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爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話5
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0154名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/07/13(金) 06:24:58.12ID:pegqJS3X0
いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

POS
0156名無しさん@お腹いっぱい
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2019/03/04(月) 18:21:10.09ID:uCGkDXkQ0
明治期の話大河ドラマや朝ドラで見て思い出話があると思う。ただ家の家系では女が何人かいて最終的な落ち着き先が合った家を知っている。昔女遊びもやらなかった先祖がいる人に話しにくい。
0157名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/07(木) 13:09:42.31ID:cxTAW3bY0
昔、じいさんから聞いた南方の話

土人の弓矢攻撃に苦しめられたらしい
どんだけ弱いんだよ日本軍、、、
0158名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/03/09(土) 02:44:30.48ID:WA80FqG10
いや、普通に状況考えようか。
状況によってはそら驚異だろ。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/04/17(水) 20:07:46.48ID:Ji1LAa6y0
去年死んだばーさんの話。葬式の時に弟さんから教えてもらったエピソードで、昔のことを話したがらなかったばーさんの過去を始めて知れた。
ばーさんは戦前生まれで、現存する某大企業の創業者の娘として生まれた。といっても、父親の芸者遊びで産まれてしまった、いわゆる望まれない子供だったとか。
ばーさんの母はその後どういうわけか樺太へ渡り、そこで別の人と結婚。嫁いだ先はとある軍需産業の元締めをしていた人の下で、戦時中はたいそう裕福だったらしい。
といっても嫁ぎ先には既に子供がいて、いわゆる後妻の子扱い。兄妹間の仲は非常に悪かったらしい。
そうして玉音放送直後。樺太には大量のロシア人が攻めて来ており、財産も着る物も何もかもそのままに引き揚げ船に乗ったとか。
いつ撃沈されるかも分からない恐怖に震えながら、まだ小さかった弟を抱きしめながら、
真っ暗闇の船底で命からがら北海道まで逃げて来たという。

ばーさんにそんなエピソードがあったなんて知らなかった。引き揚げる際、父親はどうせまた直ぐに戻ってこれると金目のものを
根こそぎ金庫に入れて庭先に埋めてきたらしい。もしかしたら今でも樺太に残っているかも。

当時住んでいた場所はある程度分かっているので、今年休暇を利用して樺太まで行ってみたいと思っている。
といっても俺の学生時代からの親友が樺太在住で、そいつに会いに行きたいってのが一番の理由だけどな。
ちなみに腹違いの兄貴はまもなく100歳を迎えるも生きており、葬式の時には飛んできた。
認知症も進んでいるし脳梗塞の影響で身体も不自由だが、
ばーさんの棺を前に背筋をピシッと伸ばしながら名前を叫んでいた。「なんで俺より先に死んだんだ!!」と。
戦中は仲が悪く、戦後もほとんど疎遠だったそうだが…腐っても兄妹。
いろいろ思うことはあったんだと思う。
無口で無愛想で高飛車なばーさんの、意外な一面を見れてある意味良かったと思う。
葬式があったからこそ初めて知れた。
その他にもじーさんのこととかいろいろ書きたい事があるが、とりあえずこの辺で。
0161名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/04/24(水) 19:09:07.45ID:goV1hLbh0
20年前に93で亡くなった曾祖母が小学生の頃、隣に住んでた爺さんが松田松陰の塾下生だったらしくていつも自慢してたらしいよ。年代的にホントなのかな?
0162名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/02(木) 21:30:54.62ID:jI8BZAXJ0
日本郵船でボーイをやってた爺さん。
アメリカ航路でシアトルに入港していた時、身なりの良いアメリカ紳士が周囲を伺いながらやってきて一言。
「何か、お酒はありますか??」
爺さんは酒庫で自腹でサントリーウイスキーを買い、紳士に見せると「いくらですか?」
爺さん「あなたの思うがまま」
5ドルももらいました。
当時のアメリカでは禁酒法だったので、高値で売れまくったそうです。
しかし、爺さんの乗る日本郵船が向こうのアルコール取り締まり専門の連中に入港と同時に監視されるようになり小遣い稼ぎができなくなりました。
0163名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/08(水) 21:01:03.69ID:0KbVLzYU0
20年前に亡くなった祖父さんのお話。
戦時中、皇宮警察で坂下門?の辺りにいたらしい。2つの印象的な事をよく話していた。
@大正天皇皇后が威厳がありすぎて、とても近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
A昭和20年8月14日の夜、近衛師団のクーデター未遂に巻き込まれて、営所に一晩監禁された。周囲を銃剣で固めた兵隊に囲まれて、とても怖かった。因みに皇宮警察の前は近衛第1師団に在籍していたらしく、以前の仲間達に監禁されたのは複雑な気持ちだったよう。
0165名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/09(木) 20:36:19.46ID:p0wg038Y0
>>164
本当に大正天皇皇后の貞明皇后らしい。
0167名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/07/28(日) 18:23:58.74ID:fcPx6a660
私が子供の頃、中国残留日本人孤児の調査がよく行われていた頃聞いた話

義理の叔母は終戦間際の満州生まれ
叔母の両親は満州で使用人を使い商売をしてたらしい
いよいよソビエトが攻めてくる段になって避難を始めたが現地の使用人たちは先にとっくに逃げてしまっていた。
ところが雇っていた中国人夫婦の子供が取り残されていたらしい
叔母の両親は、その子供に叔母の世話をさせて一緒に連れて命からがら帰国したらしい
叔母の世話をするそこ子が居なければ、叔母も中国に残してきて残留孤児となってただろうと
それくらい帰国するのが大変だったという話。  なんだけど

その連れ帰った中国人の子供はもちろん戸籍もなく、なので学校も行けず
日本から中国に帰ることも叶わず、結婚もできず叔母の実家の居候として一生を終えた。
子供心にお世話になった子なんだから養女なり、なぜ学校に通わせなかったのかなど
色々モヤモヤすることが有り、案外攫ってきたんじゃないかと思ってる
0168名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/10/20(日) 20:56:46.03ID:reIVP/Do0
母方の祖父は海軍大尉だったが、巡視船?か何かの船長をしていて内地から出なかったので戦争についてこれといったエピソードはない
終戦時は瀬戸内海で釣りをしていたそうな

戦後母が生まれたんだけど、毎年冬になると馬車に家財道具を乗せて隣の隣の町まで家族で湯治に行っていたらしい
豪雪地帯なのでおいそれと行き来できないという事情があったのだけど、一ヶ月くらい温泉に宿を借りて生活していたとのこと
0169名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/11/09(土) 18:53:24.43ID:bSEIkzpp0
父の話
「戦友同士で殴らせられた」
「玉砕命令が出たら 生きてたらいけない」
「自分が指揮官になって 初任兵だけでシナ軍を攻撃した 
 うまくいって 隊長にほめられた」
「周囲をシナ軍に囲まれた 弾の数より兵隊の数が多い いくら殺しても
 後から後から攻めてくる 中央の塔から 擲弾筒で 手榴弾を撃ち続けた
 応援が来て助かった」
0170名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/10/17(土) 00:42:23.43ID:Stg5bjzK0
普通選挙でなく、納税額で選挙権を与えられたので、事実上戸主だけが投票に行けた。
つまり「一人一票」ではなく「一家に一票」。
買収の考え方もなかったので、朝一番に候補者から差し向けられた人力車に乗って投票所へ。
帰りには上野の精養軒で盛大に接待された。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/03(火) 16:29:05.25ID:NCLzZqFg0
何年か前の話だけど。

私の高祖父(ひいひいじいさん)は戊辰戦争の会津藩兵として戦死。
敗戦後、高祖父の息子(曽祖父)は東京に逃げてきた為会津時代の墓などは伝わっておらず(武士の中でも余り高い身分ではなかった為)、あるのは恐らく高祖父の戒名が書かれたものであろうボロボロの紙のみ。
それを頼りに近辺のお寺さんに問い合わせるも、当時の過去帳など、どこのお寺さんも戊辰戦争時に消失してしまったとの事。
どうにかお墓など見つけられないかと戸籍を取り寄せ、高祖父の名前を確認しググってみると、高祖父のお墓発見。
お墓があったのは栃木の山奥。
なんでもここで薩長軍と戦い、会津藩兵は全滅。
当時会津藩兵の埋葬が禁止されていて、これでは可哀想と当時の地元の方々がひっそりとその地に埋葬して墓石を立ててくれていたらしい。
息子であった曽祖父も知らなかったであろう高祖父のお墓を、平成になってPCの画面で確認出来た時には涙が出そうになるほど感激した。
また、戸籍で確認出来た名前から、詳細な身分も確認出来た為、古地図で当時の居住地もわかり、現代ってすげーなと感動。
0172名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/03(火) 16:31:35.71ID:NCLzZqFg0
続き、当時の地元の方々、お墓を立て埋葬して下さり本当にありがとう。
そんな思いに溢れました。
0173名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/11/08(日) 14:00:58.83ID:xKntNoU00
東條さんについてみなさんのお爺さんやお婆さんはどういう見識をお持ちでしたか?
自分のお爺さんは独裁者じゃなかったがよく威張っていたと笑いながら言っていたので
嫌ってはいなかったと思いますが
0174名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/12/13(日) 18:08:15.56ID:Iog2U6YD0
>>173
104歳の曽祖母(存命)に聞いたことあるよ
庄屋だったから戦争でも困ったことなかったから世論の行く方に舵取りは任せてたら戦争に負けてしまったとね

開戦当初は我らの東條さんだが負けてから掌返しする人の多さにびっくりしたそうです
0175名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/01/17(日) 04:26:56.38ID:4lSE4Zk90
うちの爺さんからは何も戦争の話は聞かなかったなぁ。
婆さんいわく、昔から明るい性格で、過去を思い出したり、記憶するのに頓着が無いというか、あっけらかんとしたタイプだったそうだ。
ファミレスに行って、飯が終わると、大人達は何か話してて、暇をもて余してるとよく遊んでくれたよ。
駐車場でそこら辺にある棒切れと石ころを使って、一緒にヤクザのベンツボコボコにして大爆笑してたなぁ。爺さんいわく、「これは悪者の車だ」ってw
懐かしいや。帰り際に父親が運転する車が駐車場から出る時に、ボコボコになったベンツ見てまた大爆笑して。
楽しかったなぁ。
0176名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/09/03(日) 12:37:52.99ID:7wuvQe1l0
もう亡くなったけど、母方のおじさん(昭和2年生まれ、我が母とは26歳差)の話。
山形県の山奥の出身で、海など見たことも無かったが、海軍の予科練に入った。しかも、はるばる山陰の美保基地にて訓練。
海軍とはいっても、予科練というのは飛行訓練兵の養成機関。とはいえ、もう戦争末期で、満足な練習用飛行機など無かった。
結局、船に乗って大陸へ行くことになり、実家あてに「もう帰れない」と手紙を書いた。
そして現地に着いたら、すぐに8月15日。戦闘行為は全く行わなかった。
でも、おじさん本人は絶対に戦争の話はしてくれなかった(相当嫌な経験をしたらしい)。我が母経由で聞いた話。
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