死者七名は、捕虜の中から生存者を見つけて刺し殺す作業をするうちに、鉄条網の中に
取り残されて、誤って銃殺された少尉と兵士らしい。戦闘によるものではない。

●『南京大虐殺を記録した皇軍たち』 p.88

[遠藤重太郎]陣中日記
宗形君は十二月十七日夜十時戦死

●「虐殺か解放か‐山田支隊捕虜約二万の行方」/小野賢二 p.151‐152
  「南京大虐殺否定論 13のウソ」 所収

だが、この時なんらかの事情で何名かの「整理兵」が鉄条網の外に出られなかったという。七名の
死者の何名かは捕虜とともに銃殺された「整理兵」だった。死者の中に、東中野氏も語っている連隊
機関銃隊の少尉がいる。この少尉と同村出身である第一大隊本部の遠藤重太郎特務兵(仮名)は
少尉の死亡時刻を「夜十時戦死」と書く。
「夜十時」であればすでに銃撃は終了し、役割の終わった機関銃隊は宿舎に引き上げた時刻であり、
虐殺は銃剣による刺殺段階にある。
では、少尉は何故死亡したのか。証言によれば銃撃のあと、少尉は軍刀で捕虜の試し切りを始めた
という。だが、逆に刀を奪われ、捕虜に殺されたという。そして、この捕虜は日本兵によって「よって
たかってなぶり殺しにされた」という(宮城県平和遺族会編『戦火の中の青春』1990年、の中の「父の
戦死・母の死 南京事件」参照)。