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【偉人】福沢諭吉について【悪人】(其の13) [無断転載禁止]©2ch.net
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2016/10/26(水) 22:01:11.16ID:RiYRiGHC0
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【偉人】福沢諭吉について【悪人】(其の12)
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0251名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:43:01.75ID:ZyNEtwcl0
都倉武之さんの福沢「執筆名義」考・序論 ― 2018/01/20 07:25

 毎年、クリスマスの頃に届くのが『福澤諭吉年鑑』(福澤諭吉協会)である。  最新『福澤諭吉年鑑44』2017の、山田博雄さんの「研究文献案内」で都倉武 之さんの「福沢諭吉にお

ける執筆名義の一考察―時事新報論説執筆者認定論へ の批判」という論文を知った。 山田博雄さんの「研究文献案内」だが、その 年の福沢研究を目配りよく渉猟し、深く読み込んで

、案内してくれていて、ま ことに有難い。 都倉さんの論文は、2016年12月『武蔵野法学』第5・6号 371〜409頁所収、山田さんが親切にも大学紀要論文等がインターネットで閲 読可能

であることを紹介し、URLまで書いてくれていたので、さっそく読むこ とにした。 http://id.nii.ac.jp/1419/00000438/

 「はじめに」に、以下のようにある。 福沢諭吉の著作を特定するというこ とは、福沢研究の当然の前提である。 しかしいわゆる「時事新報執筆者認定 論」が提起され、福沢が創

刊した『時事新報』の無署名社説のどれを福沢の全 集に収録するかという判断の基準がかならずしも明確でない事実が共有された ことにより、この当然の前提が揺らいでいることは、

周知の通りである。 都 倉武之さんは、大正14〜15年刊行の『福沢全集』全10巻と昭和8〜9年刊行 の『続福沢全集』全7巻(併せて『旧全集』と呼ぶ)の編纂者である石河幹明 の恣意

性をことさら強調し、現在の議論の混迷の原因を石河の人格に帰する如 き議論には一切与しない。 しかし所与の前提と考えられていた全集の存在が、 今日の研究水準に合致しないこ

とが明らかになっていることはきわめて重要な 問題である、とする。

 都倉さんは、『時事新報』が一般に福沢の新聞として知られていた事実も重視 すべきであると言う。 福沢は『時事新報』の経営や執筆と無関係であるとい う建前を整えていたが、

これは当時の言論取り締まりを回避するための方便で あり、実際は福沢の新聞であり、彼が筆を執っていることは公然の秘密であっ た。 伊藤正雄編『明治人の観た福沢諭吉』をみれ

ば、同時代人が『時事新報』 と福沢を一体のものと認識していたことは明らかである。

 福沢は晩年の明治31年、全5巻で自ら全集を編纂した(この稿で『自選全 集』と呼ぶ)際、基本的に単行著作のみを収録し、日々の『時事新報』社説は 収録しなかった。 『福沢全集

緒言』で、自らの著作を「寄集めて之を後世に 保存」することは「近世文明の淵源を知るに於て自ら利益なきに非ず、歴史上 の必要と言ふも過言に非ざる可し」とまで自負している。

 素直に読めば福沢 が収録しなかったものは「後世に保存」する「利益」がないと言っていること になる。

 福沢はどの文章を誰がいつ書いたと世に示すか、といういわば執筆者の名義 に極めて強い自意識を持っていたと考えられる。 福沢は自分の書いた文章を 自分の書いたものとして世

に問うだけでは飽き足らず、時に他者の名を騙り、 あるいは無署名とし、それがどのような媒体で世に出るかにも固執した。 そ れは自分の情報発信が何らかの結果をもたらすことに

激しく貪欲な功利的姿勢 から出た自意識といえよう。 言説に対する尋常ならざる鋭敏な感性を持ち、 それを駆使していた人が福沢なのであり、それが福沢という人物のその人物た る

所以の一角をなしているのである。 これについて、鎌田栄吉(慶應義塾長、 文相)は、思想は常に一貫していながら、表面的言説が自在に変化するコンパ スに例え、丸山真男は「状

況的思考(situational thinking)」、土橋俊一は「複 眼思考」と形容した。

 しかしながら、近年は個別の言説(特に『時事新報』社説)を同時代性から は分離し、それぞれを一個独立の著作のように解釈し批評する研究が多くみら れる。 そこには福沢とい

う民間の一個人によるトータルな社会活動や国家構 想との関連でどのような意味を持っているかという同時代的視点からの整理が 欠如している。 福沢の言説は後日並べて比較すれば

「自家撞着」(同じ人の言 行が前と後とくいちがって、つじつまのあわないこと)に満ちているのである から、侵略的な言説のすぐ近くには、リベラルな言説が同居したりしている。

  重要なのは、福沢がその言説をそのタイミングで、そのような表現で発信しよ うとした意図を検討して位置づけることであり、そうすることで福沢の言説は その時点の読者との関係

性において「自家撞着」ではなくなるはずなのである。
0252名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:43:16.08ID:ZyNEtwcl0
 都倉武之さんの、この論文の目的は、福沢の言説が表面的に「自家撞着」に 満ちているだけでなく、体裁を自在に変え、時に他者の名前さえ騙ることなど を明らかにすることを通じ

て、実に多様な側面を有することを再確認し、福沢 の言説の再構築を図ろうとするものである。 このことを、端的に福沢の「執 筆名義」(authorship)の問題と呼ぶことにする。

 以上、都倉武之さんの論文の「はじめに」を概観した。


http://kbaba.asablo.jp/blog/2018/01/20/8773054
0253名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:44:02.69ID:ZyNEtwcl0
伝えたいことが伝わり、人を動かす文章 ― 2018/01/21 07:19

 そこで都倉武之さんの論文「福沢諭吉における執筆名義の一考察―時事新報 論説執筆者認定論への批判」の構成だが、「はじめに」の後、 一 福沢による文書の代作 1 『福翁自伝』における回想
 2 福沢による文 書代作の例 二 福沢著作の執筆名義 三 『時事新報』社説に関する自意識 「おわりに」 となっている。

 今日は「一 福沢による文書の代作 1 『福翁自伝』における回想」をみ てみたい。 それぞれに引用されている福沢の文章が面白いのだけれど、それ は論文で読んでもらうことに

する。

 『福翁自伝』に出てくる文書の代作の逸話は、適塾時代の「遊女の贋手紙」、 長崎から大坂への転学の途中、無銭宿泊のために中津の商人鉄屋惣兵衛の名を 騙った船宿への贋手紙、

戊辰戦争で捕えられた榎本釜次郎(武揚)の老母の代 りに書いた助命嘆願書である。 これらの逸話は、福沢が贋手紙の内容のみな らず、その内容を記す文体、表記、書体、そして届

け方などを総合的に偽ると いう多面的な考慮のもとに実行されたことを語っているのだ。 求める結果を 導き出す文章を作り上げるために、文章の書き手と読み手を意識し、その文章

がいかに読まれるかということに配慮を巡らせ、種々の工夫をし、実際に求め る結果を導いている。

 福沢の文章表現の柔軟性について、適塾時代に赤穂義士は義士か不義士か議 論した一節が引用されている。 そこからは、物事を両面から相対的に見据え た福沢の視座に加え、自分

の説とは別次元の問題として、議論の技術が必要で あることを認識し、それを適塾時代に磨いたことが語られている。 明治5年 に東海道を歩いて、行き違う人々に様々な言葉遣いや態

度で話しかけ、相手の 反応が変わる様子を観察する逸話がある。 福沢は『旧藩情』(明治10年)で 身分間の言葉の差異を詳細に考察しているように、語彙や語感の違いへの高い 関心

を持ち、それを巧妙に使い分ける素地を持っていたといえよう。 年少者 向けの作文教科書『文字之教』(明治6年)の末尾には、文章の表現技術を磨 く必要を説く興味深い下りがある



 福沢は議論の中身と外形は一体ではなく、難解なことも平易に、無意味なこ ともさも重要なこととして表現しうるといい、文章の技術(art)の重要性を自 覚していた。 中身を読者

に伝えることに傾注し、「伝える」という実用の目的 に徹して、その目的を達成しうるならば外形の見栄えには拘泥しない姿勢を鮮 明にし、後進に推奨している。 さらにいえば、彼

の書く文章は現在(書かれ た時点)の実用一辺倒であり、後世に向かって書かれたものではなかった。

 伝えたいことが伝わり、動かしたい人々が動けば、その文章は成功している と割り切れる人が福沢であり、福沢の文章は実際そのような意図に満ちている のである。 換言すれば、

福沢の文章には必ず何らかの意図があり、意図と離 れて存在し得ないのである。 そうであるから、全ての言説を対等な存在とし て平等に並べて批評することは、福沢の思想を検討す

る場合不適切なアプロー チとなる。

 これまでの例は私文書に類する例だったが、福沢は公文書でもこれに類する 話を残している。 適塾への留学を中津藩に届ける際、「蘭学修業」と書くと前 例がないので藩庁が認め

てくれないと知ると、白々しくも医者である緒方洪庵 のところへ「砲術修業」に出かけるという、前例に則した願書を出すことに、 何の拘泥もしないのである。 名分でなく、実が取

れればそれでよいというこ とだ。 福沢はこの逸話で、名分ばかりを重んじ実益を軽んじる日本人の倫理 観を暗に批判しているともいえるだろう

http://kbaba.asablo.jp/blog/2018/01/21/8773556
0254名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:44:36.16ID:ZyNEtwcl0
最も効果的な執筆者の名義を使う ― 2018/01/22 07:19

 つづいて、一の「2 福沢による文書代作の例」である。 福沢には他者の 依頼に応じた代作、あるいは自らの意思で他名を借りて作成した文書がいくつ もある。 [長沼事件に関す

る願書案文](明治7年〜20年頃)、[西郷隆盛の 処分に関する建白書](明治10年7月24日)、[横浜瓦斯局事件関係文書](明 治11年〜12年)、[春日井事件に関する願書案文](

明治11年末頃)、[国会開 設の儀に付建言](明治13年6月7日)、[埋葬引払控訴補遺](明治14年)。

 これらは政治的な事件や裁判等に、福沢が名前を伏せて関与した事例である。  それは福沢自身に政治色がつくことを忌避しているともいえるが、国会開設な どは、福沢が書き手と

して名前を出さないことに積極的な意味があると考えた 可能性がある。 つまり、福沢個人が主張するのではなく、同時多発的に国内 から政府への穏健な手段による異論がわき起こる

ことこそ、『文明論之概略』に 福沢がいう多事争論、ないしは異説争論の状況であり、新しい政治体制を許容 する「時勢」を伴う民情なのであり、国会開設を実現してよい国民になり

得る ことを意味したからである。

 学校や結社関係の趣意書もあげる。 [慶應義塾之記](慶應4年4月)名 義はない、主語は「吾党」「吾曹」、[中津市学校之記](明治4年11月)旧中 津藩主奥平昌邁の名義、[旧

紀州藩士の為の義田結社の趣旨](明治10年)旧 和歌山藩主徳川茂承名義、[慶應義塾維持法案](明治13年11月23日)福沢 の高弟たちの連名。 結局福沢は、文書の名義が誰と表示

されるか、というこ とが文書のもたらすその後の効果との関係で重要であることへの自覚を有して おり、ある時には他者の名前にし、ある時には無記名にすることによって、そ の文書

がより効果的に読まれることを意図していると考えられよう。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2018/01/22/8774328
0255名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:45:32.71ID:ZyNEtwcl0
多様な著者名を揃え「時勢」を動かす福沢の演出 ― 2018/01/23 07:03

 次に都倉武之さんは「二 福沢著作の執筆名義」で、単行本を検討する。 福 沢関連の著作中には、福沢による純然たる著作とはいえなくとも他の著名人の 全集であれば収録されて

いても不自然では無い程度に福沢が関与しているのや、 逆に全く福沢とは無関係の体裁でありながら、福沢の証言に基づき全集に収録 されているものなど、微妙な位置づけのものがい

くつか存在している。

 『万国政表』(万延元年)福沢範子囲閲 岡本約博卿(岡本節蔵(古川正雄)) 訳、『西洋衣食住』(慶應3年)片山淳之助名義、『洋兵明鑑』(明治2年)福沢 諭吉・小幡篤次郎・小

幡仁三郎合訳、『清英交際始末』(明治2年)福沢諭吉閲 松田晋斎訳、『学問のすゝめ』初編(明治5年)福沢諭吉 小幡篤次郎同著、『国 会論』(明治12年)藤田茂吉・箕浦勝人名義で

『郵便報知新聞』に連載。

 『万国政表』、『洋兵明鑑』、『学問のすゝめ』初編、『国会論』は、いずれも福 沢の筆が入っていると考えることに無理がなく、このうち『学問のすゝめ』初 編は100パーセント福

沢執筆の可能性が高い。 『万国政表』、『洋兵明鑑』、『国 会論』の三点は、100パーセントの福沢著作ではないことが明らかなものとい えよう。

 福沢自身による全集収録状況は、『洋兵明鑑』、『学問のすゝめ』初編の二点は 採録、『万国政表』、『国会論』は不採録となっている。 『万国政表』、『国会論』 は、出版前に

福沢が閲する機会があったとしても、実質は他者の手によって最 終的に仕上げがなされているものである。 任せた時点で、その後最終的に完 成したものを福沢は自分の著作とする気

がなかったと考えられる。

 『西洋衣食住』、『清英交際始末』の二点は、名義を完全に福沢のものと改め て全集に採録している。 100パーセントの純然たる福沢著作で、ただ名義だ け片山、松田にしていたと

考えるのが自然だろう。 このようなことをした理 由は何だろうか。 福沢の著作活動が門下生や教員と一体をなし、単に福沢一 人が突出して活動するのではなく、慶應義塾の人々が

足並みをそろえて幅広く 発信していくことが心がけられ、そのように福沢が演出していたと見ることが できないだろうか。 『国会論』は、福沢がイギリス型の議院内閣制導入をし た

ことで知られる『民情一新』(明治12年)を引用しながら、その主張を支持 し、特に官界に向けて福沢の説く議院内閣制の長所を補強している。 つまり 福沢が一人で主張しているわ

けではなく、それを支持する声が福沢以外から挙 がっているという世間向けのアピールとなっているのである。 そのアピール は成功し、福沢が「図らずも天下の大騒ぎになって、サ

ア留めどころがない、 恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するやうなものだと、少し怖くな りました」というほど、国会開設論を刺激することになった。 『文明論之概 略』

の「時勢」論を想起すれば、やはり自らが突出するのを嫌い、「時勢」を動 かすことによって文明が進歩すると説いたことと連動しているといえよう。

 そして維新前後に西洋の文物への関心を喚起し、あるいは世界情勢に目を開 かせ、新しい学問へと人々を誘う仕掛けとして用意されたのが、『西洋衣食住』、 『清英交際始末』の二

冊の本だったのではないか。 福沢だけでなくその周囲 も含めて多様な発信を行っていることを演出するために福沢は出来るだけ多様 な著者名がそろうことが得策と考え、これら二書

は、全文自分で執筆しておき ながら、名義だけ関係者の中から割り当てたのではないだろうか。

 福沢は『自選全集』編纂の過程で、出版当時の事情から自由になったことで、 執筆の実態と当時の形式的名義の峻別を行なったということであろう。 『万 国政表』『国会論』とも

に福沢の筆が基本になっているとはいえ、「これで完成」 という判断を自ら下しているか否か、という点が、自らの著作か否かの判断基 準といえるのではないか。

 そのように、都倉武之さんは推論するのだ。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2018/01/23/8775007
0256名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:46:25.18ID:ZyNEtwcl0
福沢と『時事新報』の関係、著書と新聞の効果 ― 2018/01/24 06:41

そして、「三 『時事新報』社説に関する自意識」である。 ここでは具体的 に事例を検討することは困難なので、『時事新報』での執筆に当たっての福沢の 基本姿勢についてのみ検

討する。 福沢は創刊直前に荘田平五郎に送った書簡 (明治15年1月24日)で、慶應義塾で幾多の卒業生を輩出し、それぞれが様々 な主張を展開することを放任してきた福沢であったが

、そういった卒業生の中 の政治活動の動きを契機にして明治14年の政変が起こったことが推定される 状況下で、慶應義塾が「何か今之社会に対して求る所ある者之如くに思はるゝ は、

俗に所謂割に合はぬ始末」と考え、そうであれば、慶應義塾の態度を時事 に照らしてその都度表明していくことが必要であるとし、その場として『時事 新報』を位置づけている。 福

沢には新聞発行の前例があった。 明治7年2 月から翌年6月まで12回、様々な論説を掲載した『民間雑誌』を発行、明治9 年9月から『家庭叢談』という雑誌を刊行、明治10年4月になる

とその体裁 を新聞に改め再び表題を『民間雑誌』とし、発行頻度を徐々に増やして、最後 は明治11年3月から日刊新聞となった(編輯兼印刷人 箕浦勝人、後に加藤政 之助)。 内容は

新聞らしく官報欄や雑報欄、広告もあり、論説や社説には記名 があったり筆名があったり無記名であったり一定せず、福沢の記名は時々見ら れる程度である。 日刊になる際の『民間

雑誌』の広告によれば、地方の購読 者を多く求めたようで、日本中への知識の普及、議論の活発化を狙ったものと いえ、そこにはやはり「時勢」論を念頭に置く必要があろう。

『民間雑誌』では、その後の『時事新報』ほどの福沢の関与の形跡は見られ ず、最初の日刊新聞の試みは、わずか2ヶ月余りで廃絶を迎える。 「壮年輩 に打任せて顧みさればこそ、彼

の不始末を来たし候」(荘田平五郎宛書簡)。 明 治11年5月14日、大久保利通暗殺を受けて掲載した社説に「大久保氏に限り 特別に気の毒と云ふ訳もなきことなるが」云々と記したこ

とを当局に咎められ、 以後このような不穏な記事は書かないという「請書」を出すように求められ、 福沢は加藤政之助に「そんな請書を出すものがあるか、かゝる無茶無法な政府 の下

では新聞紙などは書けないから、いっそ思い切ってやめてしまはう。請書 の代りに廃刊届けを出して来い」といって、廃刊してしまったとされている。

しかし、『福沢諭吉伝』の永井好信による回想では、福沢は進歩的な大久保が 暗殺されたのは実に惜しむべきことだとし、暗殺のような野蛮な陋習に同情を 寄せるが如きは怪しからぬ

と、何故か喜ぶ塾生らを誡める演説をしたという。  「彼の不始末」とは、大久保暗殺に対する政府との無用な摩擦を生んだような 自分の失態、という意味ではないか、と都倉さんは

指摘している。 その原因 は「壮年輩に打任せて顧み」なかったことなのである。

唯一の関連書簡、大久保一翁宛(明治11年6月1日付)にも「既往の失策 は幾重にも御海容奉願上候」とある。 その後の福沢の『時事新報』との関係 は自ずと示唆される。 つまり、

紙上の発言は、福沢の、あるいは慶應義塾の 主張と見られることを前提として、これからは監督していく、ということを述 べているわけである。

福沢が新聞という媒体をどのように意識していたか、「著書、新聞紙及ビ政府 ノ効力」(明治17年5月31日付)という興味深い社説がある。 言葉を使い 分けて、主体的に「輿論」を作

り出すという視点を有する福沢にとって、著書 と新聞は、効果的に使い分けるべきものと認識されている。 新聞は即効性が あり、瞬時に輿論を大きく動かすが、翌日にはすぐに忘れ

去られてしまう。 ま さに「時事に切」であり、その時の情勢の中で、すぐに求める効果を導く道具 でしかないのである。 対する著書は、即効性はない代わりに、長い年月をか けて
0257名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:46:36.94ID:ZyNEtwcl0
徐々に人々に浸透していくものである。 従って将来にわたって読まれる 価値のあるものを著書として世に問うべきである、ということである。

『自選全集』では、『時事大勢論』(明治15年)から『実業論』(明治26年) に至る、『時事新報』創刊後の15冊の著作は全ていったん『時事新報』に掲載 後、単行本となった。 こ

のようにいわば「著書」の役割を持つ論説は、社説 としていったん家庭に届けた上で、改めてじっくりと読み続けられる本の体裁 にして歴史に残し、それ以外の社説は「近世文明の淵

源を知るに於て」は「利 益」がなく、「歴史上の必要」がない(『福沢全集緒言』)、すなわち福沢にとっ ては、その時限りで役割を終えた使い捨ての言説であり、極言すれば後世に

読 まれる必要がない無価値な社説ということなのである。 従って、そのような 意図の元で福沢が記したものとして読み解く必要がある。 上記15冊の著作 は、いずれも「福沢諭吉立

案」として他者が「筆記」をした形式になっており、 これは前にみた通り法律上の責任が福沢に及ばぬにしただけのことである。  そしてその名義は、『自選全集』ではすべて「福沢

諭吉著」と変更されている。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2018/01/24/8775572
0258名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/01/31(水) 19:47:14.69ID:ZyNEtwcl0
独立維持と日本における文明の模索 ― 2018/01/25 07:08

 都倉武之さんの論文「福沢諭吉における執筆名義の一考察」の「おわりに」 も読んでおく。  福沢は、著作や『時事新報』を通じて、戦略的な情報発信、情報戦を展開し 続けていた

と見ることができよう。 自分が発した情報が、どのように社会に 受容されるか、あるいは世界に伝播するか、どのようにすればより効果的であ るか、そのような関心を生涯持続して

いたのが、福沢という人物であった。 効 果を期待する相手は、時に身の回りの人であり、慶應義塾の人々であり、政府 の高官であり、実業家たちであり、日本国民であった。 時に

その範疇は朝鮮 へ、そして欧米諸国の国際世論にまで広がった。 それを支えていたのは日本 各地のみならず、世界各地に輩出した門下生たちの存在であり、彼らと頻繁に 文通や往来

を維持することで情報を収集し、それを『時事新報』等にける戦略 的な情報発信に活かしていた。

 別の言い方をすれば、福沢は民間独立の情報機関の主宰者とでもいうべき役 割を自負していた。 それは第一に西洋列強に対して日本の地位を維持してい くために民情を先導してい

くための自主的な輿論工作であり、政府と直接利害 を持たず、あくまで福沢に主体性のある活動であった。 のみならず、実は福 沢には日本政府を換骨奪胎して、より「文明」的に持

続する日本の国家体制へ と徐々に作り替えようという、より上位の工作が企図されていた。 福沢の後 半生は、この両者――すなわち独立維持という卑近な課題と、日本における文 明

の模索という高遠な課題の二つ――を同時に見据えた、たゆまない政治工作 の日常だったといえるのではなかろうか。

 正月早々、よい論文をじっくり読むことが出来て、教えられることが多く、 勉強になったのだった。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2018/01/25/8775995
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