諏訪周囲の信仰
小宮の御柱ももうだいたい終わったし
次の御柱までの間に、諏訪周囲の信仰について語らって
6年間を過ごしましょう。
こぉぉぉぉぉゥれぇはさんのぉぅぇぇぇぇえええええ!
ヨイサ!
ヨイサ!
ヨイサ!
※お諏訪様以外の話題でもいいです 近代以降の伝統を伝統として守る立場は、それはそれで貴重なんだよ。
なぜというに、現代の常識ではそういうものを伝統として扱わないからだ。
それをなぜ伝統として扱うかというと、自分らの爺さんが本気でやってた、
ということをリアルに知っているからだね。
本来は、その心持ちこそが伝統そのものなんだよ。
現代の文化的価値観、現代の常識とは違う、昔ながらの伝統の守り方なんだ。 >>148
現代は一括りにされているけれど、下社と上社は別物。
坂上田村麻呂の戦勝祈願(と諏訪の新兵の加勢)は、下社らしい。
夫婦神という扱いだけれど、上社は建御名方、下社は八阪刀売神の勢力圏。
つまり、本当の軍神は下社の八阪刀売神。 >>174
> 統括している「真髄」みたいなものがなければ続かないと思うんです。
> そこが一般の市民や端々の氏子には意図的に秘されていると思うのです。
個人的には、神様に生贄を差し出しているんだと思っている。
御柱祭のたびに人が亡くなっているからね。
木落としの当日ではなくても、数日後、病院などで。 諏訪と伊那は信濃の中でも独立王国みたいに思われてるらしいけど、
諏訪はわかるんですけど、伊那は何故そう言われるのですか?
>>178
奈良〜平安期、中央と諏訪の連絡を金刺が全面的に掌握していたのは確かだろうが、
千年の経緯と実情をすっ飛ばしてそういう言い方するのは乱暴。
>>180
伊那は中世まで諏訪の一部だったから・・・って話じゃないのかしら? このスレで良いのかわからないけど、祝神って諏訪独特のもの?氏神とは違うの? >>182
手塚治虫によれば祝殿(いわいでん)と言って
山梨と長野の一部で行われており「氏神様」を
文字通り解釈した神社とのこと。
祝神も先祖まつりも宅神祭の大規模なもの。
基本的に氏子全員の苗字が同一なので、直会
などの際には区別のため屋号が飛び交う。
…こんなところでしょうか。 >>181
> 千年の経緯と実情をすっ飛ばしてそういう言い方するのは乱暴。
これについては、それ以前レスも同じだよ。
軍神=建御名方で話を進めているのだから。 >>183
ありがとう。諏訪特有のものでもないのか
祖父母が諏訪出身で東京に移り住んだんだけど、うち含む非長野県民の同族一同が
建てた小さい社が諏訪にあって、調べてみたら祝神?らしいということで調べていたのです
ちなみに諏訪らしくミニ御柱が建っていたけど一本だけだったので最初、何この汚い杭?と思ったw >>184
「軍神=建御名方」というのが中世以降の「実情」だと言ってるんだよ。
その実情が千年来どう形成されたのかも検証せずに、
「それは真実と違う」と断言するのが乱暴でなくてなんなんだ?
田村麻呂の件等が(後の?)下社方の仕切りである可能性は確かに高いが、
「八坂刀売が軍神だ」といえる歴史上の根拠はどこ探したってねえよ。
たとえロジックだとしても、乱暴すぎてデタラメの域だ。 >>185
同じ氏族で氏神的なものを祀る形式は全国どこでも見られますが、
諏訪で面白いのは、そういう集団もしくは集住地域を
「まき」と呼ぶところです。
だから祝殿や産土神のことを「まき神」と呼ぶこともあります。 >>187
そうなのか。確かに巻って聞いたこと無い
自分、諏訪人じゃないし苗字+巻って書いてあったから最初「巻」って名前かと思ってたよ
うちの祝神の建立者も多分知らなかったと見えて微妙に使い方間違えてるしw
教えてくれてありがとう たぶん・・・だけど、「巻」じゃなくて「牧」が由来なんじゃないかと思うよ。 や、だから表記の問題じゃなくて由来の話。
あくまでも憶測だけど。
漢字表記なんて江戸時代まではいい加減なもんだったからね。 牧は古代からあるし、牧由来と考える方が憶測だと思うけど。
牧が由来だと昔から牧の字は放牧地って認識が有りそうだが
それだともっと広い範囲の字名とかにならないか?
字が牧→巻に変化している地域名とかならあるけどね
個人的には取り巻くとかの「巻」方がしっくりくるな
分からんので適当だけどw 少なくとも平安時代、信濃には官牧がたくさんあって、
諏訪にも三つ四つあったんだよね。全国で二十もない中で。
街道筋の宿場町になった時代でも、重要な馬宿であり続けたわけだし。
その管理集団がルーツなんじゃないかなあというホント憶測です。 いちおう。
牧の概念は古墳時代に海外から馬を導入してからつくられたもので、上代には遡れない。
「牧」を意味する「まき」は古語にはないわけで、仮に「牧」を由来とするなら建御名方命入訪以降の集団ということになる。 縄文時代は、諏訪湖や山の地形を利用して、鹿を囲い込んで狩りをしてた
「ま」は強調、「き」は境界、の意味で、狩りを中心とした共同体の単位だった
モレヤ神の仲間のチカト神は鹿を中心とした狩りの神
以上から、「まき」は意外と古くからあった概念で、官牧などの馬の牧はそれを上書きしたのかもしれないよ >>196
よくわかんね・・・
上代ってのは主に奈良時代だろ?
古墳時代につくられた概念が上代に遡れないってどういう意味?
それが建御名方だかどうだかわかんねえけど、
もちろん牧の概念は、ヤマト勢力が入って以降だよね。
つか、当然だけど馬が入ってからってことだ。
古墳を見る限りでは、諏訪においては6世紀末くらいだな。 >>197
そういう語源説はなんとでもいえるからねえ。
少なくとも諏訪で境界の意味といったら、「き」じゃなくて
柳田言うところの「sk」の言葉だろ。サカとかサクとかスクとか。
千鹿頭の話はなにが関係あるんだか、よくわかんねっす。
でも、ケモノを囲い込むことを「マキ」だっていう解釈なら面白い。
狩猟でも牧畜でも同じに「マキ」だという。それはあるかも。 >>199
狩りをするときに巻という。
巻狩りとか巻き上げとか。
巻は狩りをするコミュニティの単位でもある。 長野、山梨以外で「巻」または「牧」と呼ぶ地域はありますか? >>200
だからさ、個人的な思い込みだけ言うんじゃなくてさ、
なんかこう、参考になる材料を提示してくれよ 江戸時代までは、漢字をどう宛てるかなんて超いい加減だったからな
漢字に囚われるとなにも見えない
日本語は音なんだよ マキがどう言う組織か書いてあるのは見たことはあるが
語源に関して研究している文書ってないのか? だからね、語源説は学問になりにくいの。
結局、憶測以外なにも言えないから。 望月なんかの実態から考えると、馬の柵(まのき)じゃないのかと思うんだが 大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校で暴力やいじめを受け続けて、心も身体も
壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるかもしれ
へん。それで誰にも発見されへんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
>>211
古さと歴史の長さじゃね?
ずっと今までつながってる所が。 >>186
>>148は平安時代の話なのに、中世を持ちだしてどうするの。
>>213
超古代の神事が、ほんの数年前まで継承されていたのも魅力だね。 >>214
諏訪神社に関して信用のおける研究対象は中世以降。なぜなら文献があるから。
それ以前に関しての言説はおおむね妄想。
考古学の成果をきちんと踏まえているのなら妄想レベルからは脱するが。 上社と下社の仲が悪かったせいで下社系の文献が充実してないのは痛手だね
下社が負けてなかったら信仰形態は変わっていたのかねー
金刺家が滅んでいなければ総領家も変わっていたかも、などと妄想 >>216
>>148は諏訪限定、信仰限定の話ではなく、文献から見た日本全体の治世の話だろ。
もちろんそれでも憶測レベルだが、妄想とまでは言えない。
そういう古い文献には、残念なことに、上古以前の諏訪で誰がどんな祭りを
していたかという情報は、また聞きの噂程度が2、3件しか残ってないんだよ。
>>217
1行目、まったくです。しかしまあ、歴史は常に勝者のものですから。 長野県下伊那郡豊丘村神稲の「佐原」(読みはサハラ)という集落に佐原諏訪神社(御手形神社)があります
ここの御祭神は、建御名方神と武甕槌神だそうです
佐原というと千葉県の佐原を連想しますが、ウィキによれば千葉県の佐原という地名の由来は
「古代から香取神宮が鎮座し神官の祭典の時に使用する土器、「浅原(さわら)」を造って納めていたので「サワラ」という地名がついたともいわれている」
偶然の一致かもしれないが面白いと思いました >>128
どこかで見た名前―と思ってたら、4,5年前(だったかな)teacupの掲示板で
「フリーメーソンは信用出来る人たち」とか太鼓判捺してた作家の方ですね?
記憶が正しければ、そして、その手の話に介入する時に私が使いそうな手法的
に―(『300人委員会』〔ジョン・コールマン著〕の)「二十一カ条の最終目標」と、
フリーメイソン "ユダヤ人にとって、積極的に参加する動機が十分にあった"
等のグーグル複数語検索を根拠として(あとP2ロッジの事件やフリーメイソン
のロッジが米軍基地の近くにあることなんかも書いていたかも知れません)、
疑義を呈する書き込みをさせて戴いたと思うんですが―それを2度も問答無用で
削除されたばかりか、その後、その板には書き込めなくなっていたので掲示板
からリンクしてるHPの方を確認してみたらレムナント出版という一応はマスコミの
端くれじゃないですか、「(この人たちの出す本は怪しいな)」って本気で思ったの
を今でも覚えてますよ。【反証可能性】まで否定してしまうなんて―でしょ?(笑)
久保有政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%9C%89%E6%94%BF
ジョン・コールマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
もっと最近、別の人の疑問にはちゃんと答えてるみたいですね。
http://8928.teacup.com/yomimono/bbs/581
http://8928.teacup.com/yomimono/bbs/583 個人的に日ユ同祖論はこじつけっぽいというか胡散臭く感じるなぁ… そういえば大祝諏訪家出身の女の人がなんでも鑑定団に出てたな
諏訪家の名前を残そうと、息子に諏訪を名乗らせているらしい 大祝諏方家直系って平成に入って断絶したよね?娘さんがいて外に嫁いでたのか 明日諏訪行ってくるわ
諏訪大社4つと守矢資料館は
以前行ったことあるけど
ミシャグジ神、洩矢神関係で
見ておいたほうがいいスポット
ありますか? ↑書いたもんだけど、今日守矢資料館行ったら
たまたま当主の人がいて、横の家に上げてもらってお茶ご馳走になったわ。
当主のお姉さんにも会えた。
向こうはなんか教員の研修会みたいな感じの仕事中で、資料について
色々解説してるところを横で聞いてたら「何かの縁だから」って感じで
呼ばれただけなんだけど、さすが教職の人だけあって接しやすくて話し上手かった。
こっちは生きた伝説が目の前にいるってのでガチガチだったからキョドりまくってたけどな。
>>229
当主さんに普段は会うこと出来ないから良い出会いがあったねー
しかしこの過疎スレでは緊急のアドバイスを受けるのは厳しいぞw 南信濃村と上村は昔諏訪大社の社領だったみたいで、御頭祭につかう鹿を献上してたとか
その後天領となったみたいだけど
諏訪に限らず、善光寺の御開帳とか7年に一度の大祭って長野県は多いのかな 今の2ちゃんねるの管理人は右翼団体とアダルトサイト運営しているヤクザな訳だよ
他の運営もそいつに小遣い貰ってる舎弟
心理学を応用したネット掲示板に依存してる人間は薬漬けにされたジャンキーと
何ら変わらない
今はほぼ全て運営による捏造情報の書き込み
ヤクザに雇われた中国人でまともな人間は居ない
それに2ちゃんはリアルタイムに実名が判るシステムなってる
2ちゃんねるはそのアクセスログを右翼団体、企業やマスコミやライターたちに
販売しているからアクセスする時は気を付けないとな。
諏訪は養蚕の中心地だったから養蚕関係や猫神が多いんじゃね。 諏訪大社・御柱・建御名方命・洩矢神について調べています。
比較的手に入りやすい資料ってありますか? 今読んでる精霊の王(中沢新一)に主にミシャグジについてだけど諏訪周辺の信仰について書かれてて興味深い。
辰野の鎮大神社ってところにも行ってみたい。 >>234
〈お諏訪さま 祭りと信仰〉
諏訪大社 監修 鈴鹿千代乃.西沢形一編
勉誠出版を図書館で見つけ、読んでみたけどかなり面白かったよ。
諏訪大社は何度か行ってるけど、守矢資料館にも行きたくなった。
>>234
地元の図書館か本屋だな。
それ用のコーナーあるし。 長野県には地名の由来がアイヌ語である場合が相当数ある。 >>234
遅レスですが
諏訪明神 カミ信仰の原像
寺田鎮子・鷲尾徹太著 岩田書院
自分の知りたいことのかなり核心に触れていて読んでいてわくわくした。 手塚治虫家系にも繋がっていて木曾義仲お供の美女武士の巴御前にも繋がる下諏訪の神主家系筋、断絶して残念だた。 今の守矢氏は78代目
79代目はあるのだろうか?それとも断絶してしまうのだろうか?実にもったいないことだな。 >>32
>最終的には衣に至ったが、壬申乱後、持統天皇の時代に大和朝廷に滅ぼされ・・・・・・
誰が滅ぼされた何という戦役のことなの?飯田街道(現在のR153)途中の
三河挙母町では、そんな伝承は聞かないんだが。 >>239
ハハハ 適当なこと言ってんじゃねぇよw(笑) >>247
そもそも飯田街道が全線整備されたのって織豊期から江戸時代にかけて。
それ以前は足助平谷間あたりはほぼ不通。
少なくとも古代から交通路として使われたという根拠はない。
柳田國男も『東国古道記』で津島信仰や伊勢信仰との関係に触れて
>かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、
やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、
>その段階で津島神社の御師たちが入り込み、【中略】山間に広く分布していった。
また長野県下伊那郡天龍村坂部に伝わる『熊谷家伝記』第四巻でも
R153にある治部坂峠の名の由来を、天正三年にあるとしているので、
少なくともそれ以前は峠のすらない、人の行き交うことすらまれな道だったことを傍証しているといえる。
あと、天武持統時代の信濃は壬申の乱以前から大海人皇子の領地があった関係から相当に優遇されており、
信濃の諸豪族は攻め滅ぼされるどころか舎人に登用せれる者が続出してる。
さらにいうと、天武天皇は信濃に絶大な安心感を抱いていて副都を置こうとすらしている。
具体的には、『日本書紀』の巻第二十九、天武天皇十三年二月庚辰の条で
>庚辰。遣浄広肆広瀬王。小錦中大伴連安麻呂及判官。録事。陰陽師。工匠等於畿内。令視占応都之地。
>是日。遣三野王。小錦下悉女臣筑羅等於信濃、令看地形。将都是地歟。
と記されるように適地を選定しており、天武天皇十四年の条では実際に行宮を造営してる。
>壬午。遣軽部朝臣足瀬。高田首新家。荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮。蓋擬幸束間温湯歟。
この方針は持統天皇にも継承されていて
東国諸豪に度々饗を賜ったり木曽路を開くなど盛んに活動している。
どう考えても信濃の勢力と衝突していたようには思えない。
飯田街道の歴史から見ても天武持統朝の政策から見ても>>32の書き込みは根拠なしとみなしていいと思う。 「伊那」の地名は、ホツマツタヱに書かれている。
すなわち、天八意ノ命(阿智彦)が身罷った去(辞)洞(いなほら=お隠れになった洞窟)の場所を
「イナ=伊那」と呼び、以来 阿智家の勢力範囲をイナ(伊那)と呼んだ。
当時の阿智家の勢力範囲について、大御食神社の「美しの杜社伝記」には、応神天皇(3世紀末)
から仁徳天皇(5世紀)に至るころの近郷〔伊那市西春近小出(小黒川南)〜中川村大草(小渋川北)
〜松川町上片桐(松川北)〕において、赤須彦が祭事を司っていたことがわかる。
天安2年(858)の記述からは、近郷〔伊那市西春近小出〜飯田市伊賀良〕には 三十二の里があり、
それぞれの里の規模についての記述がある。
このことから、少なくとも9世紀までの伊那郡と諏訪郡の境は 伊那市の「小黒川」であったことが推定される。
また、「伊那」の地名については、稲・井名・猪名部・建稲背命・アイヌの幣束「イナウ」などに因るとの
諸説があるが、倭名類聚鈔(10世紀)によれば 諸説が「伊那」の地名発祥の地とする現在の伊那部
などの地域は、当時 諏訪郡の範囲内であったと推定される。このことから諸説では「伊那」の地名由来
の説明に十分ではない。 現在では大御食神社の「美しの杜社伝記」は江戸時代に盛んに作られた偽社伝の一つとされている。
そもそも日本語音韻学の立場からすると使われている神代文字の音韻は、
せいぜい中世以降のものでありとてもではないが古代まで遡ることは出来ないもの。
とてもじゃないが古代史の資料にできるようなものではない。
文献学的には伊那の由来についての主張は否定せざるを得ない。
それに古代の伊那地方に阿智家などという怪しげな勢力の登場する余地はない。
伊那郡の郡司(大領)は科野国造氏、及びその末裔の金刺氏が世襲していたからね。
言うまでもなく金刺氏は諏訪下社大祝家の金刺氏の同族。
少なくとも上社のある下諏訪から伊那郡衙のある飯田辺りまでは金刺氏が抑えていたと考えられる。
このような状況下で郡名の由来になるほどの大勢力が上伊那に存在したとは考えにくい。
第一、郡の中心地におかれる郡衙が飯田市座光寺の恒川遺跡群で確定し、
これに比肩しうる遺跡群が存在していない以上、
考古学的にも阿智家の存在については否定的に見ざるをえない。 というかなんで諏訪はスバルの地のトルコなりだって何時まで経っても周知されないんだろうな〜
ミシャグジ様自体はイザナミ神でヒノカグツチ関連でイザナギが両断な流れー >>253の中では当たり前かもしれないけど初心者には何を言っているのかちんぷんかんぷんだよ 神無月はいつから?
諏訪の神様は、大きすぎて迷惑だから、来るなと言われてるそうだけど。 春宮〜秋宮〜前宮〜本宮と回ってきたよ。
本宮本殿屋根の葺き替え中でイマイチ
神長官守矢資料館良かった。
ミシャグジ総本宮も参拝
小さなお宮だけど鹿のツノ 栗 黒曜石が捧げてあった(笑) 車で行ったのね
電車徒歩では2日がかりだった
ついたちに行くと、毎月神事やってるらし 守矢資料館は入るとおじさんがすごい勢いで展示物の説明をしてくれるよね
うちは先祖の家が本宮の近くで五官の祝の一人と同じ苗字だったから
子孫認定されて更にいろいろ説明してもらった。ただの近所の同姓さんなのにw
ミシャグジ総本宮は行ったことないなあ。墓参りついでに行ってみようかな
>>257
調べたら11/3だった。諏訪明神はでっかい蛇で、出雲の神様会議所の周りを7巻きしても
尻尾はまだ諏訪の松の木にかかっているとかそんな話だっけ?
そういえば去年上田の酒造からもらったカレンダーが神在月表記だったよ そうそう、一生懸命説明していただいた。
郷土に誇りがあるんだね〜
とても楽しい諏訪めぐりでした >諏訪明神はでっかい蛇で・・・・・尻尾はまだ諏訪の松の木にかかっているとかそんな
そうそう、それそれ。
こういうのを読むと、建御名方神は建前なのかなあ。
wikiの諏訪神党に、自分の名字、発見! 諏訪、行ってきた。
大社4箇所まわったが、圧倒的におもしろかったのは
上社前宮。
でも地元の人こそが、「前宮なんか行っても何もないよ」とおしなべて言うんだよね。
その人が意識的に隠しているわけではない感じだったけど
もともと考えた賢者は、下社に観光客を集めさせて集金運営し
本当に聖なる場所は、あまり観光されないように秘して設計しているのではないかなと思った。
古代人の叡智を感じさせたな。 大祝の男系子孫の方っていらっしゃるのでしょうか
御本家は断絶してしまい残念なことですが、天皇家や
出雲国造と同じ万世一系の家系
比較的近年に分家した諏方家はどちらにいらっしゃるのでしょう >>263
自分も上社前宮が一番好きだわ、平日の朝方とかは人影もなくて気持ちいい 本宮にバイクを停めて前宮まで歩くのが好き。
途中で北斗神社の階段でガクブルしたり、
御頭御社宮司総社にも寄れる。
(神秘性という意味では個人的には前宮以上に何かを感じる。) 神奈川の真坂山ってとこに大蛇が住んでいて、日照りで池の水が少なくなると諏訪湖に飛んでいったらしい。 「諏訪大社 祭りと信仰」読みたくてずっと探してるけど、どこにもないわ 元諏訪って言われてる神社が徳島にあるね。
かなり古いらしい。ここから現在の位置に移ったんじゃないかとも言われている。 >>273
オカルトネタは一期一会だからな
ボケもユダヤ民族の歴史の一覧表とかエルメス神とか
新人類だか旧人類だかが男はマクロ、女はミクロに強いだか
トマトが悪魔の実と呼ばれていたとかもう一度見たいなと思ってても
見つからないもん 去年の新聞に次回の上社の御柱は辰野から調達って書いてあったけど、
地形的には宮処牧の山向こう…のような感じだからいいのかな?
いや、いまでも何らかの関わりがあるんだろうなと思った次第で。