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日本軍による放火
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/14(木) 17:23:04.14ID:c8quGk1k0
日本軍による中国人の家の放火は少なくなかった。

「部隊の指揮官から焼却命令が出ると、放火した」と話すのは歩兵砲中隊の元上等兵。1つの集落にしばらく
駐留する場合、中国軍にいつ攻められても対応できるよう、邪魔になる建物は燃やしたという。

元下士官は「手の空いている兵が面白半分にやるような仕事だった」と述懐した。「家を焼いた1年後にまた行き、
もう1回焼いたことがある。中国人は戻ってきて家を作り直していただけに、あれはかわいそうだった」と話すのは、
山砲兵の元上等兵。

放火の対象は家だけでなく、中国人住民にも及んだ。

1937年12月の南京侵攻後迎えた正月の朝。部隊が泊まった集落に「土地の人間がいた」として、中国人男女
40〜50人が集められた。その集落の住民らしかった。子供はいなかった。兵たちは、近くの、川の水が流れて
いない川底に集落から持ってきたわらを畳み10枚くらいの広さにまき、火を付けた。炎は人の背の高さくらいに
上がった。兵は、ここに中国人住民を次々と突き落とした。住民は炎から飛び出してこなかったという。

「周囲には数人の兵が銃剣を持ってい見ていた。火の中から出ても突き刺されると思ったんだろう。だれ一人出て
こなかった。今ではどこの集落だったか思い出せないが」。一部始終を見ていた第一大隊の元一等兵はそう語った。

先の元上等兵は戦争中、同じ隊の兵から「かちかち山」の話を聞いた。春先のこと。部隊の馬が食べるわらがなく
なったので、使役で使っていた中国人3人を連れた兵が農家へ取りに行った。兵は3人にわらを背負わせ針金で
巻き、取れないようにした。兵はタバコを吸い、その火をわらに移した。わらは見る間に燃え上がった。針金だから
外せない。3人の中国人は火だるまになり、転げ回って死んだ。使役の中国人の脱走が相次いだため、見せしめの
ためにやったと話したそうだ。
0002名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/14(木) 17:55:12.08ID:XXdxRYeU0
そのへんはぜんぶ戦後に大量にでまわった共産党小説だろ。
蟹工船となにもかわらんよ。ただの創作話。
0004名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/10/03(木) 12:01:06.52ID:W/m8x+q50
陸軍中野学校卒日本兵達は沖縄戦ちゅう沖縄の少年を集め護郷隊を造り仲間同士徹底的に
暴力対決をさせ不足だと直接殴るけるで洗脳支配。普段着少年兵はアメリカ兵と親しくなり
チョコ菓子などをもらい可愛がられたようだ、それを利用して情報収集ある日子供先頭の
日本兵の夜襲は失敗翌朝米兵達が見たのは顔見知りの沖縄の子供達だけだった、更に
子供達は生まれ育った家々の放火指令にも従った。これらの事で多くの米兵のPTSDが発症し
日本兵の住民偽装などでアメリカ軍の無差別攻撃が始まった
0005名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/10/14(月) 04:10:56.26ID:Do/OIOrD0
これは日本vs中国で見ている限り
真実は永久に分からない

朝鮮族が中国東北部から日本にかけて存在し
それは日本人よりずっと多い
この連中を認識しないと日中戦争が何だったか理解できない
0007名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/02/11(木) 21:40:13.81ID:CLNP72zA0
月刊WiLL 2021年2月号
■石平×北村稔×宮田昌明
「日中戦争」ー中国共産党が漁夫の利
ttp://web-wac.co.jp/magazine/will/2021%e5%b9%b42%e6%9c%88%e5%8f%b7

【北村】 ドイツは日本と同盟することに乗り気ではなかったのです。そもそも国民政府支持でしたから。でも、ヒトラーは東側
からソ連を牽制するために、日本との同盟に踏み切ったのです。30年ほど前までは、ドイツと中国の関係を研究することは
台湾ではタブー視されるほど、独中の関係は蜜月だった。日中戦争当時、中国軍の中核は、ドイツ製の武器で武装しドイツ式
の防衛陣地に立てこもる部隊であり、作戦はドイツ人軍事顧問が指導しています。一方、ドイツ側は、武器製造に不可欠な
タングステンなどの希少金属を中国側が提供することを望んでいました。
「日本の侵略戦争」と戦った中国の国民政府がナチス・ドイツの軍需産業の発展に大きな貢献をし、これがドイツのヨーロッパ
侵略の原動力となっていたとしたら、歴史の皮肉ではありませんか。
【宮田】 日本軍はそもそも汪兆銘と講和条約を結び、撤兵しようと考えていました。ですが、どういうタイミングと形で撤兵するか、
日本陸軍全体での合意がありませんでした。和平工作に携わった軍人は、汪兆銘政権が中国をまとめる実力を持ち、講和が
実現しそうになれば、その見通しを利用して陸軍全体を動かすことができるのではないか、と考えていたフシがあります。ですが、
汪兆銘自身にその力がなかった。それと華北では中国共産党軍が勢力を持ちすぎて、泥仕合になっていたのです。治安維持の
ため、日本軍の撤退は考えられない状況でした。
 華北地域の中国共産党の戦術はこういうものでした。つまり、農村地帯で日本軍の危険を訴える宣伝を行う一方で、ゲリラ兵
が日本軍の将校を狙い撃ちするような小さな攻撃を仕掛けた後、村落に避難する。日本軍はゲリラの捜索を行いますが、それに
よって関係のない農民が巻き込まれます。あるいは、日本軍を恐れる農民を退避させ、残った家にブービートラップを仕掛け、
捜索する日本兵を罠にかけて死傷させます。日本兵はトラップの危険のある家屋を焼却するよりなく、それが中国共産党の
宣伝の裏付けとなり、日本軍に対する農民の敵意を増幅させました。つまり、毛沢東はまったく関係のない農民を戦争に巻き
込んでいったのです。一方、蒋介石は民衆を戦争に巻き込むことができなかった。こうした戦争形態が、後の国共内戦における
中国共産党の勝利や、さらに長期的にはベトナム戦争にもつながっていったのかなと思っています。
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