>薩摩はまだ公武合体派が主流で倒幕派になってないから動機がない

薩長同盟の密約成立は旧暦の慶応2年1月21日。孝明天皇崩御は慶応2年12月25日。
孝明天皇崩御の一年以上前に薩摩はすでに反幕府の政治的決断を行なっている。
歴史年表をちょっと見ればすぐわかる事だよね。

慶喜の家学である水戸学は徹底的な尊皇思想で徳川幕府宗家と天皇との間に齟齬が
生じた場合、天皇側にあって宗家を諌めよという家訓の体系でもあるわけで。本来、
徳川宗家に対するご意見番を担う立場。徳川家茂が亡くなった後、将軍不在の時期が
長かったのは、水戸家が宗家を継ぐことに抵抗があったから。その慶喜に将軍職就任を
求めたのが孝明天皇で、勅命に感激して就任した経緯がある。しかも、慶喜と孝明天皇は
血縁関係のある縁戚だし。慶喜が二条城常駐していたのは孝明帝のお側にあってお護り
奉るという意思の実行表明であったわけだし。

さらにいえば、廷臣二十二卿事件で残り少ない反幕派の公家さえもが一掃されてしまい、
孝明天皇はほとんど裸の王様状態で頼れる臣下がいなくなっていたし。
徳川と天皇家とはより一層蜜月状態になるだろうことは慶応2年という時期なら当たり前に
明白な政治動向だった。

そういう時期に、すでに薩長同盟締結後の反幕薩長系に孝明帝を排除する動機は十分あった。
と言えるだろうね。ただし、佐幕反幕はともに尊皇で暗殺など行えるはずもない。
仮に暗殺がバレたら抹殺必至だから。