>>162
米の問題も興味深いですが、話題は鮮度が大事なので考察してみます
10レス以内に解決するといいなぁ
まず、この話題をする前に「領土」と「植民地」といねうのが当時の日本においてどのような位置づけであったのかを確認する必要があります

> また以下の資料からは植民地という用語への感情的反発があったことがうかがえる。1905年の帝国議会において下記のようなことがあった。

衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、
台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。
..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。
議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。
(小熊英二、『<日本人>の境界』新曜社 第5章 p142~p143 ISBN 4-7885-0648-3、1998年刊)

我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ。
但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。
我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、 「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は 大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。
併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。
(矢内原忠雄『植民及植民政策』 有斐閣 1926年刊)