【大逆事件】幸徳秋水が処刑された。
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1911年
1月18日 大審院、幸徳秋水ら24人に死刑判決、新田融に懲役11年、新村善兵衛に懲役8年の判決。1審限りで控訴なし。
1月19日 12人を無期に減刑
1月24日 幸徳秋水ら11人の死刑執行
1月25日 管野スガ死刑執行
明治天皇を爆裂弾で暗殺しようとした計画が発覚、この事件をきっかけに多くの社会主義者、アナキストに対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、社会主義者を根絶する弾圧を政府が主導し、捏造したとされる事件。
戦後に関係資料が発見されて事件の全容が明らかになった。
暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の4名に過ぎなかった。
1910年5月25日に多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決。
1月24日に11名が、1月25日に管野スガが処刑された。 第一章 死生
一
わたくしは、死刑に処せらるべく、いま東京監獄の一室に拘禁されている。
ああ、死刑! 世にある人びとにとっては、これほどいまわしく、おそろしい言葉はあるまい。
いくら新聞では見、ものの本では読んでいても、まさかに自分が、このいまわしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は、一個(ひとり)もあるまい。
しかも、わたくしは、ほんとうにこの死刑に処せられんとしているのである。
平生わたくしを愛してくれた人びと、わたくしに親しくしてくれた人びとは、かくあるべしと聞いたときに、どんなにその真疑をうたがい、まどったであろう。
そして、その真実なるをたしかめえたときに、どんなに情けなく、あさましく、かなしく、恥ずかしくも感じたことであろう。
なかでも、わたくしの老いたる母は、どんなに絶望の刃(やいば)に胸をつらぬかれたであろう。
されど、今のわたくし自身にとっては、死刑はなんでもないのである。
わたくしが、いかにしてかかる重罪をおかしたのであるか。
その公判すら傍聴を禁止された今日にあっては、もとより、十分にこれをいうの自由はもたぬ。
百年ののち、たれかあるいはわたくしに代わっていうかも知れぬ。いずれにしても、死刑そのものはなんでもない。
これは、放言でもなく、壮語でもなく、かざりのない真情である。
ほんとうによくわたくしを解し、わたくしを知っていた人ならば、またこの真情を察してくれるにちがいない。
堺利彦は、「非常のこととは感じないで、なんだか自然の成り行きのように思われる」といってきた。
小泉三申は、「幸徳もあれでよいのだと話している」といってきた。
どんなに絶望しているだろうと思った老いた母さえ、すぐに「かかる成り行きについては、かねて覚悟がないでもないからおどろかない。
わたくしのことは心配するな」といってきた。
死刑! わたくしには、まことに自然の成り行きである。これでよいのである。かねての覚悟あるべきはずである。
わたくしにとっては、世にある人びとの思うがごとく、いまわしいものでも、おそろしいものでも、なんでもない。
わたくしが死刑を期待して監獄にいるのは、瀕死の病人が、施療院にいるのと同じである。
病苦がはなはだしくないだけ、さらに楽かも知れぬ。
これはわたくしの性の獰猛(どうもう)なのによるか。
痴愚(ちぐ)なるによるか。
自分にはわからぬが、しかし、今のわたくしは、人間の死生、ことに死刑については、ほぼ左のような考えをもっている。 万物はみなながれさる、とへラクレイトスもいった。諸行は無常、宇宙は変化の連続である。
その実体(サブスタンス)には、もとより、終始もなく、生滅もないはずである。
されど、実体の両面たる物質と勢力とが構成し、仮現する千差万別・無量無限の形体(フォーム)にいたっては、常住なものはけっしてない。
彼らすでに始めがある。かならず終りがなければならぬ。形成されたものは、かならず破壊されねばならぬ。成長する者は、かならず衰亡せねばならぬ。厳密にいえば、万物すべてうまれいでたる刹那より、すでに死につつあるのである。
これは、太陽の運命である。地球およびすべての遊星の運命である。まして地球に生息する一切の有機体をや。
細は細菌より、大は大象にいたるまでの運命である。これは、天文・地質・生物の諸科学が、われらにおしえるところである。
われら人間が、ひとりこの拘束をまぬがれることができようか。
いな、人間の死は、科学の理論を待つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、なんびともあらそうべからざる事実ではないか。
死のきたるのは、一個の例外もゆるさない。死に面しては、貴賎・貧富も、善悪・邪正も、知恵・賢不肖も、平等一如である。なにものの知恵も、のがれえぬ。なにものの威力も、抗することはできぬ。
もしどうにかしてそれをのがれよう、それに抗しようと、くわだてる者があれば、それは、ひっきょう痴愚のいたりにすぎぬ。
ただこれは、東海に不死の薬をもとめ、バベルに昇天の塔をきずかんとしたのと、同じ笑柄(しょうへい)である。
なるほど、天下多数の人は、死を恐怖しているようである。しかし、彼らとても、死のまぬがれぬのを知らぬのではない。
死をさけられるだろうとも思っていない。おそらくは、彼らのなかに一人でも、永遠の命はおろか、大隈伯のように、百二十五歳まで生きられるだろうと期待し、生きたいと希望している者すらあるまい。
いな、百歳・九十歳・八十歳の寿命すらも、まずはむつかしいとあきらめているのが多かろうと思う。
はたしてそうならば、彼らは単純に死を恐怖して、どこまでもこれをさけようともだえる者ではない。
彼らは、明白に意識せるといなとは別として、彼らの恐怖の原因は、別にあると思う。
すなわち、死ということにともなう諸種の事情である。
その二、三をあげれば、(第一)天寿をまっとうして死ぬのでなく、すなわち、自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾その他の原因から夭折し、当然うけるであろう、味わうであろう生を、うけえず、味わいえないのをおそれるのである。
(第二)来世の迷信から、その妻子・眷属にわかれて、ひとり死出の山、三途(さんず)の川をさすらい行く心ぼそさをおそれるのもある。
(第三)現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。
(第四)その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある。
(第五)子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮する愛着に出るのもあろう。
(第六)あるいは単に臨終の苦痛を想像して、戦慄するのもあるかも知れぬ。
いちいちにかぞえきたれば、その種類はかぎりもないが、要するに、死そのものを恐怖すべきではなくて、多くは、その個々が有している迷信・貪欲・痴愚・妄執・愛着の念をはらいがたい境遇・性質等に原因するのである。
故に見よ。彼らの境遇や性質が、もしひとたび改変せられて、これらの事情から解脱するか、あるいはこれらの事情を圧倒するにいたるべき他の有力なる事情が出来(しゅったい)するときには、死はなんでもなくなるのである。
ただに死を恐怖しないのみでなく、あるいは恋のために、あるいは名のために、あるいは仁義のために、あるいは自由のために、さては現在の苦痛からのがれんがために、死に向かって猛進する者すらあるではないか。
死は、古(いにしえ)からいたましいもの、かなしいものとせられている。
されど、これはただその親愛し、尊敬し、もしくは信頼していた人をうしなった生存者にとって、いたましく、かなしいだけである。
三魂・六魂一空に帰し、感覚も記憶もただちに消滅しさるべき死者その人にとっては、なんのいたみもかなしみも、あるべきはずはないのである。
死者は、なんの感ずるところなく、知るところなく、よろこびもなく、かなしみもなく、安眠・休歇にはいってしまうのに、これを悼惜(とうせき)し、
慟哭する妻子・眷属その他の生存者の悲哀が、幾万年かくりかえされた結果として、なんびとも、死は漠然とかなしむべし、おそるべしとして、あやしまぬにいたったのである。
古人は、生別は死別より惨なりといった。死者には、死別のおそれもかなしみもない。惨なるは、むしろ、生別にあると、わたくしも思う。
なるほど、人間、いな、すべての生物には、自己保存の本能がある。栄養である。生活である。
これによれば、人はどこまでも死をさけ、死に抗するのが自然であるかのように見える。されど、一面にはまた種(スペーシス)保存の本能がある。
恋愛である。生殖である。これがためには、ただちに自己を破壊しさってくやまない、かえりみないのも、また自然の傾向である。
前者は利己主義となり、後者は博愛心となる。
この二者は、古来氷炭相容れざるもののごとくに考えられていた。また事実において、しばしば矛盾もし、衝突もした。
しかし、この矛盾・衝突は、ただ四囲の境遇のためによぎなくせられ、もしくは養成せられたので、その本来の性質ではない。
いな、彼らは、完全に一致・合同しうべきもの、させねばならぬものである。
動物の群集にもあれ、人間の社会にもあれ、この二者のつねに矛盾・衝突すべき事情のもとにあるものは滅亡し、一致・合同しえたるものは繁栄していくのである。
そして、この一致・合同は、つねに自己保存が種保存の基礎であり、準備であることによっておこなわれる。豊富なる生殖は、つねに健全なる生活から出るのである。かくて新陳代謝する。
種保存の本能が、大いに活動しているときは、自己保存の本能は、すでにほとんどその職分をとげているはずである。果実をむすばんがためには、花はよろこんで散るのである。
その児の生育のためには、母はたのしんでその心血をしぼるのである。
年少の者が、かくして自己のために死に抗するのも自然である。長じて、種のために生をかろんずるにいたるのも、自然である。
これは、矛盾ではなくして、正当の順序である。人間の本能は、かならずしも正当・自然の死を恐怖するものではない。
彼らは、みなこの運命を甘受すべき準備をなしている。
故に、人間の死ぬのは、もはや問題ではない。問題は、実に、いつ、いかにして死ぬかにある。むしろ、その死にいたるまでに、いかなる生をうけ、かつ送ったかにあらねばならない。
いやしくも、狂愚にあらざる以上、なんびとも永遠・無窮に生きたいとはいわぬ。
しかも、死ぬなら天寿をまっとうして死にたいというのが、万人の望みであろう。一応は無理からぬことである。
されど、天命の寿命をまっとうして、疾病もなく、負傷もせず、老衰の極、油つきて火の滅するごとく、自然に死に帰すということは、その実はなはだ困難のことである。
なんとなれば、これがためには、すべての疾病をふせぎ、すべての災禍をさけるべき完全な注意と方法と設備とを要するからである。
今後、幾百年かの星霜をへて、文明はますます進歩し、物質的には公衆衛生の知識がいよいよ発達し、
一切の公共の設備が安固なのはもとより、各個人の衣食住もきわめて高等・完全の域に達すると同時に、精神的にもつねに平和・安楽であって、
種々の憂悲・苦労のために心身をそこなうがごときことのない世の中となれば、人はたいていその天寿をまっとうすることを得るであろう。
わたくしは、かような世の中が、一日も早くきたらんことをのぞむのである。
が、すくなくとも、今日の社会、東洋第一の花の都には、地上にも空中にも、おそるべき病菌が充満している。
汽車・電車は毎日のように衝突したり、人をひいたりしている。米と株券と商品の相場は、刻々に乱高下している。
警察・裁判所・監獄は、多忙をきわめている。
今日の社会においては、もし疾病なく、傷害なく、真に自然の死をとげうる人があるとすれば、それは、希代の偶然・僥倖といわねばならぬ。
実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁(よう)して、その衣食住はほとんど完全の域に達している人びとでも、またかの律僧や禅家などのごとく、
その養生のためには常人の堪えるあたわざる克己・禁欲・苦行・努力の生活をなす人びとでも、病なくして死ぬのは、きわめてすくないのである。
いわんや、多数の権力なき人、富なき人、よわき人、おろかなる人をやである。彼らは、たいてい栄養の不足や、過度の労働や、汚穢(おわい)なる住居や、
有毒なる空気や、激甚なる寒暑や、さては精神過多等の不自然な原因から誘致した病気のために、その天寿の半ばにも達せずして、紛々として死に失せるのである。
ひとり病気のみでない。
彼らは、餓死する。凍死もする。溺死(できし)する。焚死(ふんし)する。震死する。轢死(れきし)する。工場の機械にまきこまれて死ぬる。鉱坑のガスで窒息して死ぬる。私欲のために謀殺される。
窮迫のために自殺する。今の人間の命の火は、油がつきて滅するのでなくて、みな烈風に吹き消されるのである。
わたくしは、いま手もとに統計をもたないけれど、病死以外の不慮の横死のみでも、年々幾万にのぼるか知れないのである。
鰯(いわし)が鯨(くじら)の餌食となり、雀が鷹の餌食となり、羊が狼の餌食となる動物の世界から進化して、まだ幾万年しかへていない人間社会にあって、
つねに弱肉強食の修羅場を演じ、多数の弱者が直接・間接に生存競争の犠牲となるのは、目下のところやむをえぬ現象で、天寿をまっとうして死ぬというねがいは、無理ならぬようで、その実、はなはだ無理である。
ことにわたくしのようなよわくおろかな者、まずしくいやしき者にあっては、のぞむべからざることである。
いな、わたくしは、はじめよりそれをのぞまないのである。
わたくしは、長寿かならずしも幸福ではなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。
もしまた人生に、社会的価値(バリュー)とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・影響のいかんにあると信じていた。今もかく信じている。
天寿はとてもまっとうすることができぬ。ひとり自分のみでなく、天下の多数もまたそうである。
そして、単に天寿をまっとうすることが、かならずしも幸福でなく、かならずしも価値あるものでないとすれば、われらは、病死その他の不自然の死を甘受するのほかはなく、また甘受するのがよいではないか。
ただわれらは、いかなるとき、いかなる死でもあれ、自己が満足を感じ、幸福を感じて死にたいものと思う。そして、その生においても、死においても、自己の分相応の善良な感化・影響を社会にあたえておきたいものだと思う。
これは、大小の差こそあれ、その人びとの心がけ次第で、けっしてなしがたいことではないのである。
不幸、短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君のごとく、餓しても伯夷や杜少陵のごとく、凍死しても深草少将のごとく、溺死しても佐久間艇長のごとく、
焚死しても快川国師のごとく、震死しても藤田東湖のごとくであれば、不自然の死も、かえって感嘆すべきではないか。
あるいは道のために、あるいは職のために、あるいは意気のために、あるいは恋愛のために、あるいは忠孝のために、彼らは、生死を超脱した。
彼らは、おのおの生死もまたかえりみるにたりぬ大きなあるものを有していた。
こうして、彼らのある者は、満足にかつ幸福に感じて死んだ。そして、彼らのあるものは、その生死ともに、すくなからぬ社会的価値を有しえたのである。
如意輪堂の扉にあずさ弓の歌を書きのこした楠正行(まさつら)は、年わずかに二十二歳で戦死した。
しのびの緒をたち、兜に名香を薫(くん)じた木村重成(しげなり)もまた、わずかに二十四歳で戦死した。
彼らは各自の境遇から、天寿をたもち、もしくは病気で死ぬことすらも恥辱なりとして戦死をいそいだ。
そして、ともに幸福・満足を感じて死んだ。そしてまた、いずれも真にいわゆる「名誉の戦死」であった。
もし赤穂浪士をゆるして死をたもうことがなかったならば、彼ら四十七人は、ことごとく光栄ある余生を送って、終りをまっとうしえたであろうか。
そのうち、あるいは死よりも劣った不幸の人、もしくは醜辱の人を出すことがなかったであろうか。生死いずれが彼らのために幸福であったか。
これは問題である。とにかく、彼らは、一死を分(ぶん)として満足・幸福に感じて屠腹した。
その満足・幸福の点においては、七十余歳の吉田忠左衛門も、十六歳の大石主税(ちから)も、同じであった。
その死の社会的価値もまた、寿夭(じゅよう)(長命と短命)の如何に関するところはないのである。
人生、死に所を得ることはむつかしい。
正行でも重成でも主税でも、短命にして、かつ生理的には不自然の死であったが、それでも、よくその死に所を得たもの、とわたくしは思う。
その死は、彼らのために悲しむよりも、むしろ、賀すべきものだと思う。
そうはいえ、わたくしは、けっして長寿をきらって、無用・無益とするのではない。命あっての物種(ものだね)である。
その生涯が満足な幸福な生涯ならば、むろん、長いほどよいのである。かつ大きな人格の光を千載にはなち、偉大なる事業の沢(たく)を万人にこうむらすにいたるには、長年月を要することが多いのは、いうまでもない。
伊能忠敬(ただたか)は、五十歳から当時三十余歳の高橋作左衛門の門にはいって測量の学をおさめ、七十歳をこえて、日本全国の測量地図を完成した。
趙州和尚は、六十歳から参禅・修業をはじめ、二十年をへてようやく大悟・徹底し、以後四十年間、衆生(しゅじょう)を化度(けど)した。
釈尊も、八十歳までのながいあいだ在世されたればこそ、仏日(ぶつじつ)はかくも広大にかがやきわたるのであろう。
孔子も、五十にして天命を知り、六十にして耳したがい、七十にして心の欲するところにしたがい矩(のり)をこえず、といった。老いるにしたがって、ますます識高く、徳がすすんだのである。
このように非凡の健康と精力とを有して、その寿命を人格の琢磨(たくま)と事業の完成とに利用しうる人びとにあっては、長寿はもっとも尊貴にしてかつ幸福であるのは、むろんである。
しかも、前にいったごとくに、こうした天稟・素質をうけ、こうした境界・運命に遇(あ)いうる者は、今の社会にはまことに千百人中の一人で、他はみな、不自然な夭死を甘受するのほかはない。
よしんば偶然にしてその寿命のみをたもちえても、健康と精神力とがこれにともなわないで、ながく困窮・憂苦の境におちいり、みずからたのしまず、世をも益することなく、
碌々・昏々として日を送るほどならば、かえって夭死におよばぬではないか。
けだし、人が老いてますますさかんなのは、むろん例外で、ある齢(よわい)をすぎれば、心身ともにおとろえていくのみである。
人びとの遺伝の素質や四囲の境遇の異なるのにしたがって、その年齢は一定しないが、とにかく一度、健康・知識が旺盛の絶頂に達する時代がある。
換言すれば、いわゆる、「働きざかり」の時代がある。
故に、道徳・知識のようなものにいたっては、ずいぶん高齢にいたるまで、すすんでやまぬのを見るのも多いが、元気・精力を要する事業にいたっては、この「働きざかり」をすぎてはほとんどダメで、
いかなる強弩(きょうど)(強力な石矢)もその末は魯縞(ろこう)(うすい布)をうがちえず、壮時の麒麟も、老いてはたいてい駑馬にも劣るようになる。
力士などは、そのもっともいちじるしい例である。
文学・芸術などにいたっても、不朽の傑作といわれるものは、その作家が老熟ののちよりも、かえってまだ大いに名をなしていない時代に多いのである。
革命運動などのような、もっとも熱烈な信念と意気と大胆と精力とを要するの事業は、ことに少壮の士に待たねばならぬ。
古来の革命は、つねに青年の手によってなされたのである。維新の革命に参加してもっとも力のあった人びとは、当時みな二十代から三十代であった。
フランス革命の立者(たてもの)であるロベスピエールもダントンもエベールも、斬首台にのぼったときは、いずれも三十五、六であったと記憶する。
そして、この働きざかりのときにおいて、あるいは人道のために、あるいは事業のために、あるいは恋愛のために、あるいは意気のために、
とにかく、自己の生命より重いと信ずるあるもののために、力のかぎり働いて、倒れてのちやまんとすることは、まず死に所を得たもので、その社会・人心に影響・印象するところも、けっしてあさからぬのである。
これ、なんびとにとっても、満足すべきときに死ななければ、死にまさる恥があると。げんにわたくしは、その死に所をえなかったために、気の毒な生き恥をさらしている多くの人びとを見るのである。
一昨年の夏、ロシアより帰国の途中物故した長谷川二葉亭を、朝野こぞって哀悼したころであった。
杉村楚人冠は、わたくしにたわむれて、「君も先年アメリカへの往きか返りかに船のなかででも死んだら、えらいもんだったがなァ」といった。
彼の言は、戯言(ざれごと)である。
けれども、実際わたくしとしては、その当時が死すべきときであったかも知れぬ。
死に所をえなかったがために、今のわたくしは、「えらいもんだ」にならないで、「馬鹿なやつだ」「わるいやつだ」になって、生き恥をさらしている。
もしこのうえ生きれば、さらに生き恥が大きくなるばかりかも知れぬ。
故に、短命なる死、不自然なる死ということは、かならずしも嫌悪し、哀弔すべきではない。
もし死に、嫌悪し、哀弔すべきものがあるとすれば、それは、多くの不慮の死、覚悟なきの死、安心なき死、諸種の妄執・愛着をたちえぬことからする心中の憂悶や、病気や負傷よりする肉体の痛苦をともなう。
いまやわたくしは、これらの条件以外の死をとぐべき運命をうけえたのである。
天寿をまっとうするのは、今の社会ではなんびとにとっても至難である。
そして、もし満足に、幸福に、かつできうべくんば、その人の分相応――わたくしは分外のことを期待せぬ――の社会価値を有して死ぬとすれば、
病死も、餓死も、凍死も、溺死も、震死も、轢死も、縊死も、負傷の死も、窒息の死も、自殺も、他殺も、なんの哀弔し、嫌忌すべき理由もないのである。
それならば、すなわち、刑死はどうか。その生理的に不自然なことにおいて、これら諸種の死となんの異なるところがあろうか。
これら諸種の死よりも、さらに嫌悪し、哀弔すべき理由があるであろうか。
死刑は、もっともいまわしく、おそるべきものとされている。
しかし、わたくしには、単に死の方法としては、病死その他の不自然と、はなはだえらぶところはない。
そして、その十分な覚悟をなしうることと、肉体の苦痛をともなわぬことは、他の死にまさるともおとるところはないのではないか。
それならば、世人がそれをいまわしく、おそるべしとするのは、なに故であろぅか。
いうまでもなく、死刑に処せられるのは、かならず極悪の人、重罪の人であることをしめすものだ、と信ずるが故であろう。
死刑に処せられるほどの極悪・重罪の人となることは、家門のけがれ、末代の恥辱、親戚・朋友のつらよごしとして、忌みきらわれるのであろう。
すなわち、その恥ずべく、忌むべく、恐るべきは、刑で死ぬということにあるのではなくて、死者その人の極悪の性質、重罪のおこないにあるのではないか。
フランス革命の梟雄(きょうゆう)マラーを一刀で刺殺して、「予は万人を救わんがために一人を殺せり」と、法廷で揚言した二十六歳の処女シャロット・コルデーは、
処刑にのぞんで書をその父によせ、明白にこの意をさけんでいる。
いわく「死刑台は恥辱にあらず。恥辱なるは罪悪のみ」と。
死刑が極悪・重罪の人を目的としたのは、もとよりである。
したがって、古来多くの恥ずべく、忌むべく、おそるべき極悪・重罪の人が、死刑に処せられたのは、事実である。
けれど、これと同時に多くのとうとぶべく、敬すべく、愛すべき善良・賢明の人が死刑に処せられたのも、事実である。
そして、はなはだ尊敬すべき善人ではなくとも、またはなはだ嫌悪すべき悪人でもない多くの小人・凡夫が、あやまって時の法律にふれたために
――単に一羽の鶴をころし、一頭の犬をころしたということのためにすら――死刑に処せられたのも、また事実である。
要するに、刑に死する者が、かならずしも極悪の人、重罪の人のみでなかったことは、事実である。
石川五右衛門も国定忠治も、死刑となった。
平井権八も鼠小僧も、死刑となった。白木屋お駒も八百屋お七も、死刑となった。ペロプスカヤもオシンスキーも、死刑となった。
王子比干や商鞅(しょうおう)も韓非子も高青邱も、呉子胥や文天祥も、死刑となった。木内宗五も吉田松陰も雲井竜雄も、江藤新平も赤井景韶も富松正安も、死刑となった。
刑死の人には、実に盗賊あり、殺人あり、放火あり、乱臣・賊子あると同時に、賢哲あり、忠臣あり、学者あり、詩人あり、愛国者・改革者もあるのである。
これは、ただ目下のわたくしが、心にうかびでるままに、その二、三をあげたのである。もしわたくしの手もとに、東西の歴史と人名辞書とをあらしめたならば、
わたくしは、古来の刑台が恥辱・罪悪にともなったいくたの事実とともにさらに刑台が光栄・名誉にともなった無数の例証をもあげうるであろう。
スペインに宗教裁判がもうけられていた当時を見よ。無辜(むこ)の良民であって、単に教会の信条に服さないとの嫌疑のために焚殺されたものは、幾十万を算するではないか。
フランス革命の恐怖時代を見よ。政治上の党派をことにするという故をもって斬罪となった者は、日に幾千人にものぼっているではないか。
日本幕府の歴史を見よ。安政の大獄をはじめとして、大小各藩において、当路と政見を異にしたがために、斬に処し、もしくは死をたまわった者は、かぞえるにたえぬではないか。
ロシア革命運動に関する記録を見よ。
過去四十年間に、この運動に参加したため、もしくはその嫌疑のために刑死した者が数万人におよんでいるではないか。
もしそれ、中国にいたっては、冤枉(えんおう)(無実の罪)の死刑は、ほとんどその五千年の歴史の特色の第一ともいってよいのである。
こう見てくれば、死刑は、もとより時の法度にてらして課されたものが多くをしめているのは、論のないところだが、
なんびとかよく世界万国有史以来の厳密な統計をもとにして、死刑はつねに恥辱・罪悪にともなうものだと断言しうるであろうか。
いな、死刑の意味する恥辱・罪悪は、その有している光栄もしくは冤枉よりも多いということすらも、断言しうるであろうか。
これぞ、実に一個未決の問題である、とわたくしは思う。
故に、今のわたくしに、恥ずべく、忌むべく、おそるべきものがあるとすれば、それは、死刑に処せられるということではなくて、わたくしが悪人であり、罪人であるということにあらねばならぬ。
これは、わたくし自身が論ずべきかぎりではなく、また論ずる自由をもってはいない。ただ死刑ということ、そのことは、わたくしにとって、なんでもない。
思うに、人に死刑にあたいするほどの犯罪があるであろうか。死刑は、はたして刑罰として当をえたものであろうか。
古来の死刑は、はたして刑罰の目的を達することにおいて、よくその効果を奏したか、ということは、学者のひさしくうたがうところで、これまた、未決の一大問題として存している。
けれども、わたくしは、ここで死刑の存廃を論ずるのではない。今のわたくし一個人としては、その存廃を論ずるほどに死刑を重大視してはいない。
病死その他の不自然な死が来たのと、はなはだ異なるところはない。
無常迅速・生死事大、と仏家はしきりにおどしている。生は、ときとしては大いなる幸福ともなり、またときとしては大なる苦痛ともなるので、いかにも事大にちがいない。
しかし、死がなんの事大であろう。
人間の血肉の新陳代謝がまったくやすんで、形体・組織が分解しさるのみではないか。死の事大ということは、太古より知恵ある人がたてた一種のカカシである。
地獄・極楽の蓑笠つけて、愛着・妄執の弓矢をはなさぬ姿は、はなはだものものしげである。
漫然と遠くからこれをのぞめば、まことに意味ありげであるが、近づいて仔細にこれを見れば、なんでもないのである。
わたくしは、かならずしもしいて死を急ぐ者ではない。
生きられるだけは生きて、内には生をたのしみ、生を味わい、外には世益をはかるのが当然だと思う。
さりとてまた、いやしくも生をむさぼろうとする心もない。病死と横死と刑死とを問わず、死すべきのときがひとたびきたなら、十分の安心と満足とをもって、これにつきたいと思う。
いまやすなわち、そのときである。これが、わたくしの運命である。
以下すこしくわたくしの運命観を語りたいと思う。
時代ごとに罪の重さ,人の命の重さも変わる。
今の時代
天皇暗殺を企てても,未遂に終われば処刑などまずあり得ない。
では何故?
開国以降
食うか食われるかの時代に
強烈なカリスマ【天皇】を筆頭にして、国民一丸となって欧米諸国に立ち向かわなくてはならなかった。
そのカリスマを抹殺しようとする輩を野放しにするなど、できるはずもなく…
天皇は国民同様
国の一部であり、歯車のひとつ。
天皇機関説は真理なのだ。 幸徳秋水の反戦論や反政府論をちょっと聞きかじってきたけども、
現代の左翼とは比べ物にならないほど理知的で衝撃を受けた
社民党とか民主党の旧社会党連中は幸徳秋水に斬って欲しいくらいだわ 山県有朋が 陰険な黒幕・権力の亡者で 死ぬ間際まで 絶大な派閥網や子分を使って
策謀を張り巡らし続けたということは 間違いない事実だと思うよ。
死ぬまで 権力を 追い求め続けたわけだしね。
軍閥官僚内閣を背後から操って 権力を握り続けた、権力の亡者・権力の鬼。
大逆事件の黒幕でもあるようだし。
政党や自由主義・社会主義・労働運動にも 弾圧を与え続けた。
絶対天皇制軍国主義・官僚制国家を 創り出した。
歴代内閣も 陰に陽に 苦しめられ続けた。
伊藤博文とは違って、陸軍・内務省・貴族院・枢密院などに 強大な派閥網を築き上げて 背後から操縦した。
性格も 粘着質・用意周到で 陰険・陰湿そのもの。 今見てる人いる?
NHKでやってるよ
ロシア人のこの美人は誰? 幸徳秋水はアナーキストだけど、君主制を真っ向否定しているわけじゃないからね。
その点は今の左翼より遙かに柔軟。当時としては早すぎる傑物だと思う。女クセは悪いが。 >>33
教育勅語作って国民総愚民化を計った山県にしてあちこち女作って生セクースして孕ませ放題だったからな。
当時の文部大臣にだって2号作っておよそ「道徳」「倫理」とは真逆の生き方をしているし。
国民に「道徳」「倫理」を強調する権力者・資本家は要注意だ、現代だっていっぱいいるだろ?
小泉、石原、橋下、安部、渡辺、ワタミ・・・・ 板垣や兆民辺りまではまともだったが
秋水辺りからおかしくなっちゃった
尾崎とか出てくるようになったし 秋水の基督抹殺論すげぇな
ただ自分の理論に酔いしれてるナルのにほいがするよな 完全無実・冤罪の大石誠之助まで死刑台に送り込んだ検事総長・平沼騏一郎。
後の首相。
巣鴨プリズンに戦犯として収監されたら
夜何かにうなされて奇声・悲鳴を上げていたらしい。
他人を冤罪で殺しておきながら自分が獄中の身になればそのざま。
この話知った時、ぶっちゃけ「いい気味だ」と思った。まさに天罰。 菅野すがや宮下太吉は無実とは言えないが、やはり大逆罪ってもの自体がおかしいよ。
大逆を企てただけで死刑。
明治天皇も仁慈を示して全員減刑するくらいのことはして欲しかった。
本当に帝王の度量があればそこまでしていただろう。 全九州水平社 90年特別展7月2日(火) 12時38分ttp://rkb.jp/news/news/15191/
部落解放運動に取り組んだ全九州水平社が創立されて今年で90年となるのを記念した特別展が、
きょうから福岡県春日市で開かれています。ttp://rkb.jp/news/files/2013/07/2013-07-02-150x84.jpg
春日市の福岡県人権啓発情報センターで開かれている「全九州水平社創立90年」展には、
およそ50枚のパネルが展示されています。
全九州水平社は、被差別部落の人々の地位向上と尊厳の確立を目的とした全国水平社の活動や思想を元に1923年
に創立されました。
会場には、創立当時に使われた演説会のポスターや部落解放運動の象徴とされる「荊冠旗」などが展示されています。
この特別展は、全九州水平社の取り組みを振り返ることで同和問題について正しく理解してもらおうと企画されました。
特別展は10月31日まで開かれています。 部落解放同盟福岡定期大会07月26日 12時22分ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130726/3252901.html
部落解放同盟福岡県連合会の定期大会が、福岡市で開かれ、人権を守るための国の機関の設置などを盛り込んだ
「人権侵害救済法」の早期成立に取り組むなどとした大会宣言を採択しました。
福岡市中央区で開かれた今年度の定期大会には県内の23の地区協議会の代表などおよそ400人が参加しました。
大会では、部落解放同盟中央本部の中央執行委員長も務める福岡県連合会の組坂繁之委員長が、
「人権救済や平和を目指し、今こそ連帯、共闘の輪を広げ、団結をかためて人権のまち作りに向けて頑張っていきたい」
と訴えました。ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130726/3252901_5013252901_m.jpg
続いて、来賓の福岡県の小川知事が、「依然として社会の様々な場面において偏見や差別が存在し、人権侵害も深刻
化している。県としても広く県民の人権意識の向上に努めたい」とあいさつしました。
そして、大会では、人権を守るための国の機関の設置などを盛り込んだ「人権侵害救済法」の早期成立に取り組む
などとした大会宣言を採択しました。 「反省書と始末書」
松之栄保育園
敦賀西小学校
松陵中学校
敦賀高等学校普通科
駿台予備校京都校(1987〜1988)
学生番号 M89199(大阪国際大学 国際経営情報学部 2期生)
自衛隊番号 ME39−225605P
「護衛艦もちづき」(1992〜1994)
「護衛艦あぶくま」(1995)
「舞鶴警備隊」(1996)
「大逆事件」は「大ギャグ事件」なのです。
「幸徳秋水」の顔写真は愛知県の「豊田佐吉記念館」の看板として
残っています。
東海道を関東から中京まで歩いて下った「やじきた」は皆、目にする
のですよ。 「報告書」
松之栄保育園
敦賀西小学校
松陵中学校
敦賀高等学校普通科
駿台予備校京都校(1987〜1988)
学生番号 M89199(大阪国際大学 国際経営情報学部 2期生)
自衛隊番号 ME39−225605P
「護衛艦もちづき」(1992〜1994)
1994
カナダ:バンクーバー ハリファクス
アメリカ ロスアンゼルス ニューポート サンディエゴ ボストン ハワイ
マジックマウンテン ユニバーサルスタジオ ディズニーランド
パナマ
メキシコ:ベラクルス
「護衛艦あぶくま」(1995)
「舞鶴警備隊」(1996)
身長156cm
「許詠中」を知っているだろうか?実家は敦賀市三島町の「八幡神社」の近く。
本名は「橋本」という。
「幸徳秋水」こと「豊田佐吉」に似ているだけで酒をたらふく飲み、女を抱いて歩いた。
「ドン小西」の実家の近所なのである。 >>47
この様な酷いでっち上げを作って、天皇暗殺を企てても居ない人間を平気で殺しておきながら。
自ら老中暗殺を企てたと白状して、本来遠島で済んだはずの裁きを死刑にしてくれと望んだ結果、望み通り死刑になった
吉田寅次郎を処断した井伊直弼を「不条理な白色テロを断行した極悪非道な犯罪者」と断罪している。
究極のご都合主義の明治政府と、それを額面通りに受け入れるバカな薩長信者。 >>50
井伊直弼がバッシングされたり殺されたりしたのは別に
吉田松陰だけが原因で殺された訳じゃないだろ。
あれは、あらゆる方向から大量の恨み買いすぎた結果かと。
なんせ井伊さん南紀派なのに、南紀庶民からも評判悪いし。
ただ井伊というより水野のせいだろうけどw >>51
確かに井伊を殺したのは寅次郎とは余り因果関係のない水戸と薩摩だけど
薩長の連中はそれと同じかそれ以上の事をやっているのに、さも尤もらしく井伊を扱き下ろすからかなり悪質。
まぁ、天下を取るような人間はそれくらいの図々しさがあって当たり前なんだろうけど・・。 大石誠之助が刑死前にたばこを吸うのを許されて
「久しぶりなので目がまわります」と感慨にふけった後
吸い終わって「では、参りましょう」と椅子から立ち上がる話知ったんだが
その時の心境はどれだけつらかったかと思う。
大石が無実なのわかってて殺したんだよな。 イラストレーターで収入が少ないからと30代後半で漫画家になろうとする、ひきこもりのバカ発見。
足立区に住んでいるそうだ
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html >>47
別に全てがでっちあげではないし、秋水が天皇廃止を考えてた当時としては危険な男であったことには変わりない
この際こいつらもまとめて一掃してやろうとした検察は、当時としてある意味有能としか言いようがない
アナキーストや共産主義者にはスパイや危険極まりない奴がいたのは事実だしな
何が理知的だよアホらしいw キチガイ共産主義者や無政府主義者を賛美する人間ってまだいたのか
ユートピアで暮らしてるのかな 妄想の種になるけど成功例がゼロだからね
人類がロボットみたいに感情を失えば可能かもしれないけど、
そうなると感情のぶつかり合いや愛情も消えて衰退の一途をたどるだろうな 天皇を平民にするとか不敬極まりないことをいってたわけだが、政権構想は
あったのか?政権担当能力なんて皆無だろう。 153
気の毒すぎる。
全くの事件には無実だっただけに 左翼思想とか馬鹿にするが、幸徳は安倍なんぞより遥かに
日本人の情もあったし教養もあったぞ。
著作を読むと別に皇室を否定していない。
皇室の下での弱者救済を目指している。 幸徳秋水は、菅野スガにはまったことが運のつきだったかな。 >>61
それが、最後の頃は天皇やっつけろに反対してないみたいなんだよね。自分は加わりはしなかったけど黙認状態
菅野スガが伴侶になってから精神的にも弱くなったんじゃないかな
菅野を優遇しまくって周囲から総スカン食らって平民社も潰したし 菅野スガの夫だった荒畑寒村が、昭和の終りまで生き抜いて、テレビのインタビューで、社会主義について語ってるのをみると
なんともいえない感じがする。
裏切ったのは菅野の方だし、荒畑は何な 菅野スガが刑死した時は、寒村は23くらいの若造だった。
菅野スガは、共産主義者といいながら、男に関しては権力志向があったんじゃないかな
それまでも、文学の勉強にいけば、師匠と出来てしまう。出版社に就職すれば、社長と出来ちゃう。必ずトップ狙いで男を落としてる。
最後は共産主義者のトップを落としたし。相手の夫が妻帯者なんて、全く関係なし。
また、こういう女性って ちょっと気弱な学者タイプの男にはめちゃくちゃ魅力的だったんだろう。 最近、小保方晴子が、菅野スガに似てる気がしてならない。
勿論、思想や専門土壌はまるで違うが、女としての性質に共通するものが多い。
まず、トップ狙いで、狙った男は皆自分にメロメロにさせる独特なフェロモンが同じ。
最後に落とした大物を破滅注せた? 最近、小保方晴子が、菅野スガに似てる気がしてならない。
勿論、思想や専門土壌はまるで違うが、女としての性質に共通するものが多い。
まず、トップ狙いで、狙った男は皆自分にメロメロにさせる独特なフェロモンが同じ。
最後に落とした大物を破滅注せた。
フェロモンで落とした男たち利用して、自分の能力以上のキャリアをゲット。かたや新聞記者会見、かたや科学者。
自力だけで、この仕事は 厚化粧してない素顔の小保方は目が吊り上がっていて菅野スガに似てる。
菅野はああみえて、手紙なんかは、幸徳秋水に媚びている。水様なんて、書いていて気持ちワルイ。あんた共産主義者だろうに。共産 厚化粧してない素顔の小保方は目が吊り上がっていて菅野スガに似てる。
菅野はああみえて、手紙なんかは、幸徳秋水に媚びている。水様なんて、書いていて気持ちワルイ。あんた共産主義者だろうに。共産 つまり、両者とも、男に依存して自分を引き上げてきた。 “大逆事件は生きている” 矯風会が映画上映 弾圧されたクリスチャン女性らの今日的意味 2015年9月18日14時54分
http://www.christiantoday.co.jp/articles/16995/20150918/film-high-treason-sugako-kanno.htm
1910年に幸徳秋水はじめ、クリスチャンの女性を含む社会主義者や無政府主義者が弾圧され処刑された「大逆事件」が持つ
意味を考えようと、日本キリスト教婦人矯風会と日本聖公会東京教区人権委員会は5日、矯風会館(東京都新宿区)で2回にわたり
ドキュメンタリー映画『100年の谺(こだま) 大逆事件は生きている』(90分、2012年)の上映会と制作者らを交えたトークセッションを
開催した。映画のチケットは完売し、会場は120人の参加者でほぼ満席となった。
1回目の上映に先立ってあいさつした同委員会委員長の佐々木国夫氏は、「大逆事件は、反戦・差別・貧困などの社会問題に立ち向かい、
世の中を良くしていこうという、自由・平等・博愛の思想を時の政府が弾圧するために捏造(ねつぞう)した冤罪(えんざい)事件だと思う」と語り、
正当な裁判もなく死刑という、日本の裁判史上に最大の汚点を残した事件でもあると述べた。
佐々木氏は、「戦前の政治体制に逆戻りしたら、私たちの活動は権力に弾圧されてつぶされてしまうだろう」と警告。その上で、
「今、国会では安全保障関連法案という名称の戦争法案が与党多数で審議されている。一昨年、特定秘密保護法案が可決され、
昨年7月には集団的自衛権の行使を認める閣議決定がなされた。安倍政権はこの秋に戦争法案を成立させようとしている。
さらに安倍首相は平和憲法を戦争できる憲法に変えようとしている」として、「この時期の『100年の谺』の上映会は非常にタイムリーな
企画になった」と付け加えた。
上映後に行われたトークセッションでは、映画の制作者である千原卓司氏、矯風会理事長の川野安子氏、日本聖公会池袋聖公会司祭の
井口諭氏がそれぞれ10分ずつ発言した。
千原氏は、この映画の成り立ちについて、映画監督・脚本家の藤原智子さんが「大逆事件を明らかにする会」の会員になり、大逆事件のことを
長年にわたって調査・研究し、それが今回の映画に強く反映されていると語った。
「事件の犠牲者の紅一点である管野スガを中心にした映画にしようということでいろいろ調べた。管野スガを大逆事件の全体の流れの中で
再評価してみようという狙いで企画を立てていった」と千原氏は説明した。映画のパンフレットによると、管野スガの名前の表記は、戸籍上は
管野スガだが、執筆名は管野須賀子で、管野すが子とする場合もあるという。
管野とキリスト教の関係には非常に深いものがある。まず、管野が大阪で「大阪朝報」の記者になったきっかけは、管野の師匠であった
小説家・新聞記者でクリスチャンの宇田川文海だった。管野は日本組合天満教会(大阪市)で洗礼を受け、その後、社会主義者・労働運動家の
荒畑寒村と知り合い結婚。幸せだったが、「毎日電報」(現毎日新聞)の記者として働いていたとき、赤旗事件(1908年)で逮捕され、
無罪で釈放されたが毎日電報をクビにされた。そして管野は社会主義の影響を受け、大逆事件に巻き込まれていった。
千原氏によると、この映画ができた後も、大逆事件の犠牲者について各地で顕彰運動や再評価運動が広がっているという。
次に、川野氏は矯風会と管野の関係について、「(矯風会の機関誌である)『婦人新報』の中ではあまり管野さんの署名がある記事というのが
見られない。管野さんは一夫一婦の実現を精力的に呼び掛け、そのようなところは矯風会の活動と一致するところがあった」と説明し、
「(管野が)公娼制度を軸とする女性の商品化をやめさせようと果敢に闘った」と語った。
川野氏によると、1903年に矯風会の会頭に選ばれた潮田(うしおだ)千勢子はこの運動の応援・激励に大阪に来ており、この時、管野とも
出会い、つながりを持つことができた。管野はその5月に矯風会に入会している。潮田は病気が悪化して7月には急逝したが、
大阪婦人矯風会が主催した潮田の追悼会では、入会2カ月目の管野が追悼文を朗読しているという。
また、管野は大阪婦人矯風会に初めてできた文書課長にも選出された。これは、有給の職員だったが、それ以後も三選された。
「彼女に対する信頼が厚かったと思う」と川野氏は言う。文書課は新聞や雑誌への投稿、パンフレット作成などによる宣伝活動が仕事で、
「矯風会の立場に立って主張した記事を『基督教世界』という新聞にたびたび投稿して、須賀子が専念している様子が知られる」と説明した。 >>72の続き
川野氏によると、日露戦争(1904〜05年)の戦死者記念追悼会が大阪で行われたときには、師団長、知事、市長と並んで、矯風会の
代表者として管野が追悼の辞を読んだということが残されている。1903年、矯風会の全国大会に参加した管野は、大会で社会運動家の
木下尚江らが演説したのを聞いているという。
1904年の大会で管野は、ガントレット恒、羽仁もと子、渡辺つねらと共に時事問題委員に選出された。「管野の文書課長としての活躍が
注目を浴びていたとみられる」と川野氏は言う。「大会に参加した翌日には平民社を訪れて堺利彦と会い、大阪で平民社の読書会を組織する
など、社会主義思想に傾倒していったようだ」と付け加えた。
川野氏によると、和歌山県の田辺で発行された「牟婁(むろ)新報」に、管野は「やや思想の変化せる今日この頃、矯風会そのものの上に
飽き足らぬ節は少なからねど、とにもかくにも現今社会における婦人の働きとしてはうるわしき矯風会の事業なれば、私はその成功を望む
ものなり」と記しているという。「社会主義に傾倒していった須賀子には、矯風会の活動は恐らくまどろっこしいものだったのかもしれない」と、
川野氏は語った。
1903〜05年、管野は活動の場を矯風会に置いていたが、1906年には病弱な妹・秀子を伴って上京し、赤旗事件に巻き込まれ、妹の死、
管野自身の結核療養・入退院の繰り返し、幸徳秋水と創刊した『自由思想』や『直言』の発売禁止、罰金刑、投獄の繰り返しなど、不幸と弾圧の
続く暮らしだった。「短い人生を女性人権運動に精いっぱいかけた須賀子にとって、大阪婦人矯風会の活動に専念していたこの時が一番
充実した時期だったのではないかと思う」と川野氏は評した。
そして、「須賀子が激しく告発した性の商品化の問題は、今もって解決しておらず、私たちの大きな課題だ。ただ今の映画を見せていただき、
須賀子からのメッセージを今もしっかりと受け止めていかなければならないということを感じさせていただいた」と、川野氏は今日的な課題に
触れて発言を締めくくった。
井口氏は、「最大の人権侵害は国の人権侵害。その中でも戦争は最大の人権侵害であると思う。私はこの『100年の谺』(で描かれた大逆事件)も
日本が戦争に向かうための冤罪だと思っている。私たち東京教区の人権委員会は国の人権侵害を一番恐れている」と語った。
井口氏は、ハンセン病患者と国の隔離政策について話した上で、「私たちは本当にどちらの側に立つか。冤罪・人権侵害を起こす国の側に
立つのか、それとも(人権を)侵害されている人たちの側に立つのかというのが、これからも大事なことだと思う」と述べ、「戦争法案が審議
されているが、これが法律になったら私たちはもう反対するのが難しくなってくると思う。今が大切な時だと思う」と付け加えた。
■ 映画『100年の谺』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=nAB0dlIQQzs 大逆事件は伊藤博文暗殺の翌年に起き、同年に韓国が日本に併合されている
この4年後にはWWTが勃発するのであり、立志社設立から大逆事件に至る国内外の状況は誠にスリリングなものである
この時代は欧米列強血で血を洗う植民地獲得競争の最終段階でいよいよそれは熾烈さを増していた
国と国、政府と反政府勢力が謀略を駆使しながら争っていく1874〜1911の情勢は世界史でも日本史でも一番面白い所だな
映画にしてもいいくらい 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
K8X77 いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
H5B 大杉栄をも連座せしめようとしたが
ちょうど入獄中で幾ら明治政府でも
これは無理だった まあ現代でも、何もやってない人がある日突然捕まって刑務所に放り込まれたり、最悪死刑判決受けるのは珍しいことじゃないからな。
今の日本の司法は、明治や大正ですらなく、中世だからな。 753 名前:NHK名無し講座 2018/08/18(土) 23:48:39.25 ID:Xi9baQoo
特高を滅ぼすためには
アメリカに負けたのは必然だったんだな 幸徳らを処刑したことは正しかった。天皇個人ではな皇室つまり天皇一族そのものの暗殺を企て、一部実行したのだから
当然の報い。10年近く前に幸徳の出身地である旧中村市(現四万十市)では幸徳の顕彰会ができ、市議会ではそれを自然体で盛り上げていこうと支持しているが、とんでもないことである。
それこそ当時の市長や首謀者、市議会メンバーを逮捕すべきである。人を殺そうと考えていた人間が、当時の日本社会を破壊し、自由・平等・博愛のない社会主義国家にしようとした人間が顕彰されていいはずがない。
今後、幸徳については日本近代における最初のテロリストとして世界に発信し、研究を続ける必要があろう。幸徳と毛沢東とポルポトと麻原しょうこうはアジアテロリストの四天王である。 スレにもあったが
本当に菅野スガは男女同権の社会主義者側と言いながら、手紙で幸徳秋水を水様なんて呼んだり
自分を月としたり
媚びまくっているよね 瀬戸内寂聴の遠い声を読むと(創作の部分もあるが)菅野の心理を深く鋭く推察していて面白い
名著だと思う
菅野は本当、キャラキャラとして明るく
美人じゃないけど、蠱惑的で
背丈体型も程よく、
絹のような声で、権力ある男に取り入り
可愛がられる
男を惑わすタイプだったんだろうな
まあ、現代にもいそうだがね
女そのもののフェロモンがある >>80
人を殺そうと思うだけならなんら罪にはならない
しかし大逆事件での幸徳秋水は思っただけとは言いきれない
天皇に火炎瓶投げつける練習や相談する同志たちを見ていたわけだし >>63
妻の千代子をいきなり離縁したりね
おかしくなってしまった
菅野スガを優遇しまくり同志たちも離れていった。しかし離れて行った同志たちは結果逮捕や死刑を免れたことになる
秋水とスガの関係を何とも思わなかった?人たちが結局大逆事件のメンバーとして断罪されたのは不運だ
秋水は自分は罪のない死刑囚みたいに書いているが、過激な思想に傾いたことで、多くの仲間を道連れにした責任を感じなかったのか
幸徳秋水含め実際計画した4~5人は死刑は免れないにしても
巻き添えをくったあとのメンバーはあまりに気の毒だ 舞台の911という作品観たかった
テレビ放送最近あったのに
知らなかった 菅野は讃美歌を歌う歌声が絹のように綺麗だったと
女性証言
また素晴らしくふさふさした見事な髪を持っていた、と
しかし、関わった男性たちからは、美人ではなかった、と言われている
夫であった荒畑寒村からさえも 今もあの当時の雰囲気でも幸徳秋水は助けてやれ、みたいなのもあるよね
やはり思想家を殺すのは気が引ける、というのもあったんだろうが
しかし、幸徳も関わっていたわけだから 菅野スガはいまだに男にモテる感じがする
なんかすごく女っぽい、男好きするタイプなんだろうな、と
自分はそういうのわからないが 幸徳秋水は反帝国主義で止まっていれば
と思う
過激な方向にいってしまわなければ、と >>53
ああいう人を死刑にするとはね
面白い人がいたんだなあ、と >>56
そうだね
大逆事件自体が死刑とかの判決が酷すぎると思うが、それは置いといて
幸徳秋水も計画を知っており、宮下たちから計画を打ち明けられても特に反対をしていない
これはリーダーとして責任問われても仕方ない
死刑はあんまりだが 関わった弁護士の平出修も、自分が裁判長なら菅野や数名は死刑、幸徳は無期懲役に判決しただろう、と書いている 菅野スガは興味引かれる
本来は穏やかに生涯終えられた人だったろうに いや、どう考えても首謀者以外の巻き添えくった人たちが気の毒だ
彼らは暗殺計画に関与もしてなかったんでしょうに 菅野スガの最後はよく書かれてるような
最後まで元気とかではなかったのではないか、と
教戒師は死刑台に連れて行かれる菅野スガの後ろ姿を生涯忘れることは出来ないと言っていまとのこと
ちなみに処刑の翌日、教戒師は辞表をだし辞めた
死刑のむごさを改めて思う 菅野スガは思想面でも強い信念があったとは思えないし(手記を読んでも)
だから、こうまで哀れな亡くなり方はない
愛でも結局、秋水の元妻に敵わなかった
それを獄中で知ることになった
秋水が菅野を愛人にしなければ菅野は助かった
愛する秋水に認められたくて頑張ったのかもしれない
秋水が最初から菅野に冷淡なら菅野は別の男に移行したろう もっと大逆事件は色々と取り上げられてもいいと思う
昔は地方の博物館の一角に
大逆事件コーナーがあったらしいが
見たかったなあと思う >>78
このスレに関係ないけど
国民への言論弾圧は中世か戦中みたいだね
名のある人が、気に入らないことを書かれた、というだけで一般個人を叩き潰す
それを認める国
怖いよね 100年たってもまだまだ語られることもタブーなのかな、と
テレビで取り上げられることもほとんどないし
この間、この事件で連座されて獄死した僧侶について取り上げた番組を偶然みたが難しかったな
破門されたことに対しての名誉回復とかそんな内容だった もう少しこの事件について、当時の社会状況も踏まえて知りたいと思うのだけど
資料がなさすぎる
図書館でも書庫から出して貰わなきゃならないし、変な目で見られたことあるし
敷居高い
今時、大逆事件本読む人なんて珍しいだろうけどさ この事件については、どう考えたらいいのか難しいものがある 日本近代の恥部と完全に断言できる事件
@関東大震災時の大杉栄 伊藤野枝 甥(6歳)虐殺
A特高による小林多喜二虐殺
バカウヨは上記2事件についてどう思うか答えよ!!!!!!!!!! >>104
上記2件は直接的なこと何もしてないし
小林多喜二は日本の文豪の一人だし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています