西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) 桐野とか快男児で偏狭で視野が狭いの反対だろ
西南戦争なんてはなから薩軍は兵力装備物量で勝ち目薄いし
戊辰の名将の板垣は兵を知らずと薩軍の行動嘆いていたが
同じ征韓派で薩摩の軍略家の伊地知正治が下野しなかったのは痛いね 「快男児」とかいうワード使ってる時点で陳腐だなあと思う >>410は自分が、吉野家でバイトしてて、しかもバイトリーダーにすらなれない人物だということを、はからずも告白していますね。 人手不足なのに吉野家でアルバイト採用されなかった恨みだな ↑で西郷どん貶していた御仁が桐野は評価してただろう?とw 西郷さんも桐野どんも薩摩ではいっぱしのインテリとして先生あつかいだったってのが笑える >>397
> ないこのバカ
> 韓国は国際会議の場所が西郷の故郷鹿児島であったことに
> 抗議したことがあったろ
捏造しろって主張したんだ 西郷隆盛は明治の鳩山由紀夫だろ
話せば分かるとか、一人で行って殺されてくるとか
頭がお花畑すぎ 西郷は武力の裏打ちが無い言論は通らないという考えだろう
武力倒幕の時も私学校でも武装している
私学校は中途半端に武装してたのが裏目に出た 新政府も基本は軍事政権なんで武力重視はあたりまえだけどな
西郷は自軍の武力を過大に見積もる傾向がある素人軍人だからダメだよ
井の中で吠えてるぶんには見栄えのする人物だが
征韓論とかの器じゃない 今のネトウヨが吠えてる、日本の軍事力は世界何位で、質で言えば中国を上回ってるので開戦しても勝てる
とかの甘々な見積もりと大差ないのじゃないか、西郷って
鳥羽伏見の時は幕府方がさらに甘かったから勝てたけど
江戸総攻撃とか、大火になった時の対応なんて考えてないよな
後世の西郷伝説では、西郷は旧弊含めて全てを燃やし尽くし
まっさらな状態から新国家の建設を目指そうとしていたのだ
などとトンデモ美化されているがな 西郷はそもそも西南戦争なんて起こす気なかったし
起きた後はおいどんの体を与えもすと何もしてないからどう考えてたか不明
軍人というより軍事力を背景に外交交渉したり調整する政治家だし
西南戦争は西郷さんの唯一の失敗であとは全部正しい様に思う >旧弊含めて全てを燃やし尽くし
>まっさらな状態から新国家の建設を目指そう
西郷はそんなおかしな思想持ってないでしょ
征韓論もあくまで自分が交渉したいって意見であったので >>428
1877年 明治10年2月7日、大山県令を私学校へ呼んだ西郷は、
「2月下旬か3月上旬には大阪へ着く」と告げて大山を危ぶませ、
さらに「大将の職権で、軍隊を率いて行くことができる。鎮台兵も服属させる」
と職権と地位を混同させて、大山を驚かせた。
大山が「多くの兵隊を率いての上京は事が重大であり、
途中の安全を保つのは困難ではなかろうか 」
と反論しようとすると、西郷に付き添っていた篠原国幹らが、
「鎮台が刃向ったら踏み潰すだけだ」と言ったので、口をつぐんだという。 またその4日後の2月11日(出陣4日前)に西郷はかつての同僚であった市来四郎を訪ねている。
市来はその日のことを日記にこう記した。
「 明治10年2月11日、晴れ後雨、寒冷。
西郷が言うには、川村(純義、海軍大輔)は十に四、五はこの西郷に助力するはずだ
これを一人取り込めば海軍は全てわしのものになる。
熊本には樺山資紀(鎮台参謀長)がいる。熊本県境に我が軍が進めば、一、二大隊の
鎮台兵はわしに帰順する 」
(鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料・西南戦争』) さらに当時の東京日日新聞は鹿児島での西郷の様子を誌面でこう伝えている。
西郷がかねて回りの者に語るには
「熊本城に着けば、熊本鎮台は城門を開いて降るだろう。
そうなれば、熊本を拠点に九州を従え、広島(鎮台)を攻め、
大阪(鎮台)を破って海陸路で東上し、一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」と 大久保利通などは西南の挙兵に西郷が加わっていることを聞いて
何かの間違いだろう、西郷の本意ではあるまい、などと語ったとされる。
しかし西郷に直接会って話をした人物たちの証言は上の通りだ。
“西郷はやる気満々だった” というのが史実です。 客観的・論理的に動けるのであればわざわざ薩摩まで戻るまでもない
在京(東京)な連中と教義して対応はしていただろうさ
がしかし彼は言わば「直感的」な行動で難題をクリアして来たが故に慢心が働いたとさと
「俺が動けばなんとかなる」と 元々、島津斉彬が西郷を評価したのは
相手が誰であろうと向かってゆく「無法の性格」
だからなぁ。
もともと、聖人君子でもなんでもない。
どこから温厚な人、というのが出てきたんだろうな。
カッとなりやすい性格だった豊臣秀吉が
江戸時代に、陽気なお調子者にされてしまったのと同じなのか。 勝が龍馬をして「大きく叩けば・・・・」な例えが、実は西郷どんにも当てはまるという話では?と
「西郷さぁ〜〜〜んwww」とくれば「何々〜〜〜?」と
「www西郷〜〜〜」
「はぁ?何その呼び捨て」
この違い >>435
西郷には聖人とまではいかなくても
責任は私が取るから君たちは恐れずにやりなさい系のセリフを言って
後輩たちを叱咤激励する人間面はあったと思う
そのへんが誇張されて後世の、「巨大な人格者」みたいなイメージができあがったのかなと
しかしながら、西郷さんが責任を取ったことって実は一度も無いんだよなw
ゴネてダメなら、自分はもう無関係とばかりに放り出してバックレるというのが西郷さんパターン
久光への協力、江戸総攻撃、大村益次郎の台頭、明治六年の政変
そして西南戦争
西郷さんにとって不本意な状況になると中途半端に投げ出してバックレる、というのが史実
西南戦争もはじめはやる気満々でも、熊本城攻略でつまずいて
現実を悟った瞬間、鹿児島の大山県令に
「自分はもともと勝てるとは思っていなかった」などというトンデモメールを送っている
桐野もさすがにハラワタが煮えくり返ったのか西郷とは口を利かなくなる始末
城山では、自分は巻き込まれた被害者とばかりに一人だけ助命嘆願してるし
あげくの果てに洞窟から逃亡して政府軍に投降するそぶり
なんなんだよこの人 とヒラバイトさんが申しております。
いかにもバイト口調でしゃべってみせるスレ主の哀れさ。 >>440
良くも悪くも人間臭くて良いじゃないか。
それが根強い人気の源だったりしてw 西郷隆盛の人間的なわけのわからなさというのは一種の人気の源だとは思う
行動の根拠が不明で空白に見えたりするゆえに
読み解く者がそこを自分の願望のままに補完し、ラストサムライのような西郷像が創られたり 441は私ですが、442は違います。
スレ主にはこれが分からない。
442と444が同一人物かは私には分からない。
ただ444は昔からの常連さんだ。
スレ主は人間不信の気があるからね。
自分の敵は一人しかいないと思い込みたいのでしょう。
過去スレでも、勝手に時間を区切り「書き込みして同一人物じゃないのを証明しろ」なんて命令していました。
哀れ。 庄内藩が西郷に感謝して
鹿児島に旧藩士を派遣してるよね ブルドーザなんだよな、それで操縦者はその都度、主君だったり思想だったり人だったりと
故にその辺を周囲が理解していればある意味「人畜無害」的な感じだったのかもしれん 西郷隆盛の庄内藩に対する温情伝説か・・・
「東北戦争に関して、西郷の伝記中、省いてはならぬ一佳話がある。
それは、かの庄内藩が、降伏を勧められても容易に応じず、
激戦数合の後、力尽き矢折れて、遂に降伏の議を決し、藩主自ら
隆盛の陣営に来ることとなった。
隆盛は出でてこれに引見し、さながら賓客の礼を以てこれを遇し、
極めて寛大な条件の下にその降伏を容れ、直ちに令を下して
兵を徹せしめた。
当時、隆盛に随行しておった高島鞆乃助は、使者の帰つた後、
『先生、今の応対は、余りにご謙譲に過ぎて、どちらが降伏するのやら
分からんようでありましたな』と問うた。
すると隆盛は、心地よげに破顔微笑して、『戦に負けて降伏するのである。
官軍に対しては、それでなくても非常に怖れを抱いておる。彼の慇懃な様を見い。
それに対してこちらが声を張り上げでもしたら、あちらはその思う所を
吐くことさえ出来まいではないか』と言った」
『大西郷全集』(1925年)
ここから庄内藩と西郷隆盛の心のこもった交誼が始まった
という伝説が生まれた しかし後に上の『大西郷全集』の記述はまったくの
でっち上げ記述であったことが判明している
・庄内藩は力尽き矢折れて降伏したのではない
庄内の兵装は政府軍に勝っており士気も十分に高く
自領に政府軍の侵入を許していなかった
しかしながら時勢はもはや幕府にはないと見極め、
庄内藩に対する寛容な処置と引替えに降伏に応じた
というのが史実である
・このとき庄内藩主と西郷隆盛が面会したという事実は一切無い
この時の庄内藩の処置を決めたのは西郷であったと思われるが
それが温情だったかは甚だ疑問なのである
政府軍にとって難敵だった庄内藩を外交交渉で寛容な処置と引替えに
降伏させたということにすぎないのではないか
寛大な処置を勝ち取ったのは庄内藩の実力なのである ではなぜ庄内藩は西郷隆盛に過分に感謝したのか
その後、新政府内では庄内藩解体論が起こるのである
庄内藩の有能さと資金力を恐れた大村益次郎が、会津藩と同様、
庄内藩を完全に解体すべしとの論を強く主張したのである
これに待ったをかけたのが西郷隆盛であった
寛容な処置と引替えに庄内を降伏させた西郷のメンツがあったであろうし
政府内での主導権争いもあったであろう
これにより完全に解体された会津と比べ、庄内は軽い処分で済んだのである
ようは、お互いの「敵の敵は味方」という力学から生まれた交誼だったのである
以上が、西郷温情伝説の実体である とソースも示さずにヒラバイトさんが申しております。 >とヒラバイトさんが申しております。
こういうことをしつこく何度も書く奴って
ぼくはバーカでぇ〜す
と白状してることに気づかない幸福者だよね >>451
こんなの知らずに読んだら西郷さんカッケーてなるわ >>451のような捏造逸話はいったいどうやって生まれるのか
記述にも出てくる「高島鞆之助」という薩摩出の軍人(後に政治家)が非常に怪しい
上の逸話とは違うが
「大久保利通は西郷からの手紙をいつも肌身離さず持ち歩いていた
大久保が暗殺されたときも懐中から血まみれの手紙が出てきた」
という美談が存在する(大河「跳ぶが如く」でもそのシーンがあった)
このデッチ上げ美談の発信元も高島鞆之助である可能性が高いのだ 高島は晩年に
「西郷の手紙は大久保が三条実美に貸していたものが
その日たまたま返してもらって、持っていただけのものなのだが、
これが話に尾ひれがついた。
しかし自分はこのことに西郷と大久保の偶然とは思えない巡り合わせを感じる」
などと語っており
そもそも話に尾ひれを付けたのはこの男なのではないかとうかがわせる
というか手紙の存在自体が高島の語り以外ではまったく確認されておらず
すべてが高島の妄言の可能性もありうるのだ なにしろ高島は、大久保が西郷の征韓論に反対した真の理由を、こう語り残している人なのだ
「・・・大久保公も西郷翁の心の内はよく分かっていたろうが、
それでいてなぜ西郷翁に反対したかというに、それは西郷翁は
あの時には全く死ぬるつもりでいた。・・・あの時のことを皆がいろいろいうが、
この西郷を殺してまで朝鮮のカタをつけなければならぬことはない、
ここじゃ。・・・大久保公の心事の骨子はここじゃ。・・・」
『大久保利通』佐々木克
なんと高島は真顔で、大久保は西郷を一人で死なせたくないために征韓論に反対したと言うのだ!! 西郷と大久保は仲たがいしたように見えていたが
心と心は“あうん”で通じ合っていた、などという通説を広めたのもこの男なのかもしれない・・
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-01-8e/djkxq447/folder/1581007/20/50265920/img_0
晩年の高島の顔
年老いると、想い出を美化したくなるのでしょうか
これらの高島発の美談に限らず、
長生きした高齢者が晩年に想い出話として語ったものが西郷史料となり
深く検証されることなく通説となっている場合が多い 話ぶったぎるが
西郷は自分がそうだからなんだろうが、外見が良い人を高く評価し、そうでない人を軽く扱う傾向が強いんだよな
西郷が先生扱いした、藤田東湖、勝海舟、山岡鉄舟、月照(友人?)・・・
みなイケメンか大男ばかり
新政府のメンバーでも、長身イケメンの木戸孝允の前では大人しく
親しく付き合ったのはイケメン板垣と高身長の江藤新平
そして西郷が引き上げたと言われる薩摩人の東郷平八郎、黒田清隆、川路利良らもイケメン揃いで
側近の桐野や篠原はコワモテで固めている 一方で奇形レベルの大村益次郎には冷たく
ブサメンの伊藤博文、井上馨、大隈重信らは俗吏あつかいしていてほんとに酷い
孫正義似の島津久光はジゴロウ呼ばわりだし
ブサ系で西郷が親しくしたのは山県有朋ぐらいではなかろうか
この場合はむしろ山県が人心操縦に長けていて、西郷を籠絡していたのではと思う あま、見た目で人間を差別するのは全人間にある傾向なんで西郷がおかしいとは言わないが
「人格者」とか「理想の上司」などと言われる西郷さんとしては
この実態は寂しいかぎり
外見や出身地にとらわれず人間を評価した木戸孝允や大久保利通と比べるとね 西郷どんはそもそも征韓論は唱えていない
自分を全権大使として派遣してくれと言っただけ
西南戦争もやる気はなかった板垣や江藤との提携を断っている
私学校が暴発し挙兵した後やや楽観的な観測を持ったくらいで
本来は下野した後どうする気でどう思ってたかはほぼ不明 >>466
朝鮮を開国させる交渉目的だよ
朝鮮の度重なる無礼問題で即時出兵論が出てきたがそれを抑えてたのがむしろ西郷さんだから 西郷さんが征韓論なのか遣韓論なのかの議論ほど虚しく滑稽なものは無いよな
同じなのに
西郷さん自身が板垣退助に手紙で
「必ず戦ふべき機会を引き起こし申す」
て書いてる時点で、同じもの
征韓だろうが遣韓だろうが西郷の評価や名誉は変わらないし
どうでもいい問題 征韓か遣韓かは重要、西郷の人物像が大きく変わる
征韓論は士族の不満そらしに唱えただの、外遊組が戦争を止めるために反対しただの
かなり外遊組が美化されてるからね 西郷さんの人物像が大きく変わるってことで言えば
「征韓論」を「遣韓論」に書き換えよう、みたいな運動て
西郷信者にとってやぶへびだったよな
無理ありすぎな西郷美化を押し通そうとしたことによって、
逆に当時の正確な史料をほじくり返され
西郷さんのブラックぶりがバレちゃった 鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。 だいたい従来の西郷征韓論(西郷さんの自己犠牲によって日本が出兵の大義名分を得て、征韓する)
というもの自体が美化されたものである
西郷は必死の覚悟で朝鮮に渡るつもりであったなどという説明自体が美化なのである
当時の日朝の緊張状態を考えれば誰が大使で行こうと、殺される危険はあるのである
そもそも西郷は「死んでくる」などとは一言も言ってない
「(私を)死なせたくない、などと心配していては何も叶いませんよ」と手紙に書いただけで
使者としてはふつうの表現であり、覚悟である
それまでも使者は何度も訪朝しているが、殺害された者はいない
使者を殺害すれば、報復の大義名分を与えることになるのは誰でも分かるからである 西郷さんだけがブラックというわけではないけどな
外遊組も含めて当時の普通の感覚 西郷さんだけはホワイトだった
ということにしたいのが西郷信者 これほどの著名人であっても評価というのは定まらないもんなんだな
ひさしぶりにためになるスレ いや、お笑い程度の認識でOK
本当に知りたければ他を当たれという話w >>474
それが真実なんだよな
だいたい時代を動かした人物達なんだから、理想もありゃ隠謀も駆使してるのが当然
篤姫に登場した黒西郷が一番説得力があったわ 大河が近づいてきて木戸オタが必死に西郷サゲをしております >>3
伝説 : 幕府から指名手配された親友月照を不憫に思い心中を試みる
史実 : 藩命により、死ぬ気など無かった月照を海に突き落として殺害
↑
これって本当なの?
通説ではないだろ お互いの同意があって死ぬのを“心中”というなら
月照には死ぬ気など無く、同意も無かったのだから
“殺害”だわな
通説になってる“心中”というのはでっち上げ 西郷が一方的に“無理心中”に持ち込もうとした可能性はあるけど
いろいろ不審点が多すぎる
後日、西郷が重野安繹に直接説明したところによると
西郷と月照は心中を約束していたわけではないが、
言葉に出さずとも月照も以心伝心で承知しているはずなので西郷は月照を抱いて海に飛び降りたと
海の底で発見された時、西郷と月照は抱き合っていたと
何分とは分からないが、海の底での救助までに相当の時間がかかったであろうに、
月照だけが死亡し、西郷は何の後遺症も伴わずその後回復したと
同じ条件で一方は死に、一方は長時間海の底に沈んでいたにもかかわらず後遺症も無く回復
だいたい溺れた人間同士が抱き合ったまま海の底に沈んでいる??
そんなことがあるのだろうか そりゃ人が溺れる状態を知ってりゃ沈むだろ
溺死体は沈んでからガスが溜まることで浮いてくるからな
刀とかのおもりを身につけていたらなおの事だね 溺れて意識を失った2人が抱き合って沈んでいる
という状況は無いな
よってその話は嘘 >>485
つうか西郷入水の時って、二人が荒海に飛び込んだ音を聞いた水夫が、すぐに続いて飛び込んで西郷を救出って事になってたはず。
海底に二人が沈んでたのを助けたって話じゃなかったかと。
助かった西郷にしても回復に数か月を要してるしなぁ
救助されて意識が回復した地は今でも「西郷蘇生の地」と史跡になってるくらいだから、若くて体力のある西郷にしたって当初は瀕死の状態だったろう
そもそも月照は日向送りで船に乗ってて西郷はその護送役だったわけだから、すでに月照が殺されるのは確定してたわけよ
薩摩で日向送り(東目送りとも言う)となれば国境で斬り捨てるってことを意味してるわけでね、つまりは月照は刑場へ連行されてる最中だったってこと。
そりゃ月照が意味深な辞世を残してるのも当然なわけっすよ。 >>486
どっちにしろ月照は死んでいたはず、って話じゃないんだな
通説になっている、月照と西郷が絶望し、示し合わせて心中したという美談はデタラメである、という話 > 海底に二人が沈んでたのを助けたって話じゃなかったかと。
“抱き合ったまま”沈んでいたというのは西郷が重野安繹に直接説明した話だそうです
「西郷南洲逸話」 月照殺害のことを西郷が自分で語ったとされる記録がもう一つある
コピペですがどうぞ
昭和12年鹿児島県教育会発行の「南洲翁逸話」の冒頭に、
伊集院の郷士本田元右衛門と西郷の対話として、
「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。
月照が船のトモに出て小便をしている所を後ろから抱きこんで飛び込んだら、
月照のみは死し、自分が生き残ったのは至極遺憾なわけである」との記述がある。
戦前の日置郡伊集院小学校の調査報告による、とあるから信頼性は高い。
ようするに心中ではなく、死ぬ気の無い月照が小便しているところを
背後から西郷が抱きついて海中に引きずり込んだのだ、
と西郷自身がポロっと漏らしているのです。
殺害したとなると世間の聞こえが悪いので、心中であったかのように偽装したのでしょうか?
事件後、月照の辞世の句とされる書き付けが出てきたと言われています。
”月照”と署名が入っていたそうなんですが、月照の生前の署名はほとんど”忍向”という雅号であり、
果たして月照本人が書いたものか非常に怪しい。
しかもこの書き付け、西郷の懐中から出てきたそうです。
自殺に見せかけるために偽の辞世句を計画的に
準備していたとしたら、なんとも後味の悪い話ですが、
この時の西郷は30歳になったばかりの若者。薩摩藩での立場も強いものではなく、
藩命には逆らえなかったのかもしれません。 それか、可能性として考えられるのは
月照は処刑される覚悟ができていて、事前に辞世の句を西郷に渡しており
西郷は月照を助けられない申し訳なさのあまり、
発作的に船の上で、小便の最中の月照を後ろから抱えて
自分も死ぬつもりで海に飛び込んだ・・・
まあ、発作が起きるタイプの人間なことは確かなんで
西南戦争で玉砕の土壇場になって発作的に投降しようとしたみたいだし、
数々の暴言も発作的に口をついて出てるんだろうなとは思う 薩摩藩は西郷を守るために、西郷の墓まで作り、それを幕府の捕吏に見せて西郷死亡を偽装している。
心中自体が偽装だったかはともかく、偽装はあたりまえにあった 明治維新から欧米崇拝を深める日本政府に見切りを付け西南戦争で決起した西郷隆盛は正しかったね
この後、大久保利通が育てた官僚組織が太平洋戦争を引き起こすんだから。 それがほんとなら
日本戦史上もっとも愚かな2つの戦はともに、薩摩人の手によるものだったわけか 西郷隆盛は2人居た、とか言うことはないの?影武者徳川家康みたく >>490
西郷は当然ながら日向送りの意味する所は知ってただろうし、日向送りを月照に伝えた使者も西郷だったわけで
月照に日向送りの意味を当然伝えただろう
それはともかく日向送りの護送役だった西郷が、なぜ心中を計ったか?
月照は西郷の殉死を止めて論したことがあるくらいなのに、心中という形で二人で死ぬ事を西郷に許すとは思えない
月照なら粛々と、日向送りの末に一人で斬殺される道を選んだだろう
西郷側にも死を選ぶ以外に道の無い状況だったと推測するしかないわな >>492
は?w
昭和時代の馬鹿政治家と軍人だろ馬鹿w 西郷捏造伝説を守りたい人は地元の鹿児島老害歴史研究会とかでやってろよ >>492
>この後、大久保利通が育てた官僚組織が太平洋戦争を引き起こすんだから。
正しくは、山県有朋が作った参謀本部を中心とする軍事官僚や警察官僚が暴走して、
太平洋戦争を引起す。 >>501
薄っぺらい知見だね
カルト軍人の暴走を支えていたのは当時のネトウヨ的な世論だよ
昭和17年に小林秀雄などの知識人が集まって話し合われた
シンポジウム「近代の超克」を読むとよく分かる
当時の相当まともな人たちでさえ日本は欧米的な価値観を“超克すべき”である
と戦争に迎合するようなことを言ってるんだよな 暴走軍人が勝手に戦争を始めて、戦争を望まない国民世論を統制し
全体主義体制を無理強いしていった
などというストーリーは戦後に創られたものである
戦争中の大本営発表ニュースなどは、今でいえば“日本すごい”系記事と
同じであり、当時のネトウヨ国民がホルホルして聞いていたのだ 西郷さんの“征韓論”も同じである
征韓論といえば西郷さんが暴走したように語られることが多いが
実際は世論(といっても当時の世論は旧武士層だが)が
征韓論を支持していたのだ
大久保らも、反対したのは“征韓論”ではなく、
ネトウヨ的な発想で戦争しようとしてる西郷さんを否定しただけ あのタイミングで朝鮮出兵なんかやってたら列強に付け込まれてとんでもない借金
せおわされてた可能性すらあったね。直後の台湾征討くらいが、最初の海外派兵として
ちょうどぐあいがいいくらいだった。清国にしてみりゃどうでもいい場所なうえ、大義は
完全に日本にあったわけで 西郷が渡韓しても向こうがそんな簡単に殺してくるとも思えないし
結局、大義名分を持たず出兵して、逆に清国や列強に、介入させる大義名分を与えてしまうんだろうな
それ以前に西郷や板垣が指揮したら、緒戦で勝てても補給で破綻しそう 軍艦2隻を派遣して砲撃を誘い、陸戦隊で砲台を破壊するってあたりがベストな
扱いだったとはいえるね。そういう意味では国内的にはグダグダにすぎたように
みえても選択された行動は、日本としてはセンスのいい外交・軍事行動だったといえる。 西郷には“制海権”という概念があったかどうかも怪しい 大久保が反対したのは征韓じゃなく、西郷の全権大使の派遣だからね
西郷は即時出兵に反対して大使派遣すると言うので征韓などそもそも言ってない
大体世論が戦争を言ったとしても世論に戦争する決定権など無い
大久保が大久保政権の危機に過ぎないのを日本の危機にすり替え有司専制を正当化したため、その後の藩閥軍閥の暴走につながったんでしょ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています