西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男 2
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昔からまともな人間はおかしいと思っていたはず
しかし西郷関連のネガティブな著述は右翼やおかしな信者の標的になるので表立って言えない
最近だよ多少なりとも言えるようになったのは 薩長信者は創作美談を垂れ流すだけならまだしも
ネガティブ説には全力で貶めに来るから関わりたくなくて普通の人は
諦めて黙ってしまう。
コピーペースト・レッテル貼り・荒らしと、その他の醜い罵詈雑言。
全部ブーメランな内容だけどよく飽きないなー。
ほとんどパターン化しているからNGワード設定であぼーんしている。 >>543
>西郷隆盛からすれば明治天皇そのものがカッチャー(韓国語で偽物)という
>事なんでしょう。
言ってるのは韓国人ですか
なるほどね 木戸日記に目を落としてみよう。
「西郷が辞職するときは、近衛の士官など己の本職を
忘れ、気まま勝手をもってみだりにその職を捨てる。
近衛士官は天子の親兵である自覚を欠き、政府および
国民を保護する使命を放棄している。
そのことに良心の呵責を感じないとは。」
木戸は、西郷が喧嘩に負けた子供のように、ぷいと
姿をくらますような無責任な行動をとったことに、
言い知れぬ怒りと幻滅を感じていた。
少なくとも天皇をはじめ、国の根幹を担う人々へ、
潔く辞去の挨拶をして立ち去るべきなのだろう。
ましてや、将官や省庁の幹部を制止することなく、
道づれにすることの罪深さは理解に苦しむものがある。 (国のために一命を賭して朝鮮への使節を志願した者が、
その主張を受け入れられなかったからといって、
その国を麻痺させ、内乱の危機を招こうとする
矛盾を何と説明するのか)
木戸は西郷に独善の極みを問い正しかった。
木戸は死に瀕していたのである。
幸いぎりぎりの一線で硬膜下への出血が止まった。
参照 「小説木戸孝允―愛と憂国の生涯」下巻 中尾實信著 277頁 鳥影社 西郷さんは
言っちゃぁ悪いが近代国家建設なんていったって
チンプンカンプンで分からなかったんじゃぁないのかな。
蛤御門の変では幕府についていたはずの西郷隆盛が
鳥羽伏見の戦いでは長州側に付く矛盾。
西郷さんは時々息詰まるとガラガラポンに出たい人なのかもな。 愛エメ さいごうたかもりは大村益次郎・木戸孝允・山田顯義の
長州藩頭脳派に敗れてしまいました。
江戸城開城までは西郷さんにも主役が廻って来たのだけどな。
五稜郭の戦いでは小僧の山田市之允(顯義)に主役の座を奪われ、
誕生した日本陸軍の主導権は大村益次郎と門人の山田顯義に奪われてしまいました。
木戸孝允と山田が海外に行っている間に山縣有朋を籠絡したまでは
良かったものの、帰国した木戸孝允と大久保利通に実権を奪われ征韓論はおジャン。
夢破れた西郷どんは天皇陛下と近代国家を放り出しガラガラポン。
最期のスポットライト、主役の座返り咲きを狙って
一かパチかの勝負に打って出ましたが近代国家の軍隊に完敗しました。
軍艦ひとつないんじゃぁ勝つのは難しい。 愛エメ 過大に持ち上げる薩摩ステマって日本的じゃないね、やらせている奴らが透けて見える 木戸や大久保も政変の時辞職出してるし実際その後辞めたからな
後朝廷の命を聞かないってのも木戸や大久保にあるし
長州征討の際に朝敵だったが抗戦した長州や勅命無視して出兵しなかった大久保
その辺は割とドライ まぁ〜古来からの手法といえばそれまで
大山や従道で言えば「お前ら単に身内やん?」と「あの西郷どんのお身内か」とじゃ〜違うしなw 薩摩武士なんて半分農民みたいなもんだろ
薩摩武士って他藩の士族や武士とはまるで別の存在じゃないか
藩の人口における割合が多すぎてもはや支配階級とはいえない
多くの庶民から税をたかって無為徒食する特権階級という
評価が士族にはあるが、薩摩は半分屯田兵みたいな自給自足
をしていたのだから特権階級なんてとてもいえない。
薩摩武士は他藩の士族ほど希少でもない別の階級 薩摩藩っていわばヨーロッパ的な近代国家
他領地を植民地として搾取して工場もたくさんもってた
そして近代隊列を組める銃兵を大量に養成できていた
すでに近代化がなされていてノルマをクリアしていたが
薩摩が、それにおんぶにだっこ状態の明治政府に
どうしてしたがわなければならないのかと
藩なんてのは大量の銃兵も養成できません近代工場も建てられません
だから潰します!っていわれても、ハア?俺たちとっくにそれできてんですけど?
っていうかおまえら明治政府が俺たちの武器工場と兵力におんぶにだっこ
状態じゃねえかと文句言うのもわかりますわな
赤字のところおおいんで子会社ぜんぶつぶします!って親会社にいわれても、
親会社も赤字で、薩摩子会社だけが血反吐はいて頑張って黒字叩き出してて
親会社さえ子会社からの上納でやっと息してる状態だったら、薩摩子会社は
何いってんだお前?って怒るのもとりゃ道理だわなと 徳川幕府は巨悪だから何がなんでも倒さなければならない。
徳川幕府は卑怯だから 556の続き
徳川幕府は倒すためならどんな卑怯な手を使ってもいい。
薩長のモチベーションの根底はそんな感じ。 卑怯だから、じゃなくて封建主義だから。
職業選択の自由も移動の自由も認めないんだから。
そりゃ倒されて当たり前。 西洋の封建主義の貴族と幕藩体制の藩主はまったくの別物。
貴族が搾取しまくって人々を苦しめて革命が起きるってテンプレは
フランス革命から来た衆愚のイメージ。
江戸時代、代を重ねるごとに武断政治から文治政治に移行することに
成功してからは、武士は質素倹約を美徳にするようになった。
さらにその上の「お殿様」は搾取するのではなくその地を守護する存在。
庶民層にとって安心安全の守り神だった。
一揆も革命というよりは交渉の手段。代表者は責任を取って死ななければ
ならないという覚悟で事を起こすが、その動機は理不尽を正すことであって
復讐することではなかった。
悪徳領主をガチでやっていた藩主はけっこう少数例。
一応、監査システムはあったし、領民への度を越した年貢の取り立てや
お家騒動などの醜聞がバレたらそれはもう厳しく粛清された。
薩摩の非人道的な重税と黒糖地獄と密貿易は、遠方であることと薩摩弁の
分かりにくさが暗号レベルのせいでバレなかったようだが。
島津斉彬が藩主になりたいがために、阿倍正弘を味方につけてから密貿易を
密告して、不仲だった先代の実父を隠居に追い込んだのはなんだかなぁ。
もう一つの打ち出の小槌だった奄美の黒糖地獄のことを明るみにしなかった
ことが何気に作為的。 江戸時代の庶民の移動はかなり自由だった。
分かりやすい例はやじきた道中記。
旅のガイドブックのような絵付きの出版物が多く刷られて広く読まれた。
旅ブームも起こっていた。一番有名なのはお伊勢参り。
ピーク時には6人に1人が行くほどで、旅によく使われる街道は女性だけで
行って帰ってこられるほど治安が良かった。
恋愛もかなり自由。最終的な結婚は親が決める相手になることが
ほとんどだったが、親だって我が子は可愛いから悪縁になりそうな
相手は回避するようによくよく評判を聞いて吟味していた。
合わない相手と結婚してドアマット展開になる話がなかったわけでは
ないが、それは現代でも起こっていること。時代のせいというよりも
局所的に不幸の見舞われた気の毒な例。
そのためのセーフティーとして駆け込み寺なるものがあって
DV夫と縁切りする権利が妻にはあった。
知れば知るほど現代との類似点があって目からウロコが剥がされる。 最近よくある「本当はすごかった江戸時代」みたいな本の主張ですね。
さて寺社参りが認められていたから、江戸時代には移動の自由があった、
と言えるんでしょうか。
「移動の自由」という言葉には、単に東から西に行ける、ということだけでなく、
移動して居住できる、そこで生計を立てられる、という意味が含まれます。
江戸時代の寺社参りは、手形という形で許可を貰い、必ず帰ってくることが前提です。
労働力が流出してしまうことを認めてないわけですね。
これが「移動の自由が認められれていた」と言えるのかどうか。
だから移動の自由、職業選択の自由がなかった、とセットで書いてあるわけで。
江戸の幕藩体制は封建主義ですよ 「お伊勢参り」が今日の観光旅行の原型になった、と巷間言われているのはその通りだと思います。
それによって東海道は繁栄した。
しかし江戸時代、東海道筋に並んでいるのは、幕府の譜代親藩ばかり。
それで他所から来てお金を落としていってくれるんだから、
「お伊勢参り」を認めたのはさもありなん。
特に伊勢国の桑名藩などは、一番利益を得られる位置だったはずです。
そりゃ幕藩体制を守る側につくでしょうな。 >>562
足ることを知っているからないものねだりはしない。現代人が自由なんて嘘だ。
本当に自由な人間なんていない。絶対にしがらみがある。
だからと言って流浪の民になりたいとも思わないが。
帰る家があることは幸せなこと。旅から帰るのは帰りたいから。
安心安全に定住することがどんなに幸せなことか。
世界史上だと定住しない暮らしをしていたのは所有者に従わされる奴隷・民族単位だと
シルクロードの遊牧民・ジプシー・故郷の奪い合い真っ最中のパレスチナ人etc。
日本史上だと流刑になった罪人・白拍子しながらさすらう遊女・参勤交代する
大名行列一行・行商する商人・地図を作る伊能忠敬チーム・巡業する大衆演劇の
旅役者・花を求めて移動する養蜂業者・転勤族etc。
現代人のほとんども住処を変えるのは結婚や就職などの人生の分岐点くらいの
もので、それは江戸時代と変わらない。また行く先々で地域に順応するのは大変だから
転勤族も好き好んで転勤やっているわけではない。冒険は旅行で充分。定住できる
ホームがないと心細くなるんじゃないかな。 >>563
観光地と都会以外が田舎なのは至極当たり前のこと。
観光客を呼び込みたいなら、僻んでないで現状をよくするための村興し・
町興しのようなことをやっとけばいいだけのこと。
余所はいいなー、うちは迫害されている。……と負の想念へ思考が傾き
やすいのは討幕派の性癖っぽいね。だから徳川のすべて奪いにきた。
田舎は田舎のままで住み良くできるのに。
戦時中でも空襲のターゲットは都会だったし、戦後の食糧難のときも自分家で
農作物が採れる農村だったら飢えないし。
それよりも現代は過疎地だの廃村だのが増えてインフラが途絶える地域が
増えてきたから江戸時代よりも悪くなっているともいえる。
余談だが、加賀の前田利常は豊臣側だったから徳川幕府に警戒されていた。
ゆえに鼻毛を伸ばして江戸でバカ殿のパフォーマンスをして難を逃れていた。
見た目を犠牲にしたけれど名君で加賀をちゃんと富ませていた。
だが明治維新後の新政府は薩長ばかりが実権をとって、それなりの活躍をした
加賀藩の士族が日の目を見ることはなかった。 >>565
加賀がそれなりの活躍ってなんだよ?w
加賀は徳川から睨まれないように家康のときから政治にはかかわらないようにしてきたんだぜ
それが御家芸であるかのように徳川の世が終わるまでまでまったくといっていいほど政局にはかかわらなかった
すべてその結果なんだがw >>567
じゃあ情弱の俺にそれなりに活躍した加賀を説明してみてくれよwん?
できるのかなあ?説明が?w 加賀藩は禁門の変、鳥羽伏見、戊辰戦争と出兵はしてるよ
ただ勤皇と佐幕の対立で藩論がまとまらず右往左往しただけで終わったが
北越戦争には藩兵1500人と軍艦が参戦してる
これは各藩の中で最大の軍勢だったが、手柄は全部薩長に付いた
この時、加賀藩は100人程度の戦死者を出している
ちなみに薩摩藩の戦死者は戊辰戦争全部合わせて514人、長州が全部で300人
加賀の100人というのはけっこうデカイのだ >>569
石高におうじた出兵兵力だがw
しかもその死者数の割合みたらどうみても練度の低さと近代化してない旧式の装備によるもの
君の理論でいくと
太平洋戦争時の戦闘員の死者の多くは東北系の人
そして沖縄が多い
だからといってそれらの県が戦後評価されて政局に重要な役割やらポストにいたんですか?w
禁裏の防衛任務は大藩の義務であるからして禁門の変に加賀藩が居合わせたのも当たり前
で、これのどこが政局にかかわってたというんだ?wん?w
死者の多さが政局なのか?w
死者を多数出したのは加賀の運用、戦術の責任じゃないとでもいうわけか?w
錦の御旗がひるがえるまで佐幕だった藩を死者が多かったからって明治の中枢の一角にいれろと?w
加賀なんぞ評価する前にもっと評価してやらんといけない藩なんて腐るほどあるというのに
人を情弱呼ばわりするわりに誰もが知ってるようなことしか言えんでどっちが情弱なんだかw >>570
泣き事多すぎ
禁門の変では長州藩と幕府の間に立つという形で政局にしっかり関わってます
結果が出なかっただけで
君の言ってる「加賀は徳川から睨まれないように家康のときから政治にはかかわらないようにしてきた」なんて情弱の思い込みにすぎません >>571
これでこいつが無知無学のアホだということ完全証明されましたww
>禁門の変では長州藩と幕府の間に立つという形で政局にしっかり関わってます
お前が政局の意味すら理解してない大馬鹿者だということこのフレーズだけではっきりわかるww
>結果が出なかっただけで
クソワロスwwww
お前のそのクソバカ理論でいけば結果がでなくてもいいなら徳川治世300藩すべて政局にかかわってることになるが?wあ?wドアホw >>569
細かい数字をありがとう。
余談だけど加賀といえば加賀百万石。
大河ドラマで知名度上がったけど、その後継も内政力がすごい。
豊臣側についていた外様大名なのに頑張った。
豊臣時代にも朝鮮出兵には断固反対したあたり、利家は戦闘力が
あっても戦争依存経済の領政を選択しなかったということ。
薩摩のよくやる侵略だの黒糖奴隷だののジャイアニズムなしで、
加賀を住み良く整えたのは戦の手柄以上の功績だと思う。 あの朝敵と罵られた会津からも後に高名な人材が排出されているのを見ると
加賀のソレはとても希薄に見て取れるw
まぁ〜名もなき事務レベルで優秀なのは居たのかもだが >>571
関ヶ原以降芳春院が利長に書いてる手紙に記載されてますが?
まさか知らんわけでないだろお前?
利長も子供や家臣にそれらのこと言っている文書も残ってますが
まさか知らんわけでないだろオマエ?w 幕末維新期に石川県士族がやったことと言えば、
思いつくのは大久保利通の暗殺。
川路利良なんかは事前に情報をつかんでいても
「石川県人になにが出来る」と高をくくった末の凶行だったそうだが。
他県人を見下すような鹿児島県人の悪い所が出てるとは思う。
しかしそれを差し引いても、
暗殺犯たちは、時代に遅れてやって来た人たちだな、とは思う。 犯人たちは征韓論信者で鹿児島の私学校に滞在もしている
テロとはいえ
萩の乱→西南戦争→紀尾井町の変
という流れで起きた("加賀の乱"とでも言うべき)小さな内戦であった 歴史に対する影響力としては、
「桜田門外の変」の方がずっと大きいが、
それでも「桜田門外の乱」とは言わない。
「桜田門外の乱」なんて言ったら笑われる。
>>577は歴史音痴。 最後の仇討ちも確か加賀だっけか?当時の執政・本多家の当主殺害に於ける本多家家臣VS加賀藩士w 西郷隆盛と鋭く対立した人たちってみんな後日反政府右翼に暗殺されてるんだよな
大村益次郎
大久保利通
大隈重信(右足切断)
大隈に爆弾を投げつけたのは右翼団体玄洋社の関係者
玄洋社は西郷神格化本「西南記伝」の刊行元黒龍会と同じ一派
こういうところで点と点がつながる >>581
おおお。
その点がつながり、線となり面となった考察を、
ぜひ御開陳ください。 そんな大げさなものではありませんけど
西郷神格化と反政府右翼の狂気じみた活動は同根であるということです
同じ人たちがやっていた
ところで、この反政府右翼が刊行した「西南記伝」は西郷が最期まで戦い立派に自決したという伝説を創りましたが
その一方で、桐野が西郷を銃撃したと証言した"城川市二"の名前がこの「西南記伝」にはどこにも出てきません
城川の親友であり一緒にカゴを担いでいた小杉恒吉衛門の名前はしっかり出てくるのに城川の名前だけが無い
たぶんですけど「西南記伝」が刊行された明治42年ごろも城川説というのは存在していて
しかし不名誉な死に様ゆえに目撃者の城川市二の名前ともども無かったことにされたのではないかと思います
それくらい不自然なのです、城川市二の名前だけが無いというのは・・・
大隈重信に爆弾を投げた狂信的な右翼ならそのくらいの"検閲"はやると思います
>>539のように城川は生涯悔しさのようなものを心に持ち続けたようで、その原因は自分の目撃した西郷の最期、そして自分の存在さえも無かったことにされた
戦火の中を命をかけて別府晋介や西郷に最後まで付き従ったのに、その自分の名前も葬られた
ということに起因しているとすれば納得いきます 西郷ageはキモチワルイ。
只人を神格化するなら、もうちょっと瑕疵の目立たない経歴の人物にして欲しい。 >>583
なぁーんだ。
「点がつながった」というから、新資料があるのかと思ったら、
昔のテンプレの焼き直し。「スレ主=無能の証明」ですな。
結局、竹崎櫻岳「肚乃西郷」と片岡吾庵堂「横目で見た郷土史〜言いたい放題でごめんなんせ〜」しか
資料は無いんでしょ。
それとも何か隠し玉があるというなら、ぜひ知りたいです。わくわく。 >>584
新興宗教において神格化されてる"教祖"の実態がほとんど例外なくエグい人物であることを考えれば
神格化というのはそういうものなのかも
共産主義の"英雄"たちの神格化もね
そんな神格化された西郷像が、日本人のあるべき姿、理想像のようになっていた時代もあったわけでその弊害は大きかったと思う
"負けると分かっていても戦わなければならない時がある"という精神論が日本人は好きですが
そのモデルの一つは明らかに西南戦争の美化ですよね
美化された西南戦争は、太平洋戦争下の日本軍による無謀で意味の無い作戦の連発という事態の精神的な背景の一つになっていたと思います
本当に西郷や桐野たちが負けると分かっていて、しかしそれでも戦わなければならない時が男子にはあるのだ
と思って西南戦争を決起したのならまだいい
それを顕彰しようとする者も出るでしょう
しかし西南戦争の実態は、負けるつもりなどさらさらなく、単純に自分たちの無能さからくる甘い見通しで
薩摩士族全員出撃というわけのわからない決起をしただけであった
敗色が決定的になっても間違いを認めず、その歪は現場に押し付け戦死者を山のように出した日本史上最大規模の愚行
それが西南戦争の本当の姿です
このような愚行を「男には負けると分かっていても戦わなければならない時がある」などとすり替え、西郷や桐野を美化していたらそりゃアメリカに負けますよ
右翼や西郷信者の罪は重いですね 西郷は別に美化さなくても維新三傑と評価されてて
しかもまず西郷と筆頭で名前が来るようにその評価はなんら変わりないよ 私学校のやった恐怖政治と独裁政治は、
戦争中の軍国主義、そしてスターリン主義や毛沢東主義にソックリだね。
夜郎自大の日本共産党やオール沖縄を見ると、今だに西郷政治が生き残っていると
しか思えない。日本人にとって、最も忌まわしい記憶が西郷の恐怖政治と夜郎自大。 >>588
なんで寺子屋ではなく私学校だったのかというと九州地方は隠れキリシタンが
多く潜伏していて、隠れキリシタンのカムフラージュ用のハリボテ寺はあれど、
真面目に現世功徳している本物の寺が少なかったから。
そんな地域では教育施設としての寺子屋は足りず、私学校が代わりをすることになる
ものの、学べるのは士族階級が主で女性や農民の識字率は上がらないままだった。
そういえば吉田松陰の教え子の多くがテロリスト化したけど、どんな教育をしたら
ああも暴力にためらいのない理不尽な理想主義者に仕立ててしまえるのだろう。
教育ついでに危険思想植え付けてくる私塾はカルト宗教とどう違うの? 私学校と隠れキリシタンが関係あるって初めて聞いたんですが・・・
私学校はもともと士族階級しか対象にしてないよ 多分創立に尽力した一人、鹿児島県令・大山綱良が「隠れキリシタン」だったからかもねw
大山の葬儀は何故か浦上のキリシタンが執り行ったとか
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
福昌寺 (鹿児島市) >>586 や >>588によれば、
西郷(や私学校党)は、「右翼」で「共産主義」で「戦争中の軍国主義」で「スターリン主義」で「毛沢東主義」で「新興宗教」で「日本共産党」で「オール沖縄」なんだそうです。
支離滅裂です。
歴史や政治を少しでも知っている人なら、およそ恥ずかしくて書けません。
鵺のように自分の立ち位置をはっきりさせないから、こんな支離滅裂なことになるのでしょう。
こう書くと、
「いや、夜郎自大(自分の実力を知らずに仲間内ではいばっているさま)な点で共通している」と言うのかもしれません。
夜郎自大なのは、支離滅裂な自分自身なんだよ。 586を書いた者です
588さんの意図は分かりませんけど
592さんの>「右翼」で「共産主義」で「戦争中の軍国主義」で「スターリン主義」で「毛沢東主義」で「新興宗教」で「日本共産党」で「オール沖縄」
という書き込みを見て、これってようは全部全体主義じゃんと思いました
592さんは支離滅裂と申されますが、自分で書いてて気が付きませんでしたか?
支離滅裂どころか全部全体主義でこれはまさに鹿児島私学校のことでした
教えてくれてありがとう >>593
586で「全体主義」という言葉が出てこないまま、
宗教と共産主義のように、本来性格の異なるものを並べ、長々と主観で以て否定する。
こういうのを最近は、
【中二病】
と言います。
そう、あなたは【中二病患者】なんですよ。
まず気づくべきはそこですね。 >>594
いや最近は「中二病」というのは死語かと思いますよ、おじいさん 笑 やれやれ。スレ主は、
>>537では、右翼を揶揄するために「中二感全開」などとと書きながら、
自分がツッコまれると
>>595のように「中二病は死語」とすっとぼけます。
というより本当にボケているのでしょう。
何でも自分に都合よく考える人です。
こういう「中二病をこじらせた人」を最近ではなんと呼ぶのか、
ぜひうかがってみたいものです。 >>596
おじいさんはたぶん「中二」の用法間違ってますよ
「中二」とか「こじらす」とかはおじいさん世代には微妙に伝わらないニュアンスなのかな・・・
それとこのスレは「若い奴にバカにされた年寄りが粘着して気持ち悪いレスを繰り返すスレ」ではないんで少し察してください
もちろん西郷隆盛関連の話題なら大歓迎です 今スレのスレ主は、やたらテンションが高かったり低かったり情緒不安定で、
レスの矛盾を指摘されると、「気持ち悪い」を泣きながら連呼します。
その不安定なこと、まるで思春期の女の子のようです。
こういうのは「中二女子感全開」と言えばいいのかな。 大河は週末のダイジェトだけ見ている。
見れば見るほど怖気が……。
制作陣は薩長と岩倉が大嫌いなんだな。
岩倉使節団からの帰国組、完全に欧米列狂に洗脳されてきているじゃないか! ヘタレの明治維新の精神的支柱だろ。いなけりゃ何も前に進まないわけだったのだが。 そのヘタレ政府に負けた惨めなやつらはなんていうの?w
超絶ヘタレチンカスとでもいったらいのかな?w ドイツで見つかった 陸軍省で撮影された写真の1人が西郷って本物なんかな?写っているメンバー的には西郷がいても不思議ではないけど http://lesliehelm.com/wp-content/uploads/2012/12/wakasoldiers.jpg
ちなみに写真後列左から
乃木希典、大山巌、西郷隆盛、山県有朋
前列左から
川村純義、勝海舟、ユリウス・ヘルム、西郷従道
全員ニセモノと言われています >>607
フェイクでしたか... 今回こそはまさかの本物かなとちょっと期待してしまいました残念。 ttp://image.space.rakuten.co.jp/lg01/13/0001073013/61/img002cf07czikezj.jpeg
ttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=54311083&comment_count=18&comm_id=1264494
あなたの書き込みのように、右から二人目は西郷隆盛氏です。写真のうらに祖母の自筆でそうかいてありますし、
祖母は、西郷さんの姪の小学校じだいの写真ももってました。なによりも、隆盛氏の娘さんが
「父です」とおっしゃったのですから、間違いないです。実は私は、そのおば様のお孫さんとお見合いを
させられるところだったのです。お断りしましたがね。。。 顔を知らない相手の暗殺は難しい。
西郷は暗殺者のターゲットにされないために
自分の肖像を残さなかった。 案外元主君斉彬の写真好き=病死というイメージが最後まで拭えなかったのかも?
最後の最後に周囲を見回して「おいおい、まさかこいつら殆ど写真残してるやんwwwと」
「やべぇ、こいつらと一緒に居たら共倒れやんか」
「イチ抜けた・・・・ズドン!!」
「・・・・・ぁ、そういや自分も撮ってたっけwww」 西郷は鉄道も全否定してたし
洋行もしなかった
自分の理解力を超えてるものは自分の視界からシャットアウトする気質なんじゃないの そういう頑迷な人だったら、息子の留学も認めないでしょうよ。 多くの留学生を含む岩倉使節団が横浜を出港する時に
西郷は『今日出航する船が沈んだら誠に愉快』と発言したとも 西郷どんは戦好き。
戦がしたい。戦がしたくてたまらない。
泰平の世は退屈でなかなかゆるぎそうにない。
どうすれば戦できるのか?
そうだ、人斬りをすれば、テロをしたら、世論を扇動したら、クーデターをしたら
徳川は戦端を開くだろうか
……そうやって挑発し続けて戊辰戦争できたときが西郷の人生一番の、
ウハウハ期だったのだろう。 今も昔も、外の世界を知らない「井の中の蛙」が攘夷派になる 西郷が岩倉使節団と一緒に洋行しなかった一番の理由は、
年齢だろう。
西郷はすでに四十代。当時で言えばもう初老だ。
もっと若い人が行ったほうがずっと国の将来の役に立つ、と考えるのが自然。
洋行自体、幕末から幕府側、新政府側どちらでも行われていて、
全く西洋の情報がないわけではない。
それに西郷は、当時の日本人としては、非常に多数の来日外国人と会っているわけで、
外国の文化や考え方に触れる機会も多かった。
わざわざ今更自分が行かなくても、と考えたのではないか。
あと、岩倉や大久保といった自分と同年配の人間が洋行することに対して、
その意義は認めていただろうが、
どこかお大尽旅行のような、ぜいたくなものを感じていたんじゃないのかね。 西郷は日本語で恫喝交渉するのは得意でも外国語ではできなかったから
行かなかったんじゃなかろうか。
九州の方言も本当に同じ国の言葉か?って思うくらい別言語だから、
ある意味薩摩人は薩摩弁と日本語のバイリンガルだけど。
岩倉らの洋行組は行く先々の国のうちの何か国語までマスターできていたのか。
日本語しか話せないってことはなかっただろうが、正式な場で都合の良いことしか
訳さない現地通訳を雇っていたなら正確な情報収集はできなかっただろうな。
「外国強い!」「日本じゃ勝てない!」と価値観改変されて、急ピッチで猿真似しないと
ヤバイって刷り込まれて、帰国したのだろう。
余談だけど天正遣欧少年使節でローマまで行った少年たちは、言葉が分かっていても
途中まで引率したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭の指示でヨーロッパ各国の
醜い部分は決して見せられず、美しいキリスト教国だけを限定して見させられたとのこと。
ローマへの旅の間、注意深く華やかに見える部分だけをチョイスしてこれが
キリスト教の国だと見せた。糞尿臭ただよう文化圏なのに。
行く先々でパレードで歓待してもらった少年たちはあっさりキリスト教の深みに
ハマった。……けっこうえげつない洗脳方法。 岩倉使節団の目的は、あくまで「西洋視察」であって「交渉」じゃないからね。
不平等条約の改正のための下準備、というのはあっただろうけど。
視察であれば、語学ができないからというは、一番の理由じゃないでしょう。
薩摩藩は慶応元年に英国へ留学生を送り込んでいる(この時は密出国)。
一番年配でも34歳で、ほとんどが十代、二十代。
その中から五代友厚や、森有礼、長沢鼎らが出ているから、
目的は達成していると言える。
そんな前例がある中で、四十過ぎの自分が出張るのは気恥ずかしい、
若い人に機会を、と考えるのが西郷。
それでも自分の目で見ないと分からん、と考えるのが大久保。
どっちも理はある。 > 四十過ぎの自分が出張るのは気恥ずかしい、
若い人に機会を、と考えるのが西郷。
> それでも自分の目で見ないと分からん、と考えるのが大久保。
> どっちも理はある。
西郷信者お得意の何の根拠も無いエセ「人間論」だな
中身ゼロの抽象論 >西郷信者お得意の何の根拠も無いエセ「人間論」だな
>中身ゼロの抽象論
スレ主は、よく相手のレスに対して「中身のない抽象論だ」といって逆切れします。
世の中には、抽象的な思考が苦手だったり、
相手の身に自分を置き換えて物事を考える、つまり思いやる、
ということが出来ないタイプの人がいるそうですが、
それなんでしょうかね。 >>623
西郷論とは「思いやり」でしたか
そういえば最近そっくりなことを聞きました
韓国のマスコミが徴用工判決で「日本は逆ギレするな、韓国を思いやれ」みたいなことを言っているそうです・・・ 【日本人はサマリア人】 日ユ同祖論、もう証明完了って感じ、ようやく月刊ムーに科学が追いついてきた
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1543029282/l50
ムー編集長 UFO「存在する」「自衛隊は隠してる」「米国は正体を知ってる」「生きているうちに分かる」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1543627498/l50
ブッシュも安倍も、世界教師マ¥トレーヤにはかすりもしない! スレ主が「思いやり」と聞いて連想するものは、
韓国徴用工判決や、報ずる韓国マスコミなんだそうです。
日頃よほど理不尽な人間関係の中で生活されているに違いありません。 西郷は戦争好きなまま大人になったジャイアンのようなもの。
劇場版でちょっとだけいいヤツになるジャイアンも普段はただの乱暴者。
明治新政府で壁にぶち当たると「辞意」を言い出す。
欲しくて奪った国も権力も、面倒になると捨てる。
あぁジャイアンだなぁ。
ジャイアニズムのあれやこれやを知らしめられたよ。 >>627は西郷さんへの思いやりが足りない
マジレスすると西郷さんは戦争好きではあると思う
しかしそんじょそこらの戦争好きと違うのは
争いを煽っていながら最終局面では自分だけ敵に温情をかけ
寛大な措置で済ます傾向が明らかにあること
同時代の人がはたから見たら、そもそもお前やお前の子分がイキって追い詰めたくせに最後に助けてやって
自分だけ人格者のようないい顔をするという西郷の姿はどのように映っただろうか
庄内藩に対する寛大処分、山県有朋に対する庇護
そして武力征韓を保留させ自分が一人で話に行くと言いだした征韓論法
もしかしたら薩長同盟や江戸総攻撃中止も西郷のそのような面の現れなのかもしれない 「ドラえもん」が日本を代表する良質な漫画・アニメであることには異論はない。
ただ「光市母子殺人事件」の時、
犯行当時未成年だった犯人の死刑を回避するために、
弁護側が「赤ちゃんの死体を押し入れに入れたのは、
ドラえもんに何とかしてもらおうと考えたからだ」と主張し、
世間を唖然とさせたことがあった。
>>627を読んでそれを連想した。
「ドラえもん」は児童向けの作品として楽しめば良いのであって、
何かの比喩に使うのは適切ではないんだろう。
第一「ジャイアニズム」なんてネットスラングの域を出ていない言葉で、
明確な定義があるわけでもない。
また比喩として使うのが「ドラえもん」というのは、幼児性の発露に違いないんだが、
それにも気づいていないらしい。
それにしてもスレ主は、西郷を貴乃花やジャイアンに例えることで、
具体的な何かを言った気になっているんだろうかね。 >>630
それは西郷が優勢の時ね。劣勢に追い込まれるとケツまくって逃げ出すのが特徴。 陰謀論は本人は売文のため、あるいは冗談のつもりでやっていたとしても
結果として深刻なテロや紛争の原因※となる事例があるのだから、
良識ある社会は、この手の愚物は徹底的に糾弾して
社会的地位を抹殺するところまで追い込まなければいけない。
公安当局も左右両翼の過激派だけでなく、
陰謀論・カルト専門の部署を設けてテロリスト並みに監視すべきである。
※ナチスドイツのホロコースト、ルワンダ大虐殺、オウム真理教事件など。 ダメンズウォーカーの共依存信者だったら
恩を仇で返す西郷どんにも思いやり対応が
できるんだろうね。 http://amzn.asia/d/hE94ujD
この場合の「思いやり」とは、この本の著者氏が言うところの「西郷マジック」かな・・・
西郷がマジックをかけたわけではなく、後世の人々が勝手に西郷を良いように解釈し自分で自分にマジックをかけているだけですが
上のページから・・・
西郷という人に対しては「江戸城無血開城の交渉では敵となった勝海舟が
「100万の市民が殺されもせずにすんだのは実に西郷の力だ」と西郷を絶賛し、
その後は西南戦争で朝敵となった西郷の名誉回復のために奔走した」とか
「西郷が戊辰戦争で賊軍として敗れた庄内藩に寛大な処分を下したことで、その後の庄内藩は大の西郷びいきになった」
というような「西郷と敵対した陣営すらも感服してファンになってしまうほどの寛容さや徳の高さ」がよく語られるため、
「凡人には想像もつかないほどの巨大な器と人間的魅力を持った人格者」として認識されることが多いと言えます。 もっとも、>>621や>>631などはマジックどころか、老害の「石に漱ぎ流れに枕す」だと思いますが 話はそれるが、愛加那さんの本名が判明したそうな
「アイカナ」ではなく「アリカナ」さんだってのが、西郷菊次郎氏の戸籍簿から分かったんだってさ 西郷さんらしい現象
誰も真実を確認せず、間違った情報が一人歩きして通説化していたわけだ
しかしちょっと考えれば「愛加那」などというロマンチックな名前が、文化の違う当時の奄美に存在するほうがおかしいと今になって気付く >>630
それは平時の発想ではないかしら。
幕末維新期の人物は、みんな尋常ではない死に方をする可能性があった。
戦闘状態で「殺るか殺られるか」なんだから、過激化するのは当たり前。
西郷だって、内紛や暗殺、戦闘によっていつ死んでもおかしくはなかった。
ただいくさはどこかで終わらせないといけない。
終わらせることが出来る大将がいないと、応仁の乱のようにずるずる続くだけ。
「西郷は自分をよく見せるために、最後の場面で寛大なふりをした」
というけれど、部下の連中はいきり立っていて、
「徹底的に潰す」と吠えているのも多いわけだから、
下手に寛大な策を提案すれば、無視か、あるいは殺される可能性もある。
それを抑えて実行出来たのが、西郷だったということ。
まぁ西南戦争は止められなかったが。
同じ時期にそんな人物がいたか。
大久保や大村益次郎は圧倒的な戦力差で殲滅しか出来ない。
高杉はできたかもしれないが、木戸にそういうリーダーシップはなかった。
慶喜は「将軍」という時代にそぐわなくなったシステムの中でしか、
動けなかった。
最後は大将がうまくやってくれる、という信頼があってこそ、
部下も思い切り戦えるということだと思います。 庄内藩に対する処遇は単純に薩摩人は強い奴が好きだから
西郷だけでなく黒田清隆も寛大だった
逆に女子供を使役する会津藩には特に思うところもなかったため
西郷隆盛と木戸孝允の会談では木戸が重い処分を求め
西郷が会津をかばいつつも徹底的に争うまでは肩入れしていない 639も640も西郷マジックだな
西郷さんのやることにはすべて深謀遠慮があるのだという前提で話をしていませんか
オウムの上祐が言っていた
「麻原に洗脳されていたというより麻原のおかしな指示を自分のなかで無理矢理組み替え、補完し
正しいものとして理想化していた」 >>640はべつに理想化はしてないか
ただ、薩摩人は強い奴が好きという前提が意味不明だが >>642
実際は、西郷が仕組んだ江戸騒乱を庄内が鎮圧し、それを口実に鳥羽伏見の戦いを起こしたことに対する負い目があったから処罰が緩くなったんだろう。
また、金欠新政府としては、処罰よりも本間家から賠償金搾り取るのが重要だったんだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています