【在寅】李氏朝鮮VS琉球王国14【デニー】
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李氏朝鮮 1392年−1910年
琉球王国 1429年−1879年
李氏朝鮮と琉球王国、それぞれ、ほぼ同じ時代にあった国だが
どちらが、当時は先進的な国だったのだろうか?
まぁ、どっちも当時中国大陸にあった国の属国なのだけど
その中でも、よりどちらが、発展していたのだろうか?・・
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1538382458/ 連番を復活させてみたが数字は適当だ
ケンチャナヨー https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/event/434
折角のPDFのURLも、日本語混じりの最近のURLは張り付けても直リンできなくなるから、
サイトの方を張るべきと思うよ。
でもまあ沖縄県内でそんな地味そうなの、県民の観覧者はいたのかな?
内地の観光客はまだ来てないでしょ。 全国遺跡報告総覧ほんとに便利で作っている人に頭が下がる 奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島世界自然遺産推薦地
http://kyushu.env.go.jp/okinawa/amami-okinawa/
これ、以前推薦に失敗したときは「奄美・琉球世界自然遺産」というヘンテコな名前だった。
過去の資料をたどると2003年の「世界自然遺産候補地に関する検討会」が最初らしい。
http://www.env.go.jp/nature/isan/kento/
このときの最後の報道資料では「琉球諸島」と呼んでいる。 >>7は実は以前の話題の蒸し返しなんだが覚えている人いるかな
https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj/82/4/82_4_300/_pdf/-char/ja
筆者が鹿児島県職員として奄美諸島の世界自然遺産登
録作業を担当していた当時(2005年),奄美大島の一首
長から世界自然遺産候補地の「琉球諸島」の名称に対す
る意見を受けた.第二次世界大戦終結時に奄美諸島と
吐喇喇列島の武装解除のために,「北部琉球」の兵器の受
領命令を受け徳之島に来た米軍司令官に対し,日本側の
司令官は,奄美諸島は「北部琉球」ではないとして「奄
美群島並びにトカラ列島」と命令を修正させてそれに応
じた(高田1956).その経緯も踏まえ,「琉球諸島」に奄
美群島を含めることは適当でないとの主張であった. ああ、大島がいつから奄美大島と呼ばれたかって話の流れのときね 世界自然遺産候補の名前が一時期「奄美・琉球」なった経緯をまた洗ってみようかと思う。
いろんな会議の議事録が公開されているけど
「奄美大島の一首長」の与太話に関係しそうな文言は見つからない。
だいたい会議に出てくる有識者が自然科学系ばかりで政治史にうとい。 自然科学系の「琉球」の用法に違和感があったんだよね
彼らは大隅諸島まで含めて平気で琉球と呼んだりするんだけど
屋久島の縄文杉の一体どこが琉球なんだよという
世界自然遺産の推薦書の現行バージョンでも
大隅諸島から八重山列島までを「琉球列島」と呼んでいる
ただし英語の原文はRyukyu IslandsではなくRyukyu Chainだ
Ryukyu Chainは南西諸島と違って大東諸島を含まないよと説明している
http://kyushu.env.go.jp/okinawa/amami-okinawa/world-natural-heritage/plan/pdf/a-1-j.pdf
https://www.env.go.jp/en/nature/wh/amami/pdf/doc_3.pdf 沖縄の人名に関する文献をいろいろあたっても
答えてくれない疑問がいくつもある。
諱を音読みすることになったのはなぜ?
羽地朝秀は子孫があとからつけた名前で
当時の名前は「重家」だったというけど
「しげいえ」って読みたくなるよね。
藤原定家じゃないんだから。
それと、向氏の名乗頭の「朝」は
源為朝から取ったというのは本当なの? 琉球語の分岐は奈良時代以前というのはほぼ通説なんか?
奈良時代以後という説もあるけど >>16
『琉球諸語と古代日本語 日琉祖語の再建にむけて』を読め 東アジアは中国以外言語の記録少なすぎてつまらんよな https://books.j-cast.com/2020/07/15012264.html
鉄砲伝来は種子島より「琉球」が早かった! ?デイリーBOOKウォッチ2020/7/15
本書『琉球王国の象徴 首里城』 (新泉社、シリーズ「遺跡を学ぶ」145)はその首里城についてわかりやすく解説したもの。
意外な歴史的事実なども明かされ、興味深い。
中国の築城技術を学ぶ
多くの読者にとって初耳のような話を二つ、本書から披露しよう。
一つは石垣の話。日本の城と言えば重厚な石垣が思い浮かぶ。登場するのは16世紀後半からだという。ところが沖縄の城(グスク)の石垣は
もっと古い。14世紀前半から中葉にできていたという。日本の石垣に先んじること約2世紀も前だ。
これは大陸の影響だという。当時の沖縄(琉球)は、大交易時代を謳歌し、諸外国との交易が活発だった。とりわけ中国との交易が盛んで、
先進的な築城技術を受け入れていた。首里城の石垣には、近くでとれる琉球石灰岩が用いられていた。
もう一つは鉄砲伝来。日本史では1543年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に伝えたことになっている。ところが、15世紀築造のグスクから、
鉄砲を発射するための「狭間」(城壁にあけた鉄砲などを射つための穴)や弾丸が見つかっているのだという。15世紀前半には琉球で火器兵器が
使われていたことは間違いないようだ。首里城の城壁南側にも「狭間」がうがたれていた。 琉球諸語を奈良時代の畿内の言葉の子孫とはみなすと
説明のつかない性質があるという意味で
琉球語の分岐は奈良時代以前というのはその通りだけど
それは上代東国方言だって同じ。
上代の九州の言語状況が知りたいところだが
資料がなくてわからない。 上代どころか中世の九州方言すらちゃんとした記録ないんやろ?悲しすぎ おもろ語に上代東国方言風の単語があるときいたんだけど沖縄に東国人でもいたの? ハン板におあつらえ向きのネタだと思ったのなら出し惜しみしなければいいのに 石なぐの歌って琉球の国歌らしいけど一般人には歌の難易度高そう 2003年の「世界自然遺産候補地に関する検討会」の議事録を眺めてみた。
http://www.env.go.jp/nature/isan/kento/
候補地選定に議論なので南西諸島への言及はそんなに多くない。
4回のうち3回目から本番という雰囲気だが、まずは最初の2回を見ておく。
2003年3月の第1回検討会の参考資料に
1997年公表の環境省の「生物多様性保全のための国土区分(試案)」が入っている。
http://www.env.go.jp/nature/isan/kento/030303/ref_03_2.pdf
この役人側が用意した資料に「奄美・琉球諸島区域」が出て来る。
「奄美・琉球諸島区域」と言いながらトカラがまるごと入っている。 2003年5月の第2回検討会では
世界遺産選定に影響力のある区分としてUdvardyの地理区分が取り上げられている。
http://www.env.go.jp/nature/isan/kento/030325/mat12-2.pdf
日本列島がまるごとPalaearctic (East)という区分に収まっていて
Indomalayanに所属する台湾との間に境界が引かれている。
委員はこの区分に納得していない。
http://www.env.go.jp/nature/isan/kento/030325/mat13.pdf
「統合した地域の生物地理区分別一覧」の
「2.41.13 琉球諸島」というのはUdvardyから採ったものらしい。
具体的な地域名として「奄美群島、南大東島、沖縄諸島、八重山諸島(先島諸島)」を挙げているが
これもUdvardyに由来するのかはわからなかった。 徳之島にある日本最大の鍾乳洞から縄文土器がみつかったの面白いな 琉球語は南西諸島に拡散する前は本土に分布していたんだろうけど本土のどこが故地なんやろ? 玉城知事がいつものリベラル仕草やめて正論吐かなくちゃいけないほどのコロナ危機みたいですが
なんとか収まってほしいねえ 「ゴーレス」問題について既発表論文から差分はあるのかな。
中島楽章著『大航海時代の海域アジアと琉球ーレキオスを求めて』
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784219896/
大航海時代、海域アジアへ進出したヨーロッパの航海者や
現地で勤務した商務官などがもたらす情報により、
この地域に対するヨーロッパの地理情報は飛躍的に発達した。
一方この時期の東南アジアは「交易の時代」を迎え、
中継貿易で栄えた琉球王国も盛んに活動していた。
こうしたなかでヨーロッパ人たちが探し求めた伝説的なレキオス(琉球)も
現実の地理認識のなかに組み込まれていく。
本書ではこれまで十分に活用されてこなかった
ヨーロッパの文献、地図などを縦横に用いることで、
海域アジアの全体状況、ヨーロッパにおける地理認識の変化、
さらに漢籍等の公式的な史資料からではとらえきれない
古琉球期の琉球王国の活動を多角的に解明する。 マラッカのレキオスだかゴーレスは置いといて
沖縄にポルトガル人が来訪した記録ってあるんでしたっけ? 江戸時代に入ってからなら、スペイン系のドミニコ会が八重山に来て
本宮良永将が改宗した疑いで処刑されている。
薩摩が攻めて来る直前に来た冊封使の夏子陽は、帰国後の報告で
日本人が千人近く刀を抜き身にして交易していたと言っているけど、
これに対応する記録は琉球にはないんじゃない?
役人の出世に関わりのない話は記録に残らない。 オランダ人が琉球をどう認識していたのか前から気になっている。
誰か調べてないの? 上里先生様も以前こういうのが
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/11/post_f0cf.html
オランダの旗を掲げていた琉球船
対外世界と活発に貿易をしていた琉球王国は、当然のことながらたくさんの船を所有していました。琉球の船は中国でつくられたものと
同じ形の「ジャンク船」と呼ばれる船でした。この琉球船にはオランダの旗が掲げられていたことはご存じでしょうか。琉球船を描いた絵図には
オランダの旗と見られる三色旗が描かれたものがあります。なぜ琉球船はオランダの旗をかかげていたのでしょうか。
その理由は琉球が1609年島津氏に征服され、日本の幕藩制国家の傘下に入ったことにあります。江戸時代、オランダは長崎の出島に
商館を置き、西洋諸国のなかで日本との貿易を唯一許された国でした。貿易とはいいますが、この時期のオランダは自分たちの貿易以外に、
敵対する船を襲って積荷を強奪することが重要な任務でした。つまり味方以外の船に海賊行為を行うことも仕事だったのです。オランダは
イギリスと手を組んでスペイン・ポルトガル、中国船を襲って次々に積荷を奪いました。例えば日本から東南アジアに向かうあるオランダ船の
積荷は90パーセントが海賊行為で奪った品だったといいます。 海賊にひとしいオランダ船が行きかう中で、琉球船も同じ海域を航海しなくてはなりませんでした。中国船と同じ形の琉球船は彼らに見つかれば
襲われてしまうかもしれません。そこで琉球船はオランダの敵ではないと示すためにオランダの旗とオランダ商館が発行した通航許可証を持って
貿易に出かけたのです。これらは当時琉球を征服していた薩摩藩を仲介して長崎のオランダ商館から手に入れました。
徳川幕府もオランダに琉球船を襲うことを禁止する通達を出していました。江戸城に赴いたオランダ商館長は将軍にお目通りをした後、老中から
通訳を介して「琉球は日本に従う国なので襲ってはならない」という通達を読み聞かされました。このお達しは実際に効果を発揮したようで、
琉球船がオランダ船に襲われた記録は全くありません。海上で琉球船とオランダ船が遭遇した場合、オランダ船はオランダの旗をかかげられている船を
見て「これは琉球船だな」と確認して素通りしたのでしょう。琉球船のオランダの旗は一種の通航許可証として使われていたわけです。
参考文献:真栄平房昭「17世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球」(『経済史研究』4号) これか。興味深いが編集史料ばかり使っていて手抜きだな。
https://www.osaka-ue.ac.jp/research/nikkeisi/lab/contents/04.html
一六三六年九月の『平戸オランダ商館の日記』に、次のような史料がみえる。
(略)昨年、彼等(薩摩の奉行)がそのために通航許可書と旗を求めた
ジャンク船は、千ピコルの生糸を持って無事にシナから琉球に到着した。
「近日中に使者を平戸に送るつもりである」という薩摩奉行の意向を裏付けるように、
琉球使節二名が上方へ赴く途中で平戸オランダ商館を訪れ、クーケバッケル商館長と
面談している(『商館日記』一六三七年四月四日条)。
【幕府法令は】オランダ船の琉球船に対する海賊行為(ばはん)を禁じた
オランダ商館長は江戸参府の際、将軍への拝礼をすませ、
江戸出立前には暇乞いに再び登城して、老中列座のもとで阿蘭陀通詞を介して
「御法令」を読み聞かされる慣わしがあった。『通航一覧』によると、
この法令「御条目」の訓示は万治二年(一六五九)に始まり、それ以降も慣例化した。
その交付文書の第五条に、「琉球之儀は日本御手下之儀二候付、琉球船奪取申間敷候事」
と明記されている。また、長崎商館長メイラン(Germain Felix Meijlan)によれば、
長崎奉行との謁見でも同様の訓令書が日本語とオランダ語で朗読される慣例があった。
そこでもやはり同様に、「琉球人は日本臣民なるをもって、その船を奪うべからず」
という規定があった事実が確認できる。 ハン板っぽい、ファビョりそうなネタもあるw
注目すべき点は、この法の背後に幕府の琉球に対する保護意識が存在したことである。
幕府法の論理では、琉球国が日本に従属していることを前提として、
琉球船に危害を加える行為を禁止するというレトリックになっていた。
言い換えれば、そこに幕藩制国家の琉球支配における二面性、
〈従属〉と〈保護〉という関係があらわれている。
それは対中国船や朝鮮船にも共通する一面があったことが、
次に示す『長崎オランダ商館日記』一六八九年四月八日条などからも知られる。
日本において貿易を行なう中国のジャンクを海上で掠奪したり、
損害を与えたりしないこと。これはコレア(朝鮮)のジャンクおよび
琉球についても同様であって、これはかれらが日本の臣下だからである。 役人の出世に関わりのある記録に残った話ってのもこの程度か
球陽5巻尚豊19年
[本文0297]【十九年、南蛮の人、八重山に飄到し、一幼女を掠め取り、開船して回り去る。】 琉球人の江戸入り
495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 12:04:18.66 ID:BhHb4Hi4
慶長十五年八月二十五日、琉球人が江戸に到着した。その中に歳十七、八の小姓、十四、五の小姓二名があった。
彼らはシャミセンを引き、十七、八の小姓は、名字をヲモイシラ、十四、五の小姓はヲモイトクと云った。
小唄を皆々謡い、江戸に在る衆はかの小姓を呼んで、シャミセンを引かせたという。
彼らの言語は日本人と同じ、但し少しずつは違うという。髪は頭の右にからわに結ぶばかりであった。
江戸までの上下の路次では、宿入りの時にいつも、笙、横笛、鐘太鼓、ひちりきにて管弦の如く演奏して
宿に入ると云い、これを道行と言うそうである。琉球王はこの座中にも出ず、奥に有って隠れる体であった。
琉球でも日本の真似をして、詩和漢連歌、また猿楽の能なども有る。宗教は禅、浄土など聖道宗(聖道仏教)が
有る。
『当代記』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12647.html この尚寧の将軍秀忠への拝謁で、随員全部の名簿なんてあるんですか? >>7の世界自然遺産候補地「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」の名称の件。
2003年に候補地検討会の時点では「琉球諸島」だったのが
その後「奄美・琉球」に変更されたのは
鹿児島県の要望によるものらしいので、鹿児島県議会の議事録をあたってみた。
やっぱり観光ブランド戦略が奄美を名前に入れる一番の理由じゃないか。
少なくとも>>8のように明示的に復帰運動に言及する発言は見当たらない。 https://twitter.com/OKina001/status/1308367255114137602
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@OKina001
この〇〇らしさ、は、今の沖縄に住んでると強く思う。
日焼けしていて明るくて人懐っこく、「だーるわけよ」「〇〇さー」が会話のどこかに入る、とかね。
「ちゅらさん」以後は特にひどい。あれは地元のお笑い芸人の人が適当に作り上げた、舞台用に誇張された
若者言葉だったのにねえ。
舞台用に作られた若者言葉というのは面倒な話で、沖縄において「方言」というのは本島においても
北部中部南部と別れ、さらに集落ごとに細かい差異が存在する。那覇で言えば港の側と首里王家の周辺では言葉遣いも違う。
で、戦前の立派な日本人になるために方言を辞めましょうという運動があり(続く)
戦後、どうしても抜けない方言のイントネーションで喋る標準語が「おかしい」として本土の人笑われる、
という体験が観光業が盛んになると増えてきた(続く)
70年代末、今度は高良茂という地元ラジオのパーソナリティが「それの何が悪い」とし沖縄にいるならむしろ方言を喋れ、
「ナイチャー撲滅運動」とか面倒くさいことをはじめる。
実はここで「訛り」と「方言」をわざとすり替えるという自体が起きたが、誰も指摘しないまま、彼は亡くなって、伝説に(続
十数年後、その流れで沖縄だけで活動する若手お笑い演劇ができあがり、本物の方言や地方によるニュアンスの違いを正確に
表現するのではなく「なんとなくこういう感じで使われているであろうディフォルメした訛り」を「沖縄方言」として使った。
ここでも「訛り」であると表だって指摘する人は出ず(続
NHKが何を勘違いしたのか「ちゅらさん」を作る時にちゃんとした方言指導を呼ぶのではなく、そういう人たちの
「新しい感性」とやらに期待して彼らのうちの一人を呼び出し、方言監修に据え、色々あって番組はヒット。
この時の「方言と呼ばれる珍妙な訛り」が全国に広がり、沖縄でも放送される(続く)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ヒットすることは=繰り返し見ることになる、わけで、当初堺正章の方言を「は?」としていた世代も「慣れ」と
物語に引き込まれて気にしなくなる→その下の世代は「こんな感じ」という漠然としたイメージになる(続く)
→本土でも同じイメージが共有され、それをベースに県民像が造られる→メディアを通じて沖縄に逆輸入……がくり返され、
いつの間にか「人工的に作り出されたただの訛り」が「沖縄方言」となってしまうというおかしな自体に。
……でこういうことが行われた前例が今から数十年前にもあって、それが大阪
テレビの「てなもんや三度笠」あたりからが最大の契機だと思いますが、明らかにそれ以前と以後の大阪人と今の大阪の人たちのイメージは変わってる。
同じことが数十年経って起きた。
今の沖縄県民が思う「県民らしさ」はある意味自家中毒だったりする、と私は思ってます、ハイ。
はっきり憶えていますが、それ以前の沖縄県民というのは目立つことが嫌いで、無口で、恥ずかしがり屋で、コンサートやインタビュアー泣かせでした。
某番組で街中にマイクを立てて言いたいことを言って貰う、という企画で、日本で唯一、丸一日マイクを大通り(国際通り)のど真ん中においても回答ゼロ
そのくせ体育会ノリで、軍隊調子が実は大好きで、調子に乗ると停まらず、加減が判らず、あちこちに迷惑をかけて、
我に返って反省する、という人たちでした(まあここは今も変わらないですが)。
で、この「人造沖縄県民らしさ」の何が嫌だって、それが完全に「雑な感性の人しか得をしない文化」だからです。
何かにつけて「ナンクルナイサー(どうにかなるさ)」「イチャリバチョーデー(一度会えば兄弟)」と唱える人が増える、
ってことはシリアスな判断から逃げ回って、他人の善意につけ込んでいくことを肯定してるわけで。実際にはどうにもならない&
一度会うぐらいじゃなにもわからないわけですから。ハイ これまでの人生、地元の仕事も何度か受けましたが、大抵それを口癖のようにする人たちが、丁寧な仕事をぶち壊したり、
横からかっさらったりしていくのを、何度も見ました。本土から来た人の場合もあれば、県民の中にいた場合もあります。
上手く言った事例において、それを口にした人は一人もいません。
で「あそびにいくヨ!」がアニメ化されたとき、主人公たちに沖縄訛りは不要です、と強く強調し、それを受け入れて貰いました。
アニメの絵からあのイントネーションが出てきたら絶対にお話が全部崩壊するし、それは那覇の高校生の「リアリティ」ではないと思ったからです。
「沖縄らしさ」とされているあの訛りで地元から出ていかないお笑いの人が「受けてる」というのは昔「ブッシュマン」のニカウさんを
日本に呼んで「チッドレ!」というだけで爆笑していたのと変わらない。
以前、勘違いした芸人さんがそれを丸出しにすることが武器だと思い、本土に行きましたがあっという間に戻ってきたのはそういうこと。
だから今でも地元お笑いの人を見て笑ったことはありません。イントネーションと変顔と変な声だけで、彼らから訛りと方言の単語を抜いたら何も残らない。
生まれてこの方、沖縄に暮らして生きていますしそれなりの郷土愛ってものもありますが、この「雑さ」が死ぬほど今でも嫌いです。
多分、この「雑さ」とは永遠に相容れないと思うし、そこを何処まで小さく出来るか、というのが作家として、ではなく、私個人としてのテーマだったりします。多分。 長すぎるけど、まあ電通観光史観とかそういう話のたぐい? 久米島が宮古と本島の中間血統ってわけじゃなくて
宮古は本島も飛び越して移住なのか
それともはじめから別物なのか 英雄たちの選択 琉球SP第1弾▽独立を守れ!島津侵攻 尚寧王の決断
2020年10月29日(木) 午後5:00〜午後6:00(60分)
江戸時代初め、独立国だった琉球王国に薩摩の島津氏が侵攻、勢力下におく事件が起きた。
なぜ島津氏は琉球に侵攻したのか。当時の琉球王、尚寧王の立場から読み解いてゆく。
琉球スペシャル 第2弾 「辺境の声を聞け!探検家・笹森儀助の挑戦」
2020年11月5日(木) 午後5:00〜午後6:00(60分)
明治12年琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。しかし、人々は、重い税と風土病に苦しんでいた。
探検家・笹森儀助は、沖縄の島々をめぐり、その窮状を世に訴えた。 廃琉置県前の1877年に撮影された首里城正殿の写真を神奈川大学の後田多敦准教授が確認した。
正殿の写真としては現在確認できる最も古いものという。当時、国王・尚泰が居住しており王城
として機能していた姿をとらえている。14日の琉球民族独立総合研究学会で報告した。さらに写真の
正殿大龍柱が正面を向いていることに注目し、1992年の復元で採用され、現在の復元の基本方針にも
引き継がれた「大龍柱は相対向きだったとする説の前提が成立しないことが明らかになった」と指摘する。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b6204db49d5155baf2399ce43359e0a48d7cdfaf
https://oki.ismcdn.jp/mwimgs/8/0/-/img_80739a17278826ed8761d5ebfa11eb9851132.jpg 龍谷の松嶋も石垣島だっけか
基地のない八重山で反日琉球民族主義者が出るのはなぜなのか
それと、この独立運動派は高良一派とは仲悪い? 国電ゲリラ事件35周年ということで
この琉球新報のくだりは、当時からそうなのかと少しばかり笑った
https://gamp-ameblo-jp.cdn.ampproject.org/v/s/gamp.ameblo.jp/kaikohsan/entry-12598901756.html?amp_js_v=a6&amp_gsa=1&usqp=mq331AQHKAFQArABIA%3D%3D#aoh=16067343178700&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s
この時に私は学校警備員をしていた。一応、現業公務員。今は、学校警備は、機械警備にとって
代わられたが当時は、現業公務員が各学校に隔日夜勤で勤務していた。
これは、後から知ったのだが、その時に勤務していた学校の教師に先のゲリラ事件の主犯格の者が居た。
一見大人しそうな男性だったが、当時、切れ者とされた教頭が、彼に対しては、妙にピリピリしていた。
私は、彼が労組活動家なので警戒しているのだろう程度に考えていた。宿直明けに郵便受に郵便物を
取りに行き各先生の職員室の机上に置いておいたのだが、この先生は「琉球新報」をとっていた。
ある日、普段は温厚な教頭さんが、私に彼が個人的に購読している新聞など放っておけば良いといい、
彼の「琉球新報」をゴミ箱に放り込んだ時があった。教頭さんは、上から彼には警戒するように
言われていたのだろう。「琉球新報」といい、今なら理解出来る。 松浦章 「薩摩阿久根・河南家の琉球海運」
file:///C:/Users/user/Downloads/311_3-1_MATSUURA%20(1).pdf リンクはこっちの方がよかったか
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2350&file_id=19&file_no=1
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2350&item_no=1&page_id=13&block_id=21 上里氏が推してたようだから一応
https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/special/next.html
「海の帝国琉球−八重山・宮古・奄美からみた中世−」(企画展示室)
開催概要
開催期間 2021年3月16日(火)〜5月9日(日)
※展示替えあり
前期展示:3月16日(火)〜4月11日(日)
後期展示:4月13日(火)〜5月9日(日)
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室A
コロンブスやマゼランが開いた世界史上の大航海時代より以前、早くも14世紀代から東アジア海域世界では
活発な交易がおこなわれていました。その中心となったのが海洋国家・琉球です。琉球王国の輝ける時代は、
これまでもしばしば紹介されてきました。ただ、琉球はその活動の過程で、言語も習俗も異なる周辺の島々、
八重山・宮古・奄美に侵攻し、それぞれの社会を大きく変化させたこと、このことで現在の日本国の国境が
定まっていることは、あまり知られていません。
文献資料がほとんど残っていないこれらの地域の歴史は、琉球王国によって作られた歴史書をもとに
語られてきました。しかし島々を歩くと、ジャングルの中には当時の村が遺跡として眠っており、そこからは
大量の陶磁器が発見されます。琉球王国とは別の世界が、そこには確かにあったのです。
これまでほとんど注目されてこなかった琉球の帝国的側面に視点を据え、八重山・宮古や奄美といった
周辺地域から琉球を捉え直します。国立歴史民俗博物館では、2015年からこうした共同研究を実施してきました。
この展示は、その成果を公開するものです。たくさんの青磁や白磁、国宝の文書や重要文化財の梵鐘、屏風や
絵図など400点を超える資料から、新たな歴史像を示します。 展示プロジェクト委員】
■展示代表:
村木 二郎(国立歴史民俗博物館 考古研究系 准教授)
■展示チームメンバー
新垣 力 (沖縄県教育庁文化財課)
池田 榮史 (琉球大学国際地域創造学部)
池谷 初恵 (伊豆の国市教育委員会)
岩元 康成 (姶良市教育委員会)
小野 正敏 (国立歴史民俗博物館・名誉教授)
久貝 弥嗣 (宮古島市教育委員会)
黒嶋 敏 (東京大学史料編纂所)
小出 麻友美(千葉県立中央博物館)
佐々木 健策(小田原市文化財課)
鈴木 康之 (県立広島大学地域創生学部)
関 周一 (宮崎大学教育学部)
中島 圭一 (慶應義塾大学文学部)
山本 正昭 (沖縄県立博物館・美術館)
渡辺 美季 (東京大学大学院総合文化研究科)
荒木 和憲 (国立歴史民俗博物館)
齋藤 努 (国立歴史民俗博物館)
田中 大喜 (国立歴史民俗博物館)
松田 睦彦 (国立歴史民俗博物館) 土地の無償提供は「違憲」 那覇市が全面敗訴 久米至聖廟巡り最高裁
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/712362
この訴訟の原告って、例の龍柱の撤去も市に請求してんのね。
ところで以前どっかで見た気がするんだけど、首里城が再建された平成初めの時期に
ノロのばあさん連中が集まってきて拝み始めたみたいな話。
実際どうなってたのかは知らないが、こういうの国の管理する公園で私的な宗教行為とは
見なされないんだろうか? 法政大学学術機関リポジトリ
近世琉球と朝鮮における士族社会 : 身分制・門中形成を中心として
金正華
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=13417&item_no=1&page_id=13&block_id=83 https://www.asahi.com/articles/ASP3S5H4YP2JULBJ00X.html
朝日新聞デジタル
宮古諸島の人々は3集団で構成 災害と移住の歴史を反映 米山正寛 2021年3月25日
沖縄県宮古諸島の住民の遺伝情報(ゲノム)を大規模に解析したところ、遺伝的に異なる3集団に分けられることがわかった、と
琉球大の研究チームが学術誌に報告した。それぞれの集団の人口変化や形成時期も推定でき、移住の歴史が反映されているという。
琉球大は、沖縄県民の健康増進のため医療情報とともに血液などの試料を集めており、昨年末で約1万8千人分を収集した。
このうち宮古諸島で2016〜17年に得た1240人分について、DNAをつくる塩基のわずかな配列の差(1塩基多型)に着目。
祖父母までさかのぼる出身地の情報と併せて解析した。
担当した松波雅俊助教によると、地域によって遺伝的な差がみられ、「宮古島北東部」「宮古島南西部」「池間島・伊良部島」の
3集団に大別された。宮古島北東部の中に「池間・伊良部」と特徴が共通する人々が住む地区があったが、ここには1873年に
池間島から移住した記録が残されていた。 ゲノム情報をもとに集団ごとの人口変化を推定すると、「池間・伊良部」は10〜15世代(250〜300年)前に
人口が大きく減ったと考えられた。松波さんは、宮古諸島などを大津波が襲った1771年の明和の大地震を挙げ、
「地震と津波による被害と、その後の強制移住が関係しているのではないか」と話した。
3集団はいつごろできたのか。解析の結果、沖縄本島にいたと想定される祖先集団から、まず950〜1710年前に
「池間・伊良部」が分かれ、250〜810年前に「宮古島南西」が、60〜540年前に「宮古島北東」がそれぞれ生じたと考えられた。
遺伝的に異なる集団がこれほど狭い地域で維持されるのは珍しい。琉球王朝時代の17世紀から1903年まで続いた
人頭税で人々の移動が厳しく制限されてきたことが関係する可能性があるという。チームの前田士郎教授は
「県内でもゲノム情報にかなり地域差があるとわかった。患者ごとに最適な治療法を選ぶ個別化医療を進めるためにも、有益な情報だ」と話している。 https://mainichi.jp/articles/20210427/k00/00m/040/251000c
歴博の特集展「海の帝国琉球」 浮かび上がる「帝国性と侵略性」
伊藤和史
毎日新聞 2021/4/28 09:00(最終更新 4/28 09:00) 有料記事 4742文字
「万国の懸け橋」を自任し、東アジアの大交易時代に輝かしい足跡を記した琉球王国を新視点で見直す
「海の帝国琉球―八重山・宮古・奄美からみた中世―」展が、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で
開かれている。海洋国家の爽快なイメージからは意外な「侵略性」「帝国性」にスポットが当てられ、
新しい歴史像として刺激的だ。
沖縄本島を中心に、北は奄美から南は八重山・宮古までを版図とした琉球王国。第二尚氏王朝の
尚真王(在位1477〜1526年)時代が最盛期といわれる。本土では室町幕府が弱体化し、応仁の乱から
戦国時代へと中世も終わりにさしかかった時期に当たる。
治世50年に及び、繁栄のシンボルとして語られる尚真王。しかし、それは王国内中央の勝ち組の描いた歴史像であり、
版図に組み込まれていった周辺の島々からは全く別の姿が見える――これが本展のスタンスだ。 展示チーム代表、村木二郎・同博物館准教授(中世考古学)によれば、八重山や宮古に関する当時の文献資料はなく、
後年、第二尚氏が編さんした史書に基づく歴史像が流布することになった。ところが、それらの史書は
「『野蛮な連中のところに俺たちが文明をもたらしてやった』というトーン」。そこで本展ではまず、文献を離れて考古学の成果に着目する。
八重山、宮古に大量の中国陶器
展示会場で目立つのは陶磁器だ。13〜15世紀、八重山(石垣島、波照間島、与那国島など)、宮古島の集落遺跡からは、
中国製の青磁や白磁の破片が大量に出てくる。数万点に及ぶ遺跡もある。しかも、沖縄本島では出土しないタイプが見られ、
中国と直接交易していたことがわかる。
加えて、それらの集落はサンゴの石を積み上げた石垣で区画された独特な形態で、これも沖縄本島とは異なる。
こうして本島とは別の流通圏・文化圏の中で栄えていた各集落だったが、15世紀をもって突如廃絶し、
廃虚と化してしまう。多くの島々で同様の事件が起きた。
その15、16世紀のまさに境目、尚真王治下の1500年に起きたのが「オヤケアカハチの乱」だ。王国側史書によると、
八重山の「酋長(しゅうちょう)」アカハチは年貢の滞納をとがめられ、大軍を送られて滅ぼされたという。
この記述は発掘が示す集落の断絶ぶりと見事に合致し、八重山社会に大変動が起きたのは間違いない。
だが、それを「王国内の一酋長が反抗したため征伐した」と信用してよいものかどうか。 この展示会、ネット上では琉球新報と沖縄タイムスが完全無視してるのが笑える
沖縄だと触れてるのは八重山毎日くらいなのか
県庁と県立博物館も協力してるようだが、上里先生とかはどうなんかね 山形空港に不時着して修理中のオスプレイ
ホントに平穏な風景だよ
21 名無し三等兵 2021/06/15(火) 21:48:20.50 ID:T/C6H2eE
https://pbs.twimg.com/media/E35--dkVgAAwXaJ?format=jpg
近所の保育園児が引率されて見物とか
平和だな
※自衛隊駐屯地のある町なので変な色眼鏡は少ない土地柄 こういう傲慢な物言いするから沖縄の連中は嫌われるのでは
そして本土の人間が助力してやろうなんて思わなくなるのでは
https://twitter.com/tamakikenichiro/status/1405999889578807299
たまき健一郎
@tamakikenichiro
普天間飛行場をぜひ山形へ。オスプレイだけでなく、様々な軍用機が観れるし、頻繁に外来機の戦闘機も飛来します。
オスプレイだけで混雑する山形空港の新たな観光資源になるのでは。
引用ツイート
山形県
@pref_yamagata
・ 23時間
?山形空港?からのお願い
現在、山形空港は今週14日に着陸したオスプレイを見物するため、多くの人で混雑しています。
空港の定期便利用者がスムーズに入場できるように、また周辺道路が渋滞し、地域住民の生活に悪影響が出ないように、同機の見物はご遠慮ください
RTでの拡散にも協力お願いします
午前6:24 ・ 2021年6月19日・Twitter for iPhone
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) https://twitter.com/shine_sann/status/1406515774265520129
しゃいん
@shine_sann
首里城焼失の最終報告書を読みまし。結局原因全部不明で、誰にも責任ないですね
法律上の義務はクリアしてます〜という話をした後に、再発防止策のとこで管理体制を
根本から変えないとあかんぞという話をしていて、笑顔になりますね。ほんまに責任なかったんか?
午後4:34 ・ 2021年6月20日
これです。
https://pref.okinawa.jp/site/doboku/koen/shuricatsle-wg/relaps_eprevention_report.html
午後4:36 ・ 2021年6月20日
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 高良氏は龍柱の責任取るの?
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/796062
沖縄タイムス首里城、最古の写真を入手 1877年に仏軍が撮影した3枚 再建の重要な手掛かりに2021年7月31日 04:50
沖縄県が設置される2年前の1877年に仏軍が撮影した首里城正殿などの写真を、京都大名誉教授の伊從(いより)勉さん(71)が入手した。
30日に県庁で記者会見を開き、発表した。正殿の写真は確認されている中で最も古い。29日に県立図書館や県公文書館へ提供しており、
誰でも閲覧・使用できるようになる予定だ。
正殿と瑞泉門、崇元寺石門を写した3枚の写真を、高解像度電子データで入手した。
仏海軍巡洋艦ラクロシュトリ号で、77年5月に那覇へ寄港したジュール・ルヴェルテガ海軍中尉が同年5月16日に撮影したという。
乗っていた巡洋艦艦長の子孫で、仏海軍史研究家のエルヴェ・ベルナール氏が保管していた。
首里城再建で正殿の詳細を確認するため、伊從さんは仏政府などを通じベルナール氏と連絡を取っていた。
伊從さんは「龍柱の向きや正殿と北殿の接続部分などの細部を確認できる非常に貴重な資料。再建の重要な手掛かりだ」と話した。
写真を昨年11月に確認した神奈川大学の後田多敦教授は「多くの市民が最古の首里城写真を使用できることに一番の意味がある」と述べた。 なんか沖縄マジやばくなってるけど、例のブログ主他の皆さん、お元気ですかね? https://news.yahoo.co.jp/articles/ba34444ff8831ed756a16f65ea89936bbe6315b0
琉球王国時代の姿を復元 沖縄戦で大破した円覚寺仁王像
琉球王国時代の在りし日の姿が現代によみがえりました。沖縄戦で焼失し、わずかに残った部品や当時の姿を知る人たちの証言をもとに復元された仁王像がお披露目されました。
県立博物館・美術館・田名真之館長「今回の仁王像の復元というのは、そういう意味で、琉球文化、王国文化を考えるときに大変意義がある。何とか当時に近い形でですね、復元できたのではないかという風に思っています」
2mを超える大きさで躍動感のあるたたずまいを見せる「阿形」と「吽形」の2体の像、かつて琉球王国時代に建てられた首里の円覚寺にあった仁王像で15世紀末に製作されたとされるものです。
2体の仁王像は沖縄戦の戦火に巻き込まれて大破してしまい13の部品しか残りませんでした。今回の復元に向けては戦前の姿を知る人から話を聞いたり科学的な調査を重ねるなど6年の歳月がかかりました。
沖縄県立博物館・美術館では明治時代以降の近代化や沖縄戦で失われたモノづくりの技術を取り戻そうと2015年に模造の復元事業を始めていてこれまで65作品の復元を手掛けています。
仁王像をはじめ復元された作品は福岡県の九州国立博物館で10月19日から展示されます。 https://mainichi.jp/articles/20211113/k00/00m/030/100000c
日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表 毎日新聞 2021/11/13 12:50
日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、
ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。 日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、
ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。
今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。 研究チームはドイツの
マックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。
98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、
従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。
その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。
朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に
到達したと結論づけた。 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である
縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。
沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、
それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は
多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は
「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。
国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。
研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を
越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、
「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】 弥生文化は韓半島起源だからな
もうだいぶ前から考古学的に弥生文化は韓半島南部の無文土器文化の亜種だというが判明している
日本最古の弥生遺跡である板付遺跡の発掘調査から支配階級は韓半島南部が起源の松菊里型住居に住んでいて
被支配階級が縄文型住居に住んでいたと判明している
弥生文化人は韓半島からの移住者で縄文人を征服しながら九州から関西に広がっていく
そしてそこで一時停滞したあと弥生文化は一気に東北まで拡大する
ネトウヨは縄文文化などとあほヌカすがジャップは韓半島起源の弥生人で縄文人をジェノサイドした側だ
言語学的にも弥生語より古い日本語が弥生文化以前の韓半島に存在していたことが確実視されている
だからwikipediaにもPeninsular Japonicで記事が作られている
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Peninsular_Japonic
低学歴低脳底辺のネトウヨは日本語版もあるから言語切り替えて読んでみろ
考古学的にも言語学的にもジャップの起源は韓半島なんだよな
縄文人はプレアイヌというべき人たちでジャップの先祖は縄文人をジェノサイドした側の末裔だから
ネトウヨのいう縄文文明とかお笑いだよな
ジャップの神話は韓半島系の神話で縄文文化の要素はゼロ
何故ならジャップの先祖は縄文アイヌを虐殺するか奴隷としてジェノサイドしたから
日本書紀や古事記に原住民の土蜘蛛を悉く殺したと誇らしげに書いてあるぞ
更に土蜘蛛は手足の長い狩猟採集民で言葉が通じないと書いてある
土蜘蛛ってのは縄文系のアイヌだろうよ
天ころの先祖が原住民を葛で作った罠に嵌めて火を放って焼き殺したとかそれで葛城という地名が出来たとかてんこ盛りだわ 万葉集の東歌に出てくる古代の東国方言は平安時代に京都方言に飲まれてほぼ消滅した
現代の関東弁や東北弁と言われているものは実は古代東国方言の末裔ではなく一度西日本方言で上書きされた後の二代目の日本語の方言であった
この古代の東国方言は日本語の側派と言ってもよい程度の独自の言語性をもっていた
この現象は全国的に起きていたようで隼人や熊襲などの言葉も平安時代には消えてしまっている
基層言語としての縄文アイヌ語の痕跡は二度もしくはそれ以上の言語の上書きによってほぼ消えてしまった
その証拠として同じ東北地方でも平安時代後期以降に倭人の支配下に入った奥六郡以北の地域ではアイヌ語の痕跡が今でも地名に多く残っている
このように平安時代に側派の日本語の多くが消滅した
恐らく琉球民族の言語は消滅した日本語の側派の一つが起源であろう
東国語派と同じく南九州語派というべきものがあったに相違ない
なぜならば南九州には隼人という言葉の通じない人たちがいたと歴史に記されているが残された彼らの単語は日本語で解釈可能なため日本語の側派の一言語とみて良いからだ
結論だが日琉語は韓半島を起源として弥生文化と共に日本列島にもたらされた
韓半島の歴史でいう無文土器文化人こそが倭人や琉球民族のルーツとなる
ネトウヨの多くは弥生文化の中国江南紀元説や縄文文明起源説というトンデモな主張を行なっている
これは彼らクズどもの心中にある韓国や北の人たちや永住権をもつ多くの在日市民に対する差別感情が元になって生まれた主張である
このように歴史認識というものは情緒によってまたある時は政治によって歪められる
これが日本の教科書は極右に塗り替えようとする恥ずかしい歴史修正主義者の実態である 沖縄復帰50年記念特別展「琉球」 来年、東京国立博物館と九州国立博物館で開催 過去最大規模で
沖縄復帰50年を記念し、琉球王国の歴史と文化の歩みを紐解く過去最大の展覧会「琉球」が、2022年に
東京国立博物館と九州国立博物館で開催される。11月26日、両館など主催者が東京国立博物館で報道発表会を行い、概要を発表した。
<開催概要>
《東京会場》
会期:2022年5月3日(火・祝)〜6月26日(日)
会場:東京国立博物館 平成館(東京・上野公園)
《九州会場》
会期:2022年7月16日(土)〜9月4日(日)
会場:九州国立博物館(福岡県太宰府市)
同展では2会場全体で国宝72件、重要文化財22件を含む絵画、工芸、民族・歴史資料など約390件を展示する。
これは沖縄・琉球展としては過去最大規模になる。琉球国王、尚家の国宝「尚家宝物」が一堂に会するのが目玉。
金銀、水晶など色とりどりの玉に飾られた「玉冠」をはじめ、王族が身に着けた衣裳や刀剣、首里城を華やかに彩った
漆器や陶磁器などが展示される。 天地に燦たり (文春文庫) 文庫
川越 宗一 (著)
戦を厭いながらも、戦でしか生きられない島津の侍大将。被差別民ながら、儒学を修めたいと願う朝鮮国の青年。自国を愛し「誠を尽くす」ことを信条に任務につく琉球の官人。秀吉の朝鮮出兵により侵略に揺れる東アジアを、日本、朝鮮、琉球の三つの視点から描く。直木賞作家のデビュー作にして松本清張賞受賞作 琉球独立論者くらいに能天気なすねかじり生活がしたかったよ・・ 最後まで対モンゴル抗争を繰り広げた軍事集団が「三別抄」だった。
珍島の三別抄がモンゴルの圧力に対処する手段として日本との共同作戦を
構築しようしたことに注目している。珍島が陥落してからしばらくたった1271年9月、京都に届いた書状の中で、
三別抄は「モンゴルはすぐに日本を侵略するだろう。食糧と兵力を支援してもらいたい」と要求した。
済州島の三別抄の勢力(高麗耽羅)もまた、日本に到着した元の使臣・趙良弼の活動を妨害し、
京都に入れないようにした。
三別抄が韓国史の記録から消えた13世紀から、沖縄ではようやく農耕が本格化して人口が急速に増え、地域勢力が成長し始めたからだ。
あちこちに大きな城も築造された。「高麗瓦」は、浦添城や首里城などあちこちから出土しており
一体どこから、そんな技術が突然流入したのだろうか。
そのため最近、「沖縄の琉球王国が建国の基礎を固めるに当たり、決定的に寄与した人々は、
まさに三別抄だった」という意見が提起されている。三別抄の勢力が主導した沖縄の大型建築工事が、
政治的共同体の出現を導き出した、というわけだ
https://takeshima.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1241310499/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています