河井継之助って単なる馬鹿だろ、普通に考えて [無断転載禁止]©2ch.net
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東土人は本当に哀れだよな、こんなのを英雄扱いしなくちゃならないなんて そうそう。外交交渉のためにちくいち伝令はしらせて往復2週間待つなんて
ことするわけがない。軍司令官はそのまま外交責任者 岩村ってどこまで権限与えられてたの?
武装中立を認めると他の部隊にも影響あるから伝令走らせないと無理だろ
自分の一存で決めて布陣を変えさせるくらいの力あったの? 軍隊ってのはもともとそういうの決まってないんだよ。先に暴力と階層がある。
上手く行けば賞賛されて失敗すれば切腹させられる。カタチが先にあるんだよ。
だから近代の軍隊はそうならないよう組織化とマニュアル化に血道をあげたわけ 軍の通例からして信濃から越後の諸藩を平服ないし征伐せよ、
くらいの命令しか受けてなかった可能性が高い 長州藩や土佐藩は、蛤御門の変や藩内粛清で
有能な人材の多くが死んでしまい、
官軍は極端な管理職不足で、陸援隊上がりの若造を
北陸道軍司令官にするのはやむを得ない
河井は官軍のそういう事情も考慮すべきだったのに
傲岸に「俺が会津藩と官軍を仲介する」と言い放ったから
交渉がうまく行かないのは当たり前。
営業やってたら、得意先の窓口がクソ生意気な若造に替わって、
それまでの担当者ではあり得ない無茶苦茶な事を言って来て、
ブチ切れそうになるなんてよくある事。
「お前なんかじゃ判らん、元の担当者出せ!」と言いたくなるのを
ぐっと堪えて、冷静に相手の不明を判らせる事が、営業のカギだが
傲岸な河井ではムリだろうな。。 しかも、別のお得意様の重役はリストラ担当からのし上がったブラック経営者と来たらね… >>60
信濃の諸藩は越後に侵攻した侵略者だよ
越後長岡藩を攻撃した信州諸藩が最も多かった >>65
信州で最大の松代藩真田家は、真田昌幸以来ガチガチの反徳川だからなw
松代藩の佐久間象山とか、上田藩の赤松小三郎とか、
伝統的に信州には開明的な勤王の志士も多かった
そりゃあ、カビの生えた徳川幕府なんかに殉ずる気は毛頭ないわw >>68
真田昌幸・佐久間象山・赤松小三郎すら知らない低能バカは、
日本史板に来ない方がいいと思う
ちなみに松代真田藩は、官軍より信濃10藩の触頭を命じられたため、
信濃10藩を率いて北越戦争・会津戦争で奮戦し、東日本の藩としては唯一、
官軍の賞典禄八傑【薩摩・長州・高知・大村・松代・大垣・佐土原・鳥取】
に入る軍功を上げている。
会津戦争では、佐久間象山が自藩に大量生産を指示した自慢のメリケン砲を
若松城の東にある小田山に並べて若松城を撃ちまくり、
「薩摩真田に大砲なくば、官軍破るも何のその」と会津藩士を嘆かせる
活躍をした。ちなみに薩藩藩の大砲は近接戦闘で威力を発揮する
四斤山砲(弥助砲)のため射程が短く、攻城砲としては余り威力はなく、
事実上、松代藩のメリケン砲が若松城を陥した。
司馬遼太郎の小説によって上野戦争の終盤で威力を発揮したと書かれている
佐賀藩のアームストロング砲が会津戦争でも活躍したと勘違いしてる人が多いが、
当時のアームストロング砲は威力が弱い上に破裂や故障が多く、
保有していた佐賀藩や薩摩藩は使いたがらず、会津戦争でも、
ほとんど使われなかった。「アームストロング砲は夜間に城方を
眠らせない空砲に使われた」と述べている歴史家もいる
上野戦争の終盤で勝敗を決定づけたのは鳥取藩の斬り込み隊であって、
佐賀藩のアームストロング砲ではない。
そのため鳥取藩は賞典禄8傑に入っているが、佐賀藩は入っていない。 勤王の志士ってのは政治活動をした人のことだから
佐久間象山と赤松小三郎はどっちかと言うと学者とか思想家だね
地元の人が志士と呼びたきゃ止めないけど人に押し付けちゃいけない >>67=>>69
>会津戦争では、佐久間象山が自藩に大量生産を指示した自慢のメリケン砲を
>若松城の東にある小田山に並べて若松城を撃ちまくり、
おれが知ってるよりも長生きしたんだね
主語は佐久間象山だろ
真田昌幸が松代藩主だったみたいな書き方だし
日本語の勉強からやり直せ 越後人と書かないところが低脳の証
フル回転でもこの程度、とか 幕末の佐久間象山の活躍は有名だが、象山の西洋化政策によって作られた
松代藩の軍事力の凄さに関して、ほとんど知られていないのは不思議だな。
河井の長岡藩や会津藩の悲劇は、松代真田藩を敵に回した事だ。
戦場に【六文銭】の旗がなびくのを見たら、長岡も会津もさっさと
降伏すべきだった。
◇松代城(海津城)
http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori04/04_08_14hayashi/m07.html
● 戊辰戦争(1968年)当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。
1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、
廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時「松代藩は大砲のみにて
53門の多きに達し、他の(信濃)10藩全部の兵器を合するといえども
松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。
十代藩主・真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです
(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超え満照寺まで
飛んで大騒動になったという)。 この話題って真田丸最終回のいい加減なナレの受け売りだろ
大河板でも超ブーイングの嵐だったのに何故今更ドヤるのか
真田丸スレでも言われてたけど松代藩が佐久間家にした仕打ち考えりゃ自慢できんし
象山も赤松も出身を問わず多くの人に教えたのが高く評価されてる人で
河井継之助も象山の弟子なのに反徳川とかアホか
維新を徳川家康に負けた恨みとか思い込んで江戸時代260年どころか
幕末のこともよう知らん戦国脳が近代史板に来るなよ >>76
>松代藩が佐久間家にした仕打ち
どの藩でも武士は切られると「武術不心得」で恥とされていた時代だ
背中を切られる後ろ傷は、特に不面目とされ、
お家お取り潰しになるのが当たり前だが、知らないのか?ww
まあ、息子が帰藩出来なかったのは、象山が傲岸不遜で
藩内も敵が多かった上に、息子のデキが悪かったからだが..
デキの良い息子なら、しばらくすれば帰藩が許されただろうな アホ丸出しw
幕末京都の暗殺は複数人で取り囲んで滅多切りという手口が普通だったんだよ
なので背中に傷があるから卑怯なんて考え方はすでに過去のものになっている
ただの言いがかりに過ぎないのは分かった上での処分だろ >>78
公家や町人は切られても不面目ではないが、武士は危機管理が大切で、
護衛の供もつれず、攘夷派がゴロゴロしている危険な京都の街中を
目立つ白馬に西洋鞍を付けて堂々と騎乗し襲われて、後ろ傷を負って、
首まで取られて三条河原に斬奸状付きで晒されたのだから、
松代真田藩の面目は丸つぶれ。「危機管理の出来ない真田家中」という
汚名を松代藩に塗ってしまった事になる。お取り潰しはやむを得ない。
「言いがかり」なんて言ってる奴が、歴史に無知なだけww
ただ幕末にもなると、しばらくすれば「父の功績大にて」という事で、
息子の帰参が叶う事が多いのだが、象山が藩内で嫌われていた事と、
息子のデキが悪かったので、帰参が叶わなかった。 ばっか馬鹿しい
つまり信州人は象山の功績についてはドヤ顔で自慢したいけど
ツッコミ入れられると象山の人格disって逃げたいし
自称開明的な松代藩だが実はメンツにこだわるだけの古臭い藩で
他藩のように護衛嫌がる奴をうまく操縦もできなかったってことだな >>80
>実はメンツにこだわるだけの古臭い藩で
佐久間象山の進言通りに藩内でメリケン砲を大量生産し、
戊辰戦争で真田砲兵が大活躍した歴史的事実を見ても
松代藩の真田幸民が開明君主であった事が判る。
ただ、佐久間象山の危機管理が甘かったのは間違いない。
首を取られて藩の名に泥塗ったのだから、お取り潰しはやむを得ない。
こちらは歴史を事実として捕らえているのに
どうして低能バカは感情的に「信州人はどーの、会津人はこーの」と
バカを言い出すんだろうね?wwwww
アホは、歴史を客観的には見れないのか?ww
チョンそっくりだなw チョンとか言い出す時点で終わってるよ
戦国脳が歴史を事実としてとらえてるとか笑える あと危機管理が個人の責任とか言っちゃう時点で
現代人としても遅れてるな >>82
歴史を客観的に見れないのはチョンそっくりだよwwww
どうして無知無教養なバカは、事実を直視出来ないのか???
>>83
>危機管理が個人の責任とか言っちゃう時点で
この歴史オンチは、西郷隆盛が護衛のため中村半次郎など屈強な供を連れていたり
常に犬を連れていたり、桂小五郎が「逃げの小五郎」と言われ
新撰組や見廻組にずっと狙われながらも逃げ延びた事を、知らないのか?www 開明藩とかいっても相対的なもんだろ。西日本の雄藩ぜんぶ
敵にまわして戦えるほど開明だったワケねーじゃん。 >>1
単なるバカではないかという評価は長岡藩内にもあった。
とくに備中松山藩への留学に際しては藩の要路ももめた。
バカじゃないことは、その後の行政手腕をもって河井自身が証明した。
わずか3年であれだけの大改革というのは驚異的。
自信を持つのは当然ともいえる。 何というか河井の改革実績が凄すぎて長岡藩内はおろか
近隣諸藩でもタテつけないんだよね
幕末には珍しいけど河井独裁的な藩体制になってしまっている
とくに家禄改革は明治以降の動きを完全に先取りしてる >>86
改革の速度的には日本の一定規模以上の藩でおそらく一番速い。
速いなんてもんじゃない。独裁としか言いようのないスピード。
薩摩の島津斉彬も短期間で色々改革したけど、
彼は重豪までの蓄積があるのと藩主だったこともあるが
河井の場合は藩主の信任があったとはいえ郡奉行からのし上がっていきながらだから
明治以降は戊辰戦争後に似たような急激な藩改革があったけど
さすがに幕末の時点では一藩士がほぼ主導してこんな強引な改革できないよ 岩村高俊も後悔してるけど、河井を体よく引き留めればよかったという所だね
二見虎三郎の根回し段階で河井は談判成功の見通しを持っていたのだから、
何も河井と真っ向から口論して官軍の意思をバカ正直に伝える必要なんてなかった
1日でも2日でも河井を抑留してしまえば長岡藩の軍事指導体制はもっと弱体化した >>86
長岡藩と西南諸藩の違いは兵数に尽きるといっても過言ではない
長岡は1500人、越後戦線の核になる薩長兵がその5倍
越後戦線の東軍全体でも8000で3万以上の官軍を拘束した >>91
薩摩も長州もはじめから大軍だったわけではないよ。
少数で圧倒的な敵と戦い勝ち続けて、兵力が膨れ上がっていったんだよ。 長岡と会津の違いはお城が有るか無いか。
長岡市は250年も存在した長岡藩時代のお城を造ってはどうでしょうか。 つくったら維持しないといけなくなる。余計なことはしないことだ。
熊本城なんかもあれ、戦後に建てたものだぞ。それ維持するために
いったい何百億も要求されてるか考えればいい。過去からあって
大切にしてきたものこそ大切にすべきだ。余計な「まちおこし」で
子孫に負債を残すべきではない。 岩村がなぜか悪役にされてるけど
河井は談判に来たのに官軍が悪いかのように責めてたと言ってなかったっけ >>94
子孫の振りしなくていいよ
長岡市は長岡城を建造して町おこしをしよう。
条件としては、薩長を一方的な悪者にするのは無しで進めるべきでしょう。 城跡の現状はどうなってんのよ?宇都宮城は大部分民家だから悲惨なことになってるけど。 長岡駅と周辺だけどさ、駅を改築して、
駅前お城長岡城で、どう?
駅前留学ノバじゃないけど
あと、古戦場も多いから駅からバスで古戦場めぐりも出来るようにすればいい 駅がそのまま城址ですでに記念モニュメントみたいなのあるじゃん。
しょうらい消え去る運命の消滅都市に城址復元とか、ないないw 熊本で露呈したのは一部の声のデカい「市民」による
ハコモノ行政がいかに市民の負債になるかってこと
名古屋みたいなバカなまねはせんこっちゃ 岩村の人間性にいろいろ問題があったのも確かなんだが、
さすがに一方的に悪者扱いされすぎ。
河井は中立的な立場なんかとっていないし、あきらかに反新政府的。
あの時点で単なる一藩の言い分を通そうなんて、あきらかに無謀。
戦場になった長岡の人達から長く恨まれたのも仕方ない。 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OWTUE 河井継之助死してアサヒスーパードライと阪神タイガースを残す いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
DEC 【対米純投資、ゼロ!】 中国に噛みついたトランプ <ポストアメリカ> 中国が米国債を売りそう
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1535939242/l50
マ1トレーヤが出てきたら、脇役トランプなんか直ぐ消える。 >>91
ガソリング砲が後どれくらいあれば勝ってたかな。 >>108
100門あったとて勝てないだろ
それを運用する人数が官軍に比べて物理的に少ないのに何門あっても勝てないわ
203高地みたってそうだろ
ビグザム1機で連邦軍に勝てないのの一緒 203高地は機関銃で守る要塞に肉弾突撃を繰り返して大量の死者を出して作戦に無理があるから
砲撃に切り換えて勝ったんだろう。 203高地戦は基本最初から砲撃ありの突撃消耗戦攻略なんだが 戊辰戦争の会津藩と徳川幕府をテーマに語り合う(左2人目から)松平氏、伊達氏、上杉氏、南部氏、酒井氏、丹羽氏、柳沢氏、左は白石氏=会津大
http://www.minyu-net.com/news/181022news1.jpg
戊辰150年に合わせた歴史文化講演会「戊辰戦争 会津藩と徳川幕府」が21日、会津大で開かれた。会津、庄内両藩や奥羽越列藩同盟で主力を担った各藩の当主がパネル討論で
同盟の意義などを語り、「先人の努力で平和な社会が成立したことを忘れず、未来につなげる役目がある」と結論付けた。
約450人が来場した。会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)氏(64)、庄内酒井家18代当主の酒井忠久氏(72)、仙台伊達家18代当主の伊達泰宗氏(59)、二本松丹羽家
18代当主の丹羽長聰(ながとし)氏(74)、米沢上杉家17代当主の上杉邦憲氏(75)、盛岡南部家46代当主の南部利文氏(48)が登壇し、在京の会津出身者でつくる「会津会」会長の柳沢秀夫氏(65)が加わった。
進行役は漢字文化振興協会の白石宗靖(むねはる)常務理事・事務局長(85)が務めた。
当主らは各藩の置かれた状況を語り、戊辰戦争が新政府軍の「大義なき侵略」を目的に行われ、「義」の在り方に対する疑問が東北、越後諸藩の同盟成立につながったとした。
松平氏は「戊辰戦争は明確な侵略戦争。民に塗炭の苦しみを与えることが分かっていて、なぜ推し進めたのか理解できない」と指摘し、柳沢氏は「過去を変えることはできないが、今の時代に
生きる者が何を教訓にし、未来に向けてどう生かすかが大切」と語った。
討論に先立ち、徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝(つねなり)氏(78)が「江戸時代に
築かれた日本の基礎」の題で講演、「武」から「文」に大転換した江戸時代に平和の基礎が築かれたことを語った。漢字文化振興協会長の石川忠久氏(86)は戊辰戦争に関係する漢詩を紹介した。
「戊辰戦争から150年、これからの街づくり」をテーマにした鼎談(ていだん)も行われた。
文化講演会は漢字文化振興協会、徳川記念財団、福島民友新聞社の主催、戊辰150周年
記念事業実行委員会の共催、県、会津若松市、市教委、読売新聞東京本社福島支局、福島中央テレビ、ふくしまFMの後援、弓田建設、会津商工信用組合、会津若松商工会議所、会津若松観光ビューローの協賛、会津まつり協会の協力。
福島民友 2018年10月22日 08時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181022-318073.php 官軍との戦争を回避しようとしてた人もいたんだけど、河井のせいで戦争になってしまう 無謀な戦争を起こした河井継之助のせいで長岡は焦土と化した >>118
副市長がガトリングか。
もう負けるわな。 どう考えてもガトリング砲買う金で普通のライフル大量に買ったほうがよかったよね
あんな補給も運用も難しい実験兵器をぼったくり価格で買ったことが偉業みたいに語られてるのはおかしい 官軍と賊軍どちらにつくかの判断を間違えて
武装中立などという愚策で敗北の道を選択してしまった疫病神 >>124
ガトリングあったのに敗死しちゃったんだから効果もクソもない ひとり妄想的な平和論を唱えておいて
新政府側が受け付けてくれないとわかると逆上
勝手に新政府と勝ち目のない戦争に周囲を引きずり込む 四海波でも切れるときゃ切れる
三味線枕でチョイト、コリャコリャ
二世三世 ガトリングはあっても、雷神も鬼もいないんだから加賀藩にも負けるわな 無謀な戦争を起こした河井継之助のせいで長岡は焦土と化した わたしの故郷にこんな素晴らしい藩の政治家がいたなんて。感動です ここ最近河井継之助のウィキペディアに
先祖について二つの説があるとか書き換えられたけどあれなんで放置されてるの?
元々の本多家の家臣だったが姫君が牧野家に嫁ぐ時に一緒に先祖が牧野家に移ったと言うのを単なるそういう説もあるとか書き換えられた
もう一つが突然付け加えられた長岡の地侍とか言うもの。地名にある河井から苗字をとった地侍とか
あんな妄想を放置してるのはだれか直すだろうとかで誰も手をつけないから?
関わるのは嫌だから? 同じ幕府軍で、奥羽越列藩同盟で【最強】と言われた庄内藩は、
官軍に寝返った秋田藩領を丸焼けにして、各地で幕府軍を打ち破って
ものすごい抵抗をしたが、会津若松城が落城して、庄内藩も降参した際に
西郷隆盛が現場にいたので、西郷に許されて藩内は戦闘も皆無で、
酷い処罰も受けなかった。
西郷が庄内にいたのは、北越戦争が余りにも苦戦して、官軍の死傷者続出で
「このままでは新政府が危ない」と思った西郷が江戸から援軍を出そうと
したが、官軍の兵部大夫となっていた長州の大村益次郎から
「援軍など要らない、現地の兵で十分勝てる」と言われて、官を辞して、
薩摩まで兵を募集に行って、兵児を集めて北越に向かったところ、
大村の言うように戦は勝利で終わっていて、
仕方なくそのまま北上して庄内に至ったという経緯だ。
奮戦した長岡と庄内の結果は極端だが「運」と言うしかないと思うよ。
戦争でニューギニアに行って戦った爺さんも、戦争なんて運だ、命令一下
突撃しても死ぬ奴と生き残る奴がいるが、運しかない、と言っていた。 ほんと難しいよな、勤王派につくにしてもタイミングを誤れば秋田藩の二の舞だし。かといって旧幕府派になっても敵をつくる。 長岡藩は譜代で鳥羽伏見でも徳川方で戦ってる
それが朝廷に謝罪もせず新政府に根回しもせず、ひたすら武器を購入して軍備を整えてたら、敵対するつもりだとされてもしかたないわな。
薩摩長州といっても新政府軍は官軍として来てるのだから中立なんて主張が通るわけがないよな。
官軍に対しては服従するか賊軍になるかしかないんだから。
もちろん河井はそれらは分かっていた。
それが分からない馬鹿じゃない。
つまり河井ははじめから戦争をするつもりだった。
中立なら朝廷や新政府にたいして根回ししてるはず。
官軍が迫って来るまで何もしないでひたすら軍備を整えていて、いざ官軍がきたら中立でございます。
そんなもん通用するわけがない。 まあ偉人だが郷土武士だな。
日本全国で戦える器じゃない 河井継之介って明らかに頭弱いよ。
薩長の英傑たちに比べると200年は頭が遅れてる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています