産経新聞2018.9.3 07:30更新

【明治の50冊】
(27)福澤諭吉『福翁自伝』 希代の啓蒙家誕生の軌跡

 近代日本を代表する啓蒙(けいもう)思想家、福澤諭吉が晩年に自らの生涯を口述筆記させたのが、
明治32(1899)年刊行の『福翁自伝』だ。
封建社会から近代国家に向かう激動期を思想的にリードした当人による回想は、
自伝文学の傑作として今も読み継がれている。

 刊行当時、福澤は64歳。幕末以来の著述活動はもとより、
慶応義塾の創設や高級紙「時事新報」の創刊など、教育者や経営者としても功成り名遂げた存在だった。
その波瀾(はらん)万丈の生涯を、ユーモアを織り交ぜた洒脱(しゃだつ)な口調で語っていく。

 福澤は大分の貧しい下級武士の家に生まれた。有能で向学心にあふれた父は学者になる望みを抱いていたが、
厳しい身分秩序の前に果たせず、不本意かつ薄給の仕事をあてがわれたままその生涯を閉じた。
有名な「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」というくだりは、亡父の無念に思いを致しての言葉だ。
個人の能力や希望とは無関係に、生まれですべてが決まる社会への疑問が、そこに兆している。

 青年になった福澤は、長崎遊学や大坂・適塾での蘭学修業を経て江戸に上り、英学を猛勉強して米国へ渡る。
米側が案内したメッキ工場や電信などの科学技術については既に輸入書で学んだ通りで驚かなかったが、
女性尊重などの風俗や政治・社会制度の違いには仰天した。

 初代米大統領、ワシントンの子孫は今どうしているのか、との福澤の質問に対し、
米国人が詳しく知らないと返答したエピソードは、本書中でも特によく知られている部分だろう。

 「此方(こっち)の脳中には、源頼朝、徳川家康というような考えがあって、
ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答に驚いて、これは不思議と思うたことは今でも能(よ)く覚えている」

 日本が封建社会から文明国となる際、工場や軍艦といった科学技術の移入よりもずっと難しいのは
近代的社会の構築であり、それを市民として支える自立した個人の確立である−。
「一身独立して一国独立す」と説いた希代の啓蒙家、福澤がいかにして誕生したか。
その一部始終を、よくできた小説のような味わいで読み進められる。

 福澤の著作としてはまれな口語体で、刊行後数十版を重ねるベストセラーに。昭和の批評家、小林秀雄は
「強い己れを持ちながら、己れを現わさんとする虚栄が、まるでない」と評し、
「日本人が書いた自伝中の傑作」と絶賛した(『考えるヒント』)。岩波文庫版は昭和53年の新訂版以降、
66刷73万部。角川ソフィア文庫や講談社学術文庫にも収録され、今も広く読まれている。
また慶応大は平成8年度から毎年、入学式で全新入生に『福翁自伝』を配布する。慶応義塾広報室は
「この書を通じて創立者の生涯と思想に接し、今に引き継がれる義塾の気風を感じ取ってもらえれば」と目的を話す。

 福澤研究で知られる平山洋・静岡県立大助教は、刊行当時の時代状況に目を向けるべきだと指摘する。

 明治28年の日清戦争の勝利で、「一国の独立」はひとまず達成をみた。
だがプロイセンを範とした官尊民卑の明治国家が完成するこの時期、人民の国家への依存は次第に高まりつつあった。
「本書と対になる存在といえる『修業立志編』をはじめ、日清戦争後の福澤の著作はすべて『一身の独立』に関する内容。
個人の独立を基盤にしない国家の独立の脆弱(ぜいじゃく)性について、福澤は不安を抱いていた」

  現在も、所属集団の「空気」に従う形で、非合理的判断や違法行為へと流されてしまう組織人は後を絶たない。
合理的思考を保ち、理非曲直の判断を空気に委ねない「強い己れ」を、
日本社会の中でいかに確立していくべきか。刊行から100年以上たってなお、
『福翁自伝』はわれわれに大きなヒントを与えてくれる。(磨井慎吾)