【天才】武豊完全復活!
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武豊「デビューはちょうど昨年のこの時期ですよね。僕は乗るまでそれほど評判は聞いていませんでしたし、松島さんからも特に話を聞いていたわけではありませんでしたが、乗ってちょっとびっくりしたんですよ。凄い走るんです。なので、『意外と走りますよ』って言ったんですけどね。でも、周囲の反応が薄いというか、それほどでもなかったので。やはり友道康夫厩舎ですし良血馬、高額馬がたくさんいて、なんとなく小倉の最後にデビューって聞くとちょっと主力からは外れているのかなという感もありますからね。それに、最初は1200メートルでもいいですよ、という話だったんですよ。『1200メートルでも1800メートルでもいいですよ』と言われていて、『いやいや、1800メートルで大丈夫ですよ。めっちゃ走りますよ』って」
──それであのような勝ち方をされて、その後も連勝しました
武豊「乗る度に良くなっているし、1回ずつ期待通りの走りをしてくれるし、成長もしていってくれましたね」
松島「みんな信じていませんでした」
武豊「そうなんですよ。走るんですよ、とずっと言っていたんですよ。なかなかいないですよ、あのレベルは」 ──それで、競馬界の7不思議の1つともいわれた「朝日杯FSを勝てない」ジンクスを見事に覆しました
松島「あれは良かったです。そのジンクスだけが心配だったんです」
武豊「僕が30年以上勝てなかったレースを勝てたんですから、そういう馬なんだと思うと、僕の悲願を達成してくれるのもこの馬なのかな、と。もちろん競馬なのでいろいろありますが、単純にいいことだけをとらえれば、一緒に初めてのGTを勝たせてもらったし、久しぶりに観客が入ったなかでダービーを勝ったりだとか」 松島氏と競馬との出会いは、今から52年前、中学1年生だった1970年にまで遡る。
「その年の秋、父に京都競馬場に連れて行ってもらったんですよ。メインはエリザベス女王杯の前身にあたるビクトリアカップでした。芝コースも馬も綺麗だし、最後の直線を馬が駆け抜ける音がすごい迫力で、興奮しました。それで競馬が大好きになったんです」
以来、スポーツ新聞で気になる馬の動向を追ったり、テレビで競馬中継を見たりするようになった。特に好きだったのは、同年の菊花賞馬ダテテンリュウだったという。
しかし、初めてビクトリアカップを見たあとは、競馬場に行くことがなくなった。就職して忙しくなると、さらに競馬との距離がひろがりかけたのだが、20代後半のとき、また京都競馬場を訪ねる機会を得た。
「27、8歳のときでした。当時、GIの副賞として、うちの京都マツダ(現マツシマホールディングス)から車を提供していたんです。スポンサーですから、父と一緒に京都競馬場の貴賓室のようなところでレースを見ました。それから結構ハマりだし、また馬券を買うようになりました(笑)。ちょうど、ライスシャワーやミホノブルボンが活躍していたころです」 「『武豊』というブランドが好きになった」
そうして再び競馬に熱いものを感じるようになった松島氏は、大の武豊ファンになっていた。
「武君が乗っていた、スーパークリークやオグリキャップ、メジロマックイーンといった馬に惹かれたわけではなかったんです。それでも、憧れていました。馬券とは別に、『武豊』というブランドが好きになったんです。競馬サークルの枠を超えたスーパースターで、突出した存在じゃないですか。また、家も近いし、新幹線などでもよく見かけていたんですよ。『あ、武豊さんや』って(笑)。いつかどこかで話がしたい、一緒に食事をしたいと思っていたところ、共通の知人を通じて、会うことができたんです」
それが20年以上前のことだった。
「付き合っても普通です。偉そうにしないし、本当に競馬が好きなんですね。僕の馬券の話をしたことはありません。言わなくても、勝ったか負けたか、様子からわかるのかもしれませんが(笑)」 「僕の馬じゃなくても、武君が凱旋門賞を勝つことが夢」
個人馬主として初めて所有したのは、2014年7月の新馬戦で4着となり、5戦目、15年1月に初勝利を挙げたミコラソン(牡、父ダイワメジャー、栗東・小崎憲厩舎=当時)だった。
「前の年(2013年)に初めてセレクトセールに行き、4100万円で落札しました。これはエラいこっちゃと手が震えました。その前から、武君が凱旋門賞を勝ちたいと思っていることは知っていました。2006年にディープインパクトで負けたときはホンマに悔しくて、今でも夢に出てくるといった話を聞いて、そんなに凱旋門賞ってすごいのか、それほどまでに勝ちたいのか、と。それならば、自分のできる範囲で、一緒に凱旋門賞を目指せる馬を買ってみようと考えるようになったんです」 その後、代表をつとめるキーファーズが、セレクトセールで1億円を超える高額な良血馬を次々と落札して話題になる。そして、冒頭に記したように、松島氏の夢は武とともに凱旋門賞を勝つことだ、と知られるようになっていく。
「そのように伝わっていることは知っていますが、正確には、僕が勝つことが夢ではないんです。僕の馬じゃなくても、武君が凱旋門賞を勝つことが夢なんです。僕の馬ならもっといいけど、とにかく、ファンとして武君が凱旋門賞を勝つところが見たい。日本人騎手で最初に凱旋門賞を勝つ騎手は『武豊』でなくてはいけないと思っています」 武豊と挑む凱旋門賞への思い
2018年7月、ジェニアル(牡、父ディープインパクト、栗東・松永幹夫厩舎=日本在籍時)でフランスのメシドール賞を優勝し、馬主として重賞初制覇。鞍上はもちろん武だった。国内では2019年にマイラプソディ(牡5歳、父ハーツクライ、栗東・友道康夫厩舎)が京都2歳ステークスを勝って重賞初制覇。
「メシドール賞は現地で観戦しました。勝つと思っていなかったので、嬉しかったですね。ジェニアルは日本では2勝しかできなかったのですが、今スウェーデンで種牡馬になっています」
そして昨年、アイルランドのクールモアグループと共同で所有するブルームでサンクルー大賞、ドウデュースで朝日杯フューチュリティステークスを制し、国内外でGI初制覇を遂げた。
現在、海外に7頭ほど共同所有する馬がおり、キーファーズのほか、長女の悠衣さんが代表を務めるインゼルレーシングの所有馬を合わせると50頭ほどになる。海外で共同所有する馬はどれも、凱旋門賞に出走するときは鞍上に武を起用するという条件で直談判して権利を購入した。
「クールモアにはこう言っています。マイ・ドリーム・イズ・ユタカ・タケ・アーク・ウイン、と。そうして共有したブルームで、去年初めて武君と凱旋門賞に参戦したのですが、11着でした。厳しい戦いであることは十分承知しています」
英語圏の関係者には「アーク(Arc)」で凱旋門賞と意味が通じる。
武にとって、ドウデュースで臨む凱旋門賞は10度目の参戦となる。「子供のころからの夢だった」という日本ダービーを1998年にスペシャルウィークで制したときも、ちょうど10度目の参戦だった。
斤量面で有利な3歳時に参戦できるメリットは大きい。
夢の行方は、はたして―― 「その言葉に豊くんが感動してくれて」
──もともと熱心な競馬ファンだったそうですが、会社を経営されるなかで、やはり「いつかは馬主資格を」という計画を持っていらっしゃったんですか?
松島 いえ、馬主になろうなんて一度も思ったことはなかったです。とにかく馬券が好きやから。馬券ばっかり(笑)。僕はとにかく子供の頃から競馬が大好きだったんですよ。昔の馬もびっくりするくらいよう知ってますよ。
──お父さまの影響ですか?
松島 いや、親父はそれほどでもなかったな。たまに日曜日の競馬中継を見たり、あとは一度だけ京都競馬場にビクトリアカップ(エリザベス女王杯の前身にあたる1975年まで行われていた牝馬限定重賞)を見に行ったくらい。
当時はまだ黄色っぽい芝やったけど、それでもものすごく綺麗でね。とにかくよう新聞やテレビを見てましたよ。それこそ、豊くんのお父さん(武邦彦元騎手)が乗っていたロングエースとタイテエムとランドプリンスのダービー(1972年)とかね。もっと前のスピードシンボリとかダテテンリュウとかアローエクスプレスとか…。
よう覚えてます。今でいうPOGみたいなもので、この馬は先々絶対に強くなるとか予想したりして。 ──競馬ファン歴でいうと、半世紀を超えますね。
松島 そうですよ。あの“武豊”が僕の家の近くに住んでいることも知っていました。僕も会社をやっていたので、なにかしらの伝手で豊くんと食事をする機会を作れないかな…と、ずーっと思っていて。共通の知人を通して、やっとそういう機会に恵まれてね。もう20年以上前ですけどね。
──初めて武さんにお会いしたときの高揚感は覚えていますか?
松島 もちろんです。誰と会おうがあんまりビビったりはしないんだけど、あのときはものすごく緊張してね。そんななかでも、食事のあとにもう一軒、誘ってみようと思っていたんです。で、食事が終わって「いつも武さんが行っている店に行きましょう」と言ったら、なんかその言葉に豊くんが感動してくれて。・・・ ドウデュースとの出会い「やっと武君に貢献できた」
松島正昭氏がドウデュースを初めて見たのは、デビュー前、ノーザンファームイヤリングにいたときのことだった。
「数頭から選びました。印象は、可愛かったということだけです(笑)。ぱっと見て男か女かもわからないのに、馬を見るポイントなんてありません」
期待できそうだと思ったのは、昨年9月に小倉芝1800mで行われた新馬戦を勝ってからだったという。
「武君も友道先生も『走りますよ』と言ってくれました。10月のアイビーステークスを勝ったときに『ホンマに強いかもな』と思い、次走の朝日杯を勝ったときは天にも昇る気分になりました。なかなかいい馬に出会うことができなかったけど、やっと武君に貢献することができた。そう思って、ずっとウルウルしていました」
競馬界の七不思議のひとつにもなっていた、「武豊は朝日杯を勝てない」というジンクスを、22回目の騎乗にして、ついに打ち壊すことができた。
「自分が思っていたラインより上で、武君と一緒に勝負できる馬にめぐり合えた。次の年の凱旋門賞のために、クラシックでハクをつけよう、と思いました」 年明け初戦の弥生賞ディープインパクト記念は2着。つづく皐月賞は、後方からメンバー最速の上がりで追い込むも、3着だった。
「皐月賞は、前目につけて抜け出して勝つと思っていました。実際は後ろからになりましたが、それでも勝つだろう、と。ただ、中山の直線が短いことを忘れていました(笑)」
道中は自分のリズムで進んで脚を溜め、最後に末脚を爆発させるという走りに磨きをかけたドウデュースは、次走の日本ダービーで、外から豪快に追い込み、3歳世代の頂点に立った。ウイニングランでスタンド前に戻った武とドウデュースを、6万人を超える観客が、大きな拍手と、コロナ禍ゆえ控えめの「ユタカコール」で迎えた。
「僕は普段、自分の馬のレースの道中は見ないんです。手応えが悪くなって下がって行くのを見るのがつらいからです。でも、ドウデュースはいつも抜群の手応えで進むので、ダービーも見ていました。4コーナーを余裕のある手応えで回ってきたときに勝ったと思いました。あの馬は自分より後ろにいた馬に一度も抜かれたことがありませんから。すごく興奮して、血圧がたぶん上が500、下が250くらいになっていたと思います(笑)」 その後、毎日のようにダービーのリプレイ映像を見ているという。
「ウイニングランをしたときとか、ユタカコールに迎えられたときとか、武君の仕草や、何か動きがあったときの間などを何回も確認して『千両役者やなあ』と余韻に浸り、嬉しくて仕方がありません。朝日杯のときも感動しましたけど、ダービーとなると、世間の反応が違いますね。一夜にして人生が変わりました。これで胸を張って凱旋門賞に行けます。本当に、こんなことがあるんですね。もし皐月賞を勝ってダービーで負けていたら、ジャックルマロワ賞かアイリッシュチャンピオンステークスあたりにターゲットを切り換えていたかもしれません」 「イギリスとフランスのダービーも見ていました。武君と凱旋門賞を勝ちたいと言っているからには世界の競馬を知っていないといけないので、ここ何年かで見るようになったんです。今年の凱旋門賞は、ダービー馬対決になりますね。せっかく出るのだから、有力馬の一頭として参戦したい。夢のようだと思う一方で、注目されてほしいと思っています」
武もいつもGIに臨むとき、人気になってほしいと言う。強いと思われている馬で出たいのだ。それはおそらく「王者としての戦い方」を心得ているからだろう。
「実は、昨日、ドウデュースが誘拐される夢を見たんです。面白かったですよ(笑)。犯人はどこに隠したんやろう、と。テレビで誘拐事件を扱った『マイファミリー』を見ているからですかね」 こうしてジョークで場を和ませるあたり、同じようにウイットの利いた言葉づかいをする武に通じるものがある。
「ドウデュースのいいところは、足が速くて、おとなしくて、賢いところです。ハーツクライ産駒として2頭目のダービー馬なんですが、1頭目のワンアンドオンリーは、馬自身も、乗っていた横山典弘騎手も、生産者のノースヒルズ代表の前田幸治さんも、観戦されていた天皇陛下(当時は皇太子)も同じ2月23日生まれだったでしょう。実は、僕もそうなんです。で、ドウデュースは5月7日生まれなのですが、うちの家内と一緒なんです。それは買ってから気づいたのですが、セレクトセールなどで馬を選ぶとき、誕生日はけっこう見ますよ」
「武君と夢を共有して…いい人生だなと思います」
そう話す松島氏は、所有馬のローテーションや乗り方などについてどこまで関与しているのか。
「すべてプロに任せています。ローテーションは調教師さんが決めますし、騎手に指示を出したこともありません。出す出さないを考えたこともないです。相手はプロやのに、僕がそんなことをしたら失礼やし、怒られますよ」 馬主になって10年も経たないのにこれほどの実績を残してきたことは驚愕に値するが、それなりの金額を投じてきたことも確かだ。馬主業を投資とみなした場合、ダービーを勝ったことによって十分なリターンを得られたと考えているのだろうか。
「金額のうえでは、見合うリターンはまったく得られていません。ただ、僕個人としては、武豊君と夢を共有して、それを叶えるために協力しているのだから、いい人生だなと思います。自己満足ですけど、毎日が楽しいです。死ぬとき、『ああ面白かった』と言えるでしょうね」
庶民レベルでは、「人間の悩みの9割は金で解決できる」とよく言われる。しかし、逆に、金があるからといって夢を叶えられるわけでもない。特に、「一国の宰相になるより難しい」とも言われているダービーオーナーになるには、資力だけではなく、運や出会いなど、いろいろなものに恵まれなくてはならない。
https://number.bunshun.jp/articles/-/853678?page=3 武豊 牧場で見たのが最初だったね。何頭か見せてもらったうちの1頭で、その時は“かわいいな”ってくらいの印象だったんだけど、新馬戦の1週前追い切りに乗ってメチャクチャ衝撃を受けた。一生懸命感がないのに楽に動いていて“まず負けることはないな”って。
――初めて乗った時からポテンシャルの高さを感じていたんですね
武豊 デビュー戦は意外に2着と差はなかったけど、相手も強い馬だったし、ゴールした後もレースの後じゃないみたいだった。新馬戦はみんな初めての経験でパニックになったりする馬もいるんだけど、ひょうひょうとしてたもんな。クラシックを意識できる馬だと思ったよ。
――そこからアイビーS、朝日杯FSと無傷の3連勝。翌年は弥生賞(2着)を使ってクラシックへ
武豊 皐月賞の日の夜にオーナー(松島正昭氏)とごはんを食べようと言っていて。朝日杯も強かったし、たぶん祝勝会のつもりだったと思うんだけど3着で…。ガックリしてはったわ(笑い)。でも、全然悲観する内容じゃなく、ダービーへ向けて自信が深まるようなレースだったからね。
――ダービーの1週前追い切りはすごい動きでした
武豊「これ勝つな」って、併せ馬をした(小崎)綾也に言ったもんな。これまで5回ダービーを勝ってきて“あ、こういう感覚で勝ってきたな”って思った。もちろん競馬は相手がいることだから、すごく成長している馬がいたら…とかはあるんだけど、この世代で一番強いんじゃないかな、勝てる馬だな、というのは感じていたね。
――実際に勝って
武豊 松島さんとは馬主になる前からの友人だから、一緒に勝ててうれしかった。20年以上前に共通の友人を介して知り合って意気投合して、ごはんに行ったり…気の合う友人。競馬が好きな方で「馬主になったらどうですか?」と言って「なれんの!?」みたいな感じでオーナーになったんだけど、ダービーの後に「“馬主になったら?”って言ってくれてありがとう」って。高額な馬を買われていたから、俺も心苦しいところがあった。ホッとしたね。プライベートでも頼りにしているし、仲良くさせてもらっている。 日本が誇る至宝・武豊騎手がこの世界最高峰とも言えるレースの制覇を大目標に掲げている事は、昔からよく知られている。9度目の騎乗となる今年、一緒に海を越えた男がいる。
松島正昭。
株式会社マルシマホールディングスの代表取締役社長であり株式会社キーファーズの代表。1958年2月23日、京都生まれの現在63歳だ。
「競馬は小さい頃から好きでした。ダテテンリュウ、アカネテンリュウ、スピードシンボリの名勝負にしびれました」
また、ロングエース、タイテエム、ランドプリンスの3強対決で沸いた71年にはこんな事があったと言う。
「3強の戦いが好きで好きで、林間学校の最中に見ていたら先生に叱られました」
87年、武豊がデビューをすると、ほとんどの競馬ファンがそうだったように、松島も彗星の如く現れた若きスーパースターに魅了された。
「最初から少し違うと感じました。“別格”というのかな。凄い騎手が現れたと思いました」
当時のJRA新人騎手最多勝記録を更新すると2年目にはスーパークリークを駆って早くもG?初制覇。3年目で全国リーディングを獲るとその後も数々の神業的な騎乗を披露。アッと言う間に日本の競馬界にはなくてはならない存在となった。
当然、松島の心の中での天才ジョッキーに対する想いも歳月を経るごとに強くなった。
「ついに我慢出来なくなり、伝手を頼って紹介してもらいました」
念願の初顔を合わせ。憧れのスターの第一印象を次のように語る。
「あれだけの凄い人なのに礼儀正しくて全く偉ぶらない。良い意味で普通だったし、ますますファンになりました」 こうしてプライベートでの付き合いが始まった。互いに意気投合し、数年経った頃の事だった。親愛の念も込め「武ちゃん」と呼びつつ次のように述懐する。
「馬券も好きだったので『いくら負けた〜』などという話をしていたら武ちゃんから『馬を買っては?』と薦められました」
考えた事もなかったが、調べると馬主免許を取得するための条件はクリアしていると分かった。
「武ちゃんが『凱旋門賞を勝ちたい』という夢を抱いているのは知っていました。自分に馬を持てる資格があるなら、それをサポートしたいと考えるのは自然の流れでした」
そこで正式に馬主免許を取得。2013年のセレクトセールでダイワメジャー産駒の牡馬を競り落とした。
「当時1歳で、4000万円以上でした。初めてだったし、びびりました」
ミコラソンと名付けられたこの馬は翌年のデビュー戦で武豊を背に4着。その翌日のセレクトセールで今度は1億5000万円以上の額で手に入れたのがラルクだった。 ディープインパクト産駒のこの馬は後に3勝を挙げる。しかし、妹のラッキーライラックがG?馬として活躍する頃にもまだ条件戦を脱せないでいた。
「高い馬でも走るとは限らない。競馬の難しさを改めて知りました」
しかし“難しい事”がイコール“つまらない事”ではなかった。18年には難しいからこそ面白いと思える出来事に遭遇した。
15年に1億7千万円以上をかけて購入した父ディープインパクト×母サラフィナの牡馬。
ジェニアルと名付けたこの馬は日本では2勝しただけだったが、勇躍フランスへ飛ぶとG?のメシドール賞を優勝。松島自身の初重賞制覇をなんと海の向こう、それも凱旋門賞が開催されるフランスで成し遂げてみせたのだ。
「ビックリしました。海外競馬に挑戦するのも初めてで、いきなり重賞を勝っちゃった。勿論嬉しかったけど、何よりもユタカタケで勝てたのが嬉しかったです」 快挙ではあったがそのレース自体はマイル戦でもあり凱旋門賞に繋がる道ではなかった。日本で走らせている他の馬達の視野にも10月のパリロンシャン競馬場はなかなか見えて来なかった。
「そこで、これはヨーロッパの馬を買った方が現実的だと考えました」
こうしてまず手に入れたのがアマレナだった。19年、彼女はフランスで最も人気があるレース・ディアヌ賞(G?)に出走した。3歳牝馬のみのいわばオークスにあたるこのレースを観戦するため、松島もフランス入り。
決戦の地となるシャンティイ競馬場へ行くと、それまでの“競馬観”がひっくり返るほどの衝撃を受けた。
「スタンドに入ると壁に出走馬の勝負服がズラリと飾られていて、私のもありました。それだけでも感動したのに、出走馬主の部屋が用意されていて、そこからテラスに出ると隣にゴドルフィンの関係者やシャネルのオーナーらがいて、またまた感動しました。執事の馬主に対する敬意も素晴らしかったし、競馬そのものの重みの違いを感じました」 武豊が凱旋門賞に拘る理由の一つが見えた気がすると、ますます応援したくなった。
そこで今度はクールモアとパイプを作った。ご存知、アイルランドをベースにしてフランスも含めた世界中で活躍しているオーナーブリーダーである。
このクールモアから19年にはイギリスのダービーで4着したブルームを、翌20年には前年のインターナショナルS(G?)の勝ち馬ジャパンを購入。いずれも武豊を乗せて凱旋門賞に挑戦するためだったが、不幸な事にブルームは直前に体調不良で回避、ジャパンは厩舎の飼料に禁止薬物が混入していた可能性があるという事でレース前日に急きょ出走を取り消し。今年は3度目の正直での大一番を迎える事になる。
「今年は強い馬が沢山いるみたいですね。武豊騎手が凱旋門賞を勝つという夢が“かなう”のは簡単ではないでしょうけど、まずは騎乗しない事には夢見る事すら出来ませんからね。3年越しでやっと夢を見てもらえるかな?というところまで来たのは私にとっても嬉しいです」 そんな松島が一口馬主クラブのインゼルサラブレッドクラブを立ち上げた。武豊をサポートし続けて来た事で、同じような意思を持つファンの多さに気付き、2年かけて一から立ち上げたのだ。
「市民スポーツのように競馬を皆で楽しみたいと思って作りました。娘の悠依(クラブ法人インゼルサラブレッドクラブ代表取締役)は、卒論の題材にするほど競馬が好きで、色々な案を出してくれました。武ちゃんが元気なうちにやりたいと思ったし、海外遠征も視野に入れています。また、競走馬として引退した後もホースセラピーの馬になるとか、乗馬用に転身させるとか、そこまで考えています。せっかくの愛馬が引退後はどうなってしまうのか分からないというのでは悲しいですからね」
勿論、実際には全てが武豊騎乗というわけにはいかないだろう。しかし、少し毛色の違うクラブになりそうなのは火を見るよりも明らかだ。
「社台さんやノーザンファームさん、それにクールモアグループも協力してくれました。世界を舞台に、皆で良い血統の馬達を応援出来るようなクラブにしたいです」
https://news.yahoo.c...su/20211001-00260053 な?以上を見ても分かる通り松島は常軌を逸しているんだよ
一人の騎手のためにここまでやる馬主は過去にも皆無
そして今回、彼のチームの馬で武豊は再起不能レベルの怪我を負った
それなのにまたその馬の依頼をして乗る予定だと言われてるね
普通はあり得ない事だよ
武の師匠であった浅見国一が生きていたら松島は競馬界から抹殺されていたよ >>121
時代が悪かったな
今全盛期が来てればいくらでもチャンスがあったのの >>169
それでもいい、武豊は悲しいほどに孤独だからな
俺が面倒見ないとお前らはレスすらできてない 無理して復帰せずにゆっくりしろや
競馬会はホープフルだけ取らせてやれ ドウデュースは中山向きだと思ってるが
武豊が中山の乗り方を分かってないからなあ
皐月賞みたいな競馬をする馬じゃないよ >>174
それでいいんじゃねーの
天皇賞でもJCでも少し出して位置取ったらかかったとか言われていたから
ケツで走って最後伸びたら儲けものて
それでドウデュースヲタも納得するやろ 良いタイミングでドウデュースから離れたよな
秋2戦で乗り替わってドウデュースが弱いってわかったところで武に戻ってボロ負けしても
その程度の馬だったで終わるし万一復活したら武すげーてなる >>177
それよ
完成したイクイノックスとの直接対決から逃げまくり
有馬で惨敗しても豊さんの体調が万全なら勝っていたとか戸崎が馬に掛かり癖をつけたせいで負けたとか
信者がアクロバティック言い訳でいくらでも擁護してくれるしな 武豊アンチがドウデュースで武豊を叩けなくてイライラしてるのはわかった
まぁドウデュースは武豊じゃなければと言ってドウデュース持ち上げてたのは武豊アンチだったんだから当然か 武が乗るとドウデュースみたいなのでも過剰な人気になるから
そこだけはちょっと・・・ >>177
同じ事思ったわw
さすがにワザと怪我したわけではないけどタイミングよく戸崎に変わったよな
その割に戸崎も頑張ってたと思うけどね >>108
歳が歳だからね。
五十路を過ぎると、一気に身体中がガタガタになって来るし治りも遅くなるもんだ。 ドウデュースなんて今日の中日新聞杯でても勝てなかっただろ?
有馬なんて絶対向いてない。
玉砕覚悟の大逃げでもしないと無理 この日の復帰初日は、8月にコンビを組んでエルムSを制したセキフウ(牡4歳、栗東・武幸)に騎乗して栗東CWを半周。調教後は報道陣の取材に「長かったね。まだ違和感はあるけど、乗っていこうかなと。膝が腫れて硬くなって曲がらなかったから。まずは今日乗れて良かったです」と説明。今後については「来週の追い切りに乗ってみて決めようかなと。来週復帰できれば乗りたいんだけど、万全じゃなければ乗らない方が良いのでね」と話していた。
武豊にとって昨年のダービー馬ドウデュース(牡4歳、栗東・友道)は思い入れの強い馬。デビュー戦から手綱を取り、2021年の朝日杯FSでのG1初制覇から昨年の日本ダービー制覇など、ともに歩んできたが、3月のドバイターフ出走取消から再起を期した10月29日の天皇賞・秋レース直前に騎乗馬に蹴られて負傷。筋挫傷の診断を受け、戦列を離れていた。ドウデュースは天皇賞・秋、ジャパンCと戸崎圭太騎手(43)=美浦・田島=に乗り代わると天皇賞・秋が7着でジャパンCが4着。来週末はともかく、2週後にある24日の有馬記念にはコンビ再結成したい考えのようだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5d644f02e0eb6c9367326aca933a4f670a407453 武さんもキタサン産駒のイクイノに乗ってたら輝かしい引退飾れたろうにな 武はんはやめへんで!
でもイクイノックスのせいでディープビジネスも出来なくなってきたな
日本史上最強馬に主戦騎手だぞ!!
て言っても
あの潰えた血統の馬か?
で終わってしまう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています