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太平洋戦争は共産主義者の陰謀【3】 [無断転載禁止]©2ch.net
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0014名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/09/10(土) 22:21:09.95ID:EkWjEknG0
月刊正論2016年5月号
支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち―『風見章日記』で読む近衛内閣と大東亜戦争
近現代史研究家 林千勝
ttp://www.fujisan.co.jp/product/1482/b/1384476/
       (前略)
 近衛首相肝いりのブレーン集団「昭和研究会」は、朝日新聞出身で近衛内閣嘱託として首相官邸内に部屋を構えた尾崎秀実らの
オピニオンリーダーを輩出して事変推進の世論を形成しました。
       (中略)
 ・・・(略)・・・陸軍が熱烈希求した日米和平のための「日米諒解案」は流産し、他方、対米英戦を想定して設立された「秋丸機関」の
研究報告に基いて勝利を目指す国家戦略の原型がつくられました。尚、「秋丸機関」の研究リーダー、有沢広巳は昭和研究会が
発表した社会主義的な統制経済を企図する「日本経済再編成試案」の起草者でもあります。
       (中略)
「有馬頼寧日記」では、昭和16年1月9日、首相官邸での近衛首相の発言として「米国との関係悪化し、4月頃危険」と記しています。
昭和16年1月11日「(衆議院任期満了に伴う4月の)選挙を1年延期し、対米決意を明らかにし、国防国家建設に全力を挙ぐる態勢を
とるべし」との線で有馬と近衛の右腕である風見章との意見が一致したことが述べられています。・・・(略)・・・昭和16年1月といえば
日米和平交渉をこれから本番に向かわしめていこうという大事な時期です。近衛らはこの時期から国会議員を対米戦に向けて
意識付けていこうとしていたのです。選挙などやってられないということです。
 更に1月20日「対米声明の事と推進班の事を決し」となっていて、声明を発して対米戦気運を醸成するとともに大政翼賛会にて対米戦
に備える国民運動を組織化する旨が決したと記されています。対米戦を煽るプロパガンダです。結局声明自体はとりやめになりましたが、
1月26日、国内の状況について「防衛司令部あたりから老人や子供の避難の達しが来るなど、地方などでは日米戦争切迫の様に考えて
いる」と記しています。
       (中略)
 風見は、早稲田大学政治経済学科卒業後、朝日新聞や国際通信の記者を経て信濃毎日新聞の主筆となり、マルクスの「共産党宣言」
を連載で紹介したり労働者や農民の側の立場に立った論陣を張ったりして大きな話題となっていました。
 この長野時代、在日カナダ人宣教師ダニエル・ノーマンと極めて懇意な家族ぐるみのつきあいをしていました。ノーマンの次男は
社会主義者にしてカナダの外交官、日本史研究家でもあるハーバート・ノーマンです。・・・(略)・・・
 ・・・(中略)・・・昭和12年6月第一次近衛内閣の発足に当たり、近衛は昭和研究会メンバーであった風見を意中の人物として、
内閣の大番頭でありナンバー2の書記官長(現在の官房長官より強力)にいきなり抜擢しました。
       (中略)
 ・・・(中略)・・・彼は、入閣前から朝日新聞出身グループの尾崎秀実とは同志でした。戦後の昭和26年雑誌『改造』5月号で
尾崎をマルクス主義の殉教者と位置付けて、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きで
あり、同時に、新しい時代へと、この民族を導く進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、
正しい判決を下してくれるにちがいない」と述べています。
       (中略)
 ・・・(略)・・・昭和58年頃歴史学者の方が遺族から利用を許可されたとのことですが、私はみすず書房版『風見章日記・関係資料
(1936年―1947年)」で風見の、ひいては近衛の信条と心情を探査することとしました。その結果、次の6点が特に私の注意を引いたの
です。・・・(略)・・・C対ソ戦不拡大の徹底・ソ連賛美・ソ連による和平仲介やソ連参戦についての的確な見通し、
D近衛・蒋会談を勧めた石原莞爾参謀本部第一部長への誹謗中傷、E近衛が後継首相に東條陸相を推挙した事実、です。・・・(略)・・・
《続く》
0015名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/09/10(土) 22:24:01.45ID:EkWjEknG0
>>14 《続き》

 @支那事変の積極拡大志向
       (中略)
 2日後の7月11日、現地停戦協定が成立し、日本国内の師団派兵が実施保留になったにもかかわらず、近衛首相は言論界・政界・財界
の代表者たちをこの順番で首相官邸に招いて会見し「支那に反省を促すための『北支派兵』」を高らかに謳い上げたうえで、各界代表者
たちから政府の対支那施策に関する満場異議なしの「白紙委任状」をとりつけました。事変推進に向けた内外各方面や国民各層への
強力なアピール、巧みな演出です。・・・(略)・・・
 これらはマスコミ対策に長じていた風見が、近衛の了解の下でもっぱら取り組んだしかけです。彼は「近衛公と直接に相談し(中略)これ
を実行に移した」と自らの仕掛けであったことを認めています。
 後で振り返っても、風見が実行したこの仕掛けが国内外において事変拡大に向かう流れに大きな力を与えたことは否定できません。事実、
このときちょうど南京国民政府は全支那の政・財・学・言論界や中国共産党の代表者150人余を集めた会議を開催中で、会議場は近衛首相
の「北支派兵」の宣言に抗戦決意一色の極度な興奮状態となったのです。風見が、早くから「北支には一大戦雲の渦巻き起さるべきを予見
する」とか「北支に戦雲みなぎる」などの予断を持っていたことを示す記載も多見されます。注目すべきことです。
       (中略)

 A日本での革命志向(支那事変は日本での革命の手段) 風見にとって事変は、「世の中は大変革を予想せねばならぬ」契機とする
べきものでした。「今度の変革では華族なんて無くなってしまふことになるだろう」「前大臣や華族の乞食ができるやうにならなくては、
どうしてもこの事変はおさまるまい」ということです。更に「ひょっとしたらこの秋ごろは、米も切符制になるのでは無いかと思ふ。そうなれ
ば当然土地も国家管理と云うことになってくる。統制経済はそこまで行かなくてはならぬ」と述べています。・・・(略)・・・
       (中略)
 昭和14年9月には東亜新秩序建設の構想を練ったものがあります。そこでは、「10年間は大兵の支那駐屯を覚悟すること」、「憲法停止」
などが書かれ、政治綱領として、「旧勢力は一種の革命的手段によるにあらざれば、日本に於いても亦これを払拭し得ざること明白と
なれり。随って晩かれ早かれ、旧勢力払拭のために大衆の蜂起を見るに相違なし」とし、「此の混乱季に在りては、満州、朝鮮、台湾共に
叛逆すべし」、「この過程中にありて革新日本体現され、その力によりて東亜新秩序の建設は行はるべし」などの案が際立っています。
 支那情勢については、いち早く昭和14年10月に「支那に於ける赤化勢力の抬頭は傾向としてこれを認識するの必要あり」と断じ、
「かくて日本の東亜新秩序建設にあたりては、支那に於いて大衆獲得のため一層徹底したる社会主義政策の実現の必要なるを認識
するの要あり」、「支那に於ける共産軍は反共の勢力と拮抗して、此処に支那大陸は共産反共産の決勝戦に於ける死闘場と化する」
としています。・・・(略)・・・
 そして、支那における反共的抗争による「情勢の圧迫は自ずから日本の革新を急速に実現するの必要を生み、此の革新のために
国内問題は益々重大化する」、「早く事変を収拾せんとするも望む可からざる也。却って国民の溌剌たる奮発心を盛り上がらしむるに足る
新しき政治を生み出すことこそ、事変処理のための先決要件たり」としています。・・・(略)・・・
       (中略)
 ・・・(略)・・・風見の日記が物語るのは、日本側にも革命のために支那事変を利用する意図が、よりによって政府中枢にあったという
ことです。当然、両者が通じていた可能性も浮上します。近衛や風見の周辺には中国共産党とも通じた尾崎秀実がいました。支那事変は
中国共産党が仕組んだ「国共合作」の成果ではなく、「日本政府と中国共産党の合作」の成果であったのかもしれません。今後、検証され
るべきテーマだと考えます。
《続く》
0016名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/09/10(土) 22:27:48.47ID:EkWjEknG0
>>15 《続き》

 B独裁体制としての新党(一国一党)づくり ・・・(中略)・・・「諸種の経済社会及び労働団体等に対し新党の支持団体として密接なる
連携を保つやう働きかけ、この働きかけに応ぜざるものに対しては断乎解散を命ずること」「一度び総選挙を告示せば速時に新党絶対
支持の気運を渦まき起こし、反対するものの立候補はその余地無きよう諸般の準備を進めおく事」。更に「一種の革命的組織方法」を
標榜し、「地方新聞を機関紙たらしむ」「一種の戦闘突撃部隊を中央地方を通じ組織するの必要有り」などが記されています。私は驚きを
禁じ得ません。
 更に「若し全権委任法不成立の危険有る場合には、次の選挙に当選せしむるに足る同志議員を辞職せしめ、議会を自然消滅せしめて
緊急勅令により選挙法の改正を行ふ」・・・(略)・・・
       (中略)
 大東亜戦争末期のこと、風見が昭和19年10月から11月に次のように述べていることに私は腰を抜かしました。「皇居の前を通るときは
脱帽して敬礼する。たれが一番あり難いかと問はるれば、言下に天皇陛下だと答へる。外観はまさにかくの如くである。この外観はその
内容と一致しているだろうか、それとも表面をさういふように繕っているに過ぎないのであるか。さうしなければ叱られる、さうしなけ
れば権力あるものからにらまれる。(中略)形式だけ天皇崇拝の態度を示しているに過ぎないのではないか」。彼は日本の状況は革命前
のロシアと同じと見做していたのです。ロシアの民衆も「敬愛しなければおそろしい目にあふという恐怖が、敬愛の形をとつて表面化し
ていたまでのことに過ぎなかったればこそ、けろりと敬愛の念を棄て去ることが出来たのである」
 ・・・(略)・・・「従来の如き政治組織は、この戦争で払拭されるに相違ない。新しき社会秩序の誕生がこの戦争で約束される以上、
新しい政治組織の発生もまた、この戦争が約束する筈である」
 ・・・(略)・・・「今犠牲を出来るだけ少なくするには最悪の条件を鵜呑みにして、ソ連にすがって和平の途を求むることだらうが、
それは現在の如き政府の場合相手が承知しまいから、戦争の責任無き民衆の力による政府の出現を待たなければならぬ。(中略)
旺盛なる生活力を持つ民衆が頭をもたげ来ることが予想できる。この予想が外れぬ場合は一種の革命である。それが遠くはあるまい。
遅くとも六ヶ月より遅れまい」。「遅くとも六ヶ月より遅れまい」とはすなわち2月から半年後ですから昭和20年8月頃を指します。
 風見の著書『近衛内閣』によれば、その「半年後」の昭和20年8月上旬、片山哲が風見の下へ相談に来ます。・・・(略)・・・
「なによりもまず必要なのは、一刻もすみやかに講和をはかるために、一種の革命的独立政権をつくりだすことである、それには、同志
結束してたちあがらねばならぬが、それにしても、それには近衛氏の蹶起をうながさねばならぬ、近衛氏がたちあがったとなれば、国民
も安心して、そのあとについてくるだろう」が相談内容です。そして段取りを打ち合わせているのです。
 この時の風見の情勢判断は次の如くです。「・・・(前略)・・・わたしも片山氏の相談にはすぐ賛成した。それというのも、わたしもまた、
近衛氏さえ同じ考えになって、たちあがってくれたなら、ことは、もとより、たやすくないにしても、画策よろしきをえれば、人心は近衛氏に
あつまり、目的を達することは不可能ではないと見てとつたからである」
 ・・・(略)・・・「もっとも、かかる計画の実現は、天皇を反対の立場に追い込むわけで、そうなると近衛氏は皇室と運命をともにする
わけにゆかなくなるわけだが、しかし、『大義親を滅す』の勇断に出ることを信じて疑わなかったので、片山氏の片棒をかつごうという
決心もしたのである」
       (中略)
 ・・・(略)・・・実際、風見は「ひそかに身辺を整理しつつ、近衛氏を動かすため、上京の用意にとりかかつて」いました。しかし、
「まもなく、無条件降伏に決定したことがわかつたので、それつきり、片山氏との交渉も絶えたのである」。・・・(略)・・・
 革命の「好機」を逃した風見は「わたしは想像するのだが、もしこのとき政府が戦争継続ときめたとしたら、近衛氏は片山氏の希望
を入れて、きつと講和政権の樹立に、一身をささげたにちがいない」と未練たらしく書いています。このとき風見はまだ、近衛の
「裏切り」を知らなかったのです。
       (中略)
《続く》
0017名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/09/10(土) 22:29:45.57ID:EkWjEknG0
>>16 《続き》
・・・(中略)・・・GHQ参謀部第二部対敵諜報局調査分析課長のハーバート・ノーマンは、近衛はファシズム体制の構築とアジア侵略・
対米開戦に責任がある戦争犯罪人だとするレポート「戦争責任に関する覚書」をアチソンに提出します。同月17日、アチソンはこれを
バーンズ国務長官に送付しました。・・・(略)・・・ノーマンは何故、一度も会ったことのない近衛にこれほどまでに反発していたので
しょうか。
 彼は並行して内外のマスコミを使って大々的に近衛の追い落としに動きました。・・・(略)・・・
 前述したように、彼は学生時代からの共産主義者で、後にソ連スパイの容疑をかけられてエジプト大使として赴任したカイロで飛び降り
自殺をしています。風見とは家族ぐるみの極めて親しいつきあいをしていた間柄です。・・・(略)・・・
       (中略)
 最後に、風見の戦後の活動を追ってみたいと思います。風見は占領政策転換後の自由主義=反共・反ソ政策に抗して、講和条約締結の
対象にソ連・共産党政権下の中国を含むべしとする「全面講和」論を主張し、昭和26年の追放解除後から中国共産党側と接触を強めます。
       (中略)
 風見は昭和27年9月の衆議院選挙で「平和憲法擁護」と「日中・日ソ国交回復」を公約の二本柱として立候補し、国会復帰を果たします。
       (中略)
 風見は昭和29年、「憲法擁護国民連合」代表委員に就任。昭和30年には左派社会党入りし、同年左右統一時に社会党顧問となりまし
た。さらに「日中日ソ国交回復国民会議」理事長に就任し、政界の親中・親ソ派を率います。31年の鳩山首相による日ソ国交回復の
背景には、風見の鳩山への働きかけ、日ソ間の橋渡しがあったと言われています。
 昭和32年、風見はモスクワでフルシチョフ第一書記と、続いて北京で周恩来首相と、平壌で金日成主席と会見し、ベトナム人民共和国
にも招待されてホー・チミン主席と会見しています。彼らにとって風見は日本の顔のひとりだったのです。
 昭和33年、風見が満を持して左翼同志に呼びかけたのが、中国に対する日本側からの「反省」「お詫び」の表明です。この表明を中国
側は大いに喜びかつ歓迎し、さっそく風見らに招待状を送りました。風見を団長とする訪中風見ミッションがすぐさま結成され、10月の
国慶節に参列後、人民外交学界との共同声明に調印しました。共同声明の要旨は、「現在の台湾海峡をめぐる戦争の危機は、アメリカ
帝国主義の侵略的挑発行為に基づくものである。沖縄をはじめ日本国土にある米軍基地は、中国に対するアメリカの作戦行動に使用
されている。したがって米帝国主義は日中両国人民の共通の敵である」です。風見の中国共産党とのパイプが、戦後の左翼反米運動の
基本的な構図を打ち建てていたのです。
 現代の日本人にとっては戦前・戦中と戦後は断絶しているかのようですが、中国共産党や日本の左翼にとっては紛れも無く大きな
ひとつの流れであり、太くしっかりとつながっています。彼らの反日謀略の系譜は脈々と引き継がれてきています。
       (後略)
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