初代内務卿 大久保利通
紀尾井坂の変さえなければ明治政府は藩閥化しなくて成功してたのに惜しすぎる ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、
明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。
明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。
明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ 大久保が暗殺されたことで明治維新は失敗したと本気で思ってる 大久保の有司専制ときに木戸派とそりが合わない人物が多すぎて
国家経営がうまくいったかどうか。
伊藤がまがいなりにもうまくやれたのは多士済々の木戸派の
連中を使ったからだし。 大隈も木戸が開明派のトップに推して、執拗な大久保岩倉の嫌がらせから守ってたからな。
まあその後、大久保の方に行ったけど。 大久保は西郷下野後に薩長閥で固めている
土佐の代わりに幕臣をちょっと入れた程度 大久保「江藤は処刑と聞いて、腰を抜かしよったwww」
やはり、大久保のような人物はテロや私怨で殺されてたと思うわ。 ただ大久保が暗殺されて明治政府が失敗に終わってしまったよ これから本格的な内地改革という時に暗殺されてしまったからな残念無念 「維新の政治と明治天皇―岩倉・大久保・木戸の「公論」主義 1862~1871―」を読んだ人居る?
気になってるんだが 大久保は自分で政治権力をコントロールしたい人ってだけでしょ
大久保独自の政策を持っていた訳でない 大久保と岩倉のコンビが長く続いたのという一面がある。
大久保のその陰謀家という一面が早死の原因だったのかな 1人の暗殺だけで歴史の流れがガラリと変わってしまった稀有なる大物 大久保は徳川家康を尊敬していたと言うが、
家康が豊臣家を潰した陰謀力を尊敬していたかもしれない。 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 石田三成は江藤新平かな。
まあ司馬遼太郎が意図的に似させたかもしれないが。 死に際まで両者とも似てるんだろうが。
ただ死後に大久保利通を祭り上げる人は地元にはいないが
江藤新平を祭り上げる人は地元には多いのを見ると
意外に江藤新平は地元限定だが人望が厚かった
なにしろ処刑後に墓参が絶えなかったみたいだ 逆に大久保は地元より国益を至上とした真の国士とも言えなくないがな。
江藤だけでないが士族反乱の主導者は地元偏重しすぎて自滅した。 幕末随一の無能暗君である島津久光の暴走を抑え込めたのは大久保利通 >>1
かくも一人の死は歴史の悲劇を体現した人間がいただろうか? あの日あの時あの場所で広沢真臣暗殺てどんな意味あったん? 暗殺で日本の行く末が180℃ガラリと変わった人物の筆頭は大久保利通かな。
大村や広沢の暗殺も日本の未来には痛手だったのには違いないが。 大久保も台湾出兵してるし、その上、陰謀好きのマキャベリスト。
たとえ大久保が生きていても、その後の日本の針路は変わらんだろ。 >>34
それはそう御本人も大久保利通を目指していたいみたいで。 土佐や肥前を追い出し薩長閥になったのは大久保からだろう 西郷のいなくなった軍部を誰に任せたのかが、気になる 大久保は江藤殺しとか汚い仕事をやり過ぎた
自業自得。 1873(明治6)年、大久保利通は岩倉使節団の欧米視察の経験をもとに、政府に対して政体を定めるよう建言した。次の引用文はその一部である。これを読んで下記の設問に答えよ。なお、引用文は現代語に改め、一部は要約してある。
(1) 政体には、君主政治、民主政治、君民共治(後にいう立憲君主制)の三種類がある。
(2) 民主の政は、天下を一人で私せず、広く国家全体の利益をはかり、人民の自由を実現し、法律や政治の本旨を失わず、首長がその任務に違わぬようにさせる政体であって、実に天の理法が示す本来あるべき姿を完備したものである。アメリカ合州国はじめ、多くは新たに創立された国、新しく移住した人民によって行われている。
(3) 君主の政は、蒙昧無知の民があって、命令や約束によって治められないとき、ぬきんでた才力をもつ者が、その威力・権勢に任せ、人民の自由を束縛し、その人権を抑圧して、これを支配する政体で、一時的には適切な場合もある。
(4) イギリスは土地・人口の規模が日本とほぼ同じであるが、その国威は海外に振い、隆盛をきわめている。それは3200万余の人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかり、君長もまた人民の才力を十分にのばす良政を施してきたからである。
設問
大久保は諸国の政体を比較した上で、日本には君民共治の制がふさわしいと主張した。なぜそう考えたのか。当時の日本がおかれていた条件や国家目標を考えて、5行以内(一行30字)で説明せよ。
1994年 東大日本史 第四問 米英の国力を現に見て一時は政界から引退したいと申し入れたらしい。 >>50
そこはさすがリアリズムに徹した現実主義者の大久保利通よ。
今流行りの日本スゴイ!の幼稚な自画自賛に逃避することは無く日本の遅れを認識することができたのは偉い。 日本のドイツ偏狂の元凶は大久保じゃなくて伊藤な
これ多くの日本人が今も誤解してる >>50
特に感想を残していない小栗上野介と大違いだな 1882~1883(明治15~16)年、伊藤博文らは、ドイツをはじめヨーロッパ諸国において、憲法や立憲的諸制度の調査にあたった。
その際、彼等はしばしばドイツの政治家や学者などから、明治維新以来日本政府が進めてきた改革は余りに急進的であり、日本がいま立憲政治を取り入れようとするのは、必ずしも賢明なこととはいえない、とする忠告を受けたといわれる。
そこで、諸君が伊藤博文らの調査団に加わっていたと仮定し、上述のようなドイツ側の忠告に対して、日本として立憲政治を取り入れる必要があることを説明する文章を8行以内(注:1行30字)で記せ。
1989年 東大日本史 第四問 >>54
アメリカの巨大すぎる国力を目のあたりにして何も感想を残さないなんて政治家や役人としては無能の3流にすぎない。 生き永らえていれば初代総理大臣も間違いなかったんだが運も尽きたんだな。 麻生さんが大久保さんの玄孫ってよくよく考えたらすごすぎるくらいすごいよな。 大久保利通は、華美な生活などなしてこなかった。
それどころか予算がつかない公共事業に私財をつぎ込んだため、死後に莫大な借金を抱えていた事が判明したが、債権者たちは彼の金の遣い道を知っていたために遺族側に借金の返済を求めることはなかったとされている。 >>63
それとたんこ太郎のハイブリッドが麻生太郎 >>49
これ模範回答なに?
「天皇どけるわけにもいかんからソフトランディング的に当時世界一だったイギリスの例に飛びついただけ」
としか思わないんだけど 明治政府の目標は条約改正を達成することであり、そのためには諸制度の整備とともに富国強兵、殖産興業に努めて列強に並ぶ国力を養う必要があった。大久保は、民主政治を理想としたが、不平士族の反乱などで当面は強力な君主権の下で政府主導により近代化を進め、その間に民度を高めていく君民共治がよいと考えた。 >>69
それ模範解答?
大久保についての問題なのに長州の言い分っぽくて感覚古くね?と思ったら1994年か
立憲君主制を選んだ理由は、暗殺直前に福島県令に語った内容を知ってりゃ答えられるよね 土佐の議会主義派がぐちゃぐちゃにしたから、
立憲主義者の木戸と大久保がくっついたイメージだわ。
木戸は憲法があってこその議会だろって立場。 ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、
明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。
明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。
明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ >>70
いや、相手は高校生だよ。
高校生相手に高度な答えなんて求めていないでしょ。教科書レベルの範囲で書ければ部分点確保できれば上出来だと思う。
それに大学入試は英語が主戦力だから。 明治になってかなり経つけど元会津藩士で自分で生計稼げるのは1~2割
民主制にしたら当然、士族・華族を無くせという意見が多数になるけど、それやったら大半が露頭に迷う
とりあえず用水引いて広大な開拓地を作って、こいつらに生活の道を教え込んでからじゃないと、完全に民の自由意志で政治を行うなんて危なくてできない
殖産事業は政府が明治天皇の下で強権を発揮しないと到底実現は無理だから、しばらくは君民共治 やたらと創作で政敵を暗殺してた設定にされるので、鵜呑みにして信じている人が多い
そんな証拠はないと言うと「権力を使ってもみ消したんだ。やっぱり創作の方が真実」と反論してくるまでがお約束 子供が多すぎだろ。
見掛けによらず性欲が強すぎたんだな 氷塊って言い出したのは旧幕臣の福地源一郎だな
福地は、日ごろ大久保が無口で慎重で笑顔を見せなかったので、北洋の氷塊のような政治家だと噂して苦手にしていた
岩倉使節団で一緒になったときに福地は、「あなたは私が知的で意見をはっきり言うから気に入らないんでしょう。気に入られたかったら、相手の話を聞いてから少しずつ意見すればいいとはわかっているが、私の才知は天が与えたものだから隠したくない」と言った
すると大久保は微笑んで「わかっているならやってみなさい。政治家として成功したければ、まず信頼を得ることが必要だ。君は若くて将来国家の役に立つ人なんだから、才知をひけらかさず、深慮熟考を学びなさい」と父が息子に情愛をかけるような親切な口調で諭したので、温かい人だなと思ったという回顧談 メディアの切り取りは怖い
福地「大久保は冷たいと思ったら温かかった」→メディア「大久保は冷たい」 良きも悪しきも現代の大久保イメージは池辺三山に完成させられた 福地は彰義隊戦争のときに江湖新聞で官軍批判して逮捕されたのを
木戸が助けてからは、木戸一派だからな。
渋沢も福沢も福地も木戸派の連中は大久保は苦手なんだよ。 大久保利通の手によって憲法や議会制度が確立されてたなら、
今の国会のようなヤジや審議拒否なんて起こらない物になってたであろう事は想像に付く。 大久保の政治手腕は俺も高く評価するが、このスレの大久保評は過大評価傾向があるな。
>>90
関係ないと思う。91氏も指摘しているが、それはそれで問題ある。 やじや審議拒否も健全な議会政治プロセスだと思うし、
そう思えるほど成熟した議会政治年数を経たことをむしろ評価すべきだろう。 評価なんてどうでもいいじゃん
木戸オタとか来ると、木戸を持ち上げるためには大久保を貶さないといけないって必死になるけどさ 93だが。俺は伊藤オタではないんだが、元老スレで伊藤博文の評価がボロクソなのがなんだかなあ、と思ったわけ。
伊藤ら第二世代が三傑と比べると俗物で小物臭なのは同意するが、「伊藤には実績が無い」というレスには驚かされた。
結局、その対極に大久保への過大評価があるような、と思った次第。
反発覚悟で書くと、大久保利通って、外国の近代政治家や戦国武将と比べてそんなに傑出しているとも思わない。
ディスってるわけじゃないよ。伊藤や原を評価している俺だから当然大久保の凄さも踏まえた上だ。
当たり前だが大久保も完全無欠人間ではない。政治家としても老成の域までは行ってない。
だから誰かも書いているが 5年後10年後の彼を見たかったね。 伊藤の話をしてるやつなんて20日以上来てないやん
長州スレ行って語りなw スレ違いだが
高杉晋作には見た目によらず老成の域があり西郷隆盛も越えていたと
三浦梧郎が最高級の評価をしてたぞ >>96
で、お前の大久保評はどうなん? 語ってくれや このスレ見るとホントはみんな幕末明治についてもっと語りたいんだろな
でもその場がないんだろなというのが伝わる 大久保って一歩間違うとスターリンや中国の歴史に出てくる宮廷陰謀に長けた宦官みたいな人物でしょ
本人は無私無欲だから良かったが
権力で政敵倒したり、言論封殺したり、西郷や木戸亡き後は独裁者になってた可能性もあるよね 暗殺される前には大隈重信を後継者にして譲って政界から隠居したいと語っていたんだが? 自由民権主義者の大隈が大久保を崇拝しきってたのは事実だがな
大久保も専制一辺倒じゃなくて国内の治安がまとまれば
イギリスみたいな自由選挙主義に切り替えようとしてたんじゃないか? なんだソースないのかw
大隈を後継者とか何言ってんだと思った
大久保が独裁者って旧来の見方は間違ってたってのが歴史学者の主流意見になりつつあるのに、後継者も何もないわw 大久保が決して専制主義者ではないことは、
山縣より大隈と親しかったことが何よりの証拠だわな。 >>103
何言ってんの? 暗殺当日の朝、大久保は自宅を訪ねてきた山吉盛典に今後10年自分が先頭に立って頑張る、
と言ってる。その後に後継者に譲って自分は後見役になると。
一体 大隈を後継者にとか、政界引退とか、史料出して欲しいな。 大隈が大久保をべた褒めしてたからじゃね
大久保も大隈を信頼しきってたしな べた褒めしたら 「後継者にして譲って政界から隠居したいと語っていた」になるんかね?
だとしたら、103は相当アタマおかしいぞ。全然「語って」へんがなw
話作りすぎw いうても木戸、大久保と同路線を歩んでいたのは大隈しかいないでしょ >>113
両師匠が早死にしたんで大隈重信は残りの長期間を一人だけで孤軍奮闘してたな。
国民世論から支援を受けていたから一匹狼も可能であったんだろう。 ちょっと気になるんだが、大久保を木戸や大隈のような「議会重視派」にカウントしてるけどなんで?
俺は思想的には大久保は伊藤より保守だと本で学んできたんだが、今の研究では違うのか? >>112
君の大隈評はどうでもいいが、大久保は「後継者にして譲って政界から隠居したいと語ってい」ないなら、それでええ。
>>103をガセと処理して話進める。
俺の知ってる知識と矛盾してるので確認しただけ。>>109は有名なエピだから皆知ってるよね? 大久保は別に専制主義者ちゃうよ。
だが江藤、西郷への苛烈な仕打ちや幕末の志士時代に岩倉と共同して権謀術数も多く仕掛けてきて
そう思われてきてるのは致しかない面もあろう 決定的に故郷から三行半を突き付けられてきたのは西南戦争後でしょ >>117
専制主義チヤウのはいいけど、それのどこが「議会重視派」なんかね? 伊藤とどう違うんかね?
木戸と大隈は議会政治を志向していたが、大久保は反対はしないが、慎重派・懐疑派はだろ。
リアリストだから時期尚早として当面は有志専制でいくと。
ていうか、「有志専制」て単語習ったことない?明治初期の必須ワードだけど。
だから>>113の仕分けに えっ? となる。 >>120
大久保の銅像は何故か福島県郡山市にあるという・・ 銅像を建てるぐらいしてますとも
少なくとも鹿児島県民よりかはw 郡山にあるのは、銅像じゃなく大久保神社
安積疎水の銅像は、何人かの群像で大久保も入ってる形式で、鹿児島の銅像より後
大久保は、東北の農民や商人には優れた人材がいると言って、彼らの手柄にする気満々だったから、この形式の方が合ってると思うけど なんで農民? 本当に言ったのか?
優秀な商人もいたのか? >>127
明治天皇が東北巡幸するとき、大久保が事前に予定の行き先を回って、地元民に聞き取りをしたときの感想
大久保は、具体的な提案(ここ重要)を持ってアポ無し凸してくる農民代表とかには、わりと気軽に会う
東北は西日本より身分差がはっきりしてるせいか、いまだに武士の活動しか話さん奴が多い
でも行ってみたら、武士たちに目下は意見するなと放置されてた分、農地のほしい農民たちと投資したい商人たちが自発的にタッグ組んで開墾事業とかしてた 大久保利通存命だったら自由民権派をどう抑えたのか? 大久保も明治中期から完全自由選挙に移行すると言ってたではないか 大久保は陰謀臭が強すぎる
西郷でさえイザとなれば陰謀をつかう
それに比べ木戸はさっぱり陰謀臭がしない
清潔すぎるくらいで、よく国家転覆をやったなと感心する。 木戸オタってなぜか、思い込みで大久保をdisれば木戸を美化できると必死になるよなあ
大久保好きの人が誰かを引き合いに出す場合は、ほぼ西郷だけど せめて大久保が10年は長生きしてたなら東北地方の発展度は今とは別物になってたかもしれん。
おそらく国内の産業育成やインフラ整備を最優先させたのが東北地方。 三島通庸の強引な手法は東北人の反発を招くだけだったわな。 >>4
現実に大久保に最も近い後継者候補は大隈重信しかいないだろ 大久保が生きてたら、憲法も議会もまだ早いとか言って遅れそうだよね
ただ当時イギリス型の政治を理念としてたから良く分からんよね >>134
アホなくせにレスすんなw >>4は暗殺当日に大久保が山吉に勝った言葉だが、
どこが>完全自由選挙に移行すると言ってた になるねん?ww
おまえ日本人か? 日本語理解できてるんか?
>>130
近代史板の伝統芸の「捏造」でっか? 出典だしてみ >>140
大久保は伊藤と同じくビスマルクにもろ影響されてるし、憲法や議会政治には漸進主義をとっただろう。
廃藩置県や秩禄処分は富国強兵のためには必要不可欠だったから、断固とした大ナタを振るったが、
議会政治は別に英国型でなくてもよいわけだし、伊藤のようなドイツ型を選択した可能性が高い。 伊藤みたいなドイツ狂のバカにならねえよバカw
このバカ伊藤ヲタ!w 大久保がバカ伊藤みたいなドイツ狂信者になるわけがねえよバカ伊藤信者が!w >>140
イギリスを参考にした日本独自型じゃないか? ID:VmghkHyU0
何このキチガイ。誰と間違えてんの? 伊藤の名前だしたら「伊藤信者」なの?
バカなの? 死ぬの?
>>139
ああ大隈信者ね。はいはい。大隈俺も好きだよ。田舎佐賀だし。 >>148
岩倉使節団が最大に滞在してたのがイギリスだったから親英派。 事実上に岩倉、大久保だけで王政復古の大号令を成し遂げたようなもん。 事実上に岩倉、大久保だけで王政復古の大号令を成し遂げたようなもん。 >>138
まだ大久保の方が東北人の扱いを理解してたという >>140
大久保の「まだ早い」は「具体的な準備をして環境整えるから待て」の意味だからな
当時の国民はそもそも話し合いで政を行うとはどういうことかすらイメージできていないから、行政の最小単位の区戸長を民選にし、彼らが住民の意見をすくい上げて地方議会で議論し共同自治する制度を確立するところから始めるべきという意見
大久保は三条に意見書出した後で殺されちゃったけど、翌年に民選の地方議会の制度はできる