【千両箱】埋蔵金発掘が趣味の人【9箱目】
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前スレ 【千両箱】埋蔵金発掘が趣味の人【8箱目】
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古今東西埋蔵金の話ならなんでも結構です。
ただし、「my雑巾」は禁止します。
※皆さんの自由闊達で、活発そして想像力豊かな書き込みをしてください。
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@埋蔵金の本質から地域・人物等に迷惑がかかる場合があるので、人名・固有名詞等の記述は慎重に まずは、赤城周辺を軽〜く参考のための見学視察ですね。 近くの城跡でも散策なされては。
(史跡整備されてないとこも多い。単なる里山程度の城跡も数多くあるし。) ありがとうございます
赤城って群馬ですね、結城はどこでしたっけ
あまり遠くは大変なのd近くの城跡調べてみようかな 城跡は、城跡マニアさんのサイトを見るといいですよ。(おすすめ:タジローの日本全国お城めぐり)
全国津々浦々、歴史背景、縄張り等付きで詳しく解説しています。
古墳は、古墳マニアさんのサイトを見るといいですよ。(おすすめ:古墳マップ)
駅前の小さな植え込みが古墳だったりと、面白いです。
世に出ていない古墳は数多くありますよ。 ありがとうございます。おすすめのサイト見てみます。 城跡はいいかも。戦国乱世が長く続いたから、埋蔵金の話は、有名じゃない城跡とかに未だにひっそりと眠っているかもな。 著書「日本の埋蔵金100話(八重野著)」を読むと、面白いかも。 タクジローでスシロー思い出した
寿司食いに行こうかな 混雑の連休が終わった。
さて、ぼちぼち山梨行きの準備でも始めるか! 連休中は、お家でゆっくりしていました。
連休といってもカレンダーとおりでしたので、ただの四連休でした。
みなさん有意義な連休をおくれたでしょうか?
さてさて、中久喜の人に影響されて、連休中に古地図とにらめっこしていました。
安上がりな机上の幻の会之田城探しです。
会之田城の土塁、石垣すら残されていない難問です。
会之田城があったとされる場所は、栃木県下野市本吉田とされています。
これがどうも合点がいかない。
本吉田は、鬼怒川と支流の江川、田川の河岸段丘内で、氾濫域内にあります。
鬼怒川は名前のとおりの暴れ川で、たびたび氾濫していました。
周囲に島が付く地名が多いことからも氾濫域だったことことがわかります。
結城氏が、氾濫すると島になってしまうような土地に城(砦)を作るとは考えられません。
また、地理的にも西に宿敵の壬生氏の壬生城、北は強敵の宇都宮氏一門の横田氏の上三川城があります。
この二大勢力の抑えが、、本吉田の東にある結城家家臣水谷氏の久下田城です。
(※多少時代に誤差がありますが、城跡があることから城としての機能はあったと思います。)
本吉田に城があっても危険なだけです。
幻の会之田城は、やはり幻なのではないかと思うわけです。
そう考えると、結城氏の北の抑えは結城城になります。
こうした理由から、大岡越前や水野侯爵が、中久喜城ではなく結城城を掘ったのではないかと思います。 畠山氏の日本の埋蔵金上巻P176に会之田城の位置について記述があります。
この吉田村の会之田城跡には、筆者もたびたび訪れている。
俗に『金山』と呼ばれるこの場所は、古くは『的場』と称された地で、本吉田の端れ。
まず、この本吉田ですが、吉田村に本吉田はなく、上吉田、吉田、下吉田となっています。※現在は本吉田がある。
近世になって、元町や本町と同じく吉田を本吉田としたのでしょう。
次に金山(今は地名がない)ですが、吉田村ではありません。
いったいどこをたびたび訪れていたんでしょうかw
結城を放り投げていて未調査でしたので、後日、調査に行ってまいります。中久喜の人元気かなぁチラチラ
水野侯爵ではなく、子爵でした。訂正とお詫びをいたします。 チラシの裏のメモ書き
GW中の収穫 緑青にまみれた10円玉3枚 >>172 165さんへ
中久喜のものです。私も、数日の連休を利用して、中久喜城跡を散策してきました。
近くの農作業している方に聞いたところ、何人かが城跡を観光に尋ねてきているそうです。
このスレを見て、興味を持った方が居るのかもですねー。 >>173千葉県在住さん お久しぶりですね。
金属探知機ですね!10円玉3枚!見つかるもんですね。
収穫0円の私より大成果じゃないですか!
>>174中久喜の人さん
中久喜城跡に行ってきたとはすばらしい。
城跡という城跡じゃないんですが、何人かが訪れたとなるとこのスレの影響かもしれませんね。
埋蔵金の楽しさを後世に伝えたいです。
山に登りました?神社跡を見ましたか?感想をお聞かせください。
やっぱり中久喜城いっぽんなのでしょうか?
金山地区の神社仏閣を調査してきますので、報告をお待ちください。 >>175 165さんへ
中久喜好きのものです。山というより藪の中も入りましたし、神社後も見学しました。
現在に残っている城跡が少ないのですけど、邸宅跡はどこかなで迷っています。
一説には、本丸と聞き及んでいますが、実は万年寺曲輪ではなかったかとか、、
仮にですよ、結城氏が何らかの軍事物資として埋蔵する場合、何か所にか分けたはず
だと思っています。仮にも、過去には結城合戦で本城すら落城した一族ですから。
(お寺の山門に残っている、和歌もなぜか3種類あります。もし一か所なら、わざわざ
3歌残すのかと疑問があります。)
怪しいなと思う城跡等がまだあるんですよ。憶測ですけど。
隠居後の結城城ではなくて、ほかの城が。(隠居して代替わりしたのですから、本拠地には
徳川家側の家来が多数いたわけですし。)
結城晴朝が隠居後に、邸宅とか茶室・寺院とかを建造した場所が、山川綾戸城・山川氏館砦・
城の内館跡とか、複数に分かれていたそうです。(こっそり、領内を動き回っていたのかも。隠居後にも。)
私は、複数個所に分けて隠したのではないかと思ってます。
(ただ、どこも土地開発されていて、城跡が正確には残ってませんが、、) 金光寺は、三種の和歌に注目が行きますが、あの山門には数多くの「謎」がひしめいています。
大きな絵馬の絵図の内容や柱の上に彫られている文字等々も有り、何かを暗示しているように思えてならないのですが…。
伝承として、勝海舟だったかな?が、一部を掘り出したということは知っています。 結城は隠されている量も大きいし、隠されている場所も一カ所だけかな?
結城も確かに面白いですね。 しかし、奥がかなり深そうですが…
そして「船玉古墳」、あそこはかなり重要な部分だと思っています。
以前に165さんが古墳の現状を書き込んでくれていたように思っていますが、
誰かも書いていたように、いつの時代かは忘れましたが、一度古墳で何かが見つかったという
内容の古文書のコピーも持っています。しかし有るとしたら、かなり深いところに有ると推察していますがね。 結城は、他の埋蔵金伝説と違い、可能性が高いかもな。結城家は、武田と違い滅亡したわけでないし
徳川側に乗っ取られたという感じ。だから、結城一族が生き延びていけるように、徳川方に分からないように
こっそり埋蔵しておいた可能性が高いかもと。
ただ、残念な事は、結城氏が国替えになって、主だった人が結城の地に戻れなくなったから、今もそのまま
残っているかもな。 埋蔵金というと、組織的じゃなきゃ隠すことができにくいものな。
滅亡とかだと、略奪とか裏切りとか色々あるだろうし。また、埋蔵するにしても
計画的に時間をかけてというのは限りなく不可能だろうし。
結城氏が滅亡してなくて、一族皆国替えで移住させられたのなら、可能性は高いかもな。
まあ、もっとも当時の城跡とかは、宅地化と開墾によって当時とは地形が違うけどさ。 どこまでが中久喜の人なのかわからんw
>>176中久喜さんは研究熱心ですね。
城の内館はポイント(埋蔵ポイントではない)かもしれないと思っております。
複数個所は、三種の和歌がそれぞれを暗示しているという説がありますね。
>>177
金光寺の三種の和歌を解読したというのが、私と二代目の話に出てくる女史です。
三種の和歌のほか山門に掘られた文字、絵を見て説いたとか。
金光寺の住職曰く、山門の下から出たという話でしたが眉唾です。
近代になり、境内の別の場所を掘ったらしいですが、ハズレています。(証人がいます)
>>179
船玉古墳は、貸し椀の怪談があることが知られています。
昭和期に市だったか忘れましたが、3回発掘調査をしていますが、妖怪も埋蔵金も出てきていません。
東北の震災(2011)に社殿が倒壊して以降、更地のまんまですから金属探知機をもって急いでいきましょう!
>>180
宅地、開墾になっているということは、ハズレだったということになります。
まだまだチャンスはあるかと思います。 でも、埋めたのなら目印があると思うんですが、そのことろどうですかね。
結城市は、寺が多いことでも知られています。
中久喜の人さん
城之内館は、、東持寺の境内だそうで、土塁も残っていますのでご確認してください。
結城古城の中心は、源翁和尚の墓がある場所だともいわれています。
また、江戸末期に小判が出土した某家の墓あたりもあやしいです。
とにかく広範囲なので、地道な調査が必要ですね。 >>182 165さんへ
中久喜好きのものです。
結城領内の城跡が、耕作化された経緯のひとつが、江戸時代に起きた五十里大洪水でして。
山川綾戸城・山川氏館砦なども、この時期には廃城でしたのが、堀跡とかが埋設されたみたいです。
(この山川氏も、越前に家臣として国替えになっています。国替え後は、天領となり廃城)
ですので、堀の跡は不明ですけど、とくに山川綾戸城などは確か周囲に池が張り巡らされていたとか。
今では開墾されているとはいえ、まだ可能性が高い場所があるのではないかと思ってます。
埋蔵したときに、徳川側の人間が居なかった城跡が怪しいのではないかと。
(ですから、結城城を発掘しても出た話は聞いていません。また、金光寺や徳川家側の
家臣団が住んでいた城の内館跡も発掘した方はいたとしてもハズレたみたいですし。) 五十里大洪水を初めて知りました。
低地の吉田村はダメなのか、洪水で城が流されたのか
山梨はお休みだから近場の結城をブラブラしようと思います。 >>185 165さんへ
山川綾戸城・山川氏館砦跡地に行ってみてください。大まかな場所は史跡になっています。
ただ、堀の後とかは埋もれてしまっているため、城郭の縄張りは不明ですが。
周囲の畑のどこかに、本丸や邸宅跡地が今も埋もれたままです。 165さん、山梨はお休みってGWに何かあったのですか?差し障りない程度にネタ投下希望です >>187さん
いやいや
前箱で龍喰近辺がだいぶ盛り上がっていたので、
見学者と山道で会うのは恥ずかしいと思ってのお休みです。
中久喜の見学者もいたとこのことですから会う可能性もありますね。
鉱山跡だと思しきところを詳しく調査痛いので、時機を見て再開します。
>>188さんのおっしゃることも一理ありますね。、
ズリのような石ころだと草が生えると見落とすこともあるかと。 >>186さん
山川綾戸城・山川氏館砦跡地に行ったことがありませんので、
おすすめのとおり見てくることにします。 寛永三(1626)年に曹洞宗の東持寺が館跡のごく一部に移り、現在まで続いている。 龍喰とか赤城とかは、そこに行くのも大変だけど、結城は手軽に行けるな。
畑とかを金属探知機で、探ししまわるだけだから、地主の許可だけ得られれば、
趣味レベルの埋蔵金探索が、何のスキルも無くても手軽に始められるかも。 中久喜好きのものです。
個人的な解釈、を少し書いてみます。(自分は史跡とかが好きなだけで、埋蔵金発掘には
興味がないものですけど。)
1 お寺の和歌は、時代的に考えてもあまり関連性はないと思います。
晴朝は、江戸時代初期の人。たいして、金光寺が建立されたのは、それよりも後の時代。
時期的に、どう考えても一致しないかと。
2 前スレで、古墳の事を書いていた方がいたけど、関連性はないと思う。
埋蔵されていたのは、戦いのための物資だから、普段から人の目が無い所には埋めないと思う。
3 結城家初代の藤原氏から略奪した莫大な砂金との話だけど、結城家は戦国時代に一度滅亡していたこともあります。
だから、その資金は使われていると考えるのが妥当ではないかなと。
(まあ、その莫大な砂金の、残りを軍事物資として埋蔵したのかと思う。)
4 結城城とかには、晴朝が隠居した当時から徳川家の方が居たから、埋蔵するには不自然。
普通に考えれば、見つかってしまう、、、
5 逆に、晴朝は国替え後にわざわざ、庵を作ったり、庭園造営を行っている。
また本来なら、国替えであったとしても、栄転なわけなのに旧領に拘っていた。
実際、越前国へ転封していても中久喜城に住み着いてたわけだし。
(埋蔵金伝説も、これが最大の理由。隠した時期もこのころかも。)
6 会之田城というのは、存在しない。栃木県・茨城県の施設としても存在しない。
また、戦国時代の様々な古文書にすら存在しない。結城領地の北方では、戦いが数多くあったのに記録なし。
(埋蔵金関連の、話の上だけで存在する地名ですわ。ペテンかも。)
7 晴朝の後の時代、江戸時代に廃城された場所があるけど、数か所だけ使われた場所がある。
代官屋敷とか、陣屋として。使われている以上、発掘は不可能だった場所。
ただ、洪水とか不便だからとかいう理由の為か、堀は埋められていますが、、、
自分が思うに、この江戸時代265年間、手つかずだった場所が怪しいかもと思っていますわ。 雨で結城へ行けず残念。
結城の人さんへ
一か所あるっちゃあるんですが
しかも摩訶不思議な逸話、晴朝の逸話付きの場所が 失礼
中久喜好きの人さんでした。
だけど、中久喜じゃないんです。
だいぶ離れているんです。 はい。来週も雨みたいで・・・
中久喜好きの人は、石屋さんさんなのかな?
ん〜公職についていそうな気もするが
二代目〜ヒントくださいな >>199 165さんへ
中久喜好きなものです。いや、石屋ではないです残念ながら。
自分の知っている逸話・怪しい話ですと、中久喜城跡・山川綾戸城なんですよ。
晴朝が亡くなる直前まで、晴朝自身も部下の武将も、月に何度も通っていたそうです。
また、領地替えが決まった後にすら、庭園を造ったり庵を作ったり頻繁に行っていたとか。 結城は可能性あるとおもうよ。予想していなかった国替えで、晴朝の信頼していた部下も 移動になってしまったわけだし。
(その後、幕府天領で発掘不可能。)
お寺から見つかったとかいう話は聞くけど、幕末に何千両とかありえないし。
(初代からの埋蔵なら、砂金とかだから千両箱とかは違う気がする。)
幕末には、戊辰戦争の影響でここら辺も戦いがあって、勝海舟が来たとか言う話も違うはず。
政府軍側が掘ったという話も聞いたことあるけど、事実は違う。掘ってない、またその余裕もない。
(時間をおかないで、宇都宮方面に進軍していった。)
ただ、五十里大洪水とか戦後の宅地化で、遺跡がなくなってしまったのがネックだが。 結城関係が上がってきているな。いい流れだと思う。
これで、マイナー趣味の埋蔵金が少しでも活性化すればいいのだが、、、 一石=一両
結城百万石だから毎年百万両
六民四公で毎年六十万両の収入
数千両なんて軽い軽い
なぜ財政難だといえるのか聞きたい 徳川家康は晴朝死後、腹心の武将を捕らえて 足の指を1本ずつ切り落とすなどの
拷問にかけたという話だから。何らかの埋蔵をしていたと思っていたんだろうな。 以前の板みていたけど、赤城山とか探している人今もいるのかな?
ひとつ疑問なんだけどさ。
仮に、赤城山の中腹を埋蔵のために掘ったとするじゃない。当然、地下水の湧水があるよね。
だから、穴が深ければ深いほど、近くに配水するための沢のようなものが作られたはず。
また、穴を埋め戻すよとなったら、当然、土が閉め固まってないよね。
だから、山頂からの地下水が地表に出てくる。
だから、穴を埋め戻す時には、粘土とかで止水しなきゃ、バレバレだよね。
あと、どうやっても、地表が地山とは違ってしまうよね。だから、不自然に小石を敷き詰めたり、
または、木を植えたりして周囲と違った風景にならないように偽装するはず。
あるいは、地下からの湧水を利用してため池みたいなの作るとかさ。
こういう跡地は、今はのこってないのかな?(行ったことないから、分からないけどさ) 山の中腹とかを掘って、埋め戻した場合。湧水していると思うんだよね。
いくら何でも、江戸時代の技術では止水は難しいだろうしさ。
ましてや、赤城山のように頂上に湖があって、また標高が高い山の場合はさ。
合理的に考えたら、小さな池みたいにして偽装するとか。
もしくは、取水用の井戸を埋蔵地点の下側に何か所も掘ってさ、水を抜きながら埋めるとか。
その場合は、埋め戻した井戸跡が、何か所も跡となってのころだろうし。
(もっとも、この場合は埋設した地表面が不自然になってのころけどさ。) 謎解きとかばかりに、注意が向くけどさ。
こういう不自然な場所を探したほうが間違いないかもな。 >>203さん
結城の越前への国替えは、慶長9年(1604年)で幕末じゃないですよ。
元禄13年(1700年)しばらくは幕府直轄地(天領は、「天」皇の「領」地のことです。)になりますが、
能登の西谷藩から水野家が転付で着て幕末まで続きます。
結城の埋蔵金は、結城氏の国替え(慶長9年(1604年))の時の話なのです。
>>208さん
赤城周辺は、地山が黒土で、その上に赤城山などの火山灰が降り積もった赤土で形成されています。
この赤土は粘土質ですが、地下水を形成するまで水を含みません。(不透水層)
簡単に言うとサンドイッチのパンの部分が赤土で、具の部分(滞水層)が水脈となります。
赤城山の場合、最上部のパンの層(赤土)が数メートル〜数十メートルになります。
TBSが掘った穴で水が出たのは2回で、1回目は10m掘って黒土層に当たり出水。2回目は30m掘って黒土層に当たり出水。
なので、>>208さんのご心配は、>>208さんの埋蔵金を埋めるために何m掘る必要があったかが、出水の基準となるかと思います。
また、ご指摘のように、穴を掘るといくら埋め戻しても地表の変化は消えません。
なので、徳川埋蔵金で有名な水野氏初代は、金棒で地面を突き刺して探していました。
標準的な人が出入りできるマンホールの直径は60センチです。直径120センチまであるそうです。
赤城山は広大で、数日たてば雑草も生えるでしょうから、直径120センチの穴であっても探し出すのはかなり困難かと思います。 上記のも書きましたが、赤城山には30メートル掘っても出水しない分厚い赤土層があるわけですから、
数メートル掘って黒土層にあたるもしくは出水のであれば、埋蔵場所に適さないと判断し場所を変更することもできるわけです。
掘れば水が出るわけではなく、滞水層に当たらなければ水が出ないわけです。(降雨時の周りからの水の染み出しを除く)
ちなみに同じ関東ローム層の関東では、温泉を掘るのに深いところで深度1,200m、浅いところで深度200mと言われています。
海やや川の近くは、滞水層の露出部分ですから、浅い深度で水が出ます。 >>211 165さん
ごく一般的な土木工事の場合、関東ローム層であっても途中に薄い砂や石の層があり、
地下水が流れている場合もございます。
ですので、まあ結局はケースバイケースですけど、一概には言えないのかなと。
まあ、テレビのような深い場所までは掘り進んでないという証明にはなりますが。
(あれは、当時テレビで見ていても深すぎるなーと。)
以前から疑問なんですけど、穴を掘って埋めたと方々で聞きますが、人数・時間が必要になりますよね。
だから、自分は窪地とか沢みたいな場所を選んで、そこを埋設したのかなとも思っています。
この場合ですと、掘るのは手間が省けますし人員も少なくできますから。
(ただし、周囲と異なる風景になるため偽装は大事になりますが。) 偽装工作が必要な場合(この場合は、武士団の開墾作業)
どうしても、別な人員が埋蔵していたはず。
(全員が埋蔵作業していたとは考えにくいかなと。)
すると、少人数で埋蔵なわけだから、手間が少ない方法出なかったかと考えました。
どの発掘者とかの自説を見ても、深い穴を掘り埋蔵したとしか思考されてないから、
それとは逆に、少人数でこういう仕事をする場合、どれが効率的かを考えてみた次第です。 >>213さん
薄い砂や石の層がサンドイッチの具の部分で、滞水層になります。
地形などの要因で赤土層の深さが変わってくるのと、噴石(赤土は灰)の含有率でも変わってくることから、
赤城山のどこを掘っても30m掘らないと水が出ないということはありません。
このことから、サンドイッチを横にしたパンの最上部に例えで、数メートル〜数十メートルと書いたわけです。
テレビでは、たまたま10m下で帯水層に当たる赤土層と30m下で当たる2箇所をやっただけです。
次に穴ですが、>>213さんのおっしゃる通り、「沢みたいな場所を選んで」崖部分を横に掘れば上から掘るよりは楽です。
私のサイトでご紹介している八重野氏が登場したフジテレビの番組でも竪堀の大変さを解説しています。(5時間で2m)
実は、この大変さと後々の苦労を古墳が教えてくれています。
古墳時代前期の前方後円墳等は竪穴式石室でしたが、後期は横穴式石室になりました。
横穴式の利点は、入り口の蓋を取れば中に入れる点です。竪穴式だと石蓋を破壊するか持ち上げないと中に入れないのです。
後日、埋蔵金を取り出そうとした場合、古墳と同じで横穴式のほうが大掛かりな作業が必要ないからです。
古墳時代の横穴は、後日にお妃様などが死んだ後に追加で入れるために便利だった。 話が前後しますが、沢や池、川はだめです。洪水時に流されてしまいます。
また、地形が変わる可能性があるためです。
これは、畠山氏、八重野氏もだめと言っています。
これまた私のサイトのTBSの林修氏が手掛けた三枝茂三郎の発掘場所は、
>>213さんと同じ考えで、沢の崖を横から掘っています。崖になんか怪しい点があったのでしょう。
それと、深い穴ではないのです。
水野家の話に登場する児玉某が、水野家初代に教えた深さが刀を振り上げた深さ(約3m)でした。
私のサイトのTBSの1994年放送の番組の解説でご紹介しています。(石坂浩二が手を挙げているシーン)
上記に書いた八重野氏が手掘りで掘った深さが三人がかりで5時間2mとなると約7〜8時間で3mになります。
埋蔵金は7箇所に埋蔵されているというのが通説ですから、同時に作業を開始すれば、三人×7箇所=21人になります。
採掘道具こそ時代の違いがありますので、朝から夕方までの時間で埋め戻しも完了すると思います。
1グループ作業員3名、監視2名であれば、延べ35人で作業が完了ですね。 >>216さん 116さんへ
ここから先は、推理になってしまうんだけど。
幕末にさ、赤城山で武士による開墾があったよと。
(偽装工作でも、人の目を紛らわせるためには実際に行っているはず。)
昔は、今と違い普通の農民とかでも山の中から生活物資(薪とか、屋根の草とか、山菜とか)
を採取していたから、今と違い人の目もあった。
それで、武士団はちゃんと人を2手に分けて、開墾チーム・埋蔵チームで作業したと。
江戸時代が終わって、武士の世が終わりますよね。すると、武士は仕事がない人も多い。
そういう時代だから、埋蔵を何にも知らない開墾チームの人は、ここに戻ってきたと思うんだ。
農民としてね。
だって、開墾された土地が入手できるんだから。
(埋蔵に関しては、この幕末は殺人とかは無かったと思う。だって、もしあったら内緒に出来ないから。)
今の、赤城山で水野さんが発掘している集落とかには、この戻ってきた元開墾チームの家はあるのかなー?
もし、無かったとしたら、そういう観点から言うと不自然な気がします。
(あるいは、他の武士団による開墾場所が本当の埋蔵場所の近くかも。) 続き。
自分は、単なる興味本位の目線しか持ってません。
ただ、埋蔵がされている場合、開墾が絶対に不可欠だと思う。
だって、仮設で小屋とか建てて作業したのだろうし、人数だってチームを分ける場合
ある程度の人員が必要。
何もない山の中、絶対に物資の輸送(必要物資・埋蔵金含む)とか人の目をごまかさなきゃですから。
こういう、他人の目をごまかす場合は、ある程度当時としては規模が大きな開墾地が無きゃ変だなーと。 >>218さん
興味本位で十分です。私も興味本位でやっていますw
山奥とはいえ、人目があったでしょう。
畠山氏の記述では開墾と書いてありますが、あてになりません。
元開墾チームですかー 一軒一軒聞いてみないとわからないですね。
郷土史を読んでも元開墾チームのことは書いてありません。 >>219 165さんへ
仮にの話ですけど、例えば様々な物で場所が特定できそうだとしますとね。
(古文書とか銅板とか、その他もろもろ)
その場所の近くに、江戸時代頃から開墾された場所があるかどうかが自分の推理では
大事な事かと思うんですよ。
だって、人の目を遮るのなら開墾作業とか必要ですもの。
(重いものをもってだ、山の中道なき道を進んで、埋蔵するのはリスクがありすぎるなと。) 一度、見てきてはいかがですか?
私の動機もテレビでやった場所をこの目で見てみたいでしたw
私はいつもオートバイですが、
電車で敷島駅まで行って、タクシーで回ったというお人もいますよw
水野家、三枝氏の場所、双永寺、十二社であればGooglemapでも見つかります。
渋川市 赤城行政センターに行けば、1万分の1の地図も買えます。350円だったかな。
まぁ地図を買ったら最後で、抜け出せなくなりますw >>221 165さんへ
私は関東在住なもので、近く見に行きますわ。
普段は、中久喜とかの城跡巡りですから(笑)
うーん、秘文とか物的証拠とかよりも、自分は開墾地の近く
かつ緩やかな崖などの地形が先なのかと。
行ってみてから、現地の郷土資料読み漁りますわ。 あれ?中久喜好きさんだったの?w
今の時期ちょうどいいですよ。
私のほうは、今週末も雨のようなので、結城はお預けです。 >>223 165さんへ
中久喜好きのものです。
だってさ、誰も書き込まないんだもの。なんか、寂しさ感じてしまって。
結城は、武田と違い安全だけは恵まれた場所ですよ。
危険な地形とかないし。
真面目な話、徳川は最初は赤城山の南側かと思ってました。あのあたりは、明治時代
とかまで不毛の地でしたから。(たしか、開発されたのが大正時代とか。)
ただ、偽装工作と今でいうキャンプ拠点が無いんですよ。たとえ不毛の地だとしても
自分は、拠点が無いと埋蔵という工事が出来ないなと。
自分の考えでは、拠点を作らなければ、当時山中での活動は出来なかったと思ってます。
それで、開墾がセットになっているなと考えた次第です。 見てくれる人いたんだ。
今まで、ここを見てきたけど実務的な視線は無かったなーと感じたので書き込んでみたんです。(いや、自分が見逃しているだけかもですが。)
江戸時代は、今と違い山中に人が数多くいました。樵・炭焼き等。また普通の農民とかも山の中に入って、薪炭を得ていました。
今の赤城山は、場所によっては人がいないような感じだろうけど、当時はそうではないなと仮定しました。
するとさ、正当な理由が必要になってくると思うんですわ。
他の人が、そのエリアに入らないようにする理由が。
その理由が、開墾なんです。当然、武士が行うやつで。
ですから、自分としては歴史をまずは調べて、そういう開墾があったのかを調べてみたいです。もしくは、藩の領地とか所有している土地だとかを調べたいなと。(開墾の場合、規模がある程度大きくなきゃです。規模と時間がかかっていなきゃ成立しません。)
いくら江戸時代だとは言え、そういう正当な理由がなければ、人が立ち入らない理由ができませんよね。ですから、まずは其処からかなと。
次に、立ち入り禁止エリアができたとしても、出来る限り埋蔵は短時間で行うと思います。また、人員が少ないと思うので効率よく。
山中とはいえ人の目はあるわけですから、洞窟みたいなものは掘っていないと思います。当時は、今と違い治山工事はされていません。石垣とかは可能だろうけど、埋蔵を考えるとそういう人工物は構築しないと。
また、例えば崖とかの傾斜地に横穴を掘ったとすると、治山工事がされていない自然の山ですから、がけ崩れや自然災害等により露見したときに不都合だなと。(山中とはいえ、今と違い人は多く居たから。)
自分は、傾斜地や低い崖のようなところの下に、埋蔵物を並べて、上から崖等を切り崩して埋設したのではないかと思いますわ。これなら、短時間・少人数での埋蔵が可能だし、当時の自然の山では、がけ崩れは普通にあることですから、自然ではないかと。 >>224
中久喜好きさん
アクセス解析から、北は青森県から西は山口県まで15名ほどの人がいるかと思います。
中久喜好きさんの書き込みもあって、皆さんじっと話を堪能しているのではないでしょうか。
TBSが掘った場所の真横にキャンプ場ならあるんですけどねw
中久喜好きさんの説で、似たような説を持っていた庄司さんという方が、長年、沢を中心に探していました。
また、物証も沢の崖の粘土を取っていたら出てきたという話も残っています。
赤城山のテレビでやったあたりは農地に適しておらず、田んぼはなく畑しかありません。
畑も30cm掘り下げると細かい軽石層が出てきて保水性が悪く、畑としても不適切な場所で、
現在は畑が広がっていますが、表面に土を置いたりと、だいぶ苦労したとのことです。
中久喜好きさんの開墾のイメージは、田畑ですか?
昔から桑の栽培は活発だったようですよ。明治の古地図だと、旧沼田街道以西は桑畑です。 >>227 165さんへ
やはり同じような事を考える人はいるんですな。庄司さんの事は、自分は知りませんでした。
ただ、自分は城跡とかが好きでして。
一つ一つの城には、そこに作られたちゃんとした経緯があるんですわ。
ですから、赤城山に埋蔵をする場合、当時の実情とかそういう物を加味すれば、おおよそのエリアが
分かるのではないかと思っていた次第です。
おおまかなエリアが分かったら、そこから銅板とかの物証を組み合わせていけばいいのかなと。
(手順としてです。あくでも。)
自分は、この前の板とかの書き込みしか、そういう物証に対しては知識が無いんですよ。
ですから、物証の前に、ある程度のエリア分けが必要なのかなと。
江戸時代の開墾は、まずは土地の木木を伐採して、平らにならしてから、栽培する作物を考えたそうです。
あのあたりは、仰せのように火山性の土地ですから、おそらくは蕎麦・稗等の雑穀主体の畑として考えたのかなと思います。
(養蚕が盛んになったのは、明治からだったと聞いたことあります。) 続けますね。
自分の考えですと、崖と言っても高い所ではないと思います。
それこそ、5メートル程度の崖。もしくは、自然のくぼ地みたいなもの。
(窪地ですと、目印とか複雑になるかもですけど。対して、崖なら一か所からの
大まかな距離で説明可能です。まあ、崖が続いていればの話ですけど。)
高さがある崖ですと、土砂を上から落下させた場合、埋蔵するものにダメージが。
また、埋蔵するにあたっては、例えばですが砂とか細かな土で周囲を埋めてからだと
思います。発掘する時の、まあ今でも土木工事等で行っている目印になりますから。
(埋設物の保護にもなりますから。) 中久喜好きさんメールをくれていたんですね!
気が付くのが遅れて申し訳ございません。
返信しておきましたのでご確認ください。 水野家は、はじめはマムシ谷を探索しましたが、中盤以降はいろんなところを掘っています。
三枝氏、庄司氏は、芳川沢沿いを終始探索しています。
2008年放送TBS「徳川埋蔵金 大発掘 篤姫は知っていた!?」でも芳川沢沿いを掘っています。
なぜ芳ヶ沢なのかはよくわかりませんが、水野家の土地争いに巻き込まれたくなかったのかもしれません。 テレビ番組等で、竪穴のほかに横穴が登場しますが、
水野氏が、借りられない土地の下まで調べたいので、横穴を掘って調べに行ったと語っていますので、
埋蔵金の埋め方とは関係ないと思っています。 >>232 165さんへ
水野さんの事で、以前私もテレビで拝見しました。
たしか、深い穴を掘っていると。
それで、疑問なんですけど、発掘している途中で消石灰が出たとか
(三和土とか良く書いてありますが、、)
御存じのように、江戸時代は消石灰を利用して壁材にしたりしてました。
自分が思うに、あれは消石灰の製造プラントだったのかなと?
(消石灰の製造では、各種の材料と人手が必要です。ですので、プラントとしてあの場所
を使っていたのかもと思いました。製造プラント跡地ですから、そこから小分けして
運搬して利用したのかもと。その後、証拠隠滅で埋設したのかな?) 消石灰が、本当に出たのかどうかは私には不明です。
ただ、自分の想像ではプラントとして開墾地を利用したと思っています。 わざわざ、石灰岩とかの材料を運んできて消石灰作る意味あるのかと?
しかも、御丁寧にそのまま地面に捨てとけばいいのに、わざわざ穴掘って埋める必要があるのかって事。 榛名山に隠しておいたものを、移動したと。移動させた理由は今となっては、憶測だけど
、多くの人に知られているとか、そういう感じかなー。
んで、たまたま近くに武士団が開墾していたと。
武士団の開墾地なら、主従関係とかが明確な時代だから、秘密保持が可能だと思ったのかな?
なんせ、上の人は命令すればいいわけだし。これを運んで来いとかさ。
(ただ、開墾者全員が関与していたとは考えにくい。秘密保持の観点から。だから、埋蔵したのは
ごく少数の人だと思う。)
ただ、徳川家康の像とか亀の像とかは、正直不明。
だって、埋める必要ないもの。家康の像なら、持っていてもいいはずだし。目印の亀にしても、
わざわざ埋設する必要があるのかなと?
逆に、目印としてなら、開拓記念碑でも建てればいいだけなのにと。だって、開墾自体は秘密には
出来ない事だからさ。
それで、地下に埋もれていた三和土?消石灰?が疑問になったわけですわ。
これなら、悪意がある人が騙すとしても、簡易すぎるなと。
簡易すぎるけど、なんか説得力あるものだなと。
んで、自分が思うに目印は、かなり大雑把なものではないかと。
もし掘り出す場合は、社会秩序が元に戻った場合だから、秘密の必要性は無いと。
だから、数多くの人員が用意できるはずだから、だいたい、あのあたりを掘り出せ
でいいと思う。だから、細かな詳細は不明でもいいのかと思いますわ。 想像力は埋蔵金探索にはかかせません。
1 徳川家康の像はありました。
2 亀の像は、三和土(たたき)ですが、写真も残っていないので亀だったかは不明です。
3 消石灰はありません。
林修氏の埋蔵金番組で、石灰だといわれてきたものが火山灰だったと解明されました。(私のサイト参照)
>もし掘り出す場合は、社会秩序が元に戻った場合
この想像はちょっと違っていて、掘り出せば天下泰平(天下平ナリ)になると物証に書かれていることから、
戦乱の世が終わると解釈でき、戦後の話ではないと思います。
中久喜好きさん メールしておきました。
中久喜から撤退したくなるかもしれませんが、悪気はありませんw >>239さん
ん〜人によって見方が違うから、本に書かれていたことは違うとも言い切れないのがもどかしいです。
例えば、
1の家康像ですが、本には写真付きで約10cmとありますが、手に取ってみた人は30cmと言っています。
現物が失われていますので、写真も証言も「真贋」の決め手になりませんが、「あった」ことはわかるわけです。
次に
2のカメですが、写真はなく、絵しかありませんので「あった」決め手にはなりませんが、その下を掘った実績が
あるので、「あったかも」にとどまります。
3の消石灰ですが、三枝茂三郎氏は、当時こう書いています。
「昭和32年の夏。地下190尺(約58m)で石灰を混ぜ合わせ川砂が赤く色づけされて、
朱までまじったもの」 「地下200尺(約61m)で石灰交じりの黒砂」
ですが、林修氏の番組で見る限りでは、どう見ても地層です。「石灰交じりの黒砂」も地層です。
「想像するに」谷の真横であることから、段丘形成時の川岸の砂だったが段丘形成時に取り残され、
赤城山の降灰により埋没したと考えてよろしいかと。
ただ、「当時は石灰だと思った」のでしょう。
では、その石灰はどこから?となると「運んだ」となるわけです。
あくまでも個人的な感想です。
ご自身で調べて解釈するのがよろしいかと。 中久喜好きさんメールしておきましたのでご確認ください。
中久喜好きさんは、歴史からなんですね。私は思いつきからなんで恥ずかしいですw
疑問に思うことがあれば、どんどん質問してください。
そして徳川埋蔵金にハマリましょうw
でも、私の個人的な感想で徳川埋蔵金を語っていますので、中久喜好きさんと合わない点もあるかと思いますが、
そこは意見のひとつだとしていただければ幸いです。
ほかの方も結城、徳川以外も書いていただければ、この板の活性になるかと思いますのでよろしくお願いします。
私も万能ではありませんで答えられない場合もあります。時に関東以西はさっぱりわかりません。
埋蔵金ねー 掘る費用がないんですよね。
流行りのクラウドファンディングでもやろうかしら。
掘り出せたら出資に応じだ小判の返礼でいけるかしらw >>241 165さんへ
中久喜好きのものです。メール感謝です。
徳川に関しては、まず自分の目で見に行ってみます。おおよそでいいから、現地の地形、
集落とかそういう物を見てからの方が良いかと思いますので。
また、今の地図を買ってみますわ。
埋蔵金は、自分は歴史の一部だと思ってます。だって、人が組織的に行ったことですから。
(個人の埋蔵金に関しては、まあ組織的ではないですが。)
色んな話が出ると思うんですよ。どうやったのか?自分ならどうするかとか。
これも、実は歴史好きの中では良くある話です。
色々と、165さんには教わることが多いです。また、長年にわたってこういう場所で、書き込み
している姿勢には、頭が下がりますわ。
時間のある時にでも、現地を見てから想像の話しでも書き込みいたしますわ。 おはようございます。
中久喜好きさんレスありがとです。
埋蔵金探しは楽しいですよね。
さて、中久喜好きさんのおすすめの場所を見てきます。
ご報告はのちほど おはようございます
今日は天気いいですが寒いですね 白川村で四百年前の大地震で一夜で埋まったとされる「帰雲城(かえりくもじょう)」の位置は
「同村保木脇の庄川の左岸」だったとする研究結果を、歴史愛好家でつくる白川郷埋没帰雲城調査会がまとめ、
十九日、発表する。
調査会によると、飛騨の地役人が一七四六(延享三)年に書いたとされる地誌「飛騨国中案内」に、城のあった場所として
「往昔は帰雲、其後(そのご)は帰山なり。に今至て其所を帰雲川原と言ならし候」との記述があった。調査会ではこれまでに
「氏理の居城のあった所を帰雲川原と言うようになった」と解釈してきた。
新たに今回、白川村役場が所蔵し、地誌より十年以上前に描かれた同村の古地図「享保年度山林絵図面」を調べたところ、
保木脇周辺の庄川の左岸部分に「帰雲川原」と記されていたという。調査会事務局長の野田秀佳さん(56)は
「長年追い求めていた場所が分かり、感無量。伝説にも一歩近づけた」と喜ぶ。 当然ですよ!
しかし、ピンポイントの絞り込みは困難かな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています