https://blogs.yahoo.co.jp/honjyofag/66779567.html

女性差別の極みとして『時事新報』論集のなかでも特に女性史の研究者たちから糾弾されて来た「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」に関して、
平山洋は、「石河が自らの関心から執筆して紙上に掲載したものを、1933年に、折からの満蒙開拓ブームにのっかって、
『実はこれも福沢先生が書いたものだ』、とか言って、『続全集』に採録したもののように見えます」などとしているが、おそらく平山の指摘の通りだろう。

「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」という記事には、以下のような恐るべき主張が見られる。

「娼婦の業は素より清潔のものに非ず、左さればこそ之を賤業と唱えて一般に卑しむことなれども、
其れこれを卑しむのは人倫道徳の上より見て然るのみ。人間社會には娼婦の?く可らざるは衛生上に酒、
煙草の有害を唱えながら之を廢すること能はざると同様にして、經世の眼を以てすれば寧ろ其必要を認めざるを得ず。
人口繁殖の内地に於てさへ、娼婦の必要は何人も認むる所なるに、況して新開地の事情に於てはますます其必要を其必要を感じざるを得ず。
往年徳川政府の時に、香港駐在の英國官吏より、日本女性の出稼を請求し來りしことあり。其理由は、同地には多數の兵士屯在すれども、
婦人に乏しきが故に、何分にも人氣荒くして喧嘩争論のみを事として制御に困難なれば、日本より娼婦を輸入して兵士の人氣を和げたしと云ふに在りき。
又浦鹽斯徳などにても同様の理由を以て頻りに日本婦人の出稼を希望し、適ま適ま出稼のものあれば大に歓迎し、政府の筋より保護さえ與ふるやの談を聞きたることあり」

戦時中は「鬼畜米英」と罵倒しながら、敗戦するや進駐軍に取り入るために、米国軍将兵のための「特殊慰安施設協会」を設置した往事の日本政府を支えたのは、
まさにこうした女性を物品のように扱う差別的な発想だろう。

しかし、この記事は、福沢の他のリベラルな女性観とはあまりに隔たりが大きく、常識的に考えても、平山が指摘するように、福沢の真筆ではないだろう。

ところが驚くべきことに、問題の記事は、1940年(昭和15年)、水木京太の編集によって第一書房から刊行された『福沢諭吉 人生讀本』にも、
「出稼奨勵」と改題され、前半部が省略されて掲載(147-148頁)されている。

同書は、福沢による著作や記事を抜粋した選文集であり、同書は出版された同年5月10日、「七尾嘉太郎」名義で塾長や旧慶應義塾図書館に献本された。

七尾嘉太郎とは、この本の著者・水木京太の本名であり、『慶應義塾大学百年史 別巻大学編』(1962)によれば、「水木京太、国文学担当、昭和2-4年、
昭和17-19年、義塾文学科文学卒業、演劇評論、戯曲等に活躍、丸善株式会社嘱託」である。

水木の作品には、劇作集にはその名も『福澤諭吉』(風俗社、1937)というものまであり、福沢にもっとも傾倒した人物の一人である。このアンソロジーは、
戦後まで読み継がれ、1975年(昭和50年)4月号の『三田評論』には、「水木京太君編『福沢諭吉 人生読本』を読んで」なる記事が掲載されたほどである。
そして、この記事の著者は、戦中小泉信三(1888-1966)が顔面被弾で療養中塾長代理を務めた後塾長を引き継ぎ(1946-1947)、
第一次吉田内閣では文部大臣を務めた高橋誠一郎(1884-1982)である。

読んで字の如く『人生讀本』などの処世訓がほとんどで、脱亜論やら侵略やらも出てこないし、左翼とか右翼とかいう問題とも関係がない。
しかしながら、先の問題の記事を含むアンソロジーが、福沢への傾倒者からも何の疑いもなく受け入れられ、
文部大臣さえ務めた塾長経験者からも評価されて来たことはどうでもよいことではないだろう。

高橋誠一郎によれば、この『人生讀本』は、「『主張立論の当否よりも、動機方向が、ぢかに先生をかんじさせる種類の章句を選み』、
これを集積して景仰すべき人間像を築こうとしたもの」 だそうだが、「人口繁殖の内地に於てさへ、娼婦の必要は何人も認むる所なるに、
況して新開地の事情に於てはますます其必要を其必要を感じざるを得ず」などと説教する教育者に「景仰すべき人間像」求める読者はまずいないと思われるので、
改題までして再録に執着する理由も不明で、当初から除外しておくべきだったのではないだろうか。