河井継之助って単なる馬鹿だろ、普通に考えて [無断転載禁止]©2ch.net
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東土人は本当に哀れだよな、こんなのを英雄扱いしなくちゃならないなんて hennayagisan1‏@hennayagisan1 4 時間4 時間前
上田泰己氏 理研の税金無駄使い、954万円高級家具カッシーナ・イクスシーの指定購入も大問題 http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-7696.html 徳川幕府は倒れたけれどこれから先はどういう世の中になるのか
廃藩になるとは予想もできないのだから、長岡藩の生き残りを考えねばならぬ
戦争になってしまったのだから‎武威を示して存在をアピール、これからの世に発言権を持たねばならない
家老はつらいよ いや、ふつうに批判されてるだろ。会津の松平容保も地元民から批判されてるはず。
そもそも戦国時代からの大名でもなんでもなく(その点では薩摩や長州、仙台とは違う)
江戸幕府から指名されて降りてきた統治者にすぎんし、庶民農民にやさしい藩政ひいてた
わけでもなんでもなく、幕末の騒動で臨時税かされて不満がかさなってたところに戊辰
戦争の荒廃で長岡も会津も世直し一揆がおきてたはず。武家の観点から記述されるのは
史学のうえではしょうがないだろうけど、それを根拠に倫理観かたる馬鹿はなんとか
したほうがいい。 牧野家や松平家の朝廷軍に対する私闘だよあんなの。
言い分はあるんだろうが、地域にとってはいい迷惑。 田舎家老が自分のように頭の良い男ならなんとかなるって思っちゃったんた゛よな ぎゃくに圧倒的大多数の譜代親藩は朝廷側との外交交渉で戦争回避したんだから
そっちがわにこそ江戸時代の武士の理性を積極的に見たいねオレは。なかには
こういう藩もあったというだけ。 >>7
そりゃ違うな。
大体それなら岩村なんて屑送り込んだ官軍の手落ちだろ。
結果少なくない兵力を長岡なんて狭いところに長期間拘束されて
スケジュールの遅延を齎した。
庄内藩みたいに寧ろやる気満々の相手を損害無しで武装解除した
西郷クラスしか官軍は使い物にならない事になるなw 完全な正義の側が勝つというワケではない、という戦争の悲劇を象徴しとるんやな >>9
河井が当初主張してたのは「武装中立」なんだから、岩村の当座すべき事は
「武装中立の厳正な履行の監視」で有って、殊更に長岡側を挑発して列藩同盟側に
奔らせる事じゃない。
だが実際に岩村がやったのは長岡側を挑発して列藩同盟側に奔らせてるんだから、
官軍にとっても「無能」を絵に描いたようなもんだ。
(実際の官軍の中でも微妙な評価だったみたいだが) いやいや藩の重臣ならどんなアホが相手でも藩と領民を守るのが仕事だろう
子供のお使いじゃないんだから相手がアホだから失敗しました自分は悪くありません被害者ですってのはない
藩によっては江戸時代を通じて幕府から無茶な要求や言いがかりを吹っかけられても大丈夫なように
外交交渉のうまい家臣を側近に抜擢して江戸や上方に情報収集担当を置くなどスキル蓄積してたり
相手方担当者がアホでも根回しできるように別ルート開発してたりしてんだしそこは評価してもいいと思う >>12
藩の重臣だから「武装中立」なんだろうよw
つまり、当初の方針は「列藩同盟側に協力しない代わりに官軍側にも協力しない」
(=藩領内に他勢力を入れない)なんだから。
長岡の地勢を考えるならば、どっちに組しても反対勢力の侵攻を受ける立場なんだから
(新潟港が直ぐ近くに有るから)、藩民を守る事を優先するなら、政治的選択肢は
それ以外の方針は取りようが無い。
そう言う意味で、岩村みたいなボンクラ送り込んで別の戦線形成する破目になったのは
官軍側の手抜かりなんだよ。 武装中立なんて馬鹿なこと考えるから長岡が賊軍になってしまった そこで現実路線として会津に降伏するように説得するから待ってくれと言ったら
岩村は時間稼ぎと判断して会津討伐の尖兵として働けと言って聞かなかった。
岩村がボンクラだから。 華族に出世して天寿を全うした岩村>>>>>>逃亡先でミジメに敗北死した河井 そもそも慶応元年に長州藩が徹底恭順から武装恭順に藩論を変えたら
幕府が許せん第二次長州征討しちゃると戦を起こしたわけで
武装してたら攻めていいって前例つくったの幕府なんだけどね
この時に長州は恭順してんだから攻めるの変だろと抗議した藩はいくつかあったけど
長岡藩ってその中に入ってたっけ? 他の譜代を見習って官軍に参加しとけばよかったのにな >>16
でも華族になっても何処に出向いても終生ボンクラと言われ続けたけどな、岩村はw
それも旧長岡藩の連中ならともあれ、旧官軍の連中に
ずっと死ぬまで言われ続けたw
相手の実力を見誤って無駄な消耗と無駄な時間を掛けたから或る意味当然だが
(だから子孫が16みたいな言い訳してるがそれ故余計に岩村の無能は指弾されている
と言える)。 駆逐艦秋風が保護した民間人70人に対し
殺害命令を出したのも山本五十六。
艦上で男は絞首刑
女子供は海に投げ捨てて全員殺害した。
これが連合艦隊司令長官、山本五十六の実像 岩村は他人を怒らせる天才だ。
長岡でも佐賀でもな。 岩村は他人を怒らす天才なのは揺るがない事実。
新政府は始めからそのつもりで、口実作りの為に岩村を送り込む。
岩村は長岡でも佐賀でもその態度で相手を怒らせ、相手から手を出させる。
理由が出来た官軍は討伐に乗り出して平定するという流れだな。
新政府側がきちんと岩村の人格を理解した上で送り込んでいて
岩村はその人格で期待に答えて役割を果たした。 人材が居なかっただけだろwそれでなくてもハリボテの官軍なのに
余計な兵力の損耗など愚の骨頂じゃねえか。華麗に圧勝したわけでもなし。 2ちゃんに貼りついて佐賀と関係ないスレに出没しては
長文粘着して無理やり佐賀の話題にもってこうとする佐賀人うざい
佐賀スレあんだからそっちで書いてろ 会津武士は、地元の会津農民から嫌われ抜かれていたが
大正時代に「会津観光史観」が確立され、
特に飯森山で城が燃えていると勘違いして自決した白虎隊が観光客を集めて
会津では、会津藩士を追い出した農民達までが被害者意識ムキ出しになって、
会津藩賛歌を歌い出した。バカっぽいなw
長岡も「長岡観光史観」をやって「長岡藩は被害者だー!」と行政が連呼したら
河井賛美が始まるんじゃねーのww いろんな意味で辺境だったんだろうね。豊かな周縁部ではなく辺境。 長岡で事を荒立てることに何のメリットもないし
普通に岩村の勇み足だろう
ただ勇み足はお互い様で継之助も事なかれの日和見で行くのがベストだったのに
意地悪く言うと身の程を知らない対応をしてしまったとは思う >>34
石高だけで相手を判断して侮る、と言う典型的無能指揮官の振舞いそのままなんだよな<岩村 それまでの諸藩に対する外交経験から高圧的に出るのが効果的と悪い意味で
学んでいたのかもしれんね。 ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ 会津が徹底抗戦する事なんて分かり切っているのに
「長岡藩は中立です、会津と官軍を仲介します」と言っても、
『官軍をナメ切った時間稼ぎ』と思われるのは当たり前
東西に別れて戦争しているのに、小藩が中立なんてあり得ないし。
岩村が「7万石の小藩なんか蹴散らせ!」と思ったのは当然
長岡藩としては、命が惜しければ官軍について、意地を見せたければ
全滅を覚悟で会津に付くしかなかった。小藩が中立なんて最初からムリ。
越後最大の高田藩(榊原家15万石)が奥羽越同盟に加われば
親不知の天険で防禦が可能だったかも知れないが、高田藩が官軍に付いた段階で
7万石の長岡藩は官軍に降伏すべきだった。 で、小藩と侮って無用な時間と兵力を浪費して会津包囲に失敗してるんだから、
やっぱり岩村は無能って事だなw
明治政府でも捨て扶持の爵位だけくれられて二度と日の当たる配置の割当がない、
ってのはそういう意味だからな。
先に会津に長岡を叩かせて長岡を官軍側に嫌でも付かせる、と言う選択肢も取れた
状況を無視してるんだからw
(新潟からの兵站線を遮断するのが長岡侵攻の目的である事を岩村は理解出来て無かった
のかもしれないが。であれば明治政府の岩村の冷遇は尚更当たり前だし、維新後に
あちこちで言い訳にこれ努めたのは余計嘲笑を買う材料にしかならない)。 佐賀でも県令として旧藩士侮辱して反乱させとるな。生粋の挑発屋
いまなら良い2ちゃんねらになるだろう 人類が許してはいけない永遠の怨敵
世界の敵人、アドルフ・ヒトラー
日本の敵人、信州武士山本五十六
越後の敵人、信州武士直江兼続 相手の器量なりに交渉するのが役目だからな
相手がバカだったから戦争になりましたってのは勝者ならともかく敗者が言っちゃダメだわな >>41
>やっぱり岩村は無能って事だな
だとしたら、岩村に負けた河井は、さらに無能だけどな
> 二度と日の当たる配置の割当がない
石川、愛知、福岡、広島の県令や知事を歴任し、男爵・貴族院議員にも
なっていて、土佐藩分家の宿毛出身者としては、兄の通俊に次ぐ出世
>佐賀でも県令として旧藩士侮辱して反乱させとる
江藤や島など憎い佐賀系を叩き潰すために、大久保が策略として
岩村に侮辱させたと、木戸が大久保の陰湿さを言い残している。 >>41
長岡を官軍側に付かせる必要なんてない
結果として官軍は長岡も会津も武力で落とせてるし 理研の税金無駄使い、954万円高級家具カッシーナ・イクスシーの指定購入も大問題 : 千日ブログ 〜雑学とニュース〜
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-7696.html
税金の無駄遣い?STAP細胞関連経費1億4500万円 小保方晴子氏の検証実験参加は不要だったで書いた理研の税金の無駄使い。
実は小保方晴子さんらのSTAP細胞関連だけでなく、別の問題にも触れられていました。扱いが小さかったんですけど、こちらもすごく問題だと思います。
(中略)
●本来なら大問題である税金の無駄遣い
この高級家具の件は、小保方晴子さんが買ったのでは?と、STAP細胞疑惑のときにいっしょに話題になったものです。しかし、すぐに東大教授になった別の方のところで購入したものだと、断定されていました。
違っていたら困りますし、名前を出しちゃうとあれかな?と思うので書きませんが、「カッシーナ・イクスシー 東大教授」あたりで検索すると簡単に出ます。もうあだ名が「カッシーナ」という感じになっていました。
「計288個の穴があること」など、実質的に特定のブランド以外を排除した購入など認められるはずがないものであり、本来なら非常に問題です。これは小保方さん問題以上に返金を求めやすくないですかね?
マスコミはこっちの問題ももっと追求すべきだと思います。 >>46
兵力をなるべく残して新潟からの兵站線遮断しなくちゃならんのに
第三戦線形成するのは岩村が中世レベルの猪武者だと言いたいなら
無理には止めないぜw
土佐っぽの田舎武者だから近代軍を動かす器量も能力も絶無だ、と
言いたいんだろうけどなw
ああ、岩村宜しく戦争で沢山人死出さないと武功にならない人かな?w
たかだか10万石の藩平定するには無意味な大損害出して会津包囲にも支障を
きたしてるがなw なんか岩村をアホだと必死に書き綴ってるレスを読むと
余計に河井ってバカだなと思えるんですが
アホが送られてくるのを待ってないで話の分かる奴と連絡とれよ 岩村が小者すぎたことはだれも否定できない
河井を否定することに必死すぎ 人に会ってもどってくるだけで何週間もかかる時代なんだからムチャいうなよ。 だってのらりくらりとうまく逃げた藩って少なくとも前の年くらいから根回ししてるだろ
ガトリング砲を外国人から買ったときについでに大山弥助にでも紹介しといてもらえばよかったのに
長岡藩は文久2年に京都所司代やってたんだから変に攻撃的なアホが来るのを想定してなきゃ変だ >>48
結果で判断すべきだろ
沢山死人が出ても官軍が勝利して、敗走した長岡藩主も降伏している
河井も牧野忠訓も馬鹿な乱賊なのだよ 岩村ばっか言われてるけど
この方面のトップって山縣と黒田だろ? そうそう。外交交渉のためにちくいち伝令はしらせて往復2週間待つなんて
ことするわけがない。軍司令官はそのまま外交責任者 岩村ってどこまで権限与えられてたの?
武装中立を認めると他の部隊にも影響あるから伝令走らせないと無理だろ
自分の一存で決めて布陣を変えさせるくらいの力あったの? 軍隊ってのはもともとそういうの決まってないんだよ。先に暴力と階層がある。
上手く行けば賞賛されて失敗すれば切腹させられる。カタチが先にあるんだよ。
だから近代の軍隊はそうならないよう組織化とマニュアル化に血道をあげたわけ 軍の通例からして信濃から越後の諸藩を平服ないし征伐せよ、
くらいの命令しか受けてなかった可能性が高い 長州藩や土佐藩は、蛤御門の変や藩内粛清で
有能な人材の多くが死んでしまい、
官軍は極端な管理職不足で、陸援隊上がりの若造を
北陸道軍司令官にするのはやむを得ない
河井は官軍のそういう事情も考慮すべきだったのに
傲岸に「俺が会津藩と官軍を仲介する」と言い放ったから
交渉がうまく行かないのは当たり前。
営業やってたら、得意先の窓口がクソ生意気な若造に替わって、
それまでの担当者ではあり得ない無茶苦茶な事を言って来て、
ブチ切れそうになるなんてよくある事。
「お前なんかじゃ判らん、元の担当者出せ!」と言いたくなるのを
ぐっと堪えて、冷静に相手の不明を判らせる事が、営業のカギだが
傲岸な河井ではムリだろうな。。 しかも、別のお得意様の重役はリストラ担当からのし上がったブラック経営者と来たらね… >>60
信濃の諸藩は越後に侵攻した侵略者だよ
越後長岡藩を攻撃した信州諸藩が最も多かった >>65
信州で最大の松代藩真田家は、真田昌幸以来ガチガチの反徳川だからなw
松代藩の佐久間象山とか、上田藩の赤松小三郎とか、
伝統的に信州には開明的な勤王の志士も多かった
そりゃあ、カビの生えた徳川幕府なんかに殉ずる気は毛頭ないわw >>68
真田昌幸・佐久間象山・赤松小三郎すら知らない低能バカは、
日本史板に来ない方がいいと思う
ちなみに松代真田藩は、官軍より信濃10藩の触頭を命じられたため、
信濃10藩を率いて北越戦争・会津戦争で奮戦し、東日本の藩としては唯一、
官軍の賞典禄八傑【薩摩・長州・高知・大村・松代・大垣・佐土原・鳥取】
に入る軍功を上げている。
会津戦争では、佐久間象山が自藩に大量生産を指示した自慢のメリケン砲を
若松城の東にある小田山に並べて若松城を撃ちまくり、
「薩摩真田に大砲なくば、官軍破るも何のその」と会津藩士を嘆かせる
活躍をした。ちなみに薩藩藩の大砲は近接戦闘で威力を発揮する
四斤山砲(弥助砲)のため射程が短く、攻城砲としては余り威力はなく、
事実上、松代藩のメリケン砲が若松城を陥した。
司馬遼太郎の小説によって上野戦争の終盤で威力を発揮したと書かれている
佐賀藩のアームストロング砲が会津戦争でも活躍したと勘違いしてる人が多いが、
当時のアームストロング砲は威力が弱い上に破裂や故障が多く、
保有していた佐賀藩や薩摩藩は使いたがらず、会津戦争でも、
ほとんど使われなかった。「アームストロング砲は夜間に城方を
眠らせない空砲に使われた」と述べている歴史家もいる
上野戦争の終盤で勝敗を決定づけたのは鳥取藩の斬り込み隊であって、
佐賀藩のアームストロング砲ではない。
そのため鳥取藩は賞典禄8傑に入っているが、佐賀藩は入っていない。 勤王の志士ってのは政治活動をした人のことだから
佐久間象山と赤松小三郎はどっちかと言うと学者とか思想家だね
地元の人が志士と呼びたきゃ止めないけど人に押し付けちゃいけない >>67=>>69
>会津戦争では、佐久間象山が自藩に大量生産を指示した自慢のメリケン砲を
>若松城の東にある小田山に並べて若松城を撃ちまくり、
おれが知ってるよりも長生きしたんだね
主語は佐久間象山だろ
真田昌幸が松代藩主だったみたいな書き方だし
日本語の勉強からやり直せ 越後人と書かないところが低脳の証
フル回転でもこの程度、とか 幕末の佐久間象山の活躍は有名だが、象山の西洋化政策によって作られた
松代藩の軍事力の凄さに関して、ほとんど知られていないのは不思議だな。
河井の長岡藩や会津藩の悲劇は、松代真田藩を敵に回した事だ。
戦場に【六文銭】の旗がなびくのを見たら、長岡も会津もさっさと
降伏すべきだった。
◇松代城(海津城)
http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori04/04_08_14hayashi/m07.html
● 戊辰戦争(1968年)当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。
1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、
廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時「松代藩は大砲のみにて
53門の多きに達し、他の(信濃)10藩全部の兵器を合するといえども
松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。
十代藩主・真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです
(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超え満照寺まで
飛んで大騒動になったという)。 この話題って真田丸最終回のいい加減なナレの受け売りだろ
大河板でも超ブーイングの嵐だったのに何故今更ドヤるのか
真田丸スレでも言われてたけど松代藩が佐久間家にした仕打ち考えりゃ自慢できんし
象山も赤松も出身を問わず多くの人に教えたのが高く評価されてる人で
河井継之助も象山の弟子なのに反徳川とかアホか
維新を徳川家康に負けた恨みとか思い込んで江戸時代260年どころか
幕末のこともよう知らん戦国脳が近代史板に来るなよ >>76
>松代藩が佐久間家にした仕打ち
どの藩でも武士は切られると「武術不心得」で恥とされていた時代だ
背中を切られる後ろ傷は、特に不面目とされ、
お家お取り潰しになるのが当たり前だが、知らないのか?ww
まあ、息子が帰藩出来なかったのは、象山が傲岸不遜で
藩内も敵が多かった上に、息子のデキが悪かったからだが..
デキの良い息子なら、しばらくすれば帰藩が許されただろうな アホ丸出しw
幕末京都の暗殺は複数人で取り囲んで滅多切りという手口が普通だったんだよ
なので背中に傷があるから卑怯なんて考え方はすでに過去のものになっている
ただの言いがかりに過ぎないのは分かった上での処分だろ >>78
公家や町人は切られても不面目ではないが、武士は危機管理が大切で、
護衛の供もつれず、攘夷派がゴロゴロしている危険な京都の街中を
目立つ白馬に西洋鞍を付けて堂々と騎乗し襲われて、後ろ傷を負って、
首まで取られて三条河原に斬奸状付きで晒されたのだから、
松代真田藩の面目は丸つぶれ。「危機管理の出来ない真田家中」という
汚名を松代藩に塗ってしまった事になる。お取り潰しはやむを得ない。
「言いがかり」なんて言ってる奴が、歴史に無知なだけww
ただ幕末にもなると、しばらくすれば「父の功績大にて」という事で、
息子の帰参が叶う事が多いのだが、象山が藩内で嫌われていた事と、
息子のデキが悪かったので、帰参が叶わなかった。 ばっか馬鹿しい
つまり信州人は象山の功績についてはドヤ顔で自慢したいけど
ツッコミ入れられると象山の人格disって逃げたいし
自称開明的な松代藩だが実はメンツにこだわるだけの古臭い藩で
他藩のように護衛嫌がる奴をうまく操縦もできなかったってことだな >>80
>実はメンツにこだわるだけの古臭い藩で
佐久間象山の進言通りに藩内でメリケン砲を大量生産し、
戊辰戦争で真田砲兵が大活躍した歴史的事実を見ても
松代藩の真田幸民が開明君主であった事が判る。
ただ、佐久間象山の危機管理が甘かったのは間違いない。
首を取られて藩の名に泥塗ったのだから、お取り潰しはやむを得ない。
こちらは歴史を事実として捕らえているのに
どうして低能バカは感情的に「信州人はどーの、会津人はこーの」と
バカを言い出すんだろうね?wwwww
アホは、歴史を客観的には見れないのか?ww
チョンそっくりだなw チョンとか言い出す時点で終わってるよ
戦国脳が歴史を事実としてとらえてるとか笑える あと危機管理が個人の責任とか言っちゃう時点で
現代人としても遅れてるな >>82
歴史を客観的に見れないのはチョンそっくりだよwwww
どうして無知無教養なバカは、事実を直視出来ないのか???
>>83
>危機管理が個人の責任とか言っちゃう時点で
この歴史オンチは、西郷隆盛が護衛のため中村半次郎など屈強な供を連れていたり
常に犬を連れていたり、桂小五郎が「逃げの小五郎」と言われ
新撰組や見廻組にずっと狙われながらも逃げ延びた事を、知らないのか?www 開明藩とかいっても相対的なもんだろ。西日本の雄藩ぜんぶ
敵にまわして戦えるほど開明だったワケねーじゃん。 >>1
単なるバカではないかという評価は長岡藩内にもあった。
とくに備中松山藩への留学に際しては藩の要路ももめた。
バカじゃないことは、その後の行政手腕をもって河井自身が証明した。
わずか3年であれだけの大改革というのは驚異的。
自信を持つのは当然ともいえる。 何というか河井の改革実績が凄すぎて長岡藩内はおろか
近隣諸藩でもタテつけないんだよね
幕末には珍しいけど河井独裁的な藩体制になってしまっている
とくに家禄改革は明治以降の動きを完全に先取りしてる >>86
改革の速度的には日本の一定規模以上の藩でおそらく一番速い。
速いなんてもんじゃない。独裁としか言いようのないスピード。
薩摩の島津斉彬も短期間で色々改革したけど、
彼は重豪までの蓄積があるのと藩主だったこともあるが
河井の場合は藩主の信任があったとはいえ郡奉行からのし上がっていきながらだから
明治以降は戊辰戦争後に似たような急激な藩改革があったけど
さすがに幕末の時点では一藩士がほぼ主導してこんな強引な改革できないよ 岩村高俊も後悔してるけど、河井を体よく引き留めればよかったという所だね
二見虎三郎の根回し段階で河井は談判成功の見通しを持っていたのだから、
何も河井と真っ向から口論して官軍の意思をバカ正直に伝える必要なんてなかった
1日でも2日でも河井を抑留してしまえば長岡藩の軍事指導体制はもっと弱体化した >>86
長岡藩と西南諸藩の違いは兵数に尽きるといっても過言ではない
長岡は1500人、越後戦線の核になる薩長兵がその5倍
越後戦線の東軍全体でも8000で3万以上の官軍を拘束した >>91
薩摩も長州もはじめから大軍だったわけではないよ。
少数で圧倒的な敵と戦い勝ち続けて、兵力が膨れ上がっていったんだよ。 長岡と会津の違いはお城が有るか無いか。
長岡市は250年も存在した長岡藩時代のお城を造ってはどうでしょうか。 つくったら維持しないといけなくなる。余計なことはしないことだ。
熊本城なんかもあれ、戦後に建てたものだぞ。それ維持するために
いったい何百億も要求されてるか考えればいい。過去からあって
大切にしてきたものこそ大切にすべきだ。余計な「まちおこし」で
子孫に負債を残すべきではない。 岩村がなぜか悪役にされてるけど
河井は談判に来たのに官軍が悪いかのように責めてたと言ってなかったっけ >>94
子孫の振りしなくていいよ
長岡市は長岡城を建造して町おこしをしよう。
条件としては、薩長を一方的な悪者にするのは無しで進めるべきでしょう。 城跡の現状はどうなってんのよ?宇都宮城は大部分民家だから悲惨なことになってるけど。 長岡駅と周辺だけどさ、駅を改築して、
駅前お城長岡城で、どう?
駅前留学ノバじゃないけど
あと、古戦場も多いから駅からバスで古戦場めぐりも出来るようにすればいい 駅がそのまま城址ですでに記念モニュメントみたいなのあるじゃん。
しょうらい消え去る運命の消滅都市に城址復元とか、ないないw 熊本で露呈したのは一部の声のデカい「市民」による
ハコモノ行政がいかに市民の負債になるかってこと
名古屋みたいなバカなまねはせんこっちゃ 岩村の人間性にいろいろ問題があったのも確かなんだが、
さすがに一方的に悪者扱いされすぎ。
河井は中立的な立場なんかとっていないし、あきらかに反新政府的。
あの時点で単なる一藩の言い分を通そうなんて、あきらかに無謀。
戦場になった長岡の人達から長く恨まれたのも仕方ない。 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OWTUE 河井継之助死してアサヒスーパードライと阪神タイガースを残す いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
DEC 【対米純投資、ゼロ!】 中国に噛みついたトランプ <ポストアメリカ> 中国が米国債を売りそう
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1535939242/l50
マ1トレーヤが出てきたら、脇役トランプなんか直ぐ消える。 >>91
ガソリング砲が後どれくらいあれば勝ってたかな。 >>108
100門あったとて勝てないだろ
それを運用する人数が官軍に比べて物理的に少ないのに何門あっても勝てないわ
203高地みたってそうだろ
ビグザム1機で連邦軍に勝てないのの一緒 203高地は機関銃で守る要塞に肉弾突撃を繰り返して大量の死者を出して作戦に無理があるから
砲撃に切り換えて勝ったんだろう。 203高地戦は基本最初から砲撃ありの突撃消耗戦攻略なんだが 戊辰戦争の会津藩と徳川幕府をテーマに語り合う(左2人目から)松平氏、伊達氏、上杉氏、南部氏、酒井氏、丹羽氏、柳沢氏、左は白石氏=会津大
http://www.minyu-net.com/news/181022news1.jpg
戊辰150年に合わせた歴史文化講演会「戊辰戦争 会津藩と徳川幕府」が21日、会津大で開かれた。会津、庄内両藩や奥羽越列藩同盟で主力を担った各藩の当主がパネル討論で
同盟の意義などを語り、「先人の努力で平和な社会が成立したことを忘れず、未来につなげる役目がある」と結論付けた。
約450人が来場した。会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)氏(64)、庄内酒井家18代当主の酒井忠久氏(72)、仙台伊達家18代当主の伊達泰宗氏(59)、二本松丹羽家
18代当主の丹羽長聰(ながとし)氏(74)、米沢上杉家17代当主の上杉邦憲氏(75)、盛岡南部家46代当主の南部利文氏(48)が登壇し、在京の会津出身者でつくる「会津会」会長の柳沢秀夫氏(65)が加わった。
進行役は漢字文化振興協会の白石宗靖(むねはる)常務理事・事務局長(85)が務めた。
当主らは各藩の置かれた状況を語り、戊辰戦争が新政府軍の「大義なき侵略」を目的に行われ、「義」の在り方に対する疑問が東北、越後諸藩の同盟成立につながったとした。
松平氏は「戊辰戦争は明確な侵略戦争。民に塗炭の苦しみを与えることが分かっていて、なぜ推し進めたのか理解できない」と指摘し、柳沢氏は「過去を変えることはできないが、今の時代に
生きる者が何を教訓にし、未来に向けてどう生かすかが大切」と語った。
討論に先立ち、徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝(つねなり)氏(78)が「江戸時代に
築かれた日本の基礎」の題で講演、「武」から「文」に大転換した江戸時代に平和の基礎が築かれたことを語った。漢字文化振興協会長の石川忠久氏(86)は戊辰戦争に関係する漢詩を紹介した。
「戊辰戦争から150年、これからの街づくり」をテーマにした鼎談(ていだん)も行われた。
文化講演会は漢字文化振興協会、徳川記念財団、福島民友新聞社の主催、戊辰150周年
記念事業実行委員会の共催、県、会津若松市、市教委、読売新聞東京本社福島支局、福島中央テレビ、ふくしまFMの後援、弓田建設、会津商工信用組合、会津若松商工会議所、会津若松観光ビューローの協賛、会津まつり協会の協力。
福島民友 2018年10月22日 08時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181022-318073.php 官軍との戦争を回避しようとしてた人もいたんだけど、河井のせいで戦争になってしまう 無謀な戦争を起こした河井継之助のせいで長岡は焦土と化した >>118
副市長がガトリングか。
もう負けるわな。 どう考えてもガトリング砲買う金で普通のライフル大量に買ったほうがよかったよね
あんな補給も運用も難しい実験兵器をぼったくり価格で買ったことが偉業みたいに語られてるのはおかしい 官軍と賊軍どちらにつくかの判断を間違えて
武装中立などという愚策で敗北の道を選択してしまった疫病神 >>124
ガトリングあったのに敗死しちゃったんだから効果もクソもない ひとり妄想的な平和論を唱えておいて
新政府側が受け付けてくれないとわかると逆上
勝手に新政府と勝ち目のない戦争に周囲を引きずり込む 四海波でも切れるときゃ切れる
三味線枕でチョイト、コリャコリャ
二世三世 ガトリングはあっても、雷神も鬼もいないんだから加賀藩にも負けるわな 無謀な戦争を起こした河井継之助のせいで長岡は焦土と化した わたしの故郷にこんな素晴らしい藩の政治家がいたなんて。感動です ここ最近河井継之助のウィキペディアに
先祖について二つの説があるとか書き換えられたけどあれなんで放置されてるの?
元々の本多家の家臣だったが姫君が牧野家に嫁ぐ時に一緒に先祖が牧野家に移ったと言うのを単なるそういう説もあるとか書き換えられた
もう一つが突然付け加えられた長岡の地侍とか言うもの。地名にある河井から苗字をとった地侍とか
あんな妄想を放置してるのはだれか直すだろうとかで誰も手をつけないから?
関わるのは嫌だから? 同じ幕府軍で、奥羽越列藩同盟で【最強】と言われた庄内藩は、
官軍に寝返った秋田藩領を丸焼けにして、各地で幕府軍を打ち破って
ものすごい抵抗をしたが、会津若松城が落城して、庄内藩も降参した際に
西郷隆盛が現場にいたので、西郷に許されて藩内は戦闘も皆無で、
酷い処罰も受けなかった。
西郷が庄内にいたのは、北越戦争が余りにも苦戦して、官軍の死傷者続出で
「このままでは新政府が危ない」と思った西郷が江戸から援軍を出そうと
したが、官軍の兵部大夫となっていた長州の大村益次郎から
「援軍など要らない、現地の兵で十分勝てる」と言われて、官を辞して、
薩摩まで兵を募集に行って、兵児を集めて北越に向かったところ、
大村の言うように戦は勝利で終わっていて、
仕方なくそのまま北上して庄内に至ったという経緯だ。
奮戦した長岡と庄内の結果は極端だが「運」と言うしかないと思うよ。
戦争でニューギニアに行って戦った爺さんも、戦争なんて運だ、命令一下
突撃しても死ぬ奴と生き残る奴がいるが、運しかない、と言っていた。 ほんと難しいよな、勤王派につくにしてもタイミングを誤れば秋田藩の二の舞だし。かといって旧幕府派になっても敵をつくる。 長岡藩は譜代で鳥羽伏見でも徳川方で戦ってる
それが朝廷に謝罪もせず新政府に根回しもせず、ひたすら武器を購入して軍備を整えてたら、敵対するつもりだとされてもしかたないわな。
薩摩長州といっても新政府軍は官軍として来てるのだから中立なんて主張が通るわけがないよな。
官軍に対しては服従するか賊軍になるかしかないんだから。
もちろん河井はそれらは分かっていた。
それが分からない馬鹿じゃない。
つまり河井ははじめから戦争をするつもりだった。
中立なら朝廷や新政府にたいして根回ししてるはず。
官軍が迫って来るまで何もしないでひたすら軍備を整えていて、いざ官軍がきたら中立でございます。
そんなもん通用するわけがない。 まあ偉人だが郷土武士だな。
日本全国で戦える器じゃない 河井継之介って明らかに頭弱いよ。
薩長の英傑たちに比べると200年は頭が遅れてる。 >>153
そうか西郷や勝海舟が絶賛してたぞ
たしかに時勢を乗れなかったのは残念であるが武士の世が終わり商人の世が来ると予言してたり堅物の会津藩に比べると未来を読めてたぞ >>155
バカではないが大局観にかけていた惜しい逸材
生まれた場所が悪い >>1
河井継之助、死して阪神タイガースと
アサヒスーパードライを残す 映画化おめでとう
司馬遼太郎が書かなければ有名になれなかった人 映画ってジャニーズ関ヶ原作った会社が作ったのかな?
石田三成陣営に朝鮮人テクノクラート集団が居て主力として大活躍とか、家康をこれでもかと汚く描いてた映画
出来が不安になるな 河井繼之助
https://cse.google.com/cse?ie=UTF-8&q=%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B9%BC%E4%B9%8B%E5%8A%A9+site%3Aplaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012&cx=002636997843861491696%3Av3cnak5qsac&siteurl=plaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012%2F&ref=&ss=
河井継之助
https://cse.google.com/cse?ie=UTF-8&q=%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B9%BC%E4%B9%8B%E5%8A%A9+site%3Aplaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012&cx=002636997843861491696%3Av3cnak5qsac&siteurl=plaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012%2F&ref=&ss= 河井継之助
https://cse.google.com/cse?ie=UTF-8&q=%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5%8A%A9+site%3Aplaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012&cx=002636997843861491696%3Av3cnak5qsac&siteurl=plaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012%2F&ref=&ss= ガトリング
https://cse.google.com/cse?ie=UTF-8&q=%E3%82%AC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0+site%3Aplaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012&cx=002636997843861491696%3Av3cnak5qsac&siteurl=plaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012%2F&ref=&ss= 河井 繼之助 傳が出版される位の有名人でした。
第二次世界大戦後に忘れ去られた。
昭和30年代後半に司馬遼太郎が神保町の古本屋で、
河井 繼之助 傳を購入して、『英雄児』『峠』を執筆した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202011230003/
2020.11.23XML
戊辰戦争に於ける、鬼
カテゴリ:カテゴリ未分類
稲川明雄氏の『長岡城奪還』だったと思いますが、
長岡軍が長岡城奪還作戦で城下に迫る時に、
郊外の百姓家を焼いたので、
稲垣林四郎は『鬼隊長』と呼ばれた。と書いて有った。
佐川官兵衛『鬼官兵衛』
インターネットで知りましたが、
戊辰戦争以前から、『鬼官兵衛』と呼ばれた。
我に尋ねたところ、
戊辰戦争以前から、『鬼官兵衛』と呼ばれた。という會津側の史料は、
明治時代に捏造されたものだそうです。
會津戦争の末期に佐川官兵衛が洛外で百姓家を焼いたので、
『鬼官兵衛』と呼ばれたそうです。
秋田戦争で民家を焼き捲くった酒井玄蕃は、
『鬼玄蕃』と呼ばれたそうです。
盛岡軍の楢山佐渡も民家を焼き捲くりましたが、
秋田戦争で秋田県の三分の二を焼いた主犯は、酒井玄蕃でしょう。
酒井玄蕃の死後に酒井玄蕃を人格者に荘内人が仕立てた。
荘内人が嘘を吐き続けて、
秋田戦争で民家を焼き捲くった『鬼玄蕃』が、
薩摩軍が酒井玄蕃の見事な戦っぷりで『鬼玄蕃』と恐れた。に荘内人がすり替えた。
​http://blog.livedoor.jp/akichan10314002/archives/51119355.html​
吉之丞さんはイケメンとしても有名(笑)。
←こちらをご覧下さい(所有は玄蕃さまご子孫・酒井徹氏)。
とても優しい顔立ちをしています。
庄内追討で玄蕃さまと敵対していた薩摩・大山格之助(綱良)は、明治になってから東京で初めて顔を会わせ、
「鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下(そっか:貴殿)が、実は容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは!」
と驚愕した、という逸話が残っています(笑)。
逸話では無くて、荘内人による、歴史の捏造です。
白河口副總督の横山主税と比べたら、酒井玄蕃は不細工な男
我はデブですが、不細工な男では無いです。
二十歳の終わり頃に劇団東俳のオーディションに合格しましたので(大和田爆笑) 獨立特行
https://cse.google.com/cse?ie=UTF-8&q=%E7%8D%A8%E7%AB%8B%E7%89%B9%E8%A1%8C+site%3Aplaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012&cx=002636997843861491696%3Av3cnak5qsac&siteurl=plaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012%2Fdiary%2F202011230003%2F&ref=plaza.rakuten.co.jp%2Fjigen2012%2Fdiary%2F202011230003%2F&ss= https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202012260000/
2020.12.26XML
> 越乃雪と大和屋あゆみ
カテゴリ:カテゴリ未分類
​https://www.koshinoyuki-yamatoya.co.jp/blank-1​
越乃雪・・・キラー・カンの四股名では有りません(大和田爆笑)
大和屋あゆみ・・・演歌歌手かと思ったぞ(大和田爆笑)
河井 繼之助は越乃雪を食して居ません。
『河井 繼之助 傳』と司馬遼太郎『峠』に越乃雪は、記載されて居ませんので。
高杉晋作は越乃雪を食して居ません。
しかも、話の創作が下手過ぎる。
志々雄さんが指南
下男が雪の代わりに粗塩を庭に撒く様子を縁側で布団の中から観て、ほくそ笑む高杉晋作 日中戦争は山本五十六ら海軍が謀略によって引き起こした戦争である
https://www.bookbang.jp/review/article/30202
日本海軍の知られざる実像
[レビュアー] 山村杳樹(ライター)
一九三七(昭和十二)年八月九日、上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫中尉が虹橋飛行場に車で突入、運転手共々、中国の保安隊によって射殺された。
この「大山事件」に乗じて海軍軍令部は十一日、宣戦布告に等しい要求を中国側につきつけ、十四日には大規模な渡洋爆撃を開始した。
近衛文麿内閣は「暴支膺懲」声明を発表し、支那事変に対する方針を不拡大から拡大へと一変。
当時の山本五十六海軍次官は、連日の渡洋爆撃を対米戦に向けての準備期間と捉え、海軍航空隊の充実、錬成に莫大な臨時軍事費を注ぎ込んだ。
本書はこの「大山事件」が現地海軍が仕組んだ謀略だったことを種々の資料や証言から論証し、事件を機に動き始めた日本海軍の「自滅のシナリオ」
の展開を跡づける。
更には、戦後、軍令部の参謀たちが偽証の口裏合わせをし東京裁判に臨み、「海軍は、陸軍に引きずられて太平洋戦争に突入した」という
「海軍善玉論」を意図的に創作、流布、宣伝したことに言及する。
著者は、日本海軍全体が「国の命運や国家利益さらには国防よりも組織的利益を優先させた強いセクショナリズム集団」であり
、膨大な戦時予算を獲得するために海軍の縄張りであった華中、華南で謀略を仕掛け、「自滅のシナリオ」を発動させたと結論づける。
実際、海軍は皇族で対米英強硬論者の伏見宮博恭を九年間(一九三二〜四一)にわたり軍令部長(在任中に軍令部総長に名称変更)に据え
、皇族の威光に隠れ横車を押す「知能犯」でもあった。
驚いたのは、昭和初期の海軍にあって、日露戦争の英雄、東郷平八郎元帥が隠然たる影響力を持っていたという事実。
東郷元帥は対米英戦に懸念を示した当時(昭和七年)の谷口尚真軍令部長を「こっぴどく面罵」し軍令部長交代を実現させたという。
一次資料、公刊資料、証言などを精力的に博捜した本書には、日本海軍が辿った歴史を検証し、流布されている“海軍神話”を解体せんとする情熱が溢れている https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202012300000/
2020.12.30XML
片手落ちの『新潟県史』通史編6
カテゴリ:カテゴリ未分類
​https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5%8A%A9#%E5%8C%97%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E9%96%8B%E6%88%A6​
>5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日(8月14日)までに全て鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。また、多くの領民が処罰され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。<
片手落ちの『新潟県史』通史編6
河井 繼之助が吉田の今井 孫兵衛に人夫調達を命じたが、
今井 孫兵衛が人夫の百姓から、賃金をピン撥ねした事が明るみに出て起きた、一揆
河井 繼之助が一揆を解散させる為に足軽たちを派遣したが、
一揆の百姓が足軽二名を殺害した。
河井 繼之助が一揆の暴徒を鎮圧させる為に銃士隊を派遣して、
最前列の暴徒を銃士隊がスナイドル銃で斃した。
暴徒たちは蜘蛛の子を散らす様に逃げた。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202101210002/
2021.01.21XML
倒産した新人物往来社の河井 繼之助 関連本を読んで居たので、我は知って居た。
カテゴリ:カテゴリ未分類
​https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202007120003/​
小学生による、論考を長岡市の河井継之助記念館に読みに行って居ない我だが、
小学生はこれの真相を知らないだろう。
​https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202012300000/​
2020.12.30
片手落ちの『新潟県史』通史編6
カテゴリ:カテゴリ未分類
​​https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5%8A%A9#%E5%8C%97%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E9%96%8B%E6%88%A6​​
>5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日(8月14日)までに全て鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。また、多くの領民が処罰され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。<
片手落ちの『新潟県史』通史編6
河井 繼之助が吉田の今井 孫兵衛に人夫調達を命じたが、
今井 孫兵衛が人夫の百姓から、賃金をピン撥ねした事が明るみに出て起きた、一揆
河井 繼之助が一揆を解散させる為に足軽たちを派遣したが、
一揆の百姓が足軽二名を殺害した。
河井 繼之助が一揆の暴徒を鎮圧させる為に銃士隊を派遣して、
最前列の暴徒を銃士隊がスナイドル銃で斃した。
暴徒たちは蜘蛛の子を散らす様に逃げた。
倒産した新人物往来社の河井 繼之助 関連本を読んで居たので、我は知って居た。
当時は長岡軍がスナイドル銃で武装して居たという、研究が進んで居なかった。
倒産した新人物往来社の河井 繼之助 関連本では、ミニエー銃だったな。
河井 繼之助が一揆の百姓たちを刺激し過ぎない様に、足軽たちに小銃を持たさず、槍を持たせて派遣したのが、仇と成った。
一揆の百姓たちは悪人で、話せば分かる連中では無かった。
一揆の百姓が足軽二名を殺害した。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 ​ でも河井が薩長側の人間だったら薩長より功績があった可能性もある 江戸時代のことだけど、水戸藩の公認で下総や周辺の女性達を強制的暴力的に
性の奴隷にしていたり幼児を性奴隷目的の為の人身拘束と人身売買を行ってい
たことは女性史では有名な話しだけれど、日本は都合の悪い話を隠蔽する傾向
にあるよね。
それは第二戦中、朝鮮の女性達を慰安婦という名の性奴隷にしていたり日本に
とって都合の悪い歴史を隠したがる。このことは国連の拷問禁止委員会を巻き
込む国際問題になっているんだよ。
韓国が言うように歴史を忘れた国民に未来は無いってことだ。
日本人は正しい歴史認識を持たなければならない。
そして、新聞等でも報じられているように一部の日本人による心ない
人種・民族差別を伴い不和を招きかねない表現を極めて憂慮している。
朝鮮学校児童に嫌がらせなど怖がらせなどという卑劣な行為は
日本人として恥ずかしいよ。
何はともあれ隣の国には変わりはないのだから仲良くしたほうが良いと思う。 江戸時代のことだけど、水戸藩の公認で下総や周辺の女性達を強制的暴力的に
性の奴隷にしていたり幼児を性奴隷目的の為の人身拘束と人身売買を行ってい
たことは女性史では有名な話しだけれど、日本は都合の悪い話を隠蔽する傾向
にあるよね。
それは第二戦中、朝鮮の女性達を慰安婦という名の性奴隷にしていたり日本に
とって都合の悪い歴史を隠したがる。このことは国連の拷問禁止委員会を巻き
込む国際問題になっているんだよ。
韓国が言うように歴史を忘れた国民に未来は無いってことだ。
日本人は正しい歴史認識を持たなければならない。
そして、新聞等でも報じられているように一部の日本人による心ない
人種・民族差別を伴い不和を招きかねない表現を極めて憂慮している。
朝鮮学校児童に嫌がらせなど怖がらせなどという卑劣な行為は
日本人として恥ずかしいよ。
何はともあれ隣の国には変わりはないのだから仲良くしたほうが良いと思う。 江戸時代のことだけど、水戸藩の公認で下総や周辺の女性達を強制的暴力的に
性の奴隷にしていたり幼児を性奴隷目的の為の人身拘束と人身売買を行ってい
たことは女性史では有名な話しだけれど、日本は都合の悪い話を隠蔽する傾向
にあるよね。
それは第二戦中、朝鮮の女性達を慰安婦という名の性奴隷にしていたり日本に
とって都合の悪い歴史を隠したがる。このことは国連の拷問禁止委員会を巻き
込む国際問題になっているんだよ。
韓国が言うように歴史を忘れた国民に未来は無いってことだ。
日本人は正しい歴史認識を持たなければならない。
そして、新聞等でも報じられているように一部の日本人による心ない
人種・民族差別を伴い不和を招きかねない表現を極めて憂慮している。
朝鮮学校児童に嫌がらせなど怖がらせなどという卑劣な行為は
日本人として恥ずかしいよ。
何はともあれ隣の国には変わりはないのだから仲良くしたほうが良いと思う。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
2021.05.14XML
小千谷談判まで長岡と薩摩の仲が良好だった訳
カテゴリ:カテゴリ未分類
河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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小千谷談判まで長岡と薩摩の仲が良好だった訳
カテゴリ:カテゴリ未分類
河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
2021.05.14XML
小千谷談判まで長岡と薩摩の仲が良好だった訳
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 長岡市東部は、高波保と呼ばれていた。
高波氏は物部氏である。 越後長岡藩の第12代藩主 牧野 忠訓
牧野忠訓の先祖である松平信綱の母は、深井好秀(白井長尾氏)の娘
深井氏は武蔵国足立郡深井邑(埼玉県深井)より起こる桓武平氏長尾氏族
長尾氏は上杉氏の血も引く一族
河井継之助の主君は長岡の支配者として相応しい人だった。 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105240000/
2021.05.24XML
俺の日頃の行いが悪くて、役所広司主演映画「峠 最後のサムライ」公開再延期 公開は来年を予定(大和田爆笑)
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役所広司主演映画「峠 最後のサムライ」公開再延期 公開は来年を予定
5/24(月) 12:50配信
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日刊スポーツ
役所広司(2020年10月31日撮影)
役所広司(65)主演で7月1日に公開が予定されていた映画「峠 最後のサムライ」(小泉堯史監督)の公開が再延期されることが24日、発表された。新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言の延長や対象エリアの拡大を鑑みたという。配給会社は来年公開を想定しているとしている。
当初は昨年9月に公開予定だったが延期になっていたもの。
司馬遼太郎の小説が原作で、幕末を舞台に、長岡藩の家老河井継之助を描いた作品。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105240001/
2021.05.24XML
「峠 最後のサムライ」の呪い(大和田爆笑)
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「峠 最後のサムライ」の制作実行委員会とやらが、
東京オリンピック・東京パラリンピックに沸く外国人に迄、
「峠 最後のサムライ」を観せてやろうと企画したのが間違いだ。
オリンピックは金の亡者が行う金儲け
選手はドーピング、主催者はアンチドーピングの鼬ごっこ、鼠ごっこ
クスリンピック・・・世も末広涼子(大和田爆笑)
河井 繼之助 は金儲けを肯定したが、金の亡者では無い。
月代を剃らない役所広司・・・これも呪いの源の一つ(大和田爆笑) 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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小千谷談判まで長岡と薩摩の仲が良好だった訳
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105250000/
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「峠 最後のサムライ」の呪い 別視点で
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長岡市の河井継之助記念館の河井継之助の銅像にブーツを履かせた暴挙、河井継之助の上半身の写真に勝手に下半身の写真をCG合成して繋げた暴挙
元・長岡市長の意向だろうな。
元・長岡市長は県知事選で落選した。
国政選挙に出馬するそうだが、
我に尋ねたところ、
国政選挙で元・長岡市長は落選するそうです。
「峠 最後のサムライ」の製作委員会は河井家の墓前で全員が五厘刈りにしろ!(大和田爆笑) つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慶應四年八月十六日に河井 繼之助が戦没
慶應四年八月二十七日に明治天皇が即位
岩倉具視、三條實美、睦仁親王(偽者)、薩長が不当に起こした戊辰戦争 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202105140003/
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小千谷談判まで長岡と薩摩の仲が良好だった訳
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河井 繼之助が鳥羽・伏見の戦いの後日、江戸を引き揚げる際に現役力士で相撲部屋の親方である、両國に「薩摩軍が江戸に到達したら、牧野家江戸屋敷を薩摩軍に引き渡せ」
牧野家江戸屋敷を名指しで薩摩軍に引き渡したので、
小千谷談判の前日に小千谷陣屋を使者として訪れた花輪 彦左衛門を薩摩兵が歓待したのだ。
司馬遼太郎は『峠』で両國を力士を引退した相撲部屋の親方として書いて居るが、
昔は現役力士で相撲部屋の親方を兼業できたのだ。
プレイングマネージャーだな。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、お門違いの長岡藩が何をトチ狂ったか新政府軍と会津の仲裁しようと分不相応に出しゃばった事が敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ 慈眼寺の歴史の案内板に「小千谷談判を妨害する目的で會津軍が片貝村に進軍だの、偽造した五間梯子の旗指物を遺棄しただの書いて有りました。
『河井 繼之助 傳』で松蔵が風説だと証言して居ます。
會津軍は謀略を行って居ません。
五間梯子
連日身震いしそうな寒さです。風邪を引かないよう皆さん気を付けてくださいね。
さて、タイトルにある「五間梯子(ごけんばしご)」とは長岡藩の藩旗です。
DSCF2208
(当館一階にある五間梯子の旗/右下は牧野家家紋「三ツ柏」)
五間梯子がなぜ長岡藩の藩旗なのか?
それは・・・
時は戦国時代、敵に追われていた牧野の殿様は、領民の家の納屋に匿ってもらいました。
そして領民は機転を利かせ、まるで何事も無かったかのように梯子を納屋の扉に立てかけておきました。
敵の追手はこれを見て誰もいないのだろうと見事騙され、殿様は無事逃れきったのです。
領民は殿様を差し出せば褒美がもらえた筈なのに、そうはしませんでした。
殿様はこのことを忘れず、今まで以上に領民を大切にしようと決意し、この五間梯子を藩旗にしました。
・・・ということで、以上が五間梯子が長岡藩の藩旗になった由来だと伝えられています。
ちなみに、長岡駅の現在の駅舎はこの五間梯子をもとにデザインされています。
長岡にお立ち寄りの方も地元の方も、ぜひ長岡駅舎に注目してみてくださいね!
五段梯子が正解でしょう。
1間は約1.82 mに換算されるのが一般的です。
9.1mの梯子を納谷の戸に掛けるのは、長すぎて不可能
五段梯子が正解でしょう。
牛久保に牧野氏が居た時の逸話です。 2009年01月22日
会津藩家老で唯一の戦死者 一ノ瀬要人
一之瀬要人は天保二年、会津藩家老(千三百石取り)一之瀬要人隆鎮の長男として生まれる。
妻は同じく家老職の西郷頼母の妹・幾与子。藩主・松平容保が京都守護職を拝命した時に番頭として随行し、蛤御門の戦いで奮戦した。
元治元年、天狗党の乱が起こった時に隊を率いて出兵したが天狗党が越前加賀で投降した為に一之瀬は現地に入らずに終わってしまった。
そのために一之瀬の部下には藩からの手当てが出なかった(現地入りした藩士には手当てが支給された)。
一之瀬は部下の為に藩に再三手当てを出してくれるように交渉するが聞き入れてもらえず、ついに辞職を願い出る。
慶応二年、父・要人隆鎮が他界したのちに「要人」を襲名して若年寄となり千五百石を賜る。
戊辰戦争が始まった慶応四年、家老職に就いて越後口総督となって桑名藩の立見鑑三郎や長岡藩家老の河井継之助とともに北越戦線を転戦した。
長岡城攻防戦では足に被弾して重傷を負って自害を覚悟した河井を秋月悌次郎と説得して会津藩領まで退避させた。(結局、河井は傷が悪化して死亡した。)
その後、戦場が会津若松城外に移り、一之瀬隊は唯一城と城外との補給路として確保されていた城南方面の守りを固める為に塩川周辺に布陣した。
中荒井周辺にいた萱野権兵衛率いる隊とともに一之瀬隊は一ノ堰に移動したが、ここで新政府軍と遭遇して戦闘となり会津藩軍の攻撃が素早く優位に戦った。
新政府軍は劣勢を挽回しようと増援部隊を送り込んだが犠牲者が多くなりついに引き上げた。
双方に多くの戦死者を出した徳久村の戦いに勝利した一之瀬隊では総督の一之瀬要人が自ら陣頭に立ち銃を撃って奮戦するが激戦の中被弾し重傷を負う。
また、隊長の西郷刑部、大竹主計、原早太ら主要幹部が戦死すると言う大きな打撃を受けた。
一之瀬要人は桑原の病院で治療を受けるが藩主・松平容保から降伏開城の親書を受け取った翌日に息を引き取ったと言う。
享年三十八歳・・北越戦争でともに戦った衝蜂隊の隊長・今井信朗や米沢藩の参謀・甘粕備後らからは
「堕弱」と酷評されたが生まれた時から千三百石取り家老職の家柄の坊ちゃんであった一之瀬要人としては上出来の戦いぶりだったと思う。 今井信郎
証言について
坂本龍馬暗殺事件に関し、明治3年の供述では自分は直接手を下していないと主張した今井だったが、事件から30年以上たった明治33年(1900年)、結城礼一郎という人物の求めに応じて事件についての聞き書きが行われ、『甲斐新聞』や雑誌『近畿評論』にてその内容が掲載された。その中で今井は「渡辺、桂、自分ともう一人で殺害した」と供述を翻す証言をした。これが元土佐藩士の谷干城に知られ、谷は売名行為と罵って反論した。
明治42年(1909年)2月、今井は『大坂時事通信』にて再度インタビューに答え、今度は「佐々木、自分、渡辺で実行した」と話した。
これらの矛盾点については、今井存命当時に生存していた実行犯を庇うために嘘の証言をしていたのではないかとされる。それを裏付けるかのようにインタビュー中「もう一人」というのが誰かと問われ、「まだ生きている人で、申し上げることは出来ない」と答えている。
これに関連し、大正4年(1915年)、渡辺篤なる人物が死去する直前に「自分が坂本龍馬を殺害した」と身内に語った事が『大坂朝日新聞』で報道された。この渡辺は今井が刺客の一人と言った渡辺吉太郎とは別人だが、慶応3年当時に京都見廻組に所属していたことが確認されている。この人物が「もう一人」ではないかとされているが真相は不明。
刺客の人数が明治3年の供述と比べ、後年の証言で減っていることについては、今井が刺客と名指しした人物は、鳥羽伏見の戦いで今井以外全員戦死していることから、自分と生き残りの刺客を守るため戦死者をダミーとして利用したのではないかといわれる。
なお今井家の口伝として、西郷隆盛が今井の助命嘆願をしたというものが巷間伝わるが、全く裏付けや証拠の無い伝聞推定に過ぎない。
甘粕継成
慶応4年(1868年)1月から始まった戊辰戦争では、軍務参謀に任じられて新政府軍と戦い[1]、北越戦争では米沢軍参謀(総督は当初は色部久長、後に千坂高雅に交替)と奥羽越列藩同盟軍参謀(総督は千坂高雅)を任された。 この時の甘糟の日記[2]には米沢藩が越後出兵に至った経緯[3] 、北越戦線での奥羽越同盟軍内での米沢藩の立場[4]、長岡藩・河井継之助、会津藩・佐川官兵衛ら同盟軍重役との軍議及び日々の戦況が克明に記載されている。 越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。 越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が新政府に降伏すると謹慎を命じられた。
明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、新政府出仕への道が開いた。
>明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。この時、まだ500両の懸賞金がかかっていたが、
要するに甘粕継成は犯罪者
一ノ瀬 要人の評価と人気が殆ど上がらない原因は、
今井信郎、甘粕継成、慈眼寺、司馬遼太郎らの嘘のせいである。
其れに気付かない現代人(大和田爆笑) 2021年09月19日
俺を論破できない三下、雑魚の-Daraku K.が騒ぎ出した(大和田爆笑)
未了 利用者:諸橋嘉久(会話 / 投稿記録 / 記録 / CA / ブロック) - Wikipedia:投稿ブロック依頼/諸橋嘉久 延長での審議により2018年10月に無期限ブロックとなった利用者だが、会話ページの目的外利用を行っているため、会話ページの編集も禁止にすべきと思われます。--Daraku K.(Talk/Contributions) 2021年9月19日 (日) 11:15 (UTC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E7%AE%A1%E7%90%86%E8%80%85%E4%BC%9D%E8%A8%80%E6%9D%BF/%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF#2021%E5%B9%B49%E6%9C%8816%E6%97%A5_-_20%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%A6%8F%E5%A0%B1%E5%91%8A 諸橋嘉久
10 か月前
https://twitter.com/quasar20121/status/1327442989753323520
諸橋嘉久@quasar20121
返信先:
@jun_ito_info
さん,
@F_A_Marry
さん
酒井玄蕃は河井 繼之助 傳に並ぶ位の伝記が無いので、
司馬遼太郎が取り上げる筈が無いのです。
荘内人が「無敗の第二大隊 鬼玄蕃」
更にいっちゃった奴が「無敵の第二大隊 鬼玄蕃」
司馬遼太郎がドン引き
午前11:47 · 2020年11月14日·Twitter Web App
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 諸橋嘉久
1 年前
佐賀藩と同じく、命中精度が良く無くて射程距離が長く無い、スペンサー銃で部隊の一部を武装したので、
酒井玄蕃はセンスが悪くて、頭が悪い。
佐賀藩のアームストロング砲で荘内軍を弱体化されて、
荘内軍を相手に火縄銃で戦って負けて居た久保田藩が、
スナイドル銃と弾薬を購入して武装したら、
荘内軍を撃退する様に成った。
久保田を落城させる事は無理だと悟った酒井玄蕃は、
荘内領に撤退した。
明治の日本陸軍が制式採用したのは、
四斤山砲とスナイドル銃です。
イギリスではアームストロング砲の製造禁止
反射炉ではアームストロング砲を製造できません。
佐賀藩製のアームストロング砲は、与太話です。
総合的な性能と価格の安さで、スナイドル銃を制式採用した。 諸橋嘉久
1 年前
>鬼玄蕃現るところ、常に光差す。慈悲深い名将の雄姿は、今でも語り継がれている。
我に尋ねたところ、
捕縛した敵軍の少年兵と其の下男を斬首しなかった事は、
酒井玄蕃の過ちだそうです。
敵軍の少年兵は荘内軍の農兵を二名、射殺して居たそうです。 諸橋嘉久
1 年前
荘内軍の一部ですが、命中精度が良く無くて、射程距離が長く無い、スペンサー銃で武装したのですから、
センスが悪くて、頭が悪くて、弱兵なのです。
アームストロング砲は別として、スペンサー銃で武装した佐賀藩兵はセンスが悪くて、頭が悪くて、弱兵なのです。
荘内軍を相手に火縄銃で戦って負けて居た久保田藩兵がスナイドル銃と弾薬を購入して武装したら、
荘内軍を撃退する様に成りました。
荘内軍首脳はクルクルパーです。
白河に援軍させて、途中で引き返させ、最終的には久保田藩攻め。
久保田藩と佐賀藩に勝てないのを悟っての撤退
一番大隊・二番大隊を北越戦争に参戦させて、荘内本領を三番大隊・四番大隊で固守すれば、良かったのだ。 諸橋嘉久
1 年前
酒井玄蕃と楢山佐渡の能力の差は、大きく無いと思うが?
荘内軍はスナイドル銃で武装(一部はスペンサー銃で武装)
盛岡軍はスナイドル銃で武装
酒井玄蕃の写真は美男子で、
楢山佐渡が床几に腰掛けた絵は、獣田三郎(大和田爆笑) 諸橋嘉久
10 か月前
https://twitter.com/quasar20121/status/1328951236821999622
諸橋嘉久@quasar20121
秋田県の三分の二が秋田戦争で焼かれたとか。
多くは荘内軍が放火したのでしょう。
酒井玄蕃は戦が下手で肝が太く無いので、
此れだけ放火したのでしょう。
午後3:40 · 2020年11月18日·Twitter Web App
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 諸橋嘉久
10 か月前
https://twitter.com/quasar20121/status/1329232667129233410
諸橋嘉久@quasar20121
酒井玄蕃は戦が下手で肝が太く無いので、
秋田を放火し捲くった。
庄内人に騙されたNHKは歴史秘話ヒストリアで、
偉人化、美化された酒井玄蕃を制作して放送した。
午前10:18 · 2020年11月19日·Twitter Web App
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 諸橋嘉久
10 か月前
https://twitter.com/quasar20121/status/1329545356258934784
諸橋嘉久
@quasar20121
戊辰戦争で長州軍、會津軍、長岡軍などが町人や百姓の家まで焼いたが、
新潟県、福島県の三分の二も焼いて居ない。
秋田戦争で秋田県の三分の二を焼いた荘内軍と盛岡軍
多くの放火は荘内軍でしょう。
酒井玄蕃を天才、名将、人格者として売り出そうとして居る、某小説家
庄内人に騙されたNHK
午前7:01 · 2020年11月20日·Twitter Web App
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 諸橋嘉久
10 か月前
https://twitter.com/quasar20121/status/1329648708590342144
諸橋嘉久
@quasar20121
久保田藩が仙台藩使節を惨殺したのは基地外だが、
秋田戦争で秋田県の三分の二を焼いた荘内軍と盛岡軍は極悪人の集団だ。
酒井玄蕃を天才、名将、人格者に仕立てた庄内人にNHKも騙された。
極力、民家を放火せずに戦争で勝つのが天才、名将、人格者
午後1:52 · 2020年11月20日·Twitter Web App
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 諸橋嘉久
10 か月前
https://twitter.com/quasar20121/status/1330396465169043457
諸橋嘉久
@quasar20121
我に尋ねたところ、
秋田戦争で民家を焼き捲くった酒井玄蕃は、
『鬼玄蕃』と呼ばれる様に成ったそうです。
午後3:23 · 2020年11月22日·Twitter Web App
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 諸橋嘉久
10 か月前
https://plaza.rakuten.co.jp/jigen2012/diary/202011230003/
2020.11.23
戊辰戦争に於ける、鬼
稲川明雄氏の『長岡城奪還』だったと思いますが、
長岡軍が長岡城奪還作戦で城下に迫る時に、
郊外の百姓家を焼いたので、
稲垣林四郎は『鬼隊長』と呼ばれた。と書いて有った。
佐川官兵衛『鬼官兵衛』
インターネットで知りましたが、
戊辰戦争以前から、『鬼官兵衛』と呼ばれた。
我に尋ねたところ、
戊辰戦争以前から、『鬼官兵衛』と呼ばれた。という會津側の史料は、
明治時代に捏造されたものだそうです。
會津戦争の末期に佐川官兵衛が洛外で百姓家を焼いたので、
『鬼官兵衛』と呼ばれたそうです。
秋田戦争で民家を焼き捲くった酒井玄蕃は、
『鬼玄蕃』と呼ばれたそうです。
盛岡軍の楢山佐渡も民家を焼き捲くりましたが、
秋田戦争で秋田県の三分の二を焼いた主犯は、酒井玄蕃でしょう。
酒井玄蕃の死後に酒井玄蕃を人格者に荘内人が仕立てた。
荘内人が嘘を吐き続けて、
秋田戦争で民家を焼き捲くった『鬼玄蕃』が、
薩摩軍が酒井玄蕃の見事な戦っぷりで『鬼玄蕃』と恐れた。に荘内人がすり替えた。
​http://blog.livedoor.jp/akichan10314002/archives/51119355.html​
吉之丞さんはイケメンとしても有名(笑)。
←こちらをご覧下さい(所有は玄蕃さまご子孫・酒井徹氏)。
とても優しい顔立ちをしています。
庄内追討で玄蕃さまと敵対していた薩摩・大山格之助(綱良)は、明治になってから東京で初めて顔を会わせ、
「鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下(そっか:貴殿)が、実は容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは!」
と驚愕した、という逸話が残っています(笑)。
逸話では無くて、荘内人による、歴史の捏造です。
白河口副總督の横山主税と比べたら、酒井玄蕃は不細工な男
我はデブですが、不細工な男では無いです。
二十歳の終わり頃に劇団東俳のオーディションに合格しましたので(大和田爆笑) 諸橋嘉久
5 か月前
諸橋嘉久
@quasar20121
酒井玄蕃の研究家とファンはバカ
史料で確認できるのは、西郷吉之助の戊辰戦争での北上は新発田城までだ。
酒井玄蕃の史料に「西郷先生」
「西郷先生」とは西郷従道
其の程度の事に頭が回らない、酒井玄蕃の研究家とファンはバカ
午前6:09 · 2021年4月15日·Twitter Web App 諸橋嘉久
4 か月前
>本編でも触れてたが大飢饉で回りの藩の農民が大量に飢えで命を落とす中、庄内藩は藩主の酒井氏が即救援に乗り出し本間氏も加わって一人の餓死者も出さなかった
食物を大切に仕るべく候に付、雑穀専一に候間、麦、粟、稗、菜、大根、 そのほか何にても雑穀を作り、米を多く喰いつぶし候はぬ様に仕るべく候」
大公儀の命令を江戸中期から百姓が破り、米を喰う様に成り、大飢饉で餓死は愚かな百姓の自業自得に過ぎない。
三方領地替えが実現して居れば、秋田戦争は起きなかった。
全ては愚かな荘内土人のせいである。 ワイルドメーン
1 年前
河井継之助をお願いします
7
田中流星
田中流星
1 年前
有名人過ぎる、、
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
@田中流星 河井 繼之助 傳や司馬遼太郎『峠』
酒井玄蕃には其れが無い。
1
toyo Shima
toyo Shima
5 か月前
@諸橋嘉久 さんへ なるほど。 55 tomokun
1 年前
勝海舟と西郷隆盛の「江戸城開城」となった時点で、徳川慶喜のように「恭順」すれば東北での戦争は免れたはず。「彰義隊」ら意に添わない勢力が戦争を巻き起こしたのです。薩摩長州が庄内藩を目の敵にしたのではありません。西郷さんの庄内藩への仁政は有名ですよ(^.^)
7
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
http://seuru.pupu.jp/syounaibosinsensou.htm
薩摩藩は藩邸焼き討ちの恨みの為、庄内藩を討ちたいものの追討の理由がなく、秋田藩などに追討の宣旨を下すものの、追討の理由を問われ返答する事が出来なかったが、庄内藩は江戸市中取締りの手当てとして、幕府から寒河江・柴橋の7万4000石の幕領を拝領していたのですが、3月庄内藩がその年貢米を持ち出したことを取り上げ、西軍は幕領は西軍の支配となっているのに、そこから勝手に米を持ち出したとして理由を付け、庄内藩を追討対象に掲げた。
我が昔に読んだ本では、勝海舟の許可を得て、年貢米を持ち出した。
新徴組を庄内領に入れず、江戸で解散させて、隊士の出身の大名家の江戸屋敷に出頭させるべきでした。
大名家の江戸屋敷で雑用をして居れば良かったのです。
そうして居れば、年貢米を持ち出さずに済んだ。
明治元年12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。
明治政府の30万両(当初は70万両)の強請りを許した西郷さんの庄内藩への仁政は大嘘です。
2
ワイルドメーン
ワイルドメーン
1 年前
55 tomokun
江戸城を開城した以上、薩長は絶対に会津藩と庄内藩は絶対恭順を許さない。
2 熱男
1 年前
幕末のエピソード(しかも旧幕府側)を取り上げていただいて有り難いです。
戊辰戦争は新政府軍が最新装備をもって連戦戦勝というイメージを持たれがちですが
局所的な戦いを見ると、新選組の土方歳三や桑名藩の立見鑑三郎(尚文)が率いていた部隊なんかは
新政府軍も苦戦してるんですよね。
17
歴史の細道
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
立見鑑三郎は局地戦でしか勝てないくせに後退を友軍の敗戦のせいにする卑怯者だ。
桑名城を攻撃して恭順派を下して、松平定敬を迎え入れて籠城して戦い抜くのが真の" 東洋一の用兵家 "でしょう。
1 時間の旅人
時間の旅人
1 年前
会津の山川浩と桑名の立見尚文もお願いします
8
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
>八月二十二日、城下の形勢が悪化、西軍東部に迫るの報に接
し、藩主の命により急きょ呼び戻され日光口田島方面より退陣したが、浩が急いで
引揚げてみると城はすでに西軍の重囲下にあり、城内に入ることはできなかった。
そこで浩は一計を案じ、小松集落の獅子団に頼んでこれを先頭に立て、"通り囃子
(はやし)"を奏させながら西軍のあっけにとられているなかを堂々と行進し、一
兵も損ずることなく入城を果たした。
籠城中の将士たちは、浩のこの入城によって士気を盛り返し、藩主容保もまた大
変喜び浩の機智をおおいに賞賛したという。
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、
西軍は其処まで馬鹿ではないので、山川浩が創作した話だそうです。
山川浩は、こっそりと深夜に部隊を率いて入城したそうです。 greentea634
1 年前
庄内は領民が殿様の転封に反対したことで有名ですね
また本間氏も領民から尊敬されていました
13
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
実現して居たら、河井 繼之助ファンにとっては怖ろしい『三方領地替え』
我自身に尋ねたところ、
長岡の牧野氏が川越に領地替えされて居たら、
河井 繼之助は殆ど無名の人で、終わって居たそうです。
新潟港は無い、吉田の今井家は無い、會津と桑名の援軍は来ない。
川越の河井 繼之助では、薩長を相手に三カ月に近い戦争を行うのは、無理です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9
荘内の酒井家と河井 繼之助の家紋は同じ、「丸に片喰」
三方領地替えが実行されて居れば、戊辰戦争は小規模な戦争で終わり、戦死者が随分と少なく成って居た筈である。
1 前川嘉規
1 年前
結局は人なんですよね。兵器が優秀、というだけでは戦に勝てませんね。幕府自体がそうです。戊辰戦争の時点での幕府陸海軍の兵器は、おそらく薩長を上回っていたでしょう。ですが政治で負けました。佐賀藩はあれだけ優秀な兵器を揃えながら、上野戦争以外の戦場での活躍は聞いた事がありません。(僕が知らないだけかもしれませんが)
4
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
我自身に尋ねたところ、
西郷吉之助は大坂の徳川慶喜ら旧幕府軍を江戸に向かわせる為に江戸薩摩屋敷から不逞浪士を放ち、
江戸と江戸の周辺で殺人・レイプ・強盗・放火を繰り返させたそうです。
しかし、徳川慶喜は江戸に向かわずに主力の軍を御所に進軍させたそうです。
日本を裏から操る藤原北家の子孫の工作員だった徳川慶喜は旧幕府軍を態と負ける様に仕向けたそうです。
山本覚馬は戦を止めに行ったのでは無くて、
山本覚馬は二名の書生と共に江戸に逃げ様として、薩摩兵に捕まったそうです。
http://ime.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83
http://ime.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB%E9%8A%83
http://ime.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E9%8A%83
湿度の高い日本では、シャスポー銃は殆ど役に立ちませんでした。
伝習隊はシャスポー銃を装備して居たので弱かったのです。
薩長と互角に戦うには、スナイドル銃・エンフィールド銃を装備して戦うしか無かったのです。
玉津橋を警護して居た長岡兵は六十余名ですよ。
我自身に尋ねたところ、
徳川慶喜が長岡兵を玉津橋の警護に命じた訳は、
河井繼之助が指揮する六十三名のエンフィールド銃部隊を最前線に出撃させると、
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が勝利する可能性が有るからだそうです。
會津の林権助が率いる砲兵隊・槍隊と河井繼之助が指揮する六十三名のエンフィールド銃部隊が共闘すれば、
戦術如何では鳥羽・伏見の戦いで勝利する可能性が有りますね。
日本を裏から操って居る藤原北家の子孫の意向で動く工作員の徳川慶喜が、
旧幕府軍を態と負ける様に仕向けたのです。
>佐賀藩はあれだけ優秀な兵器を揃えながら、上野戦争以外の戦場での活躍は聞いた事がありません。(僕が知らないだけかもしれませんが)
秋田戦争で佐賀藩武雄兵のアームストロング砲で荘内軍は弱体化され、射程距離まで詰めて、スペンサー銃七連発に制圧された。
荘内軍を相手に火縄銃で戦って負けて居た久保田藩兵がスナイドル銃と弾薬を購入して武装したら、
荘内軍を撃退する様に成りました。
幕末まで生き残った、あの佐竹氏が荘内軍如きに敗れる筈が無いのです。
ちなみに我は荘内軍のファンです(大和田爆笑) 石塚大吾
1 年前
これ映画に出来ないかな?
10
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
無敗の荘内第二大隊・鬼玄蕃に司馬遼太郎がドン引きして、小説を書かなかった(大和田爆笑)
Twitterでは、無敵だの最強だの書く馬鹿が居て、「駄目だこりゃ」(いかりや長介爆笑)
1 ヨーデルワンコ🐶
1 年前
何で庄内藩の大河をやらないのかな
13
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
『三方領地替え』に猛烈に反対する一揆を荘内土人が起こしたから。
『三方領地替え』が実行されて居れば、
川越の河井 繼之助は殆ど無名の人で終わり、
荘内の松平氏なら、秋田戦争は起きなかった。
長岡の酒井氏なら、荘内の酒井氏の戦力の三分の一だろう。
戊辰戦争の戦死者が少ない人数で済んで居た。
センスが悪くて、頭が悪くて、基地外の荘内土人を「義民が駆ける」だとよ(大和田爆笑) https://www.youtube.com/watch?v=vxdzhXV8QXM&lc=UgxyD_sTzlFO0hdY0U94AaABAg.9D_Ci3OgYuM9D_lEnTuToY https://www.youtube.com/watch?v=vxdzhXV8QXM&lc=UgxjBmGaEFL477a6PHJ4AaABAg.9Db3488RCMT9DbcS7WD9-2 半和
1 年前
佐幕派最強は桑名藩・立見尚文率いる『雷神隊』でしょ!
立見尚文は佐幕派出身だったのに近衛師団参謀長や第8師団長を勤めて大将になってる
ちょーーーー優秀な人!
3
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
立見鑑三郎は局地戦でしか勝てないくせに後退を友軍の敗戦のせいにする卑怯者だ。
桑名城を攻撃して恭順派を下して、松平定敬を迎え入れて籠城して戦い抜くのが真の" 東洋一の用兵家 "でしょう。
奇兵隊は逃げ足が早かった。
奇兵隊の東軍版が雷神隊(大和田爆笑)
新潟港の守備に桑名軍が少人数ですが、就いて居ました。
新潟港が陥落しましたが、確か桑名兵は一人も戦死者が出ませんでした。
逃げ足が早いですね(大和田爆笑)
新潟港總督の色部長門は逃げ遅れて敵兵にピストルを撃ち、弾薬が尽きると斬り込んで死中に活を求めましたが、
敵兵の銃弾に斃れました。
部下が首を斬り落として、首を持って逃げ切れないので、茄子畑に埋めました。
翌年に首を掘り起こして、米澤に首を持ち帰りました。
日露戦争では陸軍中将として第8師団を率い出征する。黒溝台会戦では、ロシア軍の冬季大規模攻撃を受けた日本軍左翼の重要拠点である黒溝台を救援に向かう。数倍のロシア軍との戦闘は激烈を極め、日本側も増援する中、立見は師団兵力の半数を失いながらも黒溝台を回復し、会戦はロシア軍の退却で終結した。
しかし、昔にヤフー掲示板で軍事に詳しい人に拠ると、
黒溝台の救援に向かったのは、失策だったそうです。
師団兵力の半数を失って迄、遣る価値が無く、
黒溝台をロシア軍が奪取しても、大軍のロシア軍の兵站が続かず、
ロシア軍は撤退する。 と言う論
大好きプラモ
大好きプラモ
7 か月前
@諸橋嘉久
アホか
2
tester
tester
5 か月前
佐幕派で初めて大将になった人。とても優秀な方ですよね。
佐幕派で優秀な人物というと柴五郎大将なんかも思い浮かびます。
1
諸橋嘉久
諸橋嘉久
4 か月前
@大好きプラモ
立見は師団兵力の半数を失ったので、人海戦術の能無し軍人
パーか(明石家さんま爆笑) https://www.youtube.com/watch?v=vxdzhXV8QXM&lc=UgwfCQdgEtRvZNgbavV4AaABAg.9DkLi6_AVAA9DlOOlyO9SR Takashi Sasaki
1 年前
酒田出身のひとは、今でも、本間の殿様と呼んで敬服しております。
仙台藩の腰砕けに劣等感を抱いておりました。酒田藩は強かったのですね。
14
諸橋嘉久
諸橋嘉久
1 年前
仙台藩と米澤藩は新政府から、會津討伐の大隊旗を下賜されました。
會津藩に戦争では勝てないと分かった仙台藩は、奥羽列藩同盟を結成して、
會津の領地削減と鳥羽伏見の戦いでの戦争責任者の首級で、新政府に矛を下ろさせ様としましたが、
世良修蔵が認めなかったので、世良修蔵を捕縛して斬首しました。
仙台藩が奥羽列藩同盟を攻守の軍事同盟に豹変させました。
白石城に詰めて居た、奥羽の大名家の家老を1名ずつ人質に仙台藩が取りました。
奥羽越列藩同盟は存在しなかった。
越は越後の他に越中と越前も含みます。
馬鹿や詐欺師まがいの大学教授までが、奥羽越列藩同盟と呼称して居るのです。
越後諸藩の大名家の家老は誰一人、白石城に詰めて居らず、人質に取られませんでした。
仙台は奥羽越列藩同盟と言う、歴史の改竄まで行ったので、
薩長よりも、愚かで悪質です。
5 https://www.youtube.com/watch?v=Lr6bzzSHqU0&t=58s
#れきしクン #戊辰戦争 #幕末
【幕末・最強の藩】「戊辰戦争」で連戦連勝!新政府軍が恐れたは最新鋭の武器を揃えた東北の”あの藩”だった!【きょうのれきし3分講座・9月26日】
べリヤ
23 時間前(編集済み)
庄内藩が列藩同盟の中で最も精強であった事は疑いようのない事実ですが、
領内に新政府軍を入れなかったというのは事実とは異なります。
実際は旧暦9月11日に薩摩、長州、高鍋、徴兵隊、土佐、加賀からなる新政府軍が藩境の関川口を奪取して庄内藩領に突入しています。
庄内藩はこの地を奪還しようと2回攻撃を掛けましたが、いずれも多大な被害を出して撃退されています。
この関川から鶴岡までは24キロしかなく会津藩は降伏寸前、
仙台藩は駒ヶ嶺と旗巻峠を奪われて失地回復の攻撃を繰り返すも徒に骸を重ねるだけの状態でこれも降伏に傾いていたため、
情勢を鑑みて9月26日に降伏しています。
れきしクンは素人よりも、嘘吐きで低レベル(大和田爆笑)
さかなクンのパクリ(大和田爆笑) 瓦解
7月26日まず三春藩が降伏、28日には松前藩で尊王派の正議隊による政変(正議隊事件)が起きて降伏した。
続いて、29日に二本松藩の本拠・二本松城が落城した。次いで8月6日相馬中村藩が降伏。
一方、同盟であったはずの下手渡藩が、列藩同盟参加の時点で既に藩主が京都入りして新政府軍に加わっていた事実[30] が判明し、
仙台藩が8月14日に同藩に攻め入り、下手渡藩および援兵の筑後国柳川藩[31] と交戦となり、下手渡藩藩庁の下手渡陣屋が焼失した。
日本海側の戦線においては、新政府軍は新潟に上陸した後、8月中は下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、
劣勢となり羽越の国境に迫られた米沢藩が9月4日に降伏し、次いで12日には仙台藩が降伏し、
すなわち同盟の盟主格の二大藩が相次いで降伏した。
その後、15日福島藩、上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、
奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。盟主であった輪王寺宮は9月18日に降伏し、翌年まで京都で謹慎の身となった[32]。 ス
歴史
日本史
qua********さん
2018/3/2 16:49
1回答
奥羽越列藩同盟は存在しなかった。
30年近く前に長岡市で、戊辰戦争の催しに『奥羽列藩同盟の公文書』が展示されました。
慶應四年六月何日と書いて有りました。
奥羽列藩同盟に北越六藩が五月上旬に加盟した筈なのに!?
北越六藩を無視された様で、我は悲しかったです。
奥羽列藩同盟に會津と荘内は何故、加盟して居ないのか?
奥羽列藩同盟とは、奥州(會津)羽州(荘内)を救う列藩同盟と言う意味なのです。
奥州と羽州の列藩同盟と言う意味では無いのです。
拠って、奥羽列藩同盟に北越六藩が加盟したところで、『奥羽越列藩同盟』とは成らないのです。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/naga001.htm
5月4日
朝、摂田屋村にて軍議。河井継之助と佐川官兵衛、激論を交わした後、協定を結ぶ。←この協定締結で長岡藩が奥羽越列藩同盟に加わったとする歴史書(『仙台戊辰史』 等)が多いが、列藩同盟への加盟について書かれた長岡藩関係の記録は見当たらない。
http://blog.livedoor.jp/akichan10314002/archives/51165270.html
そして、最も驚愕したのが「奥羽越列藩同盟」は存在しなかった!という説。
ええーーっ!そんなバカな と思いましたが工藤威著「奥羽越列藩同盟の基礎的研究」を読んでみたくなりました。
「奥羽越列藩同盟の基礎的研究」では無くて、「奥羽列藩同盟の基礎的研究」
工藤威『奥羽列藩同盟の基礎的研究 (近代史研究叢書 (5)) 』(岩田書院、(2002年)ISBN-10: 4872942612
補足
『奥羽列藩同盟』に越後諸藩は加盟して居ません。
『奥羽列藩同盟』に加盟した時点で大名家の家老一名は、白石城に常駐させられます。
越後諸藩の大名家の家老は誰一人、白石城に常駐して居ません。
仙臺が世良修蔵を斬首して、白石城に集まって居る奥羽の大名家の家老を人質としたのです。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/yonezawa/yonezawaboshinhistory1.htm https://www.youtube.com/watch?v=AF74sA4OifI
【幕末の風雲児】河井継之助 埋骨の地をめぐる 峠最後のサムライ 会津
河井継之助の時だけ墓参りする姿を撮影するYouTube投稿者(大和田爆笑) 戦争に勝ちづけた山縣有朋は、
全く評価されない、、、 ある意味憲法9条が守ってくれると言う、今の日本人そのものだな。庄内藩の様に戦ってこそ武士だ。 287名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/04(月) 14:22:35.92ID:EtZ8r4TO0
ある意味憲法9条が守ってくれると言う、今の日本人そのものだな。庄内藩の様に戦ってこそ武士だ。
明治政府の30万両(当初は70万両)の強請りを許した西郷さんの庄内藩への仁政は大嘘です。
結局は30万両で解決した荘内土人は屁たれ 東北、奥羽の軍隊が天下に影響を与えたのは北畠顕家のみ
こいつも奥州藤原も雑魚 映画『燃えよ剣』の関係者は事前に10月に新型コロナ患者が激減するのを知って居た。
冬にインフルエンザで三千人以上が死亡する。
新型コロナウイルス第6波と言う説も有る。 https://www.youtube.com/watch?v=IOen1PPUN-c
目覚めよ日本人 vol.72「束の間の自由。これがマッチポンプだ!!」
話半分かな? https://www.youtube.com/watch?v=PjDlzoDZlBc&lc=UgzlMdT2F0lV2psIFIt4AaABAg
全国基地花火 成田封鎖
諸橋嘉久
1 日前
ビートこけしも豆腐船に乗るのか(大和田爆笑)
サルザイルは日本人では無いとは・・。
サルザイルのAKIRAが山本帯刀の役で出演して居るのですが、
来年も映画『峠』は公開されずに、ビデオ作品扱いでDVDで発売?(大和田爆笑) 「旧説vs.新説」幕末維新43人 (MdN新書) 新書 – 2021/12/6
安田 清人 (著), 町田 明広 (監修)
すべての形式と版を表示
新書
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歴史現場では新史料の発見から教科書に書かれた常識が疑われ、これを覆す説が続々と披露されている。
本書は、『青天を衝け』に出てくる渋沢栄一や『燃えよ剣』の土方歳三、『峠 最後のサムライ』の河井継之助ら幕末維新の激動期に活躍した43人をピックアップ、これまで語られてきた姿とは異なる正体をあぶりだすものである。
43人の旧説と新説を比較することで、思いもしなかった新たな英雄像が見えてくるのは、とても興味深い。 会話ページも編集できなくされたので、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:%E8%AB%B8%E6%A9%8B%E5%98%89%E4%B9%85
利用者‐会話:諸橋嘉久
全ての会話に俺は返信しました。
一日が経過しましたが、誰一人、俺の返信に返信しません。
只のユーザーなら兎も角、
Wikipedia:管理者はWikipediaを毎日チェックして居ます。
他人に会話に返信しない事を批難して置きながら、Wikipedia:管理者は一日経っても会話の返信に返信しない。
Wikipedia:管理者は人間の屑に過ぎない。 映画『峠』の撮影を知り、河井継之助 - Wikipediaに湧いて来た「ざんじばる」
衝鋒隊日誌『ガツトリングコン』は、1台だぜ。 フィクション小説の峠読みました
ツッコミどころしかないド無能にしか見えなくて残念だし峠自体も他と比べて大して面白くないしガックシだよ 医師になるのは、めちゃくちゃ簡単だよ。
どんな馬鹿医大でも国家試験の合格率7割以上はあるし、自治医大以上ならほぼ100%。
弁護士の場合は難関ロースクールを卒業しても、国家試験を通るのは10%程度。
医師になるには金と時間がかかるが、試験自体は簡単。
うちは従兄弟三人医師になったが、英検二級すら落ちるレベルの頭だからね。
医師国家試験の合格率ランキング見てみ。
一番低い杏林大学ですら、79.4%。
奈良県立大以上の偏差値の25校は95.0%超え。
これのどこが難関試験なの?
医学部に学費を支払える財力のハードルが高いだけで、医師にはバカでもなれる。
弁護士、司法書士、会計士、英検1級あたりは、バカには絶対に無理。
まとめると
医師国家試験→バカでも受かる。しかし、医学部6年間で1,000万以上かかる学費のハードルが高い。
司法試験→ロースクール卒業しても、合格できるのはごく一部。非常に難関な試験。
司法書士→ロースクールに行かなくても受験できるが、難易度は司法試験並み。
英検1級→英語がずば抜けて優秀でないと合格できない。英語の偏差値100必要。(実際にはそんな偏差値はないが)
会計士→おそらく、最難関試験か。会計大学院修了者の合格率は7.6%しかない。
不動産鑑定士→鑑定理論が地獄。単体の科目としては最難関の一つ。経済学などは公務員試験より簡単か。 つまり
鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり、大将が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い。徳川は恭順しまともな藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、長岡藩が何をトチ狂ったか独立をすると宣言したことが敗着。
いわゆる“顔じゃないわけ”
案の定新政府軍にも相手にされず交渉能力もないボンクラ家老が国内で争ってる場合じゃないと言いながら自ら争いに加わるというマジキチぶりを晒す。
ほんとに無益な戦いをして長岡を焼け野原にし死者多数、7万石から2万石になってしまう。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。
‘こういうマジキチを二度と誕生させてはならない教育が必要’ はぁ?継之助役が役所広司?
演じるには年行きすぎてるだろう。バカか。公開前から糞映画決定じゃん。
役所なら客が入ると思った配役なんだろうが守りに入りすぎ。 河井ってそもそも中立やれてないからタチ悪いよな
中立の代名詞みたいになってるけど 戊辰戦争で小説になりそうなのは、無理矢理美化出来る悲劇。会津若松と越後長岡。特に長岡の河井継之助は見るからに笑いを誘う風貌で悲劇せいを和らげている。庄内藩ではこうはいかない。 戊辰戦争の佐幕派では河井継之助と土方歳三しか見物がいないだろ?
それ以外にいるのか?
それだけ幕府側の人材不足が深刻すぎたわけだ 別に嫌いではないがむしろ好きだが。
この河井継之助が最大級の人材になるぐらいの人材不足が旧幕府軍
そりゃ人材の宝庫である薩長に負けるだろう 河井が生まれたのが薩長土肥ならばもっと大活躍できた逸材なのに
生まれた場所が悪かったな 太平洋戦争中の旧軍もだが東北閥というのは有能な奴が出てきても中世ムラ社会すぎて
その能力を生かす土台がないために消えて行ってしまう悲劇 戊辰戦争でも太平洋戦争でも時勢が読めないバカ東北人は無能に無能すぎやろ >>321
まぁ、まさに河井継之助は環境に殺された悲劇の武士ともいえるよ
逆に長州藩の大村益次郎は環境に生かされた幸運な武士ともいえる
性質が似た者同士の二人の明暗が完全に分かれたのは環境である たしかに大村益次郎と河井継之助は良く比較対象にされる 俺は河井継之助なんてのは長岡藩士だったからこそ成り上がれたのだと思うけどね
他の譜代藩では彼の需要はなかっただろうし、
薩長土肥のどれかに生まれてたら短命に終わってただろう それだけ佐幕派の東北閥が人材不足でもあったしな
だが佐幕派ゴリ押しの時代遅れ東北人に河井継之助の先進思想を理解できる人間がほとんどいなかったのも事実
やはり環境に殺された悲劇の武士ともいえる
なんだか討幕佐幕を問わず最も悲劇的な武士が河井なんだろ。 同じ長岡人の山本五十六も親米英派ながらも反米の陸軍がバカすぎて理解されずに対米開戦の指揮を取らざるを得なかった悲劇の軍人。
まったく山本五十六は河井継之助の生き写し 河井や山本が悲劇の武士・軍人ってのは流石に一面的すぎる
小説の感想ということならそれでもいいけど、
歴史人物への評価としてはちょっと頂けない >>326-327
最近の河井継之助は過大評価されすぎてる。
武士の世が終わり商人の時代を予告したあたり幕府側では珍しく先見の明があったのは事実だが、
それでも上野戦争を僅か1日で終わらせた大村益次郎には及ばない
大村とは指揮官として力量の差がかなり開いてる
河井は全国区ではなくてあくまでも長岡藩の大物家老なんですよ
今日の政界でいうなら河井は地方知事で大村は代議士 大村益次郎は司馬遼太郎が小説に書く前から靖国神社正面に銅像が建つぐらい英雄的人物であったが
河井継之助だけは司馬遼太郎が小説にしてあげないと名誉回復されずに長岡を焦土にしたと今でも悪人扱いされてそうだな 河井継之助って名誉回復されたっけ?
ずっと逆賊のまんまじゃないのか そうなのか?
今では長岡に記念博物館が建てられるぐらい英雄になってるみたいだが?
どこ英雄的で偉いのかといわれても困るが数少ない地元の有名人として祭り上げられてるだけかもしれない
あの世で河井継之助は司馬遼太郎に感謝してもしきれないのは事実だな つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 長岡の英雄といえや河井継之助と山本五十六よ
生まれ変わりじゃないかと思えるぐらい人生が似てる二人よ やっぱり河井は長岡藩や東北で生まれたのが不幸な人だったんだよ
農業資本の時代が終わり商業資本の世が来るという先進思想を河井以外では他に誰もが理解できる人物が東北の佐幕派ではほとんどいなかった
これが前々から商業重視をしてた薩長土肥に河井が生まれてたなら下級役人で終わってたかもしれないが幸福な人生を送ることができてたはず
まさに環境に殺された悲劇の武士 その河井継之助を最高指揮官にしなければいけないぐらい旧幕府軍は人材不足。
他にも旧幕府軍の人材は土方歳三や榎本武明ぐらいしかいないだろ?
こんなの官軍なら良くても中堅幹部ぐらいで終わっとるよ。
もはや戊辰戦争は戦う前から勝敗が決まっていたわ
戦争とは兵力数でも兵器数でもない最高指揮官による高等戦術なのである まあ小説『峠』は面白いよ。
俺は『峠』を読まなければ河井継之助を知ることができなかったのは事実。 >>340
別に河井を最高司令官にしなければいけなかったわけじゃないんだが
どちらかというと、河井はやりたい放題やって北越戦争を招いた面がある。
幕府側に人材がいないって言ってるがそれはあなたが知らないだけのことでしょ
例えば北越戦争では桑名藩の立見尚文が朝日山で新政府軍を撃退しているが、
彼は東洋一の用兵家と呼ばれ後に帝国陸軍大将にまで出世する 幕府に人材がいりゃあ奥羽越同盟が僅か1年で完敗するわけもなかろう
幕府に人材がいなさすぎたから1年で完敗したのさ
上野戦争で彰義隊がたった1日で惨敗した事実を見ろ
幕府にも極一部で名戦術家はいたかもしれんが
そんなの立見や酒井みたいな本当に極々一部の名戦術家だけだな
他は河井や土方みたいに負け戦の中で僅かに意地を見せたに過ぎない >>340
>もはや戊辰戦争は戦う前から勝敗が決まっていたよ
これは事実。
数えるぐらいしか名戦術家がいない幕府と数えきれないほど名戦術家がいる薩長土肥では勝負にならんよ。
まあ勝負にならないからこそ奥羽越同盟は薩長土肥に1年で完敗したわけでw つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 立見尚文は死の行軍で有名な八甲田山の師団長だったみたいだが有能なのか? いや立見尚文を東洋一の兵法家だというレスがあったんで疑問に思っただけだ 立見が東洋一とか超過大評価もいいところだろ
立見、酒井、河井、榎本、土方の5人衆は兵法家としては幕府軍の中では最高水準に達していただけで
薩長連合では中堅クラスにすぎんよ
この5人衆は兵法家としては幕末では日本一を誇る大村益次郎や板垣退助には遠く及ばない
そして戦略家としては沈みゆく幕府の泥船にしがみ付いてただけでも5人衆ともに先を読む力がなさ過ぎて大失格 ここの河井継之助もだが、
どうも最近は反薩長史観の勢いで幕府側の人物を超過大評価する声が高いから困るわ。 >>350
>そして戦略家としては沈みゆく幕府の泥船にしがみ付いてただけでも5人衆ともに先を読む力がなさ過ぎて大失格
まったくもってごもっともであります。
結局は人材がいなさ過ぎて幕府は敗北したのさ。
徳川慶喜
「わがほうに西郷、大久保に匹敵する人材がいるのか?」 >>351
真実はロシアとフランスに北海道を売り渡そうとしてた売国奴にすぎない小栗上野介もな 河井継之助に関しては小説の主人公としては最高級の人物なのは認めるよ >>345
慶喜&継之助 ⇒使いもんにならないダメダメな奴ら 五人衆ってなに?
勝手に並べるなよ(笑)
活躍した場所も所属も規模も全然違うじゃん 幕府側で一番優秀なのは時勢を読んで真っ先に恭順した徳川慶喜と勝海舟だけだろ
他はどんなに用兵が優れてる戦術家であろうが始める前から負け戦が確定してる幕府側に与した時点で負け犬や 慶喜なんてのは典型的な最悪リーダー。責任を取って恭順するならまだしも部下をけしかけておいて自分はさっさと逃げて命乞いし後は知らん顔。
組織が壊れる時というのはどうしようもないリーダーが象徴的だ。自分のことだけしか考えられないサイコパス。 殿様なんてのは基本的には駄目なリーダーなのがデフォルトでしょ
島津久光、毛利敬親、山内豊信、鍋島斉正あたりが慶喜より優れているとは思えんな ここの河井継之助もだが、
どうも最近は反薩長史観の勢いで幕府側の人物を超過大評価する声が高いから困るわ。 もう少し具体的に頼みますわ
五人衆とか適当な造語作ってないでさ
>>立見が東洋一とか超過大評価もいいところだろ
かつて賊軍であったにもかかわらず薩長閥で占められていた軍内で
陸軍大将にまで上り詰めるってのがどれほど凄いのか
理解できない時点であんたはセンスないよ
も一人、薩長じゃないのに日露戦争前に陸軍大将になった奥保鞏がいるが、
この人も佐幕側小倉藩(小笠原家)出身だな 何いってんだおまえ?
沈みゆく泥船の旧幕府に意地でもしがみ付いてただけでも戦略眼がなさすぎるだろ?
ああ立見が戦術家としては優秀なのは認めるよ
だが上野戦争を1日で終わらせた大村益次郎や会津戦争で圧勝した板垣退助の足もとには及ばんよ
東洋一なんて大法螺吹きは超過大評価はいけない 立見が東洋一なんて大法螺吹きは超過大評価しすぎていけない。
しかも八甲田山の行軍事故の悲劇も立見が師団長の時代に起きた。 幕末に生きてた超一流の用兵家が表舞台から消え去った20世紀以降から
立見なんぞ戦略眼が無さすぎる二流が超一流あつかいされてしまうんだわ >>360
佐幕派には持ち上げたくてもその程度の人物しかいないからなw >>360
佐幕派には持ち上げたくてもその程度の人物しかいないからなw 結局、負け組にいた奴は戦略眼がないっていいたいだけだろ?
そんな結果論だけで歴史人物を論ずるのがあんたはやっぱりセンスないな
ってか、せめて立見のことぐらい調べてから書き込めばいいのに。
幕末しか知らないからこんな恥ずかしい書き込みをすることになる
ちなみに俺は佐幕でもなんでもないし、河井は阿呆だと思ってる
ただ、新政府側にしか人がいないっていうのはあまりに馬鹿げてるから言ってるだけだ 司馬遼太郎の小説「峠」を読んで読書感想文を書くのは自由だが、司馬遼太郎はすべからく小説家として面白くなるように小説を書いている。
当人もフィクションだと明言しているものを鵜呑みにする武田鉄矢のような無知蒙昧な輩が痛々しいだけだ。 >>357
戦う前から幕府に人材がいなくて人材豊富な薩長に勝てないことを理解して恭順を表明しただけでも
徳川慶喜は有能ではなくても無能でもないまだマシな分類よ
>>369
小説の主人公としてはスマートに勝利する薩長陣営より河井継之助や土方歳三みたいな最後の意地を見せて散る桜みたいな人物が理想なんだろう。。 慶喜なんてのは典型的な最悪リーダー。責任を取って恭順するならまだしも部下をけしかけておいて自分はさっさと逃げて命乞いし後は知らん顔。
組織が終わる時というのはどうしようもないリーダーがいるという象徴的な男だ。自分のことだけしか考えられないサイコパス。 そうか? あの時代の幕府側ではもっとも時勢が読めてた気もするんだが
一番偉いのは勝海舟だが
小栗上野介みたいに時勢が読めない無能の3流役人じゃないよ >>326-327
大村益次郎→アームストロング砲
河井継之助→ガトリング砲
どちらの兵器が戦略上重要か優先していただけでも能力の差が分かる。 無能か有能かで評価が極端に分かれるあたりは徳川慶喜と河井継之助は幕末史に残る大物よ
ここが事実、無能すぎる会津藩の西郷頼母みたいに決して評価が分かれることがない無能者との違い 司馬遼太郎の小説「峠」を読んで読書感想文を書くのは自由だが、司馬遼太郎はすべからく小説家として面白くなるように書いている。
当人もフィクションだと明言しているものを鵜呑みにする武田鉄矢のような無知蒙昧な輩が痛々しいだけだ。 ここの河井継之助もだが、
どうも最近は反薩長史観の勢いで幕府側の人物を超過大評価する声が高いから困るわ。 山田方谷「彼の男を北国の辺りの役人にするのは惜しい」
過大評価はいけないんだが、やはり河井継之助は周囲の環境に殺された不運すぎる武士とも言える
当時の東北佐幕藩で薩長への降伏を主張するなんて
今のロシア政治家がプーチン政権に対してウクライナからの全面撤退を主張するに等しい気力がいる 司馬遼太郎『英雄児』
「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。」
司馬の河井評がもっとも適切じゃないか?
さすが司馬は天才評論家じゃないかと >>380-381
有能な働き者が生きる場所を間違えると無能な働き者になり国を亡ぼす典型的な最悪のパターンやね。
大日本帝国の末期も河井継之助みたいな軍人が多かったんだろ。 >当時の東北佐幕藩で
長岡藩は国内で独立しようと画策していたし会津藩との同盟を断わっている。戦に負けて逃亡し会津藩に合流しようとしたが途中で死亡のが継之助
幕府は恭順して無くなってるんだからそもそも東北佐幕藩なんて言葉は不毛なカテゴライズ >>382
勝海舟や永井尚志みたいに幕府中央の役人に起用していたなら能力を生かせた気がするよ
山田方谷や司馬遼太郎の言うとおり中小藩の長岡藩に置いといたから逆に最悪の不幸を生んでしまった タラレバを言い出したら“何でも有り”になることもわからない低レベルだな 勝海舟
「あれはナカナカの人物であったが惜しいことをした、河井のような者は少ない」
西郷隆盛
「もし今日世にあるならば、台閣にたつべき一人である、確かに一代の傑物である」
河井は非常に曲者だが有能ではあったのであろう
河井みたいなのは本当に評価に困るよ 河井みたいのは結果論だけで判断できない
ここら辺が本当に同郷の後輩である山本五十六と似てる
結果論だけで判断してはいけない >>386
それな!まさになんでもあり状態になって収拾がつかない
事実に基づいて判断され継之助は烙印を押された >>381
さっすが司馬両遼太郎
歴史の本質を見てる
つまるところ河井継之助は長岡藩に殺されたといえる 今日の世でなら大物地方知事みたいなもんで中央政界では活躍できる力がなかった。
地方首長でこそ輝ける政治家。
長岡の郡奉行としては大成功してたのに時勢に翻弄されて惜しい人生を送ったと言われれば惜しい人生を送ったな 河井は奥羽越列藩同盟内なら突出して有能だったかもしれないが薩長土肥なら中堅程度の能力
あんまり過大評価はよくないな確かに。 >>389
歴史にIFはないって基本だよね
もしあるのなら幕府は戦に勝って未だに徳川幕府は続いていたなんてのもあるし
ナンセンスの極み ここの河井継之助もだが、
最近は反薩長史観の勢いで幕府側の人物を超過大評価する声が高いから困るわ。 かわいかわいと今朝まで思い今は愛想もつきのすけ。
こんな唄あったんだよな。 創造力は無いに等しく時勢も読めないが模範と改良には長けてる典型的な東北エリート役人みたいな感じがする
まあ河井は無能一辺倒にすぎない会津藩家老の西郷頼母なんかと比べたら優秀といや優秀な家老なんでしょう 勝敗は別にして幕末で最も興味深い人物が河井継之助
司馬遼太郎が、こいつ面白すぎるだろう、と小説の主人公にしたのも納得
河井みたいな人物は生まれてくるのが30年早かったなら長岡藩どころか江戸太平の歴史に残る名奉行になっていたかもしれない いや幕末乱世の世では通用しなかったとは多いに認めるところよw >>397
どこまで行っても河井継之助は長岡の家老よ
それ以上でも以下でも何物でもないわ
東京都知事で国政政党の代表も務めて衆議院選挙で失敗した小池百合子みたいなもんよ >>396
無能ぞろいの東北人で先の道理が見えてる人であったのは事実 >>397
遠くで見る分には面白いが 近くに居たら困る人 残念ながらガトリング砲が100門あっても北越戦争で勝てなかっただろう つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 ここの河井継之助もだが
最近は反薩長史観の勢いで幕府側の人物を超過大評価する声が高いから困るわ >>412
幕末の佐幕派は裸の王様、裸の大将ばかりだったからな たしかに土方歳三とこいつは過大に過大評価されすぎてる。
まだ立見尚文とやらのほうが見物はある。 映画『峠』を見に行ったやついるか?
こういう人物は土方歳三と同じく小説の主人公としては最高なんだろう 司馬遼太郎の小説「峠」を読んで読書感想文を書くのは自由だが、司馬遼太郎はすべからく小説家として面白くなるように書いている。
当人もフィクションだと明言しているものを鵜呑みにする武田鉄矢のような無知蒙昧な輩が痛々しいだけだ。 長岡が生んだ河井継之助と山本五十六は過大評価されすぎやで
二人とも負け戦の指揮官に過ぎない
他のボンクラどもよりかは先見性はあったかもしれないが >>413
どれだけ過大評価されてるのかという人物がいますよね。 薩長土肥に生まれてたなら少し名が通る下級役人程度で終わってたかもしれないが
そっちの方が幸せだったろうに
奉行を任せられるなんて人間は身分不相応なことをすると大災害をもたらすね とんだ有名人になれた代わりにとんだ大失敗もやらかしちゃったからね >>420
まさにそれが
竜馬であり土方であり継之助なんだよな
これが司馬遼太郎の作風 >>427
田中光顕、土方久元、ぐらいの人物にはなれたかもしれない 東北の佐幕藩なんて河井を奉行にしなければいけないぐらい人材不足だったかしょうがない 河井継之助の功績は外山修造を生かして世に出したぐらいやな。
大倉喜八郎といい、わりと越後は大商人を輩出してる
山田方谷に感化された後に河井継之助も武士を捨てて商人になればよかったものよ 長岡藩自体が最初から旧徳川に付くという前提だから殿様も
別に河井じゃなくても戦争になったのは変わりないんじゃないか
河井が軍を近代化したおかげで激しい戦いになった程度の影響で >>432
水商売遊びが大好きだった山本五十六も商人になればよかった
田中角栄は商人政治家として大成功した
寡黙的に見えながら越後人は意外に商人気質に向いてる >>434
河井継之助が21世紀に生きてたなら田中角栄になれたのか 日本で唯一つのガトリング砲を購入できた河井継之助は天才商人ともいえる >>431
ほんと幕府軍は負けるべきして負けた感じやね この河井継之助が奉行になるって今の野党並みに人材不足やなw 長岡と比べると他の旧佐幕勢力は上手くやってるな
彦根と紀州は最初から官軍参加。
大垣は鳥羽伏見で負けて賊軍になった後に官軍参加。
伝習隊は慶喜が降参後に官軍参加。 無能バカ東北土人に政治は無理
無能バカ東北土人が支配してた昭和の日本は米中二正面作戦の最悪の愚行で滅びた >>441
個人的には幕末史では大好きな人物だが
人間は場違いなことをさせられると不幸しか招かない証明になってしまったな
同じ越後人の大倉喜八郎みたいに逸早く薩長と和解して商業に転じてればよかったものよ 他は御家第一主義だから官軍についただけだろう
長岡藩は良くて中立が限界だったからそうしただけ
旧幕府への恩もあるし会津を攻めるなどとんでもないという考えは藩に共通してたのではないだろうか 旧幕府の慶喜が降参したんだから、長岡も素直に従うべきだった
慶喜の意向に背いて官軍に反逆した朝敵会津に対して、長岡は真っ先に攻め込んで手柄を示すべきだった >>444
河井は土方歳三みたいなテロリスト崩れのゴミよ犯罪者よりかはマシだな >>444
河井継之助は土方歳三みたいなテロリスト崩れのゴミ犯罪者よりかはマシだな うん長岡藩の改革だけはわりと上手くいってたみたいじゃないか >>446
会津がやったことって結局長州がやったことと変わらんのだよね
朝敵だった長州も攻めるのは幕府以外反対してたし 河井さんも商人になれば大倉喜八郎みたいに大商人になっていただろうに 日本人特有の滅びの美学(笑)とやらで
最後まで薩長に抵抗して自滅(笑)した河井継之助や佐幕派の志士は過激に持ち上げられてるだけで
真実は、ただの負け犬の敗者に過ぎないよ(笑) つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 だがこういう中途半端な有名人物ほど俺は好きだったりするw 歴史上の誰を好きになろうとかまわないが噓をついてまで過大評価はよくない >>453-454
基本的に反薩長主義者は思考停止状態に陥ってる 佐幕派志士は負け犬なのに過大評価されすぎんだよ糞が 司馬遼太郎の小説「峠」を読んで読書感想文を書くのは自由だが、司馬遼太郎はすべからく小説家として面白くなるように書いている。
当人もフィクションだと明言しているものを鵜呑みにする武田鉄矢のような無知蒙昧な輩が痛々しいだけだ。 佐幕派志士は負け犬なのに過大評価されすぎんだよ糞が >>465
二人とも薩長土肥に生まれていたなら少し名が通る下級役人で終えていたんだろうな
佐幕派に生まれたことで後世にバカげた過大評価される人生を歩むことができただけでも運がよく幸福だったかもしれない
運には恵まれていたもかな 今日の世で佐幕側で有名になってる佐幕志士の奴らは
人材不足の佐幕側にいないかぎり有名にはなれないような奴らだからなw そもそも結果論だけで言っちゃうと武士の時代って無駄だったよね
維新の志士たちが終わらせてくれて感謝
だからおれはアンチ武士の大村益次郎とか中世でいえば護良親王に感情移入するかな 武家制度を実質的に終わらせたのは薩長の大久保利通と木戸孝允の両巨頭でしょ 司馬遼太郎の小説「峠」を読んで読書感想文を書くのは自由だが、司馬遼太郎はすべからく小説家として面白くなるように書いている。
当人もフィクションだと明言しているものを鵜呑みにする武田鉄矢のような無知蒙昧な輩が痛々しいだけだ。 武家政治を終わらせたのも廃藩置県をやったのも西郷のおかげだからな
大久保は保守的で徴兵制すら反対してたし薩摩閥の親分
木戸も理念では否定してたが長州閥の親分で終始
西郷や板垣や江藤が下野すると薩長閥政治が誕生した
岩倉山縣伊藤らに引き継がれる 普通に大久保でしょ
木戸も素晴らしい政治家だっけど中でも大久保
頼朝以来の政治家 >>468
人材不足の佐幕派では小物でも超大物に慣れてしまうからなw 大久保は保守的な政治家
徴兵制や廃藩置県にも消極的だったし
薩長以外の人材も起用したとか言われるが
西郷らが下野してバランスとる為に幕臣入れただけだろうし
要所は薩長で固め主導するというやり方
岩倉らがこのやり方を引き継いだ 土佐藩に生まれてたなら土方久元あたりと同格になれてたかも >>472
それが竜馬であり土方であり継之助なりの虚像なんだよな。これが司馬遼太郎の作風! 西郷ほどの美化された人物いないだろw
木戸も過小評価だけど大久保は悪人扱いだろ 俺は3人とも好きだ
河井などの佐幕藩士が過大評価されすぎてんだよ まあそれは当たり前で3人ともにすごい(中でも群を抜いて大久保)
河井なんて愚将にすぎず反面教師にしなければならない
まあ完璧超人なんていないので大久保でさえも反面教師にしなければならない部分はある とぶが如くとか読めば大久保は評価高くしている
西郷は評価低くしている
河井は西国諸藩に生まれていれば西郷らを凌ぐ元勲になっとかもと書いてた気がする 河井継之助の功績は外山修三を有名にして生かしといたぐらい
これだけは偉い 坂本龍馬は司馬が小説にする前から有名で高い評価だったけど、
河井継之助は司馬が小説化する前だと地元でも嫌われてた逆賊の負け犬だったしな 日露戦争前に坂本竜馬が皇后の夢に現れたとか奇夢談が当時の新聞に載るほど
坂本竜馬は明治時代から有名 戦後まもなくだと陽明学者の安岡正篤が河井継之助の持ち上げてたぐらい >>481
竜馬が行く→龍馬
燃えよ剣→歳三
峠→継之助
その他、司馬遼太郎作品多数 河井は優秀だったがただ一点革命家ではなかったと評価してたな >>496
清河八郎は正四位だぞ
逆賊で負け犬の河井継之助や土方歳三なんかと同じじゃない 清河八郎 河井継之助 土方歳三
自惚れしすぎた性質が似てるな >>499
清河は同じ庄内の石原莞爾に似ている
才略があるもありすぎて受け入れられなかった なるほど外山脩造ですか
清河八郎の私塾で寝食を共にし、故郷に帰ってから河井継之助に学ぶ どうしても同郷の田中角栄や山本五十六は河井継之助と比較される 司馬遼太郎は清河の悪口書きすぎ。
当時の教養のある武士なら当然で水戸や尾張ですら尊皇で倒幕まで行ってるのに、
清河だけ悪く書くのはなあ。
伊東甲子太郎も同じことしてる。
無学な多摩の農民がいるとは思わなかったんだろう。 『奇妙なり八郎』では悪口どころか幕末は清河から始まったと過大評価しすぎてんだがw つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 ペリー来航時に横浜警備をさぼって品川遊郭に行き謹慎。
譜代の藩士がやることかって思う。
桂小五郎は国防への危機感から幕臣の江川英龍や中島三郎助に
弟子入りしてるのに。
ただの俗物で時節を見誤っただけ。山田方谷は逆に藩主を諫めてる。 結局河井でなくとも戦争になっただろう
薩長に付いても会津攻めを命じられるだろうし
そういう選択肢はなかった 司馬遼太郎
「幕末は清河八郎に始まり坂本龍馬に終わる」 勝敗はともかく河井継之助と土方歳三は幕末の人物としてはこの上なく面白い。
たしかに司馬遼太郎の小説のおかげで幕末の大物になれたのも知れないが
元から両者が大物となれるカリスマ性オーラある人物だったのも事実なのであろう 河井の考えは正しかったんでないか
薩長につけば会津攻めを強要されるのでありえない
かといって会津に堂々とつけば薩長と戦争になるのも困る
中立になって仲介役に名乗り出てるのを試す
結局失敗して戦争になったが流れ的に河井でなくともそうなったろうし この人は会津より薩長土と思想的には近いんだよな
会津藩のことをかなり批判してるし 究極のバカでもあり天才でもある
バカと天才は表裏一体
それが河井継之助だ 兄貴の尾張だって官軍にたってるんだし、何か問題でも?って話だよ。 つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 長岡藩は地理的にも会津と近いし薩長に付けば先鋒を命じられる
尾張みたいな会津と地理的に遠い親しくない藩はどうでも良いが
長岡藩は元から薩長に付くという選択肢はなかった
河井は戦争回避策を試みただけで 河井継之助は思想的には会津より薩長に近いのに進退よろしきを誤ったな
惜しいことをした 峠読むと河井は女郎芸者遊びばかり。
同じ譜代藩士の山田方谷は河井と真逆のことをする。
福沢、福地は明治維新後木戸孝允の近くに行く。
司馬も本音では河井って馬鹿じゃねって思ってるよ。 >>517
長岡の田舎侍じゃ世界情勢など理解できなかったんだろうなあ
明治維新も欧州諸国の植民地支配をいかに逃れるが鍵になったわけで、そんな時に国内で長岡藩が独立するなんてのはイカれた発想だったな 河井が居なければ、長岡藩は最初から会津側について戦ってただけだろう
戦争回避を試したのはさすが傑物
薩長が話し合いを拒否するから戦争になっただけで >>519
河井は会津のことも時代遅れだとガンガン批判してたしな 嫁殺しの黒田や貪官汚吏の山縣が北越戦争では
理知的な指導者扱いになって糞藁 河井がいなければさっさと恭順してた。暴走した河井の罪は重い。焼け野原とその後の困窮の代償は大きい。 恭順派の三島億二郎も最後は開戦に賛同している
奥羽越列藩同盟見れば分かる通り近隣の藩で会津を攻めようなんて選択肢はないだろう >>520
そこは高杉晋作も週に一回は必ず藩の公用金で女郎通いをしてたぐらいよ >>525 それな
鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川方、譜代親藩は恭順し彰義隊や榎本などの幕府の残党が歯向かったぐらい。
新政府軍は会津討伐に行くわけだが長岡藩なんて眼中になかった。そんな弱小藩が国内で独立するなんてイカれた行動したもんだから潰すのみ。
長岡藩は会津からの協力要請を断っていたが焼け野原にされて惨敗したあと逃げに逃げて会津藩に合流しようとした道半ば死亡したのが継之助。 河井継之助はバカか鬼才なのかわからんね
それこそが河井継之助の魅力なのかもしれんがね 土佐藩か長州藩が似合いすぎてる漢。
司馬遼太郎の評論ではないが、ほんと東北の中規模藩には不釣り合いすぎてる。 司馬遼太郎『英雄児』
「英雄というのは、時と置き所を天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」 司馬遼太郎の小説「峠」を読んで読書感想文を書くのは自由だが、司馬遼太郎はすべからく小説家として面白くなるように書いている。
当人もフィクションだと明言しているものを鵜呑みにする武田鉄矢のような無知蒙昧な輩が痛々しいだけだ。 >>534
峠より英雄児こそ河井継之助の本質を表してる。
河井継之助みたいな人間は佐幕藩より土佐藩や長州藩でこそ活躍できたのは確か。 薩長土肥では河井継之助みたいな革命児は腐るほどいるからそんなに目立たないだろう
佐幕藩に生まれたから目立って有名人になれたわけだ 河井は長岡藩を賊軍におとしめた元凶で、河井も逆賊だから無理 河井継之助は吉田東洋とか長井雅楽辺りの立ち位置になるだろうな
優秀だけど佐幕派 >>545
土佐藩だと田中光顕や土方久元と同格ぐらいにはなれんかのう?
いくらなんでも河井継之助が小物すぎやしないか? 山田方谷、勝海舟、西郷隆盛はかなり高評価してくれたから
もう少し河井を見積もって大物と見てくれよ 人材不足の幕府軍の中では筆頭格の大物であったんでしょう
薩長連合には河井に匹敵する人材がいくらでもいたが 河井の様に、軍事外交内政と全部で活躍した奴は薩長土にも居ない
財政を豊かにして藩政改革と兵制改革を成功させた
長州や土佐も軍事は大村や板垣が担当し、外交は木戸や後藤が担当とそれぞれ得意が分かれてた
河井は万能でしかも実戦の戦の指揮までやった 司馬遼太郎『英雄児』
「英雄というのは、時と置き所を天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」
これがすべてだな >>546
その通り、長岡の田舎侍という現実!
それ以上でもそれ以下でもない! >>553
そんな田舎侍をよく山田方谷や勝勝海舟や西郷隆盛は絶賛したもんだなw 勝や西郷と継之助なんかは会った事も接点なんかねえだろうが戯け者!
作り話に朦朧する憐れな爺 山田方谷に惜しまれるのも相当な人物でしか無理なんだが
河井は相当な人物だったんではないのかな? 勝はなあ。
福沢諭吉と仲のいい木村摂津守の悪口書くし、
木戸孝允の恩師の中島三郎助と仲悪いし。
勝の言うことなんて話半分に聞いといたほうがいい。 勝が西郷をほめようが、明治政府の実力者の大隈井上なんかは
西郷を馬鹿にしてた。 鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川方、譜代親藩は恭順し彰義隊や榎本などの幕府の残党が歯向かったぐらい。
新政府軍は会津討伐に行くわけだが長岡藩なんて眼中になかった。そんな弱小藩が国内で独立するなんてイカれた行動したもんだから潰すのみ。
長岡藩は会津藩からの協力要請を断っていたが焼け野原にされて惨敗したあと逃げに逃げて会津藩に合流しようとした道半ばに死亡したのが継之助。 過大評価はよくないが
腐っても山田方谷が絶賛してた人物だ
もう少し河井継之助を大物とみてくれよ 女遊びばかりして判断を間違って郷土を壊滅させた
河井より、国民教育に務めた尾張の田中不二麿とか
のほうがはるかに偉大だろ。
民にさんざん迷惑をかけて派手に花火を上げたほうが偉大なのか? 河井継之助を佐幕派では随一の大物と評価してたのは山田方谷と勝海舟かな
山田方谷に高評化されるのは中々の大物だと思うんだけどなあ 河井継之助だけはバカなのか鬼才なのかわからん
それがこの人物の最大の魅力なのかもしれない 天才でもあり馬鹿でもあり我々凡人の領域を超えてるのが河井継之助としかしいいようがない >>569
お前みたいな、ここで一刀両断して、ほざいてるだけだけの無知蒙昧のバカよりかは河井は賢いけどなw つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 安岡正篤が心酔してた山田方谷に高評価されてた河井継之助をバカにしてはならない 〇〇が言っていたから〜とかほざく奴は詐欺師にころっと騙される。まあ安岡某もインチキ細木に騙されてるがなw どっちみち選択肢は薩長に付いて会津と戦争するか会津について薩長と戦争するかしかないんだから
河井でなくとも戦争は避けれない
武装中立や独立とか名目はともあれ戦争回避を試みたのは凄い >>574
勝海舟の人物鑑定は確かなものだと思うぞ >>576
つくづく佐幕藩で生まれたことが不幸すぎる人だ
陽明学を信望してたり思考的には開国主義なんだよねこの人 >>575
勝海舟の人物鑑定は確かなものだと思うぞ つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 ほんと無益な戦いをして長岡藩を焦土にした罪は重いな 〇〇が言っていたから〜とかほざく奴は詐欺師にころっと騙されるボンクラ爺さんw。まあ安岡某もインチキ細木に騙されてるがなw 勝はホラッチョお爺さんでしょw
人物評も自分がかかわった人物だけ高評価。
木村摂津守の悪口言っても日本最高の啓蒙思想家の
福澤諭吉の親友だからどっちが正しいか。 >>580-583
おまえ独りごときの妄言は勝海舟の偉大なる評論の足元にも及ばんよ >>580-583
勝海舟>>>>>>>>>>>>>>>>>>>おまえw 福澤諭吉>>>>勝海舟>>>>>>>>>>>>>>>>>>>俺ら
だろ。 〇〇が言っていたから〜とかほざく奴は詐欺師にころっと騙されるボンクラ爺さんw。まあ安岡某もインチキ細木に騙されてるがなw >>582
>>587
おまえごとの歴史評論は勝海舟の足元にも及ばんよ 司馬遼太郎も河井をこの男が西国諸藩にでも生まれてれば西郷、桂、坂本を超える元勲になったかも知れぬと書いてたな 誤字にも気づかない馬鹿丸出しw
〇〇が言っていたから〜とかほざく奴は詐欺師にころっと騙されるボンクラ爺さんw。まあ安岡某もインチキ細木に騙されてるがなw >>589
妄想と現実の区別が出来ないのは認知機能の異常者 >>590
お前みたいな無知無学のゴミと勝海舟のどちらの歴史評論が重いかと聞かれたら
迷わず勝海舟と答えるよ >>591
お前みたいな無知無学のゴミと勝海舟のどちらの歴史評論が重いかと聞かれたら
迷わず勝海舟と答えるよ 安岡正篤が心酔してた山田方谷も河井継之助を高評価してたわ >>589
さすがにそれは盛り過ぎ。
維新三傑を超えるどころか匹敵もしないよ残念ながら。
ただ薩長土肥に生まれてたほうが河井の人生が晩節を汚さずに済んだのは確実。 河井継之助みたいにバカなのか天才なのか分からないような大物が大好きだ 誤字にも気づかない馬鹿丸出しw
〇〇が言っていたから〜とかほざく奴は詐欺師にころっと騙されるボンクラ爺さんw。まあ安岡某もインチキ細木に騙されてるがなw 河井は日本国の首相レベルで収まる
薩長土にこれほど万能に傑出した英雄は居ない >>597
勝海舟>>安岡正篤>>>>>>>>>>>>おまえの日本史評論 >>599
それな
鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川方、譜代親藩は恭順し彰義隊や榎本などの幕府の残党が歯向かったぐらい。
新政府軍は会津討伐に行くわけだが長岡藩なんて眼中になかった。そんな弱小藩が国内で独立するなんてイカれた行動したもんだから潰すのみ。
長岡藩は会津藩からの協力要請を断っていたが焼け野原にされて惨敗したあと逃げに逃げて会津藩に合流しようとした道半ばに死亡したのが継之助。 土佐で言えば武市の統率力、板垣の軍事の才、後藤の外交力、東洋の内政、龍馬の志
これを兼ね備えてたのが河井継之助 河井の唯一の欠点は傲岸な点だ
岩村を無用に怒らせた
外交交渉の担当には少し不向きかね >>605
超過大評価しすぎだバカ。
個人的には河井継之助は幕末では好きな人物だが佐幕藩の中では先進性を持っていたにすぎないよ。
時代遅れの佐幕藩にいたからこそ有名になれて目立つことができた幸運な人物。 プロ野球だとマイナーリーグや二軍では三冠王になれるが
メジャリーグーや一軍だと中堅止まりが河井継之助なんだろう
まあ俺は好きだけどな しかし、この河井が超大物になれるなんて旧幕軍は人材不足過ぎるだろw 司馬遼太郎の小説「峠」を読んで読書感想文を書くのは自由だが、司馬遼太郎はすべからく小説家として面白くなるように書いている。
当人もフィクションだと明言しているものを鵜呑みにする武田鉄矢のような無知蒙昧な輩が痛々しいだけだ。 >>610
それが司馬遼太郎の作風なんだ。燃えよ剣の土方然り、竜馬がゆくの竜馬なんかは典型的。 坂本は業績はほとんどでっち上げでも魅力的な人物なのは間違いないけど、
河井は女郎遊びばかりして長岡を灰燼にした輩だからね。
あの司馬でもクズ野郎としか書けなかった。 >>608
大相撲だと十両では優勝できるが幕内だと8勝7敗で勝ち越すのが限界の力士。
それが河井継之助。 つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 河井の統率力はかなり凄い
長州も滅亡寸前になってようやく兵制改革できたくらいだし >>618
それぐらいが真相でしょ
国政での首脳陣は無理
大物代議士には成れたかもしれんが 桂も西郷も当時として超イケメンの偉丈夫なんだよ。
その段階でカリスマ性が凄い。
河井は岩村に田舎の小役人だと思われた。
桂なんて江川の丁稚したときに、そこらの婆さんに「あんた只者じゃないね」って
言われたぐらいだぞ。 安岡正篤が心酔してた山田方谷は河井継之助を高評価してたんですが? 〇〇が言っていたから〜とかほざく奴は詐欺師にころっと騙されるボンクラ爺さんw まあ安岡某もインチキ細木に騙されてるがなw だが戊辰戦争の佐幕派で河井継之助ほど興味深い面白みがある人物がいないのもまた事実なんだよなあ
少なくとも土方歳三や近藤勇よりかは大物 戊辰戦争さえなければ長岡藩の名奉行で終わってたかもしれんのう。 >>623
確かに戦後最大のフィクサーなんて崇拝されてきたが
果たして安岡正篤の人物眼はどうなんでしょうか? >>627
高田藩や与板藩なんかも戦場にはならんかったもんね 薩長の様な得体の知れない利権屋が我々は新政府だ!友好国の会津を攻めろ!とか言っても真面目に聞く奴は居ないだろ
奥羽越列藩同盟が普通の反応 >>630
会津藩からの同盟を断っていたが長岡が焼け野原にされ惨敗したあとに逃げに逃げて会津藩に合流しようとした途中に死亡したのが継之助だからね 会津桑名の兄貴の尾張は青葉松事件で三人の家老の首を差し出して
官軍に立ってるわけだが。 >>631
慶喜が新政府に降参し江戸城を穏便に明け渡した後になっても、
新政府に刃向かい続けた奥羽越列藩同盟と河井は愚かな逆賊だな それでも何時の間にか田中角栄、山本五十六に匹敵する長岡の大英雄さ >>634
長州も朝敵になっても歯向かってたんだし会津とやってる事変わらんよ
諸藩が長州を攻めるの嫌がってたのも同じだし 楢山佐渡とか河井は時勢の読めないただの田舎者としか思わないな。
祖国を壊滅させてまあ。
田中不二麿とか山田方谷のほうが英雄だろ。 >>637
長州は四境戦争に勝って赦された
河井は負けて赦されず逆賊のまんまだ つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 長岡の田舎侍じゃ世界情勢など理解できなかったんだろうなあ
明治維新も欧州諸国の植民地支配をいかに逃れるが鍵になったわけで、そんな時に国内で長岡藩が独立するなんてのはイカれた発想だったな 山田方谷、勝海舟、西郷隆盛。
河井継之助を高く評価した大御所はこの3人か。 会津藩からの同盟を断っていたが長岡が焼け野原にされ惨敗したあとに逃げに逃げて会津藩に合流しようとした途中に死亡したのが継之助だからね 河井の言う通り聞いてれば
会津戦争も避けれたかも知れんし
薩長がやらかした 河井が板倉勝静を通じて朝廷に提出した徳川幕府に治世を任すべきだとの上奏文を読むと
河井も佐幕派の脳味噌から一歩抜け出せなかったんだな 長岡の田舎侍じゃ世界情勢など理解できなかったんだろうなあ
明治維新も欧州諸国の植民地支配をいかに逃れるが鍵になったわけで、そんな時に国内で長岡藩が独立するなんてのはイカれた発想だったな それでも重商主義を重視してたり河井が旧幕軍では最も開明的な人間だったのも事実。
河井以外の旧幕軍連中が時代遅れすぎたのもあろうが。 >>650
藩主の三河牧野家は家康の代からの譜代大名やから仕方ない >>652
高田藩や与板藩なんかも戦場にはならんかったもんね だから河井が居ようが居まいが戦争になってるの
河井が影響したのは軍を近代化したため戊辰で最大の激戦になった点だけ 北越戦争なんだが長岡藩が新政府軍に数倍の戦死者を与えたとかなら、
負け戦でも指揮官の河井継之助が英雄視されるのも分かるんだがな。
実態は両軍の戦死者は横ばいで長岡藩の方が戦死者が多いのに河井が名指揮官のごとく持ち上げられてる理由が分からない。 河井は商人になってれば同郷の大倉喜八郎みたいに大成功してたかもしれんよ >>660
旧幕府軍で見せ場を作れたのは庄内の酒井玄藩だけだな。
あとは蝦夷地での土方歳三の二股口の戦いだけ。
河井継之助はガトリング砲ばかり注目されて肝心の戦闘での見せ場は作れなかった。 河井さん何が偉いんだが凄いんだがよくわからない
土方なら何となく分かるんだがな つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 河井の城奪還作戦は有名だろう
後の石原も研究している 戦術能力は高いんでしょ
戦略家としては失敗してあれだけど ペリー来航時に横浜警備をさぼって品川遊郭に入り浸って藩から謹慎。
大砲の前には無駄だから経費削減の陽明学的なんとかって
司馬遼太郎が無理やりフォローしてたw
いやただのクズです。 河井継之助だけではなく
小栗上野介も土方歳三も榎本武揚も松平容保も最近は反薩長史観の勢いで過大評価されすぎてるだろ 小栗と榎本なら高評価されるのも分からんでもないんだが。
土方と河井は何をしたんだと・・まぁピカレスクロマン小説の主人公として見るならば最高かもしれんがな 勝海舟の榎本武揚と小栗上野介の評価は低くほどに低いぞ
逆に河井継之助の評価は高い
土方歳三は幕末最強のアウトロー 河井さんは藩政改革出来たのが凄いだろう
長岡にとって平時だったし普通なら失脚や失敗する可能性も高い
土方さんは二股口での戦闘指揮だろな 河井と土方は一回も会わずじまいか
榎本と土方なら会ってるんだがな つまり“鳥羽伏見の戦いでもう勝負あり”
大将(徳川慶喜)が勝手に逃げ帰り謹慎して己だけ命乞い、この戦に負けた徳川方は恭順し、大多数の譜代親藩も争いを避けた。 せっかく江戸城も無血開城したのに。(前年に徳川幕府は政権を朝廷に返上してる)
会津藩などは薩長との経緯があるから中々厳しい面もあるが、井の中の蛙長岡藩が何をトチ狂ったか国内で独立をすると宣言したことが敗着。
世界は欧州諸国による植民地支配が真っ只中、日本は一致団結して立ち向かわなければいけない状況なのに国内で独立するという、いかにアタオカか如実に浮かび上がる。
当然新政府軍は相手にするはずもなく尾張藩の仲介で最後のチャンスを与えられた小千谷での会談も交渉能力もないボンクラが逆ギレした結果、長岡は焼け野原に。
この間抜けな歴史、藩辱を忘れてはならない。 いやいや民に迷惑かけるからって諫めた山田方谷のほうがはるかに上。 河井は薩長と戦争か会津と戦争かの二択の中で戦争回避の道を模索しただけ 安岡正篤が崇拝してた山田方谷が高評価してたのが河井継之助 長岡の家老で終われば幸せだったのに武士の血が騒いだか 最後は多量出血の破傷風で会津の只見で亡くなったなんだよな 長州の芸者遊びはネットワークを広げる
ことに役に立ってたけど、河井の女郎遊びは
新潟の曇り空のように
憂鬱なだけ。 河井が佐幕派の3番4番なのは事実だが随分と人材不足だよな 幕府側の人材不足には泣けてくるが
その中では河井はよく頑張ったほうじゃないか 河井は薩長土肥だと中堅藩士より少し上ぐらいにはなれそう ペリー来航して譜代藩士なのに横浜警備をさぼって品川遊郭に入り浸って謹慎。
譜代藩士だからって新政府に戦争を仕掛けて郷土を壊滅させる。
ただのクズである 佐幕主義の越後人だけど陽明学の影響で西日本的な思考を持ってる 慶喜が官軍に降参したんだから、長岡も官軍にさっさと降参しとけば、ムダな犠牲者も増えなかった >>744
軍資金取られた上、官軍の先鋒に使われ会津と戦争させられるだけだよ 墓が長岡住民がなげた石や刀で切った跡でボロボロなのが、印象に残った。現在では郷土の英雄に祭りあげられている様だが、市民が恨みで墓を傷つけるほど、罪な判断だったことがわかる。ガンドリンクガンを購入するなら最新鋭の銃が何挺買えただろうか。大砲がいくつ配備出来ただろう。
自分が掃射するなど愚の骨頂である。
本当に徳川家に準ずるのが武士道であるはす。
陽明学を学びながら、逆をいくリーダー像 横浜に陸揚げされた3門(もん)のガトリング砲(1861年型)を「ファブルブラント商会」が取り扱い、その売却希望額は1台2,500ドルと高額でした。これは、当時のアメリカで売却されていた金額の約2.5倍にあたると言われています。送料込み。
河井継之助は一台6000両?x2台。
スナイドル銃なら36両 333丁買えた。
まるで後年、戦艦大和ならゼロ戦何千機も製造出来たのと同じ構図である。 奥羽越列藩同盟が出来たように近隣諸国は会津同情派しか居ないんだから会津と戦う選択肢はない
河井じゃなくとも官軍と戦うしか選択肢はなかった
河井が軍を近代化した為にもっとも激戦になったくらいで お前らみたいなゴクツブシが歴史に名を残した人物をバカ扱いするのが一番滑稽 榊原高田藩は新政府についたわけだから、長岡が新政府についても挟撃される恐れはない
越後は小藩だらけで大した戦力もない
越中信濃も恭順 羽州とは距離的にも遠いから国土保全を考えるなら高田同様恭順一択だろう
その場合は下手に戦力がある分、先鋒として奥羽全域を転戦させられて良いように使われただろうけど 長岡藩の誇りだろ
それについてお前ら薄汚いドブネズミがとやかく言う資格などないぞ 1840年、河井継之助13歳
この年に起きたのが川越庄内長岡の三方領知替え
川越松平の策謀で実現寸前だったのを庄内藩の家中から領民までの必死の抵抗で撤回になった事件である
これが実現していれば長岡の牧野は川越に移封となっていた 長岡には庄内の酒井が入る
酒井はほぼ領地半減の大減封となり、史実では豊かな財政本間の財力で存在感を示したが、長岡では幕末に何かできる状況にはなく早々に官軍についただろう 牧野も川越では地理的に何かできる状況にはなく、庄内に移動した松平も元がど貧乏で大した力もない
後世批判の多い三方国替も実は起きていた方が幕末の悲劇が軽減されていたかもしれない 峠なんてほとんど書くことがないから女遊びのことしか書いてないだろw
譜代藩士のくせにペリー再来時に横浜警備をサボって品川遊郭に入り浸って謹慎。
ただのクソ野郎です。 安岡正篤が崇拝してた山田方谷が河井を褒めていたことぐらいかな 阪神が日本シリーズ優勝で河井継之助と阪神タイガースの因縁が深いことを思い出した。 >>763
ペリーなどコケ脅ししてるだけなのに
真面目に対応するのは恥ずかしいと思ったんだろう 志のある武士はみんな海防に必死になってたのに、
品川遊郭に入り浸りのクズ。持ち上げるのには無理がある。 ペリーが来ても相手にせず遊郭で遊ぶ豪胆さが河井の元になってるんだろうね こいつと土方歳三は無駄に持ち上げされすぎだろ
たしかに小説にすると面白い人生かもしれんがな国を滅ぼしたテロリストと変わらんよ 命を懸けて遊郭で遊ぶ豪胆さ
死罪になる可能性もあったわけだからな それが国益と何の関係が?
現代の私利私欲にまみれた役人と何ら変わらん 河井の性風俗狂いはバカ役人ここに極まれりとしか言いようがない こいつを美化して崇拝するのは小説の中だけにしとけよw 高額すぎるガトリング購入するなんて戦略性なさすぎる 政治より遊女遊び三昧とかね・・昨今のバカ官僚と変わらないよ むしろ長岡藩の奉行どまりなら最高の名家老扱いで終われたろうに。 河井継之助のケツに
オラのイチモツを突っ込んでやりたいわー 佐幕派の長岡藩に生まれなければ小説の主人公にされるほど有名になれなかった
人材不足の幕府方では大物であったかもしれないが薩長土肥だと中堅役人で終わってたよ 女癖が悪くてやめた前新潟県知事の米山隆一みたいなもんか? >>800
西南雄藩で生まれて無名の中堅役人で終わってたほうが幸福だったんではないか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています