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【リットン】満州事変と満州国14【満鉄】 ©2ch.net
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0023名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/19(木) 07:10:23.67ID:P9CGw+/g0
「女性自身」2016/10/04日号
シリーズ人間 No.2290
満州開拓団 いま明かされる悲劇
忘れたいあの陵辱の日々 忘れさせない乙女たちの哀咽
http://zasshi.jp/pc/action.php?qmode=5&;qword=%E5%A5%B3%E6%80%A7%E8%87%AA%E8%BA%AB&qosdate=2016-09-20&qpage=3

「それ、持っていっていいよ」
 写真を撮ろうとすると、スミさん(88・仮名以下同)は言った。
     (中略)
 スミさんはその紙をぐいと差し出した。今年1月にこの世を去った親友、光子さん(享年92)の詩を……。
 手渡されたのは、画面印刷のワープロ用紙2枚。全体がよれた紙には計4ページ分の「詩」が縦書きで打ち出され、
あとから書き込んだ箇所が数カ所ある。
 題名には「乙女の碑」とあり、その下に黒色のインクで《平成二年 六十五才》。ななめ左下には赤色のインクで
こう記されている。
《遺族会以外の人に見せてはいけない》
 誰が書き入れたのかと尋ねると、もちろん光子さんだ、とスミさんは言った。
     (中略)
 敗戦後の混乱時、満州(中国東北部)にいた開拓団の中に、若い女性たちをソ連側に差し出して集団を守った
ところがあった。その「性接待」の被害に遭った女性たちがまだ数人、存命だというのだ。
     (中略)
「乙女の碑」の一節が訴える。
《乙女の命と引き替えに
 団の自決を止める為
 若き娘の人柱
 捧げて守る開拓団》
     (中略)
 1945年8月夏、ソ連軍による満州侵攻、日本の無条件降伏と続き、開拓移民らは突如、「異国」となった荒野に
取り残される。すると現地住民の一部は暴徒と化し、衣服や物品を狙って、日本人集落を襲ってまわった。
 黒川開拓団は襲撃から身を守るために、本部、旧本部の2カ所に集結。そこへ、皆を追いつめる一報がもたらさ
れた。30`ほど離れた隣の来民開拓団(熊本県)が集団自決したのである。
 開拓団員らは食料もろくになく、暴徒の襲撃にもおびえる日々を過ごした。さらにソ連兵らが「女狩り」に侵入して
きて、13〜14歳くらいの少女にまで強姦をくり返した。
 次はいよいよ集団自決か。追い詰められた団幹部の男たちは「ある交渉」へとたどり着く……。
 陶頼昭の鉄道駅からほど近い黒川開拓団には、日本人がまだ集団で残っていることを聞きつけて、遠方から
さまざまな日本人がやって来ていた。元軍属の衛生兵、医師、通訳者――。
 また駅にはソ連軍が進駐していて、ロシア人将校や憲兵らがいた。そこで団幹部たちはロシア語の話せる男の
手を借りて、ソ連側から救援を取りつけた。日本に帰れるまで、暴徒から団を守ったり、食料を分け与えたりして
もらう約束だ。
 その見返りに、開拓団側が差し出したのは……。
 集団避難生活が始まってから数週間たったころ、副団長は広場の真ん中に娘たちを集めて言った。
「あんたら独り者はどうかな、体を張って犠牲になってくれや。旦那が兵隊に行ってる奥さんを利用するのは申し訳
ないで、独身のあんたらだけ頼む」
 それなら死ぬと娘たちは口々に言い、周りの者も大反対した。
 しかし、「兵隊さんに行っている家族を守るのも、おまえたちの仕事」と、副団長は力説し、周囲を説き伏せた。
 元団員らの証言によると、600人を超える黒川開拓団から性接待に行かされた未婚女性は12〜15人程度、
当時は結婚が早かったことから、10代後半の少女が中心だ。
 すでに亡くなった人が大半だが、スミさん、ふみさん、清子さん――まだ3人が存命だった。
     (中略)
 連れて行かれた先は、駅付近にあるソ連軍の駐屯地。また開拓団の本部内にも接待する部屋があったという。
そこがどれほど残酷な場だったかは、詩に赤でペン書きされた亡き光子さんの文章から浮かび上がる。
《ベニヤ板でかこまれた元本部の一部屋は悲しき部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。お母さん、
お母さんの声が聞こえる》
 光子さんの妹、綾子さん(87)は敗戦時、満16歳。ソ連兵への性接待はまぬがれた。スミさんらの話によると、
光子さんが「妹の分も私が出る」とかばったそうだ。
 だが、綾子さん本人は次のように語った。最初は満16歳になった未婚の女性は全員、接待に出てくれと言われた。
 すると満21歳だった姉の光子さんが「数え年の18歳以上」と強く主張して、数え年では17歳だった綾子さんを
接待役から外してくれたそうだ。
     (中略)
《続く》
0024名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/19(木) 07:11:20.92ID:P9CGw+/g0
>>23 《続き》
 開拓団は医務室もつくってベッドをひとつ置き、接待に出た女性たちの洗浄を行った。医務室での洗浄の指導を
したのは、北海道出身の衛生兵だった。
     (中略)
 2人目の生存者、ふみさん(91)は岐阜県内の農村部で息子夫婦と暮らしていた。
 接待の要求を突きつけられたとき、どう思ったのか。
「そりゃあ、嫌でしたし、もうこれで私の人生も終わりと思いましたけれど、日本へ帰りたい。どんな辛抱をしても
病気になっても苦しい思いをしても、日本へ帰りたい。その一念でした」
 一方で、「団のためなら死んでもいいんだって思いました」とも語る。黒川開拓団に対して恨む気持ちはないと言い
切り、「あんな立派な開拓団はありません。よう、(自分のことを)仲間にして、連れて帰ってきてくれた」と、評した。
 だが実際に行かされたときのことにふれると、ふみさんは凛としていた顔をゆがめた。
「Aさん、怖かった」
 A氏を含め接待係の団幹部たちは3〜4人いて、「あんたら、今日は出てくれないか?」と少女らに頼んでまわった。
 この男性についてはスミさんも「『Aさん、嫌い』って皆が嫌っとったから。皆おびえとったよ」と、何度も言及していた。
 交代制の接待は団の決まり事だった。副団長にも年ごろの娘がいたが、皆の手前、出さざるをえない。それでも、
副団長の娘は出される回数が少なかったという。おばあさんたちの話からは、幾重にも折り重なった差別構造が見え
てくる。
 この人身取引は、9月ごろから数カ月間は続けられた。風呂や洗浄のかいもむなしく、犯された娘たちは次々と
性病に感染していった。時を同じくして、発疹チフスが大流行し、「死」が日常となった。
「性病と発疹チフスが一緒になっちゃったから、7人くらいは亡くなったんです。『(日本に)帰りたい。帰りたい』
って言いながら、向うで死んでいった」
 と、ふみさんは無念の死を遂げた友たちを悼んだ。
 黒川開拓団が日本へ引揚げを果たしたのは、敗戦から1年たった1946年8月以降。複数回にわたって引揚げたが、
600人余りの団員のうち、200人余りが現場や移動途中で命を落とした。
 故郷に戻ると、娘たちが性接待に出された話はタブーとなった。
「もう、みんなが表に出さんかったからね。あの当時はとっても、こんなことは話せんて」
 と、スミさんはしみじみと語る。
 彼女は満蒙開拓青少年義勇軍(青少年を開拓事業に参加させる制度)の隊員だった男性と結婚したが、結婚前に
接待のことを打ち明けると、「そりゃ、つらかったやろう」と言葉をかけてくれた。
 だが、妻が元開拓団員らの集まりに参加するのは嫌がった。軍隊や義勇軍に加わった男たちは、開拓団がどういう
難民生活を送り、どのようにして引揚げてきたかを詳しく知らなかった。
 スミさんには、わが娘にも打ち明けられないと思った出来事がある。
     (中略)
 遺族会の集まりでは接待の話題を持ちだす者はいなかった。ところが少人数になると、彼女たちはときに過去を
揶揄する暴言をぶつけられた。それはこともあろうに、接待係だった団幹部からのものもあった。
「乙女の碑」には光子さんの心情も追記されている。
《命からがら日本に帰って来ればロスケにやられた女とささやかれて、何時(いつ)出るかわからない病気に怯えつつ
こっそり病院に通った》
 追記には、自分の弟の話も書いてある。満州で父母を相次いで亡くした光子さんは、妹と2人の弟を守るために身を
なげうって、日本へ連れて帰ってきた。それなのに、弟は好きになった娘が引揚げ途中で強姦されたと知って、「彼女
のことをいっぺんに嫌いになった」というのだ。
     (中略)
 帰国後、光子さんは弟たちの親代わりとなって働き、27歳のときにシベリア抑留から戻った男性と結婚した。
だが、子どもができなかったことから、妹・綾子さんの次男を養子にもらい、一人息子として大事に育てた。
 3人目の生存者・清子さん(88)は岐阜に戻ってから数年後には、職を求めて東京に移り住んでいた。満州にいた
とき、同じ開拓女塾で学んだふみさんとだけは、たまに連絡を取り合っていたという。満州開拓女塾とは、かつて日本
がめざした「五族協和」の精神などを未婚女性にたたきこむ農業学校である。
 清子さんは、かつての仲間とは異なる想いを抱いていた。
「開拓団にいい思い出、ひとつもありません。言うことを聞く者はいいけど、よそ者扱いは見え見えでやるしね」
     (中略)
《続く》
0025名無しさん@お腹いっぱい。
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2017/01/19(木) 07:12:10.94ID:P9CGw+/g0
>>24 《続き》
《自決のがれて一息つくまもなく、接待に切りかえられ》
 と、10年ほど前に書き留めたという清子さんのノートには記されている。
 そのときの衝撃を彼女はこう言い表した。
「石垣がガタガタガターッって、崩れる感じがした。ああ、女ってこんな哀れなもんだ、こんなことさせられる。
 あー、大和なでしことして育てられたのに。恥ずかしい、恥ずかしい」
 性接待する部屋には仕切りもなかった。娘がずらりと並び、友人が犯されているのも見える。
「だから、隣にいる人とね、『お互いにがんばろう』って言って、こうやって手を握ってね」
 ソ連兵は銃口の向きを変えただけで肌身離さない。恐怖で体が硬直し、頭の中は真っ白になる。やがて、ガチャッと
音がする……。兵士が太いベルトを外すときの金属音だ。帰国後もその音が頭から離れず、似たような音を聞いた
だけで心臓の鼓動が速くなった。
 清子さんは憤りを隠さない。
「男はああいう目をさせておいてねえ、それで助かっておいてね。帰ってきたら、『いいじゃないか、減るもんじゃないし』
って、とんでもない話だよ」
     (中略)
『あゝ陶頼昭 旧黒川開拓団の思い出』。1981年3月に黒川分村遺族会が発行した文集には、性接待に言及した箇所も
見られる。
     (中略)
 別の男性団員は自分たちが生き残ることができたのは、治安を維持してくれたソ連軍と八路軍(※中国共産党軍)の
おかげだと書き記し、《しからばこの人達に対し、交渉に当たってくれた団幹部の方たちだけであの安全が得られた
のであろうか。十余人のうら若き女性の一辺の私利私欲もない、ただただ同胞の安全をねがう赤城の挺身があったから
ではないだろうか(原文ママ)》と続けた。
 ちなみに、元団員らの証言によれば、引揚げ時に大河の松花江を渡るため、現地の中国人に船を頼んだ際にも、
娘たちは体を提供させられたという。
 集団を動かしていた男性らの決断が“娘たちの献身”にすり替えられ、真実は覆い隠されている。その一方で、
女性の寄稿者は被害女性も含め、誰一人としてそのことには触れていない。
 異郷で命を落とした少女らを悼み、「乙女の碑」が建てられたのは1981年11月のことだ。当時の遺族会会長は地元の
会報誌に《うら若い乙女たちの尊い、かつ痛ましい青春の犠牲があった》とだけつづった。
     (中略)
 スミさんたちが何度も名を挙げた団幹部のA氏には、戦後生まれの息子がいる。ごく普通の優しい父親だったと、
息子は回顧する。A氏は満州時代の苦労話はしても、接待のことは何も語らなかったという。
 だが、故郷で暮らす息子はこう語る。
「これまでは遺族会の結束を守ることに必死だったが、最近になってやっと、歴史は後世に残さなければならないと
いう意識に変わってきた」
 時代の流れを肌で感じたのか、残された時間を意識してか、光子さんは亡くなる約3年前、満州での体験を小さな
集会で語った。
 そのときのビデオが残されているが、在りし日の彼女は、「接待」についても赤裸々に語っていた。
 光子さんはあのとき、「嫌だ、嫌だ」と泣いている年下の少女たちを慰める側にまわったと打ち明ける。
「今から思うと恥ずかしいんですけど、本当に自分の命を捨てるか、開拓団の皆さんをお救いするかは、娘たちの
肩にかかっていると自分で思ったんですね。それでなんとしてでも日本へ帰りたいから、命を救いたいからという
ことで。……詳しくは言いませんけど、大変な目に遭ったんです」
 光子さんは生涯、自分がたどらなければならなかった運命に苦しみ続けた。たった4年の満州時代は、晩年になって
からも夢に現れた。鉄道の駅近くにうずくまっている自分、松花江に飛び込む自分……。
「人間としてあってはならないことに巻き込まれてしまった」と、光子さんは自分の歩みを表現した。どうしても納得でき
ないものが心にあると、彼女は切々と語る。
「いったい、満州ってなんだったんだと。日本はなぜ満州なんかをつくって、国民をたくさん送り出して、あんな悲しい
思いをさせたのか。子どもたちは絶対、平和の中で育ててほしい。平和の中で、個人個人が行動するのはいいんです。
 でも、その集団の中で逃げるに逃げられない、どうにもならないってことには、絶対なってはいけないと思うんです」
 光子さんの遺した詩を私に見せたとき、スミさんは言った。
「これがすべてなの。話すより、これ読んでもらったほうがようわかるけども」
 ただ、自分が読むともう泣けて、泣けて、しかたがないと……。
《続く》
0026名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/01/19(木) 07:13:11.08ID:P9CGw+/g0
>>25 《続き》
     (中略)
「乙女の詩」は次の一節で終わる。
《異国に眠る あの娘らの
 思いを胸に この歌を
 口づさみつつ 老いて行く
 諸天よ守れ 幸の日を
 諸天よ守れ 幸の日を》


取材・文・撮影 / 平井美帆



9月20日(火)発売『女性自身』
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「満州国」とは何だったのか
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