諏訪周囲の信仰
小宮の御柱ももうだいたい終わったし
次の御柱までの間に、諏訪周囲の信仰について語らって
6年間を過ごしましょう。
こぉぉぉぉぉゥれぇはさんのぉぅぇぇぇぇえええええ!
ヨイサ!
ヨイサ!
ヨイサ!
※お諏訪様以外の話題でもいいです お船祭りはなぜ下社にしかないのか?
海のない山の中でのお船祭りはやはり佐久地方が海だった頃の名残なのか?
又は海人族だった頃の名残?
ミシャグチは『サク』からきている説?
諏訪は『洲波』?
徳島にある元諏訪
とても面白い >>434
日本書紀の持統天皇のところに「使者を遣わして竜田風神、信州須波・水内等神を祭らしむ」とあるから、この頃には朝廷が認めるほどの形態はあった
天武天皇が信濃の地を調べさせたり、信濃に行宮を作らせたりしたから、そのときに朝廷は知ったのだろうという説がある
諏訪大明神絵詞は日本書紀の持統天皇の記述を引いて「是即当社祭礼始なるをや」と言っている
また「神氏系図称一族系図」と「異本阿蘇氏系図」では、用明天皇の二年に湖南山麓に社壇を構えた、とある
これらは昭和になっての発見で、特に後者は偽書説がある。
長野県史や諏訪市史では「異本」も正しいと扱い、諏訪市史では2つの系図を混ぜて掲載したらしいけど、
両史の編纂に関わった人が後に「阿蘇氏文書を全て調べたが異本の記述は見つからなかった、後の研究結果に期待」的なことを書いている
偽書だから書いてあることは間違いとは言えないし、偽書説のない「神氏系図」は正しいとは言えないんだけど では大祝はいつからかというと、
両系図では、社壇を築いたときの「神子」(異本では乙頴とも)が大明神が最初に降りた御衣祝
絵詞では、有員が最初で「神氏の始祖也」とある(もちろん用明天皇は出てこない)
遺跡では、本宮近くのフネ古墳が5世紀前半、下社近くの青塚古墳が6世紀後半
と言われていて、後者は用明天皇の治世に符合するね
今の社殿が発掘調査されたとは聞いたことがないけど(数年前本宮の拝殿前で遺構跡が見つかったニュースはあったけど)
磯並遺跡の発掘レポートはネットで読めた。確か縄文から近世までの複合遺跡 神氏・金刺氏が入る前の祭祀もあったでしょうけど、自分にはわかりません
前宮や磯並社あたりの社がそれぞれ何なのか、とかも
公式サイトには「 国内にある最も古い神社の一つ」と書かれていました >>437
自己レスです
異本阿蘇氏系図に関しては、今の長野県史では史料に用いず、諏訪市史も慎重なようですね
なので混ぜた系図もないと思います(推測)
http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/yamakawa.htm
また神氏系図の発見は明治でした。m(__)m
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/927367
の21コマ目が神氏系図 おお、ありがとう
用明天皇とはかなりリアルな時代だね
他の神社の御由緒にはもっと古くに創建したことになっているのがざらなのに リアルと言えばリアル杉かなあ
系図なら、書き足し書き写しつつで、いつの時代の記述かわからないだろうし 縄文からの遺構がありそれ以降の政権の対応からも、無視できない力を持った完全討伐が難しい勢力が存在していたように思えます お船祭りに関してネット弁慶
志賀島辺りの海人族、安曇氏が移って来たのが安曇野と言われ
穂高神社は、御祭神が安曇氏の祖神の綿津見神・穂高見神で、御船祭や奥宮での御船神事が有名
安曇郡にあるもう一つの式内社が川會神社で御祭神は底津綿津見神
「諏訪神社誌」( http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983470/16 )曰く
川會神社の社伝に「建御名方命の妃は綿津見神の娘で、建御名方命と妃は水の溢れた土地から水を流し平地にした」旨
また「信府統記」には泉小太郎伝説(龍の子太郎の元の一つ)があり、小太郎の母の犀龍が「諏訪大明神の変身なり」と
諏訪大明神絵詞の祭の七月を見ると、御遷座の行列の記述の後に「次に渡物(鉾山)あり」とだけあり、船形かどうかの記述はない(鉾山=山鉾?) タケミナカタがまんが日本昔話のオープニングの竜で松本平の水を抜いたと
安曇氏が船の祭を伝承し八坂刀売がその一族の出とすると、下社に御船祭があることと確かに繋がるけど… 松本安曇野も佐久小海のようにかつて湖だったの?
島内、島立とそれっぽい地名は残ってるけど
そういえば蟻ヶ崎という地名もあつたね >>446
伝承だから地学的事実とは別かと
逆質問になるけど、佐久は有史の時代に湖だったの?ソースがあれば教えて 上社でも御柱迎えに行く神輿は船形だけど、これは後の時代に始まったのだと思う
神様が御柱を迎えに行くのは腑に落ちないし、武者行列や花笠踊りと同じく里引きを賑やかにしようとして
下社の御船祭は神輿による御遷座が主で、お船は従、氏子の愉しみ
なのでお船は神事よりは後に始まったのだと思う。御船神事、御船祭、船形の山車は結構あるようで、それらを比較検討してみないことには、だけど
川会の伝承は小泉小太郎伝説に後から竜蛇神ということでタケミナカタを結び付けたんじゃないかな 仁和地震の時に崩れた山の土砂で川が堰き止められてできた相木湖と、もう一つの湖が小海地方に残る地名の由来と言われている
海ノ口から海尻間にできた湖は約100年後の決壊により消失したと言われているが、相木湖は鎌倉中期までは存在していたとみられている
安曇野・松本平も山間の扇状地
水が流れ出る場所は限られているから過去に同様の現象があったのかも知れないが、海人族である安曇族の流入が大きく影響していると考えた方が納得できる 周防の昔の読みが「すわ」なので
周防からの移民かと思うがどうかな 「諏訪大明神絵詞」の桓武天皇の御宇に阿部高丸を海から攻めた折に、海上の波の上を騎馬で渡った時の不思議な様を描いてるが、この時から「諏方すわ」の二字を「趨波」と書いたと言ってる。(続群書類従巻第七十三諏訪大明神絵詞上500ページ)
「すわ」は「すほう」あるいは「すおう」とも関連ある? 海人伝承というのは要するに、フェニキアやギリシャ人などの古代地中海文明を日本まで民族が違う海人達の間で伝え持ってきたということ。
諏訪の周辺の湖・誕生の神話がギリシャのオルコメノスなどの湖・誕生神話と酷似してるのも、その一例。 九州北部から出雲・越を経て安曇野・諏訪へ
または佐久・小海から諏訪へなのかも知れない
海人族・出雲族の神はそれと共に流入したのはわかるけど、モリヤ・ミシャグチが元々の土着の神?
あんな山の中に進出したのはやはり地下資源と当時の交通要所だったからなのかな? 有名な紅葉狩や八面大王、両面宿儺
これらも地下資源や交通要所の制圧とみて正解? >>456
和田峠の辺りから黒曜石が採れるのと
湖のおかげで冬も食料がとれるので縄文時代から栄えてたんじゃないのかね
出雲系はヒスイの採れる越の糸魚川を征服してそのまま妙高高原を越え信濃の諏訪まで勢力下においていったんだろう 海洋民同士の戦で負けて逃げる先は山の中の湖が最適なのでは? 異説ではあるけれども、自分は「神氏=大和の氏族」説を押している
もちろん他の氏族(出雲族、安曇族、天白神を奉じた一族)の流入はあったと思うし
金刺氏も信濃国造として勢力はあったし、それ以前に洩矢・守矢の一族もいたと思う 天白神の分布と春宮の近くにある天白神社から、八坂刀売が天八坂彦命の子だとする説があるね。それを直接書いた史料はないようだけど
長白羽命(天白)・天八坂彦命を祀る氏族が伊勢の神麻続機殿神社のあたりから来たという説をとると、八坂刀売は麻績部の一族と関係があることに。
地名は麻績部に由来するとも言われる麻績村から麻績川を下ると、泉小太郎が堰を破った山清路なのだけれど、関係あるのかな? 神氏の系図の古代部(御衣祝以前)についてのまとめ。
およそ下の三説あるかと。(説の名前はテキトーです)
・建御名方直系説:洲羽国造家―神氏:神氏系図(神氏系図称一族系図の中の漢文)より
・金刺氏分家説:金刺氏―神氏(乙頴より分家):異本阿蘇氏系図より
・金刺氏より養嫡子説:洲羽国造家―乙頴(養嫡子で継続):修補諏訪氏系図正編(神氏系図、異本阿蘇氏系図でも解釈可能)
補足として、
・洲羽国造家は、ここでは建御名方命から御衣着祝の手前までの便宜的表現。(洲羽国造の実在は不明)
・直系説でも神氏系図によれば神氏に金刺氏の血は女系で入っているし、分家説・養嫡子説でも、阿蘇比売命が洲羽国造家とすれば(修補諏訪氏系図の補、大祝武居祝系図)、その血は入っていることに。
・「異本阿蘇氏系図試論」では「神氏系図」(神氏系図称一族系図と同じものかは不明)も異本阿蘇氏系図と同様中田憲信らの作と疑っているらしい。修補諏訪氏系図正編の系図は「中田憲信著諏訪家譜抜粋増補」。
金刺氏については、異本阿蘇氏系図、一本金刺氏系図(中田憲信著引用)、大祝武居祝系図とも祖は神八井耳命。日本三代実録にも金刺舎人について同様だと。
(異本阿蘇氏系図以外はネットで見られる諏訪資料叢書28巻と修補諏訪氏系図.正編・続編を参照した。) 史実か否かや実在性は別にして、各系図には編纂或いは書いた人の思いが反映されるもの。(系図以外もそうだけど)
諏訪氏家譜や寛永・寛政の諏訪氏の系図は清和天皇を祖としているが、これは徳川家と同じにしたいという思いかと。(修補諏訪氏系図続編には、そうでない古い系図を某が処分した、とあった)
見る人も同様、それぞれの思いでどう解釈するかは変わってくると思います。
血統、中でも男系重視か、或いは養嫡子としても家柄が重要か。
下社側か上社側か。皇統か或いは建御名方の系がよいのか。などで。
(特に当該家の人の思いは強いでしょう)
個人的には、「有員より前はわからない。養嫡子はあったかもしれないが、神氏の家柄は建御名方命を祀る一族から続くもの」と、当たり障りなく思っています。 総てを鵜呑みにはできないけれど
天皇系が各地を平定融合していたとしたら
『多くの場合にらみられる、その平定した土着神も祀った後に、実は皇族に繋らなる系統と知ららしめている点』
その元々の土着の神々は天皇系よりずっと古くから永く栄えていたことにる
出雲の石田家、千家、諏訪だとモレヤ、ミシヤグチが、それにあたるのでないだろうか この地を治めることにした天皇系は征服者
征服平定された側の諏訪はそれらよりかなり古くからの文化歴史と資源や交易力を持っていたはず
神家の補佐役となったモレヤだったが本当の祭神は最後まで伝えなかったのではないだろうか?
そこの辺りに、後世まで為政者の庇護を受け、税の免除は元より、近隣のから祭事等の援助を拠出させるよう言わせたりしていたところに繋がっているのではないだろうか?
モレヤ・ミシヤグチとは何者だったのだろう
その力と求心力の元は何だったのだろうか >>451
「周防国」は、当初は「周芳(すは?すはう?)国」だったんだね。
「周防国」の何処かに「すは」という土地があるのか?
そもそも「すは」の語義・語源は、何なのか?
景行天皇『紀』に記された女酋神夏磯媛の盤踞地佐波郡「沙麼(さば)」が、
「すは」に変化したのか? >>466
思い付きレヴェルでは石見や伊予に周布もあるけどね、スハの発音がスファだったとして
しかし他にも、複数の地名相似か文化的な相似がないことにはなんともかんともね 荒俣だっけか
福井の九頭竜はクトゥルゥが変化したものだ!というネタで小説書こうとしてたの 諏訪では神に仕える手長足長が
福島県会津地方では人々を苦しめる物怪とされ磐梯山山頂に封じ込められている。
諏訪の神仙がなぜ東北では悪霊とされているのか詳しい理由を知ってる方はいますか?
磐梯山から猪苗代湖を挟んだ湖畔近くにある守屋神社が関係しているのかな? 伝承を見た感じでは壱岐の海人族が東北を襲った話じゃないですかね
その海人族が諏訪に移住してるんでしょうか >>470
なるほど
その説なら秋田や山形の日本海側にも似たような伝承がある事も説明がつきますね。
阿賀野川を遡れば会津地方にも来れるし >>31
産屋、うぶやにお飾りするよ。錆びた鎌。
産屋の砂はお守りになる。 コロナのせいで来年の善光寺の御開帳が一年延期になったけど、もしかしてこのまま行くと再来年の御柱祭は善光寺の御開帳と同時開催?
御柱祭って府中の小笠原が攻め込んできたせいで一月延期とかはあったみたいだけど年越して延期ってまだないよね? 先祖代々諏訪地方に住んでる人は縄文以前からの居住者なのだろうか?
遺伝子調査したら面白い結果がでるかもな。 >>446>>447
安曇野が昔湖だったのは事実。伝承などではない。
>>449安曇野は日本有数の規模を誇る盆地だ。扇状地などというものではないわ。
>>451関係ない。 >>480
安曇野は盆地だが、その盆地の中に扇状地型もある
分けて定義するものじゃない >>479
諏訪湖周辺よりも茅野の方が原住民の可能性大。 >>474
関係なし。その説は相手にされていない。
>>465
天皇(大和)系は下社の金刺氏。
上社諏訪氏は違う。 地元民もモレヤ云々知ったのはここ20〜30年の話。 そういえば善光寺には今でこそ諏訪神社はないけど昔はあったらしいね
前の御開帳のとき県立博物館であった公演で塔頭の坊さんが言ってたけど、現在では日本忠霊殿がある場所が諏訪神社だったらしい
飯田の元善光寺は建御名方を祀る麻績神社がすぐ隣りにあるけど、明治六年までは八幡社で創建も天正年間以前とだけあり意外と新しかったんで善光寺と諏訪社って意外と縁が薄いのかと思ってた 神話の時代からの土地の特徴が名前として残ってるとか感慨深いものがあるな。
ところで何故諏訪以外の土着神は残ってないのだろうか。
規模の違いか?
やはり諏訪地方には一大勢力が存在したんだろうな。
大和朝廷と戦争をした証拠品は発掘されたりしないのだろうか。
普通国譲りなんてするか? 大祝家なら既に断絶したし、神長は次期当主は決まってるけど口伝は失われてるし、他の世襲神職と似たようなもんだしで、既に終わってしまったかと。 >>490
家が続いても血の濃さは他人同然
むしろ本家より濃い奴もいるだろ >>491
伝承や口伝が続いてなきゃ意味ないよ。
血ならそりゃ誰もがアダムとイヴまで遡るわけでさ。
諏訪信仰は明治維新で致命傷を負ったんだよ。出雲みたいに世襲体制を維持できていたらね。 >>492
天皇家だって公然の秘密で途絶えてるし
出雲の千家家も、そもそも大国主とは他人の皇族の家系
血筋もへったくれもない
出雲王朝の血筋は地元の人達のほうが濃いだろうよ 天皇家は国家宗教の神道最高司祭だぞ
我らの女神の子孫でもある
萌えろ! >>493
血筋ってのは家としての伝統が継承できているかが大事なのが日本なので。
諏訪の場合は、それがもうないって話をしてるだけだよ。生物学的に血が続いている人はそりゃどこかにはいるかもしれないが。
そもそも神話の話を持ち出せば、守矢氏と三代目位で出雲系に入婿されてるが、それで家の伝統が途切れているとは誰も考えてないわけでさ。 >>495
そもそも血筋の話に家系や伝統の講釈持ち込まれてもなぁ だから血が続いていると自覚してる人がいなきゃ意味ないよといってるんだけど?
民俗学板でイエの意味も分からない人がいるとは思わんかった。新年早々驚いたわ。 >>497
血筋の意味を知らない人がいた事の方が驚いたよ >>493
天皇家が絶えてるって、どこで公然の秘密になってるの?知らんかったわ。 >>499
神武天皇から続いてると本気で思ってる? >>500
つづいてない証拠もないから、続いてるという解釈でいいじゃねーか >>501
うん。そうだね。
疑いを持っていても続いてるとしている。
まさに公然ですね。 >>502
疑問を呈すのは別に全く問題なし。
都合よいものを集めればよいものができあがる。
それでよくないか。 >>502
その論理でいったら、諏訪の血筋もやっぱりあてにならないから断絶してるって結論にはならないの?まさか諏訪だけは神代から続いてると信じてるわけ?証拠何もないのは一緒だし。
論理が全く破綻してるよ。 >>504
で、最初に戻るけど
初代天皇(本物が誰か知らんけど)の血筋も日本人の中に永遠に続いている。
で、何処が破綻してるの? 大名諏訪家は健在の筈だから、大祝諏方家の断絶時にそれを引き継ぐ事は出来た筈だけど、そうならなかったのは、既に引き継ぐべきものが何も残ってなかったからなんだろうね、やっぱり。
諏訪氏が祭祀の実権を最初から持っていなかったのか、それとも中途で失ったのかとか、古伝があれば調べられたのに。 >>506
健在と言っても男系は明治に断絶してしまって
養子が入れ替わりで家名を継いでるに過ぎないからな 上社と下社って諏訪の祭祀拠点として一体感を古くから持ってたみたいだけど、それでも厳然と上下分かれてた理由は何なんだろう。 金刺氏と諏訪氏で分かれていたらしい
金刺はもともと諏訪とは関係ない外からきた役人みたいだな
なぜ神職になったのかは、古代は信仰が権力だったのだろう
古代は信仰>>>金だったのかもな 守谷資料館の人は中央が監視の為に下社を建てたと言ってたな。 >>511からの流れだと曰く
下社ができたのは中央が(認識だか推奨だかする祭祀から外れることのないよう)
上社を監視するためだ、と読める 絶えても物部氏を養子にすればいいだけだな
物部氏のやるべき儀式なんだろうから 大和朝廷にそんな祭祀を監督するような政策とってた事例って他にあったか? 513です。
興味がある人は資料館で聞いてみると良い
俺が下社の成立ちを聞いたときは、それまで事務的な感じで説明してたのに「中央が…云々」の時は蛇蝎の如く吐き捨てるような言いっぷりだったので
怯んで深堀り出来なかった。 >>504
血筋云々はよくわからんけど、祭祀に関しては戦国末期から江戸初期にかなり断絶してる。
戦国期に諏訪家滅亡と高遠家の簒奪、武田家による奪回と勝頼による相続と再滅亡、分家の諏訪頼忠の大祝就任と上野移封などの混乱でかなりの祭祀が失われた。半世紀以上にわたり当主が祭祀を主催できてないので当然ではあるのだが。で、どうしようもなくなって頼忠の息子の頼水はそれまでの慣習を捨てて菩提寺を新たに建立したり仏教と言うか曹洞宗中心の宗教政策とってる 俺のうちは常陸国だが、代々諏訪の氏子で家紋も丸に梶の葉。
もしや、諏訪神族の末流だったりしてと思って今自分の家系を調査中。
多分、諏訪神族であったとしても、嫡流の諏訪子爵家とは何百年もかなり前から離れていることになるが。 >>522
守矢資料館のしおりによると、明治維新に伴って世襲神職が廃止されるのを惜しんで、口伝の一部のみ引き継いだとあるけど、実際のところ、その一部が残っていた全てなんではなかったかと思う。 >>522
頑張るどころか権祝の矢島家と合戦沙汰起こしてるしおもいっきり混乱を激化させてる側だろ >>6
>諏訪大社は春宮・秋宮・上社・下社の4宮で構成され場所としても諏訪〜茅野の広域に分散している、神社集合体。
諏訪大社は上社前宮・上社本宮・下社春宮・下社秋宮の4社で構成され、場所としても茅野市・諏訪市・下諏訪町(2社)の広域に分散している神社集合体。
>最も有名なのは6年に一度、諏訪・茅野・岡谷を上げて行われる御柱祭で
最も有名なのは7年に一度(数え年)、茅野市・諏訪市・下諏訪町・岡谷市を上げて行われる御柱祭で >>33
天竜川を遡ってきた説もあり、伊那谷(下伊那)には建御名方神が立ち寄ったとされている手形神社や、また信濃國二之宮・小野神社等が鎮座まします。 >>274
徳島県には有名神社の元宮とされている神社が多く鎮座まします。