではめっきり無くなったのは
不思議ではある。
銃器の規制が関係してるのかな
戦前の暗殺もほとんど拳銃だし 銃器というとゴルゴ的な遠距離からの狙撃(暗殺)が想定されるけど
戦前の銃器を用いた政治家の暗殺の殆どは近距離からの狙撃
斎藤実とか40発以上ぶち込まれて蜂の巣状態だったというし 226は規模が違い過ぎてあれだけど
山本宣治を殺した奴は数年で社会復帰(後の消息は不明)
井上準之助を殺した血盟団の小沼も直ぐに出所してきて懲りずにウヨ活動
何か理不尽だ 右翼団体が政府要人を暗殺しすぎだろ。
治安維持法をもって潰すべきだった。 星亨が暗殺されなければ原敬の台頭は恐らく無かっただろうね
その原も暗殺されちゃうのも皮肉な話 浜口・井上VS犬養・高橋
全員暗殺されてる
幣原が無事だったのが不思議 若槻も地味に生き残ってる
濱口の後を継いだ時に殺されてもおかしくなかった 若槻はヘタレで助かった
協力内閣推進してたら確実に殺されてた 何度も暗殺の危機はあったが天寿を全うできた西園寺の強運 >>249
若槻は226の時は襲撃計画の対象になってたんだっけ? なってない。
226の時点ですでに過去の人状態>若槻 矢次一夫だったかが書いてたけど、戦前には「重臣暗殺未遂業」と揶揄されるような
連中がいたとかいないとか。
実際に暗殺をしなくとも、暗殺を計画して警察に検挙されて留置所に入れられたり監獄に送られたりして釈放されると、
娑婆に出てから周囲から「あいつは大物だ」みたいに持ち上げられて、あちこちで「話を聞かせろ」とか呼ばれて、
そこに顔を出すといくらか金を包んでくれるから、それでけっこう食って行けるような感じになるらしい。 左翼社会主義から国粋主義に転向した奴も多いからな
社会大衆党も保守二大政党より軍部シンパになったし >>247
☆の書生をする予定だった三木武吉の人生も確実に変わっただろうな やる夫自民党スレを見てると戦前からの議会人が思ったよりも戦後も活躍してるんだよな。 宇垣は選挙に当選した直後にぶっ倒れなければ防衛庁長官位にはなれてたのかね 中谷元が小泉政権で就任するまで退役した身であっても
元軍人自衛官は防衛庁長官にしちゃいけない
不文律みたいなのがあったしね。
源田だってなってないし 確かに野村や源田のように開戦時は現役ではないし
協調派の加藤や浜口内閣では良いけど
近衛内閣は汚点になるから
大臣となると微妙な感じですわな
但し、防衛庁長官はさすがに防衛官僚が大反対して無理だわ
制服組みを刺激するからね
他にあるかと言っても爺さんができるポストがないわね 憲法の文民規定を、「一度でも軍人やってたやつはアウト」だと勘違いしてるやつが多かった50年代と60年代でそれは無理
冗談みたいだが、本当の話だ >>259
三木武吉より年上なのに、議会で後輩だったというだけで遅れを取った松村謙三が
戦後に自民党の派閥の長になったりな 松村は岸政権以降反主流を貫いたおかげで
党人派の上がりポストといえる議長には結局なれなかった 井上・浜口の断行した金解禁って世界恐慌後に
ユダヤどもが安全資産の金を保有しやすくする
ためのものだったんだろ?
井上はモルガン=ユダヤ金融の手下だ。
男子の本懐とかその辺分かってて書いてるのだろうか? >>267
日露戦争でどれだせユダヤから金を借りたと思ってるんだ? 日本を借金漬けにしたのは高橋是清だな。
井上とは違う路線だが売国奴であることは同じ。
白川と黒田みたいなもんだ。 日露戦争のころでいえば、軍事費の膨張の大部分は海軍だぞ
軍隊に何万人か集めるよりも、軍艦を何隻か購入する方が高くつくんだから なぜ高橋財政の話をしているのに日露時代の話に?w
主戦場が海の時期と陸の時期があって、その時期によってどこに重点的に予算配分するかは変わるんだからお前さんの言う話は間違ってはないけどズレてるよw
その時期の話をしたいんだろうけど、少し我慢しなちゃい >273
>なぜ高橋財政の話をしているのに日露時代の話に?
>>268が「日露戦争でどれだせユダヤから金を借りたと思ってるんだ? 」という発言を行っているからだが?
日本が借金に苦しむようになったのは日露戦争の戦費支払いに苦しむようになってからだし、
その時に増えてしまった陸海軍費の圧縮を行えなかったからだ。
その意味で、井上が緊縮財政に舵を切ったのも、高橋が借金の増額を行う羽目になったのも、
陸軍と海軍のせいだよ。
それから、昭和期の高橋財政において軍事費が膨張したのは陸軍が行った満州事変に始まる大陸侵出に原因があるのは間違いないが、
海軍もまた「陸軍の予算がそれだけ増えたなら、海軍の予算も同じくらい増やせ」という形で乗っかっていったので、
軍事費の増加という点では従犯と言っていい。 横だが、
陸軍悪玉海軍善玉は俺も辟易しているが
大正の軍縮を素っ飛ばして為にする論では誰も納得しないんじゃねぃ? 海軍艦隊派と一緒になって統帥権を俎上に上げた
犬養政友会の例を見るまでもなく政治家の側も大概腐ってた >>275
大正の軍縮って山梨軍縮と宇垣軍縮が有名だけど、海軍の方もワシントン条約に調印するという形で
軍縮をしようとはしてる。
ただ、それにしたって積み重なった借金の額に比べて、軍縮で浮かした金額があまりにも低すぎた。
日露戦争は外交面や軍事面では一応の成果を出したけど、戦費の調達とその財源の穴埋めという面では
敗戦したのに近かった。なんたって賠償金が取れなかったんだから。
費やした戦費が丸々国家にとっての損失となり、増税で賄えなかった分は借金となった。
本当なら日露戦争で「勝った」って浮かれていないで、金をドブに捨てる結果を生んだことを
為政者が国民に対して詫びて、陸海軍のトップは引責辞任したり、戦地から戻ってきた将官たちは
クビにしたうえで恩給もカットするくらいのことをしなけりゃならなかったんだよ。
それを浮かれて爵位を授与したり勲章をばら蒔いたりしたのが間違いだった。
>>276
昭和に入って軍が暴走したのも、その軍の暴走に国民が一定の支持を与えたのにも、
政治家と政党政治の駄目っぷりが半端なかったからってのも抑えておくべきだわな。
軍人のアホさ加減も相当だったが、政党政治家のスカタンぶりも負けてなかった。 統帥権の問題を政治の側できっちり管理できる仕組み造りを
日露戦争以後構築しなかった出来なかった問題は大きいよね
特定の人物に頼った元老制度じゃ遠からず破綻してしまうのは目に見えていたわけだしね 明治維新という動乱期を潜り抜けた政治家たちが明治天皇を支えつつ、
明治天皇もその政治家たちを「元老」という位置づけを与えることで
国政のかじ取りをさせていたという形で安定していた明治時代の政治構造が、
大正天皇の時代に完全に壊れてしまったのは痛かった。
その統治構造の代替をするはずだった政党政治があまり健全な発達を遂げずに
私利私欲むき出しの政治闘争に明け暮れるばかりだったからねぇ。
原敬が暗殺されずにもう少し長く政友会を率いていたら、
あるいは浜口雄幸がテロに倒れずに民政党内閣が続いていたなら、
またちょっと別の展開があったかもしれないとも思うけど。
この二人はどちらも軍部を統制して政治がイニシアチブを取る体制を作り上げようと考えていた。
原に関しては田中義一・加藤友三郎と連携を取れる体制が出来ていたし、
浜口の方は、宇垣一成・財部彪とどちらも軍縮を実行する陸相・海相に抱えていた。
原にしても浜口にしても、それぞれに問題があって一長一短という部分はあるけれども
軍を政治のコントロール下に置こうという意思と気迫を持っていた点は、評価していい。
その後の歴史の流れを見ても、軍が政治のコントロールから外れてしまったことが昭和という
時代の悲劇をもたらした最大の原因だったから。 原・濱口両氏に言える事は互いに官僚歴がありながらも衆議院議員だった事か
加藤はパトロンの三菱岩崎家の財力にモノを言わせて成り上がった口だが
原濱口は裸一貫で立身出世した人物でもある >>277
まじめに論じたいなら、大正の軍縮についてまともな本を一冊でも読むべきだね。
多分高校生ぐらいで社会経験が全くないのだろうが、最初に結論ありきのうえに
荒唐無稽な対案では、青臭い書生論でしかない。議論の叩き台にもならない。 元老(候補)の不在が招いた結果が昭和期以降の軍拡を招いたという説は通説としてあるけどね
281がどういう書籍で勉強したのか気になる その元老格にゆくゆくはなるだろう原が暗殺されたのが痛かっただろうな。
バランス感覚があって天皇からの信頼も厚く、敵もいない牧野伸顕だけでは実際の政治やら極端な強権発動してでも陸海大臣を罷免できず結局内閣制と憲法を悪用されてしまう。 実際テロってなると政治家もビビるわね
でもって国は借金で首回らん
どうすりゃいいのさ そんな時の土下座外交やるぐらいの強かさがあればな。
維新直後の大久保のような柔軟性がある政治家おらんけど。
清沢洌の本読んで改めて大久保の化け物ぶりに鳥肌立ったわw 元老制度に否定的で議会主義だった西園寺公望が
軍部の暴走の原因といっていいだろう >>282
>281がどういう書籍で勉強したのか
>>274を一読して、日露戦争と日中戦争の点と点を結んだだけで大正時代の軍縮なんか始めて知ったんだろうなということと、
>>277を読んで、その間の日本や世界の社会情勢を全く知らないから、日本で革命が起きかねないトンデモ対案を夢想しているのだろうと、
読み取れる程度。
君のネタモトの歴史教師は未だに「日本の戦後復興は朝鮮戦争特需のおかげ」とノタマウ経済音痴なのだろうと推察もできる。 >>281
>まじめに論じたいなら、大正の軍縮についてまともな本を一冊でも読むべきだね。
では、あなたが読んできたのであろう「まともな本」の書名を一冊でも挙げてみてくださいな。
上から目線でモノを言う以上は、それなりの本を読んできたのでしょうから。
>最初に結論ありきのうえに 荒唐無稽な対案では、青臭い書生論でしかない。
それは
<277>での、「本当なら〜するくらいのことをしなけりゃならなかった」という
部分に対しての話でしょうか?
こちらの発言を「荒唐無稽な対案」とか言っている時点でトンチンカンな批判ですね。
あくまで「本当ならこうすべきだった」という話をしているだけで、それが当時の政治状況において
取りうる手段でなかったことくらいは承知していますよ。
だから「本当なら」という枕詞をつけたのだということくらい、普通に日本語の読解力があれば
理解可能だと思うのですが。
歴史事象を考察する際には、「本当なら、満州事変において大権干犯を犯した関東軍や
朝鮮軍は罰せられるべきだった」とか、「本当なら、サイパンが陥落して制空権を失い、
日本全土が空襲をうける状態になった昭和19年の後半の時点で講和を申し出るべきだった」とか、
その当時の政治状況を考えれば採用するのが難しかった選択肢だからこそ、
「本当なら」という枕詞をつけて発言することが多いのではないでしょうか。
それを頭っから「荒唐無稽な対案」とかいって難癖をつけていたのでは話にもなりませんよ。 >>282
元老(候補)の不在が招いた結果が昭和期以降の軍拡を招いた
>>283
元老格にゆくゆくはなるだろう原が暗殺されたのが痛かっただろうな。
元老というのは、単に年齢を重ねた政治家というのではなく、
「維新に功績のあった政治家」という意味あいの方が強いので、
原則的には補充が出来ない存在でした。
明治憲法体制では天皇が総ての大権を総攬するというタテマエの下に、
様々な政治勢力(貴族院・枢密院・内閣・陸海軍、その他)が並列的に存在しており、
それを制度外の存在である「元老」という存在が調整したり統合したりすることで
機能するという性質を持っていたから、いずれは「元老」に代わる政治の統合主体が
必要とされていました。
西園寺はその元老に代わる統合主体を「政党政治」に求めて、議会政治の発達と政権を
担える力を持つ政党の育成に賭けていたのでしょう。
だからこそ、自分を「最後の元老」と位置付けて、元老の後継者を作ろうとはしなかった。
明治憲法体制の制度外の存在である元老が、明文化されていない政治力を行使して
国政に関与するのではなく、衆議院において多数を占めた政治集団の首領が、
他の政治勢力を統御して国家を運営するという方向に持っていこうと考え、
実際それは原内閣や浜口内閣が目指していた方向性でした。
だからこそ、暗殺・テロという手段でこれらの内閣が瓦解してしまったのを
惜しいと思ってしまうんですよね。 >>285
>実際テロってなると政治家もビビるわね
>でもって国は借金で首回らん
>>286
>そんな時の土下座外交やるぐらいの強かさがあればな。
ここら辺が、それなりに安定した社会で育ってきた大正〜昭和期の政治家の
弱点でしょうね。
少なくとも、幕末維新の動乱をくぐってきた元老と呼ばれる政治家たちは、
テロや暗殺を実行したり、身内の跳ね返り分子を粛清したりといった形で
自分の手を血で汚すことを厭わなかった。
そして、因果が回り回っていつかは自分も暗殺されるかもしれない
という覚悟を持ったうえで国政の舵取りを行っていた。
だからこそリスク計算には慎重だったし、無謀な戦争を仕掛けたりしないように
自省もするし、勝てない戦争をする羽目になるくらいだったら恥を忍んで
相手国に土下座するようにして戦争を回避する選択を行いえた。
日清戦争後の三国干渉などがその良い例。
昭和の政治家は、軍人もふくめて、リスク計算をしたうえで結論を出したり、
対外折衝をする上でのリアルな感覚が欠落している人間が多すぎた。 >>287
横田と是清が勝っていれば問題なかったのにねえ。
床次でもよかった。しかし結果は加藤で構想が崩れた。。 >君のネタモトの歴史教師は未だに「日本の戦後復興は朝鮮戦争特需のおかげ」とノタマウ経済音痴
何だネトウヨか
大東亜戦争はアジア解放の為だったーってかw 軍からも元老入れないと編成含む予算の調整できんかと。
大正末〜昭和初期に陸海大臣経験して総理までやったのは斉藤、田中他だれだっけ?
まあ、田中は青島の件もあってまず元老扱い受けることはないだろうけど。 権兵衛は能力高いのにシーメンス・虎の門両事件のせいで…
シーメンスパージを受けなければ斎藤はもう少し早く総理候補になっていたかも 宇垣は民政党版オラが宰相に成れた可能性があったのに。
踏ん切りが悪いのが致命傷。 >>293
>西園寺が元老後継者の育成を怠ったのが悪い
>>296
>軍からも元老入れないと編成含む予算の調整できんかと。
元老ってのは「明治維新の成功に功績があった」という政治資産によって
存在していた、いわば「既得権益」みたいなものなんだから、
新しく元老を作るとか入れるとかってことは出来ないんだって。
「元老に準ずる存在」として周囲が認めるような人間が調整力を発揮する
ことがあったとしても、それはあくまで「元老」ではない。
元老の政治力は「明治維新を主導した」という過去の経歴によって生じるもの。
だから、維新の動乱が収まった後の明治や大正の政界でどれだけ実績を積もうと、
元老クラスの政治力を獲得したり、周囲が元老並みに扱うということは起こらない。
制度外の力が意味を持ったのは、あくまで彼らが「建国の英雄」みたいな扱いを
受けていたからこその話であって、建国が終わった後の能吏がどれだけ実績を
上げても、その政治力は元老には及ばない。
その元老ですら、予算の編成に毎年苦労していて、安定した予算の成立と執行が
行われた期間なんて桂園内閣期くらいのものだ。
その経験があるからこそ、衆議院という「国民の負託」を受けた議会で
多数を占めた政党の代表が政治権力を握って予算の編成や調整を行う
というルールが新しく作り出されようとしていたんだ。
実際、原内閣も浜口内閣も閣僚をきちんと統制していて陸海軍の軍縮に向けて
舵を切る政策を執っていた。
言ってみれば、時を経ることで「建国の英雄」という威光が薄れたので、
「国民からの負託」という威光が政治において意味を持ち始めた時期だった
というのが一番近い。 呼びかたはともかく
明治憲法下では陸海軍を抑えられる
元老的ボジションが必須だったのはたしかだ >>303
元老だがらと言って昭和の軍は抑えられない。 >>303
原や浜口はそれを抑えられるような政策を実行に移してただろ?
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加藤友三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E
ワシントン会議
1921年(大正10年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席。
会議に向けて出発する際、当時の原敬首相より「国内のことは自分がまとめるから、
あなたはワシントンで思う存分やってください」との確約を得た。
(略)
米国案の五・五・三の比率受諾を決意した加藤は、海軍省宛伝言を口述し、
堀悌吉中佐(当時)に次のように筆記させている。
「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。
……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。
しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。
しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。
国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」
――――――――――――――――――――――――
こういう認識を軍人に持たせ、軍縮へと舵を切らせたことそのものが
政党政治家である原の功績だと言える。
ロンドン軍縮会議で統帥権干犯との非難を受けても条約締結へと進んだ
浜口内閣にも同じことが言える。
この二人が暗殺されさえしなければ、この方向へと導いていただろうと想像できる。
陸海軍を抑えるってのは、組織的・制度的に従属させることではなく、
その組織のトップの同意や合意を得て、組織の改革や改変を受け入れ
させることによっても達成できる。
海軍が二度の軍縮条約を受け入れたのも、陸軍の田中義一や宇垣一成が
軍縮を受け入れたのも、政党政治の成立に伴って力を持つようになった
「国民の声」というものの存在にあらがえなくなったからだ。
現実的に国家予算と相談した時にこれ以上の軍備拡大は難しいという
現実を突き付けられた陸海軍は、それに抵抗するという選択をするのが
難しい状況となった。
そうした「政党政治優位・陸海軍の劣勢」という状況をひっくり返したのが
関東軍が起こした満州事変だった。
今上天皇が「満州事変に始まるこの戦争」と今年の新年のお言葉の中で
述べたように、昭和の戦争の始まりは満州事変に端を発している。
対外的な始まりであるのと同時に、国内的な始まりでもあった。
政党政治を破壊し、既存の帝国憲法体制を捻じ曲げる軍の暴走の
始まりだったという意味で。 暴走する中堅幕僚たちをおさえられる気がしない
田中や宇垣でもダメだったし 田中や宇垣程度じゃ無理でしょう
山縣が抑えつけてようやくといったところ >>306
幣原外交は堅実に行われており、米英を中心とした国際協調体制の
枠組みの保持を最優先としていた。
清朝崩壊後の中国国内での革命外交が進むことにより、
対中関係が行き詰まっていただけで、
全体としてみれば上々の首尾を遂げている。
加藤内閣-第一次若槻内閣で行われていた幣原の外交施策は上手くいっていたし、
憲政会が倒れたのはもっぱら国内事情によるもので外交の失敗ではない。
またその後を受けた田中内閣時の外交施策にしても、大きな施策変更は
対中関係のみであり、米英を中心とした国際協調体制を遵守するという
姿勢自体は幣原外交と何ら変わってはいない。
そして田中内閣が倒れたのは、張作霖爆殺事件の処理の拙さを天皇に
叱責されたためという、ある意味では外交失策に拠る原因だった。
その後の浜口内閣でもロンドン海軍軍縮条約の締結などを通じて、
国際協調体制の強化を推進しており、安全保障体制を確保することで
国際的な秩序の確立を優先課題としていた。
満州事変という関東軍の謀略行為さえなければ、この外交的な枠組みは
維持されていた可能性は相応に高い。
幣原外交が失敗したわけではない。
国民を騙す形で行われた軍の暴走がまず有り、その軍の暴走を暴走とは
知らされないで国民が支持してしまったゆえに、幣原外交が退場を
余儀なくされたというのが実情だ。 >>307
>暴走する中堅幕僚たちをおさえられる気がしない
浜口内閣が存続していて、宇垣が陸相として省内に睨みを利かせていたなら
中堅幕僚の暴走自体が無かったろう。
中堅の暴走は、浜口へのテロによって「自分が首相になれるかも」という
野心を抱いた宇垣が三月事件というクーデター計画に色気を見せたことと、
それが未発に終わった時にだれも処分を受けなかったという前例が
中堅の軍官僚たちを増長させたからこそ起こった事態。
さらに言えば、満州事変において陸軍上層部の不拡大方針を蹴とばした
関東軍の石原や板垣といった連中の暴走を、宇垣系の南次郎陸相の更迭後に
陸相に就任した荒木貞夫らが追認したことでさらにブーストが掛かった。
その意味で、総ての発端は浜口へのテロがスタートだったといえる。 >加藤内閣-第一次若槻内閣で行われていた幣原の外交施策は上手くいっていたし、
南京事件の顛末を見ろよ上手く行ってない >>311
<309>をちゃんと読め。
>幣原外交は堅実に行われており、米英を中心とした国際協調体制の
>枠組みの保持を最優先としていた。
>清朝崩壊後の中国国内での革命外交が進むことにより、
>対中関係が行き詰まっていただけで、
>全体としてみれば上々の首尾を遂げている。
1927年の南京事件は、あくまで中国サイドの暴走の結果として日本が若干の被害を受けただけのこと。
被害を受けたのは英米をはじめとして中国に権益を持っていた西欧諸国も同じであり、
事件後はこれらの国が中国側に対して賠償請求を求めるなどの姿勢を取ることになって、
むしろ中国サイドの失点となっている。
日本はこの事件への自制的な対応を取ったことを通じて、中国側に恩を売ることになり、
権益や経済的な利得を要求しやすい外交的立ち位置を手に入れた。
その有利な立場が毀損されたのは、出先で暴走した関東軍による張作霖爆殺事件によって
醸成された排日気運による。
あんなことをせずにうまく立ち回り、中国に恩を売って市場に食い込み、経済的利益を得て
食料資源や鉱物資源等の安定した輸入の確保をしていたなら、そもそも大陸へ軍事的な侵攻を
する必要も無かった。
中国への侵攻さえなければ、米英とも協調関係を保って経済的な成長を続けることも出来ていた。
当時の日本の貿易の全体額を考えれば、対英・対米貿易こそが日本の生命線であり、
対中貿易なんて補助的なものに過ぎなかったんだから、対英米協調さえ保っていれば
日本は安泰だった。 多くの政治家など日本の指導部は
米英や中国国民政府と協調して反共陣営の一員として
やっていこうと考えていたのに
一部の軍人などの過激派が中国と戦争はじめて
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