西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) >>492
>この後、大久保利通が育てた官僚組織が太平洋戦争を引き起こすんだから。
正しくは、山県有朋が作った参謀本部を中心とする軍事官僚や警察官僚が暴走して、
太平洋戦争を引起す。 >>501
薄っぺらい知見だね
カルト軍人の暴走を支えていたのは当時のネトウヨ的な世論だよ
昭和17年に小林秀雄などの知識人が集まって話し合われた
シンポジウム「近代の超克」を読むとよく分かる
当時の相当まともな人たちでさえ日本は欧米的な価値観を“超克すべき”である
と戦争に迎合するようなことを言ってるんだよな 暴走軍人が勝手に戦争を始めて、戦争を望まない国民世論を統制し
全体主義体制を無理強いしていった
などというストーリーは戦後に創られたものである
戦争中の大本営発表ニュースなどは、今でいえば“日本すごい”系記事と
同じであり、当時のネトウヨ国民がホルホルして聞いていたのだ 西郷さんの“征韓論”も同じである
征韓論といえば西郷さんが暴走したように語られることが多いが
実際は世論(といっても当時の世論は旧武士層だが)が
征韓論を支持していたのだ
大久保らも、反対したのは“征韓論”ではなく、
ネトウヨ的な発想で戦争しようとしてる西郷さんを否定しただけ あのタイミングで朝鮮出兵なんかやってたら列強に付け込まれてとんでもない借金
せおわされてた可能性すらあったね。直後の台湾征討くらいが、最初の海外派兵として
ちょうどぐあいがいいくらいだった。清国にしてみりゃどうでもいい場所なうえ、大義は
完全に日本にあったわけで 西郷が渡韓しても向こうがそんな簡単に殺してくるとも思えないし
結局、大義名分を持たず出兵して、逆に清国や列強に、介入させる大義名分を与えてしまうんだろうな
それ以前に西郷や板垣が指揮したら、緒戦で勝てても補給で破綻しそう 軍艦2隻を派遣して砲撃を誘い、陸戦隊で砲台を破壊するってあたりがベストな
扱いだったとはいえるね。そういう意味では国内的にはグダグダにすぎたように
みえても選択された行動は、日本としてはセンスのいい外交・軍事行動だったといえる。 西郷には“制海権”という概念があったかどうかも怪しい 大久保が反対したのは征韓じゃなく、西郷の全権大使の派遣だからね
西郷は即時出兵に反対して大使派遣すると言うので征韓などそもそも言ってない
大体世論が戦争を言ったとしても世論に戦争する決定権など無い
大久保が大久保政権の危機に過ぎないのを日本の危機にすり替え有司専制を正当化したため、その後の藩閥軍閥の暴走につながったんでしょ >>504
西郷らが下野した翌年には台湾出兵したわ馬鹿w >>509
>大体世論が戦争を言ったとしても世論に戦争する決定権など無い
それがぜんぜんあるんだな
佐賀戦争、西南戦争って知ってる? 確かに西郷どんが半島に行けば殺されたかもしれんし
逆に相手の口車に乗って少し早い半島版西南戦争になったかもしれんとかw >お前がなw
>意味不明w
これが反論のつもりでいる異次元バカ 過去スレ見れば理解ると思うが、ここまで語尾に必ず「馬鹿w」というやつも珍しい・・・・・ 西郷さんて、今にいたるまで鹿児島がクソ化した全ての元凶だよね
嘘伝説をウソだと言えない風土からまともな人間が育つわけない うちは西郷のせいでえらい目にあったらしいからな
世間では英雄かも知れんが、うちでは悪魔 妄想ワロタwwww
> 嘘伝説をウソだと言えない風土からまともな人間が育つわけない 明治6年の政変で淡々と去ったのは凄い
それだけでも1000年の歴史に残る
私欲があれば軍部でクーデター起こし西郷独裁国家も作れた 西郷独裁国家って、天皇を廃して朝鮮金王朝みたいなのを作るのか??
まあ実際鹿児島で作ったけどな、西郷王朝
東京で西郷が配下の軍事力に訴えなかったのは節度があったと思うが
太政官で正式に否定されたのだから、兵を挙げたら賊軍
西郷一派は天皇を奪うことも検討したかもしれないが
天皇は岩倉を信任していたから、それは無理だったんだろう
明治天皇は西郷を最も愛していたとかの伝説もデタラメだったと分かる 明治天皇と西郷隆盛にまつわる伝説
1 西郷は少年明治天皇を鍛えるために一緒に相撲を取った
2 女官あさりをやめない明治天皇を諫めるために
西郷は御所の廊下で天皇を待ち伏せし、天皇を捕まえると投げ飛ばした
3 江戸の馬場で一緒に乗馬の稽古をしていた天皇が落馬し「痛い」と呻いた
西郷は下馬することもせず
馬上から「男が痛いなどと言ってはいけません」と叱った
4 西南戦争で西郷戦死の報を聞いた明治天皇が
「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らした
5 西南戦争の翌年、明治天皇が歌会で「西郷隆盛」というお題を出し
「西郷の功績を忘れてはならない」と言った 1 が事実なら、明治天皇が少年の頃というのは京都時代ですが
戊辰戦争も終わってないこの時期に、教育担当侍従でも無い西郷が
明治天皇とのん気に相撲を取るなどあり得ない
直接言葉を交わしたことがあるかさえ怪しい時期だ
2 は山岡鉄舟の逸話がなぜか西郷さんスゲエ伝説にすり替えられたもの
3 がおかしいのは西郷が馬に乗っていること
明治天皇の証言によると西郷は閲兵式でも馬に乗らず一人だけ歩いていたそうだ
腕に障害があったし金玉肥大で乗馬どころではなかった
したがって1〜3は明らかに否定できる
4と5は分からないが、事実だったとしても、人としてふつうの対応ですよね あの時代の天皇は、人ではなく現人神という立場ですからね。
天子が西郷の死を悼んだ、ということにはもっと重い意味があるということでしょう。
「人として当然」なんて言い方は、いかにも薄っぺらな歴史認識ですね。 >>534
明治帝が天皇(現人神)としての教育を受けているならなおのこと
特定の侍臣に対する好悪を口にすることは慎むよう厳しく教育されているはずだよ
帝王学の基本中の基本
明治帝が自分の言葉の「重み」を理解してたなら
西郷に対する発言は絶対に無いんだな
もし本当に明治帝が西郷びいきの発言を繰り返してたのなら
軽い人間だったということ スレ主は調子に乗って妄想自説を開陳し、
つっこみを受けるととっさに訳の分からない言い逃れをします。
過去レスでは「『思想信条』とは具体的方策のことを意味するのだ」と明らかな誤りを開陳していました。
「思想信条」という言葉の意味を理解していないのに、幕末維新期の歴史を語れるはずがありません。
>>536はその典型です。
>>536は、おそらく昭和天皇が「ひいき力士を明らかにしなかった」といったエピソードを、
都合よくこじつけたものでしょう。
時代背景も好悪の対象も立場(現人神か象徴か)の違いも何も考慮していない。
もっとよく分からないのは、
>>531-533、>>536は果たして、明治天皇のことを肯定的にとらえているのか、否定的なのか。
実に腹の座らないその場しのぎの書き込みですね。 >>539
意味不明
天皇や大名が好悪や感情を出さないように振る舞うのは本当だよ
力士がどうの言い出してるとこ見ると、そんなことも知らなかったんだね
帝王学って聞いたことない?
象徴とか現人神とか、地域の問題じゃない
現代だってまともな社長は人で態度を絶対に変えないようにするものだ
>>534が「重い意味がある」などと“庶民感覚”で天皇と西郷の逸話を解釈するという馬鹿げたことをやってるから、
天皇とは本当はどういうものか説明してあげただけ
“庶民感覚”に訴えてる時点でその美談も甚だ怪しんだよな 帝王学てブラックなノウハウだと考えてる人が多いけど実はホワイト
島津久光は西郷隆盛にジゴローと言われたときに、感情を出さず聞き流したというね
それが大名の正しい態度(久光は大名ではないが)
と言っても久光は西郷が帰った後に大久保になんであんなやつ連れて来たんだとキレまくったらしいですがw 第59代宇多天皇が遺した、天皇の心得「寛平御遺誡」
・賞罰を明らかにし、愛憎をふりまわすことなかれ。
・皆に公平に、好悪に偏るべきでない。
・万事について惑溺して度を過ごしてはいけない。
・天子たるもの喜怒を慎み、表情にだしてはいけない。等々
帝王学というのはここから来てます
現人神などという、人を超越した“設定”も、ようは帝王学の趣旨そのものなんだよな >>542
現人神というのは天皇支配の根拠たる架空の設定ですので帝王学とはちょっと違う
天皇が感情を出さないよう教育されていたのはほんとう
昭和天皇も能面のように表情を出さないことが多かった
今上天皇は笑いますが誰に対しても笑みを絶やさないので、あれはあれで笑ってないのと同じで、現代版の帝王学なんですよね 天皇が神格化されたのは昭和だろう
大久保、岩倉なんて天皇に嘘の報告して西郷の遣韓を握りつぶし
天皇の命令を無視して江藤を処刑 偽勅、偽錦旗、なんでもあり
でも伏見宮系の坊さんを還俗させて新規に宮家を立てた
好きなように利用してただけ >>533
3の西郷が馬に乗らなかった件に関しては、ちょいと異論あり
少なくても禁門の変までは馬に乗ってる(馬上で流れ弾に当たって負傷している)し
そもそも西郷が馬に乗るのを好まなかったのは、当時としては規格外の巨漢ゆえに馬を乗り潰してしまうからと高島も語ってる
有名な金玉肥大も結構晩年の話だから、いつから小西瓜サイズの陰嚢になったのかは不明
腕の障害に関しては剣で身を立てるには無理があったろうが、相撲好きだったりの腕っぷしに関する逸話は多いので、手綱を握るのに障害と言うほどではなかったろう
西郷が腕の障害で剣の道を諦めたと言う逸話はあっても、日常生活で難儀したと言う話はない
晩年ですら狩猟でライフルぶっ放しまくってるしね そうすると正論を通し下野した西郷さんが後世に光るな
だから人気あるんだろな >>546
高島ってあの高島鞆之助ですか?
もしかして西郷が馬上から明治天皇を叱った逸話も高島がソースなのかしら?
高島がどういう傾向の人なのかは、>>451あたりを見れば、分かります・・・ 西郷が馬に乗ってる姿を見たことがないと、当事者の明治天皇が証言してる時点で >>544
大昔、海音寺潮五郎と司馬遼太郎の対談を読んだが、二人は維新三傑あたりは天皇の絶対中心主義みたいなものを二流と捉えてると言ってたな
三傑がいなくなって以降、徐々に強くなっていったようだ 江戸時代まで(というか飛鳥奈良の昔から)国に君主がいて、君主が直接命令をばんばん出して
その命令には絶対服従、ってのが日本の国制そのものだったからな。鎌倉以降になって天皇の
権限が衰えて事実上の権威・権力の分離がおこっていた、なんて事実すら幕末の志士にはまったく
理解されてなかったろう。そういう史観はそれこそ近代の歴史学の成果であって、天皇さまが
国を治められるのなら天皇親政が「あたりまえ」というのが実感というか体感だったのではないか。 維新三傑はこれからの時代は国民主義、立憲主義という意識が天皇主義より強かったんでしょ >>541
そもそも島津久光って西郷隆盛を持ち上げるために悪役扱いされた可哀想な名君だわ
確かに西郷を見出したのは斉彬公だったが、実際に西郷が大仕事を成したのは久光の指揮下での事だしね
言わば最も西郷を上手に使い活躍させたのが久光
学者肌でありながら斉彬公以上の統率力を発揮して時代を動かしたのに、あまりにも過小評価され過ぎなのよ
>>548
>>549
明治天皇を馬上から叱りつけたってのは、西郷の性格から言っても流石にありえんだろうね
ただ禁門の変では実際に馬に乗ってたわけだからねぇ
金玉肥大が何歳くらいの頃かはっきりしないが、明治維新後も狩猟で野山駆け巡ったりしてるとこ見ると、金玉肥大は結構晩年の話だわな スレ主は>>533で、明治天皇の言動を「人としてふつう」と書いた。
しかし、明治天皇の立場を普通の人と同じに考えるのは無理がある、
と指摘したら、「帝王学」を持ち出した。
スレ主の考える「帝王学」は世界共通のものであるらしく、
その例として挙げたのが宇多天皇(9世紀の話)です。
それが西洋の王族にも明治天皇にも現代の社長にも通じる、という。
一神教の西洋と、八百万の神の国なんて違いは一切考えていません。
また世襲制の王族の「帝王学」と、現代の経営者の違いも考えていません。
もし子に継がせることを前提として子供に「帝王学」を施す経営者がいたら、
その会社は明らかな「ブラック」でしょうよ。
スレ主は単に自説の「好悪を明らかにしないのが帝王学」という前提を、
すべてに当てはまるようこじつけているにすぎません。
まあ「思想信条」の意味を知らなかった人ですからね。
なんでもその場しのぎです。
西郷が「敬天愛人」といったときに、天皇を中心に据えて、人民がまとまる国を考えていたのでしょう。
明治という時代の流れを考えると、その見通しは間違っていなかったと思います。 ↑
きみの頭の中にある「独りよがりな言葉の定義」を人に押し付けるのはやめてくれ
帝王学は>>541も書いてるけど、主君が自分を律するための
どちらかと言えばホワイトなものだよ
親が子供たちを公平に扱う
なども小さな帝王学だと思う
支配が目的だったとしてもね
言葉の定義や使い方は人によって違うし
文脈の中で変化するものでもあり、
きみの頭の中の一方的な言語観に、忖度して合わせることなど不可能だ
だいたい「天皇を中心に据えて、人民がまとまる国」などというあやふやな美辞麗句を並べ、
それで何か言った気になってるきみの言語観など一顧だにする価値も無いと思う
相容れないなら来ないほうがいいんじゃないのか てか寧ろ久光と西郷の板挟みになっていた連中が相当だったのだろうというお話かとw >一顧だにする価値も無い
それならスルーすればいいだけなのにね。 >>557
まぁ西郷も維新後は久光と新政府の板挟みになるわけで
久光の側近連中は「我々の苦労を思い知ったか、コノヤロウ」って感じだったんじゃね?
明治に入ってからは久光と西郷の関係が意外と悪くなかったのは、こういうのも関係してるのかもね〜 明治5年の時点では久光の西郷への怒りは収まるどころか激しさを増していて
天皇の鹿児島巡幸の際に、一緒に来た西郷が久光を無視して挨拶にも行かなかった
ことから怒りが沸騰し「十四か条の意見書」を政府に提出している
以下は西郷に対する詰問であると言われている
・君主という存在がありながら勝手に高位高官を引き受け、その地位にあること
・美風良俗を破壊し、階級を打破し、西洋に心酔すること
・高給をむさぼり、自分に従うものだけを登用し、苛政を放置していること
・御巡幸の際、供奉第一の高官として失態があったこと 久光の西郷への態度が柔らぐのは明治6年の政変で西郷が鹿児島へ下野してからだ
久光としては打算的に西郷を自分の陣営に取り込み、ともに政府へ圧力をかけることを狙ったようだ
西郷にとっても悪い話ではなかったはずだが、西郷はこれを断っている
久光と西郷が和解したというのは、一種の西郷伝説(西郷の懐の深さをアピールする美談?
もしくは大久保を悪者にするためか?)であり、
実際には西郷と久光の関係は最期まで冷え切ったものであった 維新後の三傑
西郷 俺流を貫く
大久保 専制を目指す
木戸 憲法制定を唱える
こんな感じじゃね 維新前の西郷は薩長や薩土の連携に奔走したが
下野後の西郷は板垣や江藤との提携を断り久光や私学校とも距離を散っている
何を考えていたか不明である >>563
江藤との連携はありえんでしょ
西郷は政府転覆を意図して下野したわけではないんだし >>560
十四か条の意見書までは確かに西郷を目の敵にしてたろうが、その後の西郷の狼狽ぶりを見て久光は十分に満足したんじゃね?
わりと茶目っ気もあるし、家臣の意見を大切にする人だったかとかと
どうも久光の明治維新後の頑固な態度を曲解されすぎてると思う
久光って権威や権力に固執するタイプじゃなく、本来は実直で学者肌の人だわ
独裁者でもなけりゃ薩摩の象徴でもなけりゃ島津家の守護者でもない
ただ本人が意図した以上に統率力を発揮してしまって、不本意ながら幕末最強レベルのリーダになってしまっただけのこと 西郷が政府転覆の野心を持っていたかですが、
西南戦争の時の西郷の言動
「自分は陸軍大将であるから全国の兵を率いる権限がある」
「政府軍の多くも自分のもとに馳せ参じる」
などを考えると、政府転覆どころか、自分は今だ政府軍のトップであると
考えていたことになり、そのへんが西郷が各地の不平士族(無職)と連携しなかった
最大の理由なのではと思ったりします
実際政府からは陸軍大将としての給金が鹿児島に送られており
(西郷は受け取らず県庁で預かる形になっていたようだが)
桐野利秋や篠原国幹にも同様に少将の給金が送られていたはず
つまり彼らは、後世の我々が思っているような“下野”という感覚で鹿児島にいたのではなく
一時的に政府の仕事をサポタージュしてるような感覚で
鹿児島で軍事教練に励んでいたのではないのか
そう考えれば、西郷らが佐賀戦争という無職の反乱に呼応しなかったのも納得いくし
西南戦争で自らの立場を異常に過大評価していたのも分かる
まあ仮説ですが 明治六年の政変後も
政府から西郷へは、東京に出仕してくれるよう再三要請があった
久光にも同様の要請はあり、久光は度々政府に出仕している
西郷は出仕を断っているが、官位や陸軍大将の肩書きはそのままである
給金が自分に送られてきていることも合わせて、
政府が下手に出てくるのはまんざらでもなかったはずである
後世の西郷美談では、それを西郷と大久保の絆であるかのように説明するが
ようは大久保の巧妙な懐柔術により、西郷が壮大な勘違いをさせられていたのである スレ主が、>>569にあるような自分の解釈による思い込みを、
「史実」と称して5ちゃんに書き込むのは、
テンプレにある通り。
「史実」という言葉の意味から説明しないといけないのは、いかにも難儀ですね。 ふつうに史実しか書いてないんだけどな
官位、給金、出仕要請、西郷の勘違い発言・・・
史実の背景を論じてるだけで
>>570
まあしかし大晦日の早朝から、大嫌いなスレの監視&必死に人のあげあし取り(しかもいつも内容ゼロ)とはなんとも歪んだ人生ですなあ・・・ 西南戦争の出陣の際、西郷は陸軍大将の正装で出立している
西郷以下の政府軍にいた者たちもその制服で出立したと言われている
たんにそれしか軍装を持っていなかったのかもしれないが、
西郷が賊軍認定された報せを聞いて、大将の軍服を焼き捨てたことを考えると
その瞬間まで西郷は自分を政府側の人間と思い込んでいたフシがある
江戸時代までは、出仕していなくても、幕臣や藩士はそのまんま幕臣や藩士であることに
変わりはなく、西郷たちもそういう感覚でいたとしても不思議は無い
勝手に解釈すんなという人は、むしろ現代の我々の就業観で西郷たちを解釈していないか
立ち止まって考えたほうがいいと思う 西郷の発言は挙兵後に過ぎんから
単に楽観的だったか、挙兵に正義があるという意図で言ったか分からない
突発的に起きた西南戦争を元は考えてないし
私学校が暴発した時しまったと言ってる
一方で前原の乱を喜んだりしてる それではアンチも信者も客観派も、皆様良いお年をお迎えください
来年は大河もあるから、良くも悪くもこのスレが盛り上がってくれることをお祈りしています
個人的には西郷信仰の犠牲となった島津久光公の再評価を… 逆に西郷は写真を一枚も残さなかったことにより、カリスマ性がさらに高まったよな >>571
ソースは?w
>後世の西郷美談では、それを西郷と大久保の絆であるかのように説明するが
ようは大久保の巧妙な懐柔術により、西郷が壮大な勘違いをさせられていたのである 意味不明
西郷さんが各地の不平士族と連携せずに、政府転覆の機を逸してしまったのも
西郷さんの立場(陸軍大将)を考えれば、そうなるよなという
どちらかというと、大久保にハメられた西郷さんに同情的な解釈なのに・・・ 信者ってのは、知識が無いだけではなく
精神的な余裕も無いからなのか、
西郷さんが何か言われている!と思うと
直ぐカッとなって反応しちゃうんだよな 徳川倒幕の時に雄藩連合を組んだ結果、新政府の権力が分散し、そのせいで薩摩の力が相対的に低下、西郷自身も政府から追われる憂き目を見た。
西郷はその反省に立って第二の維新たる西郷軍挙兵は単独で実行することにこだわった
というのが司馬遼太郎の解釈だったな。 >>585
それは司馬遼太郎の過大評価だと思う
そもそも「政争に敗れたための下野」つうのが、西郷を新政府の要人という評価から出た誤解かと
西郷本人にしてみれば、自身は地方公務員が出向で中央政府に出仕していたに過ぎないって感覚だったのでは
だから下野では無く、勝手に出向先から帰ってきただけ
まぁ勝手に帰るっこと自体アレな感じだが
しかも西郷は帰郷したがる悪癖がある上に体調不良も抱えてて、とにかく鹿児島に隠遁したかっただけじゃないのかねぇ
身体も衰えて自身が最後の大仕事と思ってた韓国行きの話も潰され、もうやる事も無くなったんで元の薩摩藩士に帰りますって事だったんだろ >>586
自分が司馬遼太郎より物が分かってる、という自信はどこから来るんだろうね。
言ってることは「帰るっこと自体アレ」とか中身がまるでないが。 いろんな解釈があるようだけどいずれも西郷の愚かさが際立ってんな
西郷さんは担がれていただけだとか、「しもた」と言ったとか、アホか
鹿児島で反政府的な集団を放置してニヤニヤしてた張本人なのに >>591
ソースは?w
> 鹿児島で反政府的な集団を放置してニヤニヤしてた張本人なのに 西郷の下に桐野利秋という人がいたけど、われわれは桐野について深く考えることはしない
桐野はそれほど深い見識を持っていたようには見えないし、陸軍少将まで昇った人だが
それは親分の西郷が出世して、引き上げてもらったからというのを誰でも知ってるからだ
西南戦争で桐野は首謀者の一人であったが、誰もそこに深い意味を見出したりはしない 西郷も桐野同様で、本来は深く考察しても意味の無い人なのだ
他の政府メンバーに比べて近代や対外政策についての理解は格段に劣り
軍事についても、名目上司令官に就くことが多かったが参謀がいなければ何もできない素人である その意味の無い人がなぜ新政府のトップまで昇り詰めたのかを深く考えることには意味があるが
西郷の行動に深い意味を見出すことには意味が無い 桐野も西南戦争の首謀者じゃないからな、西南戦争は私学校の弾薬庫襲撃で起きたんだし
だから西郷も「しもた」と一声上げた
さらに大久保・川路の西郷刺殺の疑いで、西郷も政府を信用できなくなったんだろうな
参謀が居なければは木戸や大久保も同じだしな >>593
桐野は私学校の設立には関わったけど、実は西郷と同じくその運営にはさして関与してない
むしろ士族就農のために設立された吉野開墾社に熱心で、ひたすら吉野台地で荒地を耕して芋畑作る毎日だった
私学校党の首領扱いもそもそも間違いで、最初は私学校党の若者を抑える役目だったのだわ
それが暴発した若者達に西郷より一歩先に担ぎ出されてしまったのだわ 連投申し訳ないが言わずにはいられない
今度の大河って西郷と大久保が、ガキの頃からお隣さんの幼馴染って設定なの?
いやもう、なんなのよ…それ >>598
吉野開墾社のことは知ってるけど、西南戦争はあらゆる記録を見ても
桐野が中心だわな
旧薩摩藩士全員出陣とかのキチガイ戦略決めたのも桐野だし
最期まで徹底抗戦を主張したのも桐野だ
最初の火薬庫襲撃に関わってないから、桐野は西南戦争の首謀者ではないというのは無理ありすぎ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています