【最後の】徳川慶喜【将軍】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
徳川慶喜だけは有能か無能かで極端に評価が分かれやすい >>168
今まで主流派だった連中をコテンパンにして自分たちが政治の実験を握りたい連中だから
平和裡に解決することなんて望んでなかったと思われる
薩摩の江戸での狼藉三昧なんて酷いものだったし >>171
あそこまで会津が意地っ張りの馬鹿だと匙を投げるわな >>165
明治の日記念。
明治天皇に直に許されたのは慶喜だけ。 上野の山に行ってきた
あの辺りに遺体が放置されてたんやな
拝んできた 長州閥の巨頭である井上馨も晩年は徳川慶喜と同じく今の静岡市内で暮らしてた。
どこかで挨拶ぐらいはしてたかもしれない。
しかも両者とも渋沢栄一を部下に持つ共通点がある。
渋沢栄一が引き合わせた可能性も考えられるではないか。 最後は泥棒に入られたとかで東京に引っ越してきたんですよね >>181
元幕臣で明治政府に入った人は大抵が両方の知り合いじゃなかろうか
榎本とか大鳥圭介とか >>187
どちらにしろ南紀派の井伊直弼が殺された時点で倒幕のシナリオは避けられなかったからな、
上手くソフトランディングさせた方じゃないかね 新政権も引き続き徳川主導で進めようとギリギリまで粘りつつ、それが無理になった瞬間これまた許されるギリギリのタイミングで恭順して命脈を保ったイメージ 最後の謀略戦で大久保利通に負けたな。
それでも向こうは暗殺されて徳川慶喜は平和に生き延びたが。
晩年は大久保利通の伝記を読み漁ってたみたいじゃないか 歴史の表舞台から退場したのが若い時分過ぎて死去時にまだ生きてたのかと驚かれる
慶喜はその好例だろうな ケレンスキーとか張学良などはお仲間 >>69
紀州から選ばれてたら紀州が戦火になってたシナリオもあり得る
藩内家臣団内で水野派と、山中派で対立してたから 江戸期最後の元号が慶應なのと家慶、慶福、慶喜と歴代将軍のは慶の字が被るのは偶然なのだろうか
朝廷が気を遣って候補から慶の字のある慶應を選定したとかいう事はあるのだろうか 二心殿とか敵前逃亡とか色々言われる人だけど、この人の行動原理は一貫して勤王第一でそこは生涯決してブレなかったと思う 徳川幕府が20世紀まで続いてたならロシア帝国や西洋列強に何ら対処できずに清王朝みたいに大国に分割統治されていた可能性が高い
その先が読めていた徳川慶喜は一流だともいえるが >>199
尾張藩主義直が勤王論の基礎を築き、水戸藩主光圀が勤王論(水戸学)を完成させ、光圀の系譜である慶喜が勤王第一を貫いたのもある種の因果だな。 徳川慶喜がルイ16世にならずに済んだのは木戸孝允の政略としか言いようがない 結局戊辰戦争が一番要らん
大政奉還した慶喜の功績を評価して朝廷に呼んで廃藩置県すれば良かっただけ
そうすれば藩閥政治もなかった ロシア革命でのニコライ2世みたいにならずによかったな。
ロマノフ王朝300年と徳川幕府260年は近くて重なる部分が大きい。
それもこれも木戸孝允の功績なのだ ニコライ2世が大政奉還してれば反帝政派にも評価されたろう ロシアはボルシェビキ政権の前にメンシェビキがいたからな
ケレンスキーが権力を維持できていればロマノフ一家の運命もまた違っていた >>202
わりと長州人とは最後まで仲良かったみたいだ >>201
徳川斉昭が幕政に関与するために方便として勤王論を使ったことで幕閣が国政に関する事を朝廷や諸大名に相談し始めた事が幕藩体制崩壊のトリガーを引いたんだけどね
最初は開国について、ついで将軍継嗣、更に参勤交代の緩和廃止まで
最初は仲良しサロンで済ませるつもりが公職を作ったが為に幕閣は諸大名に政策の相談をするのが当たり前になった
それを元の状態に戻そうとした井伊大老を親藩の藩士までが加わって暗殺
最後は武力やぞ、っていうところまでいった事で幕府も開き直って武力による長州征伐もカウンターとして起きた
一度こうなるともう大政奉還や将軍退位、宗家降板でももう武力征伐以外に最終決着はつかなくなった
慶喜が戊辰戦争最初の鳥羽伏見敗戦後完全に逃げの一手に徹したのは賊になりたくなかったからじゃなく、単純に命が惜しかったからだろう
討幕の密勅による薩摩のうっちゃりが既にあって薩長が天皇を推戴する官軍になるのは鳥羽伏見の戦いが始まる前に分かっていた
もし賊になりたくないというのが本心なら鳥羽伏見の戦いが起きないように幕軍を先に撤退させているよ
こんなの新書レベルでもちゃんと解説してあるのになぜ学問板で話題になるのか理解できんわ そもそも水戸は北条残党の中山や最上騒動で失脚した山野辺を重臣に据えてる時点でかなり異質な藩だわな 慶喜はまだ幾らでも戦う事ができた
大阪城で防戦する事も優勢な海軍を使い好き勝手薩長を砲撃する事もできた
それに負けてもまだ関東で割拠することもできた
日本の為にわざと負け役に徹しただけであろう
有名な坂本龍馬も大政奉還の決断に感動して泣いたくらいだ >>210
それどの資料にどういう風に書かれているの? >>211
なんでいろんなスレに短文疑問だけ書くの?
反論があればすれば 単純に疑問だから
史料的に全くそんな話を見た事がないからどの史料にそんな事が載っているのか知りたいとかそういう事 数だけ多くても近代戦に適応できなかったのが幕府軍
会津戦争でも証明されてる
もし戊辰戦争で旧幕府軍が勝利したいなら装備で劣る旧幕府軍は歩兵数が官軍の最低10倍以上は必要 >>199
まさしくそれ
>>208
>慶喜が戊辰戦争最初の鳥羽伏見敗戦後完全に逃げの一手に徹したのは賊になりたくなかったからじゃなく、単純に命が惜しかったからだろう
西郷が慶喜の嘆願書を真に受けてあっさり処刑される未来もあったりして
でも命を惜しんでるような感じにはあまり思えないんだよなあ
>もし賊になりたくないというのが本心なら鳥羽伏見の戦いが起きないように幕軍を先に撤退させているよ
それが出来れば良かっただろうし本人もそうしたかったのかもしれんが、現実に幕軍を撤退させるのはかなり困難だろうね >>215
将軍職を退いていても幕軍の司令官は慶喜
難しい訳がない 大勢の部下を残したまま大阪城から逃亡して徹底恭順
あんな形で戦争を最小限に抑え込むなんてマジで神がかり的な一手だと思う
普通あんな状況であんな行動考えられないし考えたとしても実行する勇気は出ないし仮にやっても普通は失敗しそうなものなのに 鳥羽伏見の前に撤退してたら良いだけの話なのにそれをしなかったからだよ
因果関係の認識がおかしい 結果が奇跡的なことは間違いないだろうが、意図してやったことかは議論があるわな >>216
慶喜を殺してでも一戦交えようとする輩がいる幕軍を、司令官だからと言って完全制御するのは難しい
最悪、自分が殺されて幕軍が暴走し内戦激化
>>217
そのおかげで現在に至るまで敵前逃亡のヘタレという不名誉なレッテルを貼られるわけで
本人は覚悟の上なのだろうが凡人には到底無理
>>221
明治期の徹底隠遁も勝の影響が大だしね >>222
慶喜暗殺したらますます恭順の意を見せた分官軍の攻撃に正統性が生まれるから江戸和平もできないし史実以上に譜代、親藩、外様が官軍に付くよ
官軍側は慶喜が恭順の意を完全に示したことで鳥羽伏見開戦に踏み切れなかったのがより早い段階で行われる
つまり君が示した慶喜が暗殺された場合は慶喜は死去、戊辰戦争がよりアッサリ終わる可能性が高くなる
慶喜が賊になりたくなかったという証拠には全くならない上に史実の流れがより官軍側にとって願ったり叶ったりの方向にしか流れない仮説だということ
そしてそれが慶喜が賊になるのを恐れていたから鳥羽伏見の戦いの後にすぐに逃げたという主張を否定している
自分で自分が主張した論を更に否定したという事だ 鳥羽伏見は慶喜が功績あるにも関わらず
新政府に呼ばれずに領地返納を要求されたり薩摩側が江戸で狼藉して徳川方がキレたのが原因
それで慶喜でさえ軍隊の勢いを止められなくなった
長州の禁門の変や西郷の西南戦争も似たようなもの
徳川と薩長が徹底的に戦ってたら徳川が勝ったろうね国力が薩長の何倍も上だから
西南戦争でも武士最強と言われる薩摩隼人は結局兵力と物量に押され百姓兵に負けたからね 鳥羽伏見の戦いでは旧幕軍は正規軍勢揃い
で官軍側は薩長と土佐の一部のみ
装備では薩長が新式を備えていた
旧幕軍も新式装備になっていた5000を含んでいた
単純に主力の戦力だけで五分
ただ旧幕側は会津桑名も火力は新式で数千の歩兵、騎馬もあり搦手からの一撃だけでもあっさり敵陣を分断して即日撃破も可能なぐらい旧幕府側が有利
これで勝てない旧幕府軍が箱根までの戦いで勝てる戦局が一つでもあった?
なかったでしょ
戦えるのに戦わなかったのではなく一番勝てそうな状況で勝てなかったのだからこれから先はもっと勝てない
だから逃げた
それだけ
もし鳥羽伏見以上に勝てる機会があったのにそれでも慶喜が後退していったというならそれは賊になりたくなったとか日本国内での抗争を最小限に留めたかったというのなら分かるんだけどね
鳥羽伏見での敗戦と慶喜の江戸逃亡はは慶喜自身の軍司令官としての資質の無さと命惜しさの表れでしかない 鹿島茂「嫌われ者リーダーの栄光」
徳川慶喜こそ近代日本最高のリーダー >>225
鳥羽伏見は徳川方はそもそも戦争になると思ってもなかった
薩長の先制攻撃による奇跡的勝利
薩長さえ本来は負けると思ってた
徳川は大阪城で仕切り直して旧式装備の兵士に新式銃買って配れば良いだけだし やはり徳川慶喜の小説だと司馬遼太郎の『最後の将軍』を超える作品はない
他の作家も書いてるがどこか物足りなさを感じる 司馬遼太郎は徳川慶喜こそ19世紀の日本では最大の政治家だと街道を行くで語ってる 親類同士の争いで幕府の初代(家康)がのし上がり、親類同士の争いで幕府の最後(慶喜)が終わらせる。
ある意味徳川らしい歴史 >>223
命が惜しかった云々というのは君が慶喜に投影したイメージでしかないのは、後日官軍宛の書状でも明らか
あと慶喜が死去してアッサリ終わるというのも可能性の話としては面白いけど、情報が錯綜して裏目が出ることだってあり得る
ところで本題の>>216で断言していた、慶喜が最高司令官だから幕軍を撤退させるのは難しくないという根拠を聞かせてほしい
慶喜の経歴や将軍就任までの経緯を考えると、到底そうは思えないのだが 最近は慶喜の見直し論が強まってるな
頭が良すぎて薩長との戦いを回避したとか
確かに泥沼の内戦を回避できたのも慶喜の功績だが 実権持ちたい斉昭がチャチャいれて空中分解した幕府を、明治維新までずっとケツ拭いてたのが慶喜でしょ。 >>226
読んだが腐りきった江戸幕府を滅ぼすには大政奉還しかなかったと
それを実行した徳川慶喜こそ近代最高の政治家 たしかに戊辰戦争で総力戦やれば腐りきった江戸幕府が勝利できたかもしれない
そして腐りきった江戸幕府が21世紀まで続いてしまって日本は大国に蹂躙されて自滅さ 江戸幕府が勝ってたら日本は滅びてたさ
それを理解してたのが徳川慶喜だが 藩主の嫡子が江戸詰めする事が多かったからか幕末は大半の藩主の存在感が無くなってて、藩の重臣連中の言いなりになってた藩主が多かったな。 >>241
幕府が勝ってたら、西周草案によるもっとまともな近代化してただろう
アホみたくアジア侵略する歴史もなく、日本も敗戦ですべてを失うこともなかった >>239
側近の板倉が有名とはいえまだ一藩士の西郷、大久保の名前を慶喜が知っていたのには驚いたらしい。
かなりの情報通 >>244
唾はくように嘘つくな
徳川時代は、朝鮮は友好国
江戸時代は外国との戦争がなかった世界に誇れる平和国家
侵略し始めたのは、外国嫌いの知恵遅れ長州や
西郷の征韓論の妄想のせい
戦争犯罪人薩長テロリストを美化すんな 戦争は徳川や薩長よりロシアの南下がどうなるかが大きい
日露戦争前ではロシアは満州から朝鮮北部まで進出していた 外交音痴の徳川幕府体制ではロシア帝国にも米英にも何も対処できないって
実際に薩長閥支配でこそ日本と米英関係は最高潮で日露戦争にも勝利できたんだから
その後に鬼畜米英と叫び日本をぶち壊したのは東条、米内、板垣など旧南部藩を中心とした逆賊藩どもの子孫よ 徳川幕府の限界を知り大政奉還したのは徳川慶喜その人だが。。 徳川は西周の近代化案あったからそっちの方が議会制で三権分立されてまともだった可能性がある
薩長は戊辰戦争の分け前で藩閥が有司専制を行ったが >>245
城代家老出せるような重臣クラスの家ならともかく、知行100石以下の平士以下の有象無象の藩士なんて将軍だと普通は名前さえ覚えてないからな。 西周案
三権分立を取り入れ
行政権を将軍、司法権を各藩、立法権を各藩大名藩士により構成される議政院がもつ
天皇は象徴的地位 >>252
自藩の有名藩士であった坂本龍馬の名を木戸孝允に教えてもらい初めて知った山内容堂とは大違いだな
さすがは腐っても慶喜は征夷大将軍
外様大名とは格が違いすぎる 渋沢栄一にフランス行きを命じたり、倒幕派にも顔が効くって事で馬は合わないが勝海舟に江戸を任せたりと、人材の使い方もわかってる人 フランスは徳川幕府をイギリスは薩長を支援してたんだよな 徳川慶喜に比べると榎本武揚や小栗上野介は無能だったな 今でいうと東大卒の高級官僚に過ぎない小栗上野介は勝海舟も嫌っていたな 奥平昌服とか老中任せてみれば良かったのに
譜代だけど島津の男系だから敬遠されてたのかね 一説には征夷大将軍を排して日本国大君の名称で議会制の新生国家を目指していたとか。 >>259
この国は過去も今も国益より省益を優先させる高学歴のバカが多いからな 150年前ならともかく
現代の霞ヶ関の連中も全く変わらんよ そう考えると自ら最高権力者の立場を捨てた徳川慶喜は人間としては立派 幕府も将軍もあっさり辞めて
引退後は政治に関わらなかったのも常人ではまず不可能だろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています