>>98
じゃあ唐光譜の証言が事実である、との線で話を進めようか

下記証言から唐が収容された兵舎は、1万5000名以上を収容した兵舎(22棟の建物があった)とは別の場所だったことがわかる
ということは幕府山の虐殺数は、1万5000人以上+唐のいた収容所の捕虜数となる
『その後、私たち二人はこの一群にしたがって、幕府山の国民党教導総隊の野営訓練臨時兵舎に連れていかれた。この臨時兵舎は全部で七、八列あり、すべて竹と泥でできたテントだった。 中は捕らえられた人でぎっしり詰まっていた。』

下記証言から五日間何も食べさせなかったことがわかるので逃走を計画されても仕方ない
こんな状態、普通は死ぬ
『私たちは中に閉じ込められ、ご飯さえ食べさせてもらえず、三日目になってようやく水を飲ませてくれた。敵は少しでも思うままにならないと発砲して人を殺した。五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、 多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。』

下記証言では放火か失火かは何もわからない
だいたい日本軍が捕虜に火を起こす道具を持たせる訳がない
『その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は皆一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。』

下記証言から、捕虜は誰一人逃げられなかった
そして逃げなかった人も含めて皆殺し
これを世間では虐殺と言います
『しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。 小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添い近寄っておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった。』