西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) そしてこの程度の低脳な返ししかできんチンカスしかいなくなった… そもそも>>1は重野安繹の西郷南洲逸話を読んだ事あるんかいな
見りゃわかるが奄美時代のまだ血気盛んで若い西郷と親しくしてたが故の、辛辣で気安さも込めた人間臭い西郷を語ってるようにしか読めんのだが
ちなみに西郷南洲逸話にゃ西郷の義侠心を評価する内容や、それで重野安繹自身が命を救われたとも語ってるんだけどね
まぁ抹殺博士の異名を持つ重野安繹なんで、あちこちに微毒をまぶしてる如き西郷評は流石と言うか、いかにも抹殺博士らしいって感じだね〜 >>102
この程度てw
そもそもお前がその程度w そもそもチンカスがどうとか言ってる程度w
中身ゼロw
はい論破w >>104
読んでないだろ
不正をしている役人やお由羅騒動に関わった斉興の側近を辞めさせろと西郷が斉彬公に何度も訴えてたしなめられて
斉彬公は度量が大きい、それに比べると自分は度量が小さくて敵を作る性質があると西郷が反省して重野に言ったなんて
エピソードは大河ドラマにも出て来る定番中の定番なのに、イメージが違うってなあ >>107
大河ドラマに重野が出てきたことあるの?? >>107
西郷南洲逸話って重野安繹が西郷を酷評してるって捉えてる人が多いみたいだけど、内容を見るととてもそうは思えないんだよねぇ
批難した後にはサッとフォローいれてる感じ
なにせ若い頃の西郷ってそれなりに優秀だけど、反面頑固で反骨精神剥き出しの若造だったろうからなぁ
自分を取り立てて可愛がってくれた島津斉彬とマジ口論して、しばらく双方口も聞かなかったなんて余話もあるくらいで(西郷は御庭番的ポジションなのに殿様とケンカ!)
重野安繹が直接面識を持ってたのは元気坊な頃の西郷で、重野安繹自身も同じく反骨の人だし親近感あったんじゃないかなぁ
歳とって角がとれて思想家然としてる晩年の西郷や、それを聖人君子の如く評価して神格化してる西郷信者が面白くなかったんだろな
「お前ら西郷を大人物だと信じてるようだが、あいつ若い頃は頑固で意外と厄介な奴だったんだぜ」なんてニヤニヤしながら語ってる重野安繹を想像しちまうわ >>109
重野に限らず若いころの西郷を知ってる人の話はそんな感じだよね
逆に重野って年取ってからは西郷の近くで仕事してないんで、あんまり詳しく知らないんじゃないかなあ
このスレで西郷南洲逸話について、重野が西郷をdisってるみたいに決めつけてる人は単に読んでないからじゃない?
まあ、勝田孫弥の本が出た翌年の講演で、聴衆はみんな西郷について詳しいという前提で話してる上に
何ページも脱線した後でいきなり前の話に戻ったりするから、わかりにくいと言えばわかりにくいけど >>110
大河ドラマに重野が出てきたことあるの??
それとも嘘ついたん?? 西郷の若い頃の評判は原口虎雄氏の言う通り酷評が多いですね
海江田信義 「奢り高ぶっているわけではないのだが・・・」
重野安繹 「偏狭である」
市来四郎 「君主の風采無し」 島津斉彬が西郷を御庭方に取り立てようとした際も、
斉彬の側近たちは西郷の人間としての評判が悪すぎるとしてみな反対した
「城下では、西郷のことを粗暴で郡方での人間関係も良くないと誹謗する者が多いと聞いた。
しかし役に立つ者は必ず俗人に誹謗されるものである。」
と斉彬は側近たちに言い、西郷を抜擢したそうです(鹿児島県史料、斉彬公史料) いかにも、という美談ですが、西郷信者ともいえる斉彬が西郷の酷評されぶりを
認めているぐらいですから、西郷を白眼視する者が多かったのは事実なんでしょう
若い頃から農民の味方で、同僚からも慕われていたかのような「西郷どん」イメージは完全にデタラメと言えます
まあそれは後世の人がでっち上げただけで、西郷には責任はありませんが 西郷の人物像は重野安繹の以下の西郷評がもっとも正確なところなんじゃないでしょうか
“士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物”
などという分析は、西郷をよく見てるなと思います
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
「西郷の人となりは、今申す通り度量は狭いが、人と艱苦を共にするというところが持前で、
古人の謂ふ士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起(軍事思想家)などが
そうであったという。
士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物で、
自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、
いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。
何でも下の者を己の手足のように使ひ廻すのが、一生の手際(自分のおはこ?)と思って居るから、
自分も努めてする。
幕府を倒すのもそれから起って居る。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。
しかしながら西南の役になっては、それが自分の身を亡ぼす元になって来た。
西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれ程の事は出来はしないであったろうが、
薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。
西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があった。」 「古の英雄とは皆そうしたものであろう」とか重野がほめてる語句をことごとく削りまくってるけど
ネット情報の孫引きなんかねww チンカスというキーワードにこれほど過剰に反応するチンカスがひとりいるな
チンカスあぶり出しにまんまとひっかかる低脳チンカス決定 チンカスというキーワードにこれほど使用するチンカスがひとりいるなw
チンカスあぶり出しにまんまとひっかかる低脳チンカス決定w コピペですけど、なんで西郷が嫌われるのかが何となく分かるエピソードを一つ紹介
西郷が久光に、上洛、江戸出府の意見を求められて、
「時期尚早ですし、地ゴロ(田舎者)のあなたが上京しても何もできやしません」という発言が有名だけど。
「西郷隆盛伝説の虚実」安藤優一郎著によれば、この時西郷は久光のみならず、
久光の側近たちにも、偉そうに
「貴様などは御供して上京してどうするつもりだ、
ただ一人、二人の浪士(越後の本間精一郎など)が我が藩に来て、
御上京が宜しいと説いたといっても、それは書生論である。
浮浪輩の書生論、畳の上の水練で、世の中の事が出来るものか、
(中略)貴様たち、君側に居て御止め申しはせず、何とした短慮ぞ」
と叱りつけ、久光側近たちの面目を潰したという。
重野安繹 『西郷南洲逸話』
これで西郷は、久光と側近たちの不興を買い、再び島に流される遠因になった。
ちなみに久光と側近たちはその後、実質西郷抜きで上京・江戸出府を成功させ、
彼らの展望が間違っていなかったこと、また西郷が久光を過小評価していたことを証明して見せた。 なるほどねえ
アンチ西郷によくある都合のわるい語句を削除して反対の意味にするってテクニックに騙されてるわけか
全体の文章を読めば、けなしていないことがすぐわかるのに >>120
まぁ島津久光を過小評価する失敗は確かだけどねぇ
しかし1回目の上京では西郷の危惧した通り、久光上京に刺激された精忠組の突出グループが行動を起こそうとし、それを粛清した寺田屋事件が発生
江戸行きは武力を背景にした圧力で幕府へのごり押しに成功したものの、久光自身が単なる藩主の父と言う無冠の身で交渉の表舞台に出れずに終わる
帰路では生麦事件を起し薩英戦争勃発
2度目の上京も尊皇志士の暴走を懸念してわずか5日で帰鹿
3度目は参預会議を実現させ、雄藩合議による幕政改革と言う斉彬から受け継いだ悲願の第一歩を踏み出すが、すでに時期を逸していると言う西郷の警告通りに参預会議は空中分解の結末となる
これが結果的に倒幕へと薩摩藩の舵を切らせ、明治維新までの動きを急加速させることにはなるのだけどね
久光の予想だにしない強力なリーダーシップが政局を強引に前進させたのは事実だけど、西郷が危惧した心配事がほぼ当たっていたとも言えるのだわ >>121
オウム返しはお前のお得意のだろコロコロ馬鹿w つかさ、西郷は久光に失言したけどすぐ反省して謝ったので二人の仲は悪くない
その後にこじれたのはすべて中山が悪いんだってのは重野がもっとも力を入れて語った部分でさ
アンチ君のレス内容はそれを読んでないのがバレバレなんだわ >>123
それらって西郷隆盛とはなんも関係無い、結果論じゃん >>128
オウム返しはお前のお得意のだろコロコロ妄想マンw 鹿児島県は在日人数最低で、共産党員数も最低レベルだったかと
そのわりにパチンコ店舗数は日本一多いのが鹿児島県
県外の企業が鹿児島に進出するには、鹿児島地場の企業と合弁という形でないと
進出できなかった(単独や在日だと県内官民からの様々な妨害にあう)と聞いた
セブンイレブンもそのような鹿児島の排斥性を嫌い、長い間進出しなかった
ヤクザの山口組も鹿児島県には直系団体は出せていません(三次団体以下が天文館などにはいるが)
広島や沖縄は地元ヤクザが凶暴すぎて山口組も進出できないようですが
鹿児島の場合はよそ者には絶対仕事を回さない風潮があるそうで
山口組も進出しても意味が無いから進出しないそうだ
旧藩以来、今にいたるまで中央からの介入を嫌い、独自の王国を続けているのが鹿児島です 旨いもの食ってデブになろうが東京に屋敷持って召し使い20人いようが土地買いまくってようが
維新の功労者に相応しい報酬を倉に寝かせるよりマシなんだからどこが問題かわからん
合わない奴を冷遇したり、上下関係や嫁妾の扱いが厳しいのも
時代と土地柄を考えれば西郷の性格の良し悪しとは関係ない
問題は人間の多面的な面を何故か隠して政治手腕や数学の才能の割に性格が裸の大将並の聖人池◯にされてる点
特に西郷のこの辺のタブー視は却って西郷の政治力を不利にするからよくない
目に魅力ない、男尊女卑だし保守だし自己節制できない好き嫌い別れる男が
如何にして薩摩のボスになったかを考えた方が面白いと思うがね 別に薩摩のボスではないんだけどね
仕事の担当が対外交渉や若い連中のとりまとめだったのでもっとも顔が売れてたのと
別の人物Aを持ち上げたい連中にとって、西郷ひとりが薩摩を動かしたことにしておくと
西郷と話したら少しほめられただけの話を、時代を動かしたのはAだと吹聴することが可能になる >>135
単純に志士として最古参だったからでしょ
長州の桂も同じ理由だし ここでイメージがーと語ってる人のイメージってすごい偏ってると思う
なぜか知らんが西南戦争の薩軍側の連中の言い分しか耳に入ってない感じ
ふつう人格形成って言ったら幼少期から前半生だろう
重野も秩父崩れや順聖院崩れが西郷の性格にどう影響したかを語ってるんだから素直に読めばいいのに んでも写真等な対応を見ると意固地っぽいのは確かに思うな >>140
西郷の写真嫌いに関しちゃ、日本で初めての写真が西郷が崇拝する島津斉彬によるものだってのも関係あるかもね
西郷的には「写真ってのは斉彬公くらいの偉い人物じゃなきゃ気安く撮るもんじゃない、まして藩士ごときが写真なんぞ」ってなもんかもなぁ
大久保の髭写真を酷評した手紙は、まぁ親しいからこそズケズケと書いたろうから、また西郷の写真嫌いとは別の話だけどね 集成館事業の一環として実験的に撮った写真が
なんで身分が高い人じゃないと許されないなんて話になるんだ?
ここ小説スレじゃないぞ 斉彬のことを尊敬しているはずなのに、やる事は斉彬の意とは正反対だったしな >>135
司馬遼太郎の「坂の上の雲」にそういうの書いてあったな。
薩摩の人は偉くなるほど自分を茫洋とさせる、みたいな。
そら小説に過ぎないんだけど、そんな俺カッコいい、そんなボスカッコいい的な風潮があるんじゃない? 「大きく打てば大きく響く、小さく打てば小さく響く(龍馬)」
「懐深くて人望厚い爺さんだが長期的に物事見れなくて困る(木戸)」
本人が持て余すレベルの天性のカリスマ性があるが、本人の思想や政策方針は場当たり的で人に左右されやすいって事か
あと木戸(多分)が度重なる長州攻めも決して悪気があった事ではなく
話し合いの末お互いの思いは氷解したって持ち上げてたけど
江戸城攻め提案をあっさり翻した事も含め、その辺の気軽さは悪気があるよりたちわるくないか なるほどねー
ここで断片的な知識+山ほどの妄想で西郷sageしてたのは木戸オタでしたか 江戸城攻め中止をひとりで決められるわけねーじゃん
勝との面談は儀式だろ >>145
西郷本人が自分自身の事を新政府の要人となってる事実を認めたがらなくて、単なるピンチヒッターとしか振る舞ってなかったって事だろね
だから自分の役目が終わったらさっさと鹿児島に引っ込みたがる
西郷の人格とか能力とか以前に、西郷の帰郷癖と言うかすぐに引っ込みたがる思考が、木戸とか大久保にとっては一番厄介だったと思うよ >>148
鹿児島の改革してたのが西郷w
そんなのも知らんのか馬鹿w 最近は木戸オタもレベル下がってるなあ
ここで他の人物の重箱の隅つついてねちっこくケチをつける木戸を再現して
ファンも本人も痛いなあ…とイメージ下げてどうするよ いちいちレスするたんびにID変えてくるコロコロ妄想マンのカッコ悪さwwwwwwww Q : 維新後、西郷さんは中央政府から遠ざかっていた時期に鹿児島の改革をしていたというのは本当ですか?
A : はい
上野戦争後に政府軍トップの地位を大村益次郎に譲り、鹿児島に帰郷した西郷は
薩摩藩参政(当時は廃藩置県前で藩だった)として藩政改革に取り組みました
西郷改革の概観を一言でいうと「城下士の城下士による城下士のための薩摩」でした
≪ 薩摩藩の家格と持ち高の上限 ≫
享保13年 明治 2年
一門 1万石以上 1500石
一所持 7000石 ↓
一所持格 5000石 200石
寄合 3000石 ↓
寄合並 2000石 ↓
小番 500石 ↓
新番 300石 ↓
小姓組 200石 ↓
郷士 100石 50石
上の表の石高はあくまで上限である
この改革で損をしないのは西郷が出た小姓組(城下士)だけである
西郷ととりまき達はほとんど小姓組の出である
この表では底辺家格のようにも見えるが、
石高の上限が200石というのはかなり良いものだ(長州藩上級藩士の木戸孝允は150石だった)
上級家格が減らされるのは分かる
戊辰戦争の功が大きかった城下士を優遇するというのも分かる
しかし郷士もが、もともと少ないうえにさらに半減とはどういうことだろう
ようは上と下を減らして浮いた分を、城下士で分け合うという“論功行賞”がこの改革の実態であった
結果、鹿児島城下士階級のあいだでの西郷隆盛の名声はますます高まりました >いちいちレスするたんびにID変えてくるコロコロ妄想マンのカッコ悪さwwwwwwww >>161
悔しいのうwwwwコロコロwwwwwwww ダメだこのスレ
生きる価値もない低学歴低所得のチンカスしかいない >>164
そもそもチンカスがどうとか言ってる程度w
中身ゼロw
はい論破w 自分がチンカスだということだけは理解してるんだなこのチンカスはw チンカスがどうとか言ってるコロコロ妄想マンw
中身ゼロw
はい論破w 福沢諭吉は維新三傑なんて言ってるが西郷が突出して衆望を集めていた
西郷の留守政府は民が不平を言わず安定してたと評価してたな 福沢諭吉の西郷びいきは、勝海舟の西郷びいきと同様、
政府から距離を置いた(置かれた)自分の反政府心情を西郷に仮託させて語ってる面があるからなあ また福沢は適塾時代に大村益次郎と不仲だったそうで、秀才のくせに秀才を嫌う性質があって
西郷のような人情派みたいな人間が好みではあったんだろう もっとも福沢は西郷と会ったことは無いはずなので、福沢の頭の中にいる観念上の西郷に共感を持っていたにすぎないと思うが その点、西郷と身近で接していたことがある重野安繹の西郷分析のほうが本当なんではないだろうか 重野基本的には西郷を支持している。アンチ西郷は重野の一部の文脈を抜き出し、印象操作している。 支持してるとか支持してないとかほんとうにキショイ
信者ならではの思考回路
重野は是々非々で西郷の性格を分析してるだけ 読んでいるから必ずしも「正確に」誰しもが分析・理解出来るとは限らないのだなw 読んでもわかってなかったのか…
まあ、秩父崩れって何?島津某って何?の人なら理解できないかもね 秩父崩れの残党に育てられたのが西郷の性格を決定づけた、という重野の見解か
べつに関係無いんじゃない?
精忠組自体が秩父崩れで粛清された人たちの流れを汲む派閥であり
西郷の性格関係無く精忠組は敵対派閥や島津久宝を目の敵にしていたと思う 西郷がそういう派閥の人間になったのは秩父崩れ残党の影響が大ではあったろうが、
その後に徳川慶喜を敵対視したり、政府の大隈重信や井上馨を口撃したり、
はては弟従道とは口もきかぬ仲になり、大久保利通とは殺し合うまでになったのは
西郷の素の「敵をつくる」性格であったと思われる 重野の見解は関係ないとか本当だとか
自分に都合よく話を捻じ曲げすぎwwwww まあいつもの明治後のことしか知らない人だということは分かった
そりゃ理解できないよね 重野が書いてることが全部正解だと思うほうが狂ってる
重野自身も書いてるが、西郷についての逸話は人によって言うことが違うし、
重野自身が書いてることもそのようなものとして読むべきであると
秩父崩れの残党と西郷の関係についての重野の見解はやや筆足らずで、真意は>>187のようなものであったと思うがな ほんと日本語読解力がないやつだなwwww
>精忠組自体が秩父崩れで粛清された人たちの流れを汲む派閥であり
とか、重野が「敵をつくる」とは具体的にどういうことかを延々と説明している部分を読んで思ったのなら
日本語が理解ができない人なのか、読んだと嘘をついてるかどっちかだな
今までのこいつの反応から見て、たぶん後者かw
読んでないなら相手してもつまらんから、もういいや >>191
君こそ自分の言いたいこと整理してから言ったほうがいいんじゃない?
まあ、分が悪いから逃げます、ということは行間から伝わってきたがな スレ主は重野は正しいと言ってみたり、間違ってると言ってみたり、、
以前から東大教授の重野は信頼出来ると言ってたよな。
どうせ得意の逃げ道、「是々非々」とか言うんだろ。卑怯者w 卑怯者ねえ・・・
重野自身がそう言ってるんだけどね、重野自身が書いたものも是々非々で読むべきであると
たとえば重野は西郷と月照の入水のことをけっこう詳しく書いているんだが、
西郷と月照は心中を約束していたわけではないが、
言葉に出さずとも月照も以心伝心で承知しているはずなので西郷は月照を抱いて海に飛び降りた
と西郷の行動を正当化するような都合のよいことを書いている さらに、何分とは明確には書いてはないが救助までに相当の時間がかかったにもかかわらず月照だけが死亡し、
西郷は何の後遺症も伴わずその後回復したと
海の底で発見された時、西郷と月照は抱き合っていたとも書いているんだが、
そんなことがありえようか? 抱き合ってるとか
そして同じ条件で一方は死に、一方は長時間海の底に沈んでいたにもかかわらず後遺症も無く回復 明らかにおかしいのだが、重野もこの逸話はおかしいと思ったのか、
このことは「西郷からの直話」であると念を押すように書き記している
これは西郷本人が自分にそう説明したのだから事実である
ということを言いたいのではなく、この場合はたぶん、西郷がそのように私に説明したことであり
私はべつに証拠を集めて事実を確認したわけではない
ということなのだ!
むろん、西郷が月照殺害を正当化するために心中を主張したのではないか?などとは書いていない
このへんのニュアンスが分からない西郷信者はこの章を読むと、ああやはり西郷と月照は以心伝心で心中を試みたのだな、となる 重野とは関係無いが、月照殺害のことを西郷が自分で語ったとされる記録がもう一つある
コピペですがどうぞ
昭和12年鹿児島県教育会発行の「南洲翁逸話」の冒頭に、
伊集院の郷士本田元右衛門と西郷の対話として、
「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。
月照が船のトモに出て小便をしている所を後ろから抱きこんで飛び込んだら、
月照のみは死し、自分が生き残ったのは至極遺憾なわけである」との記述がある。
戦前の日置郡伊集院小学校の調査報告による、とあるから信頼性は高い。
ようするに心中ではなく、死ぬ気の無い月照が小便しているところを
背後から西郷が抱きついて海中に引きずり込んだのだ、
と西郷自身がポロっと漏らしているのです。
殺害したとなると世間の聞こえが悪いので、心中であったかのように偽装したのでしょうか?
事件後、月照の辞世の句とされる書き付けが出てきたと言われています。
”月照”と署名が入っていたそうなんですが、月照の生前の署名はほとんど”忍向”という雅号であり、
果たして月照本人が書いたものか非常に怪しい。
しかもこの書き付け、西郷の懐中から出てきたそうです。
自殺に見せかけるために偽の辞世句を計画的に
準備していたとしたら、なんとも後味の悪い話しですが、
この時の西郷は30歳になったばかりの若者。薩摩藩での立場も強いものではなく、
藩命には逆らえなかったのかもしれません。 上の「自分が生き残ったのは至極遺憾なわけである」と西郷が悔いていたという同様の記述が
重野の「西郷南洲逸話」にも出てくる
複数の史料で確認できるはおそらく史実であろう
月照に死ぬ気が無かったのも
重野の見解ではこの時の、月照に気の毒なことをし、自分だけが生き長らえたという体験が
その後の西郷に「始終死を急ぐ心持ち」を抱かせたのではないかと分析しているが・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています