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@@@ザ・モップスPART3@@@©2ch.net

0001伝説の名無しさん 転載ダメ©2ch.net
垢版 |
2016/03/15(火) 04:58:44.34
初期スレは8年弱、前スレは5年半。(現在消化間近。あと20レス。)
まったりとした流れの中でもスレの消費スピードは早まっているモップススレ。

華やかなGSブームの影で他のグループサウンズより一歩抜きん出ていたような気がする。
日本のロックの基礎を築いたといえる生粋のロック・バンド「ザ・モップス」。
もっと評価してもいいのではないだろうか?

前スレ
@@@ザ・モップスPART2@@@
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/legend/1284344093/

初期スレ
@@@ザ・モップス@@@
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/legend/1040170829/
0386伝説の名無しさん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:33:36.78
モップス7年間の軌跡(>>381-385の続き)

グループ・サウンズ―日本の音楽界でこれほど大規模で熱狂的なブームが
あっただろうか。昭和42年、そのグループ・サウンズの全盛期にあたる。ブルーコメッツ、
スパイダースに続けと各レコード会社は、その大半がグループ・サウンズ中心の方向へと走った。
このブームは、音楽界のみならず、社会的にもいろいろな影響を与え、逆にいろいろな批判あびた。

その全盛期、42年11月5日、モップスという、1グループがデビューした。「朝まで待てない」
(阿久悠作詞、村井邦彦作曲)数限りないグループの中でこのデビュー当時から、何か他の連中と
異質なものを感じさせたモップス。それまでのグループに見られたスター的存在になる
メンバーもいず、ましてやルックスのよさもない。名前もモップス―。
しかし、音楽面に関しては、いち早く、サイケデリック調と呼ばれ、一部に高い評価をえた。
0387伝説の名無しさん
垢版 |
2023/01/21(土) 22:52:52.41
>>386の続き

「サイケデリック・サウンドはサン・フランシスコ産の前衛ロック。幻覚的な音が
妙味となっているが、モップスのデビュー曲、「朝まで待てない」」にも一応それらしき
ふん囲気はでている。それにしても、変わっているのは彼らの服装、メキシカン・ルックに
インディアンスタイル。まったく国籍不明でそんなところになにか“植民地日本”といわれる
要素が感じられる。」(スポーツ・ニッポン、42.11.5)

「それぞれ、個性的なスタイルだがその内容も個性的だろうか」(報知新聞、42.10:23)
「常に意外性を打ち出しながらやっていこうとする一派のグループであることは確かな
ようだ。しかしこういったサウンドが日本の社会機構の中でどう生きながらえてゆくか
疑問は濃い」(B音楽業界紙42.11.1)

「このメンバーは絶対ユニフォームを着用しない。無個性に統一されることを極度にきらう
からだ。5人はモップスというわくのなかでそれぞれ自由に思索し行動している。これが、
いままでのグループの観念とはまったく違うところだ」(ヤングミュージック、43.3)
0388伝説の名無しさん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:14:12.95
>>387の続き

といったように、あらゆる意味でそれまでのグループにない要素をもっていると
評価されていた。苦しかったジャズ喫茶時代を乗りこえ、今ここに、モップスが
デビューしたのである。<この時一体誰が、今日のモップスを予期できただろうが。
やがて無数にあった、グループ・サウンズも、2、3年のわずかな間に、次々と、解散して
行った中で、7年間という年月をえて、最後のG・Sと惜しまれることを―>

やがて、スパイダース、ブルーコメッツのグループ・サウンズ時代は、タイガース、
テンプターズといった若いG・Sに変わり、第二期のグループ・サウンズ時代へと
入っていった。そんな時代にも、常にそして着実に伸びていったモップス。43年、
3月「ベラよ急げ」、8月「お前の全てを」、デビュー盤ほどの売り上げはなかったにして
ブームの下火とうらはらにファンをふやしていったモップスであった。

43年6月 世界的なコンサートマスターである小澤征爾指揮により日本フィルハーモニー・
オーケストラと合同演奏会、また文豪、三島由紀夫の原作による「憂国」の舞台においては
その音楽担当と、一種独特の歩みを続けていた。
0389伝説の名無しさん
垢版 |
2023/01/21(土) 23:39:17.12
>>388の続き

<そのころ、(43年、春)岡林、高石友也をはじめとする、フォーク・ブームがまきおこった>
やがて、かつて、G・Sブームの時のように、フォーク、フォークと若者たちの音楽は変わっていった。
そして、46年、夏、吉田拓郎が現れ、ますます、、フォーク一色となっていったのである。
「生き残ってしまったモップス、一体あなた達は誰に向って何を歌うのでしょう」
(スポーツ・ニッポン4、23)

ジャズ喫茶はコンパに変わりあのはなやかなG・S時代は完全に消えてしまった。
しかし彼らは、彼らなりに何にまどわされることなく、音楽を追求していった。
ブームは去っても彼らに終わりはなかった。あの、後楽園球場での“グランド・ファンク・
レイルロード”の前座として堂々と、「御意見無用」をうたった時も、三越の屋上ステージで
7時間あまりの長時間プレイの時も、彼らの気持ちはデビュー当時と何ら変わりはなかった。

めまぐるしく流動するポピュラー界において常に自己のペースを維持することはむずかしい。
けれどモップスはやりとげた。そして、拓郎作曲の「たどりついたらいつも雨ふり」(47.7)
「モップスと16人の仲間」(同)等、彼らはフォーク界にも進出、いや、彼らの音楽にはそうした、
ジャンルをこえた何かがあった。ついで、同年、11月の第3回、世界歌謡祭で「何処へ」(小谷夏・詩、
星勝・曲)が入賞。
0390伝説の名無しさん
垢版 |
2023/01/22(日) 00:04:56.91
>>389の続き

一方リーダーのヒロミツは、TVドラマ、CMと、幅広く活動。けれど収入はほとんどが
グループの音楽の研究費にしたとか。星勝もアレンジを手がけるなど、地道ながらも
常に前進していった。デビュー当時のあの異様な星勝のヒゲもメガネも、今は珍しくは
ない時代になった。アマチュア時代を入れると8年 今、モップスは完全燃焼した。

リーダーのヒロミツが言う。「ギターの星勝、ドラムスのスズキミキハル、ベースの三幸太郎、
ひとりひとりが全員の目標だった世界に通用するアーティストになったんです。リード・
ヴォーカルの僕だけが世界に通用するまでいたらなかったんです。彼らの出発はこれからだ。
オールラウンドな役者になるというヒロミツ、すでに作曲、アレンヂで高い評価をえている星勝、
日本のアーティストはいつか世界に出るその時は俺が一番ノリと意気込むベースの太郎、
生きている間は、音楽からはぜったい離れない、プロデュースも、とはりきるドラムのミキハル。

彼らのモップスとしての旅は今ここに終わった。最後のGS、モップスはここに終わった。
けれど、一人、一人の旅はこれからなのだ。デビュー当時よりメンバー全員が10キロ近くも
体重がふえたという。ハード・スケジュールにもビクともしない体力があったからこその
モップス7年間の軌跡―。
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