西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男 2
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大隈重信は維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で
西郷については冷評していることが多い。
『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、
頗るこれを疑うのである」と語り、そのために壮士輩が談判を迫り、脅迫状が届いたという。
それでも大隈は発言を訂正せず、その後の座談でも西郷の「感化力」は認めながらも批判的である。
しかし最後の筆録となった『大隈侯昔日譚』(大正十一年)にみえる西郷評は同情的な傾きがあり、
木戸・大久保の人物評とあわせて一つの参考になると思う。 >>196
>『大隈侯昔日譚』(大正十一年)にみえる西郷評は同情的な傾きがあり
これがどんなものかが結構重要な気がする >>186でスレ主は、印象で物を書き、実像は全然知らないんだと、自分で言ってますね。
「スレ主 イメージと実像が最もかけ離れた男」 三井の番頭こと井上馨とつるんで私腹を肥やしていた大隈は西郷に嫌われていたんだよな。2人が不仲だったのは有名な話。 >>195
>岩倉使節団が命がけの洋行で近代文明の調査に力を尽くしていた頃、
「近代文明の調査」ねぇ。www
アンチ西郷のスレ主が大好きな曖昧なワードですな。
具体性ゼロの、ほんとうに無意味なワード
「命がけ」ではなく、国内の反乱を恐れての「命乞い」の洋行と言った方が正しいだろ。
特に大久保は反対を押し切って、強硬に使節団に入っているよな。 鹿児島じゃ海外逃亡だと教えるんだ
岩倉使節団の背景を
聞いたことねえわ(苦笑)
そういや鹿児島には独自の大久保伝説がいっぱいあって
・西南戦争に西郷が参加していると知った大久保は激しく動揺して家の鴨居に頭をぶつけた
・大久保が紀尾井坂で襲撃されたとき、女のように悲鳴を上げながら逃げまわった
・薩英戦争の時に大久保が屋根に登って沖合の英艦隊を見ていると
突然英艦が砲撃して、腰を抜かした大久保は屋根から転げ落ちた
などそんな大久保ヘタレ伝説が固く信じられていたそうだな
そのリストに入れとくわ
・大久保海外逃亡 >>196
いやまぁ前半生の大隈は他人の悪口言いまくりなんで、あまり彼の発言を参考にしない方が…
逆に晩年は急に性格が丸くなってしまったんで、晩年の彼の褒め言葉もアテにならないんだけどね >>202
明治28年の『大隈伯昔日譚』は西郷を快く思っていなかった大隈の肉声に近いのかなと思うが
大正11年の『大隈侯昔日譚』は露骨に西郷美談調なんだよな
大隈が使いそうにない「忠義」「徳」などという言葉が使われている
大隈の心境に変化があったかもしれないが、著者(編纂者)の違いによるものもあるかと思う
ちなみに明治28年の西郷評は>>3の西郷評と同じ冷たいトーンであるが
大正11年のは、重野安繹が「西郷南洲逸話」で書いた、西郷に対し同情的な箇所とほぼ一致する
西郷は子分とワンセットで「西郷隆盛」であったという見方は完全に同じである 重野安繹 『西郷南洲逸話』の西郷に対して同情的な箇所
西郷の人となりは、今申す通り度量は狭いが、人と艱苦を共にするというところが持前で、
古人の謂ふ士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起(軍事思想家)などが
そうであったという。
士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物で、
自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、
いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。
何でも下の者を己の手足のように使ひ廻すのが、一生の手際(自分の長所?)と思って居るから、
自分も努めてする。
幕府を倒すのもそれから起って居る。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。
しかしながら西南の役になっては、それが自分の身を亡ぼす元になって来た。
西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれ程の事は出来はしないであったろうが、
薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。
西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があった。 大隈重信 大正11年の『大隈侯昔日譚』
西郷は破壊的で建設ではない。すなわち破壊の勇者で建設は不得手であった。
政治は建設的で破壊は力である。だから長き強き封建を破るという破壊的維新には、
西郷の力与って大いに力があったが、復古で目的を達した後は浪人してあまり政治には関係しなかった。
そのまま猟でもして余生を養ってときどき陛下の御諮問にでもお答えする位にしていたら間違いは無かったんであるが
非常に情に脆い涙弱い人であって、乾兒(こぶん)が沢山あったからついに乾兒に誤られたんである。
勇者は強者には強いが柔に出逢うと溶けるんで、流石の西郷も乾兒どもには弱かったんである。
この情に脆い結果が西郷の徳をして盛んならしたと同時に、一方生涯の過ちを惹起したと察せられるんである。
これは一つには政治家としての性格でもない、軍人としても戦術家ではない。政治家でも軍人でもなし、
一個の自然人で、ただどこまでも忠義一途なんで、国家の為となると、将軍も島津公も眼中にない。
少しも私心無き卓越したる英傑であった。維新前後にはこの種の人が多少は現れたが、古今には甚だ少ないんである。 この二つの西郷評のおかしな点を少し書くと
重野の「薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。」
他国の婦女子とかそんな事実はまったく無い
そして大隈の、西郷は「少しも私心無き卓越したる英傑」という評
大隈が本心からそう思うだろうか??
西郷が論理的な理念や方針を持たない壊し屋であることを「私心無き」と皮肉ったというなら話は分かるが・・・ >>206
>この二つの西郷評のおかしな点を少し書くと
大隈と重野の文書が信憑性がないということは良く分かった。 イメージと違って西郷の留守政府がなにかと酷いんだよな 留守政府での西郷がやったことは近代日本の礎を築くものばかり。 このスレッドに常駐する維新信者はわざわざ複数IDを使っているのか?
スレ主呼ばわりされた人は何人もいるけど、信者の人数は書いてる文は
似通っているし、1人か1チームだけのような気がする。
わざとカルト信者のようにふるまってアンチ明治政府、残念な西郷を一般論化させたいのか
重度なカルト信者脳でイッちゃっているのか、……どちらだろう。 西郷の墓地で大久保の法要「待った」 反発受け名称変更
http://news.livedoor.com/article/detail/14671364/
こういう狂信者がここにも来て荒らしてるのかもな
https://www.keiten-aijin.com/
西郷と大久保はどちらも鹿児島出身で固い絆があったとか美談化するのもキモいし
西郷を死地に追いやった大久保は絶対許さねえというのもキモすぎる
登場人物全員キモい まじでキモいよ
https://www.keiten-aijin.com/syuisho
敬天愛人フォーラム21 趣意書
『敬天愛人』この思想は、民主主義以上の世界最高のものであり、
人道として国民として実に千古の大教典である。 上の主催者が経営してる会社
https://www.giftbank.co.jp/
多重債務者にカードで換金性の高い商品を買い物させ
それを買い取り、現金化してやるという
敬天愛人どころか、「弱者を食い物」にする商売 >>201
ついにヘタレ大久保伝説の新しいテンプレ完成!!!!
ありがとう、スレ主様ーwww
>
・西南戦争に西郷が参加していると知った大久保は激しく動揺して家の鴨居に頭をぶつけた
・大久保が紀尾井坂で襲撃されたとき、女のように悲鳴を上げながら逃げまわった
・薩英戦争の時に大久保が屋根に登って沖合の英艦隊を見ていると
突然英艦が砲撃して、腰を抜かした大久保は屋根から転げ落ちた
・大久保海外逃亡 >>208
信憑性とかは置いといてさ
重野の場合は若い頃のとんがった西郷を知ってるが故に、世間で知られてる西郷とは違う普通の人としての面を語りたかったんだろね
大隈の場合は本人が歳をとって自分も子分に囲まれたり、それなりの地位になって若い頃のように好き勝手出来なくなった自分を顧みたんだろね
歳とって西郷と同じような状況になった時に感じるものもあったろうし、老境に入って過去の事が大隈的に美化されることもあったろうからなぁ
>>212
それなぁ、慰霊祭を行おうとしたのが鹿児島の有志団体(含む西郷隆盛の子孫)で、反発したのが東京のグループなんだよね
戦前ならともかく、今の鹿児島で大久保利通に恩讐なんて考えられんだろね
どちらも郷土の偉人として尊敬されてるしな〜 一番ヤバいのは毎回スレ主認定して草生やしてる奴じゃないだろうか キチガイを笑っちゃいけない
西郷どんスゲエ → 鹿児島人の俺スゲエ
の思考回路は鹿児島人の基本だが
日本人自体が
大谷スゲエ → 日本人スゲエ → 日本人の俺スゲエ
となる奴が多いわけで
このスレの鹿児島人のキモさを見て我が振り直せをすべきだろうな イメージと実像が最もかけ離れた男といえば福沢諭吉
あ、坂本竜馬も
伊藤博文も
天皇も
・・・
明治の連中は美化されすぎで正しく教えられていない
誰か一覧表にしてくれるか
福沢諭吉
X 天は人の上に人を作らず
○ 労働者、貧乏人、身体障害者など弱い者を徹底的に汚い言葉でののしり
こんな人間が日本に存在していたことが極めて恥ずかしい 伊藤博文?
伊藤博文は武士っぽくないからイメージ軽いけど
あれだけ貧相な感じの男が明治以前に洋行したり
明治六年の政変では西郷を追い込んだり
とても常人ではできないことをやってるよ >>219
そう言う話に持って行くなら
大久保ヘタレ → 鹿児島県人の俺ヘタレ
と言う風にスレ主は持って言ったらどうなの?
それはしたくないんだろ。 スレ主は矛盾だらけなんだよな。wwww >>223
意味が分からない
ようは鹿児島県人はダブルで悲惨てこと? 歴史上の人物にかぎらず誰がなにをしてもその行いは視点を変えれば善にもなるし悪にもなりうる
美化された面だけに目を向けて賞賛することも、否定的な側面を一つ見つけて存在価値を根底から覆した気になって蔑視することも間違いです 大久保について言うのは分かる、立場が違えば見え方が違うというのは
しかし西郷の場合は視点の問題ではなく、「功績」や「善行」と言われてるもんがそもそも実在してないんだわ 西郷の功績は分かりやすいが倒幕、江戸無血開城、廃藩置県、徴兵制と
大久保の功績こそよく分からん
留守政府が明治維新と言える大改革やった基盤の上に権力闘争で横滑りに乗っただけで >>227
そうそう、
大久保は単なる秀才、事務屋さん。まあ、IQは高かったんだろうが代わりはいくらでもいた。
まあ冷血な策略家としては特段に秀でているが。
大久保に裏切られ、売り飛ばされた人たちの代表
精忠組の面々
島津久光
西郷隆盛 >>219
鹿児島県人は置いておいても、日本人自体の思考はまさに我が振り直せだな
>>225
激しく同意 >>219
自分の国、自分の街、自分の郷土出身の人を応援するのは万国共通。
海外に出たことのない人は、日本人が日本のことを応援するのがおかしいことと
思ってしまうんだろうな。当たり前のことなんだがな。
まあ、海外はすごいとか、コンプレックスが根本になるんだろうな
「俺は地球市民だー」とか言って脳内全域花畑の左翼思想全開のスレ主を笑ちゃいけない。
かわいそうな人なのだから。 今日、日曜日のAM4 時すぎから、西郷信者ガー、薩摩ガーと言ってる奴はさらに病的でヤバい。 効いてる効いてる。
悔しくて悔しくて悔しくてたまらんのだろ。
ここんとこアンチ西郷、論破されまくりで涙目wwwwwwww 会津ってパヨクが日本近代史を否定する為の駒だったんだよ。
会津プロパガンダの嘘がバレて尻すぼみだけど
まだ止めないもんな星亮一とかな。
戦争で決着はついてる。会津は自分達から戦争しかけて負けた。
にも関わらずプロパガンダを発信して未だに戊辰戦争を継続中。
特定の地域を差別している。武士道の武の字もない。それが会津だ。
会津はパヨク!!!!!!!!!!!!!! 日本史自信ニキに聞きたいんだけど。
西南戦争とか征韓論あたりで論争になってることとかある? 論争なんてないよ
西郷と仲間たちは感情でやってるから
感情 vs 論理 の間には闘争はあっても論争など無い >>238
当時の論争ではなくて、現在の論争があるかを知りたいんや 西郷は征韓(武力外交)を主張したのか、遣韓(平和外交)を主張したのかの論争はあるよ
西郷信者は西郷は平和外交を望んでいたことにしたみたいだけどいろいろ無理があるよ
遣韓使節自体が武力制裁をチラつかせての最後通牒みたいなものだし
信者がなぜ西郷の、武力を背景にした外交をやっきになって否定するのか理解に苦しむ
当時も今も外交のリソースは武力か金しかないわけで
平和外交などというのはお花畑の鳩山さんのような人の脳内にしか存在しない
信者的には西郷が武力外交だったとすると、西郷の思想といわれる「敬天愛人」の教えと
矛盾するので、西郷は武力制裁を否定しあくまで平和的な話し合いにこだわったのだ
という話にすり替えたいんだろうな パワー系老害に振り回されたんだよ
西郷に深い考えなど無い
その時の気分や人間関係で衝動的に動いたり、手紙にいいことを書いてるだけで(ほぼ実行されてない)
それをまわりが勝手に、西郷さんに深い真意があるかのように錯覚してただけで
津田出の一件も、西郷が村田新八を紀州に派遣したところを見ると
その時には津田に期待する気持ちが盛り上がっていたのかもしれないが
津田が新政府に来てから西郷が津田をサポートしたなどの話はまったく聞かない
手紙にはいいことを書くが実行はしない、という西郷さんのいつもの行動パターン ◆ 西郷が死ぬまで続いた奄美の砂糖地獄 大島商社と西郷隆盛
http://www.synapse.ne.jp/~amamian/tubuyaki/minaminihon-h11106.html
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために粉骨砕身した偶像であり鑑である
かもしれない。しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの象徴であったに
すぎないのではないのか。それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか、義理も人情もなく奄美を踏みにじった薩摩士族の大親分
としか映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、薩摩へあてた手紙では徳之島
の人々のことを「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を薩摩で教育する際、奄美出身者
であることを他言するな、と厳しく命じた。島に残された母アイカナは非業の死を
とげる。これは西郷という人間像の一コマではあるが、実は次に述べる彼の政策論
とも表裏一体をなしているとしか思えない。
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、彼は、禄支給廃止
にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、桂久武に命じて不法な独占
「大島商社」を維新後に設立させたのである。これによって薩摩は再び収奪をほしい
ままにすることができ、奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治10年、奄美から「大島商社解散」を要求する55人の嘆願団が上鹿したが、
いきなり全員投獄。老人などを除いた35人は田原坂から敗戦中の西郷軍に強制出陣
させられた。うち戦死した者6人、残りは官軍に投降。許されて島へ帰還する途中、
2人を除いて全員遭難し、結局生存者はわずかに24人であった。(前田長英著
『黒糖騒動記』参照)
西郷という人物は薩摩城下士族(私学校党)の行く末しか案じていなかったようで、
その支配下にあった藩内の土民(農民)、さらに下層のリキジン(奄美、琉球人)
から、いかにして収奪して自己保身するかに専心していたのである。彼の諸政策に
うかがわれる基本的な理念は、「征韓論」や後の「大東亜共栄圏」などにも通じて
おり、弱者を無視し切り捨てる右翼国家主義そのものである。 いっそすべてを実行しないで日本史の端っこに埋没していたら良かった。
戦の仕掛け人としての実行力はあった。
テロ工作は実行していた。
「短刀一本あれば片付く」という恫喝交渉も実行しない方が良かった。 「短刀一本あれば片付く」って逸話に実体は無いよ
浅野長勲という小御所会議に出席していたマイナー大名の名前で昭和12年に出版された「浅野長勲自叙伝」に
突然その逸話が載って、西郷信者が西郷さんカッケーと飛びつき
ドラマなどでもそのシーンが採用され、あたかも史実であるかのように流通しだした逸話である
100%ウソ逸話であると言える
「短刀一本あれば片付く」とは小御所会議で西郷が岩倉に言った言葉とされるが
当の岩倉の『岩倉公実記』にはそのような件は無く
小御所会議の記録が含まれる『徳川慶喜公伝』『丁卯日記』『明治天皇紀』にも無い
昭和12年に、西郷とは何の関係も無さそうな浅野長勲という元大名の自叙伝の中に突然出現した逸話である
西郷の美談や武勇伝の9割以上はこの類の、西郷が死んでから何十年も経ってから
突然出現した逸話がソースになっている 明治維新を語るとき、詐欺師と借りパクと人殺しが偉人扱いされている。
いろは丸の事故で賠償金水増し詐欺をした崎本龍馬。当たり屋の手法である。
薩摩藩が払うべき生麦事件の慰謝料を、幕府に肩代わりさせた大久保。
その後倒幕するのだから恩を仇で返している。
江戸を火の海にすると脅して結果的に江戸城を無血開城させた西郷。
戦好きゆえか無血開城よりも戦がしたかった素振りあり。完全に脅迫者。
本質的にきわめて悪質。どこが偉人の成した偉業なんだか。
ぼったくられて脅迫されて強奪された徳川幕府は弱体化して政権を奪われた。
本当に酷かったんだな。明治維新って。 西郷は謀略など使わないよ自分で使わないと言ってるし
西郷が江戸を攻めるのは当たり前だし
慶喜が戊辰戦争引き起こしたんだから
旧幕府が自分で戦争引き起こしといて攻めないでとかおかしな話 >>247
戊辰戦争ひきおこしたのは薩摩ですよ
大嘘ついてはいけませんね 戦争引き起こしたのは幕府だよ
討薩の上表掲げて勝手に京に進軍
幕府軍艦が一方的に薩摩軍艦を砲撃 >>244はスレ主のレスですが、ちょっと興味深い。
スレ主は、小御所会議で西郷が「短刀一本…」と発言したのは100%捏造としています。
もとになっているのは、ウィキペディアの脚注です。
ウィキペディア「小御所会議」脚注より
>なおこの休憩中に岩下方平が屋外で警備兵を指揮中の西郷隆盛を呼び出し、
西郷が岩倉に対して「短刀一本あれば片が付く」と、
暗に岩倉に反対派と差し違える覚悟を迫り、
それを承知した岩倉が短刀を忍ばせて会議に戻ったといわれる。
この話の出典は会議の出席者である浅野長勲が半世紀後に口述した
『浅野長勲自叙伝』(昭和12年(1937年))などに見られるのみで
『徳川慶喜公伝』『丁卯日記』『岩倉公実記』『明治天皇紀』などの他の史料には見えない。
井上清なども著書『明治維新』(新政の演出 岩倉具視)の中で触れているが特に出典は記されていない。
(引用終わり)
ところがこの「短刀一本…」の逸話は、西郷を顕彰する人たちばかりではなく、反薩長史観の原田伊織なんかも、明治維新がテロによってなった根拠としてあげています。
もし逸話が捏造だと仮定しても、西郷という人は、正反対の立場の人々からそれぞれ祀り上げられなければならなかった、ということは言えるんじゃないでしょうか。
ところでスレ主は、『浅野長勲自叙伝』とほぼ同時期(昭和16年・1941年)に発表された竹崎櫻岳著「肚之西郷」に記された、「桐野利秋が西郷を射殺しようとした」説は真実だと言っています。
西郷の死後何十年もたって、ほかの証言もないまま突然出てきた「肚之西郷」は真実だとする根拠はなんでしょうか。ソースをあげた答えを聞いてみたいものです。
あ、片岡吾庵堂著「横目で見た郷土史」に依拠した、古いテンプレのコピペは飽き飽きしているので、貼らないでくださいね。 テンプレでは「肚之西郷」を根拠の一つとして扱っています
定説になっている「西郷突撃→自決」は明らかに不自然であり
状況的に考えて「西郷逃亡→桐野銃撃」が西郷の最期であったとするのが妥当かと思います
念のため以下にテンプレを貼っておきます 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード1《 まさかの命乞い 》
明治10年9月24日、鹿児島県城山。7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く切腹した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた
などと美談のごとく語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・なんとこの人、助命嘆願してたんです。
19日、政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
西郷軍への従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が助命嘆願、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍に助命を拒否され、山県有朋に、武士であるなら潔く自決するよう諭されるというありさまでした。 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード2《 西郷さんは桐野利秋に強制玉砕されていた ?!》
24日、最期の突撃を試みた西郷は足を撃たれたあと、自決したとされていますが、
その西郷の足を撃ったのは、じつは西郷の部下である桐野利秋であったという説をご存知ですか?
政府軍に助命を拒否された西郷さんですが、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、洞窟を出て投降しようとした。
しかし玉砕を主張する桐野がこれを発見、激怒して西郷を追いかけ銃撃したというのです。
思わず「ホントかよ?」となりますが、しかしこの桐野による西郷銃撃は
目撃者の証言があるのです。 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード3≪ 創られた西郷自決 ≫
ちなみに広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、
別府晋介に首を刎ねさせたいう逸話、出典はご存知ですか?
西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本。
編纂者と出版元は右翼団体。まるで見てきたように書いていますが、
西南の生き残りが書いたわけではないし、誰の証言なのかも曖昧。
そもそもが西郷と薩摩士族の顕彰のために企画されたプロパガンダ本であり、
西郷や西郷軍のイメージに傷が付きそうな史実がばっさり省略されているのが特徴の資料です。
かねてから、銃弾飛び交う切迫した戦場で、前述のような芝居がかった自決が可能なのか
という見方はありました。
じつは西郷遺体の“検死報告書”にはこう記録されています。
「右大腿より左骨部貫通銃創、頭(頸)体離断」
腹部に刀創はありませんので、切腹はしていない。
また、銃弾が肥満した西郷の身体を(骨ごと?)貫通していることから
(当時の銃の性能を考慮すると)至近距離から被弾した可能性が高い。
「頭(頸)体離断」は首が無かったということです。
つまり、大腿を至近距離から銃撃されたあと、
首を切断された可能性が高いのです。 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード4≪目撃者≫
桐野による西郷銃撃を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。
城川の証言によると、「 西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に投降するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、
銃で撃った 」というものです(出典「肚乃西郷」竹崎武泰著)
城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体のプロパガンダ本よりよほど信憑性があります。
ところが「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は、“城川”なる人物の実在が証明されていないとし、
この目撃証言を奇説として退けた。
架空の人物による、架空の目撃証言だと言うのです。
また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説はいったん否定されました。 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード5≪わが目で見た話し≫
しかし、その数日後に同じ南日本新聞で入佐俊興氏が、昭和十年発行の「葛城彦一伝」の中に
加治木編成の六番大隊編成表として「別府晋介附従卒城川市二」との記述を示し、
あっさり実在の人物と証明されたのです。
さらに城川市二氏の孫嫁が健在で
「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、
昭和三、四年ごろ東大の先生が二、三度春になると訪ねてきて、襖を閉めきり朝から遅くまで
何事か話しをしていた。
城川の家は製造業で、職人たちが噂話などをはずませていると、御祖父さんが現れて、
“今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問されて、
“わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリといって引っ込んだ 」と述懐しています。 「肚乃西郷」は鹿児島私学校後身の団体、三州社社長の息子であるところの竹崎武秦が出版した西郷隆盛顕彰本だが、
目撃者が誰かはっきり明示されていること、通説となっている西郷自決説がいかに不自然か説明されていること、
それらが西郷軍関係者の直系の後継者の手で書かれていることは大きいですよ。
西郷軍後身が、城川説を西郷軍正史として認定したようなものです。 三州社は明治14年、河野主一郎(初代社長)、伊東祐高、中原万次、河野半蔵、美代助座衛門、
樺山資美、伊地知壮之助、児玉軍治ら西郷軍の残党らが設立した結社で、
会員の互助と士族授産、子弟の教育を目的とした。
会員は城下士出身者が中心で、このため「第二の私学校」とも呼ばれました。
肚乃西郷著者の父竹崎一二はこの三州社の社長です。
いわば西郷軍の人的遺産と郷中精神の継承者だった。
西郷隆盛の申し子のようなものです。
そのような人物が、桐野が西郷を撃ったんだと、完全に認定しています。 「この事実を書きし、西郷の伝記はおそらく世に無いと思うが、
これは別府晋介の従僕城川が著者の父(三州社社長)に話せし実話である。
西郷が大義名分を重んじて、江藤新平を諭せし事を思う時、
寸秒の疑う余地は無いのである。
西郷が簡単に切腹するのであれば、最期の陣営たる洞窟の前庭において、
幹部と共に枕を並べて死すべきである。
何もわざわざ岩崎谷を下り敵陣近き、現在建設せられある『西郷終焉の地』まで
のそのそ出て行く必要はないのである。
一度鹿児島に遊び、彼の洞窟と終焉の地とを検討せば、著者の論が実証せらるるであろう。」
と、城川説が疑う余地の無い“実話”であると断じている。 毎日新聞連載中の「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は当時わざわざ一日分を費やして
「別府晋介の従僕に城川なる者はいなかった」として桐野射殺説を否定されたが、
「葛城彦一伝」に”別府晋介附従卒城川市二、同小杉恒右衛門”と明記され、
墓碑まであるのだからこれは当然司馬氏の勇み足だろう。
「跳ぶが如く」の連載が終わって、歴史家萩原延寿氏との対談(朝日紙)の中で、
「当時の桐野の心境を考えると西郷を撃つという事も状況としてあり得る。」
と述べて、司馬さんもその後の考えを変えておられるようである。 「征西従軍日誌」の捕虜の証言に重要なものがある。
9月20日、城山の洞窟で桐野が「もはや再興の機を失せり」と嘆いた。
洞窟に潜んでいるあいだ、将校みな激沸喧騒、議論していた。
(玉砕するか降伏するか西郷助命嘆願の返事を待つか、などの議論であろう)
西郷は席に肘を付いてもたれたまま何も言わなかった。
突然大笑を発したかと思えば、うつろに天井を見上げるのみ。
そのような西郷のあり様を見て、辺見十郎太などはキレそうになり、西郷を睨みつけていたそうだ。
(辺見からすれば、西郷に覚悟を決めてもらって、供に玉砕すべしと言って欲しかったんでしょうか・・)
心神喪失状態の西郷さんの姿が窺えます。 西郷助命嘆願の使者を政府軍に送った時点で、
薩軍内では投降論が多数派になっていた。
いや薩軍諸将は自分が投降したいとは言わないが、
西郷の助命は戦争の終結を意味し、
なしくずしに全軍降伏となるであろう。
直情型の辺見十郎太でさえ敵の砲丸落下が激しくなるのを
見て、西郷助命嘆願に同意している 城山籠城時の薩軍諸将とその存意は以下の通りである
○・・投降論を主張または同意
×・・玉砕論を主張または同意
?・・記録が無く不明または存意を語らず
本営幹部
?西郷隆盛
×桐野利秋
?桂久武
○村田新八
○池上四郎
?別府晋介
○辺見十郎太
○坂田諸潔
○野村忍介
前線隊長クラス
○讃良清蔵(砲隊)
?蒲生彦四郎 (狙撃隊)
?藤井直次郎(城山方面)
○河野主一郎(岩崎本道方面)
○佐藤三二(私学校・角矢倉方面)
○山野田一輔(県庁・二ノ丸・照国神社方面)
?高城七之丞(大手・本田屋敷方面)
?堀新次郎(大手・本田屋敷方面)
○河野四郎左衛門(上の平・広谷・三間松方面)
○別府九郎(夏蔭方面 別府晋介の兄)
○中島健彦(新照院・夏陰下方面)
?岩切喜次郎(夏陰)
?園田武一(後廻)
?市来矢之助(後廻・城山間 ) 投降論に反発した記録が残るのは桐野利秋だけであり、
桐野の同意あらば無条件降伏もあった体である。
西郷が土壇場で投降を試みたとしても、薩軍の空気としては
唐突なことではなかったと分かる。 「 松本さんは史家で、奥さんが鹿児島の人で、その実家に行った際、
古い手紙の中に城川さんからの手紙を見つけ、
桐野の西郷射殺説を信じたようです。
城川さんと一緒に輿を担いでいた相棒(小杉恒吉衛門氏のことか)も同じ事を残しています。
西南戦争の後、鹿児島では神と崇められ、批判が許されなかった時代に
二人はこの話を生涯語ったといいます 」 □西郷さんはなぜ投降しようとしたのか□
西郷が投降しようとしたという城川市二の目撃証言が、
西郷の動機面で考えてみても「理にかなっている」と思うのは
当時、西郷が心神喪失状態に陥っていたのではないかと思うからです
以下は心神喪失状態に陥っていたことを裏付けるような西郷異常行動の記録や理由 ■西郷さんが心神喪失状態に陥っていたと思う理由1
「征西従軍日誌」の捕虜の証言に重要なものがある。
9月20日、城山の洞窟で桐野が「もはや再興の機を失せり」と嘆いた。
洞窟に潜んでいるあいだ、将校みな激沸喧騒、議論していた。
(玉砕するか降伏するか西郷助命嘆願の返事を待つか、などの議論であろう)
西郷は席に肘を付いてもたれたまま何も言わなかった。
突然大笑を発したかと思えば、うつろに天井を見上げるのみ。
そのような西郷のあり様を見て、辺見十郎太などはキレそうになり、西郷を睨みつけていたそうだ。
(辺見からすれば、西郷に覚悟を決めてもらって、供に玉砕すべしと言って欲しかったんでしょうか・・)
心神喪失状態の西郷さんの姿が窺えます。 ■西郷さんが心神喪失状態に陥っていたと思う理由2
西郷さんは西南戦争の最中たびたびウサギ狩りに出かけたといわれる
これはけっこう有名なエピソードで、西郷さんの豪胆さや、何やら憎めない人柄を強調するときに紹介されることの多い逸話である
しかしよく考えてみてほしい。勝ち戦ならともかく、緒戦の熊本攻城から苦戦し、薩摩史上最大の死傷者を出した戦争の最中に
ウサギ狩りをするなどは100パーセント異常行動なのである
さらに分かるのは、まわりの西郷軍幹部も西郷さんから心が離れていた、ということである(異常行動を制止していないのだから)
西郷軍内ではすでに熊本攻城の時点で、西郷先生と桐野どんは仲たがいしていると、噂がたっていたそうで
このことは司馬遼太郎も「翔ぶが如く」で書いていました ■西郷さんが心神喪失状態に陥っていたと思う理由3
西郷軍内では再び、西郷の助命論が起こり、9月18日、河野主一郎が村田新八、池上四郎、ほかの諸隊長らの同意を得た。
「薩南血涙史」では、このことは桐野には黙っていたとある。
「西南記伝」では、桐野は合議の席上で「投降は後世に対する侮辱だ」とあくまで反対したとある。
ともかく西郷自身はただ莞爾(にっこり)して「よしよし」と言っただけだったので、河野らが嘆願に赴いたとある。
沈痛な面持ちで使者を送り出した、なら分かるが人目もはばからず自分の助命嘆願の使者をニッコリ「よしよし」って・・・ 桐野利秋などの動ける将兵たちはバリケードに籠った状態で死んでるし
死に方はけっこうバラバラ
美談として信じられている、西郷はじめ将兵が一列になり突撃、玉砕したという情景は
政府軍側の記録にはまったく無い
西郷軍を描いた伝記の類は数種あるが、そのうちの一つに
将兵一列になって最後の突撃を試み、脚と胴を撃ち抜かれた西郷が
「晋どんここらでよか」と言い、薩軍将兵が見守るなかで自決した
と書かれているにすぎない
あくまで、何パターンか伝わる死に様のうちの一つにすぎない
突撃→自決説が通説化したのは、
何か強い根拠があったわけではなく、死に様が絵になるという理由でしかない 西郷軍は西郷の首をご丁寧に隠している
西郷の首が賊として晒されるのを恐れたからだ
ここまで首にこだわるなら、首の回収がおぼつかなくなる突撃などするはずはないと思う
>>259のとおり洞窟で自決するのが総大将の最後として誰もが選ぶ姿である >>250
>もし逸話が捏造だと仮定しても、西郷という人は、正反対の立場の人々からそれぞれ祀り上げられなければならなかった、ということは言えるんじゃないでしょうか。
このへんが西郷信者のデタラメなとこだよな
問題は逸話の真偽なのに、どちらにしろ西郷は肯定すべき存在でなければならない、ってんだから
発狂してるとしか思えん 徳川幕府にはとんな下種いことしても
西郷どんは正義。幕府はざまぁ。
揺るぎないな、盲信脳。 鹿児島県民は信じたいものだけを信じる県民性だから説明しても無駄 >>273
いやいや、悲しいかなこの先評価が覆る事は「殆ど無い」
なのでアンチの発狂のが無意味 結局西郷さんは卑怯な事に手を染めず 正道を踏みしめ頂点に立った漢だということは分かった 西郷のどこがすごいかはこうやって歴史勝者史観&薩長史観で一概には言えない闇が多々あるけど
ただひとつ言えるのは
これほど波乱万丈な人生おくった人物はなかなかいないということだ
そこだけは認めるわ
なんせ官軍の大将として幕府倒した後、反乱起こして今度は賊将となって死ぬとか
ドラマとしては最高の人生プロデュース&演出だわw 西郷伝説は小者を偉人だと認識させようとしているからおかしくなっている。
違和感しかないな。 韓国人
鹿児島人
ネトウヨ
この3つの集団は同じ特徴を持つ
・低収入
・低学歴
・負け組
・盲信(反日、西郷、日本すごい) 西郷どんの最も凄い所は権力を未練なく手放したところ
軍閥の様に軍を使い西郷独裁幕府を作ることも可能だった https://www.youtube.com/watch?v=sOXkSPlJ-Sw
日大内田の辞意会見見て、久々に胸糞悪くなったわ
責任はすべて自分にあると言いながら、具体的な説明は一切無し
「若い人の将来を考えて自分が辞めることにした」などと、信じられない言葉を連発
たぶん完全に天然の人で、その瞬間瞬間は本当にそう思っているんだろうなあという印象
いわゆる人格障害
西郷はさすがにここまで酷くは無かったろうが、きっと同傾向の人間だったろうと思う
若い士族などは西郷の「責任はすべて私にある」などという(無責任な)美辞麗句に、コロッと心酔してしまうだろうよ すべての責任はわたしにある、と言うことで
責任の具体的な所在を曖昧にし
逆に責任を取らないという処世術かな 西郷が撃たれて死んだのなら、首を斬ったのは誰なのか? やはり
やはり西郷が絶命したのは首を斬ったからだろう。太ももを撃たれただけじゃ
死なないだろうし。 やはり死因は首の切断だねw
桐野が西郷が投稿しようとしていると思い込んで撃ったという説があるが
西郷が撃たれたあと、観念して別府に介錯を頼んだということはそれでも
十分なりたつわけで、つまり西郷が最後に自決した可能性はやはり否定できないねw 西郷隆盛精神の継承者たち・・・
富永恭次陸軍中将:
フィリピンで陸軍の航空特攻を指揮。マッカーサー軍が迫ってくると、司令部の許可なしに側近と芸者とウィスキー瓶のみを載せて台湾に逃亡。天寿を全うする。
菅原道大陸軍中将:
陸軍特攻の中心だった第六航空軍の司令官。10代の少年を特攻隊を次々を送り出し、エンジン不調などで戻ってくると「卑怯者!俺も後で行く!」と殴り倒した。
敗戦で部下が自決をすすめたが「死ぬのだけが責任を取る事ではない」と逃げ回り、96歳で天寿を全うした。
倉澤清忠陸軍少佐:
菅原道大の部下で第六航空軍の参謀。特攻隊を次々と送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員を監禁して毎日毎日
「死ねないようないくじなしは特攻隊の面汚しだ。国賊だ!」と罵り殴りまくった。悔しさのあまり自殺したものもいる。
戦後は元特攻隊員の復讐を恐れてピストルを持ち歩き、寝る時は枕元に日本刀を置いて寝た。天寿を全うする。
玉井浅一海軍大佐:
フィリピンで特攻隊員を次々と送り出す。
機体不良で戻ってきた特攻隊員たちが本土へ戻る事になると
「待て!お前は特攻隊で死んでもらう事になっている」と輸送機から引きずりおろし、自分が乗り込んで本土へ帰っていった。
戦後は僧侶になり、天寿を全うした。
黒島亀人海軍大佐:
残酷な人間魚雷「回天」を立案。「必ず脱出装置を付けます」と嘘をついて認可を得た。
戦後は会社社長として何不自由ない暮らしを送る。宇垣纒の戦争体験手記を遺族から借り出し、自身に都合の悪い部分を破棄した。天寿を全うする。
太田正一海軍大尉:
米軍コードネーム"BAKA"こと人間爆弾「桜花」の発案者。
「自分が乗るから開発させてくれ」と上層部に懇願して開発させたが、自身は「適性なし」として搭乗しなかった。
敗戦直後に逃亡し、名前と戸籍を変えて暮らす。天寿を全うした。 それらは皆天寿を全うしてるので、西郷は天寿を全うしてないから、最後はまるで違うといえようw まさに西郷は天寿を全うできなかったから神格化されたんだよ
オウム麻原が今だ死刑執行されない理由も、死んで神格化されてしまうことを当局は憂慮していると言われる
西南戦争でも政府は西郷の助命嘆願を聞き入れて生かすべきだったね
1万5千人の若者を死地に送りながら一人だけ天寿を全うした男として 無理だろう?というかあそこまでの騒動にでもなれば政府・軍の上層の「誰かが」責任とらねばならないから
だったら素直に西郷に責任取れせたほうが無難という話 >>292
つうか挙がった人物の中に薩摩閥関係が一人もいないとこで、もう確信犯としか思えない…釣りかな?
ところで大河も奄美編に突入だが、今回は割りと黒糖地獄を掘り下げてくれそうだね
当時の薩摩藩の財源を考えれば、明治維新は奄美の黒糖が成したと言ってもいいくらいの重要節
奄美住人を救うために島代官を脅したって逸話もあるが、まぁ島役人の代官と言えど鹿児島本土では郡方頭レベルの役職なので、潜居中の西郷でも代官に恫喝なんで容易いことだったろうし
トドメに龍家のお嬢様が西郷の島妻じゃ奄美での待遇も良くなったろうなぁ
しかも後任の代官は島津一族にして西郷の親友でもある桂久武
そりゃ奄美での西郷信仰も盛り上がるってもんだわな
んだけど斉彬公ですら顧みなかった奄美の負担軽減に(微力ですが)最初に取り組んだのは、西郷に嫌われてたあの久光公ってのも皮肉ですなぁ ここで「西郷は逃げた」と繰り返し書いてる人は、
現実で逃げている自分を肯定したくてたまらないんだろうな。 西郷は帰藩後すぐの1864年に
「大島外二島砂糖買上げ方について」という奄美の窮状を改善するよう求める上申書を藩に提出している
西郷が奄美の窮状に義憤のようなものを表明したのは間違いないところである
もっともこれは西郷にとって特別なことではない
西郷は生涯で何度も建白書や意見書を藩や政府に上申している
ほとんどすべての上申に共通しているのは、
正義マン風に弱者の側に立つようなポジションを取りながら
西郷個人とぶつかった人物たちの悪口を並べ立てるというものである
されに共通しているのは上申した後に
西郷が何かを具体的に行動した形跡が無いことである
上申した内容とは反対のことをやっている場合すら多くある
たぶん西郷にとっての建白書や意見書は、義憤を本当に燃やして書いているわけではなく
個人的な不満や不平が先にあり(西郷のことを認めようとしない人物に一泡吹かせたいとか)、
その個人的な発露を正当化するための後付け的な理由として
奄美の搾取であったり、政府高官の腐敗などを無意識に拾っているのだと思われる
したがって自分の気に食わない人物、奄美の役人や政府の官僚を取り除くことが達せられれば
例えば奄美の窮状のことなどは忘れてしまい、今度は西郷自身が奄美を搾取する側に
回ってしまうのである
このように考えれば、西郷の行動原理は若い頃から死ぬまで一貫していることが分かる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています