西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男 2
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) もう一人、西郷をよく知る人物の西郷評を紹介します。
市来四郎。西郷とともに島津斉彬の片腕として働き、集成館事業を遂行した人です。
「 西郷は掛け軸などの書をよく描くだけで、学識は無く、文章をつくる能力も無かった。
性質は粗暴で理財にうとく、実務も執れなかった。
いつも少年とばかり付き合い、同年代の人との付き合いは二、三人しかいなかった。
西郷に異論を言う者とは付き合わず、可愛がっていた少年でも、
ひとたび西郷に敵視されると、憎悪を剥き出しに悪口を言われ、捨てられる者も多かった。
器量の大きい人とは言えず、相手が他県人か同県人かで、態度や言動が変わった。
議論をすることはなく、物事を進めるに腕力に頼る癖があり、
そういう意味で豪傑と言えなくもないが、君主の風采はまるで無かった。」 ■ 西郷隆盛 伝説と史実
伝説 : 比類無き大度量・大至誠の人。誰もがその巨眼に引き込まれ敬愛した
史実 : 実際に会った人の証言 「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算している」
伝説 : 極貧の下級武士の出身
史実 : 西郷家の序列は薩摩藩の上位3%の家格
伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
史実 : 玉砕の5日前に“自分だけ”政府軍に助命嘆願 → 拒否られている
伝説 : 「晋どん、ここらでよか」と潔く自決
史実 : 玉砕当日城山の洞窟から逃走 → 桐野利秋に見つかり強制玉砕
伝説 : 清貧、高潔、質素な食事
史実 : 政府からの給料が現在価値で月2千万円 年収2億4千万円
豚の霜降り肉の食べ過ぎで超肥満に
伝説 : 自宅は雨漏りするボロ屋
史実 : 千百坪の超大豪邸に暮らす。使用人20人、飼い犬20匹
伝説 : 「子孫の為に美田を買わず」西郷家家訓
史実 : 西郷一族で東京ドーム117個分の土地を買い占め
伝説 : 「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」坂本龍馬による西郷評
史実 : 勝海舟による創作
伝説 : 幕府から指名手配された親友月照を不憫に思い心中を試みる
史実 : 藩命により、死ぬ気など無かった月照を海に突き落として殺害
伝説 : 江戸総攻撃を中止させ江戸百万人を救う
史実 : そもそも総攻撃を主張していたのが西郷本人だった
総攻撃に反対する英国大使パークスの圧力により断念
伝説 : 道義を貫きとおした巨星
史実 : 浪士を雇い、江戸で放火、掠奪、強姦、卑劣の限りを尽くし幕府を挑発 伝説 : 大久保利通とは幼少時からの親友。大久保家が困窮した時期、
利通少年は西郷家で食事を摂らせて貰っていた
史実 : 同じ町内の顔見知り程度で、個人的な付き合いは一切無し
親しくなったのは青年期以降に精忠組で一緒になってから
伝説 : 大久保利通による西郷暗殺指令
史実 : 鹿児島士族が政府の密偵を凄惨な拷問にかけて自白を強要しており、信憑性無し
伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
史実 : 子供を二人産ませた奄美の妻アイカナを捨てる
旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → 死亡
伝説 : 鹿児島私学校では西郷さん自ら若者たちに敬天愛人思想を講義
史実 : 当時の生徒の証言「西郷さんが私学校で講義したことは一回もありませんでした」
伝説 : 「西郷南洲翁遺訓」 西郷の教え41条
史実 : 東北庄内人によるフェイク
伝説 : 西南戦争は最初から勝てるとは思っていなかった
史実 : 当時の新聞に載った西郷の発言「各地の政府軍は我に従うだろう。春には東京で花見をしているはず」
伝説 : 民百姓にも慕われた西郷どん
史実 : 鹿児島で西郷さんが外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、
百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせた
西南戦争では、百姓たちは木の上から見物、
西郷軍兵士が死ぬと身ぐるみを剥ぎ、売る Q : 大河ドラマなどで描かれる西郷隆盛は虚像なの?
A :
大河で西郷が好意的に描かれている、
逆に言えばネガティブな史実や描写がごっそり抜けている
のは右翼団体や鹿児島人らが抗議してくるからだそうです。
どんな大河でもNHKに抗議は来ますが、
西郷ネタ、薩摩ネタに対する右翼団体と鹿児島人の抗議が一番多いらしい。
史実と違う、という抗議ならよいのですが、
史実通りネガティブな場面を入れると、「一方的で偏向的で悪意を感じる」という抗議が
執拗にくるらしいです。
かの司馬遼太郎も抗議を憂慮してか、
「跳ぶが如く」ではあえて筆を鈍らした、という話しを読んだことがあります。
「跳ぶが如く」の歯切れの悪い、奥歯にものがはさまったような書き方は
そんなところに理由があるのかもしれませんね。 Q : 西郷隆盛と大久保利通が薩摩の二大英雄とされ、鹿児島では誇りにされていると聞きました
A :
大久保は、西南戦争で西郷を殺し薩摩を滅ぼそうとした張本人として、
鹿児島では憎まれ嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていました。
現在、鹿児島市には大久保の銅像がありますが、これは西南戦争百周年に際して東京から
「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったそうです。
現在では、鹿児島でも大久保の再評価がされていますが、しばらく前までは
大久保の話も出来ないほどでありました。
鹿児島にある大久保の銅像は非常に高い台座の上に設置されているんですが、
これは鹿児島人による狼藉を考慮して、そのようになっているそうです。
大久保利通像
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/shins2m/20130612/20130612144650.jpg
大久保利通像 碑銘
http://livedoor.blogimg.jp/john96pierre/imgs/8/7/87ef85e5.jpg
「通」という字があからさまにズレていますが、
人としての道(通)に外れた男、という意味が込められているといわれる Q : 西郷さんの度量の広さが、江戸無血開城を成さしめ、江戸の町を戦火から救ったんですよね?
A :そもそも江戸総攻撃を強硬に主張していた張本人が西郷隆盛です
幕府を憎悪していた長州の木戸でさえ江戸総攻撃には反対していました
イギリス公使のパークスから攻撃をやめるよう圧力があったとも言われていますが、
ともかく西郷は態度を変え、攻撃は中止されました
西郷はいわば自分で振り上げた拳をひっこめただけなのですが、
後世なぜか、暴走寸前の官軍を西郷が抑え、総攻撃を中止させたかのように美談化されました Q : 西郷さんが征韓論というのは間違いで、ほんとうは遣韓論なんですよね?
西郷さんは丸腰で交渉に行って戦争を避けようとしたと聞きました。
A :
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。 Q :西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
行き場所を失った士族たちとともに、日本のため自ら滅ぶつもりの戦いだったんですよね?
A :
西郷はかねて回りの者に、
「熊本城に着けば、熊本鎮台は城門を開いて降るだろう。
そうなれば、熊本を拠点に九州を従え、広島(鎮台)を攻め、
大阪(鎮台)を破って海陸路で東上し、一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」(東京日日新聞)
と気持ち良さそうに語っていた。
またこうも語った。「自分は陸軍大将である。たとえ全国の兵を率いても
陛下の許されるところであり心配無用 」(「新編西南戦史」)
結果はみなさんご存知の通り、熊本城政府軍の徹底抗戦に遭った西郷軍は
緒戦から消耗し、戦わずして東上するつもりでいた西郷軍の敗色はこの時点で決定的になった。 Q : 西郷さんは民百姓のために戦ったんでしょ?
A :
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために
粉骨砕身した偶像であり鑑であるかもしれない。
しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの
象徴であったにすぎないのではないのか。
それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を
踏みにじった薩摩士族の大親分としか映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。
島に残された母アイカナは非業の死をとげる。
これは西郷という人間像の一コマではあるが、
実は次に述べる彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。 旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって
財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、
結局生存者はわずかに二十四人であった。
(前田長英著『黒糖騒動記』参照) Q : 西郷さんのおかげで明治政府は廃藩置県を断行し、旧体制からの決別を出来たんですよね?
A : 明治3年、新政府は廃藩置県に先立ち、
鹿児島の西郷隆盛と5千人の薩摩藩士を御親兵として東京に出仕させました。
廃藩置県に反発する武士層の反乱が予想されたため、
これを鎮圧するのに、薩摩兵とこれを束ねる西郷の力が必要であったのだが、
もっとも反乱を起こしそうなのが鹿児島住みの薩摩藩士と西郷であったために、
これを未然に懐柔しておくためでもあった。
ではなぜ西郷は懐柔されたのか。
西郷にとっての廃藩置県は、藩主に権力を返上させ、その下にいた士族が実権を持つ
という意味であったからだ。
西郷は、出仕の際に出した意見書(「西郷吉之助意見書」)で、
「新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、
近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようである」と糾弾しており、
廃藩置県には同意しても、士族中心の国体を固守する考えに変わりはなかった。
旧弊にとらわれない中央集権国家を目指す新政府とは同床異夢であったといえる。
新政府からの同様の懐柔措置は長州と土佐に対しても行われており、
いずれも御親兵を東京に出仕させている。
つまり西郷隆盛はあくまで、廃藩置県に協力した一人である、
という話なのです。
よく言われる、岩倉使節団が洋行しているあいだに、
西郷がその声望と求心力で、廃藩置県を断行した、という類の話しも
まったくのデタラメです。
新政府が廃藩置県を断行した後に、岩倉使節団は出発しています。 Q : 西南戦争で薩摩士族は自ら滅び、鹿児島にも新しい時代がやって来たんですよね?
それもこれも西郷さんの捨て身の深謀遠慮のおかげなんですよね?
A :
西郷さんや幹部の城下士たちは九州中を6カ月以上も逃げ回りました。
薩摩士族は自ら滅ぶどころか、4人に3人は投降などして生き延びました。
その姿はどう見ても、自ら死を選び、滅ぶつもりの者たちの姿ではありませんでした。
戦役後、鹿児島では実権が城下士から郷士に移っただけで、士族支配であることになんら変わらなかったのです。
『薩摩見聞記』はこう記しています。
「明治中期の鹿児島では平民社会の
状態をみると, それはまことに哀れなもので,
鹿児島城下のわずかな一部の商人のほかは
財産もなく, 知識もなく, 勢力もなく, 士族との間には
なお甚だしい格差があって, 容易に融和しそうにもない。
藩政が崩壊してすでに20年にもなろうとしているのに、
薩摩だけはなお依然たる封建の地である。
政治、役人、教育、警察等の世界において
士族の勢力が強いこと、日本全国にその類をみない」
とあり、この状態はなんと太平洋戦争後まで続いたのです。 Q : 新政府の高官たちが富貴や汚職にはしる中、西郷さんは質素倹約をして国家と国民のことを考えていたんですよね?
A :
西郷さんが賄賂を貰ったとか私腹を肥やしたなどの記録は一切ありません
ただ、質素倹約をしていたというのはどうでしょうか・・・
西郷さんが政府から貰っていた給金は現在の価値に換算すると月給2千万円
年収は2億4千万円です
住まいも江戸では元旗本屋敷、鹿児島では島津一族の広大な屋敷を買い取り
かなりリッチな生活をしていたようです
また自らの側近たちを軍の高官に高給で大量抜擢させるなど、人事の私物化(多くの犠牲を払い新政府を打ち立てた
薩摩藩士からすれば当然のご褒美かもしれませんが)は甚だしいものがありました
西郷さん的には民間の豪商などと癒着するのは絶対NGだったようですが、
政府のポストや金を自らの息のかかった子分たちに分配するのはOKだったようです 以下は原口虎雄氏の文章の引用
これまで鹿児島に赴任する人々の間では、「南洲と斉彬の悪口は言うな」という、鹿児島社
会の風潮を恐れるタブーがあったそうであるが、顧みるにこの私も尖鋭な西郷絶対論者の一人
であったから、恥ずかしい。
庄内藩士書き留むるところの「南洲先生遺訓」や西郷の詩文、親しみ深い「上野の西郷さん銅像」
や「キヨソネの西郷肖像」などが、わたしと西郷を結びつけてくれた。
私の母校の田上小学校の門標は西郷の直筆で、この学校を出、県立一中や第七高等学校への
通行の途には武の西郷屋敷があった。
七高では敬天会に入り南洲寺にもよく参禅したが、なかんずく西郷糸子夫人の生家、岩山先生
の御宅には朝夕にお世話になり、立派な温かい家風を慕った。
幼時から青年期まで武の西郷屋敷附近で育った私にとっては、西郷は神様であった。
西郷の一言一動が価値の尺度であった。
少しでも西郷を批判する者がいたら、すなわち私の敵であり、「打ち殺せ」という気分にかられた。
しかしのち東大法学部に法制史を学び、さらに薩摩史を専攻するようになってからは、私の思考
の軌跡に変化が生じた。
−中略− 西郷は道義国家の建設を目標としていた理想家だから維新革命に身命を賭したが、それ故に
第二、第三の維新を夢見た永遠の不平家である。
彼と同輩、または年長の人で尊敬したのは島津斉彬ぐらいで、他はおおかた彼の酷評の的に
なっている。
『西郷先生遺訓』は彼の理想であるが、現実の姿ではない。
維新草創の際、政府収入源は農村に求めざるを得ず、仮借なく封建貢租を取り立てたから、
明治元年から10年までの百姓一揆は維新前より頻発した。
少ない財源のうち4割を旧士族に与えねばならぬ当局の苦しみを西郷は知らなかったのだろうか。
米が1石、5、6円のころに1500円の巨大な年俸を受け、対外膨張論を唱えている。
西郷を取り巻く、財政も経済も世界情勢も知らない粗暴な私学校と袂をわかって、
多くの良識派の薩人が政府に残って近代国家建設の苦難に耐えたことを忘れてはならない。
弟の従道や従弟の大山巌、そのほか多年の朋友の心底は悲壮である。
もともと薩摩は日本南端の門戸で、黒潮岸辺を洗い、季節風が中国や異国の船を運んできた
外国と日本との接点である。
だから真っ先に外国文化の洗礼を受け、ハイカラ性が薩摩を支えてきた。
薩英戦争の結果、こだわりもなく英国文明の偉大さを学ぼうとして欧米に留学生を派遣した
聡明さや、敵味方を一様に供養する博愛の精神は、島津日新以来の薩摩の伝統である。
私学校の猛者たちの剛勇は、「薩摩的美学」の両面性の一つ、隼人以来の「バンカラ性」の
伝統であって、もう一つの美学「ハイカラ性」の欠落である。
太平洋戦争の誤りを二度と犯さぬためにも、「西郷神格論」からの脱却は今日的課題である ■「反薩長史観ブーム」の捏造を許すな■
「○流ブーム」に続き、新たなブームの捏造を極左マスゴミが仕掛ける動きがあったので、注意喚起を兼ねてここに公表する。
そのブームとは「反薩長史観」。その名の通り、薩摩長州の志士をボロクソに中傷する史観のことである。
誤解しないで頂きたいのは、この「反薩長史観」とは新選組や白虎隊などに心酔した結果の、一種の判官びいき的な「親幕反薩長」感情・史観のことではない。
これは反日パヨクが仕掛けた反日極左史観に他ならない。
イデオローグである武田鏡村は
「歴史修正主義的な傾向の強い安倍晋三首相は「長州」出身であり、その言動には「薩長史観」が深く反映されている。」
「薩摩と長州を中心としてつくられた絶対的な天皇主義、軍国主義、愛国心であった。」と言い、
「反薩長史観」のバックボーンが、反安倍、反日、反皇室のパヨク思想であることを図らずも吐露している。
奴らの狙いは何か?それは2018年を見据えた反日パヨク運動の扇動である。
2018年は明治維新からちょうど150年目である。またこの年のNHK大河ドラマは「西郷どん」である。
この歴史的な節目の年に便乗する形で反日パヨク運動を激化させる危険性がある。
例えば・・・
・政府主催の明治150年式典に対するテロ
・「鹿児島県民と山口県民は日本最凶のDQN県民」というプロパガンダを垂れ流し、日本社会の分断を図る。(いわゆる「田布施陰謀論」もこれの変種である)
・「明治維新を評価する奴はネトウヨ」キャンペーンを繰り広げ、評価する人に対する嫌がらせやテロをする。
・「(アメリカ南軍のリー将軍像のように)西郷隆盛の銅像をぶっ壊せ!!」と喚き、西郷像を破壊する。
・西郷像のみならず維新の元勲の像も破壊され、靖国神社や松陰神社などの元勲由来の神社もテロの標的となる。
・「皇太子の娘の名前を改名せよ!」と喚き、東宮御所前をデモ行進する。(御名前の由来が西郷の座右の銘である「敬天愛人」だから)
このような奇痴害活動を絶対に阻止しなければならないし、反薩長史観を称揚するマスゴミを厳しく指弾しなければならない。 というか、江戸での狼藉支持さえ知っていればヤバい人物と分かるわけで
鹿児島人以外は流布されてる西郷イメージなんて眉唾だって理解してるでしょ 良くも悪くも完成された薩摩隼人という話w
当然ながらその姿に一喜一憂する連中が居る反面、内情知りつつもそれらを利用しようとする
連中も居たのだと
自分の目指していた方向性・線上に指針となる人物が現れりゃ〜誰しもが従ってしまう
自分は間違っていなかったと 田布施システムの創作者・発信者一覧表
・大室近祐
通称田布施の和田喜八郎と呼ばれる詐話師
・鹿島昇
極左弁護士
同和問題にも取り組む極左弁護士
新国民社を設立し、陰謀論を出版
・太田竜
鹿島昇の新国民社を引き継いだ極左
元日本革命的共産主義者同盟委員長
・鬼塚英昭
大分の部落民で竹細工職人
鹿島昇の本に影響を受け陰謀論を
在日コリアンの会社から出版
・リチャード輿水
在日コリアンの会社から陰謀論を出版
・朴甲東
鬼塚や輿水が陰謀論を出版してる成甲書房を設立
朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者
・犬丸勝子
日本共和党の極左
・松重正
陰謀論で親韓
・松重楊江
陰謀論
・松重
名前は不明だが鹿島の本に影響を受けている
日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員 ・原田伊織
左翼
小説形式のブログで長州を貶める内容を発信
出版のソースに史料・文献が少なく司馬遼太郎などの
小説をソースにしている
・ツイートTVの老夫婦
共産党支持者
わざわざ山口県にまで出向き
地域を撮影しYouTubeで発信してる陰謀論者
動画の出だしに必ず「はぁい」と不気味な声で言う
会津プロパガンダ同様、極左だらけで歴史家がいない
に加えて部落、朝鮮人、親韓が絡んでるが特徴的 原田伊織
有料の本は読んてない。
無料で読める紹介文とレビューだけ読んだ。
たぶん忠臣蔵と明治維新を賛美しているコンテンツよりはしっくり読めそう。
幕府よりも薩長の言い分のごり押しが酷いね。 鹿児島に婿養子で引っ越し、生業のリフォーム建設業を営んでいる者です。
確かに鹿児島の職人を見ていると行き当たりばったりの方が多いですね
建物も以前の改装跡を診ると行き当たりばったりの皺寄せ箇所があったりする事が
多々見受けられます。
県民性なのか知らないですが建設業では本来在ってはならない致命的なミスがあっても
振り返らないで、やり切る方も多いので、その方々には注意や警告をするのですが、
やはり「議をいうな!」と言われる事が多いです。
決めた事を曲げない頑固さは素晴らしいのですが、
理論や道理が通じないというのは私達建設業では、
良かれと思っても大失敗に繋がる危険性を考えて施工をしなければ、
鹿児島に蔓延している悪徳業者と何ら変わりが無いと思うのです。
しかし彼等にはなかなか通じませんので、日々下手に説得して作業していただいてます。 >>28
それと西郷隆盛がどういう関係があるのか分からないが
鹿児島の県民性はそうだね 鹿児島の県民性は偏屈老人そのものってことでOKですか?(´・ω・`) 偏屈というか
専門性や論理を軽視する人は日本中どこでもいると思うけど
専門性や論理を軽視することがカッコイイと思ってる人が多いね、鹿児島には
専門性や論理を軽視してこそ大人物である、みたいな 今はどうだか知らないけど昭和の九州の男は亭主関白って威張ってた。
西郷が妻たちを大事にせずに捨てたりこき使ったりしてたことから
男たるもの女に媚びるな、釣った魚に餌はやらないでいいってなった?
性差ってのは生物学的な違いであって、優劣を判別するものじゃないんだけどな。 一般的な男尊女卑と、薩摩(鹿児島)の男尊女卑は
似て非なるもの だよ
薩摩は「郷中教育」で年端もいかぬ少年を"女性"の代替にして
未婚藩士の性欲処理をさせていた
同時に、肛門を奪うことにより上下関係を叩き込み、
妻よりも先輩や上役のほうが尊いのだ
という洗脳をした
そういった背景から生まれた男尊女卑だよ
薩摩のは スレ主の最近お気に入りのフレーズが、
西郷と妻たちの関係を「西郷は釣った魚に餌をやらない人だった」と揶揄することです。
ところがスレ主は結婚したことはおろか、恋愛をしたこともありません。
もしかしたら魚釣りはしたことがあって、「釣った魚に餌をやらない」という比喩を理解した気になっているのかもしれません。
「男女の機微」なんていうのは、スレ主にとっては全く理解不能な抽象的概念であり、
この世に存在しないものと同じです。
学校やアルバイト先で年若い後輩から慕われる、という体験は、ついぞ生涯無縁のもので終わるでしょう。
そんな「キング オブ モテない君」に、西郷隆盛を理解できないのは仕方ないことなのでしょう。
それが、無反省に貼り続けられている>>2から>>17のテンプレによく表れています。 >>35
鹿児島が男尊女卑だと思ってるならかなりの誤解だぞ
昔から鹿児島の理想の家庭は「外では亭主関白」「内ではかかあ天下」なのだわ
他人様の家を訪問した時には、門を褒めず器も褒めず、まずは奥様を褒めるのが鉄則
飲み会に行きゃ分かるが、酒が進めば男達の嫁のノロケ話が始まる
西郷が愛妻家だったかはともかく、西郷の嫁はいずれも気の強い女性だったせいか嫁を立ててたようだね
奄美潜居時じゃ人前でも愛加那さんとイチャついてただの
最後の嫁の糸さんの義妹の肉声証言でも残ってるが、食事の時には毎回料理が美味いと褒めながら食ってて、横で糸さんが恥ずかしがってただの
実際はこんなもんよ、鹿児島の男尊女卑ってイメージに踊らされすぎだね 鹿児島が男尊女卑なのはまぎれもない事実だよ
鹿児島県「女子」の大学進学率
29%(全国最低で唯一30%以下)
男尊女卑というのはこういうことを言うんだよ
社会構造の話であって、個別の家庭でどうとかは男尊女卑と何の関係も無い 恋愛も結婚もできないスレ主に
男尊女卑の機微がわかるわけない!
キィーーー!! とか言ってきそう(笑) 女性の喫煙率からも、依然鹿児島が男尊女卑の土地であることが分かるよ
鹿児島の女性の喫煙率は 5.5%で全国2位の低さ
鹿児島県民が先進的な健康意識を持っていて民度が高いから・・・ではない
鹿児島の男の喫煙率は普通であり、女だけが低い
ようは女がタバコを吸うなんて生意気であるとか、女性としておかしい、
などの思い込みが強いからである
男尊女卑とはこういうことなのだ
>>37氏のような、「外では亭主関白」「内ではかかあ天下」などという古くて浅い、ステレオタイプの結婚観しか持ってない人こそが、
実は男尊女卑の温床になっているのだ いい事じゃねーか。
女性の喫煙率が低いのは。民度が高いと言う事。 一般的に男女同権の進んだ先進国ほど女性の喫煙率は高い
米国 男12.2% 女10.7%
仏 男28.7% 女20.2%
残念ながら鹿児島県は
中韓およびレイプ大国インド型の喫煙率傾向です
中国 男47.6% 女1.8%
韓国 男31.4% 女3.4 %
インド 男22.8% 女1.9% 今どき、喫煙率の高さを男女平等、女性解放の証なんて考える人がいたんだなあ。
平塚らいてうの時代のフェミニストと発想が変わらない。 今どきって言うけど、今どきの現象だよ
進んだ地域ほど全体の喫煙率が低下し、男性と女性の喫煙率の乖離が少なくなっていく、という傾向は
「平塚らいてう」とか「フェミニスト」なんて驚きのワードが出てくる老害さんの時代には無かった傾向だから理解不能か >>44は、明治19年生まれの「平塚らいてう」の名前が出てきたら、驚いたそうです。
ここは「日本近代史板」、幕末から明治初期に活躍した人物の西郷のスレであるにも関わらず、です。
「日本近代史板」にそもそも向いてない人なんですね。
スレ主が>>38などで、根拠に挙げているのは、
「都道府県別統計とランキングで見る県民性」というサイトです。
ただしこのサイトは統計が挙げてあるだけで、解釈はスレ主が勝手にしたものです。
これならまぁどうとでも言える。
最近スレ主は、鹿児島ガーと、鹿児島攻撃をたびたび書き込んでいます。
「横目で見た郷土史」に依存した西郷ネタが尽きてしまったのだ。
しかし、どう見てもスレ違いの場合が少なくない。
スレ主が自分で荒らすんだから、そりゃ荒れるに決まってますね。 >>45
その統計に関しては、奄美群島とかの離島の数も含まれてるから解釈が難しいところ
奄美って本土から離れた離島群のわりに教育熱心で人口も領域では20万人を超える地域
しかし貧乏鹿児島県の中でも更に所得の低い地域でもあり、泣け無しの収入で何とか本土への大学進学をって場合、どうしても長男を送ってしまう傾向にあるからなぁ
これは男尊女卑以前に、奄美群島内に大学などの高等教育機関が無いという教育環境の問題の方が大きい
薩摩の幕末の活躍は奄美の黒糖の収益が支えたと言っても過言では無いが、そのわりには様々な面で過酷な境遇を今でも受け続けてるのかも知れんね
政治的にも奄美地域自体が強固な保守支持地盤なので、民主政権時代に報復で奄振法の予算削りの圧迫受けたりしてるし
自公政権では沖縄と比べて冷遇、民主政権では圧迫や報復と…色々と救われない地域だわな しかし>>45は本当に酷い老害だなあ
客観的な統計情報をもとに鹿児島県女性の現状を説明してるのに
何がいけないと言うのだろう??
膨大なサンプルの上に成り立った説明より、老害の貧弱な人生の上に成り立った「郷土幻想」の方が正しいと言うのだろうか 鹿児島は知事からして男尊女卑で有名なとこじゃん
女に計算教える必要無いとか >>48
あの発言の知事はセクハラで話題のテレ朝出身だな
しかも反原発を掲げて当選しながら、知事就任後は原発容認に掌返しするアレな人だぜ
鹿児島じゃ久々の左に傾いた首長登場で多少の期待もあったのだが、現在は当の鹿児島県民ですら唖然とする有様なのだ >>49
事実誤認の先入観でしか物を言えないんです、という自己紹介をしているんですね。 鹿児島って右も左も無いんだよな
西郷さんや地元をホルホルできれば右も左も無い
征韓論がそう
太平洋戦争以前の軍国主義の時代には
西郷を、大東亜共栄圏の先駆けとして征韓論を唱えた偉人にするし
戦後の左寄りの時代には、朝鮮出兵を阻止した平和主義者にすり替える
まあひどいもんだ >西郷さんは右左で割り切れる人物じゃないからね
西郷信者特有の言い回しだなあ・・・
何か大切なことを言っているようでいて
実は何も言ってない、何の意味も無い情報ゼロの言い回し
議を言うな、と同じで議論を恐れただ同調圧力を正当化するためだけの中身の無い言葉 西郷どんは、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く人。 勝海舟、曰く「俺はいままでに天下で恐ろしい人物を二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ。〜横井の思想を西郷の手で行われたら敵うものはあるまい。」 西郷にしても勝海舟にしても、言ってみれば「小者界の超大物」という印象なんだよな
坂本龍馬にしても 声がでかいだけの人たちがなぁなぁで褒め合っている感じ。 >>57
西郷も勝も土俗的な匂いがプンプンする土建屋のオヤジって感じ。
龍馬は上手く言えないが都会的な感じがするんだよな。
お龍の回顧談でも(話半分だが)小心でセコイ感じが出てて笑ったw 西郷、坂本龍馬、勝海舟、横井小楠
このへんの褒め合いはみんな情実だよ
横井小楠はジャンルが違ってるように見えるけど
実は小楠は息子を勝に預けていたズブズブの関係 >>51
地元の英雄を顕彰して観光業やらに利用している地域は
人気を維持するためなら何でもするでしょう >>63
大学の学者やらまで総動員でやってる地域って他に知らない
誰が指揮してるわけでもないのに
異論は絶対許さない空気で
最近の信用金庫の組織的横領事件も
そういう鹿児島の、みんなやってるんだからお前もやれという文化と
無関係では無いんじゃないのかなあ・・・ >>61
勝海舟に限らず、明治20年以降の猛烈な懐古主義の流行が、異常な西郷賛美に拍車をかけたってのも大きいかと
これは西郷に限らず、明治期の新撰組美化や白虎隊顕彰と同根だわね
すでに大正に入る頃には新撰組に傾倒する腐女子すら存在してたくらいだし
性急な西洋化に対する反動なんだろうねぇ 毛利先生の「明治六年政変」がアマゾンで高値ついててびっくり
再販したらいいのに むしろ現代の方が西郷人気は低くなった
福沢諭吉も維新三傑など言ってるけども西郷が突出して衆望を集めてたとしてるし
当時の人間も西郷が一番凄いというのは共通認識 西郷信者って論破されると必ず、人気は西郷が一番だったって言い出すよな(苦笑)
で、必ず福沢諭吉が出てくる(苦笑) 西郷ってそんなに立派じゃないような……。
大河見てもフィクションがほとんどで史実を部分部分に差し挟んでいるだけ。
明治維新の立役者を褒めているBSの特集番組を見ても、褒めすぎじゃないか?
ろくなことしてないなって思うし。
すごいすごいって言ってる人見るたびに、そーかなー?って違和感発生。
そうして薩長のテロ行為は過小表現で。
一例としては無血開城。
戦にならなかったことが後の世の高評価に繋がっているけれど
それは幕府が江戸を火の海にしないために脅しに屈したからであって、
強盗が人質ならぬ江戸を質にすべてを奪ったようなものだ。
なんか、ハイジャック犯が人質を無事解放して欲しければ
給油しろとか食料と大金寄越せとかほざいているイメージと重なる。
明治維新の英雄とやらは人を斬ったり放火をしようとしたりと違法行為をし続けていた犯罪者。
西郷ヒーロー説は性質の悪い誇大広告だ。 >>69
なあその維新をテロ目線で見るのやめないか?
流行ってるのは分かるが
おおげさな話しだけど原始人の男が半ば強引に女を孕ませようとしてるのを見てそれはレイプだ!と糾弾するのと同じくらい馬鹿げたものの見方だよ 擁護になってねえw
例えるなら忠臣蔵で幕府に備中松山城の明け渡しを命じられた水谷家の家臣たちが
立て籠って徹底抗戦を唱えてたのを大石内蔵助が交渉で無血開城にこぎつけた事件だろw >>70
横レスで悪いがそうではないといいたいからつけさせてもらったわ
これは流行りでもなんでもなく事実テロと軍事クーデターにより維新は成就した
これは揺るがない事実
その例えは韓国のような現行憲法でそれ以前の罪までを裁きなおす非文明国のようなもののたとえだわ
実際問題、廃藩置県から士族反乱までの流れみても一部の人間にしかその本質を理解してるものなどなかったなによりの証明
西郷など廃藩置県後に士族がどうなるかまでのビジョンなど持ち合わせてなかったから最後があんなわけだ
結局廃藩置県の必要性は西周の新国家体制でいわれてるわけで
必然的にそれは西に新国家構想を任せた慶喜の知るところで
遅かれ早かれ廃藩置県は断行されたものとおもわれる
なにもテロと軍事クーデターで転覆さす必要はなかったものをやったのだからな
ま、だからイスラム国でもうまいことやれば明治新政府のようにやれるということ >72
>>西郷など廃藩置県後に士族がどうなるかまでのビジョンなど持ち合わせてなかったから最後があんなわけだ
西郷は廃藩置県がどのような結果を生むかくらいは十分にわかってたけど。www >>72
薩長をどうしてもテロと呼びたいようであるが、
軍事力で各藩を統治、恐怖支配していた幕府が軍事力によって制圧されるのは当たり前だろ。 >>73
ほう
これはおもしろいことをいう
で
じゃあその西郷が廃藩置県がどのような結果うむのか判ってたというソースは? >>74
封建制度の根本を判ってるのかおまえは?
まったく判ってないような発言だが >>75
士族の反乱を招くことくらい、西郷だけでなく誰でもわかってたろう。
ソースを出せとか、おもしろいこというww
大久保ら、海外視察組はそれが怖くて、国外逃亡していたわけだし。 戦国時代に終止符を打ち260年もの天下泰平の実績を持って、まじめに政権運営をしている幕府を
倒すべきなんて妄言はテロリストの扇動でしかない。
貧富の差が激しくて、贅沢三昧している王族・貴族がいる国とか
考えなしの理想論者が大量虐殺していた独裁国家とか
無知な権力者が発した愚策のせいで餓死者が出しまくった人民の国とか……、
そういう国ならレジスタンスも活性化するものだけど、徳川幕府にそういう分かりやすい悪行はなかった。
無血開城の瞬間も後もまともだった。
九州地方だけは江戸時代になってからも圧政VS原理主義一神教の島原の乱が起きたり、
薩摩藩は琉球侵略と奄美の黒糖地獄で奴隷使っていたけど。
要するに江戸幕府はホワイト経営していたのに薩摩はこっそりブラック企業で、
違法の密輸と奴隷労働によって稼いだ汚い富で悪さを企てたとも言える。
実際、明治維新以降、侵略する国になった日本は満州でしっぺ返しを食らい敗戦後もじわじわ劣化して
今じゃコンクリだらけのせいでゲリラ豪雨するわ、原発のせいで放射能まみれだわの生態系の貧しい
穢れた地になってしまった。 >>77
ソースだせないとうことはオマエの憶測でしかない
歴史は史料に基づき検証される
西郷が廃藩置県後にどのような結果になるか判っていたという史料はどこにある?
西郷だけでなく誰でも判っていたという史料の提出よろしくな >>81
1+1=2であることの、ソースを出せと言われているようなものwww >>80
徳川幕府の封建制度=悪、ましてや民主主義が正義などとは思っていない。
ただし徳川幕府が新政府に倒されなければ、海外の植民地になっていただろう。
パワーバランスで幕府は倒されたという結果。 >>80
徳川幕府の封建制度=悪、ましてや民主主義が正義などとは思っていない。
ただし徳川幕府が新政府に倒されなければ、海外の植民地になっていただろう。
パワーバランスで幕府は倒されたという結果。 >>82
はい論破オマエの負け〜
オマエの脳内ソースで適当にでっちあげた妄想トンデモ理論であること判ってしまったな
哀れ >>83
薩長よりもはやく、そしてより明確な近代化と中央集権新国家体制プランをすでに有してそれを履行するとこまできていた幕府が何故新政府に倒されなければ海外の植民地になっていたというのか
その根拠とソースを提示しろ
またオマエの脳内妄想がソースとかぬかすなよなw >>86
じゃ、なんで、そんなに抜かり無く、しっかりやっていたにも関わらず徳川幕府は新政府に敗れたの? >>87
>じゃ、なんで、そんなに抜かり無く、しっかりやっていたにも関わらず徳川幕府は新政府に敗れたの?
こんなことすら他人に訊かないと判ってもないレベルなのか?
まずは
・西郷が廃藩置県がどのような結果うむのか判ってたという根拠とソース
・幕府が軍事力で各藩を統治、恐怖支配していたという根拠とソース
・大久保ら、海外視察組はそれが怖くて、国外逃亡していたという根拠とソース
・徳川幕府が新政府に倒されなければ、海外の植民地になっていただろうという根拠とソース
オマエがちゃんとそれら主張してる根拠とソースをまず出せ
出せないなら無学無知で勝手に妄想で語ってすいませんでしたと謝れ
そうしたらなんで徳川幕府が新政府に敗れたのかくらい優しく教えてやるわ
オマエがどうみても明らかにしったかで語ってるレベルだから厳しく追及してる 横レスだが、>>88が「句読点の打ち方も知らないレベル」だというのは分かった。 >>88
西郷は廃藩置県の議論がまとまらない時に
反乱が起きれば自分がすべて鎮圧すると言って議論まとめたくらいだから
大規模な反乱が予想されててどうなるかぐらい知ってる
幕府時代は言論の自由もないし平均寿命も30
安政の大獄見れば分かる通りほっとけばテロ路線も突っ走る
朝廷や雄藩や浪士が怖いから雄藩も納得するような近代化路線を打ち出さざる得なかった
だから反幕府勢力の長州藩が没落すると参勤交代復活させようとしたり幕権強化路線に戻り
薩摩と関係が悪化して薩長同盟とその後の倒幕になる >>89
ID変えて別人設定で横レスとかウケるオマエw
もはやその程度の返ししかできなくて哀れw
そのへん文章まんまオマエのコピペしただけだなのに草はえる >>80
>実際、明治維新以降、侵略する国になった日本は満州でしっぺ返しを食らい敗戦後もじわじわ劣化して
今じゃコンクリだらけのせいでゲリラ豪雨するわ、原発のせいで放射能まみれだわの生態系の貧しい
穢れた地になってしまった。
これこそ、妄想満載だろ、ソースだせよ。 >>88
>他人に訊かないと判ってもないレベルなのか?
>そうしたらなんで徳川幕府が新政府に敗れたのかくらい優しく教えてやるわ
質問の形をした嫌味ということにきずいていないようだなwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています