西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) >>32
ワロタwwww
やはりスレ主wwww
お前のダブル回線は前スレでバレたじゃんwwwwwwww コロコロダブル回線マンwwwwwwww
暇人妄想マンwwwwwwwwwwww
スレ主の自演が面白いwwwwwwww >PCとスマホ
ああ、それがあんたの過去の手口ね。 自白乙。
西郷隆盛を過大評価だと思っている人間は世の中ではスレ主一人と妄想しているわけかw
スレ主が過去に自演したかどうかは知らんけど(スレ主に自演癖があるのかどうか過去スレ全部読んでないので知らん)
俺はスレ主や29氏とは別人だし、あんたの妄想に付き合う気もない。
>>1
もし、あんたに自演癖あるならやめた方がいいよ。 白けるだけだから。 >>36
ワロタwwwwwwww
俺のもうひとつの回線てどれですか?wwww 西郷隆盛は日記の類を書かなかったようで残っていない
西郷の行動の真意などが謎だったり盛られたりしている理由の一つはそれである
後世の者たちが勝手に想像を膨らませたり、そこに深謀遠慮があるかのように錯覚するのである
当時のインテリ層は日記を書くのが常識化していたようで、
木戸孝允も大久保利通も相当量の日記を残している
ちなみに大隈重信は日記を残していない
記憶力が抜群だったため、文書で記録を残す必要性が無かったそうだ 最近になって近代史に興味が出てきたけど目からうろこが多すぎる >>40
新史料が色々出てきたことと、インターネットの普及で様々な視点からモノを言える時代になったからね。
大手のマスメディアが情報や知見を独占し都合のいいものだけを世に出す、 文化人・言論人といった連中も同じで、
ネット時代以前は情報・知識は「流す側」と「受け取る側」に分化していた。
で、現在は従来の「受け取る側」が情報発信しだした。 このスレ関連で言えば、
既存の固定概念を死守したい側と異議申し立てしたい側が論争しているわけだ。 >>41
その出てきた新史料てなんだよw
昔からある史料だろw 実際は逆だったりするけどね
叩いている奴は昔からある怪しい情報のコピペをくり返すだけ
そこは新情報が出ていてこれこれだから違うぞと言うとレッテルを貼る 西郷は幕府を破壊しただけで
新しい政権構想は無かったでしょ ネットが普及する前も、美辞麗句を使っただけの西郷論を疑う人たちはいたわけですが
多数派の盲信や黙殺の前では、その声はかき消されてしまっていたのでしょう
このスレでお馴染みの重野安繹や市来四郎の書き残したもの、城川市二の証言などなど
比較的近年では歴史学の原口虎雄氏などがそうでしょうか
原口氏は鹿児島出身でありながら是々非々で西郷を論じてましたね
「非々」の部分はほぼスルーされていたようですが・・・ 以下は原口虎雄氏の文章の引用
これまで鹿児島に赴任する人々の間では、「南洲と斉彬の悪口は言うな」という、鹿児島社
会の風潮を恐れるタブーがあったそうであるが、顧みるにこの私も尖鋭な西郷絶対論者の一人
であったから、恥ずかしい。
庄内藩士書き留むるところの「南洲先生遺訓」や西郷の詩文、親しみ深い「上野の西郷さん銅像」
や「キヨソネの西郷肖像」などが、わたしと西郷を結びつけてくれた。
私の母校の田上小学校の門標は西郷の直筆で、この学校を出、県立一中や第七高等学校への
通行の途には武の西郷屋敷があった。
七高では敬天会に入り南洲寺にもよく参禅したが、なかんずく西郷糸子夫人の生家、岩山先生
の御宅には朝夕にお世話になり、立派な温かい家風を慕った。
幼時から青年期まで武の西郷屋敷附近で育った私にとっては、西郷は神様であった。
西郷の一言一動が価値の尺度であった。
少しでも西郷を批判する者がいたら、すなわち私の敵であり、「打ち殺せ」という気分にかられた。
しかしのち東大法学部に法制史を学び、さらに薩摩史を専攻するようになってからは、私の思考
の軌跡に変化が生じた。
−中略− ↓
西郷は道義国家の建設を目標としていた理想家だから維新革命に身命を賭したが、それ故に
第二、第三の維新を夢見た永遠の不平家である。
彼と同輩、または年長の人で尊敬したのは島津斉彬ぐらいで、他はおおかた彼の酷評の的に
なっている。
『西郷先生遺訓』は彼の理想であるが、現実の姿ではない。
維新草創の際、政府収入源は農村に求めざるを得ず、仮借なく封建貢租を取り立てたから、
明治元年から10年までの百姓一揆は維新前より頻発した。
少ない財源のうち4割を旧士族に与えねばならぬ当局の苦しみを西郷は知らなかったのだろうか。
米が1石、5、6円のころに1500円の巨大な年俸を受け、対外膨張論を唱えている。
西郷を取り巻く、財政も経済も世界情勢も知らない粗暴な私学校と袂をわかって、
多くの良識派の薩人が政府に残って近代国家建設の苦難に耐えたことを忘れてはならない。
弟の従道や従弟の大山巌、そのほか多年の朋友の心底は悲壮である。
もともと薩摩は日本南端の門戸で、黒潮岸辺を洗い、季節風が中国や異国の船を運んできた
外国と日本との接点である。
だから真っ先に外国文化の洗礼を受け、ハイカラ性が薩摩を支えてきた。
薩英戦争の結果、こだわりもなく英国文明の偉大さを学ぼうとして欧米に留学生を派遣した
聡明さや、敵味方を一様に供養する博愛の精神は、島津日新以来の薩摩の伝統である。
私学校の猛者たちの剛勇は、「薩摩的美学」の両面性の一つ、隼人以来の「バンカラ性」の
伝統であって、もう一つの美学「ハイカラ性」の欠落である。
太平洋戦争の誤りを二度と犯さぬためにも、「西郷神格論」からの脱却は今日的課題である。 馬鹿だろコイツwwww
原口氏の言ってることは全くその通りだが、コイツがいつも言ってるただの捏造と一緒にすんな馬鹿wwww >>39で西郷の軌跡が謎めいている一つの要因は、西郷が日記を残さなかったからだと書いた
もちろんそれだけではない
資料的な要因で言えば、西南戦争の際に政府軍が鹿児島に上陸する間際、
当時の公文書や記録が鹿児島士族の手で燃やされてしまった
その中には鹿児島で天皇化していた西郷についての文書も相当数あったはずである 以下は西郷個人とは関係無い余談だが、重野安繹は明治18年、全国的な歴史資料調査を行った
それまでの歴史書は軍記物語の類に依存してきたが、重野にとってこれらの物語は
「参考」に供すべきものにすぎず、確実な「根拠」となるのは古文書・日記の類であるとし、
全国に調査団を派遣、地方の社寺や旧家に埋もれる史料を探索することから始めたのである。
明治18年の関東六県での探索では、文書が8089通、書籍767部、系図58種を収集した この「大日本編年史」の史料探索は明治20年鹿児島でも行われた
この時の重野の手紙が残されている
このなかで、重野は、旧主である島津家に対し、当時鹿児島で保存されていた
島津家文書の閲覧を許可するよう求めたが、島津家がこれに難色を示している
という顛末を記している
結局、この調査は途中で断念されたという
戦国島津や薩摩藩に関して、島津家の軍記物を根拠とした、あり得ないようなミラクル物語が、否定されず
なんとなく信じられているのも、この時の不完全な調査が原因かもしれない・・ >>46
まあ西郷は鹿児島のご当地カルトヒーローで、県民全部が信者だからなあ。
おっと こう書くと発狂マンのw連打の5連投が来そうだ。 あいつ24時間スレ監視しているからなあ。 このスレで言ってる「イメージ」ってどれのことなん?
A. 主に鹿児島県内だけで、西南戦争参加者の子孫が自己正当化のために広めている西郷のイメージ
B.東京など他府県で学校で教えている西郷のイメージ
C.坂本龍馬・新選組・会津などを美化したフィクション・テレビ番組・一般書でねつ造されまくってる悪役西郷のイメージ
D.明治10年代から旧幕臣・土佐などを中心に新聞や大衆向けの出版物で大量に流布された噂話のたぐい
ここで必死に叩いてる人はAを否定して、CとDは正しいと主張してるように見えるが
Aを一般的に広まってるイメージのように語るのは適切なんだろうか AからDまで全部イメージでしょ
一般的には、大度量の人格者というイメージかな
「思い切ってやりなさい。責任はわたしが取る」という
ところでCの悪役西郷として描いたものってそんな多いだろうか?
具体的にどんなフィクションや作品で捏造されているか教えて欲しい 「思い切ってやりなさい。責任はわたしが取る」って大久保の発言だろ
西郷がそんなふうに描かれているものは見たことない
近い話でも、勝海舟が美化されている話では最初は攻撃的だが説得されたって流れだし
大村益次郎を美化する話でも、その後に海江田を押さえられない奴って薩摩sageが入る >>53
また勝手な妄想マンワロタwwww
また的外れな事言ってるwww >>52
さすがニワカwwww
薩摩で嫌われ者になった久光の子孫が嫌がっただけwwww
それが近年、玉里島津家文書として出されたんだろ馬鹿wwww
知らないのか馬鹿wwww てか勝手に妄想マンのレスの内容のなさwwww
毎度毎度連投がどうとか監視がどうとかお得意の暇人コビペwwww
歴史のスレなのにも歴史話しない馬鹿wwww
歴史知らないからしょうがないwwww おまえ、すぐ釣り針に喰らいつくから、 鹿児島ご当地ヒーローの話より
おまえをおちょくってる方がおもろいw >>60
また言い訳妄想マンワロタwwww
歴史知らないからしょうがないwwww >>62
わざわざ開くかよ馬鹿言い訳暇人妄想マンwwww
歴史知らない言い訳暇人妄想マンwwww >>66
馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
これもまたオウム返しですねwwww >馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
>これもまたオウム返しですねwwww >>68
馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
これもまたオウム返しですねwwww >>60
鹿児島の「ご当地ヒーロー」は薩摩剣士隼人
言葉の意味まちがえてるよ ■ 西南戦争 その伝説と史実 ■
伝説 : 西郷隆盛と大久保利通は幼少時からの親友。大久保家が困窮した時期、
利通少年は西郷家で食事を摂らせて貰っていた
史実 : 同じ町内の顔見知り程度で、個人的な付き合いは一切無く
親しくなったのは青年期以降に精忠組で一緒になってから
伝説 : 西郷さんは比類無き大度量・大至誠の人。誰もがその巨眼に引き込まれ三日で愛に変わった
史実 : 実際に近しくした人の証言 「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算している」
伝説 : 西郷さんは薩摩士族を胸に抱き、自ら滅ぶつもりで戦争を始めた
史実 : 西郷「熊本城に着けば政府軍は我が軍に下る。一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」(東京日日新聞の記者の取材に答えて)
伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
史実 : 玉砕の5日前に“自分だけ”政府軍に助命嘆願 → 拒否られている
伝説 : 「晋どん、ここらでよか」と潔く自決
史実 : 玉砕当日城山の洞窟から逃走 → 桐野利秋に見つかり射殺された
伝説 : 西南戦争で薩摩士族は滅び、鹿児島にも新時代が到来した
史実 : 薩摩士族は4人に3人は投降などして生き延びた
政治、役人、教育、警察等の世界ではなお士族の子孫しかその職に就くことができず
鹿児島ではそのような士族王国状態が第二次大戦後まで続いた
伝説 : 大久保利通による西郷暗殺指令
史実 : 鹿児島士族が政府の密偵を凄惨な拷問にかけて自白を強要しており、信憑性無し
伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
史実 : 子供を二人産ませた奄美の妻アイカナを捨てる
旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → 死亡
伝説 : 鹿児島私学校では西郷さん自ら若者たちに敬天愛人思想を講義
史実 : 当時の生徒の証言「西郷さんが私学校で講義したことは一回もありませんでした」
伝説 : 「西郷南洲翁遺訓」 西郷の教え41条
史実 : 東北庄内人によるほぼ創作
伝説 : 民百姓にも慕われた西郷どん
史実 : 鹿児島で西郷さんが外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、
百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせた
西南戦争では、百姓たちは木の上から見物、
西郷軍兵士が死ぬと身ぐるみを剥ぎ、売る コピペのやつは3〜40代の底辺なんだろうが内容は強ち間違いではない
つまり龍馬暗殺の主犯は「西郷」 龍馬などとどうでもいいやつを持ち上げるある層が存在する
しかもしつこい いまだに龍馬暗殺は西郷などと言っているのは相当な年寄りだな ん?
上記な性格な西郷であればそう考えてもおかしくないだろ?という話
「可愛さ余って憎さ百倍」じゃないが、
討幕で一致していたはずなのにいつのまにか幕府と故意やんか?と
桐野がちくった 証拠一切なしの妄想で、推定有罪なわけねw
西郷は大政奉還後に鹿児島に帰って、龍馬が京都に戻って来たことすら知らんのだが
大昔の創作を骨とう品のテープレコーダーのように繰り返す年寄り 桐野は過去に坂本妻のおりょうを強姦未遂したことがあるからな
その時に、坂本さんには言わないでくれとおりょうに口止めを懇願したそうだけど
眠れない日々が続いていたことは想像に難くない 大政奉還 上表 慶応3年 10月14日 翌17日 西郷他京を出立
その前 慶応3年 10月「10日」 龍馬、永井玄蕃に将軍に大政奉還を説得
しかも同17日に吉井から「藩邸へ来い」と言われる、鬼の居ぬ間なのか?
ちなみに桐野とは11月に散歩中に合っている 龍馬関係の本しか読んだことない人が必死に断片情報を集めたのねw つか単に可能性の話をしているのに逆に否定するのが必死すぎに思えるわww この手の情報が古い人にありがちの流れ
最初は断定
>つまり龍馬暗殺の主犯は「西郷」
その説古いよと匂わせてやったところで気づけばいいのに、偉そうな態度で粘る
ツッコミ入れられて窮すると、説が古くてアヤフヤだと言ってるだけの相手に
>可能性の話をしているのに逆に否定する
とか言い出すwwww この馬鹿はどうして小松西郷大久保が京を急いで離れたのか、恐らく理由を知らない ダメだこのスレ
チンカスなみの歴史なんもしらんニワカしかいない >>88
確かにw
龍馬暗殺の黒幕西郷てw馬鹿だろw てか「歴史を知らない」って言い方自体がレベル低くね?
幕末くわしい人は、こいつ誰々の何々を知らないとピンポイントで言うよね ほんダメだこのスレ
こんなことしか言えん歴史自体そのものを知らん低レベルのニワカチンカスしかいない みんなは、西郷さんは現代の人物で言えは誰にあたると思う? 現代の人物で言えば…とか、まじに歴史しらん奴の言いそうな質問w
まあスレ主も明らかに「西郷南洲逸話」を読んでないし
そこで書いてる敵って中山中左衛門のことだよと言っても誰それ?だろうし >>93
トランプ?
支持層
トランプ ←没落無能白人
西郷 ←没落無能士族
追い詰められ方は金正恩という気もするが 西郷絡みの細かい人物関係つっこまれて窮すると、幕末明治以外の話を始めるw
これもよくある流れ そしてこの程度の低脳な返ししかできんチンカスしかいなくなった… そもそも>>1は重野安繹の西郷南洲逸話を読んだ事あるんかいな
見りゃわかるが奄美時代のまだ血気盛んで若い西郷と親しくしてたが故の、辛辣で気安さも込めた人間臭い西郷を語ってるようにしか読めんのだが
ちなみに西郷南洲逸話にゃ西郷の義侠心を評価する内容や、それで重野安繹自身が命を救われたとも語ってるんだけどね
まぁ抹殺博士の異名を持つ重野安繹なんで、あちこちに微毒をまぶしてる如き西郷評は流石と言うか、いかにも抹殺博士らしいって感じだね〜 >>102
この程度てw
そもそもお前がその程度w そもそもチンカスがどうとか言ってる程度w
中身ゼロw
はい論破w >>104
読んでないだろ
不正をしている役人やお由羅騒動に関わった斉興の側近を辞めさせろと西郷が斉彬公に何度も訴えてたしなめられて
斉彬公は度量が大きい、それに比べると自分は度量が小さくて敵を作る性質があると西郷が反省して重野に言ったなんて
エピソードは大河ドラマにも出て来る定番中の定番なのに、イメージが違うってなあ >>107
大河ドラマに重野が出てきたことあるの?? >>107
西郷南洲逸話って重野安繹が西郷を酷評してるって捉えてる人が多いみたいだけど、内容を見るととてもそうは思えないんだよねぇ
批難した後にはサッとフォローいれてる感じ
なにせ若い頃の西郷ってそれなりに優秀だけど、反面頑固で反骨精神剥き出しの若造だったろうからなぁ
自分を取り立てて可愛がってくれた島津斉彬とマジ口論して、しばらく双方口も聞かなかったなんて余話もあるくらいで(西郷は御庭番的ポジションなのに殿様とケンカ!)
重野安繹が直接面識を持ってたのは元気坊な頃の西郷で、重野安繹自身も同じく反骨の人だし親近感あったんじゃないかなぁ
歳とって角がとれて思想家然としてる晩年の西郷や、それを聖人君子の如く評価して神格化してる西郷信者が面白くなかったんだろな
「お前ら西郷を大人物だと信じてるようだが、あいつ若い頃は頑固で意外と厄介な奴だったんだぜ」なんてニヤニヤしながら語ってる重野安繹を想像しちまうわ >>109
重野に限らず若いころの西郷を知ってる人の話はそんな感じだよね
逆に重野って年取ってからは西郷の近くで仕事してないんで、あんまり詳しく知らないんじゃないかなあ
このスレで西郷南洲逸話について、重野が西郷をdisってるみたいに決めつけてる人は単に読んでないからじゃない?
まあ、勝田孫弥の本が出た翌年の講演で、聴衆はみんな西郷について詳しいという前提で話してる上に
何ページも脱線した後でいきなり前の話に戻ったりするから、わかりにくいと言えばわかりにくいけど >>110
大河ドラマに重野が出てきたことあるの??
それとも嘘ついたん?? 西郷の若い頃の評判は原口虎雄氏の言う通り酷評が多いですね
海江田信義 「奢り高ぶっているわけではないのだが・・・」
重野安繹 「偏狭である」
市来四郎 「君主の風采無し」 島津斉彬が西郷を御庭方に取り立てようとした際も、
斉彬の側近たちは西郷の人間としての評判が悪すぎるとしてみな反対した
「城下では、西郷のことを粗暴で郡方での人間関係も良くないと誹謗する者が多いと聞いた。
しかし役に立つ者は必ず俗人に誹謗されるものである。」
と斉彬は側近たちに言い、西郷を抜擢したそうです(鹿児島県史料、斉彬公史料) いかにも、という美談ですが、西郷信者ともいえる斉彬が西郷の酷評されぶりを
認めているぐらいですから、西郷を白眼視する者が多かったのは事実なんでしょう
若い頃から農民の味方で、同僚からも慕われていたかのような「西郷どん」イメージは完全にデタラメと言えます
まあそれは後世の人がでっち上げただけで、西郷には責任はありませんが 西郷の人物像は重野安繹の以下の西郷評がもっとも正確なところなんじゃないでしょうか
“士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物”
などという分析は、西郷をよく見てるなと思います
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
「西郷の人となりは、今申す通り度量は狭いが、人と艱苦を共にするというところが持前で、
古人の謂ふ士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起(軍事思想家)などが
そうであったという。
士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物で、
自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、
いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。
何でも下の者を己の手足のように使ひ廻すのが、一生の手際(自分のおはこ?)と思って居るから、
自分も努めてする。
幕府を倒すのもそれから起って居る。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。
しかしながら西南の役になっては、それが自分の身を亡ぼす元になって来た。
西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれ程の事は出来はしないであったろうが、
薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。
西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があった。」 「古の英雄とは皆そうしたものであろう」とか重野がほめてる語句をことごとく削りまくってるけど
ネット情報の孫引きなんかねww チンカスというキーワードにこれほど過剰に反応するチンカスがひとりいるな
チンカスあぶり出しにまんまとひっかかる低脳チンカス決定 チンカスというキーワードにこれほど使用するチンカスがひとりいるなw
チンカスあぶり出しにまんまとひっかかる低脳チンカス決定w コピペですけど、なんで西郷が嫌われるのかが何となく分かるエピソードを一つ紹介
西郷が久光に、上洛、江戸出府の意見を求められて、
「時期尚早ですし、地ゴロ(田舎者)のあなたが上京しても何もできやしません」という発言が有名だけど。
「西郷隆盛伝説の虚実」安藤優一郎著によれば、この時西郷は久光のみならず、
久光の側近たちにも、偉そうに
「貴様などは御供して上京してどうするつもりだ、
ただ一人、二人の浪士(越後の本間精一郎など)が我が藩に来て、
御上京が宜しいと説いたといっても、それは書生論である。
浮浪輩の書生論、畳の上の水練で、世の中の事が出来るものか、
(中略)貴様たち、君側に居て御止め申しはせず、何とした短慮ぞ」
と叱りつけ、久光側近たちの面目を潰したという。
重野安繹 『西郷南洲逸話』
これで西郷は、久光と側近たちの不興を買い、再び島に流される遠因になった。
ちなみに久光と側近たちはその後、実質西郷抜きで上京・江戸出府を成功させ、
彼らの展望が間違っていなかったこと、また西郷が久光を過小評価していたことを証明して見せた。 なるほどねえ
アンチ西郷によくある都合のわるい語句を削除して反対の意味にするってテクニックに騙されてるわけか
全体の文章を読めば、けなしていないことがすぐわかるのに >>120
まぁ島津久光を過小評価する失敗は確かだけどねぇ
しかし1回目の上京では西郷の危惧した通り、久光上京に刺激された精忠組の突出グループが行動を起こそうとし、それを粛清した寺田屋事件が発生
江戸行きは武力を背景にした圧力で幕府へのごり押しに成功したものの、久光自身が単なる藩主の父と言う無冠の身で交渉の表舞台に出れずに終わる
帰路では生麦事件を起し薩英戦争勃発
2度目の上京も尊皇志士の暴走を懸念してわずか5日で帰鹿
3度目は参預会議を実現させ、雄藩合議による幕政改革と言う斉彬から受け継いだ悲願の第一歩を踏み出すが、すでに時期を逸していると言う西郷の警告通りに参預会議は空中分解の結末となる
これが結果的に倒幕へと薩摩藩の舵を切らせ、明治維新までの動きを急加速させることにはなるのだけどね
久光の予想だにしない強力なリーダーシップが政局を強引に前進させたのは事実だけど、西郷が危惧した心配事がほぼ当たっていたとも言えるのだわ >>121
オウム返しはお前のお得意のだろコロコロ馬鹿w つかさ、西郷は久光に失言したけどすぐ反省して謝ったので二人の仲は悪くない
その後にこじれたのはすべて中山が悪いんだってのは重野がもっとも力を入れて語った部分でさ
アンチ君のレス内容はそれを読んでないのがバレバレなんだわ >>123
それらって西郷隆盛とはなんも関係無い、結果論じゃん >>128
オウム返しはお前のお得意のだろコロコロ妄想マンw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています