(急募) 西南戦争について教えろください
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西南戦争について誰か教えろください。
いろんな説を教えて欲しい 司馬の翔ぶが如く作中で緑川の闘いに破れ責任を取って永山があばら屋の持ち主老婆に現金渡して立ち退かせて火をかけて自刃したって史実かね?
あまりに潔く散る姿をカッコ良く描き過ぎてるきらいがあるような読後感
司馬の空想の産物だったりして
男の中の男だよね事実だとしたら >>52
・大怪我を負っている永山の周りにはそこそこ側近がいた可能性が高い
・幕僚達は永山に促されて本営に帰っている
・永山の性格
以上を考えればこれに近い事があった…とみてもおかしくない 村田はヨーロッパから帰国後直ぐに帰郷し私学校党に加わった。
西洋列強と肩を並べるために西郷を首相にしたいと考えていた。
村田は出兵案に消極的反対で業を煮やした篠原に「死ぬのが怖いのか?」と煽られた模様。
永山は西郷辞職で帰郷した訳でもなく、私学校にも属して居なかった。
曰く「政府は日々進歩している」
「お前は政府のしている事を知っているのか?我々の思っている事が正しいとは限らぬぞ?」
と過激な私学校生徒を論じていた。
出兵案に断固反対で最後まで反対を貫き出兵に付き合うつもりも無かった。
このような状況下でも永山を批判する私学校生は誰もいなかった。
勇敢で功績抜群、女子供から敬愛されており、人望の厚い永山をどうしても出兵させたかった。 西郷ドンは徳川を降ろして北朝=新羅である孝明天皇の国になる
と聞いていたので長州に協力した
しかしフタを開けて見れば新羅天皇が殺され百済天皇になっていた
激おこ状態となった西郷ドンは・・・
そして昭和の時代
西郷ドンの意思は日本陸軍に脈々と受け継がれていた
日本陸軍は新羅系で、日本海軍は百済天皇配下にあった
だから百済天皇と新羅陸軍はたいそう仲が悪い
百済天皇は新羅陸軍第二総軍を広島に集合させた
そして京都大学の荒勝と湯川に開発させた原爆をお見舞いしてやったのだ
どこまでも狂暴で狂っている百済天皇に再度激おこ状態となった新羅陸軍は・・・
そして戦後
西郷ドンの意思は関東軍に脈々と受け継がれていた
そして北朝鮮を建国し、百済朝廷の日本に報復することを誓ったのだ
と思ったら、北朝鮮は日本の下請けのような状況で
関東軍って北朝じゃなくて高句麗・百済系だったのか
「関東」って大連あたりの地名のことだものな
じゃあ、陸軍の第二総軍が西郷ドンの北朝で、関東軍は南朝かよ という訳で、1300年前に天皇が半島から来て以来
日本では争いが絶えなかったのだが
その争いの全てが南北戦争だったのだ
つまり、百済系と新羅系の戦争が日本列島上でも継続していたという話なのだ >>52
税所左一郎が介錯したという説もある。
『翔ぶが如く』では、税所在一郎と書かれている輜重隊長。 >>49
私学校党のような肉体派低学歴集団の中における高学歴者の身の処し方としては、村田新八は誤っていないよ。
黙っているしかないんだ。黙って自分の能力だけを提供するしかない。
野村忍介のように多数派である低学歴者を差し置いて献策なんかしていると、
最後には「お前さァは、蒲生城を守れ」と置き捨てにされてしまう。 薩軍の野村忍介嫌いは、大久保・川路嫌いと根は同じ。
肉体派低学歴集団は、大久保・川路・野村のような「仕事のできる人」に劣等感をもっていて、好きになれないのよ。 『翔ぶが如く』によると東臼杵郡美郷町南郷区鬼神野の万鷲寺に一足先に宿泊していた石坂篤保が薩軍に襲撃されたとき、
三沢元雄だけでなく、浅井仁庵という軍医試補もいたことになっている。
浅井仁庵は佐渡出身で、浅井家は代々佐渡奉行所典医の家柄である。
この仁庵の兄弟に浅井貞吉がいる。この貞吉が倉本聰の母方の祖父にあたる。 薩英戦争1863年→戊辰戦争1868年→西南戦争1877年
(薩英戦争時の年齢)
村田新八27歳(慎重派)
篠原国幹26歳(強硬派)
桐野利秋25歳(強硬派)
永山弥一郎25歳(反対派)
淵辺群平23歳(強硬派)
池上四郎21歳(強硬派)
池上忍介17歳(反対派)
別府晋介16歳(強硬派)
辺見十郎太14歳(強硬派)
西郷小兵衛14歳(慎重派)
口だけは達者なトーシローばかりよく揃えたもんですなぁ。まったくお笑いだ。
大村益次郎がいたら、奴も笑うでしょう 「飛ぶが如く」で、最初は肯定的に書かれていた西郷とその一派が
先に進むごとにボロクソにけなされているのが笑える
薩摩びいきの長州嫌いだった司馬遼太郎ですらこいつらは擁護不可能だった模様 【一】和田越の決戦の後、可愛岳付近で袋小路になったときの桐野評
*薩軍は密室に閉じ込められたといってよく、古今東西の戦史上、こういう滑稽で愚劣な位置にみずから入りこんでしまった軍隊はない。
西郷が見込んだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だったかということが、この一事でもわかる。
【二】日向山中での逃走劇の最中、桐野が西郷の金時計を欲しがったことに関する司馬の桐野評
*桐野は痛快なほどに無内容な男だっただけに、外観を飾ることに、子供か未開人のように関心が強かった。
*桐野はこの期に及んでもなお絶望感を持たなかったのではないかとも思え、気味悪くさえある。 >>66
別府や辺見みたいな戦しらずのくそ若造が「絶対勝つ!」「躊躇うと負ける!」とか騒ぎ立てて本来抑えるべき桐野や篠原がそれに乗っかってるから救いようがなあ 私学校とガッツリ絡んでいた野村派ともかく、
たまたま薩摩にいたから巻き込まれただけの永山は不憫でならん >>68
しかも参加を渋る永山を情に訴えかけて参加させたんやろ >>67
篠原は最初から若手と戦争煽っていたけど、桐野については
若手の暴走を食い止める気はあったフシはあるんだよね
火薬庫襲撃について否定的だったし。
ただ周りが戦争一色になってからは、先頭に立って煽りまくっている
薩摩の快男児みたいに言われているけど、
現実の桐野ってよくいるキョロ充 っか熊本城攻防の薩軍の熊本城の攻め方ダサすぎん?
あれで勝てるとよく思ったな 司馬遼太郎なんかも言っているけど、兵站と資金力が脆弱で速攻が求められているはずなのに、
主力を北へ向かわせず悠長に熊本城を攻め続けているのがそもそもマチガイ 台湾出兵の議論は明治6年の政変以前からあり、樺山資紀はその主唱者。
海外政略に関しては斉彬・西郷・桐野の系譜の人で、北京談判のときも大久保に批判的だった。
西南の役当時熊本鎮台の参謀長の樺山資紀が、まさか薩軍と戦うとは、西郷らは思っていなかったに違いない。
文久の久光上洛と同様に、戦うことなくして東京まで行けると思っていたんじゃないかな。 様子見にきた川村純義追い出して戦う事なく上京とは片腹痛い そういう観点からみると薩軍はただ暴れたいだけのフーリガンと変わらないのかもしれんと思ったりもする 川村純義「西郷の親戚の俺が鹿児島見に行くんご」
私学校「軍艦がきた!奪い取れ!」
川村「なんやこいつら三(((((´ω`;)キモッ!駄目だこりゃ」
薩軍「西郷大将のお通りや!鎮台は整列して出迎えろ!飯も準備するんやぞ!」
鎮台兵「司令官!武装した集団が押しかけてきました!」
谷「こんな無法者達は絶対に通す訳には行かん!」
薩軍「鎮台が撃ってきた!俺達は戦いたくないのに撃ってきた!戦を仕掛けてきたのは政府だ!(笑)」
西郷「許せん!宮の軍隊が上方から来ても蹴散らしてやるは!わはははは(笑)」
城山前
河野「政府が仕掛けた戦争だー!西郷先生をを助けろー!」
川村「俺が鹿児島行った時軍艦奪おうとしたし文句あるなら法に従って訴えればよかったやん、はい論破!」 >>11
別府が西郷のお気に入りってどういう事?
辺見も重症、別府も重症なら村田か桐野が介錯した方がよさそうだけど 2月には18000〜30000人も居た薩軍が同年8月には3000名に減り和田越えで孤立し包囲されて解軍に至り
1000名以下になるってあまりにも惨めで無能だよね 豊薩合戦で頑張った島津義弘や家久が見たらブチ切れるレベルの惨敗だもんね >>80
まるで夜這いみたいじゃあ!ガハハハハハ!w さも薩軍が善戦したって言われるが最初で最後の攻勢の高瀬では敗れ、有利な防衛戦でもぼろ負け
主要な会戦は全敗、守るべき拠点(人吉)から兵を引き抜き西郷の護衛に回し、あっさり人吉を取られる始末
何が何だかわからない 本日、日本史板、徳川家斉ゴッドファーザースレにて会津系の徳川家広信者が殺害予告をして通報されまくり逮捕確定
どうして会津はこういう奴ばっかなんだ?
http://itest.5ch.net...i/history/1500998436 高瀬の戦いって歴史的意義すげぇな
最初で最後の薩軍の攻勢が三戦やって全部負けるって衝撃的すぎるやろ
しかもこの戦いが最序盤って流石に笑うしかないやろ >>82
これに関しちゃ人吉の複雑な事情ってのがある
基本的に人吉藩の相楽家ってのは優秀な当主が多かったんだけど、とにかく幕末は悲運に見舞われまくりで藩政崖っぷち&民心はバラバラの状態
そのまま明治維新後の混乱期を迎え、新政府恭順派と反政府不満士族が混在する状況に・・・八代芦北から後退して陣を構えた薩軍としても、誰が味方で誰が敵かわからないままの防衛戦となった
んだもんで疑心暗鬼に陥った薩軍による悲惨な事件も起きたりで、民心掌握どころか総力を投じての防衛線維持とかも難しくなってたんだわな
しかも人吉の隣は、旧薩領とは言え必ずしも西郷や私学校党に傾倒してるとは言い難い伊佐大口地域だったりする
まぁ精強を誇るも微妙な立ち位置にいた伊佐士族だが、いざ故郷の危機となると薩摩士族の魂に火が付いちまい、もはや絶望的となった抵抗戦に次々参戦しちまう結果になるわけだが 929 自分:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 22:43:28.48 ID:VHPqo5WK0
西郷さんの現実
・西郷の助命を嘆願するための使者を満面の笑みで送り出す
・政府軍が「時すでに遅し。しかし西郷が一人で出頭すれば総攻撃は中止する」と伝えたが
西郷は応じなかった
この時西郷が一人死ぬつもりで出頭すれば、多くの若い薩兵の命が助かったはずである
・翌朝、政府軍の総攻撃が始まり西郷も玉砕するのかと思われたが
突然一人で投降を試み、桐野利秋に見つかって射殺された
何がしたかったんだろう・・・ 日本には南北朝の二人の天皇がいた
京都の北朝天皇は新羅人
奈良の南朝天皇は百済人
天皇はどっちでもロクでもない
武士も北朝側と南朝側に分かれる
武士は日本人である農民を強姦しようが首を切り落とそうが自由だった
天皇が定めた身分制度ではそうなっていた
しかし徳川は半島系ではなく華人だ
徳川は天皇が作った身分制度を大幅に緩和した
場合によっては日本人でも武士になることができた
武士が理由なく農民を切ることは禁じられた
そして徳川によって初めて民に平和と、教育と、大衆文化がもたらされた
日本人狩りばかりやっていた天皇とは大違いだ
天皇は神社の宮司のようになった
江戸時代の天皇は北朝、新羅人だ
新羅は中国とは親和性が高かったので北朝天皇はなんとか続いていた
薩長が王政復古を掲げていたように
西郷は孝明天皇が日本の政治を支配すると思っていた
しかし長州に孝明天皇を殺されて、騙されたと気付いて西南戦争になった
西郷は明治天皇が南朝天皇だと思い、殺す気でいたろう
しかし明治からの天皇は、李氏朝鮮の李王だったようだ
それで明治からの日本がおかしくなった原因が理解できる 伊地知正治がいればまだマシだっただろう
それでも負けてただろうけど
ところで事前のゴタゴタはともかく西南戦争を桐野と篠原が主導して開戦した理由というのを妄想してみた
この2人の共通点は暗殺された赤松小三郎を崇拝していたということ
桐野は赤松暗殺の実行犯だが後に自責の念に駆られてるところがある
会津落城の時も桐野は涙を流したというくらい慈悲心があったらしい
また粗暴な男でもなく合議制を重んじ倒幕を主張していたが慶喜が大政奉還したことを評価し不当な戊辰戦争には反対だったのではないか
篠原は西南戦争時赤いマントを身につけていたらしい
このマントは赤松を尊崇して身につけていたらしい
なぜ狙いやすいマントで前線に立ったのだろう
おそらく赤松暗殺の緘口令を敷いていた篠原も罪悪感に囚われていた
それで自殺願望がありそのようなことをしたのではないか
では桐野、篠原が必敗の西南戦争を主導したのはなぜか
それは西郷と大久保を死に追いやるためだったのではないか
戦争で西郷の命を奪い薩摩を攻撃したとして大久保の名誉を地に落とす
赤松暗殺を指令したのは西郷と大久保という説がある
慶喜が大政奉還を拒否して戦争になるだろうから薩摩の軍事機密を幕府側に漏らさない為だったとか
しかし予想に反して慶喜は大政奉還した
歴史を辿るとここから西郷、大久保がおかしくなっていくように見える
初めは慶喜を頂点とする合議制の為に活動していたのにそれが実現しても慶喜を強行に除こうとした
なぜ江戸で撹乱作戦までしてそのようなことをしたのか
それは赤松を暗殺してしまったからだと思う
赤松を暗殺した手前引くに引けなくなった
それであそこまで執拗に旧幕府との戦争に持ち込んだ
旧幕府側が合議制の坂本龍馬を暗殺したというのも西郷、大久保の強行論に影響したかもしれない
坂本龍馬は旧幕府にとっては仲間を殺されたことがあり指名手配中で正当な処刑だったらしいが
桐野が西南戦争の最後に西郷を暗殺した説というのもこんな妄想をすれば合点がいく
実は桐野は赤松暗殺を指令した西郷を恨んでいた
幕府が薩長を攻めるというから仕方なく尊敬していた赤松を暗殺したのに話が違うじゃないかと
西南戦争くらいから鹿児島で西郷が軟禁状態にあったというのも西郷を守る為というより逃がさないためだったのではないか
大評議の時も西郷が出兵に賛成しなければならない雰囲気を作り否定すれば悪人のように仕立て上げた
火薬庫を襲わせたのも実は桐野か篠原だったりして
桐野が直に西郷や大久保を暗殺しなかったのも自分だけ名誉を汚したくないため戦争のどさくさに紛れて暗殺するか一緒に死ぬつもりのためだった
助命嘆願に烈火の如く怒った理由も説明が付く
川村が西郷と会談するのを私学校徒が執拗に邪魔したのも説明がつく
少人数で上京するのを否定したのも安全が担保できないのではなくそれでは戦争にならず西郷も大久保も死に追いやれないからだった
戦術もなしにどんどん突撃させたのもさっさと負け戦を終わらせるためだったのだろう
薩摩や戦争で犠牲になる人達への配慮は毛頭なかった
どうせ死ぬなら処刑でなく戦で死ぬという自暴自棄だった
西郷が戊辰戦争中に体調を崩したのも赤松暗殺指令という過ち、不当な戦争という自覚があったから
遺韓論で死のうとしたのもそういう自暴自棄が関係していると思う 半次郎みたけど早足過ぎて一般人が見ても「?」で終わりやろ
いくらなんでも尺に無理があった 司馬は否定してるんだけど、跳ぶが読んだら中村が殺したんだろって
思うわ。 孝明天皇を殺した朝鮮人の伊藤博文は明治天皇と共に
江戸城の西の丸に旗本の娘から美人を厳選して集合させ
猿のようにオマンコしていたため
世界一の政治が行われた江戸城は千代田遊郭と呼ばれてしまう
そんな長州朝鮮族と白人がツルんでいたことを知った隆盛ちゃんは
「腐臣のたむろする皇室に反逆の剣を差し向ける」
「わが忠誠は[日本]にこそあり」
と、すでに明治6年、意を決していたのであった >>71
例えば、五稜郭(「城塞としては」世界でも新しい形態)なんて
当時すでに「城塞」自体が時代遅れで、当然、新政府軍相手に五稜郭は陥落
※スイス・フリプールの要塞などは、15世紀以降から大砲への対応で変化してきたが
大砲の技術的進歩により要塞自体が時代遅れとなり
すでに、19世紀後半には欧州各地で都市要塞が解体されていた※
熊本城すら落とせないのは薩摩軍の編成に問題があったから 迫真の熊本城水攻め!
尚、攻撃側も攻撃箇所が絞られた模様 西南戦争なんてのは大久保が国家権力使って勝っただけだもんね
西郷が負けたのは仕方ないんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています