明治維新を成したのは結局徳川と英国 [無断転載禁止]©2ch.net
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討幕・新政府樹立はもちろん薩長両藩の主導によるものであるが、
強大な武力を温存しながらあっさり不戦敗を選択したことは、逆説的に言えば、
幕府⇒新政府の“平和的”政権移行の最大の功労者は慶喜であったかもしれない。
また近年 尾張慶勝が再評価されてきている。徳川宗家を見限り、
いち早く東海地方を新政府側にまとめた尾張藩の行動は、本音は単なる保身策だとしても,
維新の「無血革命」に大きく貢献した。
薩長連合もイギリスの支援が無ければ自力で討幕が出来たかどうかも疑問が残る。
イギリスのグレートゲームを踏まえた維新史にも留意して、旧来の薩長史観を見直してみればどうか? >>1
尾張家が早々に徳川宗家を見限ったのは、
8代将軍の吉宗から14代将軍の家茂まで、
紀州家の流れを汲む将軍だったってこともあったんだろ?
幕末期、尾張家から見れば徳川宗家=紀州家で、
本音では自分たちと同じ御三家の一つぐらいに認識だったに違いない。 尾張家の家訓に勤王精神がある。これは藩祖義直の遺命によるもので、代々の尾張家当主に受け継がれてきた。
だが、この尾張家の勤王も額面通りに受け取れない、という説もある。少し珍説ぽいが、
「尾張家の勤王は家康の深慮遠謀」という見方である。外様大名が天皇を担いで討幕軍を起こした時は、
尾張家は官軍側に付く、という戦略である。官軍と幕府、どっちが勝っても取りあえず「徳川」の家名は残る。
少し「出来過ぎた話」だが、徳川慶勝の行動はまさに「家康の計略」どおりだった。
それと尾張家では「御三家とは将軍家・尾張家・紀伊家を指す」という意識があったことが文書にも残っている。
これも義直の時からのもので江戸初期からの将軍家に対する同格意識の証左である。 英国の猿って東インド会社の恩を仇で返した恥知らずだろ? 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ 維新の三傑は「グラバー、パークス、アーネスト・サトウ」とか言ってたスレがあったな。 アーネスト・サトウと違ってパークスは幕府寄りだったろ パークスは慶喜の助命で西郷に圧力かけてたが、別に幕府寄りってわけではないだろう。
白旗掲げている慶喜の首を獲るのは無理筋であるし、イギリス本国からの別の思惑があったと思われる。
折角 無血革命に近い形で幕府を降参させたのに、やりすぎると反対勢力が激昂して内戦が長引く。
イギリスは日本が長期的内戦になるのを嫌がったのだろう。 明治政府は江戸幕府が敷いた路線を踏襲しただけって気がしないわけではない。
だが、幕府のままではあそこまで急進的な改革が出来なかったのも事実。 慶喜は回想では幕府の滅亡は不可避と見て、 鳥羽伏見の敗戦後の混乱回避のため敢えて兵士を置き去りに東帰したとうそぶいている。
(本当は錦旗を見て戦意喪失だけ。)それはともかく、後年 明治政府から「維新の功労者」にカウントしてもらったことは
慶喜にとっては面子も立ち、まんざらではなかったろう。明治政府側の政治的意図・思惑が一致した。
近年小栗上野介が「近代化の父」みたいに再評価されてきているが、明治政府に出仕した旧幕臣たちの業績にも焦点をあてて
明治前期を再検証することは大きな意義がある。 >小栗上野介が「近代化の父」みたいに再評価
大隈重信だっけ? 最初にこれ言ったヒト。 まあ、過大評価されまくりの坂本龍馬よりは
マシだわね。 >>1
廃藩置県は山県有朋ら若手が木戸や西郷を動かして断行した「上からのクーデター」だったが、
実はそれ以前より西日本の知藩事(旧藩主)たちから廃藩の建白書が多く寄せられていた。
その中に徳川慶勝(名古屋藩)、池田慶徳(鳥取藩。水戸斉昭五男 徳川慶喜の実兄)の名が見える。
また、廃藩置県は明治初年の和歌山藩の急進的な藩政改革をモデルにしたとも言われ、
明治政府最大の改革 廃藩置県に“徳川色”が垣間見えるのが興味深い。 明治維新の功労者は小笠原長行
ビルマの戦いの功労者は牟田口廉也 >>14
何で小笠原なんだよ? 長州征伐で惨敗したからか? 江戸時代には仏と神が共存していた
それが、明治には「神仏分離令」により、沢山のお寺・仏像が破壊され、修験道も廃止させた
新設した神社を古代からあると偽った
正月には国民を神社に「初詣」をさせた
天皇が伊勢神宮に参拝するようになったのも明治から
英国傀儡イカサマ明治政府は何故そんなことをしたでしょうか
基本的に、
仏教、お寺、餃子は中国大陸系であり
神道、神社、天皇は朝鮮半島系である
徳川幕府が中国大陸系であり
不正な英国傀儡明治政府を設立した長州の下級武士が大内氏で百済王族だった
百済王族が民主国家を作るはずがなく、南朝=百済朝廷による支配が始まる
ただ、英国が銀行を支配する都合上、民主国家を装ってある
どうりで議会も司法も、まともに機能していないと思ったろお前らバカだから >>13
戊辰戦争では薩長に付き合った諸藩も別に心底薩長に平伏したわけではない。あくまでも薩長が担いだ朝廷に従ったまで。
であるから当初の明治政府は薩長を中心とする大名連合政権。 同時代の北ドイツ連邦みたいなもの。
これが廃藩置県のクーデターによって武力が政府に一元化されて中央集権国家になった。
慶喜は「第三次長州征伐」を考えていたようだが、仮にそれが成功して長州藩を無力化できたとしても、
その後 廃藩置県まで進むのは無理だったろう。 第二次大戦の敗戦・米軍の占領で日本はダメになったとよく言われるが、
そもそも明治維新が間違いだった。
徳川慶喜による緩やかな近代化が最も理想的だった。明治維新が無ければ日本は列強の植民地になったという者もいるが、
それは有り得なかっただろう。 資源に乏しく戦略的な価値もあまりない日本を占領するのは
列強にとってコストが高くつき過ぎる。 >>13あたり、かなりの低能だよな
ああいうバカな人間にはなりたくないもんだ
英国が薩長を支援した理由は何だ
これ知らなきゃ日本人やめた方がいい
というか邪魔だから死ね >英国が薩長を支援した理由は何だ
教えてくれよID:jdyNMkg50
ぜひご教授願いたい 島津と毛利が手を組めば、徳川を倒せることくらいは当時の人であれば誰でもわかっていたことらしい。
徳川の武力って、現代は過大評価されてると思うな。 島津と毛利だけでは頭数が足りないよ。鳥羽伏見はたまたま勝っただけ。(幕府の油断・譜代の裏切り)
王政復古のクーデターの時点で徳川が薩長を叩いておけば維新は無かったね。
まあ、いずれも慶喜の戦略ミスが原因だから、そういう意味では徳川の敗北は不可避だったとは言える。 王政復古のクーデター時点で軍事的にも打つ手がなかったから大阪城に退いたんだが、それはわかっているかな? >>26
慶喜が何故大坂城に退いた理由が全然わかってないね。
軍事的に打つ手が無かったからではないよ。 やい直し 王政復古の時点で準備万端の薩長とやりあっても負けてるよ 薩長の主力が揃ったのは王政復古のクーデター後
鳥羽伏見の戦いの勝利は装備の差もあるが地形の要因が大きい。
もう一度やり直し 幕府も王政復古の後で諸藩の兵隊を動員してるけどな。
鳥羽伏見での装備なら、むしろ幕府の方が良かったよ。
はい、やり直し はいはい、頭の弱い人のために懇切丁寧にやり直して説明してあげますよw
>26・28
都合の悪い>>27に答えられなかったのは許してあげるよ。知らないものは答えられないもんね。
>王政復古のクーデター時点で軍事的にも打つ手がなかったから大阪城に退いたんだが
間違ってますよ >>27の答えは、「徳川慶勝ら 公議政体派の意見に従ったため」でしたw
まず慶応三年12月9日時点の在京兵力は旧幕府・会津・桑名>>>薩摩 で兵力数では徳川が圧倒していた。
で、一気にケリつけなかったかと言うと、公議政体派は両派の武力衝突を望まず、政治工作でもって慶喜の新政府入りを目指し慶喜もひとまずその案に乗ることにした。
で、この工作中に不測の事態が起きないようにするために二条城の兵力を大坂城へ退却させた。
尾張慶勝らの工作によって岩倉が折れて12月末 慶喜の新政府入り(議定就任)が内定したのでありました。
はい次 >>30
>鳥羽伏見での装備なら、むしろ幕府の方が良かったよ。
はいはーい。最近目にする「実は幕府軍装備良かった説」ね。知ってるよ。
これは徳川方の内のいわゆる「幕府陸軍」の装備のことを指して言ってるんだが、よく言われているのが
伝習隊が新式の元込め式の銃を持っていたことに着目している。しかしこれ数が少ないんだよね。
幕府陸軍兵の多くはやっぱり旧式のゲベー銃だったんだね。会津桑名その他の兵装と来たら(ry
薩長軍は同じ先込め式でもゲべーより射的距離や殺傷力で勝るミニエー銃を大量に保有していたんだね。
大山巌(だったかな)は後に「鳥羽伏見の戦いの勝敗を決めたのは火力の差」とかナントカ述懐している。
まあ火力以外に陣形と現場指揮官の差の方が致命的なんだけどね。
というわけで>>26>>28>>30の無知を訂正してみました。
おしまい 結局、現場指揮官も戦略的地形眼も薩長側がすべて優っていたから、数で圧倒的に優位な幕軍に勝てたというわけですね?
よくわかりました。 鳥羽伏見に展開していた薩長の兵力は実際のとこ1500ほど。残りは京を守備していた。
王政復古時に薩摩サイドは3000近くいたのだから、在京の幕府・会津・桑名程度じゃ勝てんだろ。 >>33
そうです。鳥羽伏見の戦いはね。 先に書いた現場指揮官の差とは 鳥羽伏見の幕府軍指揮官は戦争をやるためではなく
示威行為が目的の上洛でしたから「本気度」に少し問題がありました。それとバカな人はまたまた都合よく「陣形」のクダリを飛ばしてくれていますが
幕府軍は街道を長く縦に進む陣形を取っており、ここを先頭から薩長軍に銃撃されて崩れ、これが後続部隊にまでおよび隊列ががたがたになった。
このがたがたになった理由は指揮官間の連絡ミスや指揮能力不足が挙げられます。これが京都市街での戦闘だったら別の話です。頭が弱い人はすぐ一緒くたにしますので
要注意です。
これが王政復古のクーデター時だったら、徳川が勝っていたでしょう。薩長はまだ装備が整っていませんでしたからね。
薩長の兵力・装備が整ったのは鳥羽伏見の直前でした。
>よくわかりました。
26氏の無知が解っていただけたらそれで結構です。 指揮能力なし、士気も低そうだから、王政復古時ならなおさら市街戦でも薩摩軍にあっさり負けてるだろ 【スクープ!】北朝鮮「核開発」協力疑惑の研究者
京大[原子炉実験所]韓国籍准教授は
「拉致実行犯」の、韓国籍在日娘と結婚していた
http://www.shinchosha.co.jp/news/article/379/
生活保護制度を悪用して
裕福な生活を送るサムスンファンニートが急増…
年間1200億円に達し、うち6割強が朝鮮半島出身者
http://myjitsu.jp/archives/17506 まあ、 イギリス フランス ドイツが総合的には一流国家といえる 明治維新が薩長だけの力では結局完結できずに、徳川一族の中では異端者であった慶喜や慶勝のアシストがあって成功した事は、
それでそれで歴史の一側面として事実であったろう。しかしなから、これが無ければ明治維新が起こらなかったわけでもあるまい。
その場合はもちろん史実とは違う過程を経ることになるが、方向性として史実とそう違うことも無かったろう。
むしろ急進的な脱徳川色を帯びた政策を取っただろう。
また、戊辰戦争が史実より大規模な内戦となれば薩長を支援する英国の影響力が増したかもしれず、明治政府の英国依存が強まったろう。
戊辰戦争後の日英関係は現在の米・イスラエル関係に似たような庇護者・被庇護者の関係になったろう。
こちらの方は、慶喜がさっさと薩長に降伏したおかげで脱英国が図れたと言える。 いや、起こらなかったと思うわ
斉昭と斉彬の仲が良くないと幕府批判の機運が盛り上がってない もし、徳川家茂が長命で独裁志向の将軍だったら、反主流派の慶喜は薩摩とつるんで、
雄藩連合政権樹立に動いたかもしれない。 ・・・・・というのは俺の妄想なんだが、
その可能性はありそうだ。
共産党内の権力闘争でやぶれたエリツィンが外部から共産党を潰して自らの政権をうち立てたような。 世間では坂本龍馬が人気だけど、一介の素浪人が数十人の男を束ねて武器の売買をするなんて
一体その資金はどこから出てんのかと考えると謎は残る
薩摩にとって坂本は都合のいい駒であり、英国商人にとっても御しやすい相手だ
薩摩と英国にエージェントに取り立てられたのが坂本龍馬、ということだろう
龍馬は明治の中ごろまで無名の存在だった >>45
近江屋てあれ、メインで殺したかったのは中岡ていう説もあるんでしょ? >>1
>幕府⇒新政府の“平和的”政権移行の最大の功労者は慶喜であったかもしれない。
それは間違いない
慶喜の大局的な判断があってこそ 大局的判断ねえ・・・・・
単に朝敵のレッテル貼られたのがこたえたんだろう。
実は打たれ弱いノブりん 朝敵とされて堪えた、錦の御旗で戦意喪失したと巷で喧伝されるけど
作家が面白おかしく解釈してるだけだよね 非協力的な幕府の連中の尻拭いをさせられるより、そっちの方が慶喜は幸せだっただろうな 鳥羽伏見の戦いが全てだったんだよ。
慶喜は武力討薩に腹をくくることが出来なかった。
頼朝以来の全ての天下人は己の人生全てを賭けてこの一戦に臨み、勝利して天下を得る。
慶喜はこういった覚悟と決断が出来ない人だった。
所詮はお坊ちゃん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています