白川静『漢字百話』(中公新書)にこんなことがかいてある。

文字はことばとしてよまれる。友人・friend・ともだちはみなことばである。
友人の活字の横半分が欠けていても、また friend の r が送別会などの案内状に抜けて「fiend-鬼」となっていても、
たいていの人は気にもせずに友人の意味によんでしまう。ことばとしてとらえるからである。
しかし「ともち」「とだち」を気にせずにともだちとよむことはできない。カナ書きには単語性がないからである。
漢字は語を形体で、印欧語は語を形態で示すが、カナ書きの語は形態ではない。単語的固定性をもたないのである。
漢字を加えないかぎり、国語は『源氏物語』の古写本のような表記になるほかない。カナは本来、漢字訓読の補助的なものであったからである。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく