【2018年大河ドラマ】西郷どん part1【西郷隆盛】
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極貧の下級武士にすぎなかった素朴な男・西郷隆盛(西郷どん)が、南国奄美で愛に目覚め、勝海舟、坂本龍馬ら盟友と出会い、揺るぎなき「革命家」へと覚醒し、やがて明治維新を成し遂げていく物語。
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Facebook http://www.facebook.com/NHKsegodon/ 西南雄藩は自分の先見性を強調するために「早い段階から討幕だった」
という点を強調するかもしれないけど、旧体制側の視点ではそうでもない
旧体制側が自分の先見性を強調するとしたら「開国−攘夷」の対立軸のほうでしょ。
というか>>381が「文久ごろから討幕なんてねえから」と言いつつ
「佐幕」という呼称を用いてるあたりに問題に根深さがある >>382
「佐幕派」って言葉は文久頃から土佐の連中は使ってるからね
ただし「倒幕派」の反対語ではないけど
というか元レスで参預会議が言及されてるのに「開国−攘夷」の対立軸なんて
書いてしまうあたりに問題の根深さがあるな 大山さあ とか言うオッサンは誰だったの?大山巌ではなかったみたいだし。 あのさぁ
NHKのドラマなんかで真実の歴史を見れると思ってんのか
こんなの実況板にでも立てたらいいんだ
日本の映画やドラマや小説で描かれる歴史ものは全て嘘
大学ですら歴史学部は認可されない
だからアメリカ映画の「ラストサムライ」でも見た方がマシだ
これも架空ではあるが
でも日本では絶対に見れないタブーが見れる
それは薩長の背後に白人が居たってことだ
こんなのを映像化されないように日本の映画監督は全て朝鮮人 >>376
ほんとは慶喜の首を要求したのは鳥羽伏見で逃げた後なのにね
当時の薩摩は戦闘中に仲間をおいて逃げた奴は問答無用で首はねるべしって価値観だから
西郷がそう思うのは薩摩人としては普通
佐賀の乱から逃げてきた江藤を助けなかったのも同じ理由 西郷という虚像・・・ その虚像を恐れ、虚像を担ぎ、虚像に希望を託す― 司馬先生の言がストンと落ちるね。 素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩義士 謎の大量死】その1
鹿児島県城山東登山口に「薩摩義士碑」(大正9年設置)が建っている。
宝暦年間(1753年)に薩摩藩が幕府に命じられた木曽川治水工事に従事した人々のことである。
薩摩藩士の総勢は947人。その内、異郷での病死者が34人で、
さらに54人の自殺者(自刃、切腹)が出て計80余名が義士として祭られている。
しかし54人が自刃というのは異常である。
wikipediaなどで調べると、幕府役人の横暴な振る舞いに対する抗議の自決であった
と美談調で説明されている。
しかし名古屋大学羽賀祥二氏の検証で、自決を裏付ける史料はほとんど存在しないことが明らかにされた。
薩摩藩士佐久間源太夫が幕府にあてた上申書によると、工事期間中に病気(赤痢)が流行し薩摩藩関係者の半数が罹患、
そのうち数十人が病死したとあるだけだ。 素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩義士 謎の大量死】その2
薩摩普請団の責任者であった家老平田靱負も、
すべての工事を終えたあと、一切の責任を負って割腹自殺したとされているが、
これもどうだろう・・
この話が広く知られるようになったのは
昭和29年、宝暦治水200周年に発行された「宝暦治水と薩摩義士」の発行からである。
この中で「平田総奉行は二十五日東天の朝日を拝み、すべての責任を一身に負い悲壮な最後をとげた」ことになっている。
ところが、薩摩藩の公式記録「島津氏世録正統系図」には、
「平田は昨年から病気でいまだ回復せず、さらに胃を病んで5月24日数度吐血し、25日死す」とある。
しかも死の前日に国元の家老あてに、工事が終わり引き揚げるが、支払いも完了しないので
副奉行伊集院十蔵を明25日出発させ、自分は26日に出立の予定であると報告書を出していて、
自決の覚悟は見当たらない。
平田靱負も病死であったのだ。 素晴らしい薩摩文化シリーズ
【薩摩義士 謎の大量死】その3
そもそも 宝暦治水事業=薩摩普請 という認識自体がはなはだ歪められたものである。
薩摩藩が多大な犠牲と大きな負担を強いられたことは事実である。
しかし実際の普請は、村が請け負って実施されており、
普請に「不案内」とされた薩摩藩に要請されたのは、
現地での資材?人員管理(あわせて費用弁済)というロジスティック(後方支援業務)に限定されたもので、
設計や施工に従事したり、その指揮?監督をするものではなかった。
またこの宝暦治水事業は苦労や犠牲のわりに大きな成果は得られず、逆に水害が激化した村もあり、
悪く言えば、流域の村々による水害の押し付け合いという構図が生んだ治水事業であったのだ。
ではなぜこのような「黒歴史」が現在では「美談」として顕彰されているのか。
前述の羽賀祥二氏は、薩摩義士顕彰運動の端緒となった1880?90年代の水害とその被害状況を精査し、
当該期は、近世の治水体制が崩壊し、新たな治水体制が構築される過渡期であったと捉えている。
そして、治水への国家的対応を求める地域社会の要望が、宝暦年間に薩摩藩が幕命をうけて参加した治水事業への歴史的回顧の動きを生みだし、
「薩摩義士」の美談“創出”とそれを地域社会が顕彰する持続的な運動を展開させたことを明らかにした。
「宝暦治水工事と〈聖地〉の誕生」 PDF版
名古屋大学大学院 羽賀祥二
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/11091/3/annals_03_75-102.pdf おいどんは朝鮮人郷中からきた田布施兵児二才でごわす ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています