>>531
おっと、これは失礼。
宮本省吾と宮本四郎氏を間違えてしまった。
これは謝罪する。

>午後三時の段階では捕虜は仙鶴門鎮に出発すらしてないのは変わらんだろうに

だから午後三時過ぎに師団司令部に『1万の敵が現れた!』と伝令に来たのは歩38連隊だw
この時の伝令は捕虜になった事を知らないw
そしてその後「敵は全部捕虜になった」という伝令が来ているw
そして「暫くすると、紺色の服をきた捕虜が四列縦隊でゾロゾロやってきた」となっているw
2キロの捕虜の列ができるには何時間前から出発しなければならないんですかねえw
そして捕虜の列が確認されたのは午後3時過ぎw


>師団司令部飛び越えて捕虜を数km離れた所に移送するなんて命令、誰がだしたんでしょうかね?

上海派遣軍司令部だろうw

沢田正久氏の証言 (独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊、観測班長、砲兵中尉)
俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、 早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言ってきましたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。
 「それも不可能」と断わったら、やっと、「歩兵四コ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い」ということになり、私も中山門近くまで同行しました。

この時に同行したのは歩兵第三十八連隊第十小隊
松本証言 (歩兵第三十八連隊第十小隊)
「十五日ごろ、南京も陥落して、我々は城内に入らず、郊外の残敵掃蕩ということで、堯化門から下麒麟門のあたりにいました。
 われわれの方は百人ぐらいでしたか。ところが、そこに大量の敗残兵が現れたんです。次から次へと、出てくる、出てくる、そうですねえ、何千人か、まあ数え切れません。
 とにかくわれわれは百人だから、びっくりして連中を隊の方に連行したんです。場所は憶えていませんけど、とにかく、すぐ収容所を作りました。
 ところが、それからが大変です。メシを食わせなきゃならない。
 幸い、この辺は激戦の跡だったから、大砲の薬莢がたくさん落ちてたんですね。それを拾って、その中に米ツブをほうり込んでやって渡したんです。
 そして、線路の枕木をひっぱがしてきて、割って燃したんですね。あれは油がしみ込んでいるのでよく燃えました。
 とにかく寝る間もありませんでした。たしか、二、三日たって、もうどうにもならなくなったころ、師団命令で刑務所に送りました。向うの正式刑務所です。」

虐殺派の脳内では「2キロの捕虜の列が一瞬でできたり」、途中の仙鶴門鎮に寄ったら「南京まで護送しろ」という命令に違反した事になるのかねw